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2001年05月31日(木) |
眼前の仕事に没する。 |
どうやらわたしは休んではいけない人らしい。
不眠を抱えて仕事場に向かったら、目の前の問題をクリアしていくことに熱中している。昨日迷っていたことなど、何処へやら。
いやいや。霧消してしまったわけではないのだ。悩みなど抱えていたら勤まらない激しい現場であるということだ。いずれにしろ、幕が開くまでは走り続ける宿命なら、今は考えるまい。って云うか、本当に、休まない方が肉体と精神のバランスが崩れない。うーん、困っちゃうなあ。
愛する季節五月は、湿った雨の1日で終わった。
明日から、もう、6月。また夏を迎える。そしてまた、梅雨を越さなければ。
2001年05月30日(水) |
雨を触媒に、膨れあがる、我が思い。 |
今日は貴重な完全OFFだった。
貴重だ、と、働きづめだった昨日までは思っていたのに、当日になると、やるべきことを何ひとつしなかった。たとえば、銀行でなすべきことや、ちょっとした買い物や。
これまでの不眠を取り返すかのように11時まで眠り、起きて洗濯をしたとたん雨が降りだしたところで、何やら出鼻をくじかれた。急にぼうっとしてしまい、一度も家を出なかった。煙草がなくなっても、買いに行く気にならなかった。
自分が思っている以上に疲労していたことと、ちょっとした心の迷いがあったことと。
雨というのは、時としてとんでもない触媒になって、我が心身の状態を悪変させる。
我が迷いのことを書こう。
今、舞台に慣れない俳優と毎日のように自主稽古をしている。稽古時間中には、もちろん、演出家や音楽家や、様々な人が導いているのだが、それがなかなか実を結ばない。
人を導いていくには、心を伝えるために方法を伝えるために、どうしても「ことば」に頼る。どんな風に話せば伝わるか、どんなことばを使えば理解してもらえるか、様々な直球やら変化球を使ってことばを投げかける。
一人の人を複数の人間が指導していると、それはそれはたくさんのことばが飛び交うことになる。それぞれの「ことば」に対するアプローチは違うから、それぞれの口から様々なことばが生まれてくる。どれも、ある人を良い方向に導いていきたいという純粋な心から生まれたものであるのに、「ことば」たちは、どうも一人歩きして、相手の心を乱し始める。そして「ことば」を発するわたし自身は、ことばを弄しているような気がして、自分の饒舌に嫌悪を覚え始めるのだ。
即興で生まれ出て、死んでいく、わたしのことばたち。それは、ちゃんと機能すれば、我が現在の輝かしい証にもなるのだろうが、そんなことばはきっと数少ない。
結果が出ないから迷っているのではない。
たくさんの口から、コントロールされない「ことば」が大量生産されることに、ちょっと疲れているだけだ。乱れ飛ぶことばの風景の鬱陶しさに、つい我が身を省みてしまうだけだ。
もうひとつの迷い。これも時々わたしを襲うもの。
商業演劇をやっているからとは言え、どうしてこんなに無駄なお金を使うのだろう、ということ。
予算を下回る上回る、といった次元の問題ではなく、「芸術」の名の下に浪費されるお金のことが、わたしは気になって仕方ないのだ。
そんなのは無駄に使われていく税金や、世にまかり通る黒いお金のことを考えれば、比較にもならない金額なのだろう。しかし、文化や芸術が人の心に及ぼす善と、その代価の相関関係が狂っているのではないかと、時折、疑問に思ってしまう。
わたしはいい歳をして、実に「金」のことにウブなのだ。欲がない。ギャンブルなど、考えも及ばないつまらない人間で、働いたら働いた分もらえればいいと思っている。たまに働いた分もらえないことがあっても、また働けばいいと思ってしまうほど。その代わり、不正にはことごとく腹をたてる。金の魅力で動いてしまう人間にも同様だ。
まったく、お金というものを前にすると、19世紀を生きたラスコーリニコフのように、わたしは人生に迷ってしまう。
こういう時、わたしは母に電話をかける。お金のことが分からなくなると、必ずそうする。
母は先日も書いた通り、父の失敗の借金を倍にして、現在の商売を開業した人だ。
若い元気な頃は、船に乗って離れ島にお得意さんを開拓しにいった。大洪水で島自体が機能しなくなった時、ほぼ未収だった売り上げを簡単に諦めた。取り立てもしなかった。
たくさんの売り上げを盗まれた時、警察沙汰にはせず、一人で説得を続けた。結局かえってきた金額は半分そこそこだったが、母はわたしに「盗人にも三分の利って言うからな」と笑っていた。
母には、お金に苦労してきたからこその鷹揚さがある。また、苦労してきたのに、お金に心を振り回されたことがないから、嘘をついたことがないから、「そんなことは人生の重要事ではないのだよ」といつも気楽でいられる。
21世紀を生きる、頭でっかちの、ラスコーリニコフ的な一途さを持つ、このわたしは、いつまでたっても母にはかなわない。
とまあ、ぼんやりと、そんなこんなを考えながら部屋の中でほろほろしていると、あっという間に1日は終わってしまった。
もちろん、今はめちゃくちゃ後悔している。
なんでこんな貴重な1日を、もっと有意義に過ごさないんだよ!って。
稽古場では。日毎繰り出される演出家の無謀な要求で、スタッフはてんやわんや。神経の休まる暇も、体の休まる暇もない。ただひたすらに、前に向かって進むのみ。
五月雨、という言葉は美しいけれど、重い鞄を抱えて1時間半かけて通勤する身には辛い。これから梅雨に向かってイヤな季節になっていく。雨も、1日中家にいて読書に浸れる日などは喜ばしいが、働く身には鬱陶しいだけ。
「雨に唄えば」のジーン・ケリーみたいに、どしゃ降りの雨さえ嬉しくなってしまうような、心浮き立つことが起こらないものか? まず無理だな。こんな仕事漬けの日々では。
とにかく、明日も早起き。運命共同体のスタッフたちと、頑張っていくしかない。
2001年05月26日(土) |
別れ道と、我が現在。 |
人生に於いて、これかあれかという、二者択一を迫られるときは、誰にだってあるだろう。
わたしは、今日、それを強いられた。重なってはいってきた仕事のオファー。そのひとつに断りを入れた。
