世界お遍路 千夜一夜旅日記

2003年09月30日(火) 書写山で、クレーテさんにばったり

姫路着7時30分。ちょうどよく、姫路のDさんと会えた。
二人のIさん(二人とも、名字のイニシャルがIなのだ)と、計4人でまずは書写山へ。ホント、久しぶりである。
風は肌寒いが、空気は「秋」という感じで澄み切っていて気持ちいい。
登りの道からは、瀬戸内海もくっきり見えて、以前から気になっている(行ってみたい)上島まで見えている。

「いいきもちだねえ」「久しぶりなんだよね」(姫路の方々も)
などどといいながら10時前に書写山の入り口に。なんと、そこでよっさんが前に!クレーテさんもその後ろに!!
よっさんとクレーテさんが今日、西国観音参りを27番から打たれるということは知ってはいたけれど、私はまずは破磐神社さんからお参り、と思っていたので会えないな・・とかんがえていたんだけど。姫路メンバーが「午前書写山」がいいということなので「じゃ、そうしましょ」と、朝から登り始めたのだ。
で、会えたというわけ。
「もしかして、ばったりあったりしてね」などどいいながら登っては来たんだけど、約束しているわけじゃないからまさか、と思っていたのだが。
(でも、心の内には、クレーテさんの顔がちらついていたんだよね・・あれって予兆?)
キャークレーテさん会えた!!とかって、抱き合ってしまったね。
よっさんが、わたしたちの写真を「証拠写真」して下さった。
お二人が少しはやくても会えなかったし、わたしたちの登りが少し遅くても会えなかったし、まあ絶妙のご縁でした。

その様子を見ていた入り口にいたおじさんが西国4回だったか歩いた方(四国も大峰もやっておられる)で「ワシは今日も、午後から休みとって、西国の法灯リレーの歩きに行くんじゃ」とのことで、はなしがはずみましたわ。おじさん、ならいかけの、法螺貝まで聞かせてくれた。

秋の気配がわずかにある書写山は気持ちよかった。
私も、本を持参して写真を使わせてもらった(本に)お礼が言えてよかった。
気になっていたことだから・・・

午後から、鶏足寺、破磐神社さんへ。
破番さんでは、宮司さんと奥さん、Dさん4人でおしゃべりして楽しかった。
夕方、Dさんが「高岳神社」へ連れていって下さった。
一枚岩の上に立つ神社。すごかったです。

9時、神戸駅より夜行バスで帰京。
姫路のおつき合い下さったみなさん、ありがとうございました。
よっさん、クレーテさん、会えてびっくり、うれしかったです。



2003年09月29日(月) マクドナルドのびっくり

今日調べものをしていたら、ひょんなことからマックの世界分布について知ってしまった。
な、なんとニッポン、世界第2位の店舗数を誇っているではないか!
本国アメリカ・・・1万3099店、ニッポン・・・3822店!
アメリカ隣のカナダだって、1223店よ。
もうびっくりだ。
マックは、人格こわす食い物だし、そんなモノが世界第2位じゃ、お先真っ暗。
まあ、おかしな事件続発はこれからも続くだろう。
おおこわ・・・・
なんて、横道ばかりで、毎日、やろうと思ったことが半分しか進まない非効率、困ったモノだ。
今日は弟から新米がちょこっと届いたので、いただいた。
ごま塩で食べてみた。
うまかったわ!秋だ!!

今夜は夜行バスでちょこっとお出かけ・・・クレーテさんにひょっこり会ったりしてね。でも、時間がずれると思うけど・・・



2003年09月28日(日) なんとか時差ボケ解消か?

昨夜は、寝るぞと思って布団に入ったらしばらくして今治の友人より電話。
あれ、寝そびれたか・・と心配になったが、でも大丈夫。爆睡であった。
今朝は、7時きっちりに目が覚めた。
ウダウダ10時頃まで本なんぞを読みながらごろついていたが、それは、気持ちいいからでいわゆる「時差寝不足」ではない。
どうやら、荒療治は効いたようで、よかった、よかった。

今日もいい天気なので、洗濯。
手首にしている石さんたち(ラピス・水晶・琥珀)がなんだか疲れているようなので、1時間ほど流し水(活性炭を通した)で浄めて、お日様に当てた。その後、お塩の上にお休み状態。
そんなんで「石」の疲れがとれるのか、という人もいるが今治の友人によると、石を浄めた塩を料理に使ったらおなかをこわした人がいるという話をしていたから「塩が石の解毒」をしていることは多分確かであろう。

虫のすだく声がにぎやかだ。
ほんまもんの秋である。



2003年09月27日(土) 坂東徒歩巡礼・・24時間闘いました

不眠荒療治・・・昨日、夕方3時間ほど眠って、どうせ眠れないのだから、と徹夜。6時15分家をでて前回の終点だった弘明寺へ。
弘明寺7時半発。
暑かった。
予定的には、3番さん(田代観音)さんくらいまで打って、鎌倉から帰ろうと思っていたのだが、なんと、3番さんのクローズタイムが4時半。5分ほど遅れてしまったがためにダメであった。
5分なんとか、ならんかと電話をするも通じず、門はしっかり通せんぼ。
参りましたわ。
これ、私だけではなくて、埼玉からわざわざ、田代観音にある「政子の墓」を見に来た女性二人組もがっかり。
連れだって鎌倉駅まで帰ってきた。

私がなんで遅れたのかといえば、一つには5時までだと思いこんでいたこと。
もう一つは、「名越の切り通し」を歩いて、馬鹿なこと(道を間違えた)してロスタイムしてしまったこと。
この「名越の切り通し」は、恐いとこだった。
荒々しくて陰気でくらくて・・・・人気がありそうでなくてなさそうであって・・・。
あそこは、女性一人、霊感系が強い人は歩かない方ががいい、と感じた。
そもそも、私は鎌倉が嫌いだ。
陰気すぎる。
遠足で子どもを引率したときの思い出だけど、建長寺から天園コースの道、建長寺を抜ける道なんけど、その道筋にカラス天狗の像がたくさんあって、今にもカラス天狗が動き出しそうな不気味さというか妖気が鎌倉にはある。
天園なんて、名前とまったく裏腹。地獄行きの気配のところだ、大嫌い。
とにかく、名越の切り通しもホントに恐いというか、気持ち悪かった。
帰ってきてネットで検索すると「霊スポット」だとか。ひゃーだ。
道に迷って結局キツネにバカされたようにもとの場所に戻ってきてしまったんだけど(始めに自分の勘で進んだ道が正しかったのに迷いが起きてこういうことになった)、ささっとトンエンル抜け、このトンネルも陰気くさいと感じたが、やっぱり「霊スポット」。まったく、早く鎌倉を終わらせて、江ノ島のほうに行きたいよ。
近いのに江ノ島は明るい。龍口寺(日蓮上人聖跡)はくらいけど、遊行寺は明るい。
こういうのってなんだろうか。
とにかく、最後になって、予定が狂った。

でも、帰って、ビールがうまい。
眠い、眠い。
荒療治の効果でてきました。
24時間闘いました・・まだ闘える自分の健康に感謝。(父母にも感謝)




2003年09月26日(金) 前島密を発見

今日郵便局にいって、びっくりした。
なにげに、オフィスの隅っこをみたら、4つ切りが用紙くらいの郵便事業の父「前島密」さんがいるではないか。
ええ!・・初めて見たわ・・・だった。
以前、故郷の越後交通オフィスにやっぱりひっそりと、しかし確信犯的に、神棚のとなりに(同じ高さ)「田中角栄」の肖像写真があったけど、それとおんなじ感じだね。
さすがに神棚がなかったが、見上げる高さにある。
腰より少し上の肖像写真だった。
顔は、といえばよく日本史の教科書で見るあれ、である。
出元は、こんあに大きかったんだ、と納得。
顔もクリアに写っていて、改めてみるとけっこう好々爺系だった。
どこの郵便局も、こんなのを ひっそりと飾っているのだろうか。

ところで、この郵便局、一度、真っ昼間、賊に入られて全員ホールドアップ、お客さんのお財布が強盗にあったところである。
今も、入り口に優しそうなガードマンのおじさんがいるんだけど(凶暴・屈強なヤツがきたら直ぐに負けそうな・・・(^^;)・・・私は、いつも、笑って挨拶してくれるこのおじさん、好きなんですけどね、思いっきり仕事間違えているんじゃないかと思う)、もしかしたら「魔よけ」とかって・・・ね。

外出でこういう発見があると、改めて、郵便局へ旅している気分だわ。ハハハ。

昨夜も、朝方までねられんかった。
けっこう、参るよ、これ。
結局、寝られない、読書、ついおもしろくて夢中になる、キャ、朝が近い・・の悪循環なのだ。
生活のリズムをくずして、不登校や引きこもりになる人のことがちょこっと、分かるというモノだが、困る、実に困る。
今晩から明日にかけて荒療治しようと思う。



2003年09月25日(木) 不機嫌、無表情・・のかお、顔

出るたびに駅前でやっている「ヤフーBB」の勧誘男に声をかけられる。
お仕事とは思うが、毎度だとはっきりいって、うざい。
「はいっているよ」(ヤフーBBじゃないけど、とはいわないが)
何度いわせるんだ・・・きょうは「毎日、入っているっていってるよ、いい加減にしようよ」といってやったら虫の無視。無表情・・・・
ヤフーBBは、なんも知らないお年寄りや、知的障害がある方をうまいこと勧誘して問題を起こしているとかで評判が悪い。
こういう応対見ると、そういうこともやるだろな、と思う。
「そうですか、すいません」くらいいえよな、だ。
道を歩いていると、若い人の顔がよくないと思う。
で、そんなことを考えながら、あの九州の一家皆殺し事件の犯人とされている中国人の若者のことを思いだした。
中国人の野生について忘れられない「事件」がある。

