おひさまの日記
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28日朝方、父が息を引き取った。
たくさんの人に支えられ、助けられ、
29日通夜と30日告別式を無事終え、
骨になった父が家に帰ってきた。
色々なことがあった。そして、色々なことを感じた。
書くというのは本当に不思議な作業だ。
書いているうちに自分でも気づかなかった自分の奥にあるものに気づいたり、
それ言葉にすることによってさらに自分の中が明確になったり、
書いているうちに自分の中のどろどろを
最終的にアウトプットしたい形に変えることができたり、
自分で考えてもいないことがするすると浮かんできて
ほぼ無思考でキーボードを叩いていたり、
その無思考の中で生まれた言葉が自分へのメッセージだったり。
とにかく、私にとって書くということは、
おおげさかもしれなけれど、生きるということかもしれない。
好きなのだよね、書くことが。
2002年からウェブで「おひさまの日記」を書き続けてきた。
時に場所や名前を変えつつも。
それは時にマスターベーションのようなものでもあるのだけれど。
おひさまは私にとってなくてはならない場所。
そんな場所で、父の死を通して起こったことや感じたことを書きながら、
私はまた自分を見つめていく。
父の死で受け取った贈り物はいっぱいあって、
今の時点ではまだ気づいていない贈り物もきっといっぱいあって、
私はそれを受け取るためにきっと書くのだと思う。
父も書くことが好きだったなぁ。遺伝なのだろうか。
私は痛くて泣いた。
悲しくて、つらくて、さびしくて、悔しくて、ふがいなくて、泣いた。
けれど、それは父が亡くなったからではなく、
父が亡くなったことによってあぶり出された感情だった。
そんなものを感じていくうちに、
私は父が亡くなった純粋な悲しみに辿り着くのだろう。
人の死には贈り物がいっぱい。
父の置き土産をひとつひとつ眺めて、感じて、昇華させていこう。
ばいばい、お父さん。
私、あなたの娘に生まれてよかった。色々あったけど、それでもそう思うよ。
いつもおひさまを読んでくださっているみなさん、
本当に、本当に、ありがとうございます。
とっても嬉しいんだよ。
2010年09月29日(水) |
私たちは守られている |
YAYOIさんのブログに素敵な詩が紹介されていました。
読んで涙しました。
ぜひ、皆さんにもご紹介したい。
【私たちは守られている】
何度も読んだ。
そして、これからも何度も読むであろう詩。
YAYOIさんのブログは、心にぽっと灯が灯るやさしくてあたたかいブログ。
過去記事もぜひ読んでみてね。本当に素敵な女性なの。
昨日、こうだと思っていたことが、
今日、もう違うものになるかもしれない。
そして、それでいいんだ。
毎瞬、毎瞬、あらゆる選択を繰り返し続ける。
だから、時には1秒前の自分と違う自分になることもある。
そして、それは時々勇気がいる。
だからこそ、自分の選択に胸を張る。
ひょっとしたら、それが間違った選択かもしれないね。
でも、安心して。
どんな選択をして、どんな道を通っても、
その道でしか体験できないことを体験するために、
そして、そこから大切なことに気づいたり、学んだりするために、
それはそこにある。
そう思える時、人生に間違った選択はない。
許せない自分が存在したどんな瞬間も、
そして、それに心痛める瞬間も、
私達は愛そのもので、そこから1ミクロンたりともブレてはいない。
すべてはうまくいっているのだということを、
私は生まれ落ちてから今この瞬間までのすべての出来事を通して学んだ。
今この瞬間がどんなものであれ、その根源にあるのは愛で、
その懐の中、私達は偉大で尊い作業をしている。
そして、その中でよりよくなる自由が与えられていることが最大の贈り物。
人生は神様からのギフト。
2010年09月22日(水) |
みんな見たいように見て感じたいように感じる |
この夏は暑かった。
アツガリーナな私はほぼ毎日タンクトップ。
Tシャツで土方焼けするのを避けるってのもあったし。
そんな私を見て、何人かがそれぞれ違うことを言ってきた。
「タンクトップ似合うね」
「冷房の部屋で肩寒くないの?」
「結構筋肉ついてるね」
「若いカッコしてるね」
「なに露出してんのよ」
面白い。
私がタンクトップを着ているという目の前の状況を見て、
みんな違うことを言った。
そして、それぞれの言葉の裏には、それぞれの考えや気持ちがある。
ある状況を見て心が反応し、それが言葉になる。
「タンクトップ似合うね」
そう言った人は、見てそう感じて褒めてくれたんだろう。
「冷房の部屋で肩寒くないの?」
そう言った人は、自分は冷えやすく私が薄着をしていると感じたんだろう。
「結構筋肉ついてるね」
そう言った人は、私の肩や腕の筋肉に目が行ったんだろう。
「若いカッコしてるね」
そう言った人は、タンクトップは若い人が着るものだと思ってるのかも。
「なに露出してんのよ」
そう言った人は、私の露出度が高いと感じたんだろう。
タンクトップひとつでこんなに色々な見方がある。
「○○は△△だ」
色々あてはまるね。
「あの人は自分勝手だ」
「あの人は私の気持ちをわかってくれない」
「あの人は私の気持ちを無視してる」
「あの人は自分がどれだけ迷惑かけてるかわかってない」
「私が苦しいのはあの人が○○なせいだ」
「私がこんなふうになったのはあの人に○○されたからだ」
そう感じるのは主観。
絶対に「○○は△△だ」というわけではない。
ただ自分がそう感じているだけで、
実際のところはそれが本当かどうかはわからない。
ある時、娘の同級生のママに挨拶したら、目が合ったのに無視された。
なんか感じ悪っ!って思ったんだけど、
少しして私を追いかけてきて彼女が言った。
「こんにちは、さっきごめんね!
