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トルコ世界遺産紀行8日目(トロイ遺跡 ホメロスの「イリアス」「オデュッセイア」の熱狂的ファン、シュリーマン。その情熱からトロイの遺跡を見つけだした。 トロイの遺跡は、街が戦争や地震で崩壊するたびに、その上にまた新しい街を築いていったため、BC3000〜AD500年頃までの間のそれぞれの時代の都市の遺構が全部で9層、複雑に重なり合っている。
トロイの木馬
遺跡入口前に、3階建てぐらいの高さのトロイの木馬が置いてある。もちろん観光客のためのレプリカ
シュリーマンの盗掘跡 財宝や盗掘品は全てシュリーマンがドイツに持っていってしまい、そしてそれらは第2次世界大戦時に爆撃で焼失してしまう(一部は戦争後のどさくさに紛れてロシアへ)。
※「トルコ周遊10日間」の旅(2月23日〜3月4日まで)は終わった。
中部国際空港セントレアが開港して1週間もたたない2月23日にトルコ周遊の旅は真新しい空港から始まったのだった。しかし、よもやツアー客34人の中で私のカバンだけが行方不明になろうとはイスタンブールに着くまで知らないことであった。 トルコの国土は日本の約2.1倍。 広い国土にたくさんの歴史的遺産と自然の景観がある。 キノコ奇岩で有名なカッパドキア、石灰棚で有名なパムッカレ、エーゲ海文明を支えた数々の遺跡が数多く残るエフェソス、世界遺産で木馬で有名なトロイなどを効率よく見るのは大変である。 公共交通が発達していない広大なトルコを回るにはバス、フェリー、寝台車を乗り継いで回る。 現地のガイドがついたツアーによる今回の旅は効率よく、ホテルは快適で、申し分なかったけれど、なにしろ寒い季節の旅ゆえ、ひとたびツアー客に風邪が蔓延するとあっというまに広がってしまい風邪ひきツアーだったといってよいものだった。
旅の半分北から東側は晴れて比較的温かかったが、西側、から北へ行くにつれ雨、雪の山越えとなり、ベルガマ、トロイの遺跡ではどしゃぶりの雨の中を観光することになった。
トルコの値段は客次第。人間不信になりそうなくらい、正規の値段などないのである。 5000円と最初の値段が言われると最後は10円にまで下がって行く。 値切って当たり前。値段などあってもないのと同じ。 トイレは「ぽっとん便所」。手桶に水を入れ、その水を使用後使って流す。有料。 夜間、女性の姿はほとんど見あたらない。女性の衣類を売っている店も見あたらず、男ばかりがうろうろと夜の巷を歩いている。日に何回か町の角角に設置してあるスピーカーからコーランが流される。女性はベールをかぶっていたり、スカーフ姿が大半である。 回教の国トルコはスンニ派が多いと言う。 キプロスを挟んでギリシャと紛争がいまだに絶えない環境にあり、隣国にイラク、イラン、シリアを睨みEUに加盟したいと望んでいる国でもある。 石油をまったく埋蔵していないため、輸入している。輸入が輸出をうわまわり経済はなかなか厳しい。
そんなトルコを救うのは遺跡をはじめとした観光産業であろう。
歴史に残る遺跡群もドイツ人により財宝など掘り尽くされ持ち去られてしまった。シュリーマンにより発掘されたトロイの遺跡などにその跡を見て愕然。 考え深い遺跡をめぐる旅となった。
*p1*トルコ世界遺産紀行7日目(ベルガマ遺跡) ベルガマ遺跡群 ヘレニズム時代に山の頂きにできた町、アクロポリスと古代世界の有名な医療センターの跡、アスクレピアオンが見所。アクロポリスには大理石で出来た神殿、空の神ゼウスの祭壇や古代世界の2番目の規模を誇る図書館が残っている。円形劇場や地下のトンネルなどの遺跡に目を見張った。 アレキサンダー大王の死後、広大な領土はい くつかの王朝に分割され、その内の一つペルガモン王国と して、紀元前3世紀半ばに独立してからだった。早くから 近隣の脅威から国を守るためにローマと同盟し、133年 からローマ帝国の属州となり、エジプトのアレキサンドリ アと並ぶ文化都市となる。人口も20万を数え、8世紀のイスラム軍侵攻の時まで繁栄を続けた。
