股・戯れ言


BBS

ユー・スピン・ミー・他人の「軽い女」価値観

深夜番組「美しき青木ドナウ」ん中でやってる「女のデッド・オア・アライブ」というコーナーが好きで、それを見ては「私だったらA選ぶわ」「B選んだほうがいい女じゃねえか」とあれこれ言っているのですが、
(今日、このコーナーのテーマ曲がデッド・オア・アライブであることに初めて気付いた)
今日のお題の中に
「あなたは好意を寄せている男性に『家にDVD見に来ない?』と誘われました。あなたならどうする?
A.行く
B.断る」
というものがありました。

パネラーである女性達の意見は真っ二つに分かれて、「なぜ行くのか?」「なぜ断るのか?」というディスカッションが繰り広げられたのだけど、
B選んだ森口博子が
「着いて行くことによって、軽い女だと思われるのはダメなのよ」
「男の中には『大事にしたい女』『すぐやれる女』『簡単に捨てられる女』という引き出しがあるが、すぐ家に行く女は大事にされない。ここは断るべき」
と言っておりました。

わしもこの日記では「女は自分を大事にしろ」と書いておりますが、わしの答えはAです。
自分が好きな男だったら、行ってもいいんじゃねーの。むしろチャンスだと思う。ただし、好きじゃない男には絶対ついて行くな!自分がいいと思った男だけだぞ!と言いたい。
着いていくと軽い女に思われる、とは言うが、「自分は軽い女ではない」という自覚があればいいんじゃないかと思うんですけどね。自覚というか自信か。
行ってもやらなきゃいいんだしさ。自分がやりたければやればいいし。
そこは自由だ。個人の裁量だと思います。
女はどうしても客体である(選ばれる/やられる/捨てられる、というような感じね)という意識が強いですが、選ぶのもやるのも捨てるのも女だっていいじゃないか、自分が主体なんだから。とは言っても、なかなか難しいことですけどね。そう言ってる私もそれが実践できているかといえば、そうではない部分も多いですから。


まあ、そんな私の考え方はこの際どうでもよい。
「A.行く」を選んだ森下千里が、「行ってもカラダの関係にならなければいいんですよ」「軽いとかそういうことが問題なんじゃなくて、行くことで自分が好きであるという意志が伝えられればいい」というようなことを言ってまして、それに対して森口が「軽く見られることがどういうことだかわかってるの」「甘いわよ」と言っておったんです。
そしたら森下千里が
「森口さんは、今まで『軽い女に見られたくない』というので断ってきて、よかったんですか。幸せになれたんですか」
とかなり突っ込んだ疑問を突きつけておったのですよ。
で、森口が
「私は、全部自分で選んできたの!仕事をしている自分が幸せだったから、それ以外はプロポーズも含めて断ってきたのよ!」
と答えてて、それでも森下千里が納得いかねえという顔してたのですが、
それは「森口博子ごときにいい女発言されたくねえ」と思っていたからだと思う。
悪いが、私も「それを森口が言っても全然説得力ないなー(仕事って夢がモリモリやポップジャムだろ)」と思ってしまった。いい女発言って人を選ぶね。気をつけましょう。