選択をする時、自分の現在が見える、と、わたしはいつも思う。利益で選ぶのか、しがらみで選ぶのか、恩義の度合いで選ぶのか、興味で選ぶのか、選ぶ基準はその時々であるからだ。
そして、今日の選択が、余りに自分のこれからに対して無謀であったため、わたしは喜んでいる。普通わたしならこちらを選ぶのが当たり前だという世の読みの逆をいく勇気があったことを喜んでいる。
今夜はプロデューサーがわたしの慰労にと美味しい食事とワインをごちそうしてくれ、その後恋人(とわたしが呼ぶ人物)と美味しいテキーラを飲んで語り明かしたものだから、そこら辺のことを具体的に書く理性が残っていない。言ってしまえば、酔っぱらって書いている。
ただ、これだけは、事実。
なんであれ、別れ道にでくわした時こそ、それを選ぶ時こそ、自分の現在が見えるということ。
しばらくじっくりと本を読んでおらず、欲求不満気味。本屋に寄る時間もないので、未知の作品のページをめくっていくワクワクが味わえない。
昨夜は、最近再読していなかったお気に入りの本をベッドに持ち込もうと、書棚をしばし眺め、ポール・オースターの「ムーンパレス」を手にとった。
書き出しからドキドキする。自分の日常から遠くてうれしくなる。
わたしの現在の日常は、社会人として、ドーンと責任を負ってしまった、分刻みの生活。「ムーンパレス」の主人公は、フィジカルにもメンタルにも、金銭にも自分の未来にさえも囚われず、大学生活を始めた青年。その自己陶酔的で破壊的で盲滅法な人生哲学が懐かしい。うれしくなって、眠気がすぐに訪れ、読んでいるうち知らぬ間に眠ってしまった。
現在の生活を愛しているし、大きく路線変更したいとは思わないが、こうして書物の中で、ありえた自分、ありえたかもしれない自分の人生を体験することができる。それは喜び以外のなんであろうぞ。書物(特に物語だな)の中には、眠れる自分が、時として、いる。揺り起こしちゃあマズイものをいっぱい我が身に飼っているから、わたしはここまで書物に傾倒するのかもしれぬ。
珍しく12時前に帰れたので、返しそびれていた図書館の本をブックポストに放り込んできたり、不在のため受け取れなかった書留を遠くの郵便局まで自転車飛ばして受け取りに行ったりと、なかなか忙しい深夜の時間を過ごして、この時間。お風呂につかって、さあ、また、明日。
2001年05月24日(木) |
なるべくしてこうなっている、今の生活。 |
夕べはいそいでベッドに入ったものの、12時まで仕事をしていた精神の熱が冷めやらず、ちっとも眠れなかった。わたしにはままある、「眠り方を忘却した」状態。
仕方ない。雨の音でも聴きながら、何かのんびりしたことでも書こう、と、ベッドにPowerBookを持ち込んで色々とキーボード相手にひとりごちていた。
昨日、初日の稽古は本読みだったが、翻訳者や作詞家に稽古場に来ていただく最初の日でもあった。ところが、翻訳の先生が、なかなか到着しない。どうしたんだろうどうしたんだろう、と、心配していると、時間ぎりぎりにニコニコしていらっしゃった。そして、
「来る途中で銭湯を見つけましてね、ちょっと入ってきたんですよ」とおっしゃる。
本読み自体は5時半からだったから、まあ、銭湯に行くにはちょうど良い時間。でも、やきもきしていたわたしたちは、アララララ、と腰砕け。
実はこの先生、銭湯好きで有名な人なのである。鞄の中には、街を歩いていて心魅かれる銭湯を見つけたらすぐに入湯できるよう、湯浴みセットが常に入っているそうだ。
大学を退職してから、翻訳と文筆の仕事をされているが、その自由でマイペースな時間の使い方を、心から羨ましいと、わたしは常々思っている。
それは隠居ののんびりさなどではない。社会的な時間の呪縛から逃れて、どうしたらせかせかした生き方をせず、ゆったりたっぷりと生きられるかを、若い頃から模索してきた人が、今ようやく自由に時間を使える環境で、より伸び伸びと世界を自分の息と足で歩き始めていらっしゃるという、実に前向きな「のんびり」なのである。
美しい生き方だと思う。羨ましいなと思う。
しかし、それには、強く頑な個の力と、柔軟な世界に対する融合性が必要だ。
わたしは、個人として、まあだまだ、そんなに強くはない。
思い当たる人も多いのではないだろうか? スケジュール表が、外からの働きかけで何も埋まらない生活というのは、けっこう大変なものである。すべての時間を自分一人の意志で埋めるというのは、強靱な精神の持ち主にしか耐えられない種の孤独であろう。
ってな風に、のんびりした先生の銭湯タイムを想像し、翌日の自分の更なる「せかせか」ぶりを思い描いていたら、とろとろと眠気が訪れてきたのだった。
本日。やはりせかせか働いてきた。通勤に1時間半かかる現場で、10時から10時半までの労働。そりゃあ疲れるよ。土日に休めるわけじゃなし。これからずーっとこのペースが続く。ああ。でも、やっぱりShow must openだし、Openしてしまえば、Show must go onなのだ。
仕事が忙しければ「休ませろ!」って思うし、仕事してないと現場が恋しくなる。いつもないものねだりのわたし。でも、いつも決まった時間に会社に行って、いつも同じ曜日に休んで、といった生活には馴染めなかったろうし、結婚して家に閉じこめられれば外界での刺激が欲しくなるだろうし、まあ、今の生活は当然の帰結と言うべきか。
しゃあないなあ、明日もしっかりやってこよう。
稽古初日。
忙しい、とかそういうレベルじゃないな、これは。
8時に朝食をとってから、夜11時まで、食事を摂るということを忘れていた。それでも、やりたいこと、やってあげられなかったことが、たーくさん残った。きっと当分こんな生活が続く。
0から何かを立ち上げるということは実際たいへんなこと。しかも50人以上の人間がひとつのことに向かうのだから。
こんな時だからこそ、家に帰ってからひと呼吸ついて、しばらく何事か書き付ける時間が必要なのだとは思うが、今夜も明日のために今すぐ眠りたい。昨日もそうだった。
うーん、でも、書き続けるぞ。
一つのことに入れ込み過ぎている時は、きっとそういうクールダウンにだってエネルギーを注ぐべきなのだ。
神様、内緒でわたしに、毎日1時間ずつ余分にくれませんか?