ベルガマ遺跡群はほとんどドイツのシュリーマンによって掘り尽くされ、その貴重な建造物はドイツに持っていってしまわれた。今ドイツのベルガマ博物館に展示されているのだからその神経たるやすごい。 財宝はシュリーマンの奥さんが身につけてドイツに持ち出したとか。
ベルガマ遺跡
アスクレピアオン(トラヤヌス神殿)アスクレピオンは、紀元前4世紀から紀元前2世紀にかけて造られた、ローマ時代の医療施設跡。神殿、図書館、劇場、聖水の湧き出る泉、円形の治療棟、暗示療法にも使われた地下道からなり、この総合的な医療施設が2000年も昔に、すでに存在していた
アクロポリス
円形劇場(15000人程収容可能)
※最もペルガモンが栄えた紀元前2世紀エウメネス2世が建てた図書館の蔵書は20万冊を誇り、アレキサンドリアを抜いて世界一位となった。そこでエジプトはライバルのペルガモンをねたんで、パピルス紙の輸出を禁止するが、ペルガモンは羊皮紙を考案して代用とする。しかしこの貴重な蔵書を、アントニウスはクレオパトラを喜ばせようと、エジプトに送ってしまう。 その蔵書は2冊を残してすべて燃えてしまった。その残った2冊はホメロスの『 イリアス』も『オデュッセイア』である。 *p2*世界遺産トルコ紀行6日目(エフェソス) 世界遺産トルコ紀行6日目(エフェソス) 2月28日雨 トルコ最大の遺跡「エフェソス」
※イオニア地方に位置しており、最盛期をローマ帝国時代に迎え小アジア属州の首都でもあった。図書館、大理石通り、神殿、音楽堂、円形劇場は見事。 大理石通り
図書館
まっすぐ行って左側に売春宿があるという表示 隠れキリシタンの隠された十字架
円形劇場跡
*p3*トルコ世界遺産紀行5日目 トルコ世界遺産紀行5日目 2月27日曇り時々雨 パムッカレ・ヒエラポリス遺跡観光 パムッカレ石灰棚
山の上から湧いてくる天然温泉が下の平原に流れ込む間に冷却され、含んでいる炭酸カルシウムを残し石灰の台地が作られた。
ヒエラポリス遺跡
ヘレニズム時代から出来ているヒエラポリスの街跡遺跡
*p4*土耳古の旅4日目 2月26日(土)曇り
黒いベールをかぶった女性とスカーフ姿の若い女。 チャイ ジュウタンを織る女性 キャラバンサライ(隊商宿)の前で絵はがきを売る女の子
*p5*土耳古の旅3日目 3日目 2月24日晴れ
2日目の夜、旅行カバン届かないアクシデントの為、着た切り雀を余儀なくされた私は下着、靴下、セーター類を買おうと街を繰り出すがどこにも女性用の衣類を売っている店がない。 それどころか女性が外出している姿はみかけることがなく、どこをみても男ばかりで気味が悪い。 やっとスポーツ店へ入りセーターを購入。
夕食はオリエント急行が発着していたかつての駅スイルケジ駅のレストランで夕食。 夕食後アンカラエキスプレス(アンカラ特急)一等寝台車に乗り、アンカラへ向かう。(約9時間半)
3日目の朝8時アンカラ駅到着。 アンカラ駅からバスに乗りカッパドキアへ向かう。 ※ギョレメ国立公園とカッパドキアの岩窟群(世界遺産)
ラクダ岩
※ギョレメ国立公園とカッパドキアの岩窟群: カッパドキアはアナトリア高原の中心に広がる大奇岩地帯である。 キノコ状の岩に代表される奇岩のものすごい景観に言葉を失う。 奇岩の中に残された岩窟教会や修道院、地下何十メートルと掘り下げられた地下都市は世にも不思議なものであった。4世紀前後からキリスト教の修道士たちが掘り出した洞窟教会があり、当時の修道士たちが外敵から身を守り、信仰を守りながら生活してきた貴重な地域でもあった。
夜は一変してベリーダンスショーを見学。
*p6*トルコ周遊10日間の旅(2日目) 2日目2月23日(晴れ) イスタンブール歴史地区観光
ボスフォラス海峡 向こう岸はヨーロッパ。こちら側はアジア。 海峡を臨むレストランで食事中に海峡を潜水艦が浮上して航行するところを目撃。イラクへ向かうのであろうか?