水飲んでて口の中に水入ってて返事できなかった」
ヤな感じ!と思ってムカついていたそのママが、
急に私の中で素敵な人になり、好感度急上昇(笑)
本当にわからないもんだ。
それだけ私達は自分の世界の中でそこにあるものに勝手に意味付けをしてしまうもの。
だから、自分を含め、
人はそういうものの見方をするものだ、
そう心に留めておくと素晴らしい。
そうすると、あの人のせいだ、ああされたからこうなったんだ、
そんな被害者的場所から抜けやすい。
抜けると現実がぐいぐい変わる。
自分が相手を見て感じることはあくまで主観であり、
自分が見たいように見て感じたいように感じていることを常に意識していることで、
人とのコミュニケーションがずっとスムーズになる。
感じた感情はそのまま持っていたとしても、
状況に対して中立な自分が生まれるからだ。
自分自身に責任を持つとはそういうことを言うのだと思う。
たとえ、どんなに相手が悪いように感じる場面でも、
自分の心理反応だけでは決めつけられない何かがある。
だからこそ、そんな時にこそ、
感じることすべては自己責任のスタンスを意識していられたら素晴らしい。
あれよ、あれ、「北風と太陽」。
感情的な時は北風になりがちだけど、
そんな時こそ太陽のように振る舞うことが、
今までと違う現実をぐいぐい引き寄せるきっかけになる。
どっかでちょっと思考回路や言動を変えてみる。現実も変わる。
そして、アツガリーナな私は今日もタンクトップだった(笑)
私はここ半年以上毎日すっぴんで過ごしている。
朝、顔を洗って、ローションで保湿して、UVケアしておしまい。
私が使ってるUVカット、
しっとり潤う上に肌に負担がなくてすっごくいい!
塗ってる感じがしなくて肌が楽。
炎天下に長くいる時だけアリーのSPF50を塗って、
それ以外この夏は全身これ一本。
秋冬もこれで行くつもり♪
仕事の打ち合わせや外出の時は、ポイントメイクだけする。
なぜファンデを塗らなくなったのかと言うと、
塗ってまっせ!って感じになるのがイヤだったから。
それに塗るとシワも目立つ。
よく塗って隠すって言うけど、塗ると目立つんだよな(笑)
夜になると、ファンデがよれてたり、シワくっきりだったり。
それがイヤでさー。
なちゅらるびゅーちーがいいなぁと思い始めて。
最初は、目の下の小じわが目立たないように、
目の周りだけファンデを塗らないようにしてたんだけど、
それがいい感じで、いつの間にか全然塗らなくなった。
やめてみたら、これがまたすっごくいい感じ。
まず、気持ちいい、心地いい。そして、肌絶好調。
私はテレビを全く見ないので知らんのだけど、
友達が「魔女達の22時」で、
ある女性が紫根を使った手作り化粧水を使って肌が劇的に若返ったってのを見て、
ネットでその紫根を買ったからと分けてくれたの。
せっかくだからと、それで化粧水を作って使ってるんだけど、
それが私には合ってるんだと思う。
つるんつるんなんだよ、肌。
すっごく調子いいの。
小じわも目立たなくなったし。
私は作った化粧水にグリセリンと尿素を入れて保湿できるようにしてみた。
その上からまたいつものローションも塗ったりするんだけど。
と、まあ、余談(笑)
以前は、いかに塗るか、どれだけ塗るか、だったけれど、
今は、いかに塗らないか、塗るものを減らしていくか、になった。
でも、だからって、
さっき起きたばっかりのおっかさん的風貌にはならないように気をつけてる(笑)
ダーリンのために。
そして、なにより自分のために。
これは、ファンデの話だけど、それって色々なことに言えるのかもな。
年齢を重ねたら、
余分なものを自分からなくしていくことも必要になってくるんだなぁと感じてる。
ココロもカラダも。
たくさんのものを取り込んでいっぱいになったら、
必要なものだけ残してバイバイって。
最後に残るのは、素の自分自身。
今日はプチおでかけ。
帰りに家族で外食をしようと話がまとまる。
お昼を軽く済ませいていたので、全員レベルマックスの腹ぺこ。
そんな時に限って大渋滞で車はほとんど動かない。
みんなおなかと背中の皮がくっつきそう。
口々に訴える。
「おなか減ったー」
「ひもじー」
「ぺこぺこー」
急に前の車の運転席のドアが開き、おじいちゃんが降りてきた。
???と思っていると、
こちらに向かって「ども」みたいな感じのゼスチャーをし、
トランクを開けた。
「どうしたんだろ?」
一瞬、全員でどよめいた。
「腹減ったんじゃね?
おにぎり
なんか取り出したりしたらおもしろいよね」
腹ぺこな私が腹減りネタをかますと、
そのおじいちゃんは、トランクから、まさに
おにぎり
の2個入ったビニール袋を取り出し、運転席に戻っていった。
絶妙だ!絶妙過ぎる!全員大爆笑。
今日の私は冴えていた。
思いついて口走ったことが面白いほど的中したのだ。
ということで、思いつく楽しい素晴らしいことを片っ端から口走った。
これで未来は安泰だぜ(笑)
「アンナは?
ねー、アンナのことはーっ?」
そう娘がせがむので、
「チョーイケメンで、ないすばでーで、性格もよくて、最高の彼氏」
そう言ったら後部座席で大喜びしていた。
安心しろ、娘。
今日のママは冴えてるぞ(笑)
2010年09月18日(土) |
好きなことをやってる…つもり? |
9月16日の続き。
ワクワクすることや好きなことをやっているようで、
実は全然そうじゃないってケースの話。
好きなことをやると言っても、その行動には二種類ある。
ひとつは、大好きで、ワクワクして、楽しくて、やりたくて仕方なくて、
誰かに止められなければ寝ないでいつまででも夢中でやってしまうようなこと。
そうした行動の根源にあるのは、それをやりたいという純粋な衝動であり、
それをすること自体がまさに目的。
もうひとつは、同じく、やりたくて仕方ないことをやることなんだけど、目的が違う。
そうした行動の根源にあるのは、実はどうしてもそれをやりたいのではなく、
それをやることにによって何かから逃げたいという衝動。
それをしている間は現実のイヤなものを感じずに済むので、それにハマっていく。
時には自分でそれが好きなのだと錯覚してしまうけれど、
それをしていないと不安定になったり、つらくなったりする。
だからしていないといられない。
前者は純粋に楽しくて、それをしていない時、苦しくなったりせず、
むしろ、それをすることによって、生活全般がいい感じになるのが特徴。
後者は、それをしていない時、上にも書いたように、
不安定になったり、つらくなったりする。
エスカレートしていくとそれをしないではいられなくなる。
依存であり、アディクションと呼ばれるもの。
その辺で見分けがつく。
好きなことやってるつもり…がそうじゃないじゃんか!って気づいたら、素晴らしい!
と、まあ。
意識的に大好きでワクワクすることをしていく時、
その違いをふまえた上で、自分のしていくことを選択するとさらに素晴らしい!