ああ、わたしは三国一の働き者だ。
いや、働いたというよりは、俳優への愛情とエネルギーを全開にして、しゃべり動いて、時間を忘れた。ただただ不安で恐れるばかりだった俳優が、集中した稽古で疲れていてもニッコニコして帰っていった、そのほころんだ笑顔が唯一のわたしへのご褒美。
我が体内の強力長持ちバッテリーは完全放電。
後は眠るだけ。
2001年05月20日(日) |
めまぐるしい二日間。 |
めまぐるしい2日間だった。
昨日は。朝からの歌稽古を終え、作詞作業の続き。また楽譜と首っ引き。全曲が終わり、作詞家はようやく好きな釣りに行けるとほくほく顔。
仕事が一段落したところで、オーチャードホールへ。楽しみにしていたパコ・デ・ルシアのコンサート。フラメンコギターに血をたぎらせて、また仕事場に戻る。
仕事を終えるとまた午前2時近い。遅い遅い夕食をとりながら飲み始めると、パコのギターを聴いたせいか、ワインは美味いし、プロデューサー相手に、なんだか将来を熱く語り始めてしまい、結局5時まで。
起きた時はひどい頭痛。飲み過ぎ。最悪の気分。
歩くのもままならず、タクシーで現場へ。
本日はおととい書いた歌手の歌稽古。うまい。とにかくうまい。聞き惚れて、「今日はこれで終わりだー!」と胸をなで下ろしたところへ、「今日もどこかでお芝居の稽古お願いできませんか?」のお言葉。どろどろの体調だったが、もちろんわたしはにっこり笑って、「やりましょう!」
稽古の前にまずお食事でも、と、高級焼き肉の店へ。わたしの為に何もそこまで、という大盤振る舞い。こういうのって、断れない。正直に「わたし二日酔いなんです!」と白状して、ほどほどに食事。
久我山にある音楽スタジオにて、個人レッスン。集中して2時間たっぷり。
あったことを書くだけでせいいっぱい。今はくたくた。すぐにも寝たい。
2001年05月18日(金) |
食い扶持背負った女たち。 |
今日の仕事の締めは、とある大物歌手の演技トレーニングだった。
名もなく貧しいわたしが、名実共のスターに「教えたり」なんぞするのはちょっと笑えるが、次第にそういう機会も増えてきた。まあ、そういう立場は気にせず、一人の人間として誠実に時間を共にすると、色々面白いことがいっぱいある。
今日のお相手は、若い頃から苦労して苦労して、ようやくスターの座をつかんだ人。
今や彼女が歩くと、付き人だのマネージャーが6、7人ついて歩く。みんな彼女の才能で食べている人たちだ。表には出てこないが、まだまだ多くのスタッフがいて、彼女はワンステージワンステージ歌っていくことで彼らの生活を支えている。
実際、たくさんの人を食べさせている人のたくましさって、すごい。それらのスタッフたちに支えられて仕事がしやすくなっているのは確かなのだろうが、やっぱり、人の食い扶持をしょっている人の方が、強靱な精神をしている。それはもう比べものにならない。
わたしの頼りない男友達どもだって、結婚し子供ができたことで、どれだけか強くなっっていった。それがね、女であって、食わせてるのがたくさんの他人だったりしたら、そりゃあ、まあ、半端じゃないだろう。
そういうのが、明るさやおおらかさや、ある時はわがままぶりや不機嫌さやらでにじみ出ているのを見るのは、興味深いことだ。わたしには買っても味わうことのできない苦労やら孤独が、そこに見える。
我が母も、ずっと家族を食わせ続けてきた女だ。
わたしが小学3年生の時、父は自分で持っていた会社を潰してしまう。母はその頃、近所の宝石店で、売り上げナンバーワンのアルバイト販売員だった。
父の失敗に伴う借金を倍にして、母は宝石店を開業した。店内で待っていても田舎では商売にならないので、鞄に宝石を詰めて売り歩き、商売は次第に軌道に乗り、父は宝石のサイズ直しなどの手仕事を修得し、事務を勤めた。借金がなくなるところまで、夫婦で頑張った。
祖父と祖母、わたしと弟、そして父を、母は生かしてくれた。母は、それもこれも父の愛情が支えてくれたからできたこと、と述懐するが、やはり大した女である。
母がそうして新しい生活に思い切って踏み込んだのが、ちょうどわたしぐらいの歳の頃。わたしなんて、自分一人の口に糊するのさえままならない生活しながら、あーだこーだと理屈を並べて悩み暮らしておる。もちろん、わたしはわたしの生き方、道を選んでいるわけだから、単純な比較はできないが、それにしても、そのたくましさ、強靱さには、負けていられないなあ、と思う。
それにしても、毎日色々考えることがあるものよね。
幾つになっても、幾つになっても、きっとこうやって暮らしていくのだな、きっと。
2001年05月17日(木) |
せめて渇望し続けるということ。 |
この2、3日、わたしの書いていることは、何やら分裂症ぎみ。
仕事が楽しいと言ってみたり、これじゃあいかんと吠えてみたり、喜んだり嘆いたり嫌悪したり、どうも面倒だ。
自らとつきあって40年近くにもなるので、ある程度は見当がついている。
わたしは自分の持ち時間の半分以上を、社会人としての虚像で暮らしている。その虚像はきちんと一人歩きしていて、他者から十二分に愛されている。その虚像を「わたし」と呼んでもいいほどに。
でも、幾つになったって、どうしようもない実像がウズウズと自己主張をやめないのだな。まあ、わたしの場合は、わがまま勝手で利己主義自由主義、そしてまた感傷的でどうしようもない、そんな「わたし」が控えている。そして、自分で言うのもなんだが、社会的に認められているわたしより、こっちの「わたし」の方が魅力的だと思えてならない。
それでもって、ここのところはその「わたし」が泡だっている。
実に自由に「本人」であることを勝ち得て暮らしている作家と知り合ったことも一因だし、三好十郎のことばを読んでしまったのも、やはりそうだ。(「あなたがこれだけは、ぜひともいいたい、それをいわねば、あなたの精神の大切な部分が亡びてしまうと思うことが、一つはあるでしょう。それを分かりやすく、誰か一人の人に話しかける気持ちで書けばいいのです」)
今夜は、わたしが唯一実像でつきあっている恋人みたいな友人と酒を飲んでいた。たまたま、彼もスランプの中だった。二人して、共有できる話をしては、宙を見つめて自分のことを考えていた。
「こういう時もあるよ」とお互いがお互いを元気づけて別れた。
会ってよかった。
彼が鏡となって、新しい角度で自分が見える。
どんな時でも「渇望」して生きること。何も持っていない時期、満たされない時期、うまくいかない時期なら、少なくとも「渇望」することをやめないこと。飢えていても、渇いていても、自分に対して望み続けること。(他者に望んだって何も出てこないことは既に知っている。)
酒場に足を運ぶ前に、久しぶりに本屋へ。
エリクソンの新作を発見。喜びがまたやってきた。
酒場に足を運ぶ前に、久しぶりにCDショップへ。
フラメンコギターの天才パコ・デ・ルシアとジャズピアノの天才キース・ジャレットを購入。別のCDを持ってはいるが、重すぎて、本物すぎて、ふだんは余り聴かない人たち。
そういうものを聴いて打ちひしがれたかったのかもしれないな。
