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2005年05月24日(火) 姿が見えなくなるまでずっと手をふり続けるということ。

■新宿三越に新しくJUNKUDOが出店し、かなりの規模らしいと聞いたので、仕事帰り、早速行ってみる。ルミネに出来たBook1st.にがっかりしたばっかりなので、余り期待をしすぎずに。
 大阪に旅の仕事で行くたびに通っている難波のJUNKUDOほど空間を贅沢に使っていないものの、品揃えの良さ、売るべき本の際だたせ方には、かなりぐっとくる。背の高い書棚が整然と並ぶ様も、外国の図書館みたいで、わたし好み。時間がなかったのでざっとフロアを散策し、あっという間に紙袋一杯の本を購入してしまった。

■その中には、浦沢直樹氏による、手塚治虫「プルートー」リメイク版の第二巻も。
 第一巻は少年のようなアトムの登場で終わっていた。そして、第二巻では、近未来を生きるアトムのことが、少しずつ紹介されていく。
 かなり高性能な人工知能を持った彼は、人間の真似をして生きるうち、真似であった行為が日常行為になり、人間の感情も獲得しながら暮らしている。それも非常に純粋に。
 アトムに危険を知らせるために来日したロボット刑事の帰りを見送るとき、アトムは彼の姿が見えなくなるまで手を降り続ける。ロボットである刑事は思う。
「そのコはずっと手を振っていた……見えなくなるまでずっと……私は胸がいっぱいになった……ロボットの私が……」

 先日、この前向きポジティブなわたしが、もう死んでもいいやとまで思って、知らない街を彷徨い続けたことがあった。(なんでそんな気持ちになったかはおいておいて)かなり自分をやばいと思ったわたしは、まあ、それがわたしの生命力なのか、独りでいちゃあいかん、危ない、と、迷惑を省みず、地に足着いた人のところに行こうと、友人に電話をかけた。その彼女が翌日は昼夜二回公演を控えていると知っていたし、幼い息子娘もいるというのに、まったく迷惑省みず。でも、彼女は、快く迎え入れてくれた。

 午前二時過ぎ。熱いお茶をいれてもらい、わたしはただただ泣くばかり。ちょっとおさまれば、このところの母の病気の顛末を話したり。彼女は彼女で、今の仕事がどんなに楽しいか、夜中に静かにうきうきしてみせる。
 その日おばあちゃんのところに行っていて不在だった小学生の息子の部屋に布団を敷いてもらって、わたしは眠りについた。独りになってもまだ泣いていたけれど、もう大丈夫だと思った。

 翌日の朝。友達とは言え、彼女の家に行くのは五年ぶりくらいだったので、新しい家族である四歳の娘とは初顔合わせ。出来損ないの大人が寝ぼけた顔して現れて、「こんにちは」なんて挨拶するのを、テレビを見続けたまま無視している。画面に展開する野生動物の生態に見入っていて、わたしなど目に入らない様子。ぎりぎりに起きてきたこともあって、わたしは、娘とはまた訪れて出会い直そうと、お礼を言って早々に彼女の家を出る。

 玄関まで、我が友人である母と一緒に、娘も見送ってくれる。わたしが「またまともな時に来るよ」と外に出ると、母が手をふり始める。娘も手をふり始める。とっても自然に。歩き始めてふり向いたら、母も娘も、まだ手をふっている。またふり向いたら、まだふっている。玄関から駅への曲がり角までは200メートルほどもあるのに、母と娘は、わたしの姿が見えなくなるまで、手をふってくれていた。
 わたしは角を曲がったとたんに涙があふれてきて、止まらなくなって、路地に隠れてタバコを出して、一本を長く長く吸いながら、目に焼き付いた、母子の手を振る姿に感謝した。それはとっても素敵なことだった。思いがけない、生きる力のプレゼントだった。

■姿が見えなくなるまでずっと手をふり続けるということ。
 姿が見えなくなるまでずっと手をふり続けるような気持ちで、人と関わり続けること。
 相手が誰であれ、姿が見えなくなるまでずっと手を振り続けるような愛情を、持てるということ。


2005年05月22日(日) 最近。

■ようやく暖かくなってきた。さいたままで出勤するのに、わざわざ新宿までは自転車で通勤してみたりする。でも、今夜は雨に降られてずぶ濡れ。濡れても暖かく、気持ちのよい雨だったけれど。

■最近は、仕事のスケジュールが少し楽になったので、自分の時間が多い。

 本を久しぶりに読み耽ったり。(新潮クレストシリーズ、デイヴィッド・ベズモーズギスの「ナターシャ」は抜群の面白さだった!)

