股・戯れ言


BBS

初ライブは、ジャクチョンなのだ!

前回の日記で宣言したとおり、今度は2009年初ライブに行った感想を書きたいと思います。
ライブ!と言っても、実はロックでもジャズでも無論ヒップホップでもなく

説法ライブ

なのですよ。
そうです、私が2009年の最初に行ったライブは、瀬戸内寂聴さんのライブでございました。


まーわしが瀬戸内寂聴さんの本読むようになったのは、ここでも書いたとおり、11月になんとなく古本屋で買った「ひとりでも生きられる」という本を買ったのがきっかけでございました。
過去ログ読み返したらそれ以上のことを何も書いていないが、実はこの本を買ったのはハローワーク出頭の日だったのだよな。ハローワークの近くにブックオフがありまして、ハローワーク帰りになんとなく立ち寄ったのですよ。
で、100円コーナーをただだらだら見ていたときに、この本が目に付いて即購入したのだった。そのときは、まさかこのように寂聴ライブに足を運ぶことになるなんて、思いもよらなかった。
でも、今思い返せば、本に呼ばれたのだと思うのですよ。
そのときの私は、自分の意志で仕事をやめたものの、これからどうなるんだ、ホントにこれでよかったのか、という不安でいっぱいだったし(ハローワークに行かなければならない、というのも気が重い事柄であった)、今よりももっとずっと「私の何がいけなかったのか」「何でこんな風になってしまったんだ」と毎日毎日四六時中考えていて、考えすぎて頭や心が押しつぶされそうになっていたのだよな。ま、そのへんは過去ログにいやというほど書いてありますが。(今でも読み返すが、このへんのことをちゃんと書いておいてよかったなあ、と思える)
そんなときにこの本に出会い、「自分の思うことはなんでもやっていいのだ」という言葉にどれだけ励まされたことか。「期待なんかしなくていい、自分が思うことが大事なのだ」ということにどれだけ自分の非を気づかされたことか。救われたのかどうかは、わからない。でも、確実に、寂聴先生の言葉に、私の心のある部分は支えてもらったのだった。


その後、私が、自分の思いをどのように受け入れたかについては、これまた過去ログに書いてあるわけですが。
あまりにも感銘を受けて、「寂聴さんに会いたい!」と友人に話したりもしていたなー。京都まで行かないとダメよ、と言われて京都かー、と考えたりもしたもんだ。


そんな調子であったところに、説法ライブである。
11月に初めて本読んで、1月はじめにライブがあることを知るとは!
前からそうだが、私にはこういう「タイミングいいな!」ということがよくある。それを私は、単に運がいいと思っていたのだけど、寂聴さんがおっしゃるには、それは、
「自分では決められない、おおいなる力のおかげ」
なんだそうだ。
それを、キリスト教だったらキリスト様の思し召しというし、仏教だったら仏の思し召しというわけである。
石垣島のナミィおばあが「ウティングトゥ、カミングトゥ(天の引き合わせ、神の引き合わせ)」という言葉を使っていましたが、それもきっと一緒だね。
もちろん、ただの偶然、神だの仏だのは存在しねえよ!と思うことも可能だし、神とか仏とか気持ち悪い、と嫌悪感を感じる人も多いだろうけど、
私はなんとなく、信じてみるのも悪くないな、と思っております。
自分の力が及ばない、宇宙の神秘とか、そういうものに導かれるというのが、あってもいいと思うのだよね。自分がそういう風に思うのなら、それでいいのだ。ただ、勧誘とか押し付けとかしなければいいだけの話だ。
実際は自分で「この本を買おう」「このライブに行ってみよう」と選んでいるのかもしれないが、私は自分が、ずっと辛抱強く、耐えて耐えて、考えに考え抜いてここまでやってきたことに対するご褒美が、このタイミングでこのライブに来れたということなんじゃないかなーと今は思っているのですよ。



