股・戯れ言


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自己スパルタ愛の幻滅

人間っていうのはもともと
「人をなでなでして、自分をなでなでされるもの」だと思うの。
そんなやさしさのやりとりから、自分も元気をもらう。
だから、人を慰めたら自分も元気出る。
「そんな心配せんかてええて。何とかなるよ」という感じね。
でも、こんなこと言うて、何ともならへんかったらどないしましょ。
そんなこともあるしねぇ。
まあ、神サンいてはるわ、どこかに。



前の日記には瀬戸内寂聴先生のお言葉に胸打たれて涙がビャーっと出たこと書いたけど、今日は朝日新聞の夕刊に載っていた田辺聖子先生の「恋の究極の姿とは?」との問いに対するお言葉。
ええ、また読んだ途端に泣きましたとも。最近、涙腺がバカになってきとるな。
毎日泣いて笑ってと感情がフル回転であるよ。

わしが精神的に一番しんどかった時期に読んでいた本が「愛の幻滅」であった。20代終わり近くのOLが40代半ばのおっさんと恋愛する日々(ちなみに不倫)。わずかな時間しか会えなくても、会うことが楽しみで、嬉しくてという恋することの喜びが余すことなく書かれてておるのだが、同時に時の流れや主人公自身の成長というか生まれ変わりがあったりして、「離れていかなければならない→んなこと考えんでも自然と自立していく」ということについても余すことなく書かれておった。
今、手元にないんで読み返せないんだけど。もしかしたらちょっと違ったかも。
で、この小説の後半〜最後にかけてはまさに「そんな心配せんかてええて。何とかなるよ」という感じなのだよね。

この小説の主な舞台が神戸でありまして。
わしの最後の出張地がその、神戸でございました。
神戸ときいてすぐに思い浮かんだのがクールファイブでも大震災でもなく、この「愛の幻滅」だったのだよなー。
まあ、小説に出てくるようなドライブコースなんかは行けず、市街地から地下鉄で30分くらい離れた山ん中のスーパーでの仕事だったんだけど。(むろん上下作業着)
ちなみに神戸が最後の出張地じゃーと思ってたら、結局最後にもう一丁出張できて最後じゃなくなってしまったんだがね。



その後、神戸には実はもう一度降り立ったのですよ。
沖縄から帰る前に神戸に立ち寄ったのです。
晴天の那覇から一転して、曇天模様の神戸。天気は最悪だったが、この神戸に降り立ったこと自体が、自分にとって
「そんな心配せんかてええて。何とかなるよ」
と言われたよな経験であった。それこそ誰かに慰められて元気が出た感じ。頭をなでなでされたような感じ。
いや、実際にわしに元気を与えてくれたのは友人なんだけど。阪神電鉄乗ってワーワーとテンション上げまくったぜい。
まあ神サン、ホントどこかにいてはった、という感じだ。大変すばらしいなでなでプレゼントでした。



しかし依然としてわしの中にいる神様はオマエはアホだもっと耐えろ強くなれ、まだまだダメだ、このままじゃもっとダメだ、どーすんのオマエ、とわしを厳しく責めたてておる。
ああ、わしは「そんな心配せんかてええて。何とかなるよ」と言ってくれる人が欲しいのに、そばにいて欲しいのに、まだまだ厳しい神様とか、厳しく突き放した人に惹かれている。
そっちを全然手放せないでいる。
そういう人がいないと自分が今よりもっと醜く、汚らわしい人間になってしまうとばかり思ってしまう。


結局、自分をなでなでできない/したくない(自分はなでなでされるに値しない人間だという自己認識がある)からなのだよね。。


そら恋愛できん人間なわけだよ。自分に対してやさしさがないんだもの。
やさしくなりたいなあ。
自分を嫌いになること辞めたはずなんだけどなあ、ちっとも変わんないや。
時間って全然経たないもんだね。もどかしいのー。
2008年10月28日(火)

ひとりでも生きられることなんか、わかってらあ!

