momoparco
  Fallen wind...
2004年10月31日(日)  

 秋も深まり今日は父の四十九日、無事に納骨をすませてまいりました。
朝はどしゃぶりの雨が降り、一日がどうなるかと案じましたが、途中からは日がさして午後は良いお天気となりました。

 四十九日、ひと月以上の日が過ぎましたが、とても濃い日々だったような気がします。父のいない生活に少しずつ慣れ、心を静かに過ごすことのできる日が増えてまいりました。ようやく父は祖父母のいるお墓の中に眠り、これで何かひとつ安心したような気持ちです。現実にはまだまだしなければならない様々な手続きが沢山あり、全て終えるのはもう少し先になりそうですが、父の魂が静かに見守ってくれることと思います。


 いよいよ11月に入りますね。一つの区切り目だからというわけではありませんが、この部屋の音楽を変えてみました。曲はまたHIGHWAYSTAR+ (masahiko)さまからいただきました。いつも素敵な曲をありがとう。

 この曲を初めて聴いた時に思い浮かんだシーンは、真昼のビルの谷間を歩くスーツを来た男の人の足元に舞い降る落ち葉。何故か男のひとの足は膝から下。(笑)
そんなイメージから、タイトルを”♪Fallen wind...”とつけさせていただきました。静かでとてもいい曲でしょう?リズムがとても和やかで。

 Fallen wind...、風になる...
風になりたいのはこの男のひとなのか、それとも私なのか・・・。そんなイメージ。
今までの曲”♪Floating on Love”も勿論、BGM MENU の中に入っています。

 これからは日増しに寒さを感じるようになりそうですが、さわっとした風に吹かれて、踊るように心が遊べるような日々でありたいと思います。



  勝手にすれば?
2004年10月30日(土)  

 昨日テレビで松坂某の婚約記者会見をやっていた。
某ったって、松坂大輔だけど。(爆)

 私はもともと野球があまり好きというのではない。攻防が瞬時に入れ替わるスポーツはが好きな私は、味方が攻めている時に他の選手がベンチで休んでいるってのが許せないし感じ悪い。(笑)

 だからプロ野球選手のギャラの高さには馬鹿じゃないかと思っているクチなので、余計にそう思うのだろうが、日本中(と思っている)が暗い災害のニュースで心を痛めている時に、なにが結婚記者会見だ!という感じ。
 
 何だろう、あれって結婚相手のアナウンサーがその局の社員だったから放送されたものなのだろうか。
『とてもホットで明るい話題ですね』なんてコメントは、台本通りなのかアドリブなのか知らないが、ホットなのはあんたらの頭の中だけじゃいっと思って聞いてしまった。

 考えてみれば、大きな災害や事件があり、マスコミがそちらに集中している間に人気芸能人だのがこっそり入籍なんかしている事例は過去にも沢山あるが、それって何?
結局マスコミはイカレポンチ、言いかえれば報道源を選べない視聴者がナメられてるってことなんじゃない?

 結婚は個人的なことなので、するもしないも自由だけど、薄ら寒くなってしまった一時でした。
どーぞ、お幸せに。



  しぇーん・かんば〜く
2004年10月29日(金)  

 いや、そういうワケではなくて。
Change of a pace. とか言いながら一週間も経ってしまいました。あの日はそれほどの深い意味があって、このタイトルをつけたワケではなかったのですが、皆さまお元気でしたでしょうか。

 日曜日にはしばらくぶりに100%プライベートな外出をして、魂の洗濯とでもいいますか、心身のリハビリとでもいいますか、とても良い一日を過ごしました。おかげで、体中に溜まった老廃物のようなものがすっかり浄化されたようで、週明けから身のこなしも軽やか、仕事中にステップを踏んでしまうほどではあったのですが。

 やはりこの一週間は災害によるさまざまなニュースを見聞きしておりまして、どうにも固まっておりました。言葉に出して言い表せない気持ち、多分どなたも同じ気持ちでいらっしゃることと思います。

 横浜でも朝夕は寒さを感じるようになり、早朝出勤、深夜帰宅のひとは早々に冬のいでたちで街を歩いています。そんな中、唯一の明るいニュースだった二歳の男の子の無事をも払拭してしまうほど次から次へと伝わる暗いニュース。被災地の条件はこれからますます過酷さが増していき、被災者の心情を考えるとやりきれない思いですね。一刻も早くなんとかしてあげたいと思うばかり、ジリジリとするばかりです。

 個人的には明日は父の四十九日の法要があります。亡くなった時はまだ暑い真夏のような季節でしたが、もうすっかり冬の始まり。気がつけばカレンダーも、残すところあとニ枚になろうとしています。時間の経つのは早いですね。あっという間に時間が経って、早く被災者の笑顔が戻れる日が来ることをお祈りしています。



  Change of a pace.
2004年10月23日(土)  

 台風も過ぎ、ひさかたぶりに晴天の休日です。
明日もお天気みたいだし、この週末は表で戯れたいと思います。

 皆さまも、素敵なおやすみを☆


  



  映画観たい〜
2004年10月22日(金)  

