おひさまの日記
日記インデックス前の日の日記を読む次の日の日記を読む


2004年03月28日(日) 子供天使

何かの本に、
「子供は、ほんの少しの間だけ、
 神様から与えてもらった天使だ」
って書いてあった。

成長して親から離れる時、
物理的には一緒でも、精神が独立しようとする時、
子供はひとりの人間として親とは完全に別々の人生を歩き出す。

それまでの時間が、きっと、私達親に与えられた贈り物なんだと思った。
小さな手、無垢な寝顔、無邪気な発想や言葉、可愛らしい振る舞い、
すべて、すべてが、宝物。
歪んだ大人の心でさえ、まるで洗い流されるような。
毎瞬、毎瞬、何かを教えてくれる子供。

裸んぼうの子供を見ると、本当に天使みたいだな、って思う。
アンナが1歳の頃、トイザラスで買った天使の羽セットを、
すっぽんぽんの彼女につけてみた。
本当に天使みたいだった。

私達の親も、きっと、そんな気持ちで私達を見ていたに違いない。
たとえ、仕打ちのようなことをされてきたとしても、
そこには愛があったのだと思う。
傷ゆえに歪んだ親達でさえ、子供を愛しているのだと思う。
今、決していい親にはなれない自分を見て、そう思う。

私達も天使だったのだ。
心の真ん中に光る真実を持って。
その真実は今も私達の中にある。
ただ、色々なことがあり過ぎて、
その周りに暗雲が立ち込めていたり、
その真実を隠さなければならなくなってしまったり。
でも、光を失ったわけじゃない。
意識のいちばん深い場所に隠されているだけ。
その無垢で純真なままでいたら、生きて来られなかったから、
私達はそれを隠してしまっただけで。

そして、それはいつでも表に出たいと願い続けている。
常に伝えたい「何か」を、現実の出来事や感情や体調や病気という形で、
私達にメッセージとして送り続けている。
それが「本当の自分」なのだと思う。

その真実を、光を、取り戻すのが、セラピーかもしれない、
そんなことを考えていた。

私達はみんな子供天使だったのだ。
子供天使に会いに行こうよ。
小さな自分に。


2004年03月26日(金) Yちゃんへのメール

今日、あるクライアントさんにメールを送った。
打ちながら、なんだか本当にそうだよなぁ…と思ったので、
ここにコピペしておこうと思う。


*****


あながえない大きな流れにただ身をゆだねていくしかないことが、
人生にはよくありますよね。
けれど、それはただやみくもに、
苦しかったり歯がゆかったりするだけの時間なのではなく、
やがて来る春に花を咲かせるために、
土の中で時を待つ小さな芽のようなものなのでしょう。

自然の摂理の中で生きる人間にとって、それに従うことは、
地球に、しいては宇宙に、畏怖の念を持ち、
自分の小ささを知ることによって、大きな流れに抱かれ、
初めて大きな贈り物を受け取る行為なのかもしれません。

待つと、耐える、という、行為さえ、そんなものかもしれません。


*****


誰かから何かを投げかけてもらえるからこそ生まれるものがある。
今日のこのメールの言葉もそう。
セッションも、いただくメールも、
それがあるからこそ自分から生まれるものがある。

私達セラピストはクライアントさんから沢山の贈り物を受け取っていると、
改めて感じるのだった。

みんな、ありがとうね。


2004年03月21日(日) こわごわ行こう

車の運転、みんな当たり前にやってるけど、
よく考えると、あんな機械を相手にすごいことしてるなぁ、って思う。
それって、みんなガンダムを操縦してるようなもんだ!?
一歩間違えば殺人マシーンになるし。

免許取って運転し始めて、慣れた頃が一番危ないってのは聞いたことがある。
事故を起こすことも多いのだそうだ。
慣れて恐いっていう思いがなくなって注意が散漫し、油断するからだろう。

なんでもそう、慢心が顔を出すのが一番危険だ。

慢心でいっぱいになると、
私達は感謝を忘れ、注意を払うことを忘れ、自分を過信し、傲慢になる。
一番大切なことを忘れてしまう。

それに慢心ってのはやっかいで、
自分がそれに侵されている自覚症状がなかなか持てない。
私もそうだ。
自分は今色々なことに感謝し、謙虚にやってる、と思ってる時が、
実はいちばん傲慢で、安心し切ってて、油断してて、感謝がない。
私は大丈夫、そんなことはないから、って思ってたとしたら危険信号。
そのせいで痛い目に遭って、
やっと、あたた〜、私ってば傲慢だったかも、って気付く。