あれは、1993年夏。あの頃、まだ日本人には知られていなかった秘境「九塞溝」(今は世界自然遺産に登録されて有名となった、確か飛行機まで飛んでいる!)へ中国に留学していた友人と中国人ツアーバスに乗って出かけた。
何しろ、悪路、しょっちゅうあちこちがくずれる。で、そのときも、行く方も帰る方も道がくずれて不通。崖っぷちの道筋にとじこめられた。
ダイナマイトで道を発破かけながら進んで、やっと危機を脱した頃には夜中。
月明かりの村、村の入り口の柵が上がり、バスが進んでいくと、バスに飛びつく者がいる。バスが止まった。のぞくと、バスのガイドと、村の若者がなにやら争っている。バスが走り出す。若者、バスに飛びつく・・なんと、バスガイド氏、躊躇せず、その若者を蹴り落とした。
私は、月明かりでそれがシルエットではっきりと見えて、余りのことに息を呑んだ。多分、村の若者、乗せろ、とでもいったのだろう。
あるいは、のって強盗に変知るヤカラでもあったのか??
しかし下手をすれば、バスの車輪に引かれてケガをしたり死んだりするではないか・・・
なんと手荒な・・・あの時、中国人はサベージだぞ、恐いぞ、顔つきが似ていても本質は日本人なんかとぜんぜん違うぞと肝に銘じた。
ちなみにそのガイド氏は、若いが、親切だし留学生であった友人とその友だちということでずいぶんと気を使ってくれた。
チベット族(しかし、中国人の教育を受けている)らしくて、馬を見事に乗りこなして、その演技も見せてくれた。
そういう人にして、ケリ落としだ・・・
中国人の本質にある「野生」と昨今の中国拝金主義が握手をすれば、無関係な人も殺すだろうと思った。
彼らは、日本に来て、、多分いつも不機嫌であったに違いない。
お金、お金・・・・
それは、日本の若者(もちろん一部だろうが)も同じか・・・

陽は出ない、肌寒い暗い一日。
こういう日は苦手だ。
秋のお日和がほしい。
ある方から藤原新也氏の新刊「何も願わない 手を合わせる」(東京書籍)をいただいた。四国のことが書いてあるということで。
藤原サン、確か昨年の今頃、自転車で四国をまわっているはずだ。
亡きお兄さんのご供養に・・・彼は、お父さんの時もお母さんの時も、まわっている。
新刊のタイトル、いいと思う。
歩き遍路の心境、そのものだ。



2003年09月24日(水) どうもいかん・・・・

25日の朝に書いているのだが、昨夜ははやく眠くなってなんと9時過ぎに「不夜城状態」でねむってしまった。
で、12時過ぎに目が覚めて、電気を消して眠ろうとしたのだが、ねむれず。
仕方ないので読書。
図書館から借りてきた「オランダ歩けば・・・」というヤツ。
イラストレーターさんが、オランダに残る「ゲーブルストーン」の写真撮りと古本屋めぐりをして「古絵はがき」をコレクションする旅の本。あの小さいオランダを16日もかけている。
ゲーブルストーンというのは、オランダの16,7世紀頃からの家についている紋章というか、家の商売を表示したモノというか、通りの、入り口の上の壁などについているもの。私も気がついていたし、時々おもしろいヤツがあると立ち止まってみたりしていたけど「ゲーブルストーン」というとはしらなんだ。
この本の著者林丈二さんは、「オタク系」で、細部のこだわりがとてもよくておもしろくて、楽しんで真夜中読書。読了。
考えてみれば、私、これだけ、オランダに行っているのに意外とどこも行っていない。
昔、ハーレムにある教会のパイプオルガン(モーツアルトも弾いたという古いモノ)を聞きに行っていたけど、それもしなくなったし・・・ライデンに行っても、どこにも観光は行かなかったし。
昔(2000年)一番きっちりいったのは、デンハーグの女王さまの日だ。確か9月の第3火曜?に国会が開催されるに当たって女王様が金の馬車で、国会へ演説にお出ましになるヤツ。すごい人出、みんな楽しそうに待っていて、私も、至近距離で金の馬車の女王様を「拝見」できました。オランダ王室の気さくさ、日本の皇室にはないねえ。
話横道だが、今度行ったら、もっと「オランダの田舎」に行って見たいとこの本を読んで思った。
その後、調子に乗って「ためになる国の作り方」という井上ひさしさんの本をちょこっと読んで・・しかし気がつけば4時。大慌てで電気を消して布団にもぐり込んだ。
こまった・・・自業自得で眠れないのだ。

昨夜7時過ぎに某教育委員会から電話で「我々を助けてくれませんか」
「アルバイト」の話。
ヒマだし仕事すべきよね・・・でも、したくないのよね・・・私。
「すみません、体調よくないんで」(ホントよ、時差ボケの延長で朝起きられずじゃ、アルバイトできんでしょ)
ときどき、いくら断ってもかかってくる某教育委員会の電話。
きっと、すごい人手不足なんだろうな・・・先生の病気多いというし。
「ご苦労様です」と、最敬礼して切った。
やれやれ。



2003年09月23日(火) フシギ写真

お彼岸なので、お世話になった亡き大伯父・大伯母を偲んで墓参り。
お寺に行ったら、住職さんからもうじき川崎の方もお見えになると思いますよ、いつも23日は11時頃までには見えますから・・ということなのでお花を供えたり掃除をしながら待つ。
ホントは、川崎までいって、お参りとママ(大伯父と大伯母の一人娘・若いころから今まで、ずっと世話になりっぱなしだ(^^;))に逢いたいと思っていたのでここで会えるのだったらつごうがいい。
「ママたちでたの?」
と電話をしていたら、まさにそこに、ワンコ(ビビちゃん)を連れたパパとママの姿。
で、供えてあった花の水切りをしつつさんざんママとおしゃべりした。
帰ったら、横浜へ食事に行くけど来ないといわれたが私は疲れていたし、図書館へ行きたかったので断って見送って帰ってきた。

で、1時過ぎに帰って図書館に行こうと思ったけど、ご飯を食べたらなんだか体がだるくて眠い・・・昨夜の3時までねむれなかった。おまけに、上のフィリピーナたち、今朝は大騒ぎをしてくれて6時に目が覚めた。
すこしお昼寝と思ったら、ぐっすり4時過ぎまで前後不覚。
困ったね、やれやれだ。

夕方になって、改めて昨夜発見した不思議写真を眺めて分析した。
アテネ、破磐、神倉。
とならべるとなんだかすごいなあ・・・

★アテン(と、ヨーロッパでは呼ぶ)のアクロポリスのパンテオンの場合、カメラの不具合とお日様の光が偶然に見事な一致を見せての結果だとは思うが・・・ちょうど、神殿の中から光がでてきている見事さで。年賀ハガキ写真の第一候補となった。

*私が外国旅に持っていくカメラ*
とられても惜しくないモノ。壊れたらそれと分かる安物と決めている。
以前、リコーのGR1とかいうレンズのいい、よくできたカメラを使っていたら、故障にも関わらずシャッターが切れて実はなんにもとれていなくてえらい目にあった(だから、エジプトトルコ、北京近くの長城あちこち、タイ北部の写真がなにもない) それから、一眼のカメラマンの持つようなモノ、デジカメの高いモノはねらわれると思う・・女ひとり旅で、ものを盗られる気味悪さはメキシコで味わったのでできたら、悪者どもに「はん・・安物」と軽蔑されるモノがいい、と思っている。で、私が持っておるのは生活防水になっているオリンパスの手のひらサイズのちっこいヤツ(確か2万円くらいだった)。とれるけどね、故障もしないけどね、写真のクオリティはまったくよくありません・・・・
だから、パンテオンで、不具合が起きても不思議はない。
見事な不具合だが・・・

★破磐神社
お祭りの日の不思議な光の射し込み。
夕方で、光のハレーションが起きるような時間ではなく、またカメラもこれはキャノンのイオスでとったし。破磐がよいの長い方々には「これ、カミサマが来たのかな」と思われる写真。それと宮司さんが「カミサマやネエ」と破顔一笑いわれるだろう。

★神倉神社
この神社も私が好きなところ。
2月のお燈祭りの場。
これも、キャノンの一眼でとっているし・・カメラの不具合とは思えない。
神社正面とご神体の巨岩にオレンジの5角あるいは6角の輪ができている。
 
わたしは「科学的態度」が好きであるし、オカルト??である。
しかし、この世に「不思議はあらまほしきことなり」とは思っているが。
まあ、すべてカメラの調子だよといってしまえばいえるのだろうが、やたらにそういうことはないのでねえ。
もし、上記の写真、私の知り合いの方で見たい方があれば、メール下さればJPGでお送りしますよ。



2003年09月22日(月) オランダの空気

台風一過、世間がオランダの空気になった。
気持ちいい。
母からきた新潟の枝豆がうまい。
礼の電話をしたら、母は風邪引いてた。
で、けっこう朝からいろいろと片づけやら、手紙やらいろいろとこなしたら疲れた。
で、またまた夕方、少しひるね(夕寝?)なんだか、これはよくないと思う。
だから夜中に寝られない。

今日は、春ころにできて時々人がならんでいる「七志」というラーメン屋がめずらしくガラガラなのでふっと思いついて入ってみた。
3時、おやつの時間だが、少しはやい夕飯。
でも頼んだのは、ランチタイムメニューのレディスセット。
ラーメン半分、ミニ角煮丼、サラダで600円。
値段は、◎。だって、コンビニ弁当にちょこっと足せばいい値段ですもんね。おいしかったのは角煮丼、これははなまる。ラーメンはスープのにおいが私にはきついというか、濃すぎというか。私はもう少し、あっさりがいい。
感心したのは、テーブルの上と店の中。
テーブルの上、普通にあるラー油やペーパーナプキンなどのほかに、胡椒はつぶ胡椒をがりがりだったし、ごますり器まであった。紅しょうがにナマにんにくとそれをしぼる機械、後はにんにくを召し上がった方のためのエチケットブレス。
いやはや至れり尽くせりなのだ。
味に自信がある店のようなのだが、そういう店なら置かないようなものまであるのがすごいというか、客のニーズにこたえましょうという太っ腹なのか。
あと、あくまでも清潔である。
壁には、ハンドメイドの針金とビー玉を使ったオブジャがさりげなくついていたりして。で、少しステップを降りないといけない店なのだが、店内へはいるときの段差を解消しようと、一段高く木の渡り廊下のようなモノが付いている。
これはバリアフリー的にはよいことだ。
店員の応対もよい。
で合格・・とラーメン評論家。