 10月末から11月になると面白そうな映画が沢山ある。
筆頭はやはりトム・クルーズの『コラテラル』。
これは必見! トムを観ないで何を観るの?というくらい、私にとっては彼の映画はとにかく観たい。(笑)

 それから、『トリコロールに燃えて』こちらは第二次世界大戦下のパリ。ヒロインはペネロペ・クルス。
これも観たい。

 それから、『SAW』私の好きなサイコ・サスペンス。
『セブン』より怖いらしい、というのが新聞のキャッチコピーに書いてある。となるとやっぱり観たい。(笑)

 それに、12月に入ると『ターミナル』こちらはトム・ハンクス。同じトムだ。彼を観なくてどうする?というのは、トム・クルーズとは別な意味で。

 トム・ハンクスってひとは、とっても役者なひとだと思う。例えばキムタクは何をやってもキムタクだ。藤原紀香は何をやっても藤原紀香だ。でもこのひとは違う。いつもいつも彼の映画を観ながら、−そういえば、この前観た映画のヒーローはこのひとに似ていたけど誰だったろう−なんて、彼の映画を思い出しながら思っていたりする。そういうひとは稀有だ。作品を自分のモノにしてしまうとは、そういう役者のことをいうのだろうと思う。
だからまた、今度もそんなトム・ハンクスに出会えるだろうと、今からとっても期待が大きい。

 それから、いつなのかわからないけれど、『Shall We Dance?』のリメイクをやるらしい。
もうクランクインしているとか?
役者は、リチャード・ギアとジェニファー・ロペス。日本のあのふたりの印象派強かったが、リチャード・ギアと言われて何となくだけど納得した。役所広司とは違うタイプなのに、ピッタリじゃないかと思えてくる。何でだろう。余談ですが、私的にリチャード・ギアは日本の俳優にたとえると田村正和サンなんです。(笑)

 ただ、ジェニファー・ロペスがわからない。あのひとの曲はとってもとっても大好きだけど、草刈民代のような研ぎ澄まされた美しい背中を演じることができるのだろうか?と思ってしまう。

 でも、周防さんじゃない監督の、まったくハリウッドの、『Shall We Dance?』、それはそれで期待していたりして。

 あと、タイトルは聞き逃したのだけど、『サンダーバード』のパロディで、主役が北朝の金さん(みたいな男)の映画があって、それがアメリカでは大ヒットしているらしい。
ミュージカルよろしく、金の人形が♪私は孤独だ と歌うシーンがあって、ちょっと可愛くて笑えたのだけど、あの国には核兵器はなかった、というそんなエピソードを盛り込みながら、あくまでも政治的にノーコンセプト、これといってメッセージもない(とはスタッフのインタビュー)という映画なのだが。何だか興味をそそられた。日本上陸は、するかしないかも分からないらしいけど。

 しばらく映画を観ていないなぁ〜、劇場の空気を吸いたいなぁ〜と思っていたので、
11月に入ったら映画館のハシゴでもしたいと思っています。



  美味しい料理の作り方は?
2004年10月21日(木)  

 日常的に料理を作っていると、何を作っても自分の味になってしまう。ひとり暮らしを始めて料理を覚えたてのころは、一応料理の本などひもときながら作ったこともあったのだけど、いつしかそんなことも少なくなり、頭の中で思い浮かべる今食べたいものは、たいてい本を見なくても一通りは作れるようにはなっている。

 でも感じる。結局私の味だなと。あの時母が煮てくれたかぼちゃの煮物は、いくらやっても同じ味にはならないし、誰かに教わったその時いたく感動したお料理も、出来上がってみるとやはり何だかそれとは違う。知らず知らずのうちに味付けの癖がついてしまっているようだ。


 私の書いたものは、私の作った料理と同じだ。いつも同じ味がする。思うことを書きつづるときにはその時その時の中身や気分があって、私の中では違うはずだと思うのに、書きあがったものを後から読んでみるとそれはやはり同じ味になっている。なんだツマラナイ、あそこに漂う感情はこう表現したはずではなかったのにな、なんてものがきでもないくせに、生意気にも思ったりする。

 あれは本当にあなたが書いたの?
なんて、誰もがあっと驚くような、ちょっと違う文字の連なりは作りだせないものなのだろうか。いやいや、違う、それはただ私の力不足でしかないのだけど、何だか同じ味付けをいつも食べているとそれはちっとも美味しくない。

 何もないけど、ありあわせで食べていかない?
ふらりと寄った友人の家で、そんな風に食事をご馳走になることがある。その時は本当に冷蔵庫にあるもので作った簡単なあり合わせの料理だったとしても、目玉焼きすら味が違う。お味噌汁だって新鮮な味だ。そしてそれはとても美味しい。

 
 誰かの書いたものを読むのは、だからとても美味しいと思う。読むのはあっと言う間で、書くのはとっても大変。それに近いことを昨日立ち寄った書店で、手にした何かの文庫本に村上春樹が書いていたが、そうして楽をしてただ読ませていただくだけのことがとてもとてもありがたい。そしてそれはとても美味しい味がする。