人は「恐い」という気持ちを持っていることがとても大切だと思う。
それは、私達をより快適で安全な人生に導いてくれる。
恐れを持っていれば、少なくとも慢心ゆえの過ちを自分の人生に引き込むことはない。
人生は結構うまくいく。
恐れは毛嫌いされるけれど、実は私達に恩恵を与えてもくれている。

恐くていい。
恐くないまま進むなんて、その方が私にとってはよっぽど恐い。
注意を払いながら、
恐れていることが起こらないことへの感謝や安心を感じながら、
ちょっとビクついて注意深く進む人生ってのが、
実は、案外いいもんじゃないんだろうか、なんて最近特に思う。

私が車こすったりするのは、車の運転に対して恐れがない時だね。
なーんも恐いものなく道路をぶんぶん走ってる。
で、ガン!ってね。
運転って恐いと思って注意しながら走ってると、そういうことはない。

恐いと思ってすることは大体うまくいくと、私は思っている。
人生っておっかないこともあるもんだと、こわごわ歩いていく人でありたい。
そして、恐れた上で、それを克服して進める勇気ある人でありたい。


2004年03月15日(月) 機が熟す時

すべてには「機が熟す時」がある。

花が枯れ、そこに実が育ち、
やがて、青から熟れた赤い実になる。
そんな自然の摂理のように。

その自然の摂理は、私達人間にも言えることだ。
昨日、アンナが自転車に乗れたことを見ていて強く感じる。
自転車を覚えさせようとしてどんなに何かを強いても乗らなかったアンナが、
ある瞬間、勝手にひとりですいすい乗ってしまった。
機が熟したのだ。
それは、放っておいてもやってくるものなのだと確信した。

私は、今までどれだけ多くの焦りや不安と共に、機が熟すのを待ったことだろう。
機が熟すなんてことさえ知らないで、不安定に揺れていたかもしれない。

また、機が熟していない相手にコントロールを繰り返したり、
そのコントロールに応えられない相手を攻撃したこともあった。
待つという尊い作業ができなくて。
機が熟す時が来るということを知らなくて。

花が咲くためには、土と水と太陽の光と時間が必要だ。
成長、成功、前進、私達が持っている花も同じ。
咲くためには、それに必要な要素がある。
それがそろえば、勝手に花は咲く。

そして、自分の中で咲こうとしている花のために、
肥えた土を選び、水を求め、太陽の方に顔を向け、待つということを、
努力として行っていくという選択が、私達はできるのだ。
そうすれば、花はなお早く咲く。

逆に、怠惰になり、咲こうとする花を枯らせることもできる。

すべてには機が熟す時が来る。
その時を待ちながら、自分のために、人のために、
今自分がすべきことを見極められる人でありたいと、心から思う。

すべてに機が熟す時が必ず来るということを、
昨日のアンナの自転車のことで確信できた時、
私の中で何かがカチッと音を立ててシフトしたような気がした。


2004年03月14日(日) What a wonderful day !

今日は素晴らしい日だ。
だって、アンナが初めて補助なしの自転車に乗れたのだから!

私はあの瞬間を忘れない。
ぎこちなく、でも、風を切って、キラキラした目で、
初めて補助なしの自転車をひとりでこいだアンナの姿を。

他の子が乗れるようになったのを見ても、
あら、早いわね、よかったわね、なんて、軽い気持ちだった。

でも、やっぱり自分の子供が乗れると、全然違う。
その瞬間がまるでスローモーションみたいに、目の前で展開する。
表情のひとつひとつや、風になびく髪や、まだ力の入った肩が、
私の全てに刻み込まれた。

ほんの1分くらい押してあげて、
何気なくまた乗せたら、乗れちゃったんだもの。
それまではアンナもあまり練習したがらなくて、
補助を外したのは今日が初めてだったんだから。