で、ここまで長々と引用したのは、この、
「軽い女に見られたくないから断る」
という部分について、ちょっと言及したくなったもんで。
最近MTVをよく見ておるというのは何度かここにも書いておりますが、わたくしは派手な肌露出しまくりのクリスティーナ・アギレラさんが好きでたまりません。ブリさんも好きです。下品なくらいの露出。腰のふりっぷりも素晴らしい。なんというのかなー、いわゆるビッチみたいな格好しているねーちゃんって、「軽い」というイメージのものを沢山身にまとっているのに(逆に裸に近いから身にまとっていないか)、ものすごく「強い」と思うのですよ。
自分の肉体を誇ることは、軽いように見えて全然軽くない。むしろ自分の肉体は「武器」だからね。かつ、魂の鎧だからね。
若い女の子、いや、若いに限らなくて全然構わないが、女性が自分の体をガンガン露出し(エロスアピールという意味合いだけではない。って女性であるならわかることだけど、男はそれがわかんなかったりするんだよな〜)、髪の毛ガンガン盛っている姿って、とっても攻撃的でかっこいいなあと思う今日この頃。あれは男に媚びる格好ではないのだ、自分がしたい格好をしている結果なのだ。つーか、「男を自分の手で掴む」ために、あの格好をしているのだとしても、それはそれで能動的行為であって、媚びているとしても自覚があるからいいのでありまして。
こういう攻撃的アピールはものすごくポジティブなので、いいと思います。
むしろ全面支持。女なんだもの、女であることをとことん楽しまんと。武器にしないと!


で、「軽い女に見られたくないから断る」っていうのは、それとは対照的な方法論だと思うのですよ。引き算方式というか。ガード戦法というか。
ものすごく消極的な「自分の価値引き上げ法」だと思うのですよね。
さっきも書いたけど、自分は軽い女じゃないという自信さえあれば、何があってもやられないで乗り切れると思うのですよ。裏を返すと、自信がないから先にそういう状況にならないように予防線張っている、とも取れる。
誰だって「軽い女」なんて思われたくないものですよ。
それはビッチだって、ヤリマンだって、尼さんだって一緒だ。そんな風に誰からも思われたかないよ。
だからこそ、自分だけはそうじゃないと自分を信じるということが大事なわけだが、そうやって自分を信じられない人のほうが、あらかじめガードポジション取ってたりするんじゃなかろうかと思いました。
まあ、そもそも「軽い女に見られたくない」って動機が、すでに自分が主体じゃないわな。周りや男がどう思うかなんて、自分が自分をどう思うかに比べたらちっとも重要じゃねえっつうの。
(まあ、「自分を軽い女だと思いたくないから断る」というのなら、まだいいのかもしれんがな。でも、これもそうじゃないという自信さえあれば乗り切れることだと思うのだけど。そんなに人間強くないかね?)
そんな他人との比較の世界で生きていたら、いつまでたっても自分「だけ」を見殺しにしたまんまだ。それで自分は幸せになれんのか。この世で絶対なのは、自分たったひとりだけなんだから!



なんか書きたいことがちょい違ってしまったが、まあ、いいや。
しかし、森口博子を外見はブスだとは思わないが、「自分を大事にする」「自分には価値がある」ということを間違って解釈してしまう女性(周りにそういうアピールをすることで安泰だと思ってしまう女性)ってのは、何でか知らないが二流以下の女性ばかりになっているよねこの世の中。ブスにも多いよな〜。いや、そう思っているからその女性はブスになってしまうのだよな。ブスってやっぱり外見の問題ではなく、内面の問題なのだ。


私は、傷だらけだったり、バカみたいだったりしても、自分だけは自分を見捨てねえ!と闘いに挑んで、敗れたらその傷口をバカバカ見せていく女性のほうがずっといい女だと思います。傷つくのなんかみんな怖いんだよ。それでも戦いに挑んでいく女、負け戦だとわかっていても戦場に身を投じる女。
そういう女がやっぱ好きだ。愛おしい。
負けても負けても、わしが抱きしめてやる!(その代わりわしが負け戦から帰還したら、抱きしめて!)