 そして創作物。私にはストンと想像力が欠けていて、創作することなど初めから不可能と決めている。だから誰かの創り出したものを読ませていただくと、それはもう嫉妬ややっかみなんかとは遥かに遠い、ただただ畏敬の念を抱いてしまう。同じ日本語でありながら、まるで異質の言葉でつむぎ出されたようなストーリーを読むと、一体そのひとのあたまはどんな構造になっているのだろうと思う。こんな風に書けたらいいな、ちらりと浮かぶ憧憬もあるのだけど、それはあまりにも遠い話だ。だからその美味しさに、ため息ばかりつきながら、ついつい読んでしまうのだ。



  ナマ音声によるガイダンス
2004年10月20日(水)  

 今日は父の五つ七日で午後からお寺さんが来てくださることになっていて、私は休みで家にいたので午前中父のことでまだ未解決の用件をすませようと電話を手に座った。

 こうした事務的なことはもう少し早めに済ませておきたかったが、それは父の口座に振り込まれるある種のお金が、今月の定日に振り込まれたのを確認してからでないと出来ない処理で今になってしまったことだ。

 目当ての電話番号をダイアルするが、電話はなかなか通じない。通じないのは相手が話し中なのではなくて、機械による女の声で「ただ今電話が込み合っています。そのままお待ちいただくか、もう少し時間を置いてもう一度おかけなおしください」というアナウンスが流れるのだ。
 
 そこで電話を切ってしまうとまた振り出しにもどってしまうことは分かっていたし、そんな場所の営業時間は9時から5時としっかり決まりきっていて、その間のどの時間帯にかけても同じことになるのも更に分かりすぎていたので、根気よく機械の声を聞き続けた。

 声はときどき言葉を変え、「ただ今電話が大変に込み合っておりますので、申し訳ありませんがもう一度おかけ直しください」だの、「そのまましばらくお待ちください」だのと言っている。私はイライラしながら、機械音声の間に混じる真の抜けた音楽を聞いていた。

 ようやく電話のコール音が聞こえたと思うと、次に出たのは再び少しトーンの違う女の機械による音声で、今度はガイダンスが始まる。こちらの目的がなんであるのか、番号つきでいくつかの項目を流して聞かせ、最後に該当する番号の数字をプッシュせよというあれである。あれを慎重に聞いていると時間の無駄を感じて余計にイライラするが、それを通過しないと目的を果たせないのでこれも根気強くお付き合いする。

 こういうガイダンスの項目が更に2つほど続き、ようやく人間の女が「お待たせいたしました、○○センターです、どのようなご用件でしょうか」と言った。やっと聞こえた人間の声にほっとしながら用件を告げると、「ではお客さま番号をお願いします」という。見慣れない書類の中にあるお客さま番号を探して目が泳ぎ、見つけ出した番号を告げると、女はこちらの言葉の言い終わらないうちに「お名前ご住所をお願いします」という。そのたたみかけるものの言い方が全く生身の人間の間というものを容赦しない言い方でまるで喧嘩ごしである。そういえばつい最近職場でそんなことが話題になったことを思い出した。「相手がたたみかけるようなものの言い方をしたら、わざと間をはずしてやればいいのよ、リンダ困っちゃう〜♪みたいにね」と同僚がいったことだ。

 しかしさんざ機械に命令され(たような気がした)、更にこの女の喧嘩を売るようなものの言い方に、私のイライラはピークに達し、「では住所と電話は次の三つのうち正しいと思うものを選びなさい。」「はい?それはどうういうことでしょ・・・」女が言い終わらないうちにたたみかけるように私は続けた。「1.横浜市○○区・・・・・、xxx−1234。2.神奈川県横浜市○○区・・・、045−xxx−1234。3.神奈川県横浜市・・・(こちらは本籍)、045−xxx−1234」「お客さまのご住所は1番ですね?」更に「それならそれにふさわしい書類を今の住所にを郵送、後日返送されたものを確認の上、事務処理を行い報告してください」「承知いたしました、ではそのように・・」再び相手の言い終わらないうちにガチャリ、と電話を切ってやった。


 ・・・ら、どんなに気持ち良いだろうかと頭の隅のほうでチラチラ思いながら、相手のいうことに従い、更に「よろしくお願いします」という私がいたわけだ。



  今は秋
2004年10月17日(日)  

 ぬけるような空の色と、ひんやりと清々しいほどの風が吹く秋の休日。
いつもより気持ちがはずみ家事は早々に型がついて、ふらりと友人のHPを訪れた。
このところ、彼女はとても忙しい。父上が夏から入院されているので病院通いがあるからだ。彼女の母上は昨年の9月に亡くなり、父上の世話をするのは仕事を持つ彼女ばかりだ。

 そんな中書かれていたDiaryには、日々の楽しいことだけでなく父上のことが綴られている。とりわけ今日心に残ったのは、亡くなった母上のお友達が彼女を訪ねて話をしたというその内容だ。