よ♪
好きなことをする、ワクワクすることをする、ってことについて、
まだまだ話は続くんだな。
次は気が向いた時(笑)
2010年09月17日(金) |
Life is beautiful |
仕事の打ち合わせから帰ると、
どんより曇った朝とはうってかわって、
おひさまが元気な青い空になっていた。
朝、慌ただしくして庭の花や木に水をやるのを忘れていたのを、
乾いた土の色を見て思い出した。
セッションルーム兼emaの事務所の中には、
観葉植物とプチトマトが密林ジャングルを作っている。
密林ジャングルもカラカラだった。
庭に水をまき、ホースを引きずりながら事務所の中に入ると、
一夏で大きな茂みとなったくプチトマトの葉っぱがくたんとしていた。
くたんとしながら、最後の力を振り絞るように、
あちこちに赤い小さなトマトをつけていた。
わぁ…
もうトマトの季節も終わり。なる実も小さい。
けれど、元気よく真っ赤。
こんなにたくさん赤くなるまで気づかなかったんだな。
毎日水をやってるのに。
それだけプチトマトに心を配ってなかったんだと思った。
義務で水をやっていたんだなぁ…と気づいた。
ごめんね、喉乾いちゃったね、そうトマトの木に言いながら水をかけた。
せっかく実を付けてくれてるんだ、
明日のアンナの運動会のお弁当には、この子達を入れよう、そう思った。
手元に入れ物がなかったので、
誰も見てやしない、スカートを前にひっぱってくるんとめくり、
そこにトマトを摘んで入れていった。
摘んでも摘んでもまだある。
あっちにもこっちにも。
夢中になって摘んだ。
ずっしりと重くなってスカートが沈む。
いつまでも赤いプチトマトを探して摘んだ。
プランターはふたつあり、
枝は天井に届くほどに伸びて重みでしだれているので、
とにかくたくさんのトマトがあちこちにあるのだ。
トマトを摘みながら、奥底から湧き上がってくる穏やかであたたかいキモチ。
ああ、幸せだなぁ、そう思った。
なんて幸せなんだろう、って。
トマトを摘んでるだけなのにね、今この瞬間すべてがここにあると感じた。
私は完全に満たされていた。
うれしくてやさしくてあったかくて幸せで泣きそうだった。
不思議な感覚。
言葉にならない感覚。
なぜそんな気持ちになったのかなんて説明できやしない。
植物を育てるのが大の苦手の私、
でも、どうしてもプチトマトを栽培したくて、
庭師でもあるabuにおねだりして買ってもらったプチトマト。
プランターに植えるのも、肥料をあげるのも、添え木をしてやるのも、
みんなabuだった。
私は慣れない手つきで水をやるだけ。
でも、すくすぐ育つトマトが、
そして、そのトマトを家族で食べるのが本当にうれしかった。
慌ただしさに流されて、そんな大切な気持ち、すっかり忘れていた。
こんなに実をつけてくれてありがとう、そうトマトの木に言った。
明日アンナのお弁当に持っていくよ、残りはみんなで食べるよ、って。
摘んだトマトを洗って口に入れた。
夏の終わりの味がした。
甘くてちょっとすっぱい。
おいしい。
命の味。
涙が流れた。
心を向けるだけで、自分の周りにはこんなにも愛を与えてくれるものがあることに気づく。
口をきけない植物も、動物も、そして、物でさえも。
私はなんて完全なまぁるい世界に生きているんだろう。
そして、親も、家族もみんなみんな愛を与えてくれている。
形として与えられてきたものはいびつだったかもしれない。
仕打ちと呼びたいようなものだったかもしれない。
けれど、その奥に目を向ける時、そこには愛がある。
それがわかるようになったのは、
それがわからずに悲しみと寂しさと苦しみと怒りと憎しみにまみれていた時期があったから。
決して許すもんかとこぶしを握りしめていた時期があったから。
そして、そういう時期はあって然りの時間であり、
私にとって尊いものだった。
私が生まれ落ちてから今この瞬間まで、
どの体験が欠けても、どの瞬間が欠けても、今の私はいないに違いない。
今の私になるためにすべてが必要だった。
人生はなんて美しいんだろう。
きっと、トマト達は、最後の力を振り絞って実をつけながら、
心を向けた私につながって、
大切なことを言葉なく語りかけてきたに違いない。
だから涙が止まらないんだろう。
キッチンの椅子に座って、えっ、えっ、としゃくり上げながら食べるトマトは、
今まで食べたトマトの中でいちばんおいしかった。
いつもこうして神様からの素晴らしい贈り物を受け取っている。
ありがとう、ありがとう、ありがとう。
私は生きています。
人生は本当に美しい。
2010年09月16日(木) |
やっておしまい!(ドロンジョ風に) |
やりたいことをやろうとした時、
それはそれはとんちんかんな呪縛(笑)にかかっていることに気づいた。
その呪縛とは!?
「才能がないからやっちゃダメ」
「下手だからやっちゃダメ」
「未熟だからやっちゃダメ」
「苦手だからやっちゃダメ」
という思い。
んまままままーーーっ!!!
奥の方にそんな思いがあって、それがやりたいことにブレーキかけてた。
私ったら(笑)
「才能がないからやったってどうせダメだ」
「下手だからやったら恥ずかしい」
「未熟だから認めてもらえない」
「苦手だからやったって上手くなれない」
んまままままーーーっ!!!
思ってた、思ってた、そんなふうに思ってた。
私ったら(笑)
そうやっていくつの好きなことややりたいことを封印してきたのだろう。
好きなことのような気がするけど、やろうとすると気乗りしないんだよねぇ、
そんなものをよーく観察すると、陰にそんな思いがあった。
先日、敬愛するセラピスト山志多みずゑさんの【ソース】のワークショップに参加するに当たり、
事前に【ソース -あなたの人生の源はワクワクすることにある-】の本を読んだ。
そこには、
「才能がなくても、苦手でも、下手でも、ワクワクすることならやっていい」
そう書いてあった。
それを読んで思った。
「え?いいの?やっていいの?」
そして、心が軽くなった。
解放された、まさにそんな感覚。
鉄の重い甲冑をガシャンと脱ぎ捨てて、
シフォンのやわらかい服を着たような、天女の羽衣をまとったような、そんな気分。
うまくできなくて、笑われたり、叱られたり、順位をつけられて判断されたり、
そんなことを繰り返すうちに、
うまくできないことによって自分に訪れる外からの何らかの圧力を感じるものがイヤで、
あ、それ、そんなには好きじゃないっス、そんなにやりたくないっス、
って、思いを変換してたんだなぁ。
好き、ワクワクする、やってみたい
↓
うまくできない、自分で才能がないと思っている
↓
笑われる、叱られる、低い評価を与えられる
↓
恥ずかしい、悲しい、つらい
↓
やらない、やるもんかーっ
なるほどーっ、なるほどーっ。
あなたはそんな呪縛にかかってませんかー?