2008年12月15日(月)

対てるね、ノッてるね

寒い季節になってきたからか、排卵痛がズッキズキしてたまらん日々が続いております。
「女はおなかを冷やしちゃダメよ!」なーんてのをよく聞きますが、あれってほんとだったんですね。妊娠してる人だけが冷やしちゃいけないんだとばかり思ってました。
湯船に入るのは大事であるなー。湯船入っている間だけは絶対痛まないからね。出たとたんに待ってました!とばかりに痛みがきたりするけど。
今日はもう痛みがマックスに達していたので、こりゃーかなわんわとサウナに行ってきました。20分×3くらい湯船に入っておりましたよ。サウナも5分×3やったけど、途中でビール飲んでしまったからそれ以上できんかった。
サウナいいわー。極楽であるわー。
前に「マン喫に住みたい」という友人がいたけれど、私はマン喫より断然サウナだな。サウナに住んでしまいたいわ。3ヶ月ロッカー借りたくなったですよ。
まあ、とは言っても、そんなにしょっちゅうサウナ行けるわけでもないので、誕生日に友人からもらったはらまきを毎日するようにしよう。
しかし、いつになったらこの痛みから解放されるんでしょう。薬で痛みを予防するのはダメ(特異体質だったから)になってしまったしな〜。環境が変わるとストレスが減って、体質が変わるときいていたが、会社辞めたけど全然おさまらね。じゃあ私のストレスは一体何なのだ!?


話は前の日記の「女神記」に戻るのだが、女はみんなイザナミだー割食ってでもそこからのし上がっていくものじゃーと書いた。みんなイザナミって書いたけど、別にみんなじゃないですね。女の一部がそうだと言うだけの話でした。
堕落したまんまという女もたくさんいると思います。でも、堕落しても、どこまでも落ちてもそういう人でも生きていくから、やっぱりそれは「何があっても生き延びる」って意味でイザナミな気がするな。死んでも死なないって意味で。
それが言いたかったんではなくて、この「女神記」、すべてのことは対である、というのもテーマになっておるのですよ。この世は陽と陰、天と地、昼と夜、生と死、男と女、とすべてが対になっていると。イザナギ・イザナミの話でも「私には一部分足りない部分があるのです」「私には一部分余分な部分があるのです。では、それくっつけて国作ってみましょうか」というくだりがありますから、対であるということは足してひとつになるということなのだよな。
ひとつでは不完全。ふたつで完全。というか完全以上。
で、これ聞いて思い出したのが「日出処の天子」でした。
久々にとこてんの話書くな!最近、ザ・フーの話書いたりもしたので、なんだか往年の「股・戯れ言」に戻った気がするよ!
そのとこてんで、厩戸皇子が毛人(言うまでもないことだが、両方男。そして厩戸は毛人が好きで好きでたまらない)に
「私たちは、2人でひとつなのだ!生まれる前にそうだったのだ!
 2人だったら、なんでもできるのだよ!」
というシーンがあるのだけど(厩戸は超能力者で、日本に雨降らさなきゃいけないときにひとりで頑張ったんだけど結局ひとりでは降らすことができず、毛人に助けて貰って雨降らせたりしておった)、
それ聞いて毛人が
「私と貴方が結ばれないのは、2人だと神以上になってしまうからです。
 それは、起こってはいけないことなのですよ」
みたいなこと返すんだよな〜〜〜。
まあ、このシーンは他いろいろあって(厩戸がものすごくみっともなくなっていくあたりに、激しく感情移入してしまう)、号泣しまくりシーンなんですけども。
完全以上になってはいけないのだよな。対ってのは正反対という意味もあるから、絶対にくっつかないという意味でもある。
でも、どっちかが欠けたら、片方の存在意義はないのだ。
夜がなかったら昼はありがたく思われない、みたいなもん。男がいなかったら、自分が女であることを自覚しないということ。
はー難しいねえ。


こないだ人と話していたら、「夫婦や恋人に対等はない」「対等になったら、それは夫婦や恋人ではない」という話をされてました。
その人の理論は「女は男を立てろ」ということだったので、いや、それは100%納得することはできかねます、と言ったのだけど、
上の理論からすると、対等な異性というのは、必要だけど結ばれてはいけない/結ばれることはないということだから、対等ではない異性と恋愛や結婚をすることってのは、まあ理にかなっているのかもしれませんね。
でも、やだな。
やっぱり相手には「尊敬」を抱きたいんだよなー。
見下されるのもいやだし、劣ってるなあと思うのもいやだもんなあ。
でも実際、片方が片方をものすごくバカにしている夫婦や恋人って多いからな。「相手をけなさないと気が済まない」ってのも実際きいたことあるけど、それは愛情の裏返しだと思いたい。
だったら、100%対等な、恋愛関係肉体関係一切ナシの人と結婚「のみ」をしたい。対外的な意味(親の手前とかね)や、老後楽しく生きるため「だけ」のための結婚でいいや私は。