 その方は74歳になられるらしい。その方のお友達が入院されたというのでお見舞いに行くと、相手の方はその方のことや、一緒に過ごした時のことを何も覚えていなかったというのだという。痴呆である。その方は、長生きしようと思っていたが、いっそのこと例えば大きな病気、助からない病気になってしまわないかと思うのだと言われたそうだ。家族に迷惑をかけるとしてもその時間が短いから。
「痴呆になると、自分が迷惑をかけているという気持ちがあればそれなりにみんなに感謝できるけど、痴呆になってしまったら自分が自分でなくなるわけでしょ。それがとても怖いわ」
と言われたという。

 勿論、大きな病気をしているひと、頑張っているひと、さらに私の友人に対して言うにはとても憚りがあることは充分に承知の上である。
私の友人の母上は、昨年癌で亡くなった。その時のことは ココ に書いてある。読んでいただければ幸いです。

 ひとはいつか死に行くものだとしても、どのようになって行くのか誰にもその道を選ぶことは出来ない。誰もが痴呆になりたいとは思わないし、誰もが大きな病気に罹りたいとも思わない。まして周囲に迷惑をかけたいなどと思うひともそうそういるものではないと思う。

 それでも老いはやってくる。誰の上にも平等だ。老人という言葉は、一体どのあたりの年齢のひとのことをさすのかわからないが、医療の点からいえば、70歳以上は老人医療法が適用される。勿論、個人差があって肉体的にも精神的にも同じ年齢でも違いはある。だから、この場合その年齢を過ぎたひとのことになると今は便宜上書いている。

 私の父の場合も含めて、私には老人にがん告知が必要かという疑問がある。がんが告知されて良いのは、まだ初期の段階で治療をするための理解と協力を患者自身から得られた方が良いとき。年齢がいくら若くても、先があやぶまれるときにまでするものではないと私は思う。あまつさえ、気力、体力ともに衰えた老人に、それを告知して最先端の医療を施すことが全ての幸せとはとても思えない。それよりも、それまで同様に生活をし、残された日々を一日でも苦痛から遠ざけたところで、安定した気持ちで過ごすことが出来る方が、はるかに幸せなのじゃないかと思うのだ。

 父の葬儀のあと、一週置きに二つの葬儀があった。初めは母の友人で、子宮がんが肺へ転移。そのあと職場のボスの母上は80歳を過ぎて大腸がんであった。切ることはメリットばかりではない。体力は奪われ、その後の転移の心配は常に残り
「切って切って更に切っても救いきれなかった患者さんは沢山います」
父の肺の手術をした主治医はそう言った。

 そして延命治療、これも私にはどこからどこまでのことを指すのかわからない。今、目の前で苦しんでいる病人がいるとしたら私はやはり医学にすがる。しかし、それのどこが延命治療の範疇となるかはその時にはとうてい判断がつかなかった。ICUにいた父の、人工呼吸器をつけて人工透析を施行された父は果たしてどこまで自力で生きていたのかと思えば、それはもう延命行為の何者でもないのではないか。それでも助かって欲しいと思った。

 しかし、見舞いに来た叔父が後から電話で
「俺ならあんなことはやめてくれと言いたい」
と言ったとき、少なからず私は同様した。深く悲しい気持ちであった。

 医師の説明は、例えば急に心臓が止ったとき
「心マッサージや電気ショックなどの野蛮な(と医師は言った)延命治療についてはどうなさいますか?」
と聞かれはしたが、それ以外のことは何も言わなかった。そのとき
「もうここまで頑張ったのだから、それ以上のことは何もしないでください」
と言ったのは母で父ではない。

 
 数ヶ月ほど前、たまたま目にしたコラムの文中に目が止った。80という年齢にさしかかり、そろそろ身辺の整理をしていつ逝ってもいいような覚悟も準備も出来たという佐藤愛子が書いたもので、いみじくも『医学が人類から老衰を奪って以来』という一節があった。昔なら助からなかった病気が、今はほとんど助かるようになり、多分この先も医学は同じように進歩し続けていくのだろう。日本という国は世界の長寿国である。そして、健康ではない老人が最も多い国でもある。

 祖母が亡くなった時は自宅であった。それは祖母が
「もう点滴や注射、入院などはしたくない。このまま家で過ごしたい。」
と言ったからで、そうした祖母の気持ちを汲んで本当に枯れ木が朽ちていくように亡くなった時、看護婦さんが
「もうこれからの時代、このような逝き方をさせられる若い人はいない」
と言った。今はすぐに何でもかんでも病院へ行くからだと。


 私はまだ、自分がどんな老後を過ごすかなどと考えたことはない。むしろ今をどう生きるか、明日にどうつなげるか、そんなところだと思う。でも、回りには年寄りがいる。私だけでなく私の友人にも知人にも、みんな親がいるからだ。またどういうわけか、私の友人には親を見ているひとが多い。遠く別の土地で暮らしていても、最近になって戻ってきたり引き取ったり。そのような行動を目にすると、「偉いね」と心から思うが、ひとりの友人が
「年老いた親を放っておくなんてはひととしてどうよ?」
そう言った。

