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■仕事は順調。予定より1時間も早く仕事が終わったので、温泉の出る銭湯へ赴く。レンタルしたママチャリを駆って。
露天風呂で、頭寒足熱、すっきりした頭で、N・ホーソーンの「ウェイクフィールド」を読む。あまりの面白さに、温泉の気持ちよさどころではなくなってしまう。こんな短いストーリーで、これほどに深々と人間を描いてみせるとは!
このところ、読む本読む本、うまいなあと思わせても心に残らぬものが続いていた。
久しぶりに、文学の力に感じ入る。
■今日から地方公演のため、マンスリーマンション暮らし。借りる時は忙しいさなかだったので、劇場が紹介してくれた物件を、調べもせずに契約した。入ってみると、生活用品はそれなりに揃っているけれど、六畳にベッドと卓袱台と座布団の、まるで学生に戻ったような部屋。正座してキーボードをたたくなんて、何年ぶりか?
年末に準備を全て終え、正月2日に初日を迎える。
わたしにとって挑戦とも呼べる仕事は、順調に進んでいる。心身共にくたくたになって1日を終える日が続いたが、その疲れも心地よい。忙しくても寝なくても、合間を縫ってしばしば恋人と会う。それによって精神が満たされていることも、わたしを支えている。
■緊張と集中の仕事が終わると、心身共にぐったり。1日の努めは、それでもなんとか果たせたらしい。プロデューサーから、今日の仕事を労われる。体力温存のため、このところは電車通勤。眠りは足りているはずだったのに、疲れたのか帰りの電車でぐっすりと深い眠りに。起きたら最寄り駅から数えて8つも先の駅だった。電車のシートの片隅をまるで自分のベッドのようにして眠ってしまった。
■リラックスしたくって、帰ったらすぐにぬるめの風呂につかる。いつもは読みかけの小説を持って入るのだけれど、今日はもうこれっぽちも頭を使いたくなかったので、ファッション雑誌を持って。ブランド物の何百万もするコートだのスーツだの、贅沢ホテルだの、エイジング化粧品だの、何気なくページをめくっているとあっという間に1時間近くがたち。驚くほどの汗をかいて、明日へのリセット完了。あとは寝るだけ。ベッドには次の小説「ウェイクフィールド」を持っていく。
■最近どうしようもなく筆無精なわたしだが、現在の恋人に知り合ってから、8ヶ月、1日も休まずメールで恋文を送り続けている。書くことは苦手という彼だが、それでも必ず短い返事を送ってくる。いったいいつまで続くのか? わたしは、こと恋となると、飽きるとか慣れるとかを知らない人なので、この関係が続く限り、新鮮な気持ちで書き続けるだろう。一生書き続けられたら、いい、などと、少女のように、夢見る。
■どうも好きな小説の、好きな物語の、傾向が変わってきている。
絲山秋子氏の「袋小路の男」を読んで、そう思った。ちょっと前だったら、きっと好きだった。人間誰しも持ち合わせる自意識やら他者への依存心、悲観と楽観のいったりきたりを、指さえ触れぬ奇妙な恋の中で丁寧に描いていく。うん。きっと前だったらとっても好きだった。でも、今は感じないんだな。
きっと、人と人が、事象と事象が、ぶつかってないからなんだろう。恋を描いているというのに。
自分が、たくさんの他者と、肉弾戦のようにぶつかりあって仕事している時期でもあるし、心の落ち着かぬ青年と、激しくぶれあう恋をしているからだろうか?