でもそれだと一生、「私は一部分足りない部分があるから不完全」という思いに駆られたりすんのかなー。わからんけど。

まあ、自分で「足りないけどこれで完全」と思ってればいいだけの話なのだよね。「足りない部分を埋めたい」という思いに固執しなけりゃ楽なんだろうけど。あと「足りない部分があるけど、それを埋めたら、もれなくほかの必要ないモノもついてくる」ってのをものすごーいデメリットだと思うとかね。
実際、そういう考え方でひとりの道を選ぶ人っていると思う。
まあ、何を選んでもいいんですよ。ただ、選んだ以上は文句言っちゃいけないってだけの話だよな。誰かのせいでこうなった、とか、こんなはずじゃなかった、ってのは絶対禁止ってだけの話。
はー難しいねえ。(二回目)
2008年12月12日(金)

女はみんなイザナミである

桐野夏生の新作「女神記」が出ていたので読みました。
新作は日本神話!しかも、イザナギ・イザナミの話だったですよ。イザナミを取り上げるのが桐野夏生らしいなーと思いました。どんなに逆境でも、ものすごく悪い扱いであろうと、転んでもただじゃ起きない女の話を書くのがうまいからなあ。悪女と呼ばれようと、みっともない女になろうと、決して誇りを捨てない女というか。
いや、違うな。女というのがもともと、何があろうと誇りを胸に、どんなところからでも這い上がっていく生き物なのか。どんな場所でも、どんな状況であっても、ものすごい負の感情すらも、生きる力に変換できる生き物というのが、女なんでしょうね。「自分」が生き抜くために、どこまでも貪欲になれるのだよな。

って書くと、なんかこれは「女神記」よりも「東京島」の感想のようですね。東京島の主人公の女はすごかった。どんな手を使ってでも「自分」が生きることだけを模索していた。女は何度も他人(おもに男。まあ、同性もあるけど)に心を殺されるから、せめて自分だけは自分を殺してはならんのだ。わしも、そういう風に生きている。


しかし、桐野夏生は「メタボラ」以降、沖縄のことばかり書いてるね。
「東京島」も尖閣諸島(かと思われるが、実際のところはわからない)の島が舞台だったけど、「女神記」は久高島の話であった。「女性」が「生き延びていく」、あるいは「生命を燃やし尽くす」ということがテーマの作家さんだから、その舞台にはあの、生命力溢れる南国の島があっているんだろうなあ。

そういや、またペルー人の幼女殺した人のことがニュースになっておるが、
どっかで読んだけど、あのペルー人見るとやっぱり「OUT」のカズオを思い出すな。車会社の契約社員が一気にリストラにあったというやつも、ものすごく「メタボラ」を想起させられます。

2008年12月10日(水)

音楽とは

自分が何か苦境に遭った時や、このうえない幸福を得た時、音楽は聴くものを励ましてくれたり、その幸福な気持ちを上手く言い表してくれたりするけれど、
ほんとは、音楽は何もしていない。何もしてくれない。
音楽は、ただそこに在っただけだ。ただずっと、そこに居るのだ。
大事なのは、音楽が好きだという気持ちと、音楽を信じるほうの気持ち。
つまり聴く側の信念だ。
音楽は私を裏切らない。音楽は私を見捨てない。
そうじゃなくて、私は音楽を裏切らないということ、私は音楽を見捨てないということなのだと思う。
私は音楽が好きだ。
だから、聴くという行為を、レコードに針を落とすという行為を、CDをセットするという行為を、ライブに行くという行為を、決して断念しない。めんどくさいとか、他にもっと楽しいことあるよとか、思わないでずっと続けて行こうと思います。何があっても。どんなことになっても。