 冒頭の友人の父上は、長引く入院生活に話が少しかみ合わないところがでてきたという。母上の一周忌の前に父上が入院。
「ボケないようにしないとね」
そう言って笑う父上の笑顔を見ると少し辛いという彼女の胸中はいかばかりだろう。

 ひととして、老いゆくひとにできること。何か上手く言えないが、ひとはひとであるために生き、ひとであるまま死んでいけないものだろうか。


 今はもう秋。父はまだ中有というところにいるらしい。
がん告知、延命治療、年を取るということ、両親が病気になり、ずっといくつかの問題が私の中には根強くあって、父の納骨が済んでから改めて書いてみたいと思っていたことだが、友人のDiaryを読んだら、父がどこにいても父も私も気持ちに変わりはないのだと思い書いてみた。答えはまだ。



  武市半平太
2004年10月15日(金)  

 「竜馬がゆく」の一巻から7巻までを読んで、最も印象に深かったのが、竜馬の朋友武市半平太の切腹のくだりだということは、少し前にこの場に書いた。

 海外で日本のことを少しだけ知る外国人と話をしたことがあるひとは覚えがあるのじゃないかと思うが、こちらが日本人だと知ると必ずといってよいほど言われる言葉にはフジヤマ、ゲイシャ、サムライ、ハラキリ、スモウなどがある。

 国にもよるが、ヨーロッパの世界地図では日本という国は地図のほんの端っこの方に、よくよく見ないと見つけだせないような小ささで載っている。学校の授業で世界を学ぶときに、この地図の位置や大きさはそのままその国を学ぶ比率に似ていて、こんな小さな国はあまり大して知識を与えてはもらえないから、未だに日本人は着物を着て生活をしていると思われようが、香港は日本だろうとか、ジャッキー・チェンは日本人だろうとか言われても仕方のないことである。

 とにかく、私がよく聞かれたことに、サムライは何故ハラキリをするのか?ハラキリとは一体なんだ?というのがあった。何で自分のお腹を切って死ぬのかが不思議で仕方がないのだろう。

 そのような時、私は、今考えるといい加減なことばかりを言っていたような気がする。気がするというのはあまりよく覚えていないからだが、武士とはそういうものなのだ、というような事を、忠義であるとか正義であるとかなんとか適当なことを言っていたようだ。私の中には何となくだが、そういうセンスが知らず知らずのうちにあったのだろう。それは子どもの頃から見ていた時代劇のせいかも知れないし、何気ない会話の中にごくごく自然に切腹ということがあって、それが何となくそういうものだと勝手に想像していただけなのかも知れない。

 「戦国時代、幕末には喜んで命を差し出すという武士が沢山いた。ほとんどの武士がそうであったようである。思想のため、忠誠のため、潔白のため。司馬遼太郎によれば、「死にたがっている男たち」が沢山いたのである。

 武士の切腹。最期がどのようであったか。どうみごとに腹を切るかが、「おれはこんな男だ」と自分を語るもっとも雄弁な表現法であるとされた。死は美に高まり、限りなく美しいものでなければならない。こうした自律、美意識は、そんなときに凛々として生気をおびてくるようだ。

 後々語られる、いかに生きたかその生きざまより、いかに腹を切ったかその死にざまにこそ美意識が終結していたようである。ある意味ナルシストである。三島由紀夫が、最期の諸肌を脱いだ時に最も綺麗に見える彫り物を彫ったことに繋がってしまう。だから武士の家では、男の子が元服をする前に、入念に切腹の作法を教えたという。

 司馬遼太郎は
「日本人に死を軽んずるという伝統があったというのではなく、人間の最も克服困難とされる死への恐怖を、それをおさえつけて自在にすることによって精神の緊張と真の自由を生みだそうとしたものだと思う。その意味では切腹は単にそのあらわれにすぎないが、その背後には世界の分化しの中で屹立しているこの国の特異な精神文化がある。その是非を論ずるのではない。ある、ということを知るだけでよい。」
 と書いている。
 そして、私もそう思った。

 妻子も同じ。武家の家に生まれ育ち、武士に嫁いだ女たちは、また同様にいつ死を向かえてもよいという心構えを持っている。夫に何かあれば、その死に殉ずる覚悟はもとより、女の子にも同じような教育をする。新しい着物に着替えてその時に向かう。表で遊んでいた子どもたちが
「お母さま、着物はまだ着替えなくてもよいでしょうか」
と思い立ったように聞きに帰ることが再三あったという。

 さて、武市半平太の切腹である。
彼はその最期のとき、どのような切腹法をとるかと考える。彼は見栄っ張りだから、ひとのやらないことをやりたいと思う。
 
 半平太によると、
 ―以下引用
(切腹には三つの方法がある。普通は腹一文字にかき切るのだが、このほかに十文字に切る法、さらに横三文字に切る法。できればひとのあまりやらぬ三文字の法をやりたい)
というのだが、どころで藩吏どもがそういうことに無知の場合、せっかくやっても
―――半平太めはついに脳乱しおった。
といわれては物笑いになるだけだ。
そこで、武市に心酔している獄吏門谷貫助という者をよび、
「わしはそういう切腹をやる。そんな古法があるのだということを心得て、後日、人がそしるときの証人になってくれ」
 といった。
 しかし半平太は、ながい牢獄生活で衰弱しきっている。それをやってみせる体力があるかどうか、自分でも自信がつかなかった。
 ―以上引用
 
