股・戯れ言


BBS

わしの「荒野へ」

東京に帰ってきたタイミングで遠藤さんが映画「イントゥ・ザ・ワイルド」を見に行かないか、と誘ってくれたので、行ってきましたよ。1000円だった。映画サービスデー様々であるな。
http://intothewild.jp/top.html

この映画の存在は知っておったのですが、「ああ、絶対観たい!」と思っていなかったので、誘われなかったら上映中に見ることはなかったであろう。
けども、誘ってもらってよかった。ほんとよかった。
またしても号泣、号泣、号泣の嵐でした。
ああ、いい映画に出逢えたなあ。遠藤さんありがとう。

小説「路上」や映画「モーターサイクル・ダイアリーズ」とジャンルは同じ旅物なのだけど、その2つが友人/仲間との旅であるのに対して、これは1人で荒野に向かう話。しかし、旅に出る動機(これがまた!大変に心に染みた)や、旅の道すがら出会う人々との交流とか、なんかもー全部が泣けた。
自分が会社辞めて、二週間ほど東京を離れていたからという状況もあったのだろうけど、全然優秀でもないし、一人で北米縦断したわけでもないのに、すべてをアレキサンダー・スーパートランプ(主人公)に重ねてしまったよ。

なんというのかな、自分が会社入って、いろんなところに行って、会社でもいろんな場所でもいろんな人に出会って、でも自分はそこに留まらず、あらかじめ去っていく人間だった、というところが、どんなにいろんな人と出会い、交流しても、やめろキケンだと言われても「俺はアラスカを目指すんだ!」とその場を去り続けていくスーパートランプと同じだなあ、と思ってしまった。
最後のほうで旅の道すがら出会ったすべての人の顔が走馬燈のように順々に映し出されるのだけど、そのシーンでこれ以上ないほど号泣。
私が社会に出てから知り合った人たち。
日本全国で出会った人々。
その人々の顔が脳裏に浮かんで、もう、たまらなくなった。

私は会社を辞めて、さらなる荒野に向かおうとしてるんだよな。
しんどかろうがなんだろうが、会社に勤めていることのほうがずっとマシなのかもしれない。そういうアドバイスを送ってくれる人たちも沢山いたが、
結局、自分の道は、自分で選びたいのだ。
しんどいと言われる道も、自分でしんどいと感じたいのだ。
だから、私は私にとってのアラスカに向かうのでありまして。


最後の最後にスーパートランプが辿り着いた、
「幸福は、誰かと共有できた時のみ、真実となる」
という言葉が印象深かった。


ここしばらくの間、「(私の)幸せを考えたら、〜したほうがいい」という言葉をたくさんいただいた。
皆さん、真剣に言って下さって、本当にありがたいのだけど、
なんか私のことなのに、私じゃない誰かのための幸せの話みたいだなーと思って聞いてしまう時もありました。まあ、「未来の私」が幸せであるために、ってことだから、「今の私」が他人の話のようだな、と感じるのもしょうがないのだが。
で、前述の言葉を見た時に、ああ、私は自分ひとりでアラスカに向かわねばならんのだから、今は幸福がわからなくて当然なんだなー、と思った。
誰かと共有する、という段階にきていないわけだ。
自分で決めたことを実行したいから。自分で現実を見たいから。
誰かと幸福を共有するのは、その後なんだろう。きっと。



その他にも「おまえはまだ若い。だけど、怒りや感情を制御できるようになれ」とか(まーわしはもう若くないが)、いちいちセリフにぐっと来る映画でした。ちなみに、ここしばらくの一連の流れの中で、私も感情をセーブすることをおぼえたのだけどね。アドバイスしてくれた方、ありがとよー。感情をセーブして決断したことで、わしは自信を持てました。←大人になった、と書こうとしたが、もう十分大人ですので自粛しておきました。


あと、この映画は曲がとにかく良いよ。
エディ・ヴェダーがこの映画用に曲を作ったようで、全編通してエディ・ヴェダーの歌声だらけ。若い青年の孤独、葛藤、苦悩、逃避、勇気、不安、といったすべてを包み込むような重厚で暖かみのある声。
私が中学生の時、パール・ジャムの歌を聴いてはなんでこの人はこんなに厚みのある声、というかくぐもった声で悩み続けているのだろう、とよく思ったものだが(パール・ジャム初来日公演も見に行ったな〜)、あれから15年。エディ・ヴェダーもエディのアラスカ行って、戻ってきて、より素晴らしい人間となったのだろうなあ。