と、先にライブ内容をちらりと書いてしまいましたが、会場の赤坂ブリッツは満員。そして「新しい10代のための説法」というタイトルがついていたにも関わらず、会場の7割以上は50〜70代の女性が占めておりました。
あまりにも10代がいなさすぎて、会場入った途端にちと笑ってしまったわ。
わしも今年三十路であるから、ちょっと肩身狭いなーなどと思っていたけど、心配無用でありましたよ。むしろ堂々とさせてもらっていたわい。
寂聴さんは86歳なのに90分間立ちっぱなし、話しっぱなし。
すばらしいことよのう。
話の内容は、著作品で繰り返し述べられているような、
「期待はしないで、愛を与えてみるといいわ。いつか、予想を超えたところで自分に還ってくるもんだから」
とか
「幸せというのは、自分が満たされるだけのことではないの。自分が存在することで、誰かが助かってる、ということでもあるのよ」
とか
「私は人に教えられたことを疑いもせずに信じてたけど、戦争があって、ああ、こういうこともあるんだから自分が触れたものだけを信じていこうと決めたのよ。だから、自分がしたいと思ったことは全部やるの。あなたたちも誰にどう思われるかなんて気にしなくていいから、本当にしたいことをどんどんやっていきなさい」
とか
「他人を変えることはできないの。でも自分は変えられるのよ」
とかの話が多かったですが、声でこの言葉を聴くのは、また全然違うのだね。改めて、ああ、そうか!やっぱりそうなんだ!という気持ちにさせられる。
ライブという形式であれど、相手の声を聞く、というのは双方通行のコミュニケーションだからなのだろうね。
人間は誰かと関わりたいものだけれど、「話をする(話を聞く、喋る)」ということが、一番、人と繋がっているという安心感を得られるコミュニケーションなのだと思った。
事実、質疑応答で感極まって泣いてしまう女の子多数。わしも思わず貰い泣きすること多数。
みんな、会話がしたいのだな、と思う。
聞いてもらいたいのだ。声をかけてもらいたいのだ。
ただ、それだけのことをしたいだけなのに、私たちはなんでこんなにも相手が思うことを気にしたりするのだろう。嫌われるかもしれない、拒絶されるかもしれない、ということばかりに気をかけて、何も言えなくなってしまったりするのだろう。


寂聴さんに「私の話を聞いてほしい」と手を上げる女の子たちがたくさんいたのは(いや、質問した/しないに関わらず、あの会場にいたすべての人間がそうだったと思う)、この人は私を受け入れてくれる、という信頼があったからだ。それは、寂聴さんがまず最初に、自分のすべてを話していたからこそ持てた信頼なのだろう。
そういう信頼を、どうしてより近い人間と結べないのだろうか。
私などは、自分に欠陥があるからそうなんではないかとばかり思っていたのだけど、欠陥があろうとなかろうと、そんなことは関係ないのだと思う。
肝心なことは、「どんな欠陥があろうとも、あなたそのものすべてを受け入れる」という姿勢だろう。
その姿勢があったからこそ、みな、安心して自分を委ねられたのだ。
寂聴さんはそれをまず、最初に示されていた。
自分がどんな人間であるかわかっており、その自分をすべて受け入れている、という形で。


私が一番欲しいのは、「人を信じる心」なのだけど、
やはり、自分がどういう人間なのか理解し、その自分をすべて受け入れているということができていないと、そこにはきっとたどり着かないのだろうなあ。
そのうえで、他人を断罪しないこと。否定しないこと。
それは、今日明日で獲得できるものではない。
時間はかかるが、じっくりゆっくりやっていくしかないんだなー。
まあ、それはもうしょうがないけどね。
じっくり耐えて、ゆっくり実践できていけば(ただし、決して逃げないこと。あきらめないこと)、いつかまた、神様か仏様から、ボーナスポイントがもらえたりするのだろう。


ちなみに一番印象深かった言葉は、
「あなたの運命は、あなたが決めるのよ!」
という言葉でした。
会社辞めたり、苦難の時間を送ることになったりしたけど、私はそれを自分で決めたのだ。自分がそうしたかったから、そっちを選んだのだ。
これでいいのだ。



あ、最後だけなぜか赤塚不二男ちっくになってしまったなー。

2009年01月16日(金)

ラースとその彼女と「関わっていく」ということについて

新年ご挨拶日記からしばらくご無沙汰しておりました。
その間に「2009初映画」「2009初ライブ」などを経験してきたので、それについて書こうかと思いますわ。


さて、2009年初映画(映画館でちゃんと見た映画)は「ラースとその彼女」でした。
http://lars-movie.com/
まあ、この前にテレビで見た「ゴシカ」がホントは2009初映画なんですけどね。これはいいとして。


雪深いアメリカ中西部の小さな町に住む、ラースという27歳の青年が主人公。人の良さそうな顔をしているし、信仰心は厚いし、老人に親切であるのだけど、血の繋がっている家族(兄)や席が近い同僚以外にはあまり心を開いていない青年で、特に兄の嫁(つまり義姉)や職場のアシスタント女子の親切や厚意(好意含む)は一切拒絶。
この拒絶の仕方が、「ラース、元気?」「ごはん食べましょ」なんて誘っても無言で無視、のような調子で、このシーン見てちょっと切なくなってしまいましたわ。
「親切や厚意が迷惑」「自分のテリトリーに入ってこようとされているようで、苦手」というラースの思うこともわからんではないのだが、無視されたあとに義姉さんやアシスタント女子が見せる、ちょっと傷ついたような表情にああー、わしも身に覚えがあるわー、と思ってしまうのだった。
彼はナイーブだからしょうがない、とか、まあ、今は気分が乗らないのね、などと解釈して、彼女たちはすぐに表情や感情を切り換えていくのだけど、それでもやっぱり無視されることは傷つくことなのである。悲しいことなのである。
でも、傷ついても、また別の機会に「ラース、晩ご飯うちで食べてって!」などと誘い続ける義姉さんの姿を見ると、愛情を注ぎ続ける=慈悲の心を感じますけどね。これが女の強みだよなあ!ちなみに義姉さんは妊娠中という設定。
無視されてもラースを心配し続ける彼女に、兄(夫)は「母性が強くなってるんじゃないか?ほっとけよ」などと言うのですが、これはまあ、母性うんぬんあんまり関係ないと思うのですけどね。