 彼はこの時一体何を着ようかと思い悩んでいたが、形見の品になる自画像を妻富子に送ったとき、富子はいよいよ「もう御切腹か」とさとり、夫の最期の日のためにととのえておいた身長の衣類、晒の下着、浅黄紋付の上着、絹帯と袴を差し入れる。半平太は、この配慮を大いに喜び
「わが一生の仕合せは富子を得たことであった」
と、にこにこ牢役人にのろけたらしい。


 明治維新は、フランス革命にもイタリア革命にもロシア革命にも類似していない。きわだってちがうところは、徳川三百年の最大の文化財ともいえるべき「武士」というものが担当した革命だということである。

 余談だが、イタリア語のアルファベッドにはHがないので発音もない。ハラキリ(harakiri)をイタリア読みすると、アラキリとなる。
イタリアで、ピーナッツのことを Arachide(アラーキディ)というが、これは殻つきピーナッツがお腹を割ったように二つに割れるからだという。ハつまりハラキリが語源であると聞いたことがある。そして実際に殻つきピーナッツをハラキリ(アラキリ)と言っていた。

 
 そして・・・
 武市半平太は、まるで芝居に出てくる塩冶判官(浅野内匠頭)のような美しさであったという。



  遊び
2004年10月13日(水)  

ネットの中の読み物を読んでいると、書いているひとの思考回路がなんとなくわかってくるような気がする時がある。この場合の思考回路とは、そのひとの性格だとか、考え方だとか、好き嫌いだとかそんなこと。それが何となく伝わってきて、発想の面白さや、不意をつかれたような考え方が面白かったりする。何かピンと感じるものがあると、足繁く通ってしまう。

 考えてみれば私は好き嫌いははっきりしている方だと思う。それが良いか悪いかよく分からない。でもそのせいでネットの世間を狭くしていると感じないわけでもない。

 しかし、ひとのものを読むことと、そのひとと関わりを持つことは全く違うから、読むことに好き嫌いを感じるのは当たり前で、関わるときが来たらどうするか、それはその時に考えようと思ったりしている。

 私が面白く感じるのは、そつなく手短に書かれたものではなくて、起承転結があっちこっちに転んでも、その間に流れるそのひとの思考を追うことができるような書き物に出会ったときで、だから一般的には『長い』とされる物が好き。その部分にこそ膨らみというものがあると思うし、書き手の思い入れが最も感じられる部分だろうと思う。

 長いといっても、どのくらいでそれを感じるかはひとによるが、このDiaryなら、10行くらいで終わってしまったら、それは著しく短い方だと私は思う。膨らみを抜きにして何かを語ると、それはただあることの羅列の延長みたいで、面白いと感じられない。

 書くまでもないと思うが、面白いというのは、オチがあるとかお笑いに走るとかそんなことではない。あくまでも「ふんふん♪」と耳を傾けられるものということである。

 更に、ものの引用や、古人の格言を持ち出して訓示をたれるといった愚かな書き物はちっとも面白くないどころか、鼻につく。そういうものを読むと、物腰が常識的であろうと、なにか一段高いところから物をいっている姿が目に浮かぶ。何となくだが、そこにそのひとの人となりを感じないわけにはいかない。

 膨らみは余裕だ。遊びだ。感じる人となりにユーモアのすき間もないと虚しいと思うのは私だけかしらん?



  心のすきま
2004年10月06日(水)  

 昨日は一日中雨が降り、気温も冬の始まりのようだったのに、一夜明ければ今日の天気は快晴で、昨日より10度も気温が高い。
今日は父の三七日で、お寺さんがお経をあげに来てくださった。
昨日あんなに雨が降ったので、まさかこんな天気になるとは思っていなかったが、父はやはり晴れ男なのかも知れない。
しなければならない細かな用事も少しずつ片付いて、四十九日の納骨、法要までにはまた少しはかどるだろう。



 このところ、ふと思うことがある。今の私が、父がまだ入退院を繰り返している頃の私に比べると、自分でいうのもおかしいけれど、なんとなく穏やかな気持ちになっているということ。

 考えてみれば、あの頃はいつも先の心配をしていた。病気がわかればではどうするか。手術と決まればそれはいつ。入院はいつでその前には何回診察があって、検査があるか。退院後の受診や検査、生活上の注意点、何をしなければならないか。今こうだから、来月はどうなり、その次はどうだ、と常に常に父の体と先のことを考え、何かしら心配というものから気持ちが離れることはなかった。

 そして多分、そのことに終わりという文字は見えて来たことはない。高齢であるために、何かしらの心配が常に付きまとう。それはとてもやりきれないものでもあった。一体どうなってしまうのか、心の中には常にそういった気持ちがあった。