こないだ古本屋でなんとなく買った瀬戸内晴美先生の「ひとりでも生きられる」という本が!ものすごーく心打たれました。
もう、しょっぱなから涙ダーダー。

「私は少なくともこれまでの生涯、自分の情熱だけはいつわらず正直に生きてきたといえる」

うわああああ!
わしの中で断固として消えようとしないものも、これなのだよな。
情熱に突き動かされてバカが見るーとか、わざわざそんなことをしなくても、とかばかりが多いわけだが、もうイタイ女になりたくない、傷つきたくない、などと思っていても情熱を消すことが出来ない。というか、全然消えてくれない。最近のわしはその情熱の存在を、もう見て見ぬふりしたほうがいいんだろうな、などと思っておりました。
でも見ないふり出来ないんだよ。
見ないふりしようとすればするほど、それがくっきり見えてくるという始末。
自分の心の思うことがわかってしまうという体たらく。


しかし!しかーし!
自分の情熱に正直になろうとも、
どうしようもないことが世の中には存在するのだ。


情熱みたいなのがなかったら、ものすごく楽になるのだろうけど、
(なぜならば相手を求めないで済むから)
果たして、その状態にはよろこびやかなしみは存在するのかな。
わしは、傷ついてでも、苦しんででも、悲しみに明け暮れてでも、
相手を求めて、ほんの僅かでも悦びを得たいんではないのか。
そういう風に、相手と関わりたかったんではないのか。


でも所詮、そう思っているのは自分だけなのよね。
ひとりよがりというやつですな。
自分はそう思ってても、相手はそんな波瀾万丈を必ずしも望んでいるわけではない。てか、むしろ嫌だろ。平穏が一瞬くらいしかないなんて。
相手に膨大な不安や苦しみを与えられるくらいなら、
ひとりの平穏がいいのだろう。
わしはそれくらい相手を傷つけ、苦しめてきたのだ。そういうことだ。


結局、わたしはひとり。
でもそれはしゃあない。ひとりで生きていくしかない。
それは全然不幸な事じゃない。
情熱を自分で消さなきゃいけなかったことに比べたら、ずっとマシだぜ。

2008年10月26日(日)

ウォーキング・ウーンデッド、いやほんとデッド

毎日イテエことばかり書いていてもしょーがないので、違うことでも書きましょうか。皆さんもう飽きているだろうし。

最近、なんと、無謀にも再びダイエットを始めたのでございますのよ。
「リアーナみてえな格好がしてえ」と思ったりしているのが動機かと言えば、そうではなくて、先週末、なぜか知らないが一日のうちに1時間〜2時間以上歩く機会に二度恵まれたのでした。うひーしんどいーなどと思っていたのだけど、体重計に乗ってみたら週末だけで1キロ以上体重が落ちたので、これはおもしろいなあ、と思い毎日歩き出したのでした。
今日は1時間プラス1時間歩いたので(ってもジャージなどを着て歩き回るのではなく、遠出したあと早歩きで帰ったりするくらいなんだが)、アラ、これは大変に体重落ちたのではないかしら?と思っていたのだけど、

変動した体重はわずか0.1キロでした。

なんだよ!2時間歩いて100グラムしか消費しないのか俺の体は!
燃費よすぎだろ!

いや、まあ、生理中なのでね。体重落ちづらいんだけどさ。
それにしてもがっかりさせられたわい。
こんなことだからわしはわしが嫌いになってしまうんじゃないかよー。

まーよく考えてみたら昼も自炊、夜も自作(母上は最近料理作らなくなったしな)、という状況ですので、おやつを食べるなどの間食がなくなったのだよな〜。だから、ダイエットにはもってこいの状況であるのだ。ストレス溜まってヤケ食いってのの元凶であるストレスもないし。
あと、なるべく金使いたくないので飲みにも出かけない=酒を飲まない(わしは家では酒を飲まない人なのです)というのも、ちょうどよい感じであるよ。
この勢いで頑張り続けたいものです。
・・・わしが甘えさえ出さなければ続くんだよな!
あとわしの体が燃費悪くなりさえすれば!よし、いっちょ病気でもすっか!(ウソ)


が、なんでか知らないが無性に甘いものを食べたい。
いちごジャムのべっっっったり塗ってある食パンを貪り食いたい。
だめだだめだ、我慢しなされ俺!
はー何やっても結局苦行だなあ。。。
ちなみに今自分に買い物も禁じ中。これも欲望との日々戦いで、だめだだめだ我慢しろ耐えろ、と自分に言い聞かせて毎日苦しんでおります。

あと保持しているものをすべて捨てていったりもしておる。こないだ10袋分処分した。わしには「捨てる」という行為もなかなかツライものなのだけど、だめだだめだ物が多すぎるんだ執着するなすべて捨てちまえ!と、心を無にしてものを捨てていく日々だ。

