堀井On-Line



[200] 月刊ー文芸春秋

2001年10月27日(土)


今月の‘文芸春秋’の内容があった。

イスラエル旅行から帰ってきら、毎月読んでいた‘文芸春秋と週間誌’を買わなくなった。

嘘みたいだが本当の話である。‘図書館で読めばいい’に変わった。

あまりにも旧約聖書の世界が生々しいのだ。

今更そんなえげつない現象など如何でもいい、軽い話でしかないに変わってしまった。

半年に一回買うか買わないかである。

しかし今回は違った!テロの特集で、内容はかなり悲観的に書いてあったが、買う価値は充分ある。

新聞で、インターネットで、TV でその意味はとらえていたつもりであった、

かなりシビアにその意味が書かれていた。

第一次世界大戦に似ている、始まりは(皇太子の暗殺)誰もそこまでいかないと思っていたが、

それは大戦の始まりでしかなかった。

アメリカの中心の世界貿易センターが壊滅した大事件だ。

イラクやアフガン北朝鮮?は攻撃対象になる!

当然考えらないテロも更に行われるだろう,日本も当然巻き込まれる。

それも仕方がない、当然と受け止めていいだろう。

少し本題とそれたが、今回は700円の価値が充分ある。

これからが本題。

新聞と週刊誌と月刊誌の関係が時代によって、どんどん変わっているという。

これに進化したデジタルTVとインターネットと携帯電話の情報手段が加わってきた。

まず新聞は週刊誌の分野を侵す、週刊誌は月刊誌の分野を。

月刊誌は小説等の分野か、専門雑誌の分野により進化、深化していくパターンになっていく。

一例をとると、新聞は週刊誌のやっている、「特集もの、解説、カラー写真、連続小説」

などの付加価値につけないと、部数が減っていく。

週刊誌は月刊誌のある専門分野のスペシャリストの手記や、
各種の専門分野を深く入り込んだ記事に入っていく。

月刊誌はそれぞれの特化した専門雑誌に変身していく。

それぞれ勝ち組と負け組みが、はっきりしている。

週刊誌では「週刊文春」、月刊誌では「文芸春秋」が勝ち組。

あとは年代層に特化した「週刊ポスト」、「週刊現代」あたり。

月刊誌では「新潮45」あたりがまあまあといったところ。

あとは専門雑誌の細分化が進む。



[199] トレード.オフ

2001年10月26日(金)




トレードとは野球のトレードである。
5名トレードすれば、5名首を切らなくてはならない。これがオフである。

ビジネスホテルのもっと合理化できる業態を考えた。カットできるもの、
和室、会議室、ツウインである。
そのぶんシングルの部屋数をとる。これがトレードオフである。

ホット商品を早くコストカットして、安く、大量に生産、売り抜ける。
その時まずやるのが、トレードオフである。
まずはこれが基本である。

ファッションに10−4−2−1の原理がある。まずシーズン初めに種類を10をばら撒き、
顧客の反応を見て、すばやく4に絞る、そして2に最後は1に絞り上げていく。

これも時間を入れたトレードオフと言える。もう20年も前なので、
忘れたが衣料をやっていたとき、冬春夏秋と4シーズンその中に、導入期、最盛期、
仕上期がある。そうすると毎月がどれかにあたる。しかしその年に気候の変動がある。
それを読みながら、10−4−2−1をやっていた。すこぶる面白いが、目先に捉われる。

自己評価としては5年近く手がけ、100点満点であった。
あまり長くやるとそのドタバタで自己を見失うと判断?丁度いい引き時であった。
しかし面白かった。とくにゲーム化が面白い。
朝礼で予算達成順に並べたり、その日の予算を達成すると、その部門の持ち曲を店内に
流したり、値札に可能な限りの暗号の情報を入れたりした。
仕入れ総量、原価、色別数量、値下げ時期の達成枚数、値札のカラー別による情報化
等々。少し本題からそれたが。

激烈な勝負の世界では、トレード・オフの繰り返しで、より強さを求めなくては
敗者になる。
アメリカのGEは先日のTVで、事業部門のトレード・オフを徹底的に
くりかえしたために、今は超優良企業に変身したと特別報道を放送していた。


[198] 天の広さ

2001年10月25日(木)

井の中の蛙,大海の広さ知らず,

この言葉の後の言葉をもじって

‘井の中の蛙大海を知らず!されど天の広さを知る’

この後の「されど天の広さを知る」がいい。世間知らずの学者が考えたか?