そんな心を閉ざしているラースが、ある日、兄さんと義姉さんに「彼女ができたんだ!家に遊びに来ているから紹介するよ!」と意気揚々と紹介してきたのが、リアルドールのビアンカ。要するにセックス人形ですよ。
あっけに取られた2人は、心理カウンセラーの先生に「弟は頭がおかしくなってしまった!どうすれば治るんですか?」と聞きに行くのだけど、心理カウンセラーの先生は
「彼は病気ではないわ。現象が現れた、ということは原因があるということなのよ。ラースがビアンカを必要としたことには、必ず原因があるの。治すのではなく、彼と同じようにビアンカを受け入れていきなさい」
というアドバイスをする。
というわけで、2人はなんとかまあ、それに付き合っていくのであった。
小さな町なので、リアルドールを恋人にしていることはあっという間に広がり(本人がいろんなとこに連れてくのもあるが、兄や義姉が友人や職場の人々、教会なんかで話題にするのも手伝って)、皆最初はとまどうが、みんなも「まあ!なんて美人なの!」などと相手にしていくという具合。


なぜ、ラースがビアンカというリアルドールを必要としたのか、などの原因は映画を観て頂きたいのですが、20代後半で彼女がいて結婚を考えていて、みたいなのが普通だとすると、ラースのようにリアルドールを彼女とするのは不自然なことですわな。
でも、ラースにとってはリアルドールと一緒にいることが自分にとって必要な過程だったわけで。同僚や周りの町の人が「何も言わない女なんて最高だよなー」などと言うのだけど、その「何も言わずに側にいてくれる」「何も言わずに自分の全てを受け入れてくれる」存在というのが、ラースには必要だったのかと思う。
当たり前のように自分を受け入れてくれる存在。環境。当たり前のように自分をぶつけられる存在。環境。つまりは、それは親と子、もっと正確に言うと母親と子供ですわ。
まあ、赤ん坊のうちは何をしてもお母さんはかわいがってくれるし、周りの人々もかわいがってくれるわけであるが、だんだんと母親の「他者」という側面を受け入れなければならなくなってくる。100%自分の思い通りにいくわけではないということ。


町の人々に受け入れられたビアンカを、「病院のパーティーに連れて行くわ!ドレスアップさせたのよ」と老女が連れて行った時に、ラースがビアンカに向かって「君は僕の彼女なのに、なんで勝手な行動をするんだ!僕だけを見てろよ!」などと叫び、「ビアンカは自分勝手だ!町の人々も僕とビアンカを引き離しやがって!僕はないがしろにされているんだ!くそー!」といじけるシーンがあるのだけど、
その時に誰よりもビアンカの面倒を見ていた義姉さんが

「ふざけないでよ!誰がないがしろにされてるって!?
 みんな、貴方のことが好きだからビアンカを受け入れてるんでしょ!
 貴方を受け入れたいから、リアルドールを人間として相手してるんじゃない!?
 なのになんなのよ、その言い方は!自分のことばかり考えてないでよ!」

と泣きながら叫ぶのですよ。
このシーンでわしは泣いてしまったなー。義姉さんの気持ちがわかる。ああ、ものすごくよくわかる。別に、義姉さんは私の苦労を解って欲しい、ということが言いたいわけではない。彼女がないがしろにされてるからそう叫んだわけでもない。
こんなに受け入れているのに、なんでそんなこと言うのよ、とただ悲しかっただけなのだ。悲しくて、悔しくて、やりきれなくて、いや、そういうすべての感情が一気に爆発してしまったのだ。


なぜ受け入れるのか。
受け入れることに対して、見返りが欲しいわけではない。
それは、ひとえに「好きだから」だ。恋愛感情でなくて、家族として、友人として、隣人として、愛があるから、理不尽なことであろうと受け入れようと努めるのだ。無視されて、ちょっと傷ついても、それが関係すべてを絶つほどのことには値しない=ちょっと傷つくくらいで嫌いになるような関係ではないと自負しているから、「晩ご飯食べに来てよ」と誘ったり、リアルドールをお風呂に入れたりするのだよ。
それでも頑なに「ないがしろにされている」「みんなわかってない」みたいなことを言われたら、つらいよ。かなしいよ。


義姉さんはこのように感情を爆発させるのだけど、その後は前と変わらずビアンカの世話を見ていく。そして、そんな義姉さんの様子を受けて、ラースも自然に仲直りしていくのだ。
許す、許されると言うことを、この過程で覚えていくのも目頭が熱くなりましたわ。許すということを自然にできないがゆえに、あるいは、許されないかもしれない、というおそれが大きすぎるがゆえに、人間との関わりそのものを絶っていく人も多いからね。
かくいう私も、許されていないのかもしれない、という恐怖故に連絡を取ることをためらったりしちゃうことが多々あるからなー。


