広島は、もみじまんじゅう以外の名物と言われると、お好み焼き程度にしか答えられないという体質がある。
これを知ってたら、いい感じのインテリ感をアピールできるカテゴリーとして、この名産品領域は外せない分野だ。
そこで推したいのは、風雅堂の「ひろ柿」である。 せっかくの完熟柿を、惜しげもなく求肥に練り込み、長期保存に向けて現世から未来へ離陸した古くて新しいお菓子。
上田宗箇流御用達の歴史ある名菓。
これだ。(画像2)
そして、 うえのやではない、
だ。
伝統と絶品、この二つを条件に君も探そう。
〜前編の続き〜
その表現たるや、おもに内臓巻き込み事故系の話の連続。
教育上彼が選んだ、恐怖心から気を引き締めさせる簡易メンタルスパルタの注入は、わたしの足を小さく震えさせ鳥肌を誘うのであった。
初日からその種類の話を聞かされた人間のすることは、大体の場合掃除か見学に制限される。 失敗したら、即欠損事故級の作業を教えてもらう毎日。
当時は、
午前中 機械加工(掃除と見学) 午後 彫刻作品制作 夜間 アクセサリー制作 深夜 論文執筆
という過換気症候群スケジュールだったので、うっかり機械にだけ没頭出来るはずもなく、1日のうちに唯一主役になれない「掃除と見学の時間帯」がもどかしいばかり。
和田は、あまりの暇さに
のであった。
具体的には、技術を教えてもらっている恩返しとして、世の中の文句、近所のダメな人の話、新聞の情けない事件の引用等、師匠の気に入りそうな時事ネタを、あえて真剣な作業中にブツけてみたのである。
この人は職人だ、職人の大好物は「人の文句」に決まっている、と決め込んだわたしの予想は的中。
この思い切った改革のおかげで、その日以降彼の口からは、大学内の問題やら家庭の内部事情がそれはそれは蜜のように流れ出し、あまりにもリアルな内容のため、かつて暇だった見学の時間は笑いの寸劇へと昇華していった。
これがきっかけとして、彼とわたしはその後もいろいろなものを創り、同じ話題を共有した。
しかし、職人気質というものはじつに特殊で、はっきりしている。 分かりやすくいえば、頑固マイペースなんだ。
実際によく耳にしたのは、「帰りたい」って言葉。
モノ作りの作業場には、年に一回「鞴祭」っていう、機械を奉って来年の無事故を願う儀式がある。 その神聖な儀式に招待した時も、「私は毎日どうすれば早く帰宅できるか考えているくらいなんだ、そういった人が集まる会に呼んでもらっては困る」っていうような人だった。
あれから、長い間時間が経って、昨年末に修業先の鉄工所のおばさんが「毎日遊びにきんさい」って言ってたとき、どこかで昔聞いたセリフだとは思っていた。 職人の決まり言葉だったんだねえ。
訃報が届く前に思い出すべきだったよ。 いまは、細かい記憶が泡のように出ては消えしています。
理由を知らない学生には不評だったけど、奥さんの看病のため毎日16時50分には帰路についていたね。
東京に出張したら必ず大丸で買って来いって言われた、好物は、舟和の芋ようかん。
わたしの作品をつくるため、50mmの私物ロングドリルを持ってバイクでフラフラ出勤。 作業の次の日、「ドリル、帰りに峠で落としたよ」って大笑い。 後で調べたら、1本5万円。
息を引き取る最後まで、あんなに嫌がっていた職場に「はやく復帰したい」ってもらしたそうだねえ。 いいじゃないか、やっと帰れたんだし。
「帰りたい」が口癖だったろ。 もう来んでいいよ。
ありがとう。 来世で会おう。
学生時代に大変世話になった旋盤職人が、本日をもってようやく大帰宅された。
東洋工業で何十年も旋盤工をし、戦後の乱世をひたむきに生きた昭和の男。
先輩が仕上げた重い製品を大人用の自転車に乗せ、ハンドルを左右に振られながら瞬きすることなく取引先へ配達する少年時代。
覚えが悪く、殴られては盗み蹴られては暗唱して蓄積した勘。 現在では絶滅したとされる教育方針。