音楽について考えていたら、音楽を聴くと言うことはものすごく能動的なことなんだよなーという当たり前のことに改めて気付いたので、ちょっと書いてみました。思いついたままに書いたので、何が何だかという感じもありますが。
まあ、この考え方は音楽以外にも通用することで、本/読書や映画に置き換えてもいいんだけどね。対人関係でも構わない。
ちなみに私は、人を好きになる/好きであるということも、これと同じ考え方であるよ。音楽が私のものの考え方の基本なんだな。

最近はザゼンボーイズの4番目のアルバムとモッズをよく聴いております。
モッズは店で流すように、昔買ったのに全然聴いてなかったアルバムを引っ張り出して聴いてるんだけど、いいね。ルースターズばかり聴いてないでモッズももっと聴いておけばよかった!と後悔しまくり。いや、これから沢山聴けばいいんだけどさ。「TWO PUNKS」がいい!ものすごくイイ!
今年は久々に石井さんとこの「おれ/わたしのベスト2009」に参加しようと思っております。ザゼン4は入るな。たぶん今年のベスト10にギタポ勢はほとんどいない気がします。さあ、そろそろ真面目に選ぶとしよう。

2008年12月08日(月)

ジャスト29歳のクリスマス

「29歳のクリスマス」が再放送していたので見てみた。
放映時は15歳だったわけだが、今や立派に29歳。そして12月ですから、正真正銘の「29歳のクリスマス」を迎える身でございます。
しかし、放映時は全然見ていなかったから、「29歳でクリスマスを独り身で迎えるなんて・・・」みたいなドラマだとばかり思っていたのですが、全然違うのな。クリスマスなんて全然関係ない話であった。
ドラマを見るにつけ、14年前のトレンディって全然トレンディじゃないよなー、とかギバちゃんがわしと同い年という設定ありえねえ!、とかももちろん思いましたが、「うわー。それよくわかるわー」「ああ、そういうどうしようもないものだよね、人生て」ということばかりでした。
わしも伊達に29年生きてきたわけではないのだなあ。ドラマで知らされる我が人生。

山口智子が結婚を選ばず、仕事を選んだ時に
「自分が好きでいられる人生を、私は選ぶ」
「私は自分ですべてを選んできた。傷だらけの人生だけど、私はその人生が大好きです」
と言うのだけど、その気持ちがもーのーすーごーくわかる。

去年くらいは「わしも結婚適齢期だわ。なのに話が全然ないわ。さあどうしよう」などと焦っておりましたが、それは周りが結婚していくからとか、周りに「あんたどうするの?」と言われたことに影響されただけであった。わたしの人生にまだ結婚は、ない。まだ、その時ではないのだ。周りに促されて、焦って結婚するなんて、わしのやるべきことじゃなかったぜ。
わしは、自分の人生は自分で選択したいのだった。
結婚も、自分で選ぶのである。自分が本当に、心から結婚したいと思った時に、したいのだ。今の私は、誰かの人生を背負うこともできないし、誰かに背負われることもできない、準備不足の状態であるし。
結婚したいほど好きな人を、いつか、立派な女になった時に、迎えに行きたいと思ってますよ。求婚するんだ。
それまでは修行だ修行。女上げるぞ。


でもまあ、山口智子以上に共感したのが、松下由樹なんだよな。
松下由樹は不倫している女の役なんだけど、結構弱い女性で、うまくいかないことがあるとなんでも山口智子に頼ったり、泣きついたり、あげくの果てにはギバちゃんに泣きついた勢いでやっちゃって、それを「どうしよう典子(山口智子の役名)〜」と泣きついて山口智子になんとかしてもらったり、もうどうしようもないくらい弱いしめんどくさいのだけど、
最後の最後でギバちゃんの子供宿して、シングルマザーで産むと決めたくだりが、ものすごくよかった。