気持ちよく晴れた、大きな公園の、まだ茶色をした芝生の上で、
それは、まるで、神様の贈り物みたいだった。

こんな気持ち、初めてだ。
アンナが初めて寝返りを打った時も、歩いた時も、こんな気持ちにはならなかった。
もちろん、すごく嬉しかったし、感動したけど、今日のとは違っていた。
私は泣き出しそうだった。
なんだろう、この気持ち。

座ぶとんにも寝られるほど小さな赤ちゃんだったのに。
いつの間にか、立って、歩いて、喋って、走って、表現して、
そして、こんなに大きくなってしまった。
これを奇跡と呼ばずして、なんと呼ぶのだろう。

そして、私達すべての人間が、この奇跡を体験してきたのだ。

私は心の底から生まれてよかった、生きてきてよかった、って思った。

愛おしい、本当に愛おしい。
アンナが愛おしい。
泣きそうなくらい愛おしい。

私は、今、神様に心からありがとうを言いたいの。


2004年03月10日(水) やっぱり悲しかったんだ

アンナを保育園に送って戻ってくると、
マンションのお掃除のおばさんがいた。
挨拶をして階段を上ろうとすると、おばさんが言った。
「奥さん、車買い替えたんだ。
 前の車の方が奥さんに似合ってたのに」

私はギクッとした。
おばさん、それは触れちゃいけない話題だ。
「色々あって、買い替えなくちゃならなくて。
 私も残念だったんですけど」
そう言って、私は足早に立ち去ろうとした。

すると、おばさんはさらに付け加えた。
「本当にねぇ。
 もったいないよ、今のは似合わないよ。
 前のがよかったのにねぇ」

私は言葉に詰まって、
会釈だけして家に入ってしまった。

胸の奥の方から、ふつふつと悲しみがわき上がってきた。
私はソファーに倒れ込むと、うわーん!と声をあげて泣いた。
涙が後から後から溢れてきた。

私はようやくわかった。
私、こんなに悲しかったんだ、って。

金曜日にバイバイするカプチーノを見るのが辛くて、
遠くの来客用駐車場に停めたままにしてある。
MOVEが納車になってから、一度も見ていないし、触れていない。
そして、このままバイバイしようと思っていた。

昔、実家で、ミッキーという雑種のオス犬を飼ってたんだけど、
私が高校生になった頃に病気になった彼の余命はいくばくもなかった。
それからは、ミッキーを見るのが辛くて、
私は、散歩もしなくなり、エサもあげなくなり、遊んでもやらなくなった。
そばを通ってすり寄られても、ものすごく冷たい態度で足蹴にした。
その少し後、ミッキーは死んだ。
私は泣かなかった。

それから1か月くらい後かな、
部屋の掃除をしていたら、ミッキーの写真が出てきた。
私は崩れるように泣いた。
泣いて、泣いて、壊れそうだった。

そんなことを思い出した。

私が遠くの駐車場に停めたカプチーノは、まるでミッキーみたいだった。
好きだから、大切だから、離れたくないから、お別れが辛くて、
だからこそ、もう自分の世界から閉め出してしまいたい、そんな気持ち。
好きだったことも、大切だったことも、離れたくないことも、
みんなみんな忘れてしまいたい、そんな気持ち。
忘れないと、苦しくて耐えられないから、私は感情を殺した。

でも、私は今日泣いた。
泣けた。
悲しいと思えた。
これでいいんだと思った。
私は悲しかったんだ。
まだしばらく悲しいと思う。
でも、これでいいんだ。
それだけカプチーノが好きだったんだ。

人は、日常の中で、気が付かないうちに、
色々な感情を感じないようしいているのだと思った。

きっと、私だけじゃない。
誰にでもそんなことがあるのではないだろうか。
まともにいちいち感じてたら身が持たないから、
流してしまったり、感じてないことにしたり。
まだまだ私もそんなこといっぱいしてるんだなぁ。

おばさんも、田舎の人って感じで、
遠慮なくプライバシーにガンガン入ってくる人でもあるけど、
全然悪気ないのはわかるし。
ひょんなことで、自分の本当の気持ち、見つめた。

辛いけど、これでいいんだって気がする。
しばし、ちゃんと落ち込もうと思う。


2004年03月07日(日) now & here

私達に大切なのは、
衣食住、目の前の安全、安心が確保できていること。
心がいちばん大切なのでは?って思う人もかもしれないけど、
私はそれが原点なんじゃないかと思っている。
それなくして自分の精神を成長させることはできないだろう。
ましてや、心から楽しいなんて気持ちにはなれないだろう。