でも、家にたどり着いて聴いていると、ひどく耳に優しいのだ。天才でもなんでもない「人」が音の向こうに見える。
こういうのを「出会い」呼ぶのかもしれない、と、夜の時間のわたしは静かに思う。
2001年05月16日(水) |
もっと沈潜したいのに。 |
わたし。
昨日あれだけ調子が悪かったのに、鼻水ずるずるでどうしようもなかったのに、「今わたしは調子を崩しちゃまずいのよ!」と自分に言い聞かせて寝ると、なんだか知らないが、朝には風邪、治っていた。
これまでの経験から言うと、1週間は辛いかな、と危ぶむような状態だったのに。
まあ、確かに風邪薬は指定の2倍量飲んで寝た。それがいいのか悪いのかよく分からずに。(悪いに決まってる!)で、なおっちゃったわけだ、これが。
馬鹿だよな、まったく。
昨夜、あれだけ自分の存在を疑いながら寝ておいて、なんで朝にはしっかり元気になってるんだろう? これじゃあ、いつまでたっても同じことの繰り返しじゃあないか! 単なる働き蜂として機能するだけじゃあないか! ああ、でも、長じるにつれて獲得した責任感みたいなものが、わたしを自由にさせてくれない。もっともっと沈潜して悩み考えたいのに、すぐに立ち直って、明るく前向きに生きてしまう。「違うんじゃないの?」という心の声を聞かぬふりして。
20代の、長い長いモラトリアム期間がなつかしい。
というわけで、本日もよく働いた。
こういう時はいずれ劇場を訪れる観客のことを夢想する。わたし個人がどんな状況でどんな精神状態で働いていたとしても、とにかく、幕を開けて、観客が「いい時間」を持ち帰ってくれることを夢想する。すると、ちょっとは救われる。自分を苛むばかりが脳じゃないと思える。
少しは。
そして、今日も酔っぱらい。さて明日は、どんな1日?
わたし。
自分のことを時折、タフだとかツワモノだとか思っていたけれど。なんの、なんの。
朝からちょいと緊張して、夜、次の現場に移動して、また新たな緊張を強いられて、という1日の中で、突然の発熱、風邪っぴき。
移動の車中で寝てしまった時に、子供のように寝冷えしてしまったらしい。
それでも、稽古でしゃべりまくった精神の熱が冷めず、酒場へ。結局、ポケットティッシュ2つを使いきって、馬鹿話に興じていた。大体は旅の話。
引っ越しで金欠だし、8月まではきっと1日の休みもなく仕事しているだろう現実の中で、旅心に火がつく。
明日は比較的気楽な1日。なんとか体調を取り戻さねば。
それにしても、「わたしがいなかったらどうなるの?」と思う現場にいることの、幸と不幸。
そう自分で思いこんでいるだけで、なんにしても、自分がいなくっても、世界は動いていくのだ。
時折、本当に不安になる。
若いときの不安は、とっても夢想的で、観念の「死」に近く、今思えば、美しかった。(これはその時代の不安をとりあえず乗り越えたから思うこと。)
こうして40代を目前にしての不安は、なんと現実で醜いこと。
ここまで無事生き延びると、きっとまた違う感慨を持つ時代が来るであろうことは、知らずとも、予測できる。それでも、現在の自分の現実的な悩みに、恥じ入ってしまうのは避けられない。
物事が分かってくるということ、バランス感覚がとれてくるということは、社会人として必須のことだったとは言え、一人になるともの悲しい。
こんなことを、疲れ切って、酒に酔って、鼻水かみながら、書いているのだ。
なんとまあ、醜いじゃあないか。
「あなたがこれだけは、ぜひともいいたい、それをいわねば、あなたの精神
の大切な部分が亡びてしまうと思うことが、一つはあるでしょう。それを分
かりやすく、誰か一人の人に話しかける気持ちで書けばいいのです」
これは、劇作家三好十郎が、劇作家秋元松代に言ったことば。
今のわたしには。ないのかもしれない。
それを言わねば、亡びてしまうと思うようなことは。
2001年05月14日(月) |
なんだかんだ言って、わたしは仕事が好き、らしい。 |
新作の、最初のスタッフミーティング。
演出家が演出プランを発表。稽古を始める前の初心表明のようなもの。これでスタッフ全員が共通言語を持ち、現場に向かう。
この日がくると、いつも「さあ、やるか」という気持ちになる。
明日からはいよいよ歌稽古。苦労して作ってきたスコアが、俳優たちの声に乗り始めるという、なかなかわくわくする日である。
ボーカルナンバーのある出演者たちは、本当に様々な世界からの寄せ集め。寄せ集めと言ったらことばは悪いが、とにかく全然毛色の違う人たちが一堂に会する。
中には、六本木でジャズクラブを経営している歌手もいる。彼女には冒頭の1曲だけを歌ってもらい、その後はお店に出てもらうという変わった契約。それはそれで、なんともかっこいい。演技ははじめてという大歌手もいて、明日はその人との個人レッスンもある。さてどんなアプローチでいこうかと、わたしは楽しく悩んでいる。明日からの闘いに備えてゆっくり風呂にでもつかって、おおらかにプランを練ろう。
新しい現場に入る楽しみは、もちろん純粋な仕事の楽しみでもがあるが、未知の人たちと出会う喜びでもある。出会ったら別れ、出会ったら別れ、の繰り返しだが、だからこそ、なのかもしれない。名刺をためるのは好きじゃない。名簿とかも、ついついどっかにやってしまう方。まあ、そういうわたしのへそ曲がりは置いといて。とにかく。明日走り出したら、8月末まで止まれない、濃密な時間が、新しい人たちと始まる。
すでに新しく出会いを果たして仕事が進んでいる、作曲家、翻訳家、作詞家のお三方は、もうすっかりわたしの大好きな人たちとなっている。40代、60代、50代、と年齢は様々だが、一緒に過ごす時間は、この上なく楽しい。ファックスのやりとりをしていると、なんだか大好きな人と文通をしているように、返信をもらうのが楽しみ。
ずっと仕事をし続けてきて、新しい現場にはいるたびこうしてウキウキできるのは、やっぱり、いい。これがその内、眠りを削り、精神を削り、大変な修羅場になっていくのだと、重々承知してはいても。
普段は、恋人がいない、ギャラが安い、時間がない、と、なんだかとっても恵まれてないような気がするのだが、こうして書いていると、「なんだ、わたしってけっこう幸せなんじゃない!」と思えてくる。
ああ、欲がないな、わたしは。だから出世しないのかもね。
2001年05月13日(日) |
一年間で最も美しい二日間。だったのに。 |
昨日は朝起きた時から本当に素晴らしいお天気。しかしながら私は仕事。
ただ、場所が世田谷にある音楽家の仕事部屋だったので、「こんな美しい日に電車もあるまい」と、自転車で出発。後先のこと考えず。
世田谷線沿いの道をのんびりと行く。
もしかしたら、1年で今日が最も美しい1日かもしれないとウキウキしながらペダルを漕ぐ。緑の美しさに目が喜ぶ。穏やかな白い光が自転車の銀輪をキラキラ輝かせてくれる。どの街角も美しい。道行く人の顔は、みんながみんなほころんでいる。
ゆっくり自転車散歩を楽しみ、1時間かけて目的地に到着。
11時から仕事開始。歌詞を譜割りしていく作業。光の溢れる高級マンションでガンガン作業は進み、終わった時に時計を見て驚いた。8時半。その後楽譜を事務所に持ち帰ってから、まだまだ作業は続くのに!