パール・ジャムを聴かなくなってずいぶんと時間が流れたけれど、生きていたから、こうやって再びエディの歌に出会えた。何度でも巡り会える。
私が出会った人々にも、また、何度でも出会えるのだろう。
人生は、旅は、そうやって続いていく。
だから、大丈夫だ。何も問題ない。


というわけで、まあ、見て下さいよ。おすすめ。
2008年10月09日(木)

ノー・オーディナリー・試練

先日の日記にシャーデーの「スイーテスト・タブー」が頭から離れん、と書いたのだけど、シャーデーベスト盤行方不明につき、同じシャーデーの「ラブ・デラックス」だけを一日中聴いておりました。
おなごじゃのー、わし。

一年以上前は、自分の女な側面が気持ち悪い、自分が自分じゃないみたいで違和感が!などとのたまっておりましたが、今は自分の女である部分にもだいぶ慣れました。慣れたというか、認めたというか。
わしの座右の銘になりつつあるけど、ピート・タウンゼンド先生(そういや、ザ・フー来日だそうで。見たい!)の
「生まれた時から持ってるものは何も変えられない。だから自分と仲良くしろよ。喧嘩しちゃダメだ」
という言葉を、29にしてやっと受け入れたわけだ。
女ですよ。誰よりも激しくな。


で、「ノー・オーディナリー・ラブ」が繰り返し流れるたびに、よよよと泣くのであった。
まさに、アイ・キープ・クライング。
前回、前々回と愛の存在を否定しておきながら!なんたるザマ!

それはさておき、「私の内側のすべてをあなたに捧げたわ」とか「これ以上ないほどの愛をあげたのよ」とかに膝から崩れ落ちるくらいなんですよ。人が泣き崩れるのを見たことあるか!?君!という感じですよ。
あ、違う曲引用してしまった。
こんなにそのことで心痛めたことないってくらいだし。これも曲違ってしまうけどアイ・クドゥント・ラブ・ユー・モア。
のつもりだったんだが。



で、まあ、東京帰ってきても濃ゆいミーティングが別方面から続いておるのだが、
わしのゴッド姉ちゃんに本日言われたお言葉。


「ヤツザキの愛てのは、口では全力だし、行動する時は全力なんだけど、おんなじくらい自分のやりたいことにも全力っつーか自分は自分なんだよね。
自分のやりたいことは絶対曲げないというか。
相手のために自分を犠牲にすることはしないから、
男からすると、
なんだよアイツ、言ってることとやってること違うじゃないか!俺のこと何も考えてないじゃないか!
ってなるんだと思うんだけど」


核心突きすぎる御託宣!


そうなんでしょうね。きっと、それもその通りなのだろう。
他人の恋愛の話はよく聞くけれど、どのような熱量分配がなされているのかわからないから、どれほど自分を犠牲にしていいのかわからない。
いや、私なりに犠牲にしている部分があるのだが、相手からすればまだまだァ!だったりするのかな。今はもう知る手だてすらないけれど。(今じゃなくても知ることできないだろうが)

まあ、自分を犠牲にしてでも手に入る愛なら、いくらでも犠牲にしますよ。愛というか相手か。自分くらい安いもんだ。
しかし、犠牲にしなくても手に入らないんだよ。
どうしようもないのです。
これが現実。
まさに、あなたと私のような関係は他にはないわ、だよ。



まーゆるやかに蘇り中なんで、いいんですがね。
蘇っているんだか、まだ蘇りきりたくねーと思っているんだか、自分でもよくわからない状態ですが。
あーこのモヤモヤした状態を早く逸脱したい。早くキス・オブ・ライフを堂々歌えるようになりたい。あなたのおかげで蘇ったのよーと。
まあ、すべては自分の選択、自分の決断だが。なんでもそう、決めるのは自分なんだよな。決めてもモヤモヤするのも自分(今まさにそれ)、モヤモヤを振り切るのも自分。
うーん、ノー・オーディナリー・苦悩っつーか試練はまだまだ続く。。。
2008年10月08日(水)

求めあわなくちゃだめさ

「ねえ三週間、ハネムーンのふりをして旅に出よう〜」
というつもりだったのだけど、結局二週間弱の旅でした。ロングバケーションのつもりだったのだが。まあ、この二週間、毎晩、頼れる姉さんがたと濃ゆいミーティング(某レコード屋の人が命名)をしてきたので、三週間分が二週間に凝縮されたのだろう。


先日の日記にも書いたけれど、「愛」なんていうものは後付けの大義名分だよなあ。愛のない関係ほど「愛」という言葉を乱用し、情欲のぶつかり合いの関係は、「愛」がはっきりと見えないことに劣情を覚え、不安を煽る。
で、まあ、濃ゆいミーティングん時にわしの信頼するねえさんが、言っていた言葉。

