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  浮世絵の中
2005年08月27日(土)  

 久しぶりに歌舞伎を観にいく。納涼歌舞伎は中村勘三郎率いる夏の舞台で大歌舞伎とは違い、午前、午後、夜の部の三つに別れているので、幕間のお弁当はない。私が観たのは昼の、第二部。
演目は、
一、 伊勢音頭恋寝刃(いせおんどこいのねたば)
二、 けいせい倭荘子(けいせいやまとぞうし) 蝶の道行(ちょうのみちゆき)
三、 銘作左小刀(めいさくひだりこがたな)京人形(きょうにんぎょう)


 出演は、勘三郎、橋之助、三津五郎、福助、染五郎、勘太、七之助他といった豪華な顔ぶれだからとても楽しみにしていた。

 驚いたのは、七之助の女形のなんと美しいことだ。まるで若かりし頃の玉三郎のようである。七之助は、映画ザ・ラスト・サムライの中でときの帝を演じて、高貴でありながらとらえようのない不思議な雰囲気を出していたが、ちょっとした事件を起してスーツ姿で謝罪の会見姿を覚えておいでの方も多くいらっしゃると思う。その七之助の演じる娘が、あれほどの長身なのに、可憐な娘そのもの。一体どうしたらあんな鈴の転がるような声が出るのかと魔法を見るよう。

 歌舞伎の女形は、男の理想の姿だと言う。若い頃は、そういわれていても、あの女形の型があまり好きにはなれなかった。実際にあんな女は見たことがなかったし、どこか現実離れしていて、胡散臭くて、いやだと思っていたのに、あんな女は見たことがないといいつつ、今はそれが理想像というのも、うなずけてしまう。 まさしく錦絵の世界。

 それから、蝶の道行きで踊りを踊った染五郎のいい男ぶり!こちらは雄蝶の舞いなのだが、どうしようかと思うくらいに美しい。
 福助の女形は当代きっての美しさと言われるのも納得。目の配りやさす手ひく手の先の先、憂いも悋気も、女心を隅々まで表していて、憧れてしまうほど。怜伶とした声は聞き心地がよく、女の粋を見せてもらう。

 勘三郎も橋之助も、とうに若手ではなく中堅どころ、勘三郎の堂々たる風格は女形であっても目が離せない。年増の女中はクスリと笑わせ、朗々と語る。橋之助のいなせな板前も堂に入って役者であることを魅せてくれたし、舞台は夏の趣き、長唄と常磐津のかけひきの中、艶やかな舞台にうっとりと涼を感じた。


 花道からほんのすぐ近くの席だったので、花道に入るところで一芝居、見栄を切ってはらっていく芝居の見せどころをたっぷりと、目の前で真近に観ることができたのも御馳走である。何から何までいうことなしの世界だった。


 
 少し早目に銀座の呉服屋さんでうきうきと時間を過ごせたのも愉しかった。思わず欲しくなる一枚があって、忘れ難いのが心残り・・・。
また近いうちに。



  内緒
2005年08月24日(水)  

 子どもの頃に住んでいた家の隣の家には、大きなお兄さんがふたりいた。私が物心ついたころは、上のお兄さんは社会人で、下のお兄さんは大学生だった。

 いったいいくつくらいの頃だったか、まるで憶えていないが、ときどき母のお使いでお隣へ行くことがあった。門扉を開けて中に入ると、広い庭がある。薄暗い庭には幾重にも重なる濃い緑色の葉と大きなブロンズ像があった。お隣の匂いがした。

 玄関を入ってすぐの飾り棚には、人形浄瑠璃の首が二つ並んでいた。いつ見てもこの人形の目は決して私とは視線を合わせないが、力のこもった濃い眉と口もとの両脇にある人形の線がなんだかとても怖かった。

 女の子のいないこの家のおじさんやおばさんは、私をとても可愛がってくれた。おじさんは洒脱に私をからかい、おばさんは必ずおやつを御馳走してくれた。少しして帰る時には、私はあの人形の顔も怖くなくなるのだった。


 ある時大きなお兄さんにお嫁さんがきた。このころ、どこかの家にお嫁さんが来ると、お嫁さんは振袖を着てご近所に挨拶回りをした。私が生まれて初めてみたお嫁さんは、お隣のお嫁さんだ。髪は文金高島田だったと思うのだが、もしかしたら髪型はそうではなくて、イメージの中で私がつくりあげてしまっているのかも知れない。うつむき加減のお嫁さんの顔はよく見えなかった。紅白の結び切りの熨斗のついた半紙にS子と名前が書かれているものをいただいた。