昔、精神世界を語り、自分の傍らにはいつも天使がいて、
そんな天使の絵を描いてスピリチュアルなメッセージを伝えることがライフワーク、
夜になると異次元を旅して、高次の存在と語らい、
多くの気付きと学びを得ている、と語る女性がいた。
すごいなぁ、と思った。

彼女の家庭は、ご主人の浮気と暴力、子供の非行、借金、
あらゆる問題の巣窟だった。
それの方が、もっとすごいなぁ、と思った。
いや、それがいけないというのではない。
彼女の清らかな言葉とあまりに正反対な現実に驚いたのだ。

彼女の意識は完全に上の世界に行ったきりで、現実がお留守だった。
そして、彼女は、その家庭環境が苦しくないと豪語した。
なぜなら、私は愛そのものだから、と。
私は思った。
苦しいって認めるのが恐いんだなぁ、って。

現実がお留守のままだと、
スピリチュアルな世界の探究は、単なる逃げになってしまう。
そこを見てると楽だからそこを見てる、ってことになってしまう。
机上の空論とも言えるかもしれない。
いい道具持ってるだけで満足して使わないのと同じ。

現実の問題に直面して解決に向けて頑張るよりも、
スピリチュアルな世界にだけフォーカスしてる方がはるかに楽なこと。

それって、
「『南無阿弥陀仏』とただ唱えていれば幸せになれますよ」
って言われてひたすら必死に題目を唱えるのと似ている。
そこには自己責任や努力が存在しない。

誰もが逆境にある。
誰もが平等に苦しい。
そして、そこでは無力だ。
それをまっすぐに認めて、その上で努力をする、そのために苦労する、
そんなシンプルな作業が、私達にはとっても大切。

私は昔、辛いことが苦労だと思っていた。
今は別だと思う。
辛い,辛いって、ただ辛いってくすぶってるのと、
そこでアクションを起こすのとでは全然違う。

苦労って、ひょっとしたら、
時に、努力とか、頑張りとか、耐えるとか、
理不尽さや非情みたいなもんと戦うことなのかもしれない。

今、ここで、やるべきことをやる勇気、やる努力。
できないんじゃなくやる、ただやる、その気持ち。
言い訳はいらない。

すべては、今、ここ、目の前にあるもの。


2004年03月06日(土) かぼちゃのおにぎり

今日、生まれて初めてかぼちゃのおにぎりを食べた。

かぼちゃのおにぎり、それは、
私がまつげパーマでお世話になってるKさんにいただいたもの。

自宅の一室でまつげパーマや整顔、フーレセラピー等をする彼女。
腕がいいだけじゃなく、その人柄が好きで、もうしばらく通っている。
若いのにしっかりしてるの。
私がプラセンタを飲み始めたのも、
プラセンタを飲んでいる彼女の肌があまりにもすべすべぷるぷるだったから。

そんな彼女を、プラセンタを買いに、今日また訪ねた。
その帰り際、彼女がくれたのが「かぼちゃのおにぎり」だった。
かぼちゃ好きの私は、車に乗ってすぐ、アンナと食べてみた。

うまい!
しっとりほっくり、うま過ぎ!
たまんねー!!
私もアンナも大喜びで食べた。

茹でたか蒸かしたであろうかぼちゃを荒くつぶして、
干しぶどう、細かく切ったチーズ(クリームチーズかな?)と混ぜたものを、
大きめのラップのまん中に取って、それをまん丸に握った様子。
そして、そのおにぎりのまん中には、
梅干しならぬ、まぁるいヨーグルトチーズが入っていた。
それらのマッチング、もう、言葉にならないくらい美味。

これってすんごい工夫だよね。
簡単だし、栄養もあるし、子供のおやつにもいい。
とにかくうまい。
私も作ってみよう。

余談だけど、
彼女のルームを去る時に目に入ったメニューにあった、
「顔の左右のバランスを整えたり、
 肌のコンディションをよくしたり、
 小顔になり、リフトアップもする」
っていう整顔を、
今度絶対にやってもらおう!と心に決めながら帰ってきた。
だってさ、そこに貼ってあった体験者の顔写真が、
その整顔を受ける前と後で、全然違ってたんだよ。
すごいの、もぉ!

