私の生き方
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2002年11月22日(金) トータス主演ドラマ決定!!

『浪花節だよ人生は(仮)』
2003年1月7日(火)21:00スタート 初回10分延長 全11回

■キャスト  水野美紀
       トータス松本
       水前寺清子

■スタッフ
脚本 金子ありさ
プロデュース 杉尾敦弘、小泉守、中津留誠
演出 田島大輔、高丸雅隆

■内容
いつの時代にも求められている永遠のテーマ、「嫁姑問題」。
ほとんどの嫁姑ドラマは大抵パターンが決まっています。気難しい姑にいびられる嫁。
ひたすら耐える。やがてキレる。そして対決。
しかし、この物語はちょっと違います。
嫁(水野美紀)は、2002年を生きる今どきの女性。
元気で勝気。本音100%。
一方、姑(水前寺清子)も豪快な肝っ玉母さん系。
根は優しいのだが、口も悪くガサツ。
言い訳が嫌いなので、誤解されてもうまく弁解できないタイプ。
こんな二人だから、陰湿なわけがない。
「この鬼嫁!」とののしられても「この鬼姑!」と言い返す。
「私のこと、何だと思ってるの?」
「はっきり言って他人です他人!」
ゴーイングマイウェイ、自分の生き方を貫く嫁と、強烈な個性を持つ姑とはことあるごとに意見が対立。
しかし、丁々発止のやり取りを繰り広げているうちに、ふと気づくと、ひとつ屋根の下。
同じ場面で同時に笑っていたりする。
いつしか、同じ味付けが好きになる。
そして何より、夫として息子として、ひとりの男(トータス松本)を愛している「同志」である・・・・
その事実に気づく瞬間。
果たして「嫁と姑」は、本当の家族になれるのであろうか?

                             (HPより抜粋)
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水野美紀さん扮するお嫁さんと水前寺清子さん扮する「姑」さんとの
「嫁姑ドラマ」1人の夫・息子であるトータスを
巡ってのちょっと変わった家族ドラマ。

しかし死んでしまう役らしいのでトータス出演はあまりナイみたい。残念!
ちなみにプロデューサーは「涙をふいて」「お見合い結婚」を手がけた
「アメフト」若尾P氏です。

いやぁ〜今から楽しみですねぇー。
今度こそ全11回でありたいっ!
(どーやらギン恋はユースケの我侭が原因らしいよ。そんな〜!ひ・ひどいっ!!)


2002年11月21日(木) 今の気持ち

I am sleepy today.

It was sleeping till daytime.

Since there is no garbage bag, it goes to buy it from now on.

I am sorry.



☆寒くて動けな〜い☆



2002年11月13日(水) 気持ちはまだグラグラ☆

一晩経って、朝7時。
寝てる彼を横目に起こさずこのまま黙って出勤し、仕事復帰しようかとまだ思っていた。

でも時間が経つにつれ、
またあの嫌な人の下で働くのか?それも今年いっぱいも。
ま、それも引継ぎの人が見つかるかどうか。
でっちあげた納品書や請求書を違反だと知りつつ黙って見てるだけ?
それで顧客先からクレームがついたら裏では私の責任という形で
なすりつけられるのか?
エロオヤジ相手に笑って長年付き合ってきたが、これもまた私が女だというだけで
我慢していかなければいけないのか?
喪中休みもままならぬ人間味のない社長とまた顔を突き合わさねばいけないのか?
やりずらい・・・
っていうか、しゃべるのも嫌だっ!!~~\(。`◇´。メ)/~~  


・・・やはりなにかがオカシイ!
今まではもちろん、今回でよく分かっただろ?>自分!


やっぱり結論はひとつ。

慌てて彼を起こす!

「さぁ!はよぅ電話してっ!」


『うぅ〜ん?あぁ。電話。何番?』



『もしもし?○○ですけど、
今日のところは…というか仕事出来る状態でないんでもうそちらには行きませんっ!
行かせませんっ!!』




○×▲〒☆・・・

(なにやら電話口の向こうでもめてるよう…だ。)


『・・・ハイハイ。分かりました。こちらももう結構ですっ!!』


ガチャ☆


”電話したけん、あんな会社もう行かんで
ええけん、何か返すものあったら出しとき!”

