堀井On-Line



348,否定の否定の落とし穴

2002年03月03日(日)

「マイナス言葉+ない」という言葉のトリック。
「苦しくない」「悲しくない」・・・
これは意外な落とし穴がある。

否定語を否定するとプラスにみえるが、
それが常態になると、否定語が勝ってしまう。

私の嫌いな「子狐」を例にとる。
否定を否定しているが、そのうち子狐が勝ってしまうのである。
悪貨は良貨を駆逐するのは真実だ。悪貨から離れるしかない。

従ってどうしたらいいか。
父が教えた「近所の人と親しくなるな!」である。
これ以上書くと差し障りがあるから、書いてはいけないが。

近所は否定語の最たるものだ?ー意味深長!
空間は早々変えることができない、真空にしておくべきだ。
一年に一度ぐらいが最高レベルの付き合い限度と、ある本に書いてあった。

言葉は難しい、そのトリックに知らないうちに落ちてしまうからだ。
人間関係も然りだ。

「いやよいやよも好きのうち」の最たるものだ。
嫌いなら離れるべきだ。
人間にもプラスとマイナス要素をがある。
プラス要素の多い人となるべく付き合うべきだ。

マイナス要素(多い)の人は長期的に付き合っていると、
必ずマイナスの毒を飲まされる。今更いうことがないが。
よどんでいる所、人にはガスが溜まる。

マイナスの要素の否定は、その否定よりマイナスが勝ってしまう。
更に否定そのものが、マイナスの加勢する。


347,心の陰

2002年03月02日(土)

人を指さしたとき、他の指は全て自分のほうを向いている。
人を非難するのは、結局自分の影を非難しているに過ぎないことを,
いっているのだ。

「他者認識は不可知」という論がある。
ー他人のそれを認識はできない、認識したらもう他者のそれでなく
自分のそれを認識しているに過ぎないー

これが理解できるかどうかで、
「人生に背負っている人間関係の重荷」が半分か三分の一に軽減する。
特に「嫌いな人間」に対しては「自己の嫌いな部分」
をみているにすぎないからである。
自己脱皮のできない「子狐」どもを嫌っているのは、
今でも脱皮できなかった自分の部分を見ているからだ。
自分もその「子狐」で、少し程度がいいだけだからだ。

私の嫌いな、いま一つの典型の
「教養のないオバサン」
それこそムシズがさわぐ。

結局教養のない「現実志向も自分のある一面」であるからだ。


346, 20歳の頃ーある教授との出会いー3

2002年03月01日(金)

       武澤信一教授  人事管理ゼミ

私の人生で最大の師は大学の恩師武澤先生です。
もう亡くなられて7年になる。
イメージはキザな気取り屋で、底知れぬ教養人です。
話しているだけでコンプレックスの塊になる。
特に人事管理の世界的権威のレベルと聞いていた。

先生との出会いがなければ、30数年間一日平均2〜3時間の読書を
続けられなかったと思う。
知的コンプレックスを脳の中心に叩き込まれたためだ。

非常に印象は冷たく、傍にいるだけで居たたまれなくなる人だったと思います。
親分肌の正反対のタイプだ。
あだ名は「絹布団」自分でも気にっていたとか。
初めは冷たく感じるが、長く付き合ってもらえれば温みが感じられる。
目上の人で筆不精の私が何回も、手紙や葉書をやり取りしたのは先生が
初めてであった。
                − 遺稿文を載せてみるー