彼女ネット全然やらないんだよね。
パソコンさえ触らないらしい。
もし、彼女がHP持ってたら、リンク張って宣伝しまくるのになぁ。


2004年03月04日(木) 最高の芸術作品

風邪気味なこの頃。
ふぇーっくしょーん!ふぇーっくしょーん!と、
くしゃみ連発して思う。
体って本当にうまくできてるな。

体内の風邪バイキンを外に出そうとする。
くしゃみも咳も鼻水も痰もそう、体内の不要なものを外に出そうとする。

それにね、喉。
私は喉が弱くて、風邪ってーとほとんど喉の痛みからくる。
喉が痛み出すと、つまりは炎症が起こってるんだけど、
喉に粘液がたくさん出てきて、喉元がやたらもごもごする。
これも、患部をそれ以上のバイキンくんやダメージから守るために起こる。

熱だってそうじゃん?
バイキンくんを殺すために、体が温度を上げて頑張るわけじゃん?

ケガや病気した時、そこ治そうと思って体が必死で頑張って治癒するわけで。

毎日生きてるってことだって、
体がものすごい複雑な活動を日々続けているから成り立つわけで。

子供を産んでみても思うよ。
生命の神秘。
肉体の不思議。

人間の体って、緻密に計算され尽くした、
ものすごい精密機械みたいなもんなんだと思う。
すごいね!
もはや芸術作品だよ。
神様の芸術作品。
私は、どんな科学の進歩をもってしても、
人間や地球上の動物、生物と同じものを、
作り出すことなんて不可能だと思ってる。
万一作り出せたとしても、それは模倣なわけで。

そこに、心や意識なんてモンがのっかてるんだから、
これ以上の芸術はないよ。
私達は生まれながらにスーパーコンピューターを持たせてもらってるんだ。

このぐずぐずした体調も神様のパフォーマンスだ!って思うと、
気の持ちようで、少しは楽しく乗り切れるかも、なんて考えたよ。
私達はただうんうんうなって苦しんでればいいんだ。
あとは体が自動的に治してくれる。

あ…。

そうかぁ…。

心もなのか!
私達はうんうんうなって苦しんでれば、
あとは心が自動的に癒えてくれるのか。
癒える方法へと流れていくのか。

ああ、そうかぁ。

人間は進化することによって、医療、また、代替医療で、
その自然の流れをサポートすることはできても、
それそのものに取って代わることはできなくて、
そして、できなくてよくって。
自然を信頼してゆだねることがとても大切で。
そこで適切なサポートだけすればよくて。
それが調和するということで。

なんだか、打ちながら、浮かんでくることを、
そのまま、また打っているので、まとまってなくて、
ほぼ、ひとりごとになってるけど…
そうかぁ。

なんか、ひとりで腑に落ちてる私だったりする。

やっぱり地球上に生きる人間はじめ全ての存在は、
最高の芸術作品なのねぇ。

と、私の頭ン中を、リアルタイムでお届けしました。


2004年03月03日(水) 美人

以前、アンナに、
「女は見た目が大切だよ」
と、私が話しているのを聞いたあるママが、
「ずいぶんすごい教育してるのね」
と、苦笑した。
確かに誤解を招くような表現だ(笑)

私が言う「見た目」とは、顔の造作やスタイル云々を言うのではない。
その人が内面に秘めたものがにじみ出て作り上げるもの、
その人自身の輝きみたいなものだ。

ある本にこんなことが書いてあった。
「美しさとは内なる輝きであり、
 それは他人が観察したり感じ取ったりできるスピリチュアルな資質なのです」

言い古されたことだけど、人の内面は外見に反映する。
ものすごい美人でスタイルもいいのに、なぜかあまり魅力を感じない人、
逆に、ごくごく普通な感じなのに、とっても魅力を感じる人、
そんな人に出会ったことがあるのではないだろうか。
外見だけに執着して心のブラッシュアップはさっぱりなのが前者で、
その人だけが持つ本来の資質とそれを輝かせようとする努力が
外見ににじみ出ている人、そんな人が後者なのだと思う。