「世間知りの、天命知らず」とも考えられる深い味のある言葉だ。

しかし両方でなくては(大海ー世間も天も知らなくては)、

所詮井戸から見た天しか知る事が出来ないのは当然の事だ。

それもこれも全て独り言でしかない、世間ー他人のことは自分の想像でしかないのだから。

ーーーーーーー
つれずれにー

今更当たり前のことかもしらないが、おかしい!

不況のうえに、このテロから急に何かおかしくなってきたと感じるのは、
客商売をしている為か。

恐ろしいのは、これが序曲ではないかということだ。

全くその日(9月11日)から変わった。かなり多くの人があれーテロをTVで見ていたことだ。

あまりに劇的過ぎた。アメリカだけでなく、日本も準戦争国になってしまった。

如何考えても簡単に解決はしない問題だ。

新潟駅前の飲食街は9時を過ぎると、ゴーストタウンみたいに人っ子一人歩いてない。

いるのは呼び込みと怪しげな女性だけだ。他人事みたいだがどうなるのだろう?


[196] 本格的チェーン店の出現

2001年10月24日(水)


日本にもやっと国内資本系のチェーン店で本物が出始めてきた。

ユニクロ、家具のニトリ、しまむら、イタリヤ料理のサエゼリア、100円ショップ、
無印良品、全国居酒屋チェーンの一部、そしてーーーー

上記の店は今の日本において本格的なチェーンといっていい。
ホット商品を廉価で提供しているからである。

チェーン理論のコンサルタント渥美俊一が三十年以上前から、口酸っぱく言っていた。
「普段の生活を豊かに!日本の物価は高すぎる。それはチェーンの形態しかできない。」

業態というカタチしか、出来てなかったそれが最近になってやっと出来てきたようだ。
デフレとグローバル化の追い風に乗って。

皮革張りのイタリヤ家具で、皮はイタリア製で木工と製造が韓国製の応接セットがある。
韓国は昔から木工の家具の得意なところ、イタリヤから皮革を輸入して、、
木工と人件費の安さと合わせた韓国製イタリヤ家具が完成する。

実をいうと自宅の家具がそうなのだが、ブランド家具の150万相当の家具が、
30万で買えた。五分の一である、グローバルとはそういうことが可能となる。
100円ショップの原価は27円だそうだ。ほとんどが中国・東南アジア製だ。
100円ショップの凄いところは、300円〜1000円なら要らないが、
100円なら買おうというところに目をつけてところだ。

チェーン店はそれがより可能になる。サエゼリアでもワインなど船一隻丸ごと?運ぶことが
可能となる。イタリヤ料理の材料を直接運ぶことが可能だ。近くの地方スパーの原信の惣菜より
安く、もちろんずっと美味く提供が可能になる。客として不思議にさえ感じる。。
知らない客にとって見えないマジックそのものだ。

マクドナルドはそれを65円ハンバーグで、実現してみせた。
今の海外ツアーと国内ツアーみたいなものだ。
3倍〜5倍の価値の商品が同額だからだ。


[195] 宗教戦争ー6−

2001年10月23日(火)



-イスラム原理主義とはー
  ユダヤ教とキリスト教とイスラム教の違い

原理過激派はイスラム教を母体としたカルト教と思えば簡単である。
ややこしいのがイスラムが母体という事である。

モハメッドは一人考えた!「何故アラブ人に偉大なる神がないのか、
預言者がいないからだ。そうだそれを考えている自分が預言者になればいい」
と考えたのだろう。

まずは「コーラン」をユダヤ教の「タルムード」の代わりと考えた。
そんなものだ、宗教とは。

宗教学者ひろさちあ氏が月刊誌に、ユダヤ教とキリスト教とイスラム教の違いを解りやすく
書いていた。

ユダヤ教は・・・・「旧約聖書」プラス「タルムード」
キリスト教は・・・「旧約聖書」プラス「新約聖書」
イスラム教は・・・・旧約聖書プラス「コーラン」
   まずベースが旧約聖書である。
三宗教のうち、
・父親的な立場がユダヤ教、その父親から長男のキリスト教が誕生、次男のイスラム教が
 誕生した。
・ユダヤ教では、ーアブラハムが神ヤーヴェと契約を結んだ。
その契約は、人間のほうからは、あなた以外の神と絶対に拝みませんと誓い、その契約に
もとずいて神は人間にあれこれと命令する。その命令が律法だ。したがってユダヤ教は
、本質的にー契約宗教です。