 ところが今、その全てがない。父に関しては心配ごとがまるでない。今している様々な整理は、心に憂いを与える心配ではなく、ひと言でいってしまえば全て事務処理。電話をかけ、書類を取り寄せ、必要事項に記入捺印、再び返信。そうした一連の作業は、面倒ではあるが何も憂うことなどない。

 考えてみると、死んでしまうということは、もう何も心配をすることがなくなるということだ。そのことに私はつい最近になって気がついた。でもそれは、この心配がなくなればどんなに気楽なことだろう、と思っていたときに望んでいた在り方ではない。が、とにかく父はもういない。望むと望まざるとに関わらず、父は記憶の中にのみ生きていて、そのまま変わることもない。だから父のことを心配することはまるでない。

 たとえ間に死が挟まっていても、心配ごとが減るとひとは穏やかな気持ちになるのだろうか。少なくとも今の私はあのころに感じた様々な感情の起伏が減っている。情緒はっかなり不安定だったのではないかと思う。少しのことでへこんだり、とんがったり、感情的にとても忙しかったと思う。肉体的にも忙しく、気持ちの上でも忙しく、そうと気がつかないだけで心の余裕はまるでなかった。間違いなく、今と違う自分がいた。

 しかし、思い出して何であれほど、と思うこともある反面、やはりあれは正当だったのではないかと思ったりもする。つまりその時の私は、そんな時ばかりひょっこり顔を出した別の人格ではなくて、私の中にもともとあるもの。何事もなければそこまで露骨に表出しないものなのだろう。自分の中の仔細な自分。感情の一つ一つが大きくクローズアップされたようなそんな感じ。

 人間ダメな時は何をやってもダメだとかいうが、だから静観、あるいは諦観できるのは、もっと心に余裕のある時のことだと思う。実際に心身ともに追いつめられれば更にあがく。そんな気がする。そして、更に辛くなる。その繰り返し。だから辛い。そして、そこから抜け出すことがなかなか出来ない。出来ているようなつもりでも、実は出来ていなかった。

 父がいなくなり、父のことで充満していた心の一部、そのすき間に今までの私が居直り、少しばかり余裕が出来ているのじゃないかとそんな気がする。
それは、全く思いもかけない気持ちである。



  目は心の窓なのよ
2004年10月03日(日)  

 今更ヨン様の話題である。
冬ソナというTVドラマが話題になり、ヒーロー役のヨンなんたらの人気が沸騰して、世の中ヨン様ブーム、ひいては韓国イケメンブームというのがあった。

 ある時TVでニュースを見ていたら、そのヨン様とやらが来日する日の空港の場面が写り、彼の乗った車が走り出そうとする時に、ガードマンのおっちゃんたちが体を張って阻止しようとするのをものともせずに、車に轢かれそうな勢いで『ッギャーッ!!』と群がる女たちを見て悲しくなったものだが。(だって馬鹿みたい)

 一体そのヨン様とやらはどんな顔をしているのかと思えば、ひと目見てこれはイケないと私は思った。私の個人的好みだと、ちょっと油断するとすぐに太り出しそうなあの顎線は許せない。男の下膨れ、ぷよぷよした肉感はどうにもこうにも生理的にダメである。従って、『冬ソナ』なるドラマも見たことがない。⇒正確には『冬のソナタ』(なんてことは知ってるよってか)


 私の友人は、ヨン様にはまった別の友達から、あのドラマを是非見るようにと言われて我慢して見たそうである。どこかケチをつけてやろうと思ったらしい。
初めは「ふ〜ん何て臭いセリフ」と思っていたのに更に我慢をして続きを見るうち、いつしかどんどんハマってしまい、今じゃすっかりヨン様びいき。ミイラ取りがミイラになったわけである。

 一体ヨン君のどこがいいのかと聞いてみると、あのドラマの作りがそもそもひと昔前の日本のドラマの作りのようで、何だかとても新鮮、純真な気がするのだとか。
撮影の技法が少し古いらしいのである。

 そして、肝心のヨン君だが、彼が心からクサイせりふをいう時、必ずカメラを直視しているのだそうだ。すると何だかまるで見ているこちらに向かって、じっと目を見つめて話しているような気持ちになってしまうのだそうだ。すると視線を外せない・・・、らしい。

 その場に流れる曲がまたいい。気分はすっかりヒロインなのだ。もう何度も目を見つめられて、それは素敵な言葉を言うのがたまらないらしい。ハートをわしづかみ!ってやつだろう。だからドラマはビデオに撮って、家族のいないときに1人密かに見るのが正道なんだとか。


 かねてより感じていたことだが、日本という国は、じっと相手の目を見て会話をするひとがとても少ない。たいていの場合、目線はどこか別なところにあり、言葉だけが行きかっていると感じることが沢山ある。

 それを感じることがどんどん増えていて、私はひとの目を見て話をする方だから、ひとの目がどんな動きをしているのかが良くわかる。「いらっしゃいませ」から「ありがとうございました」まで、1度も目の会わないお店の店員も少なくはない。そうなると、接客業も相手はひとではなく、接客というコンベアの上にただ乗っ取っただけの一連の動作である。