泣く泣く、自転車は音楽家のマンションの自転車置き場に残し、タクシーで事務所へ。
そして。
仕事を終えたのは朝の5時半だった。完全なる徹夜。
明るくなった渋谷の街から再びタクシーで音楽家のマンションへ。待っていた自転車にまたがって一路我が家へ。妙に元気な自分を訝りながら。
帰宅はもう7時になろうかという頃。12時に目覚ましをかけてあっという間に眠りにつく。起きてみて驚いた。午後の3時。そして起きてもまだ眠い。どうにもこうにも使い物にならず、ようやく仕事を始めたのは夜の9時だった。
このようにして、わたしは、1年で最も美しかったかもしれない2日間を棒にふった。
ほんのさわりだけ楽しんで。
あーあ。
さて。
わたしはこのページをホームページミルを使って書いている。普段はほとんどワープロ感覚で使っているのだが、たまたまヘルプを開けていて、簡単にフォームが作れることを知った。で、作ってみたのだが、これがどうもうまくいかない。
自分で送ってテストしてみるとちゃんと届くのだが、早速送ってくださった方々のは、開けない。なんだか妙な添付ファイルが届くだけ。
ということで、再挑戦します。送ってくださった方、ごめんなさい。
明日からいよいよ準備してきた仕事が本格化。
8月末まで休みはないと思って働こう。
一晩徹夜したくらいでへこたれるわたしではないのに、昨日はこたえたなあ。
2001年05月10日(木) |
庭と呼ぶ場所、呼ばれる場所。 |
金銭にまつわる煩わしいことばかりが続く。2年前に申告漏れがあったと突然税金の納入書が届いたり(わたしには申告したという「記憶」があるだけで太刀打ちできない)、面倒なので仕方なく納めたら、今度は次に支払の遅延罰金を払えと命じられる。幾らになるかは分からない。連絡を待てと言われる。更には、かつての大家さんとのいざこざやら、仕事のギャラの交渉のこと。とにかくお金まわりでイライラすることが続き、胃が痛くなってくる。お金のことでうだうだ言うことがすごく嫌いだし苦手なわたしは、相手に非があることでも納得いかないことでも、自分が損をすることで逃げていた。そういう生き方がいけなかったのかもしれない。ギャラの不払いも2度体験したが、その時も、「また働けばいいや」と貧乏暮らしで我慢して凌いだりしていた。闘うことから逃げて。
仕事で闘うのはどこまでもやるが、お金のことで闘ってこなかった。そういうことのツケがまわってきているような気がする。
と、お金のことばっかり考えていると、胃は痛むし気持ちは沈むしで、まるでいいことがないので、しっかりしろよと自分を戒めつつも、気分を変えることに精を出す。
現在の借家の気にいっているところは、何度か書いたが、8畳のルーフバルコニーがあることだ。これからの季節、本を読むにもぼんやりするにも、「外」は気持ちいい。実家を離れた22年前から持たなかった「庭」の代わりのようなものとして愛している。そして、今もバルコニーに据えたテーブルにPowerBookとビールを持ち出して書いている。
著者は、庭に小亭をかまえているという。松浦武四郎の一畳書斎にちなんだものだ が、実のところは花ゴザ一枚。壁も、柱も屋根もない。ゴザを日当たりの良いとこ ろに移動させれば、採光の心配もいらない。ゴロリ寝ころぶから、野ネズミやアリ やミミズの動きにもくわしくなる。
これは池内紀氏の著書「なじみの店」を紹介するのに、朝日新聞に載っていたもの。「庭」と名のつくもの、「庭」と呼ぶものがもたらしてくれる恩恵は、とっても多い。
実家にも、ささやかな庭があった。幼い頃はその3分の2がイチゴ畑で、収穫の喜びは今でも忘れがたく記憶に残っている。大きな柿の木と、イチジクの木もあり、今でも、イチゴ・イチジク・柿は、わたしに幸福感を与えてくれる果物の筆頭だ。
庭の夢を見ることも多かった。
2週間に1度は見ていた夢。わたしと弟が、庭で遊んでいると、少し開いた門の隙間から、金色のおかっぱ頭をした女の子が、三輪車を漕いで入ってくる。兄弟の遊ぶ手前までやってきて、何も言わず引き返して行く。いつも、それだけ。同じ風景が何度となく繰り返された。当時は意味がわからないものだからなんとなく怖くって、寝るときにいつも「見ないといいあな」と思っていた。
しかし、中学生になってから、母の話で謎が解けた。わたしには死産の姉がいたのだ。生まれてすぐに息を引き取った姉。子供を待ち望んでいた父と母を大きく落胆させた姉。そして、次に生まれたわたしは、その分まで両親の愛情を一身に受けて育った。
不思議な話ではあるが、あの金色の髪した女の子を、わたしは、姉だったと思っている。わたしと弟が庭であんまり楽しそうに遊んでいるものだから、ついつい、いつも遊びにきてしまったのだ。
小学校にあがる頃には、祖父と祖母のための離れができ、駐車スペースがとられ、自営の宝石店の事務所ができ、果物を収穫することはなくなったが、その代わり、庭は、わたしの拾ってきた犬のいる場所 として機能し始めた。
とにかく野良犬とじゃれるのが好きだったわたしは、学校帰り、「気があう!」と思った犬と一緒に帰ってきた。犬がとにかくわたしについてくるのだ。まあ、今から思えば、昭和30年代から40年代のまだまだ貧しい時代だから、犬も飢えていたのだろう。わたしが給食の残りのコッペパンをあげるものだから、空腹を満たしてくれる人として、ついてきたのだと思う。
もちろん、連れ帰るたびに「そんなにようさん飼えへんよ!」と叱られて出会った場所に泣く泣く連れ戻すのだが、それでも、長らく一緒に暮らした飼い犬は、わたしの拾ってきた犬だった。
庭は「チロ」と名付けた雑種犬と遊ぶ場所になった。そして、チロと散歩をすることで、わたしの庭は広がっていった。実家の隣にあった神社の杜。すぐそばを流れていた夢前川という名の川の土手、河原。どんどんテリトリーが広がって、好きな場所、秘密の隠れ家が生まれていった。
わたしにとって「庭」はいつもささやかな幸福な場所なのだ。