「男女の間に愛はないよ。間にあるのは情や欲。愛は自分の子供なんかに向かって存在するものだから、それとは別モノなわけよ。男女の間に存在する、愛に匹敵するものは、『尊敬』じゃないかー」

言っていた本人も酔っぱらっていたし、聞いていたわしも酔っぱらっていたのだけれど、すとんと体内に入ってきた。酔い酔いの会話の中にぽろっと挟まれながら、キラリと光り、どすんと体内に落ちてくる発言。これだからこの人達と飲むのが好きなんだよな。


まあ、結局、前述のように、負けたのですがね。
存在しないものの存在に。ってことは存在していたのか。


というような、話を女性はよく話すということを友人に話したら、
女ってそんな怖いことばかり話してるのか〜おそろしや〜と言われた。



早川義夫さんという人も、こういうことについて歌っている人なのだと思う。
情と、欲と、哀しみと、悦び。
愛というフィルターごしに見ることで、和らげられているすべてをどんどん露わにしていく人。暴露していけばいくほど、自分は惨めにもなるし、醜くもなるし、切なさで胸がいっぱいになってしまうのだけれど、それでも早川さんは歌う。暴いていく。
その歌が、私の心にとても恐ろしく、美しく響く。


昨日の日記にも引用したけど、「この世で一番キレイなもの」の

「この世で一番キレイなものは
 あなたにとって必要なもの
 僕らを包む壮大な宇宙
 ひとしずくの泪
 求めあう命」

という歌詞の「求めあう命」こそが、男女の間に存在するものなのだと思う。
それを人によっては、愛と呼んだりするのかな。
(ちょっと広い心を持ってみた)

求め合うことがなくなったら、そこでおしまい。
求めているのに、応えてもらえなくなってもおしまい。
本当は求めているのに、なんらかの理由で断念せざるをえないのは、
一番哀しいことだ。つらいことだ。
でも、仕方がないことだ。

求めあうということが、不安定で自分の不安や恐怖を煽るから、
人は付き合うだとか婚姻だとかで縛り付けようとするのだね。
それは私もそうだ。
よくないなー。
自分が縛り付けられることをもっとも嫌うのに。


純粋な求めあうという心を、もっと信用しよう。
自分のだけでなく、相手のも。
何も恐れずに、今はただ求めあう心の動きに流されようかと。

2008年10月07日(火)

肉祭スイーテストタブー

29歳となりましたよ。
あーついに二十代最後の歳となったなー
今年も那覇でみなさんと飲んで飲んでのうちに誕生日を迎えることができて、幸せであるな。

しかも28歳最後の日は早川義夫先生のライブ見れたし。泣きすぎた。
「この世で一番キレイなもの」の

「もっと強く生まれたかった/仕方がないね、これが僕だもの」

って歌詞から涙が止まらなくなったですよ。
そんな涙でマスカラぼろぼろになった状態で早川さんにサインもらったり、写真撮ってもらったり。一日早い誕生日プレゼントは、早川さんからのハグでした。至福。
腰にさりげなく手回されたけど。それも早川さんだからアリだ!


いろいろなことのあった28歳だが、いい締め括り&再出発であった。
早川さんについては、また時間があったら書きます。


で、誕生日当日はこれまた楽しく祝っていただきました。
いろんな曲聞いたけど、一番印象に残ってるのはmixCDん中に入ってたシャーデーの「スイーテスト・タブー」。ちょこっとしか聴いてないんだが、一日経った今でもフレーズが頭から抜けん。
で、無性に聴きたいのだけど、シャーデーベスト盤どっか行っちゃった罠。あーあ。
しゃあないので清志郎の「仕草」を聴いて歌ったりしとります。なんかこーやって陽気に鼻歌歌えるって、よいね。精神状態が。おだやかになりましたよ。未だ不安定になる時もあるけど。

まあ、29歳はおだやかに、軽やかに生きていきたいものだ。
前途多難だがね。ナウ無職だし。
2008年10月06日(月)

くたばれラブ・ウィル・ティアー・アス・アパート

ジョイ・ディヴィジョンの「ラブ・ウィル・ティアー・アス・アパート」を、昔は反復するフレーズが気持ちよいなーと思って聞いてたけれど、
今夜、この曲の真の意味を知った気がする。あー今夜じゃないな、一週間前に知ったな。