ブルーモスク トプカプ宮殿
地下宮殿
地下宮殿は6世紀の中ごろにビザンティン帝国のユスティニアヌス帝によって築かれた地下貯水池のこと。
※イスタンブール歴史地区はトルコ最大の街。奥深い歴史を持つイスタンブール。 2回呼び名を変えた都市でもある。紀元前からビザンテイウムと呼ばれていたが、東ローマ帝国の都と定められて(紀元前4世紀)から呼び名がコンスタンチノーブルに変わり、1453年にオスマントルコ軍によって陥落されてからは、イスタンブールと呼ばれるようになった。アジアとヨーロッパを結びつけ、産業、観光の中心都市として栄えた。特にビザンチン帝国時代のアヤソフィア大聖堂、地下宮殿、オスマントルコ時代のブルーモスク、トプカプ宮殿は見事。
ボスフォラス海峡を見に行こうと朝早くホテルを出ると靴磨きのおじさんが尋ねもしないのに道を教えてくれた。途中近道を教えてくれたついでに靴を無理矢理磨こうとするので断るとお金をくれという。 毅然として断ると去っていった。油断も隙もない。トルコはこうしたものが多い。またスリも横行しているのでよくよく注意しないと危険だ。
*p7*土耳古からの帰還 2月23日〜3月4日まで「魅惑のトルコ周遊の旅10日間」と題する旅がはじまった。
いつもは一人旅か二人旅が今回は138000円という超安い旅行代金に惹かれて団体ツアーなるものに参加してみた。開港1週間目というピカピカの新空港(セントレア中部国際空港)から旅ははじまったのだった。 安さにつられたのは私だけではなかった。34人もの人数の団体ツアーであったから驚いた。 この旅の道連れは大方は旅の達人とでも言えるような人ばかりだった。毎年出かけているという御常連が多く、15ヶ国以上の国々を訪ねた人が多かった。
旅行記は後ほど詳しく書くこととして、10日ぶりの日本へ帰ってきてほっとしたというのが第一声である。 旅の半分は浮かない気持ちの旅だった。 なぜかって? それは私の分だけ旅行カバンが届かなかったからだった。 つまり着たきりすずめのまま半分を過ごしたのである。 なしろ開港したばかりの中部国際空港は手違いが多く、係員は不慣れな人が多いらしい。
着たきりすずめと言っても、今までの旅でも荷物はごく少な目にすべしというのが私のモットー。 毎晩とっかえひっかえファッションショーするわけでもないのでどうって言うこともないのだけれど、やはり、荷物がないと寒い季節、困るものだ。
いつもの一人旅では時刻表と磁石、旅のガイドブックをたよりに半分冷や汗をかき、半分はきままな旅であった。 今回のトルコは公共の交通機関が不便で発達していない国であり、移動が極めて困難な国であることと、隣国のイラクを横目で見ながらであるので一人旅よりはツアーの方がはるかに安全で快適な旅であることから団体ツアーにしたのであった。
総勢34人の旅の仲間たちは顔ぶれがユニークで大変面白かった。 一番驚いたのは妊娠7ヶ月の妊婦さんが混じっていたことだった。 若そうな妊婦は大きなお腹をかかえながら、狭い洞窟や階段だらけの道、舗装されていないでこぼこ道のバス6時間という難関もなんのその。へらへら笑いながらスタスタと旅を続けたのだったから唖然としてしまった。 自分勝手な行動をするおっちゃんと妊婦があわやの喧嘩になりそうになったり、極寒のモスクをへそだしルックのショートパンツを穿いた短大生が翌朝39度以上の熱で大騒動を起こしたり、それはそれは人間ウオッチングするには絶好の旅であったといえよう。
肝心の旅はおおざっぱに説明すると 第一日目:名古屋からパリシャルル・ドゴール空港乗り継ぎ12時間、そこからイスタンブール。