前に「スティービー」という傑作ドキュメンタリー映画で、このスティービーがまさにラースのような「自分は皆にないがしろにされてるぜ」と思いこんでいる自分勝手人間なのだけど、妹や友人、町の人々はそんな彼から絶対逃げない(どうしようもないとは思いつつも)、というような関係性が築かれているのを見たのだけど、
「ラースとその彼女」のラースと彼の回りの人々の関係性もそれに近い。
何があっても、ずっと関わり続けていくのだ。
誰も無理矢理ラースを矯正しようとしない。ラース自身が選択していくものを、自然に、あるがままに受け入れていく。
教会の牧師さんが「神はいつでも、試練を与える。我々はそれをあるがままに受け入れていくのみです」というようなことを言っていたけど、その、あるがままを受け入れる、という精神はキリスト教に基づいているのかもしれませんね。今まであまりキリスト教的精神てものについて考えたことなかったけど。


あ、そういえば心理カウンセラーの先生が
「ラースはすべて自分で選んで、自分で決めているの。」
と、いうことを言うのだけど、自分の力ではどうにもならないことが「神からの試練/神から与えられるもの」であり、それに対して自分のことは自分で選んで、自分で決めることができるというものがあるのかな。
コレに関しては、次の日記(初ライブ感想文)にて続きを書くとしよう。


リアルドールとの恋愛の話、という部分がクローズアップされているので、エロ話なのか、とか、切ない恋愛の話なのか、とか思いがちですが、
これは、個人と、社会(コミュニティー)との関係性の話なような気がしました。
個人の成長、という部分に注目して見るのもおもしろいけれど、周りの人間が個人を受け入れていくということについて、という視点で見てもおもしろいと思います。
わし個人的には、自分が関わりたい/関わって行き続けたいと思っている人間に対しては、すべてを受け入れ、恐怖におびえることなく、行動し続けるべきなのだなーと思いましたよ。
て、いつもと同じ結論に落ち着いてんじゃねーか。


というわけで、皆さん観て下さいマシ。
次の日記(今日は更新しないかもだけど)は2009年初ライブの感想ですよ。
この日記とだいぶ内容がリンクするはず。


2009年01月15日(木)

あけましておめでとうございます2009

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

って、気がつけばweb日記書き始めて10年目だわ。大塚日記→ライコスのログはとっくの昔に消滅したけれど。M-1だったらもう参加資格ないってとこだよなー。いつの間にか歳を取ったもんだ。思えば遠くに来たもんだ。
いや、遠いのか遠くないのかよくわからんけど。10年前はオボコな大学生だったけど、エンジニア経て今はちょろちょろ文章書く業とゴールデン街雇われママ業、すなわちフリーターみたいなもんだから、大学生とさほど変わらないか。

はてさてさて、今年の正月はほとんど家におりました。
ここ10年来で一番家にいたんじゃないかというほど家におったわい。年末から調子が悪いのが続いていたのもあったし、大晦日営業したらなんか疲れてしまったというのもありますが。あと親に「無職でみっともないから親戚の家に行かないで欲しい」と懇願されたのもありますが。無職じゃないっつうの。齢29にして家で過ごす正月は最高だなあ!と思いましたよ。
今までは毎年、「正月に仕事がないというのは人間として敗北だわ」などと思っていたフシがあったのですが、それ、単なる職業病でした。事実、旧会社の先輩に年の瀬&新年あいさつのメールを送ったら
「今年の正月は仕事がなくて9連休だ〜どうしよう」
というような返信が返ってきました。いまだ職業病のようです。がんばれ。
まあ、正月出勤するとオトクなんだよね。なにかと。休みずらして取れるし。でもその代わり、極寒の工場で年越しはツライ。今になって思えばそっちのほうが人間として敗北だよな。いや、そのときは勝利と思ってたし、正月働いてるほうがオトクだから(二度目)いいんだけどさー。