愛は僕らを引き裂くだろう、て。
だからよ!
という感じだ。

愛は引き裂くなホント。愛なんて理想。愛なんて幻想。愛なんて大義名分。愛なんてホントは存在しないもの。
それにちりちりばらばらに引き裂かれた気がス。
わしは「愛してる」なんて言葉より、「好きか嫌いかわからないけど、毎日やりたい」という言葉のほうが何億倍重要なのに!嬉しいのに!ずっとずっと欲しかった言葉なのに!
しかし、「愛」に負けた。あるんだかないんだかわかんねーものに負けた。
なんだよー愛って。どこの誰だよ、出てきやがれ。ブン殴ってやる。



まーそんな感じですが、土曜に早川義夫大先生のライブに行けることとなったので、もう大丈夫です。
誕生日前日に早川さんのライブ見られるなんて、とっても幸福だなー。5年くらい前に誕生日前日でエンケン見た時以来の幸福であるよ。


関係ないが、義夫大先生て書くと義太夫先生に見えるね。グレート義太夫しか思い浮かばん。
2008年10月03日(金)

愛アンマン

重っ苦しい話が続いたのでたまには軽い(けど私ん中では重大)話をば。


今日はやっと「アイアンマン」見てきました。
もー予告見た時からこれは絶対!見に行かんと!と思ってたのですよ。
なぜなら、ロバート・ダウニーJr.が好きすぎるから。かっこよすぎるから。
わしにとって、あれは完璧な顔なんですよ。ヒゲなしだとイマイチなんだけど、ヒゲがつくことによって完璧となる男。それがロバート・ダウニーJr.。

映画は全編ポワーンの連続でした。ストーリーなんてのは、あってないようなもの!ロバート・ダウニーJr.萌え映画だからな。
ってのは大袈裟だけど。
わしはブレイド大好きだから、アメコミ好きなんですよ。だからこのアメコミ忠実っぷりも最高でした。
あとテレンス・ハワードっていい俳優だよね。「ハッスル&フロウ」見た時はラップの話なのにバンドやりてえ!今すぐ何か始めなきゃ!と思ったからな。


というわけで、パンフレットも買ってしまいましたヨ。(激照)
パンフレット買ってる人なんてわししかいなかったけど。恥なんてどうでもよくなるくらい、ロバート・ダウニーJr.の写真が欲しかったのだった。もうすぐ30なのに透明の下敷きに雑誌の切り抜き挟んでしまうくらいの勢い。パンフレットをA3に拡大コピーして部屋に貼ってしまうような勢い。

とにかく、ああ、しばらくはこれを読み返してニヤケながら生きていける。。。手に入れたとたんそう思いました。キモいとでもなんとでも言ってくれ。


という話やらロバート・ダウニーJr.のすんばらしさを那覇の友人にひとしきりしたところ、


「ロバート・ダウニーJr.てウチナーカーギーだよな。そこらへんにいっぱいいるよ」


と言われたわい。
たしかにそうだわ。
よく見ている気がする。
よし、これからロバート・ダウニーJr.激似の沖縄男と出会えますように。
ロバート・ダウニーJr.本人がベストだけど。
2008年10月02日(木)

シークレット・ガージューシャイン

映画「シークレット・サンシャイン」を見てきた。
他者にも厳しく、自分に厳しい人間てのは、自分のために自分を律するのではなく、周りに律されないために、厳しくしてしまうのね。
基準はつねに他者。
ゆえに、自分を許すということもできない。自分は自分に許すなんてことができる資格ないと思い込んでいるから。

だから、ずっと楽にはなれない。
ずっと誰かに許してもらえることだけを待ち続ける。
許された人間に激しい嫉妬も覚えるし、どうせ私なんて、と捨て鉢にもなる。


私は子供もいないし、それを失った経験もないですが、
シネが許されよう許されようとあがく姿の痛々しさは、私と同じだなあと思った。
私もきっと、同じくらい痛々しい。名前もシノで似てるしな。


ソン・ガンホは彼女のシークレットサンシャインなわけだが、彼女はその存在に気付かない。きづけない。
いつか、気付く時がくるだろうと思うけど、一生気付かないのかもしれない。気付きたくないて心の動きもあることだろう。



私にもシークレットサンシャインがあるのだろうけど、私はそれに気付いてても、それは違うと思ってるからな。えらべないのだよ。
今は。
これは私の意志だ。
めんどくせー意志だなあと我ながら思うけど。
でもそれが強すぎる。
こんなわしのことをガージューと言うらしい。
まあ、そんなことはよう知らんよ。知るか。


と、言ってるうちにロングバケーションも終了間近。全然ロングじゃないな。
本州に台風来てるみたいだね。台風とともに移動してる女だなー。
2008年10月01日(水)

字読みづらい!けどメッセージフォームです


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