かかってたら、今この瞬間ぶっ壊して。
それ、インチキだから(笑)
私は決めた。
ヘタクソでも発展途上人でもいいから、好きなことはやるぞー!と。
だって、ほら、やっていいって書いてあったし(笑)
好きなこと、やってみたかったこと、ワクワクすること、やろうよ。
年齢なんて関係ない。
状況なんて関係ない。
自分の思いひとつ。
そう、
やっておしまい!
ドロンジョ風に。
ええでないですかー、上手じゃなくたって好きなら。
得意じゃなくたって楽しいなら。
私の場合、手近なところでは、
DVDを借りて映画を見るってこともやり始めたワクワクのひとつ。
忙しいからとか、時間がないからことか、
ほざいてる言い訳大魔神の自分を軽くスルーして、
小さいワクワクを積み重ねてる。
変わってきてますよ、生活が、確実に。
ワクワクすることをしていると、
たとえそれに意味がないように思えても、
全然収入につながらないじゃんって思っても、それでいいの、
わらしべ長者になるんだから。
そのワクワクすることが次のすっごくいいものへ、
またその次のすっごくいいものへと、どんどんつないでくれて、
最後にはすべてがうまくいくようになってる。
好きなこと、ワクワクすること、やりたいことなんてわかんないよ、という人、
まずは自分がイヤイヤやってることをやめることから始めよう。
ということで、私は郵便局を辞めたんスよ(笑)
どうやって生きていったらいいかわからなくなっちゃったよ、
そんな人は、一度ぜひ読んでみてください。
【ソース -あなたの人生の源はワクワクすることにある-】
そして、それを深めて実際に自分の人生に生かすために、ワークショップに参加したらもっと素晴らしい。
このページには自分の状態をチェックするテストもあるよ。
あ、ワクワクすることや好きなことをしているようで、
実は全然そうじゃないってケースがある。
好きなことをしているつもり症候群。
それについては次の日記で。
先日、フォスター・プランのスポンサーシップに参加した。
ご存知の方も多いと思うけど、
月々定額で途上国の地域の発展を支援するシステム。
以前から興味があって、いつか参加したいとずっと思っていた。
そして、こう考えていた。
「生活にゆとりができたらやろう」
って。
そして、
「それじゃあ年収1000万円になっても同じこと言ってるだろうなぁ」
って(笑)
私が支援してるのは月々3000円。
3000円の価値は人それぞれ違うと思う。
「たった3000円」と感じる人もいれば、
「3000円も」と感じる人もいるだろう。
そして、それを自分以外のために使う時、
色々なことを考えるんじゃないかと思う。
私の場合、たった3000円、でも、それがあると助かるのよね、
化粧品も買えるし、学校の集金にも使えるし、なぁんて考えていた。
だから思ったのだ。
3000円あったらあれもこれもなんて考えないくらい
生活にゆとりができたらやろう、って。
でも、ある時ふと思った。
「私のそんな考えこそがゆとりをなくしてるなぁ」
って。
ぶっちゃけ、生活費が3000円減ろうが生活は全然変わらない。
買い物に行くと、
お菓子をひとつ、おしょゆが特売だから1本、
タイムサービスで安いこれをひとつ、なんて、案外余分なものを買っている。
そんな気まぐれであっという間に3000円は使っている。
ゆとりがあるから買うのだ。
明日も知れない財布の中身なら買いはしない。
そんな自分の今の状況が、とても、とても、ありがたいものだと気づく。
そんなふう↑に3000円を使うなら、
自分以外の誰かや何かに役立つ使い方をしようと思った。
そう考えるとワクワクした。
後でやる、今度やる、いつかやる、と言いながら、結局やらないアンナによくこう言う。
「『後で』と『今度』と『いつか』と『お化け』は来ないんだよ」
って。
そうなんだよなー、いたたたた(笑)
だから、やりたいことに「いつか」をつけるのをやめた。
まず母ちゃんが率先して体現(笑)
そして、早速フォスター・プランの活動に参加申し込みをした。
数日後の今日、おっきな封筒が届いた。プラン・ジャパンからだ。
プランでは、家族や子供を単体で支援するのではなく、ある地区を支援する。
その地区の中のある家族の子供ひとりが自分のスポンサード・チャイルドとなり、
チャイルドや家族と手紙や写真での交流を通して、
プラン・ジャパンの活動の様子やコミュニティの暮らしぶりなどをこちらが知っていく。
私が引き合わせていただいたチャイルドは、アフリカ、ケニアの8歳の女の子。
写真も一緒に入っていた。
不思議な気持ち。
普通なら死ぬまで一切の関わりもないはずの遠い国の女の子と、
こうして縁を持つことができるなんて。
アンナを呼んで、フォスター・プランについての話をした。
そして、女の子の写真を見せた。
「新しいお友達だよ」
アンナの目が輝いた。
「アフリカにお友達!?」
たった3000円、
そう思いながらも出し惜しみしていたお金という形のエネルギー、思い。
現地で活動してくださっているスタッフの方々にすべてをお任せしての
小さな「どうぞ」ではあるけれど、
それを形にした時から、私はその金額以上の大きなものを受け取っている。
真剣に参加しようかどうしようかと考え始めた時、
私は自分の観念、"ゆとりができたらやろう" について考えた。
"ゆとりができたら"、つまり、それは、
ゆとりがありません、と宣言しているってこと。
そりゃー潜在意識がそれをキャッチすれば、
ゆとりがありません、の宣言通りの現実を連れてくるわなー(笑)
そして、思った。
かねてから願っていたフォスター・プランへの参加という体験を媒体としながら、
思いを変えて、言葉を変えて、行動を変えて、
それが生み出す現実を体験するんだ、と。
つまり、私は自己変革のチャンスをいただいたのだ。
ボランティアは、一見、与える行為だけど、実は多くを受け取る行為でもあり、
するというよりも、させていただくという表現に近いものなのだと実感している。
ケニアのチャイルドにさっそくギブされているのは私だ。
そんな私の3000円の決意、素晴らしい形でケニアに貢献できますように。
行きます、ケニア。そして、彼女と彼女の家族とバオバブの写真を撮るの。
国際NGO プラン・ジャパン
ボランティア・寄付で途上国の子供に支援を
今日はオフ。
目覚ましをかけずにお昼寝して、お昼近くにゆっくり起きた。
昼寝大好きちゃんの私にはたまらん贅沢。
アンナのためにパソコンにアカウントを作ってやった。
キーボードが打てるようになりたいと言い出したので、
そりゃ素晴らしいと、タイピングソフトをダウンロード。
母、一瞬我を忘れてタイピングゲームにハマる(笑)
夕方、帰ってきたアンナと買い物。
6年生になっても手をつないだり腕を組んだりしくれる。
うれしい♪
子供って本当にかわええのぉ.。゚+..。゚+.