・・・と言ってまた眠りについた彼。

なんだかなぁ〜心強いんやら弱いんやら。(;´▽`A``
でも心は晴れてスッキリ〜☆


そうと決まれば、
さぁ実家へ今日も行こう!!
ふんふふん〜♪(←ゲンキンなやつ)
ε=ε=ε=ε=┏(* ̄▽ ̄)┛

おっはようございまーっす!
(*´▽`*)/





あれ?アンタ!仕事は・・?




辞めた!



・・そう。



うんっ!




当分は悩むことなく日々過ごせそうです。


2002年11月12日(火) ストレス

胃に穴が開きそうだ。

もう限界。

毎晩毎晩、仕事の事を考えると胃がキリキリする。

それでなくても父が亡くなってまだ数日なのに。

仕事の事が頭から一時も離れない。

明日は仕事だ、と自分に言い聞かし、早く寝ようと布団に入りはするが
なかなか寝付けない。

声を殺して泣いている自分。

実家では、母が、祖母が、いるから泣いちゃーダメだと。
自宅に帰っても彼がいるから、こんな事でクヨクヨしてたらますます
不機嫌になるからと泣くに泣けない。
だから2Fで布団にくるまって泣いていた。
昨日も今日も。。
しかし、とうとう彼に泣いてるのがバレ、

「そんな会社行かんでええっ!!
オレが明朝電話したるから!!
もう考えすぎっ!はよ寝えー!」


と今日もやっぱり怒られはしたが、
なんだか気持ちが少しだけ軽くなったような気がした。

今日は彼がちょっといい人に見えてしまった。苦笑。
ありがとう!


2002年11月11日(月) 喪明け

先週の水曜日といい、木曜日といい、週末といい、
私は逐一会社に電話をしてきた。
「当分休みますっ!休ませてくださいっ!!」って。

それなのに、今日の朝9時5分。
社長直々から携帯に電話が鳴り、
「今回大変だったね〜。ところで今日は出勤しないのですか?」と。


『え?p(ーー;) 』

耳を疑った。

実父が亡くなって金曜日に式を終え、これからって時に月曜から出勤しろと?

アホか〜っ!!
(ノ`´)ノミ┻┻がっちゃ〜ん!!


こんな人間味のあったかみのない会社に7年間も仕えてたなんて。
急にアホらしくなってきた。

『無理ですっ!』(きっぱり!)

こっちは平日になったからといって遊んでる訳じゃないのよーっ!!ムカッ!!
役所が開いてるから母に代わったり、もしくは母も連れて(母は車に乗れない)
あちこち回ってるんじゃないっ???
しかも、私と祖母と母で四十九日まで線香やろうそくの火を絶やさずいなきゃいけないのっ!!!
祖母だって入院生活からず〜っと付き合ってるんだからご老体にはきついでしょー?
母だって全く寝てないんだからっ!!うちの事情を知らないくせに!
勝手な事ばっか言って馬鹿じゃないのっ!!!血も涙もないやつっ!!
あなた知らないでしょ?そんな事もっ!!こんな事もっ!!
そんなの当たり前だのクラッカーよっ!!と私の怒りは頂点に!!
しかし、怒ってる私にめげずにずけずけ言う社長!!

「そっちが大変なのも分かるけど、こっちだって大変なん分かるでしょー???
明日は来れる?」



大変さが違うわいっ!!!~~\(。`◇´。メ)/~~ 


『月・火は無理です!』
きっぱり断った。

「たった2時間でしょー?来れないの?」

『えっ??たった2時間?』
そんなに早く仕事出来るかーーーいっ!!!

また聞き捨てならぬセリフを言いやがった!オヤジッ!!
少しの時間で煩わしくないだろうから仕事に来いと?
それともあれかい?私がいつも休みなく働いて午前中4時間以上もしてるのは嘘でどっかで息抜きでもしてると?


「それじゃ、水曜から来てもらうってことで・・・えっと仕事は月曜の分からね。」

なんですとっ?????
またまた耳を疑った。
私が休んだ日は”会社側で仕事をこなします”って、言ったのは嘘かいっ?!
”休んでも大丈夫よ!”って優しく天使のように囁いたのも嘘かいっ?!
私に丸々仕事残ってるんかいっ?!

鬼っ!!ぶっ殺すっ!凸(▼へ▼メ)

どーやら金曜日ルートを社長ひとりで回ってにっちもさっちもいかなかったらしい。
だから早く来いと?ばっきゃろーっ!!
自分の会社の利益の事ばっか考えやがってっ!なめとんのかっ!!