例えば、我が両親はちょっと類を見ない仲のよい夫婦だが、それでも、商売がうまくいってない時などはよく喧嘩をしていたものだ。そういう時、わたしと弟は「始まったで!」と言い交わして二人で庭に出た。「終わったら戻ろな」と、二人して庭で喧嘩の終わりを待っていた。父と母の喧嘩は「すぐに終わる」と、わたしたちは知っていたのだ。 あの頃はもちろんそんなこと考えなかったが、今になって分かる。それを微笑ましく思い出せるのは、その待ち時間こそが幸福のしるしだったからだ、と。
行動半径が広がって、「庭」と呼べる場所はどんどん広がっていった。バスに乗り、電車に乗り、街に出ていって、「ここはわたしの庭だから」と言えるところが増えていった。この喫茶店に入ればいつまででも本を読んでいられる、とか、この季節のあの道は木漏れ日がきれいで気持ちいいとか、ここに来れば友達に会えるとか、あそこの店のおばちゃんは面白いとか気前よくまけてくれるとか、この食堂は安くて美味しいとか。
「庭」にいる時、人は安心できる。また、安心できるから「庭」と呼ぶのだ。
このところ、どこにいても、安心がない。どんなに慣れた街でも、いつ無作為にどんな危害に遭うとも限らない。
自分の「庭」と呼べる場所を持たない不幸な人が多いのではないかと、わたしは時々思う。安心できる場所。別になんてことないのに、「生きている」と実感できたり、自分が(世界に)祝福されていると思える場所。
そう言えば、「家庭」という言葉にも、「庭」という字が含まれているのだな。
こうして書いている内、通り雨が、2度ほど、やって来ては去っていった。こういうのは部屋の中にいても分からない。本当に、雨が通り過ぎていくこの感じ。その名前が如何にふさわしいものであるかも体感する。「通り雨」。そして、どんどん肌寒くなってくる。部屋の中の暖かさが恋しくなってくる。どんなものでも「恋しい」と感じて、かつ、それが待っていてくれることの幸福感。
ほらほら。こうして書いているとちょっと気分が変わってきた。
ああ、願わくは、わたしの様々な安心の場所が、いつまでも冒されませんように。すべての人が、安心できる「庭」を持てますように。ほんの、ほんの、ささやかな場所でよいのだから。
2001年05月08日(火) |
「もうひとつの国」そして「愛の妖精」 |
そしてやはり、雨。打ち合わせ用に資料本数冊とPowerBookを入れると、鞄はずっしりと重く、目的地にたどり着く頃には一仕事し終えた気分。歩くのはちっとも苦にならないわたしだが(この間も酔った勢いで、深夜、気がついたらタクシー2500円分散歩していたりした)、重い鞄だけはどうも・・・。基本的に手ぶらで、身軽にふらふら歩くのが好きなのだな。ま、誰だってそうか。
自由な時間があるので、ここのところ、ちょこちょことレンタルビデオやWOWWOWで映画を観ていたりしたが、"Beach"のつまんなさにはびっくりした。まあ、原作を読んで内容の微細なあれこれを知っていたから、物足りなかったということもあろうが、それにしても、焦点が甘すぎる。
原作を読み終えて、「あー、こんな本読むんじゃなかった。ああ、いやだいやだ」とわたしは本を投げ出したが、それこそが、面白かったという証拠だった。
パラダイスへの妄想、エピキュリアンとして暮らす時の、時間への幻想。それらが余りにえぐいやり方でうち砕かれていくのが、読んでいて気持ち悪かった。そしてその砕かれ方が、原初的と言うよりは、現世的過ぎて吐き気がした。
ところが、映画はやっぱり、きれい過ぎる。
原作のモチーフ全てを網羅することはできないから、描くべきことを絞り込んでいくわけだが、その中でずいぶんと時間を割いて描いているディカプリオ君の狂気なんて、もう、ちーっとも信じられない。信じられなくて、何が映画か!? それに、三角関係が崩れるところの、痛みのなさ。悦楽感のなさ。「なんなのよ、これ?」と、わたしは首を何度も傾げながら観てたね。
三角関係が持続される時の緊張感。二と一であるはずなのに、三である時はそれと気づかせない優越関係。それが二と一に別れる瞬間の、一の全否定的な痛みと、二の邪悪な悦楽感。喜びの影には苦しみがあるし、美しさの影には淀みがあるってことがあからさまにならざるをえない、そりゃあすごいモチーフなのに、なんだかきれいな水中ラブシーンが描かれるだけで。いやはや。
世の中に三角関係を扱った名作はたくさんあるが、ここでお奨めを二つ。
ジェームズ・ボールドウィンの「もうひとつの国」と、ジョルジュ・サンド「愛の妖精」。前者は絶版になってしまったが、古本屋で集英社の全集が時々手に入る。人種問題を越えて、普遍的に、一人の人間の尊厳と、他者を愛する喜び苦しみを、なんともナイーブに、かつ辛辣に、描ききった傑作。こんな素晴らしい作品が余り人に知られていないのは、嬉しいような淋しいような。
そして後者は、文庫で読める。ここでは、三角関係の二辺が離れがたく育った双子である。何の汚れもない精神が、不可避的に傷ついていくのが痛ましい。それなのに、ドラマはちゃんと生きる方に生きる方にと流れていく。素晴らしい。
昨日アップした大福みたいな顔の少女は、やがて、この「愛の妖精」というお話を聖書のようにあがめたてまつるようになる。この小説は、自分の美しさに気づいていなかった女の子が、双子に愛されることによって、どんどん美しくなっていく話でもある。愛と痛みを知る少女は、外面も内面もどんどん美しくなっていく。
継母や義妹にいじめられていたシンデレラにかぼちゃの馬車のお迎えがきて、王子さまに見初められる・・・・なあんてお話をちっとも信じられなかったへそ曲がりの少女が、心から信じてしまった話。それが「愛の妖精」。今でも大好き。時々、読み返す。
こうして薦めて、ほんとに誰かが読んでくれたらうれしい。特に、「もうひとつの国」なんて、もっと知っておかれるべき作品なのに。ちなみに、山田詠美氏も、いろんなところでこの作品に触れている。でも、絶版じゃなあ。こんなに下らない本が出回っているご時世に。