アンナと買い物に行くと、ひとりで行くよりうんと楽しい。
おやつおねだりなんかされるとほくほくしちゃうね。
晩ごはんは久々に料理本を見てしっかり料理。
ターメリックを使ったチャーハン。
んまーい!
みんなもおいしいっておかわりしてくれた。
うれしい♪
家事が終わり、夜、陶板浴へ。
看板を見てずっと行きたいと思ってたんだ。
やっと今日デビュー。
気持ちいい汗を流して帰宅。
健康にも美容にもいい抗酸化作用たっぷりだぜぃ。
あぁ、すっきりさっぱり。
また行こうっと♪
ゆるゆるデイ。
自分のための日。
自分の心地よさのために過ごす日。
自分をいたわる日。
いいコトいっぱい書いてある本やブログもアファーメーションもいいけれど、
なーんも考えず過ごすそんな時間も心を元気にするんだと気づく。
そして、ぽーっとするそんな時間に、
慌ただしい時に自分にインプットした情報を反芻し、吟味し、整理し、
改めて取り込んでいることに気づく。
ごくごく自然に。
面白いもんだ。
ただやみくもに走り続けてしまうこともある。
焦りや不安に負けて。
そんな時に必要なのは、今日みたいな1日なのかもしれない。
2010年09月13日(月) |
カチンときたら、はい、ラッキー |
誰かの言葉を読んだり聞いたりして、
ひっかかるものほど、実は自分にとってすごく大事なもの。
何言ってんの?とか、
カチンと来るとか、
面白くないわーとか、
それって違うんじゃないの?とか、
反応してしまう言葉の中には、自分の心の秘密を解き明かす鍵がある。
自分に向けられた言葉から、
不特定多数に向けられたツイッターやブログの言葉もね。
自分を観察してみると、
読んで聞いて反発したくなる言葉は「図星」であることが多い。
図星なんだけど、図星だと認めたくない、
そんな思いがあるようで、言われていることを認めているからこそ、
反発したくなる、そんな陰の心理が匂う(笑)
わかってるんだけどそれができてないとか、
わかってるんだけどそうなれていないとか、
わかってるんだけど違う状況とか、
そんな時、今の自分を正当化したくて反発する気持ちが出てくるみたい。
かわええのぉ、よしよし(笑)
反発を感じる言葉に出会うと、
そーか、私の図星がくすぐられてるんだな、
これを認めてしまうとそうでない自分はダメだと思ってしまうから、
こんなに反発しちゃうのね、と気づく。
ドロッとした感情は持ったままでもそれはできるのだ。
それをするとドロッがサラサラになる。すっごく楽。
それに、本当は人それぞれ意見が違って当たり前。
わかってる、頭ではね。
でも、よーく観察してみると、
私と同じじゃないワケ!?なにそれ、ムッカー!な気持ちがある。
奥の方で私が正しい!と思ってるからこそ生まれる反発。
自分の痛いところがわかるね。
カチンときたら、はい、ラッキー、ってんだ。
自分と違う意見を認めてしまうと、
自分の意見がダメになってしまうという無意識の反応。
本当は、どっちもアリなんだよね。
どっちもオッケー。
その人それぞれの大事な意見、気持ち。
みんな違うもんなんだと改めて認めちゃうとすっごく楽になる。
私も意識してみたんだ、それを。
自分と違うものを認めてなかった自分、そして、気づいて認めてる自分。
そしたらね、世界はまぁるいぜな気分(笑)
最近ハマってるぴこたんのブログの中にまたもやいい記事があるのでご紹介。
「幸せになるには、自分の意見を言っちゃだめなの!?」。
うぅん、素晴らしい!私もやります!
2010年09月11日(土) |
スリッパを左右逆にはいてラッキーな日 |
お行儀のいい私は、
スリッパがあっち向いてこっち向いて、ってなことがよくある。
今日も今日でそんな感じのスリッパを、
左右逆になってることに気づかず、
そのままはいて階段を降りた。
すると、
「んんん?」
なんか、変。違和感。
ずっとはいているうちに、自分の足が型押しされて、
スリッパの内側が自分の足の形になってたのね。
それが左右違うもんだから、はいたら違和感があったのだ。
左右を逆にスリッパをはいたら、
自分が普段どういうふうに立って歩いているかがよくわかった。
私の場合、体重が左右それぞれの外側にかかっている。
スリッパの左右それぞれの外側がつぶれてることにより判明。
「/ \」な感じ。それを逆にはいたので、内側が低い変なスリッパ、
「\ /」な感じのをはいている感覚がしたというワケ。
いつもと違うことをすることで、気づかないことに気づけたりするんだなぁ。
体のことに詳しくはないけれど、
骨格やらなにやらが歪んでたり、左右のバランスが取れてなかったり、
するんだろうなぁ、なんて思った。
自分の体のこと、ひとつ知ることができてよかった。
心も体も大切な自分。
整えていこう。
よく知って、いたわって、心地よく、うれしく楽しく、素敵にしていこう。
こうして体のことに気づける。
心も同じだね。普段と違う人と会ったり、普段と違うことをすることで、
自分のことに気づくことってよくある。
気づいて動いて変わる。
今日スリッパを逆にはいたことも、
小さいけれどすべてに通じる大きな発見のきっかけ。
ああ、うまくできてるなぁ、すべてが。
ありがたい、ありがたい。
2010年09月10日(金) |
マシュマロとお母さん |
夕方、おやつボックス(お菓子をしまってある戸棚)に忍び寄る私。
昨日ふんぱつして買ったコラーゲンマシュマロを
もふもふ食べようと思ったからだ。
おいしく食べて美肌、ワクワク。
そして、期待に胸ふくらませおやつボックスを開けた。
… ( ̄□ ̄;)
な、な、なーい、あたいのコラーゲンマシュマロがなーい!!!