さようなら武澤先生ー   ー武澤先生ご遺稿・追悼文集ー「はげみ」より

武澤信一先生、そして懐かしい武澤ゼミ、八王子ゼミナール、はげみの会、
最終のゼミナールとその晩のコンパ。
そして先生の退職時のはげみの会(最後のゼミナールと称して参加者の全員の
自己紹介と経緯の説明)等々、様々なことが思い出されます。
私の学生時代、いや50年の人生で恩師武澤先生をのぞいて考えられない位、
大きい存在でした。‘ご遺稿・追悼文集’発行の手紙をいただいた時
「よかった」と思わず言葉が出てしまいました。
先生に対する追悼の思いを表現する場が、もやもやした中途半端な気持ちに
あったからです。
立大3年の終わり頃、親友だった石川譲冶さんより「今入っている武澤ゼミ、
素晴らしいから、面接に来ないか」と誘われまま、気楽に試験に行ったのが
武澤ゼミとの出会いでした。
そして入ってまもなく大学3年間の、いや人生の22年間の不勉強に、
呆然としてしまいました。
そして2学期から卒論を書くにあたって、知的コンプレックスは極限に達して
ノイローゼの一歩手前の状態になってしまいました。進路もこのまま果たして
このまま進んでいいものか?直接その迷いを先生にぶつけてしまいました。
その時の武澤先生の一言が「迷いを数字で表現してみなさい!」でした。
その時の自分の答えが忘れることができません。
「51対49」でした。すかさず先生は「それなら、51の方を選ぶべきです!」
しかしその後、最終的に選んだのは49の就職の方でした。
「それなら初めから相談に行く必要がなかったのではないか」という矛盾でした。
その後就職をしたのですが、その後そこを辞め大学に編入しなおし、再び就職後
事業を起こしました。そして現在に至っています。
そのプロセスの中でいつも先生の影が、自分を追い立てていたようです。
また「51対49」が私の人生観の一つになりました。
何事も「51対49」と考えると、迷いも冷静に対処できるのです。
好き嫌い「51対49」差し引き2。
正しい、間違い「51対49」差し引き2・・・・。

1989年の夏、先生が新潟大学で第19回の労務学会全国大会で議長をされました。
その時、私のホテル(シングルイン新潟)に泊まっていただきました。
そして「卒業後の30年のつもる話」を、させていただいた事を忘れる事ができません。
そして新潟の夜をハシゴをして飲み歩いた事も。

ところで武澤先生と最後にお会いしたのは、1993年の「はげみの会」でした。
二次会で先生が異様に元気がないのが、気になっていました。
そして、その会の帰りがけにエレベーターの前で、私の手を握って
「堀井君、遠くから有難う!身体にくれぐれも気をつけて、元気で!」
と上下に激しくふった時、「もしかしたらこれが最後のお別れになるかも?」
と思ってしまいました。
しかしまさか、こんなに早く現実になろうとは・・・。
天国の武澤先生、本当に本当に有難うございました。ご冥福をいのります。



                   1996年7月13日発行




345,20歳の頃 -ある教授との出会い−2 

2002年02月28日(木)

     野田一夫教授

経済・経営系の人なら、この人の名を知っているはずだ。
ドラッガーの訳者だからだ。

忘れられない授業がある。
確か3年の時の6月の初旬あたりである。
 
講座は「経営学」である。
その時の感激を今でも忘れられない。
学生時代の自分の中で色々な内面のビッグバンがあった。
その中で「Aクラスのショック」であった。
ーその内容とはー

諸君、同じ人間として生まれたからに、
せっかくこうして学んで人の上に立とうというなら、
ロマンローランの「ベートーベンの生涯」をぜひ読んでみなさい!
ベートーベンは音楽家でありながら、耳が聞こえなくなってしまった。
音楽家にとっての難聴は致命的である。
それを乗り越え、その心を作曲したのが「運命」である。

この本の中の彼の手紙に
「絶望を突き抜け歓喜に!」
「良くかつ高貴に行動する人間は、その事実に拠ってだけでも、
不幸に耐ええることができる!」という言葉がある。

不幸のどん底の中の意志の言葉だから素晴らしいのだ。
この本を買って繰り返し読みたまえ!