正直言って1週間は休みたかった。
いくらパートだからっていってもそれぐらいはして欲しかった。
そっとしてくれるなら水曜日くらいから仕事に行ってもいいかな?と思っていた。
なにせ、私はこうなる事を予知していて父が入院決定余命一ヶ月と言われた時点で、
「辞めたいんです!代わりのものを早く見つけて欲しいんです!」と訴えていた。
その時点では訴える事空しく「なんとかなるけん大丈夫やで。」と言い切った社長と奥さん。
10月に入って私が病院寝泊り生活が続き寝不足で(仕事の)車にでも乗って事故したら
迷惑かかってはアカンと思い、もう一度ダメもとでお願いしていたところだった。
やはり返事は重く、なかなかYES!と言わない。

そんな矢先の出来事だったのだ。

そりゃ〜こっちだって私の母だって私の彼だって怒るわさっ!!凸(`ω´メ)
もうふんぎりついた。辞めてやると。

それでも人のいい私は自分の性格上と会社の為を思って、
この日はまだ今年いっぱいは頑張って行こう!と思っていた。

一難去ってまた一難。。



2002年11月08日(金) 告別式

仮通夜から一夜明け今日はとうとう告別式。
告別式は、亡くなった時間も、日も悪く、延び延びになっていた。
でもとうとう今日午前11時から告別式である。
・・・どれくらいの人が来てくれるだろうか?


昨晩もまた父の遺体と共に一晩過ごした。
生前の父は人柄もよかったのか、一晩中ついてくれる人達がいた。
亡くなって顔に白い布を掛けられ、綺麗な布団に寝かされ、
そんな父に向かって話し、愚痴を言い、泣きながら、時間を過ごした。
説明のときに、『火を絶やさず・・・』と言われたが、
日頃の寝不足からか私はたまらず知らず知らずのうちに少しだけ眠ってしまった。

母よ、ごめん。

朝7時。
なんだか朝から慌しい空気の中、借りた部屋についてるお風呂に入り、喪服に着替えた。
みなは「はや着たん?まだ早かろ?」と言う。
でも、私は時間が押し迫る中、慌てるのは嫌なのでそのまま着ていた。
この喪服も実はレンタルで。8300円。
しかもデザインが良くない。会場と提携してる所が悪かったらしく、
今時の私たちが着るような礼服はなかった。
男の人は、スーツなのでいいとしても、女の私は最低だ。
ワンピースは嫌だ。と自己主張をしたにも関わらず、なんだか妊婦服。
でもここで押し問答をしてても仕方ないので、着る事にした。
今思えば、買うチャンスというか時間はあったはず。
いつかは今後に備えて一着は買わなきゃ!と思っていた。
何度も売り場に足を運ぶが、なんだか買ったらおしまいだとなんとなく自分に言い聞かせていたのかいつもSTOPがきいていた。
これに関してはいつも財布の口は堅く、何も買わず売り場を後にしていた。


”買える訳ないじゃないっ!!
皮肉にも自分の父の葬儀で着る服なんてっ!”



午前9時。
担当の方が来て、遺体を御棺に入れる作業が始まった。
「御棺に故人が生前愛用してた品物を入れて下さい」と言われ、
タバコ、お酒、つまみ、釣りの道具、チョコ、(ギターは入れれなかったので)歌の赤本、ジャンパー、K1のビデオ等をみんなで入れてあげた。
そして父の御棺は会場へ行ってしまった。


午前11時。
会場には何百人という大勢の方が来てくれ、祭壇も40万もかけてしただけあって色とりどりの花で飾られかなり豪華。その上、父の仕事仲間からの盛り花や飾り花もたくさんあり、供物もたくさん手向けられていた。
5万もする司会の方のナレーションが入り、葬儀は始まった。
生前の父の生い立ちから今までのことごまかに曲に合わせ、まるで誰かに説明するように
ゆっくり話す女の司会者。
早くも涙をそそる。
そして、スムーズな司会進行のもと、お坊さんが来てお経を詠む事1時間。
不眠不休の母は途中うっつらうっつらきていた。
お焼香が喪主の母から始まり、次に一人娘の私になり、順番に親戚、知人といった形で行われた。


午後12時過ぎ。
親戚一同はもちろん、知人など仲間の手によって、父の棺に供物やお花を
入れてもらった。
もう父に触れる事は出来ないんだと確信。
最後の最後にまた冷えた顔に触っておく。
母は、父に「これを…」と言い、白く小さくくるんだモノを入れた。
(後になって聞いたが、あれは向こうにいってもお金に不自由しないようにと入れたらしい。
そっか、あれはお金だったのか。。)