まあ、ずっと家にいたといっても外出一切ナシというわけでもなくて、バーゲンなどには行ってるんですがね。でも滞在時間1時間弱で帰ってくるという快挙。人が多すぎてなんかもういいや、と思ってしまっただけですけどね。
おかげさまで今年は無駄遣いしないという目標を立てられました。
あと今年は煮物をがんばるという目標も立ちました。
より割烹着の似合うおっかさんになりたいと思います。(子供は産まないけど)
仕事は貪欲にがむしゃらにやるのみです。
恋愛方面は、何度も心が折れそうになっておりますが、一念を貫き通す所存。でも実はそんなに気負ってないんだな。もう、心のど真ん中にがっしりよりどころができた(きっとそれが信じる心というやつだ)ので、どんな結果になろうといいと思っておるよ。何がどうなろうと、すべてを受け入れよう。失うものはもう何もないからね。遠慮もしないし、焦りもしないさ。
何があっても思い続けること。信じ続けること。それだけです。
ああ、ほんと恋愛はわしにとって、信仰となったなあ。
CMで中村勘太郎が「仏は己の心の中にいるのです!」と叫んでいたけれど、
そんな感じでしょうか。結果じゃないのだ。期待することでもない。そして、相手そのものでもない。相手を思う心、それが一番重要なのね。思う心同士が通じ合うことが最上の喜びなのでしょう。それには到達するかわからん。しないかもわからん。でも、自分に「ある」ことだけで、十分なのだ。
あ、そういえば今週金曜日に寂聴先生の説法ライブがあるそうで。行こうかな。なんか、今、行かなければいけないような気がする。
http://www.tbs.co.jp/event/jyakucho2009.html
でも10代に向けて、の開催らしいんだよな〜。
わし、20代終わりなんだけど大丈夫かしら。


あと、フジテレビの「2009最強運」というものを見ていたら576位中95位でした。二桁!
なんかいいことありそう!
でも順位よりもなによりも衝撃だったのは
「ひつじ年・てんびん座・B型」というのが香田晋とまったく一緒だったことでしたよ。香田晋かー。すごいんだかすごくないんだか全然わかんね。
2009年01月05日(月)

激しい嘔吐が俺を変える2008

いやー高校サッカーっていいね!
一条高校(奈良)VS鹿島学園(茨城)がやってたので見ていたのだけど、PK戦になったとたんに「ああー絶対泣かされるわ」と思ってたら、案の定泣きました。むろん一条高校に感情移入して。
まあ、今年はもう高校サッカー賭けなどもしていないんですけどね。

というわけで年の瀬到来。早いなあ、一年が過ぎるのは。
わたくしはこの肝心な時期に激しい嘔吐に襲われて、ちょいダウンしてしまいました。激しい嘔吐が俺を洗う、ってな具合に吐き気がするほどダウンチックだぜ。ノロウイルスが流行っているらしいので皆さん気をつけてくださいね。
わしは吐きまくったらなんとか立ち直ったけど、また排卵痛到来ですよ!一ヶ月の半分以上これがやってくるからなーそれが12ヶ月分だからなー。
つらい。来年は排卵痛が中和されますように。


さて、毎年これくらいの季節は一年を振り返る日記などを書いておりましたが、今年は割愛。今年は結構日記書いたからいいかなーと思いまして。
今年はなんつっても会社辞めたからな!それ以外のトピックスは無に等しいですよ。なーんも書くことねえ。
もう会社勤めていた時と全然違う生活だしなー。
いろんなことが変化した一年だったわい。
あと今年は自信獲得に努めた年でした。これはまだ達成できたのかどうかわからん。昨日も友人に「やっさんは、遠慮なんかすんじゃねえ」諭されたので、まだ気弱になったり自信がないような素振りをしておるのだろう。
でも、今年はだいぶ自分分析や、過去の過ち検証をしたので大丈夫ですよ。
悪い自分てのも自分でようわかっておる。
客観的に見て、今は自分が何も選択できないということもわかった。
(選択したとしたら、それは無責任な選択になってしまうのだとわかった)
というわけで、目標というか、目安というか、それに向かっていろいろ準備/修行をするのが来年だね。
自分で課した時期は1年間。そんで2ヶ月が経過したわけですよ。あと10ヶ月間かー。無駄な時間は一秒たりともないなー。ゲロゲロ吐いている場合じゃないわい。


というわけで、皆様、今年も一年間お世話になりました。
仲良くして下さった方、また来年も仲良くしましょうね。
疎遠になってしまった方も、来年はまたご縁があるといいですな。
まだお会いしたことのない方(奇特にもこの日記読んで下さってる方)も、来年も宜しくお願い致します。
とりあえず年越しはカウンター業務切り盛りですわー。
そんでは、また来年!

2008年12月31日(水)

実写版29歳のクリスマス

クリスマスでしたね!
何回か前の日記にドラマ「29歳のクリスマス」について書きましたが、実写版29歳のクリスマスはカウンターバー切り盛り2連チャンしておりました。
結局仕事か!なわけですが、まあ、わしの夢である「50までにスナック経営」のために、日々修行なんでいいのです。気がつきゃ50まであと20年弱だからなあ。時間がないわい。