食べること、買うこと、ものを持つこと(保持すること)、好きなように想うことすべてを自分に禁じておるというわけだ。
ストイックになろうとしているのだろうけど、なんか、自分に無理を強要しているだけなような気もする。。。いや、今はいいんだよ!今までが過剰すぎたんだから。
でも、こんなに一気にいろんなことを禁止していると、
そのうち自分に復讐されるような気がするなあ。
反動で暴走して止まらなくなるわしが現れそう。おー怖。
でも今はすべてを禁じて生きていくしかねーんだよ!
苦しんで、血反吐吐いて、ボロボロになりながら前進していくしかねーんだ!
わしの救われる道はそこにしかないんだからなー。
今までの自分は死んで生まれ変わるたぁ、そういうことだからなー。
って、わしゃブッダか。
2008年10月21日(火)

わしゃビリー・ミリガンではないが

若年性痴呆症の夫を介護する妻のドキュメンタリーを先日見た。
働き盛りのうちに症状が発生したため、稼ぎ頭を失った家庭において、夫の介護をし、さらに稼ぎにも出ているという奥さんの苦労は相当なものなんだろう。カメラに撮されていない部分や精神的な苦痛なんかは、想像を絶するレベルなのだろうと思われる。
だって、いくら介護しても、いくら働いて稼いでも、だんなさんはどんどん忘れていってしまう。支えられていることすら、忘れていってしまう。そして、奥さんのことすら、忘れていってしまうのだ。
まあ、そういう病気なんだからしょうがないのだろうけど、あまりにも切なすぎる。辛すぎる。
何度も心が折れそうになりながら、奥さんは日記にこう綴っていた。
「あなたは忘れてもいい。私が全部覚えておくから」

で、まあ、この言葉を目撃して、涙したんですけど。
あなたは忘れてしまう。忘れないでと願っても、全部忘れていってしまう。あなたがどんなに忘れたくないと願っても、記憶は自動的に消去されていってしまう。でも私が忘れないから。私がすべて覚えておきましょう。
もちろん、長い年月を共にしてきた夫婦ですから、いいことばかりあったわけではないと思う。美しい記憶だけじゃない。つらいことも、思い出したくないようなことも、何度もあったことだろう。
私のこのつらさも苦しみも、全部覚えておくから。あなたひとり、忘れてしまうなんて、そんなことは許さないからね。そのうえで、あなたをすべて受け入れましょう。

「私が全部覚えておくから」という言葉の中には、そういう意味もあるのだろうと思った。やや深読みかもしれないけど。




わしは自分が忘れないように、こうやってみっともない感情をすべて書いているわけだが、それは、「私は忘れていない」「私は覚えている」ということを言っておきたいから書いているのだと思った。

いや、前言はちょっと違うな。
私は今も苦しんでいて、そんな苦しんでいる私の存在を認めてあげたいからだ。くるしみは存在するのに、普段の生活していると苦しんでいない私しか必要とされないからね。でも、苦しんでいる私にも発言の場を与えてあげたかった。解放してあげたかった。
私は私を嫌うことをやめたのだ。私を受け入れていくことにしたんだから。
苦しんでいる私へ。あんたがヤツザキなのか、マサコなのか、どっちなのかはわからないけど、あんたもちゃんと私だ。
2008年10月20日(月)

ココロのパンツの穴

毎日毎日、何やってても、ガハハと笑っていても、心にぽっかり穴が開いているようで、つらいなあ、とか苦しいなあ、とか、むなしいなあ、とか感じてしまうのだけど、
じゃあ、ソレ、何で埋められるの?
というと、それがなんなのかわからない。

誰かに埋めてもらうことは不可能。
自分を幸せに出来るのは自分だけ。
他人、というか、男には何も期待してはいけない。
期待したらしただけ自分がへこむだけだから。

ということは、とっくに承知しているので、まあ「穴が開いていようが耐えろ。ガマンするしかねえんだ!」と自分に言い聞かせる。
自分に言い聞かせているだけでは甘え癖が出てしまうので
公言したりして(こうやってわざわざ書いてみることも含む)自分を追い込むのだけど、
それでもなお、
誰か助けて!私の穴を埋めて!(not下品な意味)
と求める声が、心の奥底から聞こえてくる。

だーかーら、
誰も助けてくれやしねえんだよ!
もう、十分わかっているじゃないか。

ついでに、もう一度、お前に教えてやる。
お前もとっくにわかっているはずのことを。
お前の埋められない穴ってのの正体もこれなんだろ。


お前の欲しいこと、知りたいことは、もう一生手に入らないのだよ。
どんなことをしても、手に入れることはできないのだ。
願い続ければ、願いは叶うなんて大嘘。
お前は、理由を手に入れることはできない。絶対に。
だって、お前は存在を拒否されたのだから。
お前は、いないことと同然なのだから。