ギリシャのパンテオンの写真に不思議な光というか、ハレーションを起こしたのだったらお見事としかいいようのない光が入っていてびっくり。
破磐神社のお祭りにも・・・・それぞれちがうカメラを使っていたし、これはどういうことだ、と見いってしまった。
どちらも気の強いとこだしね・・・そのせいか。

今日こそ「金の眠り」(12時前就寝)を達成したい。
おやすみなさい



2003年09月21日(日) 台風で終日雨だ・・・

雨台風だなあ。
なんだか、いっこうにかたずかない家の中を見回しつつ、読書。
昨夜の「輝く日の宮」(昨日は皇子と書いてましたね、宮です)
要するに、美しい国文学者の女性の私生活と、学究生活が語られていて、そのうちでも源氏物語の失われた巻(すなわち「輝く日の宮」の巻)の内容の類推と、それが何故失われたかを紫式部と道長の関係からかかれていてその関係が美しい国文学者の私生活の重なるようで・・・前から順に読もうとするから読みにくいのであって、適当に飛ばしながら時々戻って、みたいな読み方をするとなかなかおもしろい。
2泊3日150円で借りた本だけど、読み応えあります。
明日は返さないといけないのでもうひとがんばりのお楽しみ。

急に涼しくなって、身体がびっくりしている。
短パンを止めて、長ズボンにした。
明日も降るみたいだな・・・お手柔らかに台風さん。



2003年09月20日(土) ブリギッタ先生の Yさんにお会いする

昨年の9月始めにお会いしたラトビアのブリギッタ先生。
旅先でいろいろな人に会うけれど、一番印象鮮烈な人の一人だ。
そのことを、今書いているコラムに書こうと、ネットで、試しに検索をかけたらなんとブリギッタ先生が自分が日本語を始めたきっかけは20代の頃日本人のYに会ったこと、といわれていたそのYさんのHPがひっかってきた。
見れば住所は埼玉県。
おお、とさっそく連絡を取ってお会いしてきた。
70代の知的な今はギリシャ語の翻訳や電子書店をやっておられる方、さまざまなお話を聞きして実に興味深かった。
中でも印象深かったのは「ブリギッタが日本語塾を始めたのは、国の体制が変わって将来の生活が狂ったための、一つの生き残り戦略だと私は思うんですよ、生き残るために、自分の今までの経歴や人脈のあらゆるものをつかう、強いですよ」
ソビエトロシアからラトビアとして国が独立したのは、今から12年前。ソビエトロシアのまま行けば十分にもらえるはずの年金や生活の保障がなくなった。
ラトビアでもらえる年金は、独立後ほんの十年分である・・・
そのことである。
今の日本の福祉がどんどん悪くなる体制や財政破綻を見ていても、それはよその国のことではないと思った。
オランダの人々が安定しているのは、一つには老後の自分が見えるから。
旧市街に立派な老人ホームがあり、普通の住宅地の1Fのフラットにグループホームがある。
日本はそういうことが見えない・・見えにくい。
老人ホームはどっちかというと人里離れてまるで監獄のように存在するし、始まったばかりのグループホームが町になじむまでは時間がまだまだかかるだろう。

ギリシャの言葉は、アルファベットの元になったが、日本語と同じく孤立言語だということなどおもしろい話をたくさんお聞きしてアッという間に時間が過ぎてしまって、外に出たか急に気温が下がっていて大雨で。
台風ですね。
そうそう、地震もあったようででも電車の中でわかんなかった・・・
家の下を通る中学生たちがこの前から「今日地震あるかどうか、かけよう」とか行っていて気になっていたんだけど、もしかしてなんか予言めいたお話があったのか?
夜は、「輝く日の皇子」(丸谷才一)を読んだ。
この作者らしい内容だが、それなりにおもしろいのだが読みにくくて・・・・・
丸谷さん、昔から好きだったですけど。
1時には眠れた。
大分、時差ボケはとれてきているかな。



2003年09月19日(金) 日記、すべてアップ

今日も、どうも眠くて困った。
夕方美容院にいったら、ずいぶん伸びましたね。
はい、だって2ヶ月来なかったもん。

夜から深夜、今、ギリシャ日記とりあえず、すべてアップした。
大分はしょったが、まあとりあえず・・・で。

足りないところはまたボチボチで。
さあ眠れるかな。
昨夜は3時近くまでダメだった・・・



2003年09月18日(木) 暑い、暑い

なんとか、9時過ぎには起きて(オランダ深夜)メールだのをして、洗濯・・・しかし暑さのせいか眠い・・・・
お昼寝をしてしまった。
家の中も掃除も大々的にしたいんだけど、もう少し涼しくなってからしよう、ということで、拭き掃除と、荷物のかたづけのみ。
日本暑し、暑すぎるよ・・・
夕方、ヨーカ堂へ。
巨峰1房238円・・・2ユーロ近い・・・リンゴ一個127円・・・1ユーロじゃないか。なし一個・・・79円1ユーロで2個買えない、とかってつい、ユーロ計算してしまって、日本の野菜や果物の高すぎる現実にびっくり。
ようやっと、決心して梨79円3個買って来たのでした。
アムスのいつも行くトルコや、リンゴなんて、キロで2ユーロ(260円)しないし、ギリシャやトルコの種なし皮まで食える甘い白ブドウだってでっかい房を3房買っても2ユーロ弱くらい。
いやはやです。
毎度のことながらしばらく、生鮮野菜の価格ギャップに悩みそうである。
でも、日本のスーパーは品数・加工品が多くて実に便利である。
オランダなんて、サラダくらい。(それも、あんまりおいしくない)
あちらはハム、チーズ、乳製品、パン、などの種類は多いが(コーナーになっている)異種の種類は少ない。

今日の夕食、割引になったお寿司、野菜餃子、インスタントみそ汁、ビール。デザート梨。なんてことをスーパーで買い物をするだけでできてしまう日本の便利さ、ありがたや。
太って帰ってきたので、またしばらく6時以降食べないダイエットをしよう。






2003年09月17日(水) 日本、暑いよ

しっかり、予定どおりに成田着。
ANA、パリ発は満員御礼。
団体ツアーがいくつものっていて、その人たち、みんなお買いもののでかい荷物を持っていて。
きれいな身仕度、ブランドバックにお靴。
日本、どこが不景気?という感じだった。
しかし、団体のツアコンさん「ユーロが余っている方でお使いになりたい方、これからごいっしょします」なんてことまでお世話するのね。
見ていて、びっくりした。

荷物にプライオリティのタグをつけてもらったので、上位10位以内に荷がでてきて「パリに行くと目が肥えて困るわね」とかいっているわりには「荷物はファーストクラスの人からでるのかしら」と、でっかい声で話している若い女性のグループを尻目にさっさとバス乗り場に。
荷はファーストから出るのではない、プライオリティタグをつけているヤツがはやいんだ、と教えてやろうかと思ったが、何故かあんまりかわいくない感じ(性格)だったので止めた。
私はアムスでチェックインの時に頼んでつけてもらった。
だって、2時台か、あれば3時台の、うちの町直行のバスに乗りたかったから。
お陰で、3時35分のバスに乗って爆睡。
暑い!日本、眠気が差した。
5時半着。家には5時45分着。

ご心配いただいていた方、ありがとうございました。

無事に帰りました。



2003年09月16日(火) 午後便で帰ります

今日もすてきに晴れた朝だ.
みんな仕事や学校に行った.
私は、これからにもつ作りを本格化して午後2時半過ぎにうちを出る.

アムステルダム発午後4時50分
パリ着     午後6時
パリ発     午後8時
成田着     17日午後3時頃。。。かな

27日もいたんだけど、あっという間だった。
ミエコやテクラブ氏、子供達、教会でお会いした方々、ありがとうございました。



2003年09月15日(月) 夕食に招かれて

先日、教会でサイト−氏という教会員の方から「帰る前に食事にきませんか」とお誘いを受けた.
サイト−氏は、リコーダー作りのうでのいい職人さんで、業界内では有名な方だ.もう一つの顔は{グルメ}.本格カレーを作るのにたまねぎを三時間いためるという「伝説」をミエコから聞いている.
そのグルメ氏にお招きを受けて「キャーうれしい、伝説のグルメさまのご招待」と喜んでしまった.
オランダの作法に従って、花屋さんで持っていく赤いバラ花束を買い、デザートのぶどうを持ってミエコと共に伺った。
彼と、先日お説教をなさった川井牧師さんと4人での夕食。
まずは、パスタ。ナマのトマトをフードプロセッサーでつぶしてそこにレモンとビネガー塩などで味付けし、上にチーズとミニトマト、ハーブ。美しい盛り付けで味もよし.川井牧師さんが「サイト−さん、あなたはお嫁に行ける」と盛りあがっていた.ウン、そう思う。
その後、揚げたてエビフライとポテトサラダ。どっちもうまし。
やはり、噂にたがわぬグルメの味でした.
また、色々と興味深い話も聞いて.いい時間でした.
ありがとうございました.

……
午前中は、近所のスーパーでお土産のチーズやコーヒーを買い、ムントプレインの花市場まで母に少し変わった花の球根を買いに走り、ワーテルロープレインで蚤の市をのぞき、ニュウマルクトまでとうふを買いに…帰国1日前の騒動でした.



2003年09月14日(日) 教会聞いた話

今日は、ルーマニアからみえた川井牧師さんのお話を聞いた.
川井師は、ルーマニアに伝道に行かれて10年。活発に活動しておられる方のようだ.
1989年には、想像できなかったこと、ルーマニアにプロテスタントがすごく増えていて「神様!」という祈りの声が教会に溢れているとお話だった.
(リバイバル、というらしい)
すごく印象的だったのは、ヨーロッパのあちこちからうちの教会でお説教をして欲しいと、ルーマニアごのお便りが来るという話だった.
そんなことでローマに行かれたときのこと
ローマのルーマニア教会はどのくらいの人数がいるのですか、と聞いたら500人くらい(!)更には、礼拝の日「奉仕者」(説教をする牧師さん)さえも、時間の1時間も前に行かないと席がない、ぎっしりになる……教会に来ているのは、大方20代の出稼ぎ者.
10年前に教会に来ないか、と誘っても「マイケルジャクソンのほうがいい」といっていた10代の子供達だった者が出稼ぎに来て苦しい生活の中で「神様!」と声を上げている.それこそ、1時間数ユーロで働いているうちからお金を出して、自分たちの教会まで買い取っているという話.すごいな、と思った.
経済が良くならない国からヨーロッパ各地に出稼ぎにいっているルーマニア人たちがあちこちに教会を作って集っているという話。
とてもいろいろ考えさせられて、印象的だった.