自分を傷つけない気楽な内省には興味がない。メイ・サートンや秋元松代のような、激しい内省に心が動く。
■明日、わたしの仕事の流れの中で、ちょっとした勝負の日。若い売れてる俳優たち、年上の難しい俳優さんたちと渡り合う。頑張りどころ。それなのに、今夜は肩の力が抜けていて、悪くない感じ。さて。明日、大仕事の真ん真ん中にいても、このまま楽にやれるかどうか? きっと気負ってるんだろうなあ……。
袋小路の男 |
| 糸山秋子著
出版社 講談社 発売日 2004.10 価格 ¥ 1,365(¥ 1,300) ISBN 4062126184 |
「あなた」とは指一本触れないままの12年間、袋小路に住む男にひたすら片思いを続ける女を描いた究極の純愛小説。川端康成文学賞受賞の表題作を含む3篇を収録した短篇集。『群像』掲載を単行本化。 [bk1の内容紹介] bk1で詳しく見る
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■去年と今年の夏、一緒に仕事した俳優の仕事を観にいく(聴きにいく)。生きる力を他者に惜しみなく分け与える、素晴らしい歌声の持ち主。
一緒に仕事をしている間は、わたしの能力の限り、彼の才能をバックアップしようと思うし、それ以外のときは、熱心なファンになる。今夜も、ただただ彼の歌声に酔い、彼が表現者として内包する感情の振幅の大きさに舌を巻いた。
それなのに、ロビーで会ったマネージャーが、彼が落ち込んでいるのだとわたしに伝える。で、終演後楽屋へ。わたしは、彼がどれほど素晴らしいかを言葉を尽くして伝える。ひたむきに彼の悩みを払拭しようとする。共に苦労して作品を作り上げた時間が、お互いの信頼関係を生んでいるので、彼はわたしのことばを、100%信頼して受け止めてくれる。長らく楽屋で話し合ったあとは、「○○さんが今日観てくれて、本当によかった」と、嬉しげに表情をゆるめている。
自分のような平凡な才能の持ち主が、彼のような天才に力を与えることばを持っていることに、わたしは驚き、自分の仕事、自分の来し方を振り返る。無駄なことばかりではないのだ。
■わたしの師匠がこの秋そりゃあ名誉な賞を受けて、その受賞を祝う会が昨日開かれた。師匠の仕事に関わったあらゆる俳優、あらゆるスタッフが顔を揃えると、そこは、わたしにとってはなんだか同窓会のような様相を呈し。
一本の仕事を共にすると、短くて2ヶ月長くて5ヶ月くらい一緒に過ごす。そして、千穐楽を迎えると、ぱったり会わなくなり、その活躍を、劇場だのテレビだの映画館だので、見守ることになる。そうして出会い、別れてきた人が、もう、これでもかってくらい集まってきて、わたしは浮かれ気味に会場を歩き回り、抱擁や握手を重ねた。
わたしの過去、わたしの記憶が、彼らという鏡を得て、甘くも苦くも、たちあがってきた。
■わたしはナルシズムに欠ける人間な分、他者という鏡を必要とするのかもしれない。
■昨夜、荒れに荒れた恋人は、今朝には穏やかに凪いでいた。迷惑をかけたこと、わたしへの甘えを詫びて、自分の狼藉ぶりを恥じてみせた。
彼もまた、わたしの鏡だ。
かつて確かにいたわたし、もしかしたら在りえたわたし、目に見えるわたし、目に見えないわたし。様々なわたしがそこに映りこんでいる。
2004年12月12日(日) |
生きていること自体が祝祭。 |
■毎日少しずつ書く、ということが、できない。このサイトを開いたときに掲げたアイザック・デネーセンのことばは、宙に浮いたまんまだ。
■今、進行中の仕事も、次に控えている仕事も、真っ向から「愛」をうたう作品だ。そして、わたしの私生活は、他者を愛することの悦びと戸惑いで泡立ち続けている。
仕事のため、そして、わたしを揺さぶり続ける感情を鎮めるために、小説を読み続けていた。
水村美苗の『本格小説』は、ただただ、「純然たる愛」を語るために、あらゆる文学上のお膳立てが為された作品だった。いや、小説を書くことが天命であることを自認するために、最も文学的な素材を俎上に乗せて、物語を享受する悦びを、読者と分け合おうとするもののようでもあった。
『嵐が丘』と酷似した物語を、読者であるわたしはひたすらに追った。そして、愛しあうべく出会った他者を愛しきることのみが、生まれてきたことの意味であり、生きる意味である、男と女の、幸と不幸に酔った。
辻邦生との往復書簡「手紙、栞をそえて」を読んだとき、わたしは水村氏と自分の読書体験があまりに似通っていることに驚きを覚えた。幼少期から少女期青春期と、読書することで世界を知り、読書することで現実から逃避し、読書することで他者と自分の関係を探っていった者たちだけが知る、甘やかな共感を、彼女の作品に感じる。