 ときどき塀の外にも、お嫁さんの「お母さま、お母さま」と呼ぶ声が聞こえるようになり、洋服姿のお嫁さんは、とても明るくて活発なひとのようであった。

 しばらくして、赤ちゃんが生まれた。ある時お隣へ行くと、S子さんが出てきた。おじさんもおばさんもお留守なのだと言い、赤ちゃんを見ていってと言った。わくわくして、お二階の部屋へついていくと、真新しいベビーダンスのある部屋に、小さな小さな赤ちゃんがいた。赤ちゃんはそれだけで可愛くて、私は色々な感嘆詞を言った。色々な物を見せてくれた。洋服やら、おもちゃやら。

 しばらくして、赤ちゃんが泣き出し、S子さんはおっばいを飲ませ始めた。覗き込むようにして見ていた。ふいに赤ちゃんの顔にポツリと水が落ちた。あわててS子さんの顔を見ると悲しそうに泣いていた。
「どうしたの?赤ちゃんがおっぱいをかんだの?」
「そうなの。だから内緒にしておいてね」
私は密かに色々な想像をして黙りがちになった。帰るとき、あの人形の前を通ると、その家の更に濃い匂いを吸ったようで、家へ帰っても私はあまり喋らなかった。

 あれから何年も経ち、おじさんが亡くなったあと、お隣の家は洋館に変わり、S子さんはすっかり中年になった。おばさんも、もう以前のおばさんではなくて、なんだか代代わりをしたようだ。S子さんは相変わらず明るくて快活そうだ。あの人形の顔や、暗く沈んだような匂いは、いつの間にかなくなっていた。それでも、こんなどんよりとした天気の日には、時々想い出してしまうのである。



  生きがい
2005年08月23日(火)  

 素敵なひとがいる。時々お見かけするその方は、たいてい着物を召していらっしゃる。雨の日は、雨ゴートに雨よけのついた下駄。紫の色のついた眼鏡越しのまなざしがとても暖かいのに、横顔は日本人離れをして憂いをふくみ、つい見惚れてしまうほど美しい。いつも着物を召していらっしゃるので、踊りや三味線のお師匠さんなのかと思っていた。

 お話をした。目の覚めるようなくすんだピンク色の夏のドレスにはっとして、思わず声をかけずにいられなかった。着物の時と同じように髪を上げて、ドレスがとても良く似合う。美しいと思った。

 一人の娘さんはハワイに、もう一人の娘さんはオーストラリアに在住し、今はお一人なのだと。春先には、三人で待ち合わせをしてアメリカに行って来たと、楽しそうにおっしゃった。

 意外なことに、踊りは教える方ではなくて、教わる方なのだと言われた。新日本舞踊と民謡だそうだ。

 「ずい分と男性におもてになるでしょう」不躾だがそう言わずにはいられなかった。そうでなければ不思議だと思ったから。その方は少しいたずらな目をして、「今は一人が気楽でいいわ、とっても」とおっしゃった。「踊りが生きがいなの。踊りのおかげで毎日とても楽しくて、本当にそれだけで生きていて良かったと思えるのよ」

 確か春ごろに足を骨折されていた。ギプスをはめて歩いているのをお見かけした。それでもしばらく経つとまたすぐに着物姿でいらした記憶がある。回復が早いので、60歳を少し越えたくらいではないかと想像していた。

 とても素敵な人。あの年齢になって、あんな風に生きていけたらどんなにいいだろうと思った。ひとの顔は内面だと思う。今までに色んなことがあって、惑い、迷い、悩み、苦しみ、さまざまな日々を越えて、役目を果たし終えたあと、語るのに目をキラキラさせられるような生きがいを見つけて、それだけあればいいと言える人生の歩き方が、その方をよりいっそう、美しくしているのだろうと思う。

 その方のお歳は83才。
夕暮れのひととき、美しい面影が深く胸に残る。



  カ イ ダ ン
2005年08月22日(月)  

 雨上がりの朝は気温が下がり、久しぶりに涼しさを感じた。気のせいか、今日は蝉の声も聞かなかった。たぶん夏は、まだ性悪女のように居座るのだろうけれど、ひと雨ごと影が薄れてゆくのだろう。