どちらも、今日みたいな雨の日にふさわしい。加えていえば、真夏の海辺の読書にも、秋の夜長の友にもいい。それが名作ってもの。
2001年05月07日(月) |
そして一年が過ぎた。 |
風の強い一日だった。この時期のこんな風を、若葉風と呼ぶのだそうだ。
空中の余計な塵が吹き飛ばされて、月の輝きは真っ白く、眩しいほど。
明日は雨だと言うが、まだ厚い雲は見あたらず、
柔らかげな雲が、
月明かりを反映して虹色の環を見せている。
きれいな夜だ。
こうして、書き始めて、1年が過ぎた。
とびっきり忙しい昨年から書き続けてきたことを思うと、
なにがしか書き続ける意味が、わたしの中にあったのだろう。
2001年05月06日(日) |
精と魂を傾けるもの。 |
今日は何も特別なことのない休日。確かに仕事の電話が10本以上かかってきて、いちいち資料を広げて色んなファックスを流す作業をしたりもしたが、でも、ずうっと家にいたのである。外に出たのは、夕食の仕度の買い物だけ。なんと、12時から2時までお昼寝なんかしちゃったし。一人は淋しいが、楽しくもある。
久しぶりにレンタルビデオを観たり、長風呂して本を読んだり、髪を染めたり。まあ、忙しい時にはとうてい出来ないことを気の向くままにやって過ごした。
今日の読書は、笙野頼子の「愛別外猫雑記」。
彼女は創作のかたわら、目白の自宅近辺に住む野良猫の保護に精と魂を傾けて過ごす。野良猫が増えるのを懸念する余り、野良猫を捕獲し、自費で去勢手術をし、里親を捜す。近所の猫嫌いや、餌はあげるけど家にあげるのはごめんだわといった無責任な猫好きたちと、日々論戦を交わす。そして、保護した猫たちの里親候補と「猫に対する考え方が違う」ため預けることができず、千葉に猫と暮らすための一戸建てまで買ってしまう。
いやはや、その熱の入れぶりは凄まじい。
ただ一度の人生の時間を何にあてて生きるかはもちろん人それぞれ違うが、誰だって持ち時間が限られていて、そうそう色んなことには時間を一度にさけないものだ。
女の場合。子供がいれば、子供の面倒を見ること、成長を見守ることに多くの時間が割かれるだろうし、生活が楽でなければ、子供の世話と仕事に時間は割かれるかもしれない。わたしのような働く一人暮らしは、仕事に没頭することと、余暇を如何に快適に過ごすかで(精神的に贅沢に、とでも言おうか)、時間が過ぎていく。
自分の人生に納得していようがいまいが、何か没頭すること熱中することがあることで、人は救われる。それが自分の生活なのだと思えてくる。また、そんな皮肉った言い方をしなくても、生活の愛しさ、生きることの意味なんてのは、人それぞれ、そこら辺にちゃんと転がってくれているもののような気もする。
笙野さんにとっては、それが野良猫の世話だった。彼女の凄まじいところは、そんなこと先刻ご承知で、野良猫たちに時間を割き、行くところまで行っちゃってるところだ。
自分が何者なのかよく知っている。自分が何をしているのかも、自分がどう見られているのかも、自分が何故そこまで猫に入れ込むかも、よく知っている。
そしてまた、分析してくれなくってもいいのに、きっちり分析してくれる。自分を。
これは読み方によれば、かなり気持ちの悪いことだ。わたしみたいに、それなりに自意識が強くって、かつ、一人で生きる女には、空恐ろしいものがある。
「そんなに自己分析してくれなくっていいよ、露悪的だよ」と作者に御意見申し上げながら、ついつい読んでしまう。
なんてったって、冒頭から「猫にも独身女にも約束の地はない」と彼女は書いた。
読んじゃうよな、そうあからさまに言われてしまうと。挑戦を受けるような気分で、読んじゃうよな。
うーん、わたしはこれから何に精と魂を傾けていくんだろう?
そう言いながら、心の中では「こうでありたい」という願いがちゃんとある。実現するかしないか分からぬ夢のようなもの。
いくつになっても、夢見ていいよね? と、聞く人もいないのに、問うてみる夜。
縁あって、50代の著名な作家とお会いした。もちろん、仕事の縁であるが。
2月3月並の寒さから、一気に5月の陽気に立ち戻った日の朝。
なごやかにお話を終えて、駅前のホテルを出る時、フロントにある大きな鏡とその横にあるロココ調の椅子を指さして、彼は何気なく言った。
「著者近影とかいう時は、あの椅子に座って撮ってもらうんですよ。で、キャプションは、”書斎にて”にしてもらうんです。だから、本買った人は、○○さんはすごい書斎で仕事してるんだと思ってる。」
ホテルを出て、駅から見える大きな神社を指さし、
「外で撮ってもらう時は、あそこの神社の池の縁にしゃがんで撮ってもらうんです。で、キャプションは”自宅の庭でくつろぐ○○氏”にしてもらうんです。だから、みんな、○○さんの家の庭には大きな池があると思ってるんです。」
なーんて、そんなことを「これぞ5月!」って感じのお陽様に当たりながら、いたずらっ子みたいな笑みを浮かべつつ、ぼそぼそとしゃべり、「それでは」と自転車を駆って去っていった作家の後ろ姿を見送っている間、わたしは、ほのぼのと爽やかに暖かいものを感じていた。その精神への感触が、なんとも見事に「5月」だった。
仕事に明け暮れたこの2、3日。その瞬間が、穏やかな長い効き目の薬となって、わたしを守ってくれている。
2001年05月02日(水) |
なんてことない一日なのに、気分は最高。なぜ? |
それにしても寒い。桜が勇み足でほころんでいった4月初旬の暖かさが嘘のよう。
今日は1日、自分で時間を使えるうれしい日。引っ越して1ヶ月。ようやく区への転入届を出しにいくことができた。
区役所は、区の北はじ、我が家は南はじ。自転車でとばして15分。のんびり漕いで20分といったところ。やりたいことがいっぱいあるので早くすませようとガンガンとばして区役所に到着し、肝心の転出届を持ってきていないことに気がついた。仕方なく引き返したのだが、おかげで「こうなったら、もうそんなに急ぐこともないわね」と、気分が変わった。