で、まあ、そんなクリスマスに友人のにゃにゃこちゃんが来店してくれました。
「パパと行きます」というメールを貰っていたので、はて、どんなパパかしら?(よくない考え方)と思っていたら、実のお父さんだそうで。
しかも18年ぶりに再会したというお父さん。
クリスマスイブにそんな素敵なことがあるなんて!すばらしい!
それでわしの店に来てくれるなんて!
で、このお父さんが写真家・中居裕恭さんでした。
写真集を何冊か見せていただく。最近出たという「1978・新宿ゲイ」という写真集が素晴らしくかっこよい。80年代に入る前の新宿二丁目そして歌舞伎町の空気や熱気が詰まった写真の数々。華やかに着飾ったゲイの方々がピースサインしたり、剃り込みにパンチパーマの不良たちがポーズ決めてメンチ切ったり。
芸術やアートの匂いが全然しないのがいい。その人達の生活が、生きているということが生々しく伝わってくるのがいい。
前に宮崎の観光地(30年以上前に流行ったところの跡地。今も観光地ではあるけど廃れておった)に行った時に思ったことだけど、何千年も残っているところや、最近出来てきた綺麗な観光地より、2,30年前の場所のほうに惹かれるのは、そういう場所のほうが「自分に直に繋がっている場所」だと思うからだと思う。行ったことがなくても、そこに人間が生活していたんだ、という臭いを感じるからだろうな。

で、この「1978・新宿ゲイ」にも同じように自分に繋がっている何かを感じるのだよね。私はゲイでもヤンキーでもないけれど、自分とおんなじ。生活の臭いなのか生命の臭いなのか、それはよくわからないけれど、カメラを向けられて自然に、やや照れながらも、ポーズ決めたりおどけたりする、あの感じ。それにシンパシーを感じるし、「毎日がお祭りみたいだった」というのが、すべての被写体の表情から感じ取れるのが、なんというか愛おしいんだよね。
よく赤ちゃんの写真を見ると幸せな気分になるというけれど、私はこの写真集に収められている写真を見て、それに近い気分になりました。
とにかく皆、楽しそうで幸せそうなんだもの。
実際には、楽しくないことも沢山あっただろう。トータルで見れば不幸だったりもするのかもしれない。むしろそっちのほうが多いことだろう。
でも、この写真に写っている瞬間の、いきいきとした幸福感。酒に酔っている間だけの幸福感の、さらに一瞬の、刹那的な生命力に溢れた表情に私は心底魅力を感じる。こんな風に笑えたりカメラを見据えられる瞬間があった彼等に、憧れすら抱いてしまう。
ここに写っていた方々は「みんな死んじゃったよ!」ということらしいですけどね。でも、そんなのは結果だ。過程にこうやって輝いた瞬間があったから、きっといいのだ。


写真集はアマゾンでも買えるみたいなんで、是非。
http://www.amazon.co.jp/1978-%E6%96%B0%E5%AE%BF%E3%82%B2%E3%82%A4-%E3%83%A1%E3%83%A2%E3%83%AA%E3%82%A2-%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%AB-no-4/dp/4903141071


28日まで写真展もやってるそうですよ。わしも明日行ってきます!
http://www.placem.com/schedule/2008/20081222/081222.html


このほか、八戸の街や人々を被写体とした写真集も見せて頂いたが、これも八戸の荒涼とした空気、特にあの海風の強さと冷気が伝わってきて素晴らしいです。風景もさることながら、八戸の市場で働くおばあさんたちの顔に刻まれたシワに人生を感じる。
新宿ゲイもそうだけど、生きる/生きているということは、外面/表面に沢山出てくるんだな。「内面と外面は違う」のかもしれないけれど、生き様は表面に必ずにじみ出るものだと思う。
だからこそ、内面で「どのように生きるのか」指標を持つことが大事なのね。
どこで生きていくのか。そして、生きていくことに自分で責任を負っていくことを。
さて、私の表面にはどんなものが滲み出ているのかね。


まあ、そんな素敵な写真集見せていただいて、感動再会に立ち会わせていただいて、その後は仕事で知り合った方の店飲み行ってニューハーフの方とも話させて頂いて、おもしろいクリスマスでした。
今日のクリスマスのほうも音楽おもしろ話いろいろきいたしな。


で、家帰る間に沖縄の心の(カウンターバーの)師匠からメール貰って、わあ!と喜んでいたら
帰ったら石垣の友人からクリスマスカードが届いていてさらに感激。
ありがたいことですよ、ホント。
29歳のクリスマス実写版はそんな感じ。
パーティーもデートもねえけれど、
わしの人生は充実しておりますよ!(負け惜しみじゃねえど!)

2008年12月25日(木)

YES!WE CAN CHANGE 好みのタイプ

今年もあと一週間あまりとなってまいりました。
でも全然寒くないのな。こないだまではあまりの寒さに腰回りが冷えてたまらんわーと思っていたのだけど、昨日のぬるさといったら!3月後半くらいかと思いましたよ。まだ早いよ!冬は比較的好きなので(重ね着好きだから)、寒くないとちょい残念だ。


