2005年08月11日(木) |
大事なのはその『理由』 |
今日、久しぶりにいい光景を目の当たりにしました
ダイドは今、ヘルニアで毎日整形外科に通ってるんですが… 待合室で走りまわり、スリッパを投げ飛ばす子供(3、4才) そこへそのガキ…もとい子供のお母さんがしゃがみ込んで子供の目線で言いました
『ダメでしょ、そんな事したら!ここは病院で足や腰の悪い人がいるんだから人に当たって怪我でもしたら大変でしょ?だからおとなしく座ってなさい』
その言葉に目の前に座っていたダイドはお母さんに感心しました 同じ子供をもった他のお母さんがたは子供が走りまわろうが、 奇声を上げようがほったらかしだったりする昨今 そのお母さんは、頭ごなしに叱るのではなく、 何が(スリッパを投げ飛ばす)、なぜ(年寄りが多い病院で当たったら怪我をするかもしれないから)、いけないのかきちんと子供に言い聞かせていた事です
最近のお母さんや学校の先生なんかは 子供がしでかした事に対して『いけない!』と叱る事はあっても なぜいけないのかきちんと説明できない人が多いように思う
自分の価値観や(大人にとっての)常識によって何もかも頭ごなしに とにかく『いけない』『ダメ』と叱りつける
ダイドは子供を育てた事もないし、ましてや教育者でもないけれど 自分がどう育てられたかは覚えている
うちのおかんは常にダイドを叱る時 『これはこう(いう理由)だからね、後は自分でいいと思うようにやりなさい』 だった
ある意味放任主義のように思うかもしれないが 自分がこうしたらどうなるのか…それを聞けば子供というモノは 自然とそれがいい事なのか、いけない事なのか分かるものである そして自分で『いけない事』だという結論に達したなら 自分自身で勝手に納得するモノだ
叱る(してはいけない事)には何かしら理由がある 何をしたらいけないのか、なぜしたらいけないのか それをきちんと説明できないまま、ただ『ダメ!』と怒鳴るだけでは 子供だって反発するだけである 現にダイドは学校の教師でこっちの言い分を聞こうともせず とにかく怒鳴り散らすヤツには常に反感を持っていた
『ダメ!』の前に『なぜ』を教える事によって 『いいか悪いか』を自分で考える そうすれば『ダメ!』などと言わなくても 結果はついてくる そんなの理想論と言われるかもしれない そんなこと子供に言っても分かるわけないと思うかもしれない が、しかし 子供を侮るなかれ!!! 何も考えず、そんなの理解できない子供だと思っていても 案外子供だっていろいろ考えているものである そしてその考える機会をどんどん与えて欲しいと思っている気がする その機会こそが教育であり、コミュニケーションであり、 犯罪の低年齢化の進む昨今、何より求められているもののようにも思う
子供相手に限らず、後輩や部下などを指導する場合においても同じ事だと思う 指導する方が何がなぜいけないのかという理由を説明できなくて 何を教えられるのか…
きちんと理由を説明した上でその善悪を子供自身に考えさせる 大声で怒鳴ったり、頭をベシッてするのはその後でも充分間に合うだろう 強いて言えば大声も廊下に立たせたり押入れに閉じ込める必要もない 知能レベルの低い動物だって体罰と称する暴力を用いなくともきちんと躾はできる それらのどの動物より進化し、でっかいノウミソを持っている人間が できないわけがない
怒鳴る、叩くという行為が必要なのはその教育者(親も含)に 説明するだけの労力と時間と気持ちの余裕がないだけのように思う
ま、そんなことは誰だって分かっているに違いない 頭ではわかっててもそれを実行できないのも人間だ
金はないけど頭はいつでも使い放題 脳細胞が日々死につつある毎日の中で 今日は普段使っていないノウミソを利用して ダイドはそんなことを考えていました
あー、腰いてぇ…
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