係りの者によって、蓋をされた。
その後、ひとりひとり釘を3回叩くという儀式で終わってしまった。
母は位牌を。
私が遺影を。
いとこがロージを。
親戚の子が笠とわらじを。
棺に付く叔父2名。


そして1Fロビーにて、皆さんが出迎えてくれた中で喪主に代わり遺族代表挨拶。
「本日は公私共お忙しいところ、故人(父の名前)の為に御会葬くださいまして誠にありがとうございます。
故人の生前中は皆様より格別な御厚情、御愛顧を頂きましてありがとうございました。
幼い頃より苦労の多い人生でやり残した事もあったと思いますが、皆様から盛大な御見送りを受けまして
故人はさぞ満足している事と存じます。
私達残る遺族一同にも故人同様の御厚情をたわまります様、ひとえに御願い申し上げます。
誠に措辞ではございますが、遺族を代表し御礼の挨拶とさせて頂きます。
本日はありがとうございました。」
一礼。
凄く寒い中、出棺。


みなさん本当にありがとうございました。

霊柩車に乗り、火葬場に向かう。
クラクションを鳴らして、車はゆっくりと出発しました。

霊柩車って外車だったんですね。
霊柩車って『○×家』ってちゃんと外からも見えるように書かれているんですね。
霊柩車って・・・悲しい車なんですね。。


そんな気持ちの中、火葬場に着く。
また皮肉にもこの焼き場、実は父と母が手がけてつくった地元で始めての焼き場が7つもある大きな火葬場でした。
当時、「ひとつだけデカイ焼き場があって、あれはお相撲さんでも入るんじゃないか?」って父は言ってたそう。
そこには入らず普通サイズでしたけど、自らの手で作った火葬場に入ってしまった父。
焼却炉みたいな中に父は入っていき、硬く閉ざされた扉。
その前になにげない台があってさっきの位牌やら遺影やらロージやら飾るわけです。

焼き終わるのは2時間ばかしかかります。
その間も待合室でいるわけです。
まずはビールやジュースコーヒーなどの飲み物を皆様に配り次につまみやお菓子。
みんなに気ばっかり使ってかなり神経すり減りました。


午後2時半。
とうとう時間が来たようです。
みんなで箸を取り銘々がお骨の壺に入れていくわけですが・・・。
焼けた後の骨だけになった父の姿を見て私はまた泣いてしまいました。
その時、喪服にはポッケはなくハンカチを持っていなかったので、すかさずいとこが赤ちゃん用のタオルを貸してくれました。よだれ付です。
それでもいいや。ありがとう。
内臓のあたりはさすがに何もなく、(真っ黒でひどい状態だと係りの者がのける場合もあるらしい)下半身で残っている骨は薬のせいでしょうか見るからにカスカスでした。
上半身の肩の骨と喉仏はとっても綺麗でした。
全部ひろってやりたいけど壺には入りきらない。
父の仲間が、父が”好きだった海に返したい”ということで特別にひとかたまり。
私も預けていたハンカチにひとつ骨をくるんで持ち帰りました。
まだ熱々で火傷する位の勢いでした。

そして火葬場を後にし、いとこの車に乗り込みました。
大きなバスに乗ったら情けない姿をあらわにするのもあれだろうと思い、
「一緒に帰る?待ってるから!」と言ってくれたいとこに感謝。
車の中では私の落ち込んだ気持ちも涙も吹っ飛ぶかのように10代と20代の
いとこ達の会話で時は過ぎていきました。

会場に戻って2Fで精進おとし。
皆様に料理を食べて頂きます。
ひとつ3000円とやらでしたっけ。この料理。
ビールやらお酒やらたくさんのアルコール類がなくなっていきます。
ここはみなゆっくり食べたい時間なのに、役に立たないコンパニオンとやらが1時間しかついてないのできっちり1時間で切り上げです。鬼っ!!
私は胃の中に入らず持ち帰りです。
料理は・・・そう美味くもありません。