今日は出かける前に、カレーを作っていった.
モリア(一番下の子)が学校で作ってきたジャガイモを使って作った.
日本味でした.




2003年09月13日(土) アムスに戻る

アテネの空港9時5分のオリンピック航空なので6時に目覚ましで、6時半に出ようと思っていたのだが、月明かりで5時半には目がさめた.
テラスからのぞくと、アクロポリスがライトアップと月明かりでそびえている.
バイバイ、アクロポリス!またいつか・・…
今回は短い旅だった.あんまりすてき過ぎてあと4,5日いたい感じで、実に名残惜しい.
でもまあ、荷物のパッキング.
昨日、ギリシャのスーパーに買出しに来たように重たいものを買い込んだので一苦労だ.
夕べアムスに電話して「迎え頼む」のSOS電話をしたのだが….
6時半、薄明るくなってきた町ヘ出た.
ホテルのおじさんが鍵をあけて送ってくれた.
朝はやくても、夜遅くてもあんまり怖いと思わない.治安が良いのか私の旅慣れか…
多分両方。
空港行きのバス停の前のキオスクもすでに開いていてチケットもいとたやすく買えた.
6時45分のエアポートバスに乗って着七時半.
オリンピックに備えてあちこちいまだほじくりり返し中のアテネだが、空港行きの高速道路は立派に出来あがっている.
チェックインの後、ミュージックショップで、かっこいい店員お勧めのスブキミュージックのCDを買ってゲートに出た.
来るとき、急にエアがキャンセルで大変な思いをしてきたが、どうやら帰りはすんなり帰れるらしい.
やれやれ.
セキュリティで、お土産のちっこいウゾのビンを調べられたので「どうして」ときいたら「ビンはみんな調べているとの事」
でも、それだと不徹底よ.だって、ウゾのビンの下に「サントリーニの地ワイン」を隠しているんだからさ.それは倒してあったが為に引っかからなかったらしい.
ギリシャのセキュリティ大丈夫か?
なんてことは言わなかったけどね.
見ていると、5人のうち3.5人はボディチェックされている.

無事離陸.
キャプテンスピーキングでは、向かい風で少し遅れるとの事だった。
確かに、かなり揺れた。
隣のオランダ人老夫婦のおじいさんの方に「この後もあなたは行くるの」ときかれたけど、「いいえ、私はアムステルダムに友達がいるのでそこに行きます」といったら「うんうん」とうなずいていた.
気持ちはわかる.
だってこの飛行機、ギリシャのバカンス帰りのオランダ人御用達状態で私だけが東洋人で、これは珍しい。勿論日本人なんていない、まあ、日本人がいない飛行機に乗るのはなれているけど。
さして遅れもせずにほぼ予定どうりにアムス着.
ミエコサンのお迎えにも会えてやれやれ.ありがとう.
彼女は教会の集まりで出かけたので、私はメールのチェックをして、トルコやとスーパー買い物にいって夕飯の仕度だ.
アムスの光は秋だ、通りでは「アムステルダムヒストリカルストリートミュウジアム」なるものをやっていて、オランダ民族衣装のおばさんは羊の毛つむいでいた.
ちょっと、魔法使いのおばあさんみたいだった.
じきに、5時半.
夕ご飯の仕度をせねば.
献立…インゲンとハム炒め物、トマトとレタスのサラダ、納豆、餃子、ご飯
久しぶりのご飯がうれしいな.

ギリシャからオランダ….
日本の感覚的に言うと九州から新幹線で戻ったという感じか.
あんまり遠くから帰ったという感じがしない.
同じユーロ圏で、お金が同じというのも感覚的に近い感じを抱かせるし.

また、旅の様子をアップしますのでお楽しみに。



2003年09月12日(金) デルフィ・・神託の場所

ギリシャでぜひとも来たかった場所の一つがデルフィだった。
アテネから北西へ170キロ。パルナッソス連山の懐で古代ギリシャの宗教的中心として栄えた。
この地ではアポロンの神託が行われていて、最盛期は紀元前6世紀。当時は、ギリシャだけでなく、黒海沿岸やイスパニア方面からも巡礼があったという。
なお、アポロンの神託は。ビザンチン帝国のテオドシウス帝によって閉鎖される381年まで続けられた。

・・・・・・・・・・・・・・

アテネからバスで3時間。
昨夜遅かったので寝坊。
長距離バスステーションがあるリシリオンバスターミナルまでタクシーとなった。アテネも道が狭くて朝は渋滞だ。
ドライバーにバスチケットを見せて急いでもらってなんとか、7時20分過ぎ、出発10分前についた。やれやれ。
途中で休憩して私に「10分」と運転手が声をかけてくれたので、コーヒーとチーズパイの朝ご飯。併せて5ユーロ。(これもホテルのスナックだったので町相場より高い)
ギリシャのバスは、運転者は大名サン。
客は禁煙だが、運転手はOK。休憩時間も、運転手が心ゆくまで休まないとでない。
デルフィ着ちょうど10時半。
町はずれの遺跡までボチボチ歩いてもどってゆっくりと見学。
アポロンの神殿、古代劇場、古代競技場がそびえ立つ岩山に張りつくように残ってている。それはすごい眺め。
機械類がなかった時代、これどうやって作ったの?と思った。
遺跡を全部廻るためには、岩道を登るのだ。
途中、アポロンの神殿の下に「オンファロス」(大地のへそ石)・・神託が行われていたまさにその場所がある。大きな石が置かれている。
まあ、ここだけでなく、この場事体が実にいい地場を持っていて気持ちいい。
巡礼の地になったというの、分かる。
なぜここまで、というのも分かる。
気持ちいい、聖なる場所だからだと思う。
そういう「気」がある、確かに。
元気になるモン。
一番上にある古代競技場を歩いていたら今スイスに住んでいるギリシャ人というヒゲ男性から声をかけられた。
アテネでスイスに住むギリシャ人に騙されたということが「歩き方」にのっていたし、ちょこっと身構えたね。
悪い人じゃなかったみたいだけど・・・・

その後、カスタリアの泉で観光客大勢が水を汲んでいるので、私も「土産」とあいていた1,5リットルボトルにくんだ。
うまい水なんですわ。
この水が巡礼ののども潤したんでしょう。
遺跡の木の下で、6人ほどの日本人グループがガイドからギリシャ神話の話をきいていた。
多分、オイデプスの話?オイデプスが自分の父とは知らずにテーベ王ライオスを殺してしまうのは、ここへの道中だった・・・・
ツアーに乗ると79ユーロ、自力で来ると交通費は往復20ユーロ・・で、私は一人で来る方を選びました。
アテネ人の聖域なる遺跡で、リンゴとパンを食べて休憩。
ゲイのカップルも仲良く休憩中だった。

その後、町のスーパーで、ミエコに頼まれたタラモとかギリシャ名物の黒オリーブとか、フェダチーズとかを買ってバスステーションへ。
すごく景色のいい、気持ちよく風が通るカフェでビールの大ジョッキでぐうたらすること1時間。
4時過ぎのバスでアテネへ戻りました。
最後のグリーサンドを何故か「エベレスト」という名前のグリークサンドチェーン店で食して、最後の夕食となりました。











2003年09月11日(木) アクロポリス、そして野外劇場へ

7時半起床。
部屋についている煙草のにおいが気になって昨夜は何度か目が覚めた。
でふっと考えたこと「ローマの遺跡、ピラミッド、アクロポリス、中国古代文明の地等々、なんだか世界史の教科書に載っておるようなとこって、これで一応いきおえたかな?」「ああいう口絵も罪が深いよね、あんな写真がなかったら行ってみたいという野望も持たないのに・・・これで私の旅、一区切りかな」とかってバカなことを考えていた。
そうしたいねえ。

8時に受付に行って、部屋を替える、においのしないもっといい部屋への交渉をした。
で、シャワーとトイレは外(だけど部屋専用)だが、もっといい部屋を用意するから、となった。
やれやれ。
アクロポリスに出かける前に開いていたカフェで、オレンジジュースとホットドック。これ7ユーロ。ボリ、だね。高すぎて、あきれた。(ざけんじゃない)
もうこの辺で食わないぞ。

アクロポリスまで20分余りの歩き、涼しくて気持ちいい。
昨日アテネは暑い、クーラーいるぞと思ったけど(そういうとこを探した、つかないと30ユーロくらいである)朝は涼しいのだ。
アクロポリスの入場料はあれこれ見学がセットになって12ユーロ。
これもけっこうな値段だが、世界の一流観光地だしねえ。
ギリシャはこれでくっているような国だし。
入り口で荷物チェック。
袋の中には、ガイドブック、水、オレンジ1つ。
「オレンジをクロークルームに預けてこい」
「はあ?オレンジだけ?」
「そう」
食べて皮をすてられたら困るんだろうけど・・どうしてオレンジ1つ・・めんどいじゃん
「ジャ、オレンジはあなたにあげる」
と私は彼にオレンジを手渡したら、そばで見ていた観光客のおばさんげらげら大笑い。
彼、そばにいた、もう一人のチェックマンに投げ渡した。
「サンキュウ!」
彼、私を見て、ウインクしたね。
「ユーアーウエルカム!」
わたしもにたりと笑ってやった。