 土曜日に、デパートで買い物をした。店内はすでに夏のクリアランスも終わりに近く、ファッションはすでに秋冬物の展示である。今年は短めな丈のジャケットがあちこちのブティックに並んでいた。トップは比較的タイトで、ボトムは反してボリュームがある。店員さんはもう、毛皮のブーツを履いていたりして、少々お気の毒なくらいであった。

 夏が終わると嬉しいのは、ミュールの五月蝿い音を聞かなくても良くなることだ。バックベルトのないサンダルは、よほど運が良いか誂えたものでなければ足の形にフィットすることはないから、靴の踵が歩くたびに足との間に隙間を作り、悪戯に床を叩くのだ。それが許せるのはティーネイジャーか20代の前半まで。妙齢の女がミュールを履くと、着ているものが一段下がって見えるのは、歩き方ばかりではないと思う。その足で階段を昇り降りされると、とても耳障りでざらついた気持ちになる。


 そいえばこの夏は、怪談話しをやらないのだろうか。少し前までは、夏と言えば必ずどこかでやっていたのに。今年はそんな話を聞かない。世の中が怪談以上に怖いから、そのようなもので涼をとるなど流行らないのかも知れない。

 昔むかしからあった、お馴染みの時代劇。美しく艶やかな男と女の怨念話。このところ、なんだかとても観たいのだけど。
とても美しくなった宮沢りえさんとか、演らないかしら。



  夏をひきとめて
2005年08月21日(日)  

後ろ髪をひいてもいってしまう
夏の名残りを惜しみながら

忍び来る気配に耳をすまして
たかまる予感を感じている

またいくつめかの夏がゆき
またいくつめかの秋がくる

女は映ろう季節にも
移り気で変わり身が早いから

日焼けした肌の色が薄れるように
深追いせずに忘れてゆく

唇のニュアンスを
訪れる季節の色に染めかえて




 夏の一日は、ゆるやかな太陽の動きに合わせて、時間までがゆるゆると流れるようで、とても好きだ。昼間が長く、どんなことにも追われるという気がしない。けだるくてアンニュイな長い夕刻、夜はゆっくりと訪れる。そんな時間がとても好きだ。大きな顔をして怠惰になれる気がするから。明るい時間は、少しでも長いほうがいい。だから、夏の初めに、仕事を終えて表に出てもまだ明るいとそれだけでこのうえもなく幸せになる。

 立秋はとうに過ぎて、少しずつ空が高くなり始めている。だんだんと日暮れが早まりもうすぐそこにしずしずと秋が訪れそうな気配を感じ始めると、なんだかとても落ち着かない。夏の名残りを惜しむ気持ちがふつふつとわいて、心寂しくなるのはこんな時期。残暑は厳しいけれど、短い夏はいくら後ろ髪を引こうとあっさりいってしまうのだから。

 いってしまいそうな夏と、おきざりにされてしまいそうな自分を眺めている。何をするでもなく、ただただ眺めて。



  ひとのうちがわ
2005年08月16日(火)  

 普通のひとだとか、どこにでもいるようなひとだとか、一般人だとかいうひとたちがどのようなひとであるという定義をどこでつけるのかは難しいが、今の場合は、外見的に特別目立たないというか・・・、大勢の中にいて特別違和感がないというか、マスコミに追いかけられるようなひとではないということにして。

 そうしたひとたちの中に日々埋もれて過ごしている。私もその中の一人だし、多くのひとがそんなひとたちにうもれて暮らしていると思う。
ネットを初めて4年近く経った今、そうしたひとたちを見る自分の目が変わっていると気がつく。

 以前は、例えば込み合った電車の中にいるひとびとの様子を見ても、どこにでもいるおばさんやおじさん、若者や子どもといった見方しかしていなかった。たまに何かで目につく行為があると、内心好意的になったり批判的になったりしたが、大勢の中にいればごくごく当たり前のよくあることだったと思う。

 このところ、そうしたひとりひとりのひとたちを眺めていると、もしかしたらこの方もあの方もどこかでHPを持っていて、どこかですれ違い、あるいは言葉を交わしているかも知れないという見方に変わっていることに気がついた。

 どこにでもいるようなおじさんが、文学をつづり、音楽をやる。どこにでもいるようなおばさんが、写真を撮り、ポエムをつむぐ。どこにでもいるような若者が、実はすごいスクリプトを組んだり、あるいは電車男のように巨大板ではヒーローになっている。彼らの頭の中にあることは見えないが、もしそれが言葉になり、宙に舞い空にログとして見えるとしたら、それを読んでしまうだろう。