これから諸君は何らかの形で指導者になる人間だ。
素晴らしい本を読みたまえ。勉強をもっともっとしたまえ。
何処でも席を座るならこそこそ隅に座るな!真ん中に座りなさい。

大体がこんな内容であった。この時から何かが変わったように思えた。
野田一夫教授は当時、ドラッガーの訳者として高度成長期の
売れっ子教授で、今でいうタレント教授的なところがあった。
自信と個性の塊のような人で、
人をある方向に駆り立てるカリスマがあった。

その後立教を辞めた。
多摩大学の創立総長として、何度かTVでお目にかかった。
更に宮城大学も同様に創立に関わり総長をされていた。
ドラッガーが愛読書になったのも野田教授のお陰である。


344,「神話の世界 」 -1

2002年02月27日(水)

    ーキャンベルとモイヤーズの対談集を読んで
                 私の愛読書の一冊でもある

「シェーン」をはじめとする西部劇の大部分は、
           [神話のストーリ]の転用であるという。

主人公がある街に流れてくる。
そこで悪に遭遇して、正義感からその悪と対決し退治をする。
そして何も報酬を求めず黙って去っていく。
「英雄の理想像」である。

英雄の立場からすると、大いなる旅に出てそこで色々な困難に遭遇をする。
それと闘い勝利して「大きい精神的な何か」を得て故郷に帰っていく。
アメリカ西部劇の全てに共通しているストーリである。

「スターウオーズ」も、そのストーリーが背後に一本通っている。
現代の神話、西部劇である。

今話題の「千と千ヒロの神隠し」もその筋道だ。
桃太郎、一寸法師などの昔話もそうだ。
挑戦、闘い、変化ー成長、の成長過程が全て含まれている。

我々もそのプロセスを重ねて成長していく。
神話はそういう意味で「人間の一番の本質」といってよい。
誰もが自分を一生を貫いている神話を持っている。
自分にとって誰もが主役、皆が大将である。
「脱皮できない蛇は死ぬ」という諺があるが、神話のない人生をいう。

西部劇をみていて、そこに懐かしいアイデンティテーを感じるのはその為である。
そこに内面の深奥の旅を経験する為だろう。
蛇と鷲の闘いを絵でみたり、TVのドキュメントを見て興奮を覚えるのは、
「地に縛られている蛇」と「飛躍の象徴のわし」の戦いを、
「自身の内面、過去の経験」で知っているからである。

英雄は鷲である。飛躍とは地に縛られている自分からの飛躍である。
蛇は縛られている自分でもある。その自己葛藤がその闘いである。
また蛇は人間がまだサルの時、森に縛られていた時の天敵である。
本能的に嫌うのは、その時の記憶が遺伝子に残っているからだ。

その合体が龍である。羽の生えた蛇である。
何処の世界にも龍という架空の動物がいるのは、人類共通の想像的産物である。
願望の結果である。
神話の中によく大きい鳥に乗り、はるかかなたに旅をする世界共通の物語も
その形を変えたものであろう。

実は私の「秘境のたび」もこれに似ている!
一時の蛇から、森からの飛躍のバーチャル版といっていい。
鳥を飛行機と喩えることができる。


343、ある時間の断面-4

2002年02月26日(火)

            1968年     9月10日
7時5分起床。
掃除に食事、9時半より11時半まで勉強!
その後長岡の明治大学の1年の田村君と話す。
2〜3日まえにやはり勉強の為に来た男だ。

夕食後7時半より、午前様と「神」について話す。
午前様「一という数字はあるが、一という実体はない。
それを一といえば一であるが、一でないといえば一でない。
一は万物であるともいえる」
「人間は実体だけでない、魂であり、永遠的なものである。全ては
生き続けている。」
デカルトの「我思う、故に我あり」の言葉を引用された。
「誰もが神の要素を持っている、磨くかどかだ」
「人間の見る聞くは5感6感の働きでしかない。
それを超えた存在はいくらでも存在する。
それは修行によって初めて知る事ができる。」
「神が罰を与えるのは、困らせる為でなくそれにより、
間違いを知らしめる為である。」
御前様と話していると自分の無知が露出されてくる。

明日は座禅を8時にくむ予定である。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
               9月11日
御前様が座禅の指導をしてくれる。
解ったような解らないような!