★天下のアクロポリス★
でかい。ご立派。
ここが、アテネ市民の神殿だったのだ・・・・
アテネには、岩山が二つある。
その一つがパルテノン神殿のあるこのアクロポリスアテネのどこからでも仰ぎみることができるのだ。
ここも、「気」・・岩山的な・・を感じた。
巡礼してきた者がいやされる場であったろうことは確かだ。
残念ながら、オリンピックを目指して改修中。
あちこちに、足場が組まれ外観残念無念。
おもしろかったのは、白人サンが裸になると「ピーピー」とするどく笛が鳴り響くことだ。
「太陽が恋人」の彼ら、お日様がでてきて、気に入った場所だと、すぐにシャツを脱ぐんだモンね。で、この神聖なる場所で「バカヤロ、脱ぐな!!」という笛なわけ、知らん顔して裸でいる人、おじさんが走っていってしかっていた。そのしかられたドイツ人らしき男性、しきりと照れてTシャツを着ていたのがおかしかった。

外観無惨だが、アテネ市内一望、気持ちのよいとこでした。

その後、古代アゴラ、ローマン、アゴラ、ゼウス神殿、デオニッソス劇場とまわり、古代アテネ堪能。
で、イドロ・アディオス音楽堂(古代の野外音楽堂が今も使われている)で催し物をチェックした。
ワシントンDCからのシェクスピアシアターが「オイデプス」をやる。有名な悲劇だし分かるだろ、まあ、野外劇場の雰囲気を味わうか、と30ユーロを奮発してチケットゲット。
開演8時半。終演予定11時半。で、うけつけの人に「危険ではないか」と聞いたら、大丈夫ということで。

アテネの中心の一つである、シンダクマ広場にあるマクドナルドで「グリークマックセット」でおっそいお昼。
普通のマックよりうまいが、でも、グリークサンドやギロピタの方がうまいね。
マック敗北・・が私の舌判定であった。
明日行くデルフィのバスチケットをゲットしてホテルでシャワーを浴びて着替えて、野外劇場へ。
終演12時10分帰り、12時半。


 



2003年09月10日(水) サントリーニからアテネへ

8時に起きて、残っておるもので朝ご飯。
9時半にチェックアウトして、美術館へ行った。
ここには、エイシャントテラから発掘されたモノが展示されている。
大きな壷や描かれた絵の美しさによしよし。
おおかたが「墳墓」からはっくつされたもので、古代テラの人たちの死生観、意外と古代エジプトのように「あっちで今の生活が続く」的だったのかも知れない。

この島に滞在している家にむくむくとわき上がってきた疑問
◎この島の水はどうなっているのか(見たところ川はない)
◎電気はどうしているのか

これを、あのカマリツアーに寄ってマリアにいい宿を紹介してくれた礼をいうついでに質問した。
で分かったこと
水はすべて地下水。それが配水されている。
古代テラには、人は暮らしていなかった。ふだんはカマリビーチ辺りにくらしていて、特別の時だけ行った(もちろん、神官などはいただろうが)
電気について
発電所がある。
しかし、太陽光発電の設備をたくさん屋根に見たけどね。

ホテルに帰って宿の兄さんにも水のことをいったら、やはり川はない、湧き水とのことだった。
古代、この島にはどのくらい人がいたのといったらこまった顔。
代わりにわたしたちの会話を耳にした英国人が「6000人から7000人」と答えてくれた。
ちなみに今は25000人くらい。
大方が観光産業従事者だろう。
あと、島には、ブドウつくりしかない・・ワイナリーがいくつかあるからこれも産業かな。
この島のブドウは、土にはっている。ブドウつみはまるでカボチャかスイカの収穫のように行われていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1時のハイスピードボートで、ピレウスへ。
クーラーききすぎで寒いくらいだけど、よく眠りました。
いよいよ、都会である。
田舎からはいったので少し緊張する。
だって、旅のトラブルはアテネ周辺だというし・・・・
6時、まだ陽は高いがピレウス着。
降りて、地下鉄・・・と思っていたら聞くよりはやく「地下鉄はあのイエロービルデング」とツーリストポリスが教えてくれた。
はいご親切さまである。
見よう見まねで、自販機でチケットを買って、入り口でがッちゃんと時間の刻印。
これはアムスと同じである。
30分ほどであっけなくアテネ中心に着いた。
ホテル客引きに2人ほど声をかけられたが知らん顔をしていたら引き下がった。
これまたやすし。
しかし、夕方で、希望のホテルは満杯。
電話しとけばよかったと後悔先に立たず。
で、4軒聞いてまわってやっと・・・40ユーロであった。
そこはアクロポリスが間近い、許せるかなの場所。
なにより、受付にいたおじさんの気よさげだし、まあいいかと。

プラカ地区(車が入れないアテネの古い下町、迷路みたい)ウロウロしてから、アクロポリス直下で夕食。
グリークラダ、ムサカ、デザートスイカ、ビール。
デザートのスイカが一番うまかった。
名物料理のムサカ(ナスとミートソース、マカロニを重ねやきしたモノ)、おいしくなかった。
やはり、私グリークサンドが一番好きですわ。



2003年09月09日(火) アクロティリから、エイシャントティラ 

八時半起床。
寝坊だが、たくさん眠って、頭すっきり。疲労は消えた、という気がする。
パンやコーヒー果物、ヨーグルトの朝食をとって出たのは、9時半近い。
バス停のベンチで、10時発のアクロティリ行きを人間ウオッチをしながら待つ。
アジア系では、なんといっても韓国と中国(台湾)の人が目立つ欧米系では、北の人かな。すなわち、金髪、青い目、細長い青白顔。まあ、やがて、長い冬を迎える北の人たち、太陽浴び旅行。
彼ら、肌もあらわにお日様の恋人となっている。
昨日のビーチでも、上半身裸でオッパイ出すの、けっこう普通でした。

出るとき黒い雲が出ていたので傘をもったが、消えた・・アホやね、ここは地中海式気候、雨ふらんわね、めったに。

ここで横道・・・★アクロティリとエイシャントティラについて★
◎アクロティリ遺跡
紀元前1500年の大爆発で突如歴史から消えた古代都市。
文化の内容的には、クレタのミケーネ文明と同じ。
深い火山灰に覆われていたので遺跡の保存状態がよく、特にすばらしいフレスコ画が有名。しかし、そのフレスコ画は、現在閉鎖中のアテネの考古学博物館にあるのだ。見ることできず(グヤシイ・・涙)
◎エイシャントティラ
名のごとく古代ティラの神殿やアゴラなどがあったところ。
紀元前9世紀頃から1000年以上にわたって栄えた町の遺跡だ。
昨日私がいった二つのビーチの間にそびえるサントリーニ最高峰(369m)にある。

アクロティリ感想
クレタのクノッソスを見たあとではB級遺跡の印象を免れず。
見る順がちがったね。
今、灰の中から出てきたばかり、鋭意発掘中。
確かに内部は、2層3層と分かれていてその文明はクレタと同流、高度であったことは分かる。せめて、コピーでよいから、壁のフレスコ画があると感じが違うのだが。ここも、塀がなかった。平和だったんだね、火山にやられるまで・・・・

またバスステーションに戻って、今度は、古代テラ行き。
カマリビーチ行きのバスで、「エイシャントテラに行きたい」といったら、乗れ
と。で、カマリビーチがちかずいた頃「エイシャントティラ」と、バスの車掌が連呼する。すると、私をはじめてして、6人ほどがぞろぞろと降りた。
目的は同じらしい。
ここから、歩く方法もあるのだが、まあ0メートルから400メートル近いところまで登るのだ。いってみれば、四国27番を下の唐浜から胸突き八丁ヘロヘロで登るのと同じ。カンカンでりのサントリーニの昼下がり、私はパスしました。
まだ、クレタのサマリア渓谷トレッキング後遺症で足、少しいたいし。
往復8ユーロ、たかいけど・・・・

エイシャントティラ感想
帰りのバスの時間を聞いたら、1時間後だといわれて「え、無理だよ、帰りは歩くから4ユーロ返してよ」と、私はミニバスの運転手に文句をいったら、いけるよ!片道だったら6ユーロだし、2ユーロしか返さない、それも下の事務所でねとあちら強気。で、ぷりぷりしながら遺跡への坂を上った。
何しろ、草木の生えない禿げ山状態なので気景色絶景。
360度パノラマ。青い海とさわやかな風。暑いが暑くない状態だ。
で、岩山の上にある神殿というか聖域だったこの場にわたし「ムムムパワー」を感じた。巨岩からでる「気」ですな。
遺跡は、再建中だったが、そのほとんどすべては壊れ果てていて・・・マア廃墟の典型。
哀れを感じたのであります。
か周囲1キロ以上の大遺跡といえるが、これが山の頂上にそびえ立って島のどこからも見えた時代のことを考えてみた。
まあ、なんとか1時間でまわって遺跡の外に出れば、へイサ時間が2時半!
まったく自分たちのシエスタタイムに会わせていて、あきれるせ。
だから、いずれにしても、1時間しかいられなかったというわけです。

下に帰ってきて、ロバのおじさん(古代テラまでロバで行くというオプションもあったんですよ)とロバたちの写真を撮った。
ロバのおじさん上が閉鎖になったのでロバのご飯?らしき古パンを近所の店からもらってロバの背につけて帰っていった。

トーストクラブでグリークホットサンド、スナックで、でかい冷え冷えビールを買って戻る。おそい昼食。(おやつにバナナ2本食べた)
その後シエスタタイム。
帰りがけに、おいしいゴマパンを買おうとしたら、パンやさんシエスタタイムで閉店中。ギリシャは、2時くらいから4時くらいまで、お昼と昼寝をとる国らしいのです。ベトナムに似てます。
ちなみに私は、ビールがうまくて、食い物がうまくて昼寝がある国が好きです。
これははっきりしてます。(こういう国は物価もそう高くないし)

夕方、もう一度イアに夕日を見にいった。
行きがけのバスでレイのアジアの若い女の子が好きの車掌「どこから来たの」と観光の子たちに聞いていて「韓国」「ほう、北朝鮮から」「え、ちがうよ、サウスコリア」と一人の子が笑いながら訂正。すると「ううん、この子だけノースコリアから来たの」とか、別の子は前に坐っていた子をさして、大笑い。おいおい・・・私も大笑いしたけど。韓国の若者ジョークである。
イアは夕日よりも、夕日が沈むと同時に昇ってきた満月のほうがすごかった。

よる、窓を開け放して、電気をけしてオリーブ肴にワインをヤリながら、お月様鑑賞、月光浴をした。
すばらしい晩だった・・・・明日はサントリーにとさよならである・・・





2003年09月08日(月) ちょこっと休養日 

夕べはいやな夢を見た.
疲れ過ぎ、飲み過ぎか?
で、8時過ぎまで寝て、窓を開ければ、さわやかな風と青い空…地中海だな…状態.