と、冷静な私が言っておる。
うむ、その通りなのである。
私は知りたいことを知る術をすべて失った。
術どころか、資格も失った。ほんとにもう何もない。
それがずっとずっと苦しいのである。
つらいのである。
私は名探偵ではないので、状況や、己の記憶や、その他もろもろの証拠から真実を推理することはできない。
で、「ま、わかんなくていーや」と思っても、ふとした瞬間に「あの答えはなんだったのだろう」と思い続けてしまうのである。
あきらめりゃいいのに、ずっとずっと気にしているのですよ。
何か他のことを成し遂げれば、そんなことは自然に忘れていくことができるのかと思っていた。もっと自分のことに夢中になれば、そんなことは鼻くそ以下になるのかなあ、と思って自分のことに夢中にもなった。
でもずっと忘れられない。
なんだよ、この驚異の記憶力は!
自分のことに夢中になればなるほど、忘れることはどんどん不可能となっていった。なんたる皮肉・・・。
忘れろよ。得意の忘却力よ、こういう時に発動してくれよ。「切符どこにしまったか忘れた」みたいなのはもうどうでもいいから!


こんなものは自分の問題ですから、自分で忘却するしかない。
自分でケリつけて、立ち上がるしかない。
自分でよーくわかっているので、ケリもつけた。
つけたつもりでおった。
それなのに、
忘れらんねえ!
とあがき、そして、
誰か助けて!
私をここから救い出して!
と思っている自分もおる。
でも、私、心に穴がぽっかり空いておりまして、それというのも欲しいもの、知りたいものが一生手に入らないってのがはっきりわかったからなんですよね、で、タチが悪いことにそのもやもやを断ち切れないんです、などと前置きしている女を、救い出してくれるような男は
あ ら わ れ な い。
現れたとしても、それは恋愛感情にはならんよなー。
少なくともわしが男だったら、そんな女救い出したくねーや。だって、あらかじめ「自分には本気の愛を向けてませんよ」て宣言してるようなもんだもん。
しかもだね、あつかましくも、「私はあなたには本気の愛は向けられるかわかんないけど、あなたは私に本気の愛を見せて」って要求したりするからね。ああ、タチ悪い。



というような話をぐたぐたとオカマな友達に話したら、
「最初にあれがいいってハードル高いことを言ってしまったから、その後取り消せないだけなのよね。今更、あれじゃなくていいの、それがいいの、欲しかったの!って言えないだけじゃない」
と、言われました。
うーん、オカマは身も蓋もない。
ズバット言うな。とほほ。

でも私は、何が欲しいのかなあ。
今でも答えが知りたいし。救い出しても欲しい。
救い出しては欲しいが、愛とかそういうのが欲しいのかな。
愛なんてのを介在させてしまえば、また同じ道に堕ちると思うのでそれは怖い。あー「愛」とかいうのがあるから、自分も傷つくし、相手も傷つけてしまうんだよ。いらないんだよ。でもいらないくせに、なんで本気の愛なんてのを求めるんだ。ザ・愚行。グココココ・・・!


いや、まあ、すべては私が臆病なだけ。見栄っ張りなだけ。
バカが見るーとなりたくなくて予防線を何重にも張り巡らせようとしているだけ。(って、いつもその予防線は役に立たないんだから、張り巡らせる必要もうないんだけどさ)
あと欲張りなだけなのだ!
心の思うままにしたらいいよ、と皆さんアドバイスをくださいますが、
心の思うままに進もうとする時、いつも邪魔するのは自分だなあ。。

2008年10月19日(日)

C!C!C!イタイタC!