 町内にいる評判の良くないあちらの親父や、こちらの若者だって、特別な世界感があるかも知れない。ひとは勿論外見ではなくて中身だと思うが、人ごみにまぎれていると表面的な印象から、多少の想像はしたとしても、それ以上にそのひとを考えることはなかったが、今は違う。

 これは一体良いことなのか、悪いことなのか、実のところよくわからない。単にネットをやり過ぎなのか、それとも、それまでのひとの見方が足りなくて単に今更のことなのか、などということを、お盆でひとが少ないと見込んでいたのに、ひとで溢れる街を歩きながら考えた。



  そういえばクワガッタ
2005年08月14日(日)  

 配信できないといいながら、日に三つ目の更新は、軽い躁かしら?(爆)
なんてぇことはさて置き。

 クワガッタのその後です。
先週、やっとこさ♀のクワガッタを見つけて購入。
お店で売られているのはたいてい♂♀ツガイなので、なかなか♀のピンを見つけるのは難しかったのですが、ようやくゲット。
♂は1600円の値がついているのに対して、♀はたったの350円だって、なんだそれ。

 ということを友人に話したら
『♂は何だって立派なんだ!』
などとわからないことを言われましたが。。。なんだそれ。

 で、虫愛づる姫のレクチャーによると、なるべく年の頃も身の丈風情も♂に見合うようなものを、ということだったのだけど、そこまで贅沢は言えず、売られていた♀の中で一番大きそうな子を選出。
大顎のない分、小さ目というか、それがないのにあの大きさに見合ったらデカ過ぎ!かも。

 早速帰ってケースに入れました。私としては、二匹が(匹でいいの?)仲良く遊んだりする場面を見られると思っていたら、なんとこのクワガッタリーナは、あっと言う間にスルスルッとマットの中にもぐってしまいました。遊ばないんだね。^^;

 それからいつ見ても土の中。ケースの横から見ると、蟻の巣よろしく土にうねうねと後がついていて、どうもその部分を動いているらしいことが分かり、生きているようだと安心。土を食べるらしいので、ゼリーにありついていなくても安心。

 昨日、初めて上に出ていたので、すかさずちょっかいを出そうとしたら、再びあっと言う間に土の中へ。なんだか♂よりよっぽど身のこなしが素早いのだ。一体この後どうなるのでしょうね、このふたり。というか二匹というか、匹でいいのかどうか。←馬鹿(爆)

 最近は、ザルをやめて、拾ってきた枯葉や木の枝を入れて何となく自然に近い状態になっております。

 まぁそんなところでございます。



  晩夏に
2005年08月13日(土)  

 もう随分前からのことだが、ブツブツと独り言をいう人をよく見かける。
そういう人が多いと感じたのは、イタリアから帰国してからのこと。
この頃ますますそれを感じるようになった。
歩きながら独り言をいう中年の女性は、どういう訳だか電車の中、スーパーの中、路上でとちょくちょく行き会う。声だけ聞いているとまるで誰かと一緒に歩いているような自然な会話(?)である。
彼女だけでなしに、行き当たりバッタリに行く先々でこのような人を見かける。
ある時待ち合わせで入ったミスター・ドーナッツの店内には、テーブルに2人分のコーヒーとドーナッツを置いて、まるで目の前に誰かがいるみたいに身振り手振りを交えて見えない相手と話す若い男性がいた。勿論、目の前のコーヒーは減りはしないし、ドーナッツもなくならない。

 こんな風に、あらゆる場所で誰かが見えない相手と会話を交わしているような光景をよく見かけるが、比較的若い男性に多い気がする。
それは何かを暗記しているような様子ではなくて、誰かとの会話なのである。
彼らの声は決して小さくはないので、思わず目が行ってしまう事がある。お互いの視線が交わっても、彼らには私が見えないようで、私には見えない何かだけを見ているようだ。