湯を沸かしてコーヒーを作り、チョコレートビスケットをつまみ、ぶどうをつまみ…、オリーブブレッドをつまみ、午前は出かけるのよそう、ゆっくりしようと、はがき書きにいそしむ.
手が疲れると、長いすにねっころがって。
アメリカやアイスランド、ラトビアまで書いて、計29枚完了。
何だか、通信簿を書き終えた気分だ.
昼も近いので、はがきを出して、昼ご飯にしようと外出した。
郵便局窓口で「日本、25枚…USA1枚…」といい始めたら、ギリシャは世界中どこでも0.65ユーロだよ」と窓口の男性にいわれた.
私は切手をかって貼っていたらそばにきたアジア人男女カップルの男のほうが、「こんにちは」。
てっきり日本人だと思って、女の子の方が出すはがきをふっと見たら中国語.
「あなたたち、中国人?」
と中国語で聞いたら今度はむこうがエッという顔。
「今習い始めたばかり、私は日本人」(このフレーズを使い続けて10年になる、とほほ)
とまたまた中国語でいったら喜んでくれた。
彼らは台湾人だった.

ギロピタ(これもトルコ風のグリークサンド)でお昼して、またオリーブブレッドと、ゴマがたくさんついたデカドーナツ型パンを買って帰る.(このパン、美味でした)

ちょこっと休んでから、バスに乗って「ペリッサビーチ」へ。
ブラックサンドビーチといって、黒い砂が有名なところ.
ベトナムでは、南シナ海に足を入れたし、今度は地中海でおよごう.
デ、泳ぎましたけど、海から出ると寒い.結局、ビーチチェアにねっころがってぼやん、とろとろとしていましたわ.
水はきれいでした.で、塩から度は、東シナ海よりも薄かったです.
もう、海で夢中で泳いで楽しむには年とりすぎたな、と若者ドモの姿を眺めながら、たそがれていたmohejiであった.

時々船がつくのでみていたら、「Kamari⇔Perisa」とあるので、聞いたらKamariビーチまで行っているとのこと.
それで、もう一つのブラックサンドビーチを見ておこうと乗って移動した.
KamariはPerissaより大きくて、にぎやかだった.

夜「カラマリア」(イカのから揚げ)をかいに行ったら「カラメリ」はあるけど、「カラメリア」ないよ、とわらわれた.「見せて」といったら、ポークの串焼き。いいよ、それ3本とフライドポテトの小、持ちかえり、といったら「はいよ、アンタのためのスペシャルプライス4,5ユーロ」
これと、トマトときゅうりサラダ、オリーブブレッド、オリーブを肴にワイン.デザートに黒くなるほど完熟したプラム(物凄くうまかった)がきょうの夕食となりました.
夜、月がすばらしくきれいだった.

そういうことで、今日はサントリーニの休養日。



2003年09月07日(日) サントリーニ(ティラ)島へ

宿の主人に「2泊しかしないのか」ときかれたけど、「はい」でござる。
ホントは、フェリーで移動したかったんだけど、今日は日曜でフェリーはない、ハイスピードボートしかないということでそうなった.ツーリストの女の子に「日曜に移動するの?」といわれてしまったけど.(ギリシャ正教の国だから、日曜は、みなさん、教会なんだろうか)
ハイスピードボートとは、高速艇のこと、乗ってみてわかったのは、日本の同じものよりずっと遅いということ.
サントリーニ島まで三時間である.
青い海の中を艇は、とっととっと走る.
座席指定の席には、シートベルトまで着いているが、船でシートベルトというのは、かえって危険だろうが、と思った.

サントリーニが近づくとみんな席を立って窓辺による.
サントリーニは(ギリシャ語ではティラ)その島の特異な外観で知られているのだ.
三日月型の外観だが、その形になるまで何回も火山爆発があったといわれていて、現に今の町は1956年にあった大爆発でいったん壊滅してまた再建された町だという.
島に近づくと「どこに港があるの?」という感じで赤茶けた断崖がでんとそびえる.そのてっぺんに白く雪が降ったように白いものがある.それが、家であり、町だ.
地球の歩き方に「サントリーニに限っては、船で入りたい」と書いてあったがその通りである.
いろいろなところに行ったが、こういうのは初めて見た.

着くと、船の出口に客引きが宿の写真を持って降りてくる人を待ちうける.
柵があってそこからは入れないようになっているので、そばにこられるうっとしさがないのが幸い.
一応、ミラベロの主人が紹介してくれた「ビラ マリオ」という宿の看板を探すがないので、さっさとバスに乗る.
何しろ、断崖絶壁の下に着くので、町まではバスでつづら折れの坂道を登りきらないと着かないのだ.だから、バスにさっさと乗るのが正解というわけ.
バスステーションについて、ここは地球の歩き方のご指南のように近くのツーリストオフィスに行く.カマリツアーという会社の窓口だ.で窓口にいたマリアという、いっかにもギリシャ人という感じの女性に勧められたのが「スタジオ マルキネス」という、キッチン、ミニプールまで着いたお宿.35ユーロである.
「シーヴィユー」のどのくらいするの?と聞いたら、最低でも60ユーロといわれて….逆にあなたは幾ら出せるの?何泊するの?と聞かれて「30から40ユーロまで、3泊」と答えたら「私のぜったお勧め」として紹介してくれてのだ.
2泊とかんがえていたのだが、島の姿を見ているうちに俄然3泊したくなったのだ.
アテネで4泊の予定だったが「考古学博物館」がオリンピック前改装で、閉鎖中。
(昨日の大学生君に聞いた)
ココ、1日予定のつもりでいたので、スケジュールにすきが出来たというわけ.

ところで宿、確かに写真を見るときれいだが、まあ写真て、一番きれいな部屋を写すしなあ。
「考えさせて…」といったら、マリアはココから5分だし、いってみていやだったら戻ってくればいい、また違うところを紹介するから、という。
うーん……結局、分かった、あんたのお勧めを信じるよ、といったら笑ってありがとう、といわれてね…(苦笑)
実際、この島の中心フィラはそう広くない.
程よく歩ける.
で、マリアにもらった地図で、マルキネスに行く.
入り口にブーゲンビリアの花のゲートがあって、部屋もキッチンも広々としてかつ清潔である.
バルコン、クーラー、テレビとそろっているし.
35ユーロ(安い)だが、安宿の雰囲気じゃない.
ハイ、きめ、だ。
これも、町に早く着いて(11時すぎ)良い宿が残っていた時間だからだ、何しろ、この島は国際観光地、7,8、9月のハイシーズン夕方には、宿がなくなるので有名なのだ.

やはり、一昨日からの疲れ……窓を開け放してやれやれとベッドにひっくりかえったら、ぐっすりと寝込んでしまった.
おなかが空いて目がさめたのは、2時近く.
街の中心テオトコプールー広場まで歩いて5分.そこまで行けば、何かあるだろうと、部屋を出る.
で、トーストクラブという「グリークサンドイッチ」のお店へ.
(ココですっかりグリークサンドにはまることになったのでした.)
作ってくれた店員の女の子。無愛想だったけど、すごくうまかった.
その後、絵のような街中をうろうろ。
夜の食事の為にレストランのメニューをのぞくが、結構高い.
しかし、グリークサラダが5から7ユーロもしている.
で、わたしは、「せっかくキッチンがついているのだ、自炊だ、テイクアウトだ」に突入した.
物凄く眺めのいいカフェで、アイスコーヒーとボルケーノ何とかと言うあまいケーキでお茶して、パン屋、スーパーに寄った.
パン屋で、オリーブブレッド.スーパーで、店先に並んだ果物と野菜から、トマト、きゅうり、ぶどう、ネクタリン、オリーブ、ミネラルウオーター。
近くの酒屋で地ワイン、ひえひえ缶ビール数本、ネスカフェの袋(ギリシャはネスカフェが普及している、サテンもそう)等などを購入して両手にぶら下げて帰った.
ヨーロッパの人は家族で来ると、今の私のようにキッチン付きにとまって休暇を過ごすこと多いようだが、私もその潜みに習って…
3日なので、メインデッシュはテイクアウトしてくることに。
オリーブの実を肴にゴロゴロとワインを飲むほうがレストランで行儀良く飲むよりずっと美味しいのだ.
で、ひえひえビールを飲んでまたシエスタ.

5時過ぎに起き出して、バスに乗って「夕日の町 イア」へ。
バスの男車掌、コリアン.チャイニーズの若い女の子がお気に入りらしくて、そういうグループにはには愛想をふりまいていた.
因みにこの島、コリアン、チャイニーズの旅人がすごく多い.
それも、若いグループ、カップルだ.
テレビででも、放映したのか?

イアは本当に写真のとおり、絵のとうりの町.
岬のはるかに沈む太陽を見るために大勢の人達が待っていた.
そのテラスカフェでちょうど結婚式が行われていて、見物だった.
そのカフェに入って、ビールを注文.
ビールを飲みながら日没を楽しんだ.
夕日代金5ユーロ(ビール代、街中で買う10倍、普通のカフェで飲む2倍かな)

夜は、パスタをテイクアウトしてきて、サラダを作り。
オリーブを肴に冷えたワインをちびちび.
デザートはぶどう.
このぶどう、甘くて絶品だった.