少し遠回りをして、新緑の川に沿って広がる公園を抜けて帰る。途中で美味しそうな珈琲豆の店も見つけた。気分は上々。家にたどり着き、苦みの深い珈琲をゆっくり味わった後、また区役所に向けてのんびりと出発。無事、新しい住民票と国民保険証を手に入れた。
どうもせかせか動く癖がついている。休みの日には、こうしてゆったりとした気分で街を移動する方がふさわしい。
気分のよくなったところで、次の作品の予習。おもちゃのデジタルピアノを鳴らして、歌いまくり。音楽ものをやる時は、まず音符のひとつひとつと慣れ親しんでおきたくなるものだ。そうすると、俯瞰もしやすくなる。声を出すと、悪いガスがちょいと抜ける感じ。カラオケ嫌いのわたしも、こういうのは楽しい。
更に気分のよくなったところで、夕飯づくり。今晩はハンバーグ。音楽を聴きながら鼻歌交じりで作る。玉ねぎのみじん切りも、時間があるから、飴色になるまでじっくりじっくり炒めてやる。これが美味しいハンバーグには不可欠なのだ。
焼き上がったものはすぐに食卓へ。一口ほおばって、とにかく我が料理の腕前に感動。まったく、どうしてあれほど美味しくできてしまったのか。ちょっとした気持ちの余裕で、物事はこんなに美しく運ぶものなのか。まったく感涙ものだった。
いやまして気分よく、メールチェックをしていて、「ガーン!」大ショック。
Appleからのお知らせメールが、新しいiBookの発売を告げている。重さ2.2キロ。iBookと称しながら、デザインはまるで違う。まるで小さくなったPowerBook G4。もちろんG3ではあるが、なんとDVDとCD-RWの両方が選べるのである。そして安い!
毎日マックを持ち歩くわたしのゲットすべきは、もしかしたらこっちだったのかもしれない・・・とちょっとショックを隠せなかったが、気を取り直して、愛機の15インチディスプレイに向かっている。最近、「やっぱりMacは重い!」と、長年愛用したPowerBookからVaioに浮気した友人も、今頃は歯がみしているだろう。うーん、それでも2.2キロだから、やっぱ重いのは重いか・・・。
気分のよい日は気を取り直すのも早いものだ。
これから更けゆく夜を、楽しんで仕事して過ごす。
雨が降ってきた。TVを見ないので、天気予報というものになかなか接しないのだが、明日もまた雨だというの?
ああ。あったかさが恋しい。
2001年05月01日(火) |
五月の葉っぱのように。 |
時すでに5月。このHPを立ち上げたのは、昨年の5/7。歳をとればとるほど1年が短く感じると言うし、自身、実感もしてきたことだが、この1年は長かった。仕事から仕事へと追われて過ごしたからか、それとも、自分が停滞しているからか。
日記をつけていくことも。無作為の他者に読まれてよいようにと書くことが、弾みになることもあれば、いきおい意味がないと思いこむ要因にもなり、よくぞ1年続いたことであった。時折もらう感想や励ましのメールに少なからず応えようとしてきたのだろう。そしてまた、自分の書いた文章が、思わぬ時に自らを救ってくれることもある。「継続は力なり」などと言う、手垢のついたことばを、再び信じてみようかという気持ちになってくる。
今日も5月とは思えぬ冷え込む1日。わたしの気分も天気に似て、うっすらと影が差し、弾けない。諸々の思いが流れの速い雲のように、心中をよぎっていく。
先日亡くなった作家のことを考え、「模倣犯」を書いた宮部氏のことを考える。
劇作家、秋元松代氏は、自らの並ならぬ世界への憤りやら愛情やらをいったん鎮め、作品に転化していくのだと語った。そして、俳優や演出家に一言一句でも変えられるようだと、作品としての価値はないとする完璧主義者だった。結婚はせず、老いてからは親族と一切の関わりを絶ち、壮絶なる孤独と共に生きていらした。書かなくなってからも書けなくなってからも、「作家」として生きたはずの彼女の、その孤独なる精神生活を思うと、その強靱さにわたしは言葉もない。自らの作品から得る収入で晩年を過ごし、いつまでも自分と他者両方に厳しく、最期は、自らの最高傑作が劇場にあがり、観客の喝采を浴びているさ中、苦しみもなく発っていかれた。作家として、最高の幕切れを、ご自分で演出されたようであった。強い女性だった。わたしの想像などはるかに越えて。
宮部氏の「模倣犯」を読み終えて感じたのも、作家としての彼女の、無類の意志の強靱さだ。
彼女が精緻に構築していく物語には、彼女の現世への思いが色濃く織り込まれていく。彼女の精神、彼女の手によって捏造された物語が、現世を映し出す鏡になっていく。そしてその鏡は、時に沿って、作家としての彼女の成長に沿って、より相対化された厳しいものになっていく。更にまた、これが宮部氏の最も素晴らしいところなのだが、どんな人間にも、同じく暖かい視線を注いでいる。そう、初期作品から読み進めてくると、人物の相対化の仕方と愛情の注ぎ方のバランスがどんどん絶妙になってきているのだ。悲惨な犯罪描写が多くても読後感に人肌のぬくもりがあるのは、それによるものだろう。
存在しなかった物語を存在させてしまう力業、信じさせる技術、まっすぐな視線で対象や現実を見据える自らの世界に対する位置取り。
わたしは同世代の女として、彼女の存在を誇らしいとさえ思う。そして、いつも通り、無力な自分に思い至る。
HPを立ち上げようとして最初に日記をつけた日、わたしは5月をこんな風に書いた。
また五月がやってくる。
四月を迎えて、また花の季節がやってくると思ったように、新緑の季節がやってくる。五月の葉っぱはまだ成長の途上。人の手の大きさで言えば小学校五年生くらい。葉と葉の間からまだまだ空が垣間見える。その緑はまだ淡く薄く頼りなく葉脈だってはかなげで、陽の光は思うさま彼らをすり抜けてくる。
五月は木漏れ日のいちばん美しい季節だ。
自分が自らの人生でまだ何も成し遂げていないと落ち込むよりは、歳がいくつであれ、5月の葉っぱのような人でありたい。途上であるからこその、美しさ、軽やかさ、風通しのよさ。
ざわめく心をひとり鎮めて、伸びゆくエネルギーに変えていきたい。5月の葉っぱのように。