あああ…
真剣に落ち込んだ(笑)
ひとりひとりに尋問。
「アンナ、ママのマシュマロ食べた?」
「食べてないよ」
「パパ、ママのマシュマロ食べた?」
「食べてないよ」
「ばあちゃん、ママのマシュマロ食べた?」
「おいしそうだったから食べたよ」
「全部?」
「全部食べたよ」
…( ̄□ ̄;)
「悪いと思ったからちゃんとマシュマロ買ってきておいたよ」
おやつボックスをのぞくと、
近所のディスカウントショップで売ってるお徳用マシュマロが
でーんと入っていた。
あれはコラーゲン入りでスペシャルなマシュマロだったんだよぅ!
いつもはお徳用買うけど、たまには自分へのご褒美にって、
主婦的にはふんぱつして買ったんだよぅ!
マシュマロ自体コラーゲン含んでるんだけど、もっと入ってたんだよぅ!
いやだー、あれじゃなきゃいやだー!!!
心の中ではスーパーの通路に寝っ転がってダダこねる子供(笑)
お徳用マシュマロの袋は母そのものみたいだった。
いつも一生懸命、でも、どこか抜けていたり、とんちんかんだったりで、
よかれと思ってしていることが「おいおいおい;」ってなことがよくある母。
いつもならそこでゴングが鳴る。
私はファイティングポーズで母に立ち向かい、ケンカを売る。
色々しでかす母に腹が立って仕方ないのだ。
でも、今日は、がさつに突っ込まれたマシュマロの袋を見ていたら、
なんだかおかしくなった。
ああ、これが私のお母さんなんだなぁ、って。
そして、なぜだかわからないけど、
コラーゲン入りマシュマロを食べられたことはキーッ!なんだけど、
母を愛おしく思った。
すると、一瞬のうちに、子供の頃からの母の膨大が記憶が、
まさに走馬灯のように私の中を駆け抜けていった。
俺は死ぬのか?
いや、違う!(笑)
不思議。
記憶がよみがえったのはほんの一瞬なのに、
私はそのすべてをはっきりと見た気がした。
記憶の中の母の心の動きまでが感じられるようだった。
よかれと思ってしたことで逆に責められ、悲しい思いをしたこと、
母なりに一生懸命色々なことをしたこと、
そのしてきたことの根っこにあるやさしさやあたたかさ、
そんなものを一瞬のうちに感じた。
まるで私があたかも母自身であるかのように、
母が感じたであろうこと、
母が持っているであろうものを感じた気がした。
そして、何より、強く、強く、私は愛されていたのだと。
次の瞬間、心の真ん中にストンと落ちてきた。
「これが私のお母さん」
うれしくて、うれしくて、泣きそうになった。
ああ、そうだ、これが私のお母さんなんだ、お母さんなんだ。
いつもなら戦争勃発、ケンカ腰になって母を責めただろう。
でも、今日は、腹は立ったけど(笑)不思議な感覚が舞い降りてきた。
そして、わかった。
大切なことが。
言葉にならないものが私の中に流れ込んできた。
これが私のお母さん。
うれしくて、あったかくて、心地よくて、私を大切に思ってくれるお母さん。
どうぞ、抜けててとんちんかんなお母さんのままでいてください。
そのままでいてください。
私はうんと愛されてきたと今強く感じてるんだよ。
ありがとう。
本当にありがとう。
泣けてくるこの感覚の訪れに、私はどれほど感謝しただろう。
時折人生に訪れるこうした不思議な瞬間が、私は大好きだ。
それらはきっと神様の贈り物。
そして、母に言った。
「ちょっとーっ!
あのマシュマロはねぇ、コラーゲン入りなんだよ!
特別なやつなんだから!
お徳用とは違うの!
もぉぉぉぉぉぉっ!」
あら、娘さん、いつもと変わらず素敵な態度(笑)
おととい、庭の水まきをしていたらハチにさされて手が腫れた母。
庭の植木の中にハチの巣があったのだ。
毒が結構回ったそうで病院で仰々しく包帯を巻かれていた。
それを気遣ってアンナが声をかけた。
「ばあちゃん、手、大丈夫?」
「ああ、アリにさされたところね、大丈夫だよ」
母をのぞく一同大爆笑。
本人わかっておらず。
そうか。
私はお母さんが好きなんだ。
生きてるっていいねぇ。
人智を超えたことが日常の中で起こって、いざなわれる。
泣けてしまうほどあたたかく愛が溢れる場所へ。
こういう時、私は確信するんだよ。
人間は生かされている。
神様の愛に導かれて、そんな場所へ辿り着くために。
魂が知っている場所へ帰るために。
2010年09月09日(木) |
よかにせさん=ちんをさん |
「今日もよかにせさんだねぇ」
毎日abuに言う。
よかにせとは、abuの出身地宮崎をはじめ、九州の方言だそうで
"いい男" という意味。
一緒に暮らして3年になるけど、毎日いい男だなぁと思う。
昔も今も変わらず毎日うっとりしている。
いい男の基準は人それぞれなんだろうけど、
ま、とにかく、abuは私にとって最高のよかにせさんということだ。
ダンナがいい男だと感じられるってのは、
本当に素晴らしい、本当にありがたい。
出逢った瞬間から変わることなく…なんてドラマチックなことは言わない(笑)
ケンカもしたし、
問題にぶつかってどうすることもできず途方に暮れたりしたし、
色々ありましたさ、色々。
だからこそ、なんてよかにせさんなんだろう、そう感じるようになった。
ビジュアルだけじゃなく、彼そのものが。
それに、いかつい感じでしっかり者でスキがない空気を醸し出してるのに、
サザエさん並に抜けていたり、やらかしてくれたりする。
それがたまらない。
愛と感謝と敬意を込めて、abuに家でのコードネームを授け、
日々、呼ぶ時に使っている。
「ちんをさん」
素敵だ.。゚+..。゚+.