こうして、サントリーニの1日は終わったのでありました.
気になったのは、テレビで、イラクの暴動みたいな様子を流していたこと.
ブッシュ、サダムフセイン、ビンラデンなどの単語は分かるが、後はギリシャ語なので、皆目わからず。
また、なんかあったのだろうか???だった。



2003年09月06日(土) サマリア渓谷トレッキング

4時半おきで仕度をして、5時すぎにホテルを出た.
5時半のバスに乗って三時間、クレタ第二の都市ハニアという町まで行って更に一時間オムロス村へ。
そこから、サマリア渓谷を歩く.ヨーロッパ一深い峡谷といわれ、なかなかの景観らしい.
飛行機の遅れで身体が疲れているし、どうしようかなと思ったが、行こうと決心して、ホテルの主人に「朝5時半のバスに乗ってハニアに行ってサマリアを歩きたいが、早朝は危なくないか」と聞いた.主人「全然平気だ、寒くない身支度でいけ」といわれた。
確かに、長袖でちょうどいい。まだ薄暗い道は怖くも危なくもない。
エエ島じゃわ。

しかし、バスステーション、まだ真っ暗。5時15分よ、どう言うこと?
ホテルの主人に「バスのチケットはあすでも買えるが、今日のうちにバスステーションの場所を確かめて、かっておけ」といわれたのでその通りにしたのだが正解だった.
バスステーションがあいたのは5時25分.
乗るバスは真っ暗だが、すでにそこに人が数人集まっていたので判明。
やれやれ、のんきじゃのう。
バスのドライバーと車掌が来たのは、5時半頃.
バスの発車、5時35分.
海沿いの道を走るも、真っ暗、七時過ぎに夜が開けてきて前にどんとそびえる岩山や空がピンクに染まる、とても美しい.
きれいな若い女車掌さん、日本の子みたいにずっと携帯で遊んでいたが(ヨーロッパの携帯もショートメールができるとか、ただPCとのやり取りは出来ないらしい)わたしが「8時半のバスにのれるかな」と聞いたら「大丈夫」と保証してくれた.
8時10分着。チケットを買って、トイレに行き、コーヒーを買って。
ハニアのバスステーションは、私のようにオムロス村に行く人で込みあっていた.
実は昨日夕方、サマリアツアーに参加しようとツーリストで聞いたのだが「フル」といわれて…混みかたを見たら納得.今日は土曜だしな。
ギリシャのバスはまことに分かりにくい.聞いても、そこで待てとかっていわれるし。
やがて8時半丁度、放送が入って「18番バス」と判明.
といわれても、18番バスってどこだ、分からんな…人が動くほうに行って見たらあった。
ほとんど、まっさきに乗って運転手のうしろに座る.
そのうちにほとんど満員.
最後のほうになって東洋人の男の子が乗ってきた.
あいていた私の隣の席に座って「どこから来たのか」と英語で聞くので「日本」といったら、「どうも」と日本語へ。
日本からの大学生.
英文科だが、ギリシャに興味があったので来たとのこと(変わっている?普通、アメリカか英国に行かないか??)初めての海外で、地球の歩き方のほかに英文科らしく「ロンリ−プラネット ギリシャ」までもっている…
話しているうちに「ぼくの席が…」という話になってどうやら私が座っていた席がシートナンバーとしては彼の席だったらしい.あれマ、ごめんなさい.
でも、みんなそんなこと気にしていない.席を探しながらのってきた人いないもん.(去年のバルトでは私も気にしていたんだけど)長距離ならイザ知らず。
なんだか、私もアバウトな人になってきたわ……ごめんね、と一応わびましたわ。
因みに、彼、「聞き取りに苦戦してます」
ウン、私が聞き取れた18番バスという放送、彼は聞き取れなかったらしい.
まあ、私は「旅人」としては年季がはいっているし、そういう言う放送は、聞き取り力ではなくて、サバイバル力でわかるんだよね.
(ギリシャ語のあとの英語は、確かに独特のアクセントでききずらかったが、わたしは、オムロスという言葉、エイティーンという単語は逃さなかった、これをサバイバルといわずしてなんといおう)

バスはどんどん高度を上げて9時半過ぎ、オムロス村着。
多分2000メートルちかいはずだ.
すぐそばに見えている岩山のピークが2400メートル近いはずだから.
トレッキングといっても、歩き始めればほとんど遊歩道.
この高度から、ひたすら下って海辺(0メートル)まで出る.距離約18キロ。
下るだけの18キロってあとから膝やもも肉にダメージきそうだが…でもね、歩きたいのよね.
松林の中の石ゴロゴロの岩山を下る、松の香りが心地いい。
大学生君とご一緒することになったが、彼、移動の荷物(10キロほど)も背負っているが、若さだ、速い.ふだんジョギングや山歩きをするとか言うし、それは当たり間か.
いい年のおばはん、21歳の大学生君について行けるか、がテーマとなってしまった.
日差しが強いが、空気が乾燥しているので、ほとんど汗をかかない。これまた心地よし.
やっぱ、歩きはいいわ。
時々、岩山から染み出る美味しい水場がある.
ゴミ箱もあるが、それでも、ゴミ一つ、ペットボトル一つ落ちていない.
このあたり、すごいモラル。
ゴミで決して美しいとは言えないヨーロッパの町もあるがここのゴミなし、すばらしい.
途中に小さなギリシャ正教の教会(羊飼いのためか)があった。
圧巻は、狭く切り立った1500メートルの谷あいを流れている川にそっての歩き.
「1500メートル上から落ちてくる岩に注意」という看板があちこちにあったが
そんなのむだよねって感じの垂直の岩山なのだ.
とにかく、壮大な景色の中を午後の2時間は歩いた.
三時、無事にフェリー乗り場へ着く.
5時間の歩き.
かなり速いペースだったと思う.
21歳君に付き合いました.
一度、木の根に足を取られて転んで、もう一度は、石に足を取られて転びかけまししたわ.
21細君にビールをpご馳走して乾杯。
むっちゃ、ビールが美味しかった.
フェリーから見える海の色はまさにエーゲ海の色.
これまたすばらしや。

フェリー乗り場からハニヤまでバスで出て、またヘラクレオン行きのバスに乗って、ホテルに戻ったのは11時過ぎ.
つっかれました。
でも、歩きは楽しいねえ。
思わぬ同行者もできて良い1日でした.









2003年09月05日(金) やれやれ クレタ

昨日、4日、スキポール空港に行ってチェックインカウンターを探そうと、モニターを見上げたらな、何と「OAキャンセル」の文字。え、ええ……どういうこっちゃ。で、アライバルのほうを見るとそっちもOAキャンセル、ヨウするに何らかの理由でアテネからの飛行機が来ないで、こちらからの戻り便もキャンセルということらしい.
こう言うのって初めて…..どうすりゃいいのさ.インフォメーションに行って、私の乗る飛行機がキャンセルなのだが、と聞いたら、OAのカウンターに行けと言われていったらもう長蛇の列.
結局、夜9時40分初のKLMのフライトに振替になった.
後ろに並んでいた台湾から来たらしいご夫婦の妻の方が「全て予定が変更だ…」とぶつぶつ言う.
で、「私は、クレタまで行く、ホテルも取っている」といったら「それは大変」といわれてしまった。
カウンターで「クレタのホテル予約している」といったら「それは知らない、5日早朝5時45分クレタ行きのに乗り継ぐのがベストコネクトだ。アイムソーリー」と、わかい娘さんにいわれてしまえば「わかったよ」というしかなし。
すでに、12時近いし、家に帰るのもあほらしい、何より、鍵を落とすと悪いので置いてきたから、誰もいなかったら入れない.…で空港で夜まで時間をつぶすことに.
ミエコのオフィスに電話して事の次第を話して、ホテルにキャンセルの連絡をしてくれるように頼んだ.
それから、空港の探検.最後は屋上に行って飛行機の発着をながめて、夕方5時頃もらったミール券で夕食した.
KLM、アテネ着深夜三時前(アムスとは時差が1時間あって進む)、空港内は、やはり便の乱れのせいだろう。ごろね、ベンチ寝で満杯、ほとんど野宿村と化していた.
寝袋があったら快適だろうが、今回はあいにくとない.
仕方なく、手持ちのスカーフをしいて(アテネ空港はオリンピックに備えて出来たばかり..まだぴかぴかできれい)私もごろね.
こう言うのって、大昔インドの駅(女性専用待合室)で一度やったことがあるけどな…野宿嫌いの私が、アテネで野宿の皮肉よ。
大理石の床は冷えるし、眠れない.…となりのイタリア人ファミリーの元気な話し声を聞きながら(当然寝られない)つくづくと思った.「旅は体力、お金も必要だが、こう言う緊急時に耐えられる体力があるうちに行きたいとこに行くべしと」

★ ………………………… ★

クレタ。ヘラクレオン6時50分着。
降りたとたん、強い西風にあおられてその風の強さと寒さにびっくりした.
昨日は悪天候(強風)で飛行機が飛ばなかったのが納得できた.
空港の気配で、危険の度合いを感じてバスかタクシーか決める私だが、全く大丈夫というのどかさが漂っていて「よし、バス」と決めた.
このところ、取り合えず飛行場を出ると「タクシドライバー」とか「客引き」たちと闘いをするのが儀式みたいな国ばかりを訪ねていた私には少々物足りない(病気?)
道路方向に行って「シティセントラルに行きたい、バスチケットを買うのはどこ」
と掘建て小屋みたいなとこにいたおじさんに聞いたら「ここだ」と、0.9ユーロのチケットを売ってくれた.
バスチケットを買って、入り口でチェックを受けるか、時間刻印器に入れるのがこの国のバスのやり方と「地球の歩き方」にかいてあったのでそのとおりに。
クレタには、飛行場が2つあるのだが、ヘラクレオンに来たのはひとえに、近くに「クノッソス」があるからだ.

町の中心についてバスの運転手から「ここだ」といわれて降りたが右も左も分からず.適当な通りに入って、ストリート名を見上げればギリシャ語。文盲だ…まあ、適当に歩いていたら、目印も見つかるだろうさ、とずんずん行く。
日本的にいえば、サイズは地方都市って感じ。
姫路なんかの法がずっと大きいよ.

ついに教会の前に出たので、地図を見るも、やはり分からず.
通りかかった若い子に「エルグレコパークはどこですか」と聞いた.
ついでに、今クレタについて、予約しているホテルを探している、ギリシャ語がよめない、迷子だ.…と笑いながら話したら、びっくりした顔をして「じゃ、あなたのホテルまで私が連れていこう、どこか」とまあ、親切だ.
しかし、朝の忙しい時間、「エルグレコパークがわかれば、その近くだから行ける」と。
彼女、先に立って連れていってくれた.