 人は嫌でも何かと同調して生きている。多くの顔も持っている。職場での顔や家庭での顔、その他諸々。社会に出てみれば、嘘をつかない人など見たことがないし、立場や顔を重んじればそれは仕方のないことでもある。
誰もが本来の自分の気持ちにだけ沿って、やりたいようには出来ないし、そこからはみ出す事は何かを破綻させることもある。
多くの人はそれを自分の中でどうにか折り合いをつけてやっているのではないかと思う。
理性に感情がついていかずに、精神のバランスを崩してしまうことは誰にでもあると思うが、またそれをどうにかこうにか誤魔化したり忘れようとしたり、無意識のうちに時間という力を借りて何とかやっていたりする。
そういった働きを何というのかは知らないが、人が生きていくにはとても重要な役割だと思う。
彼らは何かの理由でそれが上手く行かなくて、鬱積したものが独り言になって溢れてしまうのだろうか。全くの勝手な想像だから、そうでないかも知れないが。
傲慢にもお気の毒なんだと思う半面、一方ではどこか警戒する私がいたりする。

  しかし、こうしてページを作ってダイアリーに言いたい事を書いてる私は一体なんだろうと思ってしまったりもする。
本来の日記など、誰に見せてもいいはずがなく、ここに綴ることといえばやはり誰に見られてもいいようなことばかりである。
ページを立ち上げている以上、これも何かの意志伝達の手段でもあるわけだが、誰かが読んでいるとは限らない。
小説や音楽、何かの作品やゲームなど、何らかの付加価値を見出せるようなページを創る人は沢山いるが、私は、面白い小説が書けるわけでもなく、音楽や画像やゲームを配信して人を楽しませることが出来るわけでもない。
映画や小説の感想を書いたところで、それを記録として収めておきたいのなら、メニューに加えて配信する必要もないのである。
それなのにこうしてページを立ち上げ、つらつらと言いたい事を書いているのは、自己顕示欲といってしまえばそれまでのこと、開き直れば自己満足。

 随分前にダイアリーに書いたが、インターネットをしない人にとって、この世界はないものである。そのないものの中でこうしてあれこれ書いている私はもしかしたら、どこかで独り言を言っている彼らと変わらないのではないかと思ったりして、たまに自分が分からなくなる。

2002.8.24 Essay より



  夏やすみ
2005年08月06日(土)  

しばらくおやすみいたします。

みなさま、夏バテなさいませんよう、お気をつけて♪



  チャップリンと汗
2005年08月01日(月)  

 8月になってしまった。早い!今年の前半が終わってしまった。いや、実際には前半は6月で終了して、今はもう更にひと月過ぎてしまったわけだが、私の体内時計ではまだ半年過ぎたくらい。要するに、そのくらいのことしか出来ていないまま、季節は夏の盛りに突入してしまったわけである。
ああ、前半のノルマもまだ達成していないようなのに、このままでは今年もまたやり残したことが沢山、来年へと持ち越して、それはダルマのように膨れ上がって、人生が終わる頃にはやり残しの権化のようになっているのではないだろうか。

 遊びに関していえば、なんのことはないのだが、今年はチャップリンの映画を見ようと思っていたのだ。勿論ビデオで。古いものだから、無声映画なのだが、私は未だにチャップリンの映画を一つも観たことがなくて、ある時友達からとても良かったというような話を身振り手振りで聞いて以来、今年は絶対にチャップリンの映画を制覇しようと思っていたのだ。

 ああ、それなのにそれなのに、なんと未だにたったの一つも見ることが出来ないでいる。それは何故かといえば、ひとえに私の怠惰なせいだ。もうそれ以外には考えられない。会員カードの期限が切れているのもあって、レンタルビデオショップへ行くのが億劫だったり、ちょっとしたヒマを見つけてそのショップへ行くには、日頃の生活圏からかなり出なければならないという・・・要するに面倒だと感じるのだから。

 それにしても、夏になって体調はあまり良くない。なんだろう、今年はあまり汗をかかない。気持ちよく汗をかくことがない。これはいけないと思い、お水を何リットルも飲んでみるのに、やっぱり汗をあまりかかない。なんだか体の温度調整があまり上手くいっていないようなのである。といって、熱がこもっているのとも違う。あとは膝下がやたらとむくんでしまうのだ。これだって、水分が溜まっているからではないかと思うのだが、だからなお更せっせとお水を飲むのだが、どうにもなんだか気持ち良くない。

 日がな一日エアコンの効いた場所にばかりいるのがよろしくないのだと勝手に解釈しているのだが、どうにもだるい。このだるさがまた億劫さを加速させて、何かをする気になれなかったりもするのである。夏休みになったら、ビデオショップを覗いてみようと思うのだが、その前にこの体調を何とかしないとと焦っているばかりなのである。



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