あたりまえに笑って怒っての下書き用スペース
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・「社会性」(組織的な行動性)の乏しい時代(?)〜実務
身なり・身体性・交流・社交性・コミュニケーション
(共通の)話題
・「非・反社会的な文化の生ずる場」の位置付け
・非社会的感性(個人主義?あるいはオタクなど)
・怪奇作家・倉坂鬼一郎の「長すぎた」会社員生活時代の身辺雑記「活字狂想曲」における倉坂氏のスタンス
→多くの他者には通じるべくもないごく特殊なオタク的文化価値観を抱えつつ暮らしてきてしまった自分と、それを通じさせない外部(他者)の姿のデティールを、両方とも的確に捉えることが可能だった内的なスタンス。
(腹をきっかり括りきった真性オタクと日本の会社社会(世間)を綴った文学?)
・真性オタク、仮性オタク
・日本的組織(体制)
・たとえばしりあがり寿氏のサラリーマン的スタンス
・自我(理屈や感情)をやんわりと壊す現代の禅(ゆとりの持ち方?)
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・芸 ・モノ好きに乞われる性質の存在
・権威による評価やキャリアや成熟度で判断しない。
・ポピュラリティーとマイノリティー
・趣味と実務
・個別具体
・傾き(歌舞伎)、教養、癒し
ヒトの中に悪さ(性格・エゴ・怠惰etc)と純朴さが両存してるとなると、 つくづくヒトというのは厄介なものだというか、 性善と性悪を含む「厄介性」な存在だとも思えてきたり。
「余暇を埋め、満たす娯楽文化」はマルクスによると労働力再生産と位置づけられるようですが、 労働力再生産=生きるためのパワー(メインカルチャー)の回復と解釈したとするならば、 ときにサブカルチャーと呼ばれる娯楽文化には、「書痴」という言葉などであらわされるような、 ときにヒトの道を踏み外させかねない毒素も含む側面も、見逃さないにこしたことはないだろう。
自分の内なる精神的な欲求から手にする娯楽文化にひたり、 自分の今までの立ち位置(ハンディ、己の力量・能力・ノウハウの蓄積の規模など)から目をそらし 安穏としていると思い込もうとし続けることもでき、 己の立ち位置とその外のギャップ(格差)と、 それを踏まえるための気持ちのバランス・ゆとりを持つための力に転換する方向も試みる可能性があるならば、 それは良くも・悪くもオルタナティブな性質な文化なんでしょう。
ヒトの根源的な欲動とそれを(自律ではなく)抑圧しようとする文化・環境、 というテーマは橋本治「蓮と刀」的ですが、 ごく微々たるもの以外の欲望に積極的になれないネガティブな性質と 自分のホームの内にこもることで貯めこんでしまいがちな隙間の時間を 他人が居る場にて小出しにしてゆければというポジティブさの折り合いについても気にかかりつつ、 自分の力量・容量不足が露呈しそうな場をすぐ回避しちゃいがちな過剰すぎる不器用さを直視するにも そのための気持ちのバランスやゆとりを蓄積する機会と時間の流れがあればこそなのでは、とも思うわけで。
マイノリティーという概念があって、 「それってのは別に100万人にたいしてアピールしてなきゃいけないもんではなくて、 2人にしかアピールしないけど、その2人にとってはものすごいエンターテイメントとして成立してれば 僕は構わないと思うわけ。」という常盤響さんの発言を思い起こすに、 ごく少数の範囲にだけ通ずる性質の楽しみをサブカルチックなヘリクツで正当化しようとするのはまあご愛嬌というか、 そこから得た感じかたを自分なりに相手方につうじる言葉で言い表してみる、というのが関の山じゃないかなと最近思った。
こうして書き綴ってきた考えというのはごく個人的なもので、 こうした考えに興味がない人にとってはどうにもリンクしようのない性質のものだろうとも思うけど、 インターネットというのは、こうしたごく個人的な考え方というものも多くの他者がアクセスしやすい場所に晒すことができるメディアでもある、と思うので 今後も時にこうした使い方をしようかと思った。
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