このところ愛だの恋だの情だの欲だのに苦しみ、もがく、どうしようもない心情ばかり書いておりますが。

わしは、苦しいとかつらいをちゃんと感じているのであります。
大丈夫とかゆるやかに蘇り中とか書いてるが、まだ痛いよ。ずっとこの先立ち直れないのかもしれん。先のことはわからない。
自分で認めて、自分で決めたことだから、潔くもう何も言わないのがいいのだろうけど、
平気なふりなんかしたくねえんだ。
そうやって、いろんなこと忘れたフリして、いつの間にかほんとに忘れたつもりになってしまうのが嫌なのですよ。
自分に嘘つきたくないのよ。
私は強くないのに、強くならなきゃ、ガマンしなきゃ、なんて暗示を自分にかけるのは、したくないのだ。

傷つくのが怖いなんて、当たり前。
でも、傷ついてでも触れたいのだよ。
触れて、幸福な時や気持ちもあじわえたしな。
んで、今こうしてボロボロなわけだが、何もしなかったよかずっとマシだぜ。毎日つらかろうと苦しかろうと、なんにもない人生よりずっといい。痛いけどな。そんでもって、イタイ女にしか見えないだろうけどな。


自分の人生の主役は自分だけど、傷つきたくないとかそういうことで、他の登場人物を排除してくよーな人生を、私は選ばない。
どうせ主役なら、登場人物がいろいろ個性的で、本気の舞台で主役張りたいんだよ。すべての感情フル稼動の。本気でぶつかり、求めあえる相手とともに。


文学や音楽や映画は、その舞台の、あらゆる場面をより豊かにしてくれる道具でいい。あんたらのことは好きだけど、あんたらは決して主役じゃないぜ。



あ、なんか最初に書こうと思ってたことからまるっきり離れたことを書いてもうた。
重いことには変わりないからまーいいや。


しかし、めっきり寒くなりましたな。雨降ってるわなんやらで、外出するのも億劫なんでマドンナとリアーナ大声で歌いながらキャベツ料理づくし(豚肉と塩揉みキャベツの炒めもの、キャベツとニラのチャーハン、キャベツとジャガイモとたまねぎ煮込んだスープ)を作っておったよ。んで食っておった。
ザ・無職という感じですね。リアーナよいなー。最高すぎる。リアーナのような格好をしたい今日この頃。
MIAぽい格好もしたくてたまらんのですが。どっちも年齢やらプロポーションやら度外視しすぎですがね。あと難易度高いけどさ。

あ、今日は女の業音楽聴いてないからそういうこと書けないのか。なるほど。
2008年10月15日(水)

レンアイ・イズ・マーダー

女はね、いつだって、これが最後と思って恋をする。それくらいの覚悟がなくちゃ、恋なんかしてられないんだよ。失うものが、あまりにも大きすぎて、遊びでやってる余裕はねぇんだ。だって、そこには自分の存在価値がすべて、かかってるんだから。



新潮45掲載時から、中村うさぎ先生のこの文章読んで、ぐあーと身もだえしておりました。
そうなんだよ、まさにその通りなんだよ。
いつだって、この恋で終わり!これ以上はもうないと思ってきた。
次の恋なんて、想定できないんだよ。そんなもんないって信じちゃうんだよ。
この恋で死ねたら、本望なんだよ!!



でも、いつも男たちが、自分を欝陶しく思ったりするのかもしれない、離れていくのかもしれないという不安に怯えてしまう。

自分で自分をいやな女、むなしい女と思いたくないから、男に何もない女、つまんねえ女と思われたくないから、私はいつでも自分にやりたいことを用意してきた。
ほんとは私のやりたいことなんてどうでもいいの、あなたが私を本気で求めてくれさえすればいいの。本気の証を見せてくれさえすれば、私はそれだけで十分なのよ…


私が私に用意した存在価値をすべて奪って、新たな価値を与えてくれるくらいの激流/大いなる力に飲み込まれることこそが、恋愛だーと思っておった。ずっと、そういうのを求めていた。
でも、恋愛て、それだけじゃないのだよね。
まあ今はそう思えるようになりました。
やりたいことも卑屈にならずにやれてるし。あー自信をちょびっとでも獲得してよかった。


しかし、中村うさぎ先生と同じく、わしもすぐ「愛されたい地獄」に堕ちる人間だからなー。
私を本気で愛して、求めて、本気の証拠を見せて、とな。
自分のそれを自制するために、愛なんてほんとは存在しねえよ、などとうそぶくわけだ。あとでバカが見るー、ということにならないよう、牽制牽制。

まあ、もうすでに「あんたは、どうしても相手に本気を求めてしまう人間なんだよ」と見抜かれているわけだが。
みなさんにバレバレでしたか。そうですか。知らぬはわしだけかい。


あーわしもうさぎに負けず劣らずややこしい女であるな。
て、昔の男によく言われておったわ、「ややこしい女だな!」と。何年越しで自覚してんだよなあ。29にして客観性獲得だよ。遅!
2008年10月14日(火)

字読みづらい!けどメッセージフォームです


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