さて、昨日は久々外出もせずM-1を見ていたのですけど(しかもスカパーでやってた敗者復活戦から見ていたからな)、敗者復活戦から見られるというのはここ数年では考えられなかったことであった。おととし、去年と仕事で見られなかったからなー。
何が面白かったかとかそういうのは、別に批評家ではないのでいいとして。
で、常々、私が思う「完璧な顔」だという笑い飯の西田氏を見て、ああやっぱりカンペキな顔だなあ、わしは本当にこういう顔が好きで好きでたまらんなーと思っていたのですが、今年はちょっと違った。
前々から気になっていたのだけど、モンスターエンジンの鉄工所ネタやるほうの人に思いもよらぬほど動揺しました。前に鉄工所ネタやってるの見て、その鉄工所工員スタイル見ても心が動揺したのだけど、あれ?作業着萌えだったのか俺。自分が作業着着てたけど、と自分ではそこで落ち着けていたのですよ。
でも違ったな。作業着云々ではなかったわい。
「顔が好き」とかそーいうもんでもなかった。全然想像していないところでの動揺。なんだろうなあ。少なくとも自分でわかっているのは、
「口にするのがチョット恥ずかしい」という類の動揺なのだということです。
って、だったらこんなところに書くな!という話ですが、
これは口にしているわけじゃないからいいのよね。


先日、カウンターバー切り盛り時に、まあいつもいろんな音楽かけておりまして、その時はソウルだのダブだのをかけておったのですが、お客さんに
「ヤツザキさんて一番好きな音楽はなんなんですか」
と聞かれたことがあった。
まあ、なんでも聴くのだけど、一番好きなのはアメリカのインディーズなギターバンドなのだよ。最近は「ギターバンドに興味なくなってきたわ」などとほざいておりましたが、やっぱりどうしても抗えない。今年出たポータスタティックの二枚組もちゃんと買って愛聴しておりますよ。
だけど、店ではかけられないのねん。のねんのねん。
そしたら、その場に居合わせた友人が
「ヤッサンは、自分が本当に好きなものを人に紹介するのが恥ずかしいんだよな〜」
と言っておりまして、ああ!そうですよ!その通りなんですよ!よくわかってらっしゃる!と友人にひれ伏しました。そうなんだよなー、スーパーチャンクやガイデッド・バイ・ボイシズを人前でかけられない。こんなに日記で書いているというのに!家でもひたすら聴いているというのに!
あまりに好きすぎて、自分の一部をさらすような気分になってしまうのよね。
自分の一部さらすって、スーパーチャンクは私だけのものではないのだけどさ。みんなのスーパーチャンクだからね。
ああ、そうか。その錯覚というか勘違いを「錯覚です」と認めるのが恥ずかしいのか。いや、それがジャストな答えではないのだけど。


モンスターエンジンの鉄工所の人(名前知ってるんだけど、なんか書くのもちょっと恥ずかしい)に動揺したのも、これと同様の恥ずかしさのような気がする。
いや、それだけじゃないな。20%くらいしか合ってねえ。
そうではなくて、「自分の好みのタイプが変わってきたのか」という衝撃もあるのだよな。私の好みのタイプといえば、ヒゲだ、濃い顔だ、というのだったのだけど、モンスターエンジンの方は全っ然違うからな。どちらかというと薄い顔だ。ヒゲだって全然生えてねえ。
なのに揺さぶられた。何故だ。何故なんだ。
男の好みというのは、年齢とともに変わってくるものなんでしょうか。
まあ、そんな衝撃もありますけれど、一番心奪われた事実は
たぶんだね、「普段無口っぽい」というところだと思うのですよ。
わしは自分はガハハ笑ってベラベラ喋ってという女ですが、なぜか無口っぽい男性のほうに心揺さぶられるのであった。何考えてるんだかわからないような人な。自分がわかりやすいが故にそういう人に興味を引かれるのだろうな。人って自分にないものを求めるからね。
でもそれだけじゃないんだよなー。ああ、説明できない。
いや、がんばれば説明できるんだけど、説明したくないのですよ。なんか恥ずかしくて。って、テレビ出ている人に心奪われたということについて、こんなに勿体つけたところでなんにもならんのだけどさ。
しかもM-1グランプリという漫才やる場で気付く事実じゃないんだけどさ、「普段無口っぽい」て。喋る場だからね。


と、ここまで勢いで書いたのだけど、この日記アップしないで消しちゃおうかと3回くらい思ってしまった。
それくらい恥ずかしい!
でも勇気を持ってあげてやる!
なんかこういう風に恥ずかしいと思ったのは何年か前にこの日記で「わしがポワーンとなる男性について次々に書いていくシリーズ」やった時に、中川家礼二の名前を挙げた以来だな。
その時の日記を読み返してみたのだけど、「(礼二にときめいてしまうのは)デートをしたいと、リアルに思ってしまうから」と書いておったよ。
あー、それだ。それそれ。
わざわざ書くのももう恥ずかしいので書かないけど、それとおんなじような感情に襲われたんだよな・・・。いや、それともやっぱり正確には違うんだけど。
・・・。
・・・・・。
・・・・・・・・。
ああ、もうこれ以上は何も書けない。もう勘弁して!(自分で書き始めたくせにな!)