・キリスト教のイエスは「神は我々を愛しているのだ。だから神の奴隷になる必要がない。
我々は自由人だ」と大胆な主張しました。律法に縛られる必要がないと。
本質的にー自由宗教です。

・マホメットはーキリスト教は安息日を守りません。
そういう自由に対しそれはおかしい律法に忠実であるべしとアラブ人向けにつくった。
自由を謳歌して神と律法から離れた長男のキリスト教に対し、もう一度
原理に戻ろうと主張した。
本質的にー原理主義です。

イスラム教にー神の(アラーの)ために戦う「ジハード」と言う概念がある。
もともとモハメッドが異教徒と闘うことー聖戦ーによって確立されたもの。
後世の信徒もそれにならってつねに異教徒と闘い続け、その教えを世界に広げることを
求められた。

その聖典のハデイースは聖戦について、
・たとえ一日でもアラーの道の戦い身を投ずることは、この世とそこにあるものよりより良い
・天国に入ることになる人は、たとえこの地上に何をもっていようと、
 現世に帰ることを望まないが、だだ殉教者だけは別で、彼は神から与えられる恩寵を知っているため、
 現世に戻り,更に10回も殺される事を切に願うのだ

熱心なイスラム教徒は、そのまま本気で信じているのだ。
 要するに殉教;は生より望ましいと思っているのだ。
それが過激派になったのだ。

実際はジハードは日常生活の中で「コーラン」をの原理を全世界に定着することである。
過激派はそれを暴力でと解釈した。



[194] NoSubject

2001年10月22日(月)



もう10年前に読んだコリン・ウイルソンの‘至高体験’が面白かった。
フロイトは‘性’で、ユングは‘聖’で、アドラーは‘権力’の視点で精神分析を
深めていった。しかし彼ら心理学者は精神症・精神病の患者の医者の立場だ。

これに対して‘非常に健康的な人’の持っている性格的特性とかを調べた。
そしてその共通点を探したところ、普通の人に対して‘至高体験’が多いという事だった。
至高体験とはこれ以上ない感激の極み、絶頂の幸福感をいう。

インドを旅行した時、ツアーで一緒だった女性に「20年前にインドに来たとき、
ハシシー麻薬を吸ったことがある」と言ったので「どういう気分になるのか?」聞いた。
「とにかく楽しくって、笑いが止まらなくなった」とのこと。
しかし薬物は中毒になる。死ぬときの痛め止めの薬物の楽しみに取っておくとよい。

ある姉が嬉しそうな顔をして、「極致の喜びを味わったことがある?」
と数年前か私に聞いた。少し躁鬱の気がある人で、近くにいた義兄がハッとした顔をした。
「まさかオルガニズムの事出でも言い出すのでは?」と私もその瞬間思った。

「それでは貴女はあるのか?」と聞いたら、「一度ある」という。
もちろん私がそういう系統ー精神分析とか、心理学が好きということは解らないようだった。
そちら(セックス系)の内容でなかったが、「私は三桁は軽くある」、と答えると
全く信じられない反応であった。「そんな事絶対あるわけはない」という。

「それでは長島が昨年(7〜8年前)セリーグで、10月6日?に大逆転優勝をした時に、
至高体験したのでは。長島は三桁は至高経験をしているのでは?」といった時やっと納得した。

私の場合では、海外旅行で数十回はある。
また事業で一仕事終えた時、緊張感の極めの合間の一瞬の弛緩の時、
あるいは会社の忘年会とかに絶対的幸福感になる。(それだけ盛り上がる)
上げれば限がない。

これはある程度の訓練も必要だ。
会社で昼休みに30分、アルファー波の発生器に‘聴く麻薬の音楽’
(アルファー系音楽)を繋げて、もう10年以上聞いている。(アルバム日記に写真あり)
それを毎日している為か酒を飲んだ時など、直ぐブロックが外れそれに近い状態になる。

少しきわどい内容になるが、コリー・ウイルソンのその本に、「ロシアンルーレットが
その状態になりやすい」と書いてあったことをおもいだした。ピストルに弾一発を入れ、弾そう
を回すやつだ。そして引き金を引く。6分の1で死ぬやつだ。死の緊張感と助かるのを楽しむ。
そして相手と自分が死ぬまでやるやつだ。助かった時の幸福感は至高体験に近いらしい。

家内が不思議そうな顔をして、何人もの友人が「自分を不幸と信じているみたい?」という。
少しは勉強すれば?と思う。生きているそれだけで素晴らしいのに!