そして香典返しをみなに持たせ、帰路に着くわけです。

今日は親戚の半数の方々が狭い実家でお泊りです。

午後11時半。
今日も長いようで短い一日でした。

本当にお疲れ様でした。


2002年11月07日(木) なにがなんやら・・・

それからはまるでひとつのショーを見てるようでした。
6日、夕方4時。
病院の斜め向かいにある葬儀場から一人男の方が来て、
看護婦3人がかりで父を綺麗に拭いてくれ、白い服を着せ、
顔色ひとつ変えずに遺体を運びました。
それも同じ病棟の患者みんながこちらを見てる中、
普通のエレベーターで1Fまで降り、普通に売店前を通り、裏口へ。
葬儀屋の車に乗せられ、私と母は一緒に行く事になりました。

最後には裏口門で、お世話になった女医。
婦長と看護婦6名が一列に並び私達に一礼をしました。
まるでドラマの1シーンを見てる様でした。

私も母も
「・・・ありがとうございまし・・た。。」と涙ながらに深くお辞儀をしながら
言うのが精一杯でした。

50日間お世話になった女医。
親身になって面倒みてくれた看護婦。

あちらか見たらひとりの患者にすぎないんだけど、
今までありがとうございました。




6日の日は皮肉にも病院通って二ヶ月目。
大安でした。


2002年11月06日(水) 人生最大の日!?

午前8時
現状報告。
血圧上が97、
下が73、
脈拍130
小康状態が続いています。



そして、昨日と同じように仕事をしてます。
いや、してました。

午前11時。
まさに仕事中。
不吉な電話が一本鳴りました。

「もうヤバクなってきたから、身内の方は来てっ!!って先生が!!」


正直動揺しました。
運転してた車のハンドルすら持てないような、震えが止まらない様な、
分かってました。いつかこんな日が来るんじゃないかって。
近いうちに来るんじゃないかって。
でも、自分の中で認めたくもなかったしそんな悲しい現実知りたくもなかった。



「まだ私が行くまでもってーっ!!死んじゃ嫌だーっ!!」と、
何回も唱えながら着の身着のまま慌てて病院へ。



午後12時。
私以外の身内は4人ほど集まってた。


父の手から足からみるみるうちに体温が奪われていく。
そんな手や足をさすって声をかける事しか出来ない私と母。
こんな時自分が小さく何も出来ない無力さに涙が何度も出そうになる。
でも、ここで泣いたらダメだ。母の手前泣いたらダメだっ!と自分に言い聞かせる。


そして、先生や看護婦が慌てだす。
私は母に代わり身内の人に電話をする。



・・・・・・・。


午後3時35分。
私達の介護虚しく父は帰らぬ人となった。




2002年11月05日(火) 生きるか死ぬか

先週末から病院泊り込みの日々が続きます。
朝6時6Fロビーで起床。
朝6時半そこらのコンビニで軽く朝食を済ませ、
朝7時出動。
というより、一旦自宅へ戻る。
それからハラハラしたまま会社へ。

会社でも社長に知られないよう。
仕事先でも笑顔を絶やさず。
かなり苦しい毎日。
軽く50日間経ちました。
もうすでに限界。


2002年11月01日(金) つきっきり

父がボケてきました。
それもかなり。
目もかすみ、もう私が誰なのかさえ分からない日々が続いております。
でも、たまに起き上がるし、なんかボソボソと言ってるからまだ大丈夫?

父は昼間寝て夜起きるといった習慣になってしまいました。
これでは母も祖母も私もつきっきりです。


父は夜中1時頃ムクッと起きて、立ってどこかへ行こうとしています。
父は何かしたいようです。
廊下を夜中に徘徊し迷惑ばかりかけてる父ですが憎めません。
そんな日が続き母も祖母も私も寝れない日々が続いています。


父は仕事の事が頭から離れません。
いつも(ボケてる)仕事をしてます。
私の父は二足のわらじを履いていました。
ひとつは鉄筋業35年以上。
もうひとつは自営業26年。
収入のほとんどは鉄筋業の方で賄っていました。
ハッカを振り回し、結束線で止めていく。
あちこちの現場で真剣に仕事して人との信頼で仕事を取り
一端の親方でした。
いつも従業員のことばかり気にしていつも仕事の塩梅ばかり気にして
これがストレスとなり胃に穴が開いたのも言うまでもありません。
ポリープなるものも3つも持ってました。
体中ボロボロです。
胃癌から肝臓癌から挙句の果てには肺にまで・・・
病院嫌いな父でした。
今更ながら早く行っとけば良かったとみなは言う。
でもそれは結果論。


父の口癖は「結果論でモノ言うな!」でした。


あと何日持つのだろう?


RED

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