 恋人と喧嘩して、泣きながら知らない夜の町をさまよったり。(自宅に帰ったら何をしでかすかわからない状態だったので、1万円のタクシー代を払って、古い友人の家に泊まった!)

 リハビリに励む母に2時間かけて手紙を書いたり。(罪なことに感動させてしまった。正直に素直に書いたつもりなのに、あまりに感動されると、嘘八百きれいごとを並べてしまったような罪悪感に襲われるのはなぜ?)

 デパートに寄り道して、たくさんの化粧品を衝動買いしたり。(夜、寝る前にお気に入りの基礎化粧品で肌を整えるのは、何よりの幸せ。快い香りもテクスチャーも、自分へのご褒美。)

 恋人と仲直りして、豪華な夕食と、幸せな朝食を作ったり。(最近は、特製クロックマダムの朝食がいちばん幸せ。)

■最近。仕事仲間の旦那さんが交通事故で亡くなった。昔の劇団仲間が自殺した。知り合いのスタッフが自殺した。そして、母は奇跡的に死の寸前で生に戻ってきた。
 自分自身の生きている足場がぐらぐら揺れるようなことが続いても、天気がよかったりするだけで、扉を開けて外に出て行くのが楽しい。不安に怯えて眠れない夜を過ごしても、まずは扉を開けて出て行くことができる。そして、笑うことができる。わたしは健康だ。わたしは生きている。



 
 

 
 


2005年05月15日(日) 五月はまだ肌寒く……。

■新しい仕事が始まる。今年に入って、3作目。前年から引き続いての仕事をいれれば4作目。ちょっと過剰か? 仕事に追われて、ちっとも私的読書の進まないのが悩み。まあ、最近は母の病気にまつわる時間が大きかったのだけれど。

■その母。この間の帰省、看病が、奇跡的な結果を生んでしまったことを先日書いた。母はさらに、支えを使って歩き、尿管につながれたパイプを外して自分で排泄することを覚えた。その進捗は素晴らしい。
ただ、日常的に母を支えている父には、少し申し訳ない。
親不孝の限りを尽くしてきたわたしが、たった4日間で、この上ない親孝行娘に、母親の中で化けてしまった。電話をかけてきては、わたしの名を呼んで、恋しがる。娘に依存してる感じ。それって、母の中で生まれてしまったわたしの虚像かもしれない。父のことばに、このところ、ちょっとしたジェラシーを感じることさえある。……しばらく帰らない方がいいのか? それとも、本当の親孝行をするために、いくらでも無理して、母の元に帰ってあげるべきなのか? 
なんとも贅沢なことを考えられるようになったものだ。生きてるって、こういう細々した感情の堆積なんだなあ。ああ、よかった。生きててくれて。
そうだ、これからは父への親孝行をも、考えていけばよいのだな。とは言え、しばらくは仕事にひたむきに過ごさざるをえないのだけれど。

■母の生を喜んでいたら、古くからの仕事仲間のご主人が、突然の交通事故で亡くなったという報せ。お通夜に駆けつけると、顔を見るなり、「一人になっちゃった」と抱きつかれ、ことばもない。死は、ときとして、カードを裏返すように易々と訪れて、生きてることを当然のことみたいに安穏と受け止めてる自分をまごつかせる。


■寒い日が続く。サンダル履きにはまだまだ日がありそうなので、通勤用のウォーキングシューズを購入。稽古場が埼玉県なので、さすがに自転車通勤とはいかず、少し寂しい。新しい靴で、軽やかに歩いて、寒い5月をそれなりに味わおう。通勤路のバラたちは、それでも、5月を楽しんで咲き誇っている。


2005年05月06日(金) 生きてるって素晴らしい。

■夕刻からの打ち合わせに出る支度をしていたら、父から電話がかかってきた。毎日、深夜、わたしが仕事から帰るのを見計らって、父は「今日の母」についての報告電話をくれる。昼にかかるのは珍しい。

電話に出ると、なんと母の声が聞こえてくる。

■わたしが先日帰ったとき、母は、単語でしかことばでのコミュニケーションが出来なかった。しかも、わたしは、母の妹の名前である「礼子ちゃん」でしか呼んでもらえなかったのだ。それが。

母がちゃんと文章でしゃべっている! 接続詞ってものがちゃんとあって、思いが連なっていく。母にことばが戻った!