(シングルマザーなんて世間的によくないよ、そんなことしちゃいけない、という山口智子に対して)
「自分が本当にしたいことに、できない、しちゃいけないなんてないのよ!」

「私は、浅沼(不倫相手の名前)のことが好きな自分が、ずっと嫌いだったの!でも、今、この子を産むと決めたことで、自分がやっと好きになれたのよ!」

なんかこれ聞いて、会社に勤めていた時の自分がものすごく何もなくて、ちっぽけで、なのに辞めた後どうなるのかが怖いから辞められなくてずっといじいじしていたのを思い出しました。私は、会社に勤めている自分がずっと嫌いだった。好きになろうとしても、全然なれなかった。
でも辞めてみたら、怖いことはなかった。収入は減ったし、周りから見れば全然ダメだな〜あいつ、という感じかもしれないが、私は今の自分が好きですよ。自分で選択してよかったと思っております。
というわけで、このセリフ聞いて、まあ、声上げて泣いてしまったんだけど。

ほかにもギバちゃんが通販会社かなんかのクレーム係やってるんだけど、いろいろ苦悩の末、田舎に帰るというところも、会社の元同僚などを思い出して、ああ、そういう選択もある歳だよなあ、などと思ったり。


でも、先述の松下由樹のセリフ聞いてちと思ったんだけど、
わしが好きだった(だったじゃない、今もだ!)人は、きっと、こういう気持ちだったのだろうなー。
私のことを好きになると、自分のことがどんどん嫌いになってしまうという感じだったのだろう。
不倫とか道ならぬ恋ではなかったけど、そう思っていたと思う。
自分が自分じゃなくなっていくのに、耐えられなかったのだろうな。
(もっとも、恋愛というものは、すればするほど自分が自分じゃなくなっていくものだが、もしかしたら恋愛そのものが彼には苦痛だったのかもしれない)
それは私が苦しめていたのか、相手が自分で作った自分の「枠」を頑なに守った結果なのかは、わからないけど。
まあ、いいんですよ。今、彼が自分のことを好きであるならば。
一番大事なことは、彼自身が自由で、幸せな状態であることだ。
私は、相手のことが好きであった自分が好きだったしね。いや、今も好きだしね。自分ですべてを選択していくという、荒野のよな厳しい道を進んでいく中で、相手のことが好きだ、心から好きだということが、私の心の支えなのよ。
それがある故に、ひとりでも、前に進んでいける。


話がやや逸れましたが、いやあ、いいドラマであった。29歳ジャストタイミングで見られてよかった。
まあ、リアル29歳のクリスマスは、誰とも過す予定がないですけどね。
もうこの歳になると、別にクリスマスひとりでもなーんも怖かねえや、という感じであるよ。「あの人、ひとりだって。プ」と笑われても痛くもかゆくもねえぜ。

あと、長堀さん役で出ていた人がかっこよくて、ポワーンとなりましたが、
あとで調べたらトランペッターの近藤等則さんであった。
カッコイイ・・・と思ったら、一回、ビル・ラズウェルのダブでドラムンでアバンギャルドなバンド(名前忘れた)のステージで見たことある人だった。
同一人物には思えなかったなあ。まあ、14年経ってるしな。






2008年12月04日(木)

エイズデーわしも考えた

今日は世界エイズデーだそうです。

なんでMTV(最近ホント、こればっか見てるな)でエイズや性感染症の特番やってるのかなと思ったらそういうことでした。エイズ感染者の勇気ある方々が顔をさらしていろいろ話しているのだけど、