下ネタであることに気づいてくれたあなた、ありがとう。
2010年09月08日(水) |
「北風と太陽」を思い出すのです |
素晴らしい記事があるのでご紹介。
言葉の魔法セラピスト☆ぴこたんさんのブログから「変な一言が、不幸を招く!?」。
これを読んで、深くうなずいた。
ホームページを運営しているとこんな申し出が時折ある。
「相互リンクしてください」
「あなたのホームページにリンクを張りました。
よかったら私のホームページにもリンクを張ってくれますか?」
リンクを張っていただけるのはとてもありがたくうれしいこと。
けれど…
ぴこたんさんがおっしゃているように、
相手とつながるかどうかにはこちらの選考がある。
相手のホームページが素晴らしいと感じれば、
要求されずとも自らリンクを張りたくなる。
そういうことがあると、童話「北風と太陽」を思い出すのです。
あのお話のように、何かを強要されると抵抗を感じるけれど、
相手がただただ素晴らしくそこに在ると自然につながりたくなる。
私がすっげ大切に感じるのはそこなんだよなぁ。
最近もそんなことを考えていたところに、
リアルタイムでぴこたんさんがいい記事をアップされたので、
ご紹介させていただきました。
2010年09月05日(日) |
ネガティブになってよし |
どっかで目にしたんだ、
ネガティブな言葉を言わないようにしましょう、
その言葉通りになりますよ、って。
そこには、疲れた、困った、つらい、悲しい、どうしよう…
ネガティブとされる言葉が羅列されていた。
そして、それを口にすると、
もっと疲れるし、もっと困るし、もっとつらくなるし、
もっと悲しくなるし、もっとどうしていいかわからなくなる、
だから言うのをやめましょう、って。
本当にその通り。
しかしだよ(笑)
いーじゃん、疲れた時は疲れたって言っても、
つらい時はつらいって言っても、
困ったとか、悲しいとか、どうしよう、って言っても、って思っちゃう。
と、言うか、それを口にすることは、私にとっては癒しなのだ。
いや、癒しなんて言うとキレイ過ぎる、排泄みたいなものだ。
そして、口にすることによって、区切りがついて、
よっしゃ!前向くか!とか、
ゆっくり休もう♪とか、
なんとかなんだろ♪って気持ちになる。
私の場合は、
一般的に言われているネガティブになるという段階を踏むことによって、
逆にすっごく前向きになる。
その時初めて、巷で、こういう言葉遣いがいいんですよ、
さらなる幸せを呼び込むのですよ、
というものを、取り入れることができる。
へろへろに疲れている時、
悲しみに暮れてもう朝なんか来なくていいと思う時、
ほとほと困って途方に暮れている時、
「前向きな姿勢が大事ですよー、言葉が大事ですよー、
笑顔、笑顔ー、ポジティブな言葉を使ってくださいねー」
と言われたら、恐らく私は、鋭い目つきになって、
上段回し蹴りを繰り出してしまうだろう。
ここで忘れずに書いておきたい。
私は、そうした自己啓発系のものを否定しているのではない。
それらはとても素晴らしく、
そして、実際に効果があるし、
人生をよりよくするためにとても役に立つ。
だから、どんどん取り入れていくのがいいと思う。
実際私も取り入れているし、そういう情報が好きだ。
大切なのは、色々あって、どうしてもそういう気持ちになれない時、
そうなれない自分を責めないでほしいってこと。
たとえば、料理してて包丁で手を切ったとしよう。
痛い。痛っ!とか、うっ!とか言うかもしれない。
見てみると、ぱっくり切れてて血が流れてる。
手当をするのさ。
そゆこと(笑)
いーじゃないスか、ネガティブになることがあっても。
決していけないことじゃないよ。
自然だよ。
食べたら下から出るみたいに(このネタ好き・笑)。
ネガティブになる瞬間があるからこそ、前を向けることってあるでしょ?
落ちたい時は心置きなくとことん落ちててください(笑)
イヤでも這い上がるから。
そう、あなたは何があっても這い上がってしまうんです(笑)
そして、這い上がった時、もっとよくなってしまうんです、今よりずっと。
青い空を見て、きれい、と思う時と、
何とも思わない、いや、空さえ見ることもない、
そんな時があると思う。
同じ青い空なのに、同じ自分なのに。
心が忙しかったり疲れていたりすると、目も感覚もふさがってしまう。
また、ぐーんと波長も下がるから、
楽しそうなものや幸せそうなものに共鳴できない。
いい情報が耳障り目障りな情報になってしまうことだってある。
でもね、それはとっても自然。
そんな時があってもいいの。
永遠にそこにいちゃいかんけどね(笑)
元気な時にはそんな自分に合う情報、
落ちてる時にはそんな自分に合う情報、選べばいいじゃん。
今日ある人からメールをいただいて、そこにすごくいいことが書いてあった。
「許されているからそのままでいいんだっていうわけじゃなく、
自分で自分の世界を構築していきなさい、なんですよね」
それを読んで、そうそう!それなのよ!とぴょんぴょん跳ねたくなった。
ネガティブになってよし。
でも、それはなんでもありなのよーってんじゃなく、
前を向いて先に進むためにネガティブになってよし、なのであって、
そこを通って次に行こう、ってこと。
だからこそなんでもありなのであって、
そうでなければなんでもありなんてないと思う。
それじゃ世界はただの無法地帯だ。
神様の愛のもと生きてるんだから、
結局は何があってもダイジョブにできてる。
写真展ふたつとギャラリー、今日はなんてゴージャスな1日だったんだろう!
まめこ(家でのコードネーム)感激!
abuが出不精番長の私を引っ張り出し、向かったのはお江戸。
まずは渋谷のギャラリー・ルデコで行われている「白黒ショー」へ。
展示されている写真は、すべて写真家自身による自家現像・手焼きの白黒写真。
濃かった、写真も空気も。
みなさんの思い入れをひしひしと感じて帰ってきた。
ぽやんぽやんと写真を撮っている私には強烈な刺激だった。
写真を通して知り合った3人も出展していて、
そのうちのふたりに直接会えたのもすごくうれしかった。
次は、その近くにある「Zen Foto Gallery」へ。
主宰者マーク・ピアソンさんとは、
以前、ヨコハマオープンポートフォリオレビューでお会いしている。
その時私達は出展者、レビュアーだった彼に写真を見てもらう立場だった。
マークさんに好感を持った私達は、
いつかギャラリーに行ってみたいと考えてて、それがやっと叶ったのだった。
中に入ると、小さいけれど明るい素敵なギャラリー。
壁には木村伊兵衛氏の写真も。
私達が見たかったのは、その前の展示の伊藤大輔さんの写真だったんだけど、
日程が合わなかったのであきらめていた。
ところが!