★横道話★
因みにスペインの宮廷画家として知られているエルグレコ、彼はスペイン人ではない。ギリシャ人だ。エルグレコというのは、ギリシャ人という意味とか.
彼はクレタの人だった。で、公園があるわけ。
★★

お陰さまでやれやれ無事にたどり着きました「ミラべロホテル」
カウンターに行くと、宿のおやじさん、電話で聞いているよと。テクラブ氏が一番キャンセルの電話をしてくれていたお陰ですんなり事は進んだ.

部屋で、ベットに横になったとたん爆睡.
でも、11時すぎ、目をこじ開けてすっかり暑くなったヘラクレオンの町へ出かけた.朝、誰もいなかった町は、観光客と土産物屋でおおにぎわい。
とおり端にあったパン屋で「スピナッチパイ」(でかい、)を買って、同じく通りのキオスクで冷たいお水を買って、買い食い、歩き食い状態。
あちこちで同じように、歩き食いの人がいるのでちっともお行儀悪いって感じがしない.
で、クレタ考古学博物館だ.
何で私が眠たい目をこじ開けて出てきたのかといえば、ココ、15時まで。
シエスタ習慣がるので、多分その後お昼ねとなるのだろう…
博物館内、クノッソスを始めとしたクレタで栄えたミノア文明の遺跡で発掘された出土品の全てが収納されている.必見!の場所なのだ.
世界史の教科書なんかでもここで見つかった「つぼ」が口絵としてのっていることがある.
とにかく、おびただしい数のセラミックの大壷や、生活雑貨的な品々.
印象的だったのは、武器の類がすごく少なかったことだ.
高度の文明には必ず「戦争」の影がちらつく.

★横道..ミノア(クレタ)文明について★
紀元前3000年頃から1400年に、クレタ島を中心に栄えた文明。特に、紀元前1800頃には、クノッソスやエフェストス、マリアなどに宮殿が建てられてミノア文明の花が開く.
建築、壁画、文学、貿易、果樹栽培に優れ、当時の文明としては、世界最高水準.
しかし、火山の爆発やミケーネ人の攻撃(?)などで滅びたといわれている.
またアトランチス伝説(プラトンが書いている)箱の島を中心にしたものではないかといわれている.
★ ★ ★

博物館で、きれいな壁画の色や、感動した後にクノッソスに向かった。
バスで20分ほど。
バスの車掌、着くと「クノッソス、クノッソス」と叫ぶ.
そりゃそうだ、観光客、みんなはじめてで、どこがどこだか分からない、苦笑いして降りた.
さてクノッソス
小高い丘のてっぺんに立てられた宮殿だったらしい。
ここには「ケンタウロス伝説」がある。
即ち、ここがミノス王がお后が牛頭人身で生んたケンタウロスを封じ込めたラビリンス(迷宮)だったというヤツ。
確かに、石と大理石、を主とした宮殿は3層4層にもなり、まさに迷路のように部屋が分かれている。また水はけがきっちりと考慮されて見事な技術である.
ココに、私は考古学館で感動した壁画(フレスコ画)が貼りつけられていたのだ.
一辺160メートルほどで部屋数は1200余りもあったといわれている.
やはりココでも、通常はあるはずの「塀」がない。
ヨーロッパ中世、中国の大きな町は、みんな敵の襲撃に備えて町を塀で囲み要塞と化していた.それを考えれば、何とおおらかな宮殿か、と思う.
戦いがなかったんだよね.すばらしいことだよね.

見学を負えて、町に帰れば夕方、広場でナッツ売りからピスタチオ買って食べて(名物だ)をそそくさと夕食とビール、帰ってシャワーでまたま爆睡。
長い1日でした。



2003年09月04日(木) ギリシャ出発

今、オランダ時間、午前9時10分。
後、30分ほどしたらスキポール空港へ向けて出かける。
荷物を小さくしたら、サンダルが入らない。
で、スニーカーを置いてはじめからサンダルで行こうか…と悩んでいるところ。
クレタでトレッキングするのでね.…サンダルといっても裏がしっかりしているもので、トレッキングも出来そうなんだけど….さてどうするかね。
とにもかくにも行ってきますです.



2003年09月03日(水) モリアの誕生日プレゼント

午前中は、ギリシャ資金をおろしに銀行に行って、トルコ屋さんで生姜やぶどうを買ってきた。オランダのスーパーには、ハーブはあるが生姜はない。
で、生姜入りのいわし煮を作った。
午後から何だか眠くてしこたま昼寝をしてしまった。
やや風邪気味かもしれない。
九月になって、急に寒くなった気がする。
三時半に起きて、ミエコが帰ってきたら絶対に「あんた、ギリシャに行くしたくできているの」といわれると思ったので、荷作り開始。
ハンドバゲージで行くつもりなので背中に背負うザック一つで出来あがり。
お遍路に行くときのザック一つでギリシャにも行きます、です。
明日の朝、シャワーを浴びるヒマ、あるにはあるが、でも慌しいのでそれもついでに済ました。

明日は、モリア(末っ子、10歳)の誕生日で、日本のおばあちゃんからは昨日たくさん日本食品がとどいた。
私も明日はいないので、誕生日の前倒しでケーキと思ったが、ケーキの代わりにおもちゃ、となった。
予算20ユーロでバーゲンをやっているおもちゃに行ったが、彼が欲しかったのは、33ユーロのクネックスというレゴみたいなもの。そこから動かないで「20ユーロより高い」とぶつぶつ言うので、かわいそうになって、予算大幅オーバーでプレゼントした。
「自分でプレゼントを選んだのは始めてみたい」
というので、まあ、良かった。
でも、口うるさいおばさんのわたし、レジの前で「モリア、ありがとうといってから受け取るんだよ」とまたまたお説教。日本語で言ったんだけど、レジのお姉さん、多分言っているのこと分かったんだろう、にかにかと笑ってモリアを見ていた。
今彼は、部屋で早速作っている。

明日の12時40分、スキポール空港からアテネへ、すぐにクレタ島行きに乗り換えて、夕方7時前にはクレタだ。
時差+1時間。
帰りは13日の昼だ。
明日からまたしばらく日記は書きません。
ではごめん。



2003年09月02日(火) 何もない一日

良いお天気。
掃除をして、読書。
読書は、オランダシステムについての本。
色々頭の中では考えているのだが、文字にならず。
今朝、ネットスケープからこのエンピツサイトにアクセスしたら、登録が出来ずに今は、マイクロソフトから開いて書いている.
これって、昨今のウイルス騒動と関係あるのだろうか・・…

九時前に夕焼け。
本当に日が短くなった。



2003年09月01日(月) ハブテ家のパーティ

昼からミエコサンがお休みを取って帰ってきたので、一緒に駅近くのニューマルクト(チャイナタウン)へ行く。そこで、土曜から来ているココちゃん夫妻に会って飲茶の昼食をして三時の汽車でブラッセルに行く彼らを送った。
帰ると、テクラブ氏が一生懸命にご飯つくりをしている。
アムスに来ていた彼のお母さんの妹とその娘がノルウエ−に帰るので、きょうはこの家でアムス近辺に住んでいる親類縁者がこの家に集まってパーティだ。で、そのごちそうをつくっているのだ。ミエコサンは「私に相談しないで決めた」とご機嫌斜めだったが..確か去年も彼らは帰る前に夕食に来た。
で、今年はそれが少し大掛かりになるというわけ。
彼がお客を招くときの定番はクスクスという料理.それに、親戚の女性がラザニア
を作ってきて。後サラダ、デザートみたい。
子供部屋でココちゃんがもってきてくれた週間新潮(どっかの飛行機会社のラウンジからこっそりもってきたもの)を読んでいたら、居間はいつのまにかすごい人。子供もたくさんいて、総勢30人くらい??
知っている人もいるので、顔をあわせたらご挨拶をする。
一番の知り合いは、テクラブ氏の妹のサバ、彼女も今日は来るようだ。
6時すぎ、みんなが大体来たようなので、テクラブ氏が感謝の祈りをして、夕食始まり。
といっても、キッチンに行って、てんでに用意されたご馳走を取って、もって来てスキな場所で食べるというもの.アルコールは出ない.
いつか、やっぱりこういったパーティにいったとき、エチオピアの酒というものを飲んだことがあるがすっぱい味がした。
お国の郷土料理、インジャラが今日はなかった。
そういうところに、かれらがこちらに来て長い….ということを感じた。
サバはアフリカンレストランをやっていて、彼女がきたとき大きな包みを持っていたので「インジャラ?」と聞いたら、デザートとのこと。確かに見たらケーキだった.
食べ終わると、何人かの人が自主的にお皿洗いを始めてかたずける。
で、お茶とデザートになって大いにおしゃべりが盛りあがり、子供達はあちこちで遊び始め.…で。
5時すぎから集まり始めた人々は、9時頃にはみんな帰った。時に、小さい子供達は、明日が学校があるし、もう寝なければならないので.
最後は、明日帰る母娘。彼女達も昨年会った私のことを覚えていてくれてエリトリア(エチオピア)式に、ハグしてほっぺにキスされちゃったね。
ミエコが「彼女は、12月に戻ってきて、ナオミと一緒にエリトリアに行くかもしれない」と私の今後の予定を英語で話したら娘のほうが「ほう」という顔をして見るので「多分」(といってもメイビーでなくて、プロバブリ)と答えた。
かたずけは私も手伝ったが、最後の片付けシメはテクラブ氏。
これがエリトリア式(エチオピアの隣の国で1993年に独立、テクラブ氏一族の故郷はココ)の宴会です。
みんな、それぞれ「遠い国から来た」テクラブ氏のおくさんミエコサンの友達の私にフレンドリーでさりげなく気を使ってくれて。終わりました。
でも、夜十時頃、日本茶を飲んだらほっこりしました。


 < 過去  INDEX  未来 >


moheji.s [MAIL]

My追加