「コンドームをつけて欲しいと頼んだら、断られたわ」
「そもそもつけて欲しいと頼んで断られたらイヤだから、言えないのよ」

などと口々に言ってるのを見て(しかも彼女たちは、そこでコンドームをつけて貰えなかったからこそ、HIVや性感染症に感染してしまったのだ!)、
時代は21世紀なのに「処女である」と告白することと「コンドームをつけて欲しい」と頼むことは、未だに女性を苦しめる発言だよな〜、などと思ってしまいました。女性は皆、この2つ(まあ、処女のほうは最初だけだけど。いや、そうでもないか、男性経験が少ないことを告白するのも一緒か)を口にすることで「だっせえ女!」「めんどくせー女」と引かれることを本当に本当に怖がっているのですよ。そこんとこもっと肝に命じてくれよ男性諸君!


私も遅めの処女喪失でしたが、処女喪失の機会に自分が「処女である」ということを告白するのがとにかく怖かった。引かれるんじゃないか?バカにされるんじゃないか?ということで頭がいっぱいでしたよ。その時は引かれたりバカにされなかったので、まあよかったけど、
4年くらい経ってから当時付き合っていた男が「あいつは俺とヤった時、処女だった」と言いふらしていたことを知りましたがね。
サイテーな男だよねー。生きてる価値ない男だよねー。
まあ、今や何も感じない=私の中では死んでいる男なので、どうでもいいけどさ。事実だし。よかったねえ、私が4年(まあ今はその二倍以上の時間が経っているわけだが)の間に立派に図太い女になってて。おかげで恨まれずに済んだじゃないの。まあ、
そして今となっては、処女は大事にしたほうがいいよ!簡単にヤラせちゃダメだぜ!と若い女性に対して思う日々でございます。20〜25歳の間くらい(私の思う理想的喪失年齢は22歳)に喪失するのがいいと思います。25過ぎて処女だと、セックスに対する幻想が高まりすぎて現実と折り合いがつけられなくなっちゃったりする可能性があるので。
ちなみに、ここ最近20代前半くらいの女の子と話す機会があったのですが、その子がやたらと「私は性経験が豊富なんです」というようなことをアピールしていました。若くして性経験豊富なんて言わんでいいよ。おーい、自分で自分の価値を下げているぞーい。まあ、これも「性経験が乏しいと思われたらいやだ」というのの裏返しだろうな。いいじゃない、それでも。彼女もきっと、いつかそんな自分を受け入れられるようになることでしょう。


話が逸れた。
コンドーム装着問題のほうが話したかったのだ。
いやホント、コンドーム着けたがらない男は多いわな。「着けて欲しい」ということを言うと、なぜか皆さんたいてい、「大丈夫だから」と言いますが、
性感染症/エイズとはちと違うが、生理が来ない!という不安と闘うのはおなごなんだっつうの。実際、生理が来なくて妊娠してたとして、一番心身共に闘うのもおなごなんだっつうの。
何も「大丈夫」じゃねーよ、と言いたい。
その自信は何?どっから来てんの?やりたいだけっしょ!
こういう平静時はそう思えるし、言える自信もあるのに、いざ本番の時は言えないものだ。
性感染症に感染した女の子の話で、思わず泣いてしまったのだけど

「検査結果を知った時、『なんで私が?』と思ったわ。そしてパートナーに話さなきゃと思ったの。でも結果が怖くて・・・パートナーに話したところ、相手は告白後、私を避けるようになったわ・・・」

コンドーム装着を嫌がるのは男のほうが圧倒的に多いのに、
感染がわかったら女が悪者扱い。
ほんと、割に合わないよなあ。やりきれない気分になりますよ。
こっちのほうが、性病なんかよりずっと痛いんだ。ずっとずっと傷つくんだ。

まあ、悪者扱いされようと、避けられようと、女はひとりで荒野を闘って生きていかねばならんのだ。
傷つけられた心は治らないかもしれないが、性感染症は治る。
エイズだったら治りはしないが、一緒に生きていくことはできる。
一番大事なのは、自分に誇りを持つこと、なのかもしれませんね。すなわち妥協しないこと。妥協した男とは付き合わないこと、妥協したセックスはしないこと。
でも妥協しなさすぎてもダメだしなあ。全然誰ともしないってのも違うと思うし。さじ加減が難しいのー。
とにかく、自分がしたいセックス(コンドーム装着してもらうセックスな)をするべきだよ、女性諸君!