自分のコンプレックスをカバーして、長所を生かすこと、
これは、内面においても、外見においても、とても大切だと思う。
例えば、オペラ歌手の森久美子さん、
太っているというともすればコンプレックスになりがちな部分を、
自分の個性にして、とても魅力的なキャラクターを作り上げている。

また、こんなことを聞いたことがある。
ある医師が、患者を退院させるかどうかの判断の際、
手元に鏡を置いているかどうかを目安にするのだそうだ。
鏡を置いて、自分の髪や顔、身なりを気にする人は、
必ずと言っていいほど回復するのだという。
逆に、病状は悪くなくても、一切自分の身なりを気にもしない人は、
心では、まだ回復する準備ができていないことも多いという。

私の所にいらっしゃるクライアントさんでも、
来始めた頃はおしゃれに全く興味がなかったのに、
しばらくすると自分をきれいにしたり、着飾ったり、
好きなものを持つことに興味が湧いてくる人がいる。
それは精神的な回復をも意味するし、とっても素敵なことだと思う。

今や時の人となった江原啓之さんもおっしゃっている。
「きれいになろうと思う心はとても大切。
 その心の姿勢が内面のエネルギーを引き出すんです」

卵が先か、ニワトリが先か、と同じで、
外見の美しさのために、
内面を磨くことから初めて、外ににじみ出させるのも、
まずは外から自分を変えてみて、その気持ちで内側が輝き始めるのも、
どっちもアリだと思う。

私は形から入るのが好きな「外から派」だ(笑)
落ち込んでる時は、髪型変えたり、髪色変えたり、
思いきって好きな服やアクセサリーを買ったり、
雑誌のモデルさんのメイクを真似してみたり。
とにかく、好きなものを自分にあてがったり、
素敵だと思う人をひたすら真似たりする。
何事も全ては人真似から。
真似て、自分に合わなければ、変えればいいし、
それを繰り返して自分に合うものを見つけていけばいいかな、って思う。

すべての人に「適度なナルシスト」になってほしいと、私は心から願う。
その人にしかない美しさを、誰もが必ず持っているのだから。

部屋の掃除や片づけ、模様替えなんかも、外見を整えるのと同じことだね。
気分がくさくさしてる時は、思いきってやってみたりすると、
パシッ!と自分が切り替わるのを感じることがある。

アンナにはそういうつもりで話してたんだけど、
やっぱり、端折り過ぎてるよねぇ(爆)
成長の過程でしっかりとフォローするつもりの母であった。
本当の意味の美人であれるよう努力する人であれ、と。


2004年03月02日(火) 人間の不思議

体が傷を負えば痛む。
けれどいつか傷は癒え、痛みも遠のく。
時間はかかるけど、痕は残るけど、
元気になる。

心もきっと同じだ。

傷を負えば痛む。
けれどいつか傷は癒え、痛みも遠のく。
時間はかかるけど、痕は残るけど、
元気になる。

私の左腕には、10代にリストカットした痕が残っている。
精神が荒廃の極みにあった頃だ。
臆病な私がしたことだから、
今ではよく見ないとわからないくらいうっすらとしたためらい傷ばかりだ。
いちばん大きな傷は左手の甲にあって、目立つっちゃあ目立つ。

時々、その傷を見て思う、と言うか、
傷を見ても何も思わない自分に気付いて思う。
もちろん、傷はない方がいいけど、それは私が今ここにいる証、
これはこのままこれがいい、って。

人間の不思議。
傷付くことでしなやかになる。
傷付くことでやさしくなる。
深手から癒えた人は、そこに新しい世界を見る。

私は、決してほめられない10代、20代を過ごしてきた。
ここに書くには臆するほど、色々なことを体験してきた。
でも、だからこそ、思う。
誰でもそこから這い上がれるんだと。
私も這い上がれたから。

それに必要なのは、時間だけだ。
なぜなら、肉体にも、精神にも、自然治癒力があるからだ。
肉体は、より健やかであるために、
精神は、より高く成長するために、
宇宙の法則に導かれ、自然に癒えていく。
それが人間の不思議だ。

だから、私は、信じて待つ。
自分のことも、
あなたのことも。


エイミー |MailHomePage
今日も読んでくれてありがと♪すごくうれしい!
My追加
エンピツユニオン