母は、わたしへ「ありがとう」の気持ちを伝えたくって、電話してきてくれたのだ。

■父からの電話によると、母はわたしが帰京してから、奇跡的なスピードで復活を遂げている。

病院にいる間、長らく使われないため壊死しそうになっている足が痛そうなので、わたしは何度も何度もマッサージしてあげた。栄養不足と乾燥でしわくちゃになった足に、肌に優しいクリームを何度も何度もすり込んであげた。3日もすると、肌がつやつやしてきて、母は「きれいな足が戻った」と父に誉められ、うれしそうだった。

そのマッサージが功を奏したのかどうかは分からない。でも、わたしが帰った翌日、母がわずかな時間ではあるものの、自分の足で「立った」というのだ。足が足として機能せず、車いすに移動するときも、体重がほんの少し足にかかっただけでも顔を大きくゆがめていた母が、なんと、立ったというのだ。

わたしは、娘として認識されているのか分からないままに、母とわたしの話をたくさんした。幼い頃からの、母との思い出話。まさに、母の死が近いと医者に告げれた時、わたしの脳裡を過ぎった思い出たちだ。母が理解していそうになくっても、楽しい話として、いい話として、たくさん話した。

その話が、どう母の中に積もっていったのかは分からない。でも、わたしが帰った翌々日、母は父に、「自分の名前を覚えて、書けるようになりたい」と願った。そして、自分がなぜこんな病院にいるのかを知りたいと願った。それから、母のことばは、体系的に、驚くべきスピードで戻り始めたらしい。

わたしが行ったとき、母はまだ「食べる」ことが下手で(食べ方を忘れているのだ!)専門の看護士さんがついていないと食べることができず、鼻から食道にいれたパイプで流動食を摂取していた。
看護士さんが「なかなか食べてくれないんですよ」とこぼしながらも、明るく真剣に母に食事を摂らせてくれている間、わたしは母に、母がどれだけ料理が上手だったかを話した。小さいときから作ってもらったたくさんの料理の話をした。母がどれだけタフな胃を持っていて、どれだけ大食漢で、どれだけグルメで、我が家がどれだけ食べ歩きをしてきたかを話した。食べることの楽しさ、喜びを、一生懸命話した。わたしがそうしていると、看護士さんは、「一緒にいてくださると、お母さんずいぶん食が進むようですね」と喜んでくれた。

わたしが帰ってから、母は、進んで食べるようになったと父は言う。そして、なんと、あの不快な母の鼻に突っ込まれた管が抜かれたらしい。自分の口から、必要な栄養分を摂取できるようになったのだ。


■わたしは、どこからどこまでも、親不孝な娘だ。どこを切っても金太郎ってな具合に、わたしの中に親孝行な部分なんて、まったくなかった。それは今も変わりないと思う。
仕事に体してはいつも全力であたる、そして仕事で出会う人たちは全力で愛する。でも、両親には、血の繋がった甘えで、愛情を形にすることを、まったくしてこなかった。

そんな出来損ないの娘に、母が電話口で「ありがとう」を繰り返す。目が熱くなった。親不孝な娘に、母が体をはって親孝行する瞬間を作ってくれているような気がした。

■母の現在を見て、いちばん驚くのは、執刀医だろうねと、父と話した。何度、「これが最後かもしれません」と呼び出され、仕事の後、最終の新幹線で実家に帰ったか。植物人間になっても生かすか生かさないか、そんな選択を迫られたこともあった。手術後、母は一ヶ月強、眠り続けていたのだ。

■記憶が完全に戻るまでには、まだ時間がかかるだろうし、支えなく立てるようになるには、辛いリハビリの毎日を耐えなくてはならない。床ずれは目もあてられないほどひどく、痛みを思うとわたしの胸は詰まる。

それでも、母は生きている。きっと、生活者に戻れると思う。人間ってすごいなあ。なんて素晴らしいんだろう。

■さて。たまたま一般の人の休みと重なったわたしのOFFも、今日で終わり。明日からは新しい仕事。
東京と地方をまわったあと、ニューヨークに持っていく芝居だ。またまた、気合いをいれて立ち向かおう。





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