2008年12月01日(月)

コール・ノー

「仕事とアタシ、どっちが大事なの!?」

という言葉はよく聞きますが(実際に言ってる人は少ないと思うけど、思っている人は多いわな)、仕事と恋人って似てるよな〜いやホント似ていると思う。
自分が好きで選んだ仕事(男)なら長く続けられるものだけど、金が悪かったり(ワリカン主義とか、稼ぎが悪いとか)、勤務地がめちゃくちゃに遠かったり(遠距離だったり、遠距離じゃなくても気軽に行けない距離だったとか)、あまりにも環境が悪かったりすると、好きだけじゃ続けていけない(付き合っていけない)と気付いたり。
お金がいい仕事(カネは持っている男)はお金だけだから、と割り切っていても、やっぱり仕事内容(人柄)が好きになれなかったりするし。
誰がやっても同じような仕事してると、「自分がやらんでも換えのきく仕事なんだな(誰と付き合おうとこの人、体だけなのかと思ったりする)」とやり切れない気持ちになったり。
長くやっている仕事であっても、「やっぱり私、違うと思った!」と辞めたりもするし。
仕事でどんなにいやな思いをしても、人は働くんだよなあ。
どんなに恋愛でショッパイ思いしても、また恋愛してえ!と思うようにな。


などと思ったのは、今日、短期でやっていたバイト(コールセンター業務)が終了したので。
いやーしんどかった。金がいいバイトってやっぱそれなりの内容だね。
短期だとわかっていたからなんとか続けてきたけど、「え!更新しないんですか?」と言われた時は驚いた。しないっしょ。電話かけるのが嫌になったもん。まあ、当初の目的である「コールセンター経験が欲しい」というのは満たせたので、コールセンター業務はしばらくいいや。
やっぱり金が悪かろうとなんだろうと、自分のやりたい仕事、あるいはそれに近い仕事、または自分に向いている仕事をすることは、それだけで幸福なことだと思う。そういう仕事をしているというだけで、生きる支えとなるからね。



話は変わりますが、最近、知人たちの情愛沙汰の仲裁っつうか、まあ客観的視点役というか、相談を受けておるのですが(私はどちらの味方でもないので中立立場として分け隔てなく接している)、
自分でメール書いて、自分でいいこと書いたなあと思った一文。

「好き同士であるなら、お互いが幸せになれる道を目指すべきじゃないか。
 一緒になることだけが、好きであることの結論じゃない」

あとで読み返して、ああ、そうなんだ!その通りだったのだ!と自分で納得。
二人の人間がいて恋愛が初めて存在するので、
相手を自分の思い通りにすることがゴールではないし、
一緒になることがゴールでもない。
本当に相手を想うなら、相手が思うことを叶えてあげることもアリですよね。
自分が足かせにならぬように。
相手を解放してあげることも、「好き」「愛している」のひとつの型だよなあ・・・
そういうことを、わしは学んだのだった。受け取ったのだった。
受け取ったものは、ちゃんと伝授せんと。いいことはそうやって受け継がれていくものですよね。またひとつ成長いたしました。日々成長中です。
今年の年賀状は「1歳、歩けるようになりました」みたいに「29歳、愛の型をひとつ学び、伝授いたしました」などと自分の成長の様子を伝えるようなやつにしようかな。


おお、今テレビで、ものすごく重たくジャムの曲やってるジジイがいるなあ、と思ったらポール・ウェラー本人だった!ビックリ!
2008年11月27日(木)

字読みづらい!けどメッセージフォームです


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