在る夜、突然、自分の乳房にしこりを見つけ、どう見ても、どう触れても、それは乳ガンの如きものに見え、夜通し恐れ戦き、意を決して仕事を休み(わたしにとって仕事を休むことは、相当意を決した結果だ)、検査に赴いた。総合病院ゆえの待ち時間は3時間に及び、硬い椅子に座ってわたしはこの『本格小説』のページを繰り続けた。すると、声高な台詞でもなんでもなく、ちょっとした描写のついでに出てきた一行に、心奪われた。
『生きていること自体が祝祭。』
このことば。
わたしも、このわたしも、祝祭としての「生」を享受しているのだと、目の中が熱くなった。
■わたしの仕事場は、その時々の稽古場、その時々の劇場、と、いつも所在が移っていくのだが、よほど遠くない限り、雨が降らない限り、自転車で通う暮らしが続いている。片道15キロくらいまでなら、ちっとも遠いと感じない。 水の好きなわたしは、隅田川を渡ったり、お濠端を流したりするだけでご機嫌だし、走っている間、自分の脳が心地よく空虚になる感じが好きだ。自分の足で、ぐいぐいと自分が移動していく流動感が好きだ。バイクの疾走感とはきっとちょっと違う。どちらかと云えば水泳に近い。自分で自分を、ぐいぐいと前に推し進める運動が連なって、流線を引いていく感じ。
しかし、お金のなかった20代に、電車で移動することしか知らなかったことを悔やむ。いや、まあ、悔やんでも仕方ない。今はただただ、愛車ビアンキとの偶然の出会いを喜ぶのみ。
■秋元松代の全集を借りて、片っ端から読んでいる。栞として添えられている、彼女の日記抄は、創作に生きるべき自分と、孤独を内包した自分との、闘いの記録だ。
わずかだが引いておく。
「 (師である三好十郎の俳優座上演は)慶賀し、また正しく競争意識を持ち、好適の出現と考えるべきことだが、心のどこかには、激しい憎悪を感じた。自分の卑小さ狭さを恥じながら、先生を憎まずには居られない。憎め、憎め、と心に叫ぶ。その憎しみを作品と生活にたたきこんで燃えろ。人に語るな。また人に対して行動するな。語れば敗れるぞ。語れば滅びるぞ。黙れ。沈黙して書け。」
「仕事のやり方と、生活の保持について体得した。体の云うことをきいてはならぬ。体に相談する必要はあるが、なだめたりだましたり、はげましたりしてやれば、体は精神に従う。必ず仕事のために働く。これが生活信条とならねばならぬ。」
「(自分を老人呼ばわりする人間たちを嫌忌して)私よ、お前は勇気を持ち、ただ一人で、生きられる時まで歓びを持って生きていくのだ」
「(代表昨となった『常陸坊海尊』を書き終えて)これでわたしの一切は償われた。苦しかったこの一年。何よりも爽やかな作品として終わったことの喜び。単純化と象徴化。書いているあいだの自由な魂のこと。作品はこのようにして制作されねばならぬ。各人物は私の命令を奉じた。それは私は彼らをよく知り掌握していたからだ。格闘はなく、解明と鮮明化と装飾を施す喜びがあった。むろん格闘はあった。しかしそれは、私をして書き手としてグラウンドへ立たせる格闘であり、各人物は私の統率の下にあった。ああ、私は生き、そして何事かをなした。しかし、この喜びを告げるべき人はない。」
■わたしが今、心身を傾けて愛している男は、若く激しく、荒ぶった精神の持ち主だ。すでにわたしが忘れてしまった、若いとき独特の、在るべき自分と現実の自分との差異に、煩悶して生きている。
時折、漠然とした怒りが飽和状態になって、ほぼ意味なく猛り狂うことがあったりする。破壊的な行動、わたしに対する嘘や精神的ないたぶり。わたしはかつての自分を見るように、ただ彼に寄り添って、嵐の過ぎるのを待つ。嵐のあとは、必ず、うねりは凪ぎ、風が塵をはらって晴れ渡る。……しばらくの間は。
今夜がそれだった。交番で暴れそうになっているのを救出したものの、道路でわめき転がり、道ばたのあらゆるものを蹴り倒したあげく、高級住宅の門に飾られたたいそう風流な電灯をたたき割った。
我が家にようやく連れ帰ると、玄関先に転がったままになった彼の手からは、血がどくどくと流れていて、わたしは玄関先に座り込んで、止血し、治療してあげる。
今はわたしのベッドで眠り込んでいる。目覚めれば凪いでいるはずだ。
そしてなぜか、嵐の前より、また少しお互いを求め合う気持ちが強まっているはずだ。
わたしたちは、お互いの空虚を埋め合うようにして愛し合い、今や相手が塞いでくれた穴にまた風が通り抜けることなど、想像もできない。
彼のどこが好きかと聞かれても、わたしは答えを持たない。ただ、わたしに必要な人が現れた、というしかない。そして、相手も、同じように思っているということ。
愛することも、愛されることも、人並みに、いや、人並み以上に、知っていたと思う。でも、愛情を交わすことの悦びを、この人でわたしは知った。いつかこの人が去り、わたしに風穴が開くのだと想像すると、気が狂いそうになる。