こんなことが朝めし前
2005年10月25日(火)
れんこんのはさみ揚げ シュウマイ かぼちゃのはんぺん ブロッコリとみにとまと 白胡麻パラパラご飯に ふじっこ煮〜のしそ昆布♪
いんげんと人参を巻いた豚肉 シュマイのお饅頭 ごぼうのきんぴら ハムとミニウィンナ 黒胡麻パラパラご飯に カリカリ梅(笑)
もやしとニラと豚肉の炒めたの 麻婆豆腐 玉子焼き 枝豆とミニトマト たまごふりかけに 朝ごはんの海苔の残り(爆)
ステーキ(前の晩に食べなかった分) ハムとキャベツ炒めカレー炒め いんげんを巻いた玉子焼き 小松菜のおひたし 黒胡麻パラパラご飯と紀州の梅干
とんかつと玉ねぎのフライ ウィンナ ポテトサラダを入れたハムとミニトマトにブロッコリ ひじき入りの玉子焼き 白胡麻ご飯とカリカリ梅(梅があそこに落っこちた・爆)
最近一週間のお弁当。 こうして見ると、お弁当は圧倒的に和食系。 私の場合は、ご飯が冷めて、というかおかずも、全体に冷めてから食べるものは、醤油系の方が断然美味しく感じられるのですが。三度三度和食ではありません。
まぁ、お惣菜というのは前夜の残りだとか、似たような素材の料理だとかが多いので、こうして見ると前の晩に何を食べたのかわかってしまいそうになるものもあって、冷汗もんですが、お弁当というのは、それだけのためにそんなに凝ったものは作っていられないのだから仕方がないです。と言って、必ずしも前日の残り物とは限らないところがミソですかね、朝になって苦し紛れに作るものもあります。要はテキトーですね。(笑)
全体の中には冷凍食品というのも、一つか二つ混じっていて、月曜にはそういう時が多いです。とりあえず、一番リキを入れるのは玉子焼きで、こればかりはどうしても焦げ色のついたものは許せないので時間がかかります。玉子焼きって、出来立ての時は薄いクリーム色をしていても、冷めていくと実に鮮やかな黄色になるのですね、これが。寸分の焦げ目のない玉子焼き、これだけは譲れないのですね、病的に。毎朝起きて、先ずするのが卵を割ることで、寝ぼけながら焼いているわけですが、ものによっては時間がかかるので、そういうことでいいのか!と思いながらやっています。病的だからしょうがないの。
栄養のバランスとかまであまり考えていないのですが、一日は三食あるからいいかなと。 その点、学校給食は素晴らしいと思いますね。一応、早朝は、このようなことをしております。
何でこんなにくだらない事を載せているのか、自分でもちょっとわかりません。(爆) せっかっく来たんだから、もっとましなことを書けよと言われそうですが。 はい、では次回は晩御飯編行きますか。(嘘)
似て非なるもの
2005年10月21日(金)
同じく新聞のコラムで印象に残ったこと。 これもまた、数日も前のことだが、元高校の国語教師、現在は歌人である俵万智のかいたコラムで、30代前半の働く女性の割合が高い地域ほど、出生率が高い傾向があって、つまり働く女性の子育てを支えることが、出生率をあげることになるという趣旨に大いに賛同する旨の話だったのだが、読んでいる途中で目が止まってしまった箇所があった。
-小さな子育ては、我が子とはいえ、ほとんど介護である。-
という一文だ。彼女は介護も子育ての経験もないのだろうかと思いながら読み進むと、現在一歳児を子育て中であるということがわかった。
子どもの可愛らしさは、三歳までに元を取れというくらい、その先の大変さを考えると、三歳くらいまでの第一期反抗期を迎える前の幼児期は、親にとっては一生で一番可愛い時期であるとよく言われる。
それは、その先に起るであろう、反抗期や、社会性が生じたときに嫌でも発生する社会とのさまざまな摩擦や、その他もろもろの心配事や経済的な圧迫や・・・、何しろ山のように色々なことがある前の貴重な時を大いに楽しみなさいということだと思う。
どれほど獰猛な動物でさえ、生まれて間もない赤ちゃんは可愛いし、人間で言えば幼児期のあたりは、なんとも愛らしいではないか。
そのことを考えると、まだうまくコミニュケーションが取れないことや、食事、着替え、入浴、散歩、おむつ替え、真夜中の授乳やら夜泣きやら、の世話を介護と同じに考えるというのは、とても不可思議な気がした。
介護をすることと、我が子を育てることが同一線上にあるとは、決して思えない。子育てには楽しみもあり、何より子どもは成長する。老人の介護は明るい未来を想像することは難しい。
これもまたずいぶん前だが、TVのインタビュー番組で、元チェッカーズの藤井フミヤ(元はいらないか・笑)に子どもが生まれた後、生活がずい分変わったという話の中で
「俺の電子ピアノの上に、今はずしたばかりのウンチのついた紙おむつがポンと置いてあったりする」
などということを、目尻を下げて嬉しそうに話していたのを想い出す。