 私の職場にときどき来るひとに、必ずこちらの目を見ているひとがいる。そのひとは話をしている間中、じっとこちらの目を見ていて、何かを説明をしながら目を上げると、じっと見つめるその視線とこちらの視線が合うのである。私も目を見て話すから、客観的に見れば見つめ合う二人ではある。そのひとの目は更に力があり、とても魅力的なのである。そういうひとは印象に深く、目を見て話すという当たり前のことがいかに稀少かと思い知らされる。

 やはり目には力が欲しい。照れてはにかもうが、伏し目がちであろうが、視線をそらしていると力がない。感覚的にやましさや卑屈さに繋がって何だかとっても魅力がない。だからヨン君がモテルわけが少しだけ分かったような気がするのである。誰だっていいのだ、しっかり目を見つめていさえすれば。そういうものではないだろうか。

 しかし、微笑みの貴公子だか何だか知らないが、どうでもいいけど微笑むときにいちいち歯を見せるなと個人的に私はいいたい。



  ごみに悩む日々
2004年10月02日(土)  

 週末はゆっくり〜したいのだが、今日も明日も仕事!
今週初めの日曜日も仕事だったので、とりわけ今日のような秋晴れの気持ちの良い日には、ひとが休んでいるのを指をくわえて見るような気分。

 あ〜、人間って何て勝手なんでっしょ!
もとい、私って何て勝手なんでっしょ!だ。
日曜祝日に出かけると、どこへ行っても人人人!だから、平日にゆ〜っくりしたいと思うのに、今日みたいな日曜にみんなが日曜モードでいる中を仕事に出て行くのはツマラナイ。

 特に月末月初は忙しく、こうして土日がつぶれるのは今に始まったことではないにしても、だからと言って完全に土日仕事の職業というわけでもなく、中途半端なんだよな〜。



*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*





 10月1日から横浜市内のうちで6つの区のごみの出し方が大きく変わった。
このために『ごみと資源の分け方・出し方』というパンフレットが配布され、パラパラめくって見ていたが何と複雑!ごみの回収は、資源の回収と意味づけられ、リサイクルできるものはリサイクルするように、ごみというごみがことごとく分別されるようになったのだが。

 大きく分けると
・家庭ごみ(燃やすごみ)
・使用済み乾電池
・スプレー缶
・燃えないごみ
・プラスチック製容器包装
・缶、びん、ペットボトル
・小さな金属類
・古紙
・古布

の9項目に分かれていて、それぞれ回収の曜日が異なるわけである。

 今までは週に三回、古新聞や、缶、ビン、ペットボトルの区分けがあったものの今回のような細かな分け方ではなかったので、それほど面倒ではなかったのだが、これからはかなり変わる。

 例えば以前書いたが、生ごみはビニールの袋などに入れてそのまま出すと、早朝に目の効くカラスの餌食となり道路にカラスにつつかれたごみが散乱して悲惨なことになるので、中身が見えないように古新聞や広告紙で包んで出していたのだが、今度はそれはいけないらしい。新聞は古紙の部類で4つに畳んで紙テープで縛らなければならない。だから、昨日生ごみをこうした紙で包んだごみ袋はことごとく置いて行かれてしまった。

 ではどうしたら良いのかというと、油を吸わせたり汚れた新聞紙で包めば良いというのである。それは家庭ごみとみなすらしい。汚れた新聞は家庭ごみ。

 プラスチックの容器は、全て洗ってから出す。納豆の容器もヨーグルトの容器もコンビニの弁当の容器もマヨネーズの容器も全てである。判別するひとへの配慮らしいが、これをやっていると水道が馬鹿にならない気がする。

 古紙は新聞やダンボール、紙パックや雑誌がそれにあたり、それぞれまとめかたが違う。箱のようなものは全て平たく広げて新聞は新聞、ダンボールはダンボール、たばこの外箱もこれにあたるからいちいち広げて括るわけである。古紙の回収は月に一度。雨の日でもかまわないが汚れたものは出してはいけない。

 古布になると対象物は衣類、シーツ、毛布、カーテンなどで、カーペットやマットレス、布団は粗大ごみだとか。汚れたものはダメで家庭ごみになるんだそうだ。しかも濡れるとリサイクルできないので雨の日には出せないとか。回収は月に一度。古布って一体何に使うんだろうね。

 これだけのごみの分類があると、一体どこへ置いておけばよいのだろうか。パンフレットには索引があって、分からないものは調べることが出来るが、こういうことをお年を召した方にさせるのは難しいことではないかと思う。

 いやいや、お年を召した方じゃなくて、私にはとても難しい。(笑)
そんないちいち考えてやってられないわ。というのが正直なところ。
こういうのは習慣だから、いずれ身につくのだろうか、誰もが難なく出来るようになるのだろうか。摩訶不思議。

 これで、平成22年の横浜市の人口の伸びを上回るごみ排出量を、平成13年度に比べて30%減らすのだそうである。
なので、このところごみを捨てるたびにいちいち悩んでしまう日々なのだ。




Copyright©*momo* 2001-2006 (Prison Hotel)