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2001年07月21日(土) |
ハリー・ポッターに憂さを忘れる夜。 |
現在、午前3:32。興奮の内に、ハリー・ポッター第3巻を読了。
明日も昼公演ではあるが、今夜佳境を読み始めてしまったのだから、止まるわけもない。彼らと冒険を共にして、時間は過ぎ、今もこうして興奮冷めやらぬまま、久しぶりに書いている。
仕事は、山あり谷あり、ともかくも順調。仕事上の憂さは、拍手を惜しまない観客の存在で晴れることだってある。
プライベートでは、わたしの経験則上、あまり喜ばしいことではないと思われることに、溺れるというか足を突っ込んでいて、それが理由で毎日なかなか書く気になれない。他者のからんでいることだけに、自分の意志だけではどうしようもない。いや、それにしても、闘うべきは自らの弱さか?
今夜もまた、こんな曖昧なことを書いてお茶を濁す。ハリー・ポッターの幸福な読後感が、わたしを励ましてくれてはいるけれど。
時間が経てば、あれこれが笑ってすまされるようなことになるだろう、なればいいと思って、仕事だけはきちんとこなして毎日過ごしている。
仕事をしているだけでは物足りなかったわたしが、面倒なことに足をすくわれる今、仕事に支えられている。
2001年07月19日(木) |
このところ。引き続き。 |
このところ。
わたしは仕事しかしていなくって。それで、仕事するわたしがどうにも一人歩きしてしまって、困ってしまうことしばしば。
今夜も、突然、招ばれた宴席でヴィップ扱いされて戸惑ってしまった。ある有名なる歌手の演技指導をずっとしていただけのことで、彼女の信頼を得ているだけのことで、各界のお偉方が腰を低くしてわたしに名刺を差し出すのである。
もう見るものすべてが「不自然」で、面白くって仕方ない。
わたしは常に、相手が誰であろうがやるべきことをやっている。しかし、今夜わたしに平身低頭していた親父たちは、いったい何を根拠に仕事しているのか? 少なくとも、わたしを大事に、立てることが、今夜、大歌手の機嫌を損なわない近道に思えたのだろうなあ。
なんだか哀しい。
哀しい中で、なんとか、つまんないことに左右されず、自分のやるべきことを見つめていきたいと思う。
権威に溺れていく大人たちのことが、少しずつ我が身のこととして分かるようになる。ただ、現在の仕事を離れてしまえば、わたしは相変わらず誰でもない。
そのギャップをたのしみながら、わたしは自分のやるべきことを今夜も考える。
話は変わり。ハリー・ポッターを読んでいるうち、幼い頃ならではの恐怖感を思いだして、空き時間に立ち寄った本屋で化け物怪獣の図鑑を買ってきた。
ウルトラQとウルトラマンで育ったわたしは、今でも夢の中で、神出鬼没の「ダダ」に襲われる。アナ・トレントとフランケンシュタインの関係ほど美しくはないが、わたしの幼児期に、ダダがどんなに影響を及ぼしたか・・・・。
決まり切ったように見える世の中で、何を正常とみなして生きていくのか。
いやいや、長らく疑いもなく常識と見なしていた感覚を、あっさりと無に帰して新たに「識」を組み直すことが、現在の表現者に課されていることなのだろうと思う。
仕事をしている時間以外。毎日溺れて、毎日酔っぱらって、わたしは現在どうしようもない人だ。
まともな自分が帰ってくるまで、待っててやろうかなと思っている。
それまでは、ここに書いていることも支離滅裂なことになるかもしれない。
この日記を書き始めて、最大の危機だな。だって、書かなくっても生きていけるし、書くべきことは余りに複雑なのだもの・・・・。
このところ。
とあることに溺れていて、更新がままならない。仕事に自分の時間をほぼ奪われている上に、別なことに溺れてしまえば、もう寝る時間もない。
我ながら、なんて単純な人間かと思う。
芝居の出来がいいと、気分がいい。悪いと、嫌な気分になる。
舞台稽古から休演日なしに一週間以上やってきて、明日ようやく休める、という疲れもピークの公演。疲労がたまって声を潰した俳優を、まるで我が子を案ずる母親のように見守って1日を過ごした。一回りも二回りも年上の俳優を、である。
そういう職業なのかもしれぬし、それがわたしの性(さが)なのかもしれぬ。
明日は、休演日。ドライブに誘ってもらったので、ドライブへ。わたしはきっと子供に戻る。
結婚していないせいか、それもまた我が性なのか、遊びにいくとなると、「子供ごころ」にすぐ回帰してしまうのがわたしの常だ。
今から、着ていくことに決めたワンピースの丈詰めをする。山に向かうというから、川遊び用の着替えも用意しよう。リュックにビーサンを詰め、サングラスだって二通り持って、はしゃいではしゃいで、車の中で歌を歌って迷惑がられる。ああ、楽しそう。
ウキウキすると、またきっと眠れないだろうから、これまたウキウキして「ハリー・ポッター」の続きを読もう。ホグワーツ魔法学校の生徒になって、夜を過ごす。
ああ、こんな阿呆なことばっかり書けるのは、まさしく明日がお休みのせい。ありがたい!