9時から夜9時まで座禅に挑戦!計8時間休み休みだ。
午前中は雑念だけだ。午後からは少し集中できる。

感想はただ疲れただけだ。
当然ながら禅の事はさっぱり解らない。
ここの2週間近くは、充実したものだった。

明日からは娑婆である、楽しみだ。
これから高橋さんと根本君と送別会だ。


342, 20歳の頃ーある教授との出会い-1

2002年02月25日(月)

この頃何を考えていたか、誰でもこの頃は大きなターニングポイントの時期であった。
土がたっぷり付いていた田舎の青年が、それを必死に振り払い
「自分に目覚め始めよう」としていた時期であったようだ。

キリスト教倫理の教授の「将来の自分の設計」というテーマを
休暇に与えられ、(生まれて初めて)真剣に考たレポートを出した。

その内容に対し心の入った文章の返事が書いてあった。
200人の学生に対し、これだけ長い心のこもった返事を書くものかと
感激をした。
それとも「自分の真心に対しての特別の返事」だったのか?
鈴木教授という名前と、
その授業が心のこもった内容であった事を憶えている。

私のその時書いた内容は、一ヶ月考え抜いた内容であった。
初めて第三者に自分の心情を真剣に書いた。
いや書かされたのかも知れない。

要旨は「両親の生き方」に対し姉兄はその激しさにしり込みをした。
そして安易な生き方を選んだが(商売人よりサラリーマンに嫁ぐこと
を選んだ)しかし自分は両親の生き方を求めていこう。
今になって特に「父の生きかた」に男として魅力を感じるようになった、
等々。

もしかしたら、「兄二人が20歳過ぎて不幸な死に方をしてしまった」
とも書いたかもしれない。

心のこもった返事とは
「その中で、よくぞ父の生き方を肯定をした。
そしてその生きかたを選んだ貴方にたいし心から賛同する。
貴方が自分自身で考え抜いて判断したことが素晴らしい!」
というな内容であった。

この時点で自分の行き方が変わったように思える。
いや決まったように思える。
もともと決まっていたのかもしれないが。

俄然それから目標がハッキリした。
「事業を起こそう!人と違った生き方をしてやろう!父が目標だ!」


341,遊びについて−1

2002年02月24日(日)


人間にとって「遊び」は最も重要の一つである。
そこで「遊び」とは何かを考えてみよう。

まずその達人を事例で考えてみる。
一番身近では母がそのプロ?であった。

戦前、戦中、戦後の動乱期に10人の家族が生きていく中で、
父とともに苦労の連続であった。そして長男、次男の連続の
不幸な死で今の重症のノイローゼーになった。
心筋梗塞、死の一歩の手前までいった。
亡くなった時、医師の要望で心臓を解剖したら、心臓の4分の1が壊死していた。

それを乗り越えた後は、それまでのエネルギーを遊びに全て向けていった。
約40年近く遊びきって亡くなった。
日本舞踊、短歌、お花、旅行、茶道、写真。
毎日いそいそと何か遊びを見つけ楽しんでいた。

子供ながらに、そのエネルギーに感心をしていた。
遊びの重要さもそのため学んだ。
重点としてだが父は「働く人」、母は「遊ぶ人」と役割分担がハッキリしていた。
ただ父も仕事の合間に、結構遊びを作っていた。

「遊び」を儒教的影響の為かキリスト教的倫理観の為か、
罪悪と教えられてなかったか。
子供のころ誰もが、毎日目を光らせて遊んでいた。
ただただ無心に遊んでいた。
あの遊びをいつの間にか我々は忘れてしまった。


人間は生きていかなくてはならない。
その為に働かなくてはならない。
競争に打ち勝たなくてはならない。
その為に勉強もしなくてはならない。

しかしそれだけでは、それだけの人生だ。
それがクロなら、その対象の白が必要になる。
どちらが大事かでない、どちらも必要なのである。
それを特に母の生き様から学んだ。

一般的にいうと、遊びの優先順位があまり高くない。
どうしてだろうか、やはり生活をしていかなくてはならないからだ。
そして厄介な不安という心理がある。
その為に、お金をセッセと溜め込まなくてはならない、
「馬鹿な?生き物」である。

遊びとは、「好きな事をして、それを楽しむ事」をいう。
そうすると、仕事も遊びになりうる。
天才はその典型であろう。

あの子供の時の遊びを我々は忘れてしまった。
何でも遊びの対象にした「遊び心」を。
純真の心を失っているからだ。
「純真な遊び心」をいつの間にか忘れてしまった。

「遊んでないで、笑ってないでもっと真面目にやれ!」
と暗示をかけられてないか?