子どもが生まれる前に想像していた自分と、実際に生まれてみてから変わっている自分は大きく違うだろうし、それは当たり前で、持ってみなければわかりようはないし、個人差もあるだろうけれど。
私は、女の幸せが必ずしも結婚、出産(妻 母)とは言いきらないが、長い一生のうちで、そのような数年を過ごしたことがあるのとないのとでは、大きな違いがあるのではないかと思う。
俵さんは、それほどストレスが溜まっているのだろうか。 おしまいの方で、おばあ様のところには週に何度かヘルパーさんが来てくれるのだから、子育て中の女性のところへもヘルパーさんが来てくれたらと、書かれているのを読んだ時には、なんだか冷え切った指先で、首筋をなで上げられた時のような、ざわついた感覚が体の中を通り過ぎた。
今はそんな時代なのだろうか。私には、何かが違うような気がしてならない。
音符
2005年10月20日(木)
数週間前に新聞で読んだコラム。 高校の数学教師をしている方が、アマチュアのクラシックピアノコンクールに優勝されたという記事があった。42〜3歳の方だったと思う。確か子どもさんが二人いらしたとの記憶がある。
ピアノ歴は長いそうで、ときどき無料のコンサートを開いていらっしゃり、コンクールに応募したのは力を試してみたかったからだと書かれていた。何度目かの応募で優勝を果たされたようだ。
練習は、ご家族の迷惑にならないように週に6時間程度、もっぱら朝夕の通勤時間に電車の中で譜面を読むだけだという。譜を読み込む時間が大切なのだと。
力のほどは、知る人には知られているようで、楽団に招かれて演奏されたりということはあったようだし「いつ、先生を辞めるのですか?」とか、「いつ、プロになるのですか?」という質問も多いらしいが、数学の教師という面白い職業を辞める気はないのだそうで、また音楽でお金を稼ぐ気持ちもないとされた。ルーチンワークになると、音楽への読みこみが変わってしまうからだとおっしゃっていた。
譜面を読みこむとは、なんと素敵な言葉だろう。
もうずっと前のことだが、まだ小室哲也が全盛期の頃(今も?だったらごめんなさい・笑)彼のドキュメントの番組で、何かを一緒にプロデュースするために、元Y.M.Oの坂本龍一(ていうか、世界の坂本龍一で通用?)との対面のシーンがあった。音楽界、世紀の二人のご対面ということでひどく大袈裟なナレーションやもったいぶったCMが流れた後、スタジオで初対面をする二人はごくごく淡々とあっけないほどいともあっさりと笑顔で握手を交わしただけで、早速曲への話へと流れていった。
譜面を間にはさんでの二人の会話は、言葉ではなくて、時々どちらかの手によって書き込まれるおたまじゃくしだけでなのだったが、ああ、これが彼らの会話というものなのだろうと、未知の世界へと誘(いざな)われたような気がした。
鉛筆で次々書き込まれる音符たちによる音の譜は、いくつもの言の葉より雄弁に音楽というものを表しているのだろう。周囲のなにものにも侵されない、生きとし生ける静かな創造の世界がそこにあった。
私は、ピアノやバレエは毎日の練習が重要で、しかも短い時間ではなくある程度の時間が必要なのだとばかり思っていたので、この数学の先生の練習時間が少ないことに驚いたのだが、とても節度のある方なのだと思った。そうした人柄が、クラシックというジャンルに影響があるのだろうか。楽器の演奏は、内面が表出するものなのかも知れない。その時その時間だけでなしに、常に培われるものは、技術だけではないのだろう。テクニックを磨くだけでは補えないものなのだろうと思った。
みなさまへ
2005年10月19日(水)
長らくご無沙汰いたしました。
よく見ると、かれこれひと月、秋も深まり、気がつけば虫のすだきも聞こえなくなっております。
皆さま、お変わりありませんでしょうか?
もしやもしや、とてもご心配をおかけしていたら、本当に申し訳ありません。
何より、無事に生きております。(笑)
以前のDiaryにも綴りましたように、母の抗がん剤治療が始まり、そのことでずい分時間を取られております。 (思っていたより、病院通いの回数が多いですね)
また、他にもいくつかするべきことが重なり、ネットに費やす時間がなくなっておりました。
母のことはまだ始まったばかり、またおいおいに書くこともあるかと思いますが、3月までは入通院が続きます。少しずつ慣れて来るとは思いますが、様子を見ながら更新したいと思います。
掲示板へのメッセージもありがとうございました。 お返事が飛んでもなく遅くなってごめんなさい。 のちほどお返事させていただきます。
とりあえず、ご挨拶でした。
momo* 拝
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