2001年07月14日(土) |
仕事のあとはハリー・ポッター。 |
本日は、2回公演。いろいろと事件が起こって、なんだか気疲れでくたくたになってしまった。帰宅して、ただぼうっとしている。
日本中の人が、今そうかもしれないが、毎日暑くて寝付きが悪い。
今日の救いは、本屋でハリーポッターの3巻目を入手してきたこと。
明日を迎えるためのリフレッシュ、今夜はこの本とともに。
無事初日を開けて(多少のトラブルはあったが)、今日で5日目。
相変わらずの劇場暮らしで、ようやく夜1回公演かと思うと、ついつい前夜飲み過ぎたりして、結局、人として機能しているのは、仕事している時だけ。
世事からは遠くなるし、かつてのように僅かな時間を利用して何か書こうというような動きもない。心震わせる何かは、仕事場以外になく、自分からそれを産み出そうという意志がない。いや、ないはずはないのに、ちょっとくたびれているのだと思う。良き触媒が天から降ってきたりしないものか・・・。
ただ、たまりにたまっていた肉体の疲れは少し和らぎ、猛暑の中、自転車を飛ばして劇場に通ったりしている。渋谷まで、本来なら30分の道のりを、はじめは地図も見ずに飛び出したから迷いに迷って、1時間ほどもかかってしまった。今は近道を教えてもらい、走りやすい道をすいすいと快適に走っていける。うっすらと二の腕が日焼けしていくのも楽しい。
若い頃から、日焼けを恐れたことなど1度もない。皮膚が老化するなら、するにまかせよ、と思って夏を過ごしてきた。確かに肌はくたびれてきたかもしれないけれど、それは年相応のもの。親から与えてもらった体を大事にしようとは思うけれど、あまり惜しんで使うのもどうかと思う。思い切り使い切るってのが、やはり気持ちよいのではないかしら?
もうすぐ、40歳になろうかというわたしだが、いつまでも元気な不良でいたい。ふらふらと自由でいたい。たとえ、そのために捨てるものがたくさんあっても。
2001年07月08日(日) |
わたしの仕事の原動力。 |
今日、舞台稽古を終えて、やっとこのページを更新しようという余力が戻ってきた。
11時には家にたどり着ける日もあったのだが、何しろ仕事のことが気がかりで気がかりで、それ以外のものは何も手につかなかった。ただ、翌日の仕事のことを考え、翌日のために眠りをとり、仕事場にいけば仕事以外の何もない。とにかく、心配で仕方なく、出来上がるべき舞台のことばっかり考えて暮らした。
明日の初日を控え、まだ不安材料だの努力すべき点だのは残っているのだが、少なくとも、「見えた」。
今ないものを望むのではない。今あるもの、今できることを、最高の状態に持っていくことが、わたしたちの仕事だ。それがなんとか出来そうな見通し。それが「見えた」のだ。
初日を控えた緊張とともに、テストの最終日を明日に控えた高校生のように、ちょっとばかり解放された自分の身の振り方を想像してワクワクしたりもする。と言ったって、OFFはまだ1週間以上先なので、ただ、読みたかった本がガンガン読めるぞ、といった程度のものなのだけれど。
まず控えているのは、ギュンター・グラスの新作、「わたしの一世紀」。これはなんとも面白そう。扉を開けるのが楽しみである。
さて。
わたしはこうして、連日連夜、仕事のことで知力と体力を振り絞り、また、人間関係から生まれるものに一喜一憂しながら、細々と、それでも生き生きと暮らしている。将来への不安や現実への苛立ちは山積みだが、それでも、毎日が楽しい。
それで。
今日、最寄りの駅に降り立ち、いつものように自転車置き場にたどり着くと、入り口にバットを持った少年が立ちはだかっていた。大変な身の危険を、わたしは感じた。一度通り過ごして、また戻り、それでも彼がいるので、仕方なく反対側の入り口から入って、彼の立ちはだかる近くに停めてあった自分の自転車のところまで行った。
結果から言えば、何もなかったのである。彼は、たまたまバットを持ってたまたま人を待っていたのかもしれない。それでも、一瞬、わたしは、「こんな時に理不尽に襲われたり命を落としたりすることだってありうるのだ。そうすると、わたしは今日の眠りをとることも、明日仕事場に行くこともできないのだ」と感じた。実に冷静にそう感じながら、バット少年の前を通り過ぎた。
どんなに自分の生活と真摯に向き合い、苦しみ楽しんでいても、そんなものは一瞬で無に帰されてしまう可能性のある時代だ。
わたしたちをこの生活に、現在に、つなぎ止めるのは、髪の毛1本くらいの危うい幸運によるのだ。
その幸運を、とてもありがたく思う。だから、同じ幸運を享受して、明日劇場にくることを楽しみにしている観客に、ちゃんと劇場にたどり着けた観客に、少しでも良いものを、と思う。
こんな時代でも、こんな国でも、わたしは同じ地平に立つ人たちと、生きていることを喜びたい。それが、わたしの仕事の原動力だ。かっこつけてるわけでもなんでもない。愚かしくも一生懸命暮らし、ぎりぎりのところで闘っていると、そんなことをチクチクした傷みとともに感じるのだ。
さあ、また明日がやってくる。いつもと同じだけれど、わたしにとって、いつもと少しばかり違う明日、だ。