[182] 偽悪

2001年10月21日(日)




この言葉を聴いたとき、‘へーえこんな言葉もあるんだ!’と驚いた。

また言葉のもつ深さと魅力もその時感じた。しかしその時はそれ以上深く考えなかった。

そこでその意味を考えてみた。この言葉から考えられる言葉は露悪、偽善、

露善というところか。善悪はそれぞれの価値のプラスマイナスの表現でしかない。

偽善もしかり、うけるイメージはその価値観のプラスを演じること、いや実際は

マイナスだがプラスに表面を見せておこうという時に使う。

偽悪はその対極にある場合に使う。

その価値観に捉われないために、むしろマイナスを演じる事をいう。

それを意識して演じて、その価値観がいかにつまらない事をジェスチャーして見せる為にする行為か。



[192] 種銭ー2

2001年10月20日(土)


物覚えのついた4〜5歳のころから、年末の31日にお年玉を姉兄揃って貰った。それが楽しみだった事を思い出す。

一旦渡しておいて、次の日に全額取り上げられるのだ。

そして貯金通帳に入れられてしまう。高校になるまでそれが続いた。

そして高校に入って暫くすると、なにか株を自分で考えて決めろと言う。

そしてある株を買った。その日から株式のコナーを目を凝らしてみるようになった。

子供のころから、両親に玩具を一回も買って貰った憶えがない。

子供のころ友達の家に行くと、箱に玩具が一杯入っているのを見て、

信じられなかった事を今でもありありと憶えている。

といってお年玉は自分で稼いだ金でないことも確かだ。

株の上達の本を読んだとき、

「まずは種銭をつくれ、それも強い金でなくてはならない。それは自分が

汗水を流した芯のある金でなくてはならない。そういう金でなくては株で利益は

絶対にあげることは不可能だ」これは事業でも当たり前だ。

しかしこの強い金を創るのが一番大変なのである。

父は子供たちに、我慢をしてまず種銭つくりを教えたかったのだ。

お金に対してシビアなのは、実際のこういう教育があったからだ。

実際のところ、金に対してみるところあまりにも甘い。


[191] 種銭

2001年10月19日(金)


事業を興そうとした時、まず問題になるのが事業資金である。
俗に言う種銭である!これが硬くないと芯にならない。

資金の芯が甘くなると、事業そのものが甘くなる。
二代目とか婿養子が事業で失敗するのが、それが解ってないケースが多い。

松下幸之助しても、中内功も出発点でそれなりに財産があった。
全くなかったのは私がしっている範囲では、山種証券を興した山崎種三と、
国際興業を興した小佐野賢治と、ニュー大谷の大谷某ぐらいだ。

そのくらい種銭をつくるのが大変で時間がかかる。
20歳の頃読んだ山崎種三の自伝がおもしろかった。

「米屋小僧をしていた時、鼠を捕まえて警察に持っていくと僅かな報奨金が
もらえた。米屋なのでいくらでも鼠がいる、毎日鼠とりで捕まえ警察に持って行った。
親方の許可を得て、その金でヒヨコを買った。落ちている米をヒヨコにやり育て、
鶏から卵をとって、それを金に変えこつこつ貯めた。それを元手で成長しそうな株を買った。
そうしてそれを拡大して株師になり株の取引会社までつくった」

それをよんだ時、ハッとした。
父親が恐らくその話を知っていたのではと思ったからだ。


[190] 駅前旅館

2001年10月18日(木)




9月半ばに至近にある駅前で最期の旅館の‘たけや’が廃業した。この10年で

小竹旅館、みゆき旅館、大野屋、菊や、越路会館、琥珀、篠田旅館、大山旅館等々10軒あまりが廃業した。

当社等の宿泊主体のビジネス系のホテルに、客を奪われたのが主原因だ。

新潟市内の80パーセントが、この20年で廃業したという。

旅館に何人か知り合いがいたが、本人の自殺とか、夜逃げとか?奥さんの自殺とか

悲惨だ。旅館関係の人にはお妾さん、ヤクザ、花柳界出身者が多い。その筋の人が小金を溜めて

堅気の仕事というのが、その出発点らしい。それにしても見事消滅してしまった。

この次に危ないのが、割烹旅館で風前の灯火とか。

数万円もする割烹の客は,すべてとは言わないが
‘交際費ー実質はたかり’の客そのもの。

当然ながら淘汰されるべき人種。そのミニ犯罪に近い客を相手にしているのだから、

整理されて当然である。これは殆ど全ての商売・仕事に言えることだが、
他人事でなくなってきた。

時代の変化があまりに激しい。

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