あ、いちおう言っておきますが、「抱かれたい」と思ったわけではありません。
昨日のM-1の中で一番抱かれたかったのは彼でも笑い飯西田氏でもなく、中田カウス師匠ですから。カウス、恐喝してても全然気にならない。NO問題。
って、あんまり男の好み(おじさん好き)変わってなかったわい。
いや、でも変わりつつもあるんだよなー。うーん。守備範囲が広がったという解釈でいいのかな。それとも好みのタイプに新部門ができたということなのか。うーん、うーん。(悩んでるフリ)

2008年12月22日(月)

幸せだったら返事はいらない

今日の新聞にこのような記事が載っておりました。

>女性は排卵期に入ると、女性らしさをアピールするために無意識に声が高くなる――。
>
> カリフォルニア大学ロサンゼルス校の2人の科学者は、女性69人に、
>排卵周期の高温期と低温期に声を録音してもらった。
>すると、女性は排卵期に近づくにつれて声が高くなり、
>排卵日直前の2日間で最も高くなることがわかった。
>また、月経期に入ると逆に声は低くなることが判明した。
>
> 研究を行った科学者は、こうした声の高さの変化について、
>男性は女性の「女性らしい」声に惹かれる傾向があり、
>女性は本能的にそれに応えているためだと推測する。
>性的なシグナルと生殖可能な身体状況は、声と密接な関係を持っており、
>力強さを示すハスキーボイスに女性が惹かれる傾向があることもこれで説明できるという


先日、銀座駅で友人に「切符買うからちょっと待っててー」と声かけて切符を買っていたら、浮浪者らしきオッサンに背後から
「声きいて男だと思ったら、女だったのか!」
と話しかけられるという、大変ショッキングな出来事があった私でございます。
今まで、協力会社の人や、某会社の警備員や、実の父親に「声だけ聞いて男と間違えられた」という経験をしてきたわけですが、
ルンペンにまで間違えられたか!ついに!
私の声はどこまで低くなっていくんだ!?

そんな矢先の冒頭の記事。
排卵痛で毎日ウンウン唸っていて、私の排卵は人よりも大変だわーつらいわーと思っておりましたが、そんな風に排卵期ちゃんとあるというのに、
なんで!
声は高くならないんだよー!!!
私の本能は男を求めていないのかよ!
生物のメスとして敗北しておるわい。
まあ、これで私がモテない理由がわかったけどね。でも理由わかったところでなんの慰めにもならん。もう、ホント、声帯手術するしか道はないんだろうか。(一般には性転換した男性が女性声になるためにやるものらしいけど)


いや、でもほんと、「本能的に男を求めていない」ような気がして怖くなってまいりました。
そんなことないよ。私は男性を求めておりますよ。
と、心から思っておるのだけど、普段から「男を信じちゃだめだ」「男なんて頼りにしちゃだめだ」と言い過ぎたからな。
2008年の年の瀬、こういうことを言い過ぎたのを本当に心から恥じ入る毎日だ。素直に言うのが恥ずかしいばかりに、素直に言って、あとでもし自分が傷ついたり落ち込んだりしてしまった時が怖いばかりに、こういうことをつい簡単に口走りすぎた。過剰防衛しすぎた。何を守ろうとしていたのかよくわからんけど。(←それくらい取るに足らないものを守るために言ってたんだということだ!愚か者め私!)
その罰ですか、この声の低下は。
ううむ。
なんかエンドレス排卵痛も同様のバチな気がしてきた。
神様、もうごまかしたりはしないんで、声高くして下さいまし。排卵痛も止めて下さい。あと銀行残高もうちっと増やして下さい。(スパゴー的願い)



と、まあ、嘆いてばかりいてもしゃあない。
この声の低さをどうにか活かすことはできないものかと。ゴスペル習うという話は出ているが、とりあえず今は歌謡曲マスター(マスターというかマダムだけど)から課題を出された歌謡曲習得でレベルを上げている段階でございます。
この歌謡曲マダムからの課題が多すぎて、全然ついていけてないんだけど、最近出た課題である和田アキ子の「コーラスガール」はイイ曲だなあ。
なんかもうすべてが心にぐっとくる曲だわ。「旅」で「あらかじめ去っていく」で「続けていく」ってところが心になんか訴えてくるんでしょうね。
ここ2日くらい、シャワー浴びてても風呂入っててもトイレ入ってても「幸せだったら返事はいらない」を口ずさんでいるような気がする。
和田アキ子の曲はこれに限らず上手く歌えそうです。
あとグルーブ感をもっと獲得しないといかんけど。私、歌えるうちは続けていくつもり。(天龍源一郎レベルのしゃがれ声になったらアウト)



ちなみに、冒頭の記事で「女性は男性のハスキーで力強い声を好む」とも書いてありますが、でも哀川翔なんかはどうなのですかね。ベッカムの声の高さに違和感感じるメカニズムはわかったけどさ。


2008年12月20日(土)

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