私の趣味の一つにウオーキングある。
初めは腰痛対策であった。今は大事な趣味ー遊びになっている。
純真に楽しいーヽ(^o^)丿(^^♪!(^^)!(#^.^#)(*^^)vのである。

その中に純真な遊び心が躍動を始める。
何々のためにといった場合は、遊びでなくなる。
それを乗り越え、純真な遊び心になった時点で「遊びに昇華」する。

パソコンもそうだ、このホームページもそうだ。
そこまで持ち上げる必要性を人生で学んだ。
「遊びになるまで集中する」という事か。

これから散歩だ!


340,ある時間の断片ー3 

2002年02月23日(土)

    1968年9月2日
            六日町 雲頓庵

朝6時に目が覚める。6時半に顔をあらい掃除をする。
食事の後、「流通革命」を後半100頁を読み終える。
そして昼飯。小千谷の根本医院の長男がやってくる。
二浪とか「つらいだろう!」

13時から17時半まで「流通機構の話し」
を読む。中央公論の流通の切り取りも読む。
何か集中が足りない。21時半に禅堂にいって座禅をくむが、
何かごそごそという音がする。

こわごわ見ると猫みたいなのがいる。一瞬凍りつく!
よく見ると小さなイタチみたいだ。
皆を呼びにいく。全員でそれを追いかけまわす。
逆に歯をむいてくる。
とりあえず戸締りをして、次の日にする。

ーーーーーーーーーーーーーーーー
                  
  1968年9月3日

目が覚めるが時計が止まっていて何時かわからない。
本堂に行くと6時10分、顔をあらっていると、住職が昨日の動物を
退治しようと長い棒を持ってやってくる。

そして気合もろともその動物をたたき殺す!凄い気合だ。
よく見るとイタチでなくモモンガであった。
顔を見ると可愛い顔をしている。少し気の毒に思った。

昼飯後、住職とわれら3人組で裏山に茗荷を取りに行く。
それが結構面白い!かごで3杯とる。午後の勉強は3時になる。
急に将来のことを考えると、不安が押し寄せる。

相変わらず、読書のペースが遅い。


339,笑う人 

2002年02月22日(金)

 
ベトナムに行った時に出会ったバスのドライバーという人。
旅行の最中、ほとんど笑いっぱなしであった。
あるいは人を笑わせていた。

お笑いの芸人も2種類いるという。
普段の生活の中で「全く笑わない人と、笑いっぱなしの人」と。

その人に「如何してそんなにわらえるのか?」聞いた。
「母親が何時も笑っている人で、その影響だ」という。
職業が「観光バスのドライバー」というから、それに磨きがかかったのだろう。

ハワイに初めて行った時のバスのドライバーが「ポパイにそっくりな顔」
をしていた。そして初めから最後まで運転しながら、
ニコニコしながら鼻声で歌っていた。
こんな陽気な笑いは、かって見たことが無かった。
ハワイにピッタリであった。

あそこまでは無理としても、訓練すれば半分は可能な筈だ。
土壌と、また特に母親の影響が大きいのだろう。
子供は何らかの形で両親の分身なのだ。

会社に毎年新人が何名か入ってくる。
研修を終えて恒例の歓迎会が毎年楽しみである。
若い女性が研修から解放され、「純粋な笑いの渦」にその会がなるからだ。

知人の数名もそれを知っていて、招待されるのを待っている。
ちょうどこんな感じである。
   
    ー(^<^)!(^^)!(^'^)(^^♪(~o~)(^・^)(^o^)丿

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