それを知ったマークさんが、なんと、
もう梱包してしまった展示期間を過ぎた写真を出してみせてくださったのだ。
感激!
1枚、1枚、見せていただいているうちに、なぜだか涙がぽろぽろこぼれた。
わからないけれど、とにかく泣けて仕方なかった。
悲しい涙じゃない。
心が震えるような感覚。
その伊藤大輔さんの写真のうちの何枚かはこちらで見られます。
キューバのボクシングジムの少年達を撮影したもの。
そして、マークさんとお話させていただく中で、
私達はたくさんの贈り物を受け取った。
ギャラリストとして、写真を愛する者として、ひとりの人間として、
存在の中に内包するものが私達の心に触れたのだろう。
言葉だけじゃない、その場の空気の中にも贈り物がいっぱいだった。
うまい言葉がみつからなくて歯がゆいんだけど、
まさにマークさんの素晴らしさゆえだと思う。
ちなみに、マークさんは日本語ペラペラだから(笑)
気持ちも晴れ晴れ、次に向かった写真展は「f3.5 ローライによる写真5人展」。
実は、写真を通して知り合った私達の大好きな人が出展していると今日知って、
急遽コースに入れたのだった。
じんわり心にしみてくる写真がたくさんの素敵な写真展だった。
あったかいおもてなしがよりいっそう素敵な時間にしてくれた。
それに、驚いたのは、その写真展で、なんと、
この「おひさまの日記」を呼んでくださっているという女性にお会いした。
ヒデキカンゲキ!!!(わかる人は同年代)
abuが私の写真をアップしているので、顔をご存知だったんだろう、
声をかけてくださったのだ。
同じく写真を撮る方。
ひゃぁ、なんか、なんか、すごいよー、うれしいよー.。゚+..。゚+.
本当にありがとうございます、Oさん^^
実は、ヨコハマオープンポートフォリオレビュー以来、
昔のように写真が撮れなくなっていた私。
なぜって、あまりにクオリティの高い人達の中で打ちのめされたから(笑)
自分の写真ってものが全くわからなくなってしまってたんだと思う。
けれど、写真三昧だった今日という日、私の中できっと何かがはじけた。
ふたつの写真展とZen Photo Gallery、
そのすべての中にあった色々な要素が融合して私に働きかけ、
おーい、こっちだよ、って、呼ばれた気がした。
abuのおかげ。
帰りの電車の中で、私は何度もありがとうを言った。
でも、abuは前を向いたまま、いーえ、としらっと答える。
その冷たさがいいわ(爆)と、すっかり調教(違)されている私。
彼はあまり感情を表に出さないけれど、なぜだろう、そのあたたかさが伝わってくる。
しゃがんでぐずぐずしている私に、
いつまでもぐずぐずしていていいよと言い、
ぐずぐずしている私をぐずぐずさせたまま、
これまたしらっと仕掛けてくる。本人は無意識なのかもしれないけれど。
そう、おーい、こっちだよ、って。
今日は、あちこちから、おーい、こっちだよ、って呼ばれた。
お会いしたすべての人、訪れたすべての出来事に、心から感謝。
今日という日のすべてが私に必要なことでした。
ありがとう、本当にありがとう。
そして、abu、いつも本当にありがとう。
また写真撮るよ。
実は、アメブロでも「おひさまの日記」を始めることにしました。
内容はほぼ一緒なんだけど。
なぜって、なんとなくそういう気分になったから(笑)
それを決断するにあたり、色々と葛藤があったりと、面白かったっス。
尊敬する人、憧れの人みたいに、いいこと書こうと力んでつぶれたりとか(爆)
結局、私はこのおひさまスタイル以外ないので、
同じ記事をあげていくことにしたんです。
このエンピツの記事と重なることがほとんどだと思うけど、
アメブロにしか書かないこと、
エンピツにしか書かないこと、
出てくると思います。
今日の記事も早速違う記事です(爆)
よかったら両方のぞいてみて〜(わがまま・笑)
デュアルおひさまでいきます。
どうぞよろしくね!
アメーバブログの「おひさまの日記」はこちらから。
不愉快なことを不愉快だと感じるのはいけないことじゃない。
朝になれば太陽が昇るように、
春になればあたたかくなるように、
食べれば下から出るように(笑)
何かが起これば何かを感じる、その内容は人によって異なるにしろ、
とっても自然なことなのだ。
でも、思い通りにならない=不愉快、ってのは、チト違う。
相手をコントロールする、
つまり、自分の思い通りのものを関係の中で実現することに執着し、
それが叶わなかったことを不愉快とし、相手を責めるのはお門違い。
その違いをふまえながら、上手に不愉快を感じるのは健全なこと。
ガマンしてるとおかしくなっちゃうからね。
イヤだ!
その気持ちから生まれるものはたくさんある。
そして、そこからの行動が心地よい未来を連れてくる。
イヤだと思うからこそ、変化の流れを呼び込める。
切り替えのチャンスをつかめる。
それは、たとえば、その不愉快さに相手がいたとして、
その相手がどうだとか、そういうのはさておき、
自分はそこからどう考えどう行動するか、それを選択し、
自分の人生を不快から快に変えることができる。
そこで、失うものがあったとしても、
人生を快にするために行動して失うものなら、
なくてもいいもの、ない方がいいもの。
不快はもう自分の中では終わってしまったこと。
その不快や、不快の原因や、その相手に執着するより、
その不快によって自分がした選択を大切にし、
たとえ、それが時にカッコ悪かったり、端から見たら正しいものじゃなくても、
胸を張っていよう。
過去に色々あっただろう、誰もが。
自分が何かしたことによって、
イヤなことが起こったり、ひどい目にあったり、なんてことが。
でもね。
それはもう終わったの。
完全に終わったの。
過去のデータを未来に当てはめる必要はない。
悪いことは何も起こらない。
そこで、「だって、でも、どうせ」(私は3Dと呼んどります)、
って言うのは卒業ね(笑)
胸を張っていてね。
不愉快なことを不愉快だと感じ、そこから何か行動を起こした自分、
最高にカッコイイじゃないか。
いいんスよ、たまには壊れても、カッコ悪くても、スマートじゃなくても。
そして、正しくなくても。
素晴らしい!
おひさまは明日もあなたを照らします。