二日目:イスタンブール歴史地区(トプカプ宮殿、地下宮殿、ブルーモスク、グランドバザール)→アンカラエキスプレス一等寝台車にのりアンカラへ
三日目:カッパドキア、ギョレメの谷、カイマクル地下都市、
四日目:カッパドキアからキャラバンサライ、コンヤ、メヴィラーナ博物館、からたい神学校、
五日目:パムッカレ、ヒエラポリス遺跡群、石灰棚、
六日目:パムッカレからエーゲ地方へ(雨がここより降り出した)エフェソス遺跡、聖母マリアの家、イズミール
七日目:イズミールからベルガマ、アクロポリス遺跡、アクレピオン遺跡、チャナッカレへ
八日目:トロイ古代遺跡、フェリーでチャッカレ港へエジェアバト港(ヨーロッパ側へ) ここから雪の山越えとなる。降りしきる雪のなかイスタンブールへと
九日目:イスタンブールへ
カッパドキアの奇岩、ギョレメ谷、地下都市、遺跡は想像以上のものであり、壮観。「わー。すごい」と言ったきりその先の言葉を見つける事が出来ないほどだった。 また、以前ベルリンでみたベルガマ美術館に展示されていた遺跡の展示物は古代人の建築の知恵に驚かされたけれど、それもこれも元をただせば、実はトルコのベルガマから発掘し、ドイツが勝手にこっそり持ち帰ったものだったのだ。 現実に見るベルガマ遺跡はぞっくりドイツへ持って行かれたため残ったものはくずれかけたわずかなものばかりで見るも無惨。期待して行ったものの、がっかりするほどぞっくり持って行かれた残骸であった。 こんなに歴史的に貴重な遺跡建造物を他国へ持って行かれ、持っていった先の博物館に展示する神経にはおどろくばかりだ。大英博物館もしかり。
さて、期待していたボスフォラス海峡は二日目にこの目で見てきた。 黒海へと繋がるこの海峡はアジアとヨーロッパとを挟んだ政治的にも歴史的にも重要な役割を果たしてきた海峡である。文化の接点でもあり紛争の絶え間のない曰く付きの海峡でもある。
この海峡を望むレストランで食事していたとき、海に静かに黒いものがぐいぐい横切って行くのが見えた。 あれ?何だろう? あ!潜水艦! 思わず言うとみんなが「潜水艦だ」といっていっせいにカメラのシャッターをきった。 潜水艦の上部を浮上させてぐいぐいと進んでいったあの潜水艦はどこへ行ったのであろうか? イラクだろうか? 平和ぼけした日本人の私たちは、のんびりと観光の一シーンをみるようにいっせいにシャッターをきったのであった。 エセーニンの詩にあるような、五木寛之の「四季 布由子」にでてくるようなボスフォラス海峡とはことなった光景がそこにはあった。
朝、昼、夕とどこにいても街のどこかから大きなスピーカーで流されるコーランが聞こえるトルコはオスマントルコ時代から現在に至るまで様々な歴史に彩られた国である。 首都のアンカラやイスタンブールは繁華な賑わいを見せてはいるが、ひとたび地方へ行くと馬に荷車をひかせ、舗装していないほこりだらけの田舎道をいきかっている。 貧しい家や人々の様子がめだった。隣のイラクは石油という化石燃料を豊富にかかえているのに対してこのトルコは石油が全くでない。石油は買っているのである。輸入が輸出よりはるかに多く、困窮が続いた。
トルコ人は親日家が多い。それはエルトゥール船の難破の時日本の村人が寒さに震えるトルコ人を抱いて温めたという実話や、対ロシア戦で負けたのに、時を同じくして日露戦争で日本が勝った為、トルコはロシアに負けの責めをおわないで済んだなどなどがあるからだともいわれている。
今回の旅の想いはまた後日ゆっくりかくとしよう。 今日はひとまず、無事帰国出来たこと、この旅はそこそこに面白かったということを記しておくにとどめておくとする。
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