まさにそれをを叩き込まれ、彼は当然卓越した職人へと完成していった。
そんな彼と会ったのは、わたしが博士課程の時代でアルミ作品を制作したくなった時期である。
大学内の金属機械室。 そこは、まさにバブル絶頂期に構想を練られたのが丸わかりの設備。
青白い大学生達は、一生見ることでないであろう億円単位の大型金属加工機械類。
彼は、その使われない機械を毎日整備していた。
その暇な日々に、
が御登場。
先に書いた、彼の輝かしい経歴を考えれば当然の言葉であるが、わたしの「アルミ削りたいから旋盤やらしてくださいよ」って感じのナメた態度に、「あんたには出来んと思いますよ」の一括払い。
今考えたら心底恥ずかしいが、猛烈に腹が立ち。 その日は、黙って帰って「初めての製図」って古本を買って、描いたことない図面を描き、材料も勝手に注文して、次の日懲りずに行った。
すると彼は、なぜ出来ないか、なぜ任せられないかというのを、過去に見てきた工場内での事故を例として、高速回転する機械を前にとてもリアルに淡々と表現されたのであった。
わたしの足は、縮こまった。
つづく
2009年03月13日(金) |
誰か、あそこのテント剥いで来い |
広島の最も由緒正しき地下街は、シャレオでもなく駅前でもない。
そのちょうど中間あたりの寂れた地下。
飲食の2トップシークレット、喫茶「モンブラン」と居酒屋「安さん」の奇跡的混浴聖地。
夕方からモンブランの純喫茶感で精神を磨き、夜半を隣の安さんで無駄に過ごす。 これが粋な王道ルート。
流行に左右されないのが御自慢の広島人よ。 完全オリジナルコースはこういうものだ。
同じチェーン店でも、わたしはココらへんをオススメする。
期待せよ。
である。
※画像2は、安佐動物園への道沿い。 畑のド真ん中にある怪しいテント。
画像3の様子を見ると、中身は9割電車だ。
学生時代、人生論や恋愛観を突き詰めて明け方まで飲み、ことあるごとにイベントで視線を集め、安佐南の町に初の絵画教室を開き、その行く末についてまたトコトン飲み明した場所「アトリエ新樹」。
小さく灯っていた光が、ようやく今年で幕引きとなったようです。 みなさん本当にお疲れさまでした。
これほどの日本家屋を、今時の若者に長年に渡って貸していただけたのは大変貴重であったと、取り壊される段階になってから初めて気持ちをカメラにおさめるこの不甲斐なさ。
ああ、なぜもっと活用しなかったか。 悔やまれる15年間。
思えば、最初は電気も来てなかったらしく、最寄りの電柱から
かかっただとか
もう一人住むから、
取り壊して改築するとか。
たしか、9.11の同時多発テロの映像もココで見た。 そして、前の日に飲み明かして誓った「アートで世界をいわせてやろう」の意気込みは消沈し、最高の無力感を味わったののもココだ。
その場所が、今月からわたしたちより先に土に帰ってしまう。 さようなら、時間。
こんにちわ、新たな一歩。 関係者は一人を残してみな地元に帰り、それぞれの芸術活動に向けて準備を始める。
そうだ、それでいい。 またそこで作ればいいじゃないか。
と、感傷に浸るのはここまで。 異性へのプレゼント猛攻撃時期が迫って参りますねえ。
あの、平成元年を思わす製作ラッシュ開始。 まだまだだ、ドンドン発注してよろしくてよ。
和田は既に先週末、身内の風邪を譲り受け、高熱で寝込み済みのため今後一切御病気されぬ模様。 ゆえに、若干テンション高めである。
さあ、未だモテないヤツはトルコへ行け。 トルコで日本人は、無条件で大モテ。
行って帰って、トルコ人向けのプレゼントを発注したまえ。
それにより、ジャパンマネーがトルコを経由、ヨーロッパ諸国でチーズ等の舶来品に進化、回り回ってお父さんの接待の食卓に並ぶという、グローバルな親孝行意識をお忘れなく。
下界の皆さんまた会おう、わたしは地獄の門を開く。
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