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2004年03月16日(火) Parlo soltanto un poco italiano(北イタリア篇)

時差ぼけのせいか、信号待ちの車の中でふらっと眠気に襲われてあやうく追突しそうになった。

昨日まであの太陽の降り注ぐイタリアにいたのに、今日からまた日常へと首まで漬かることとなった。

昨日までイタリアの片田舎、バッサーノ・デル・グラッパ地方にいたのに・・・・
グラッパは北イタリアの小さな町。アルプスからのおいしい空気に満ちた美しい町。
イタリアでは珍しい「屋根」のある「木製」の橋が架かっている

グラッパ地方でとれる特別な酒,ぶどうの絞りかすを発酵させ蒸留させたアルコール度38度〜60度の酒でブランデーのようなもの、これををグラッパと言う。
グラッパは味だけでなく、見た目でも楽しいお酒である。手書きや、入れ子になったガラス細工が美しく、飾っておくだけでも楽しい。
味は野趣に富んでいる。口に含むと若々しいブドウの土っぽくい香り。このちょっと癖のある匂いがたまらない。
 グラッパはストレートで飲むのが基本。おじさんたちがバールでクイッと一杯やっている光景はなんとも格好良い!

エスプレッソにグラッパというのもよくやる飲み方。
まずはエスプレッソをそのまま楽しみ、そして、砂糖を入れて溶かしきらずにザラメが残るくらいのところにグラッパを注ぐ。これを一気にザラメともども飲む。これでエスプレッソは完成すると言われている。
 レモンやカシスのシャーベットにグラッパをかけて食べると、これがまた大人のしゃれたデザートになる。


さて、
グラッパの飲み屋に入ると凄みのある危ない魅力を漂わせたオーナー兼バーテンがグラッパの瓶を背にカウンターに佇んでいた。
にやけたイタリア男とはどこか違った雰囲気。精悍で逞しく大人のかげりのある男。
グラッパを何種類か試飲させてくれと頼むと軽いものから順次出してくれるとのこと。

ちびりと飲むと、喉から胃袋にかけて熱く焼けるような感じ。軽いものでこれだからきっと強いグラッパはどんなか簡単に想像できた。

強いグラッパをグラスに少量注いでくれた。
一口飲むと口から火がでそうに強烈!
思わず「ひゃー」と叫んでしまった。
バーテンがそんな私をみてにやり。

店には昼間だというのに飲み客が多く、少々驚く。
皆何やら赤い飲み物を飲んでいる。
度の強いグラッパにカウンターパンチを食らった私は椅子に腰を下ろしてくつろぐことにして、その赤い飲み物の正体を尋ねてみた。
アペリテイーボ(Aperitivo)食前酒だと言う。
早い話がカンパリソーダーだ。

お前も飲むか?と言うので「おっしゃ!飲んだる!」と酔いに任せて言ってしまった私。
そのうち、アメリカ人らしき客が入ってきて「英語話せるか?」と横柄な態度でバーテンに聞いた。
バーテンはイタリア語で「イタリア語なら少しだけはなせるぞ」と言う。
イタリア語が分からないアメリカ人は??という顔をするばかり。

私は思わず吹き出して「座布団1枚!」とイタリア語で言ってしまった。(おいおい!ほんまかいな?)

バーテンは「お?お前結構イタリア語はなせるじゃないか」と叫ぶ。
すかさず私は「あなたと同じぐらい少しだけね!」とまぜかえすと、そばにいたイタリア人客がどっと笑った。

んなわけで、気を良くしたバーテンがグラッパ数杯とカンパリはただにしてくれた!
これでのみ逃げでは日本人として恥じとばかりグラッパの瓶を2本お土産に買ってしまった。やっぱり私ってお人よしの日本人ねえ〜…


       ↑
上の写真がその時買ったグラッパの瓶
右側の瓶は[Acqua Di Cedro]度数29%Vol.味は甘くてデザート向き。
左側の瓶は[Aquavite]度数は50%Vol.強烈なパンチ。喉を熱く刺激的に通って行くが美酒。

町は美しいし、住人は気のいい人が多く温かで素朴。
観光客があまりいかない場所なのでゆっくり心を休める素敵な町。

帰り際にバーテンが何やらそっと私の手ににぎらせた。

開いてみると彼の住所だった!!!!

ここはやっぱりイタリアだ!


2004年03月15日(月) イタリア旅情(イタリア篇)

暦は8月となった。
涼しい葉月の初日。

点から点への移動にすぎない「旅」が線を描き面となりいつしか心の中に「豊饒」の立体を結んだ7月の旅。

アドリア海からの風が髪をなびかせ、胸をしめつけるようなヴェニスの佇まいが乾いた旅人の心を潤した。


フィレンツエは夕暮れがよく似合う。アルノ川が茜色に染まり空と川の境目をなくしてしまう頃、教会の鐘が夕べのミサを告げ茜色の空に鳴り渡る。

ボッティチエッリの「春」、マルテイーニの「受胎告知」が旅人に時空を越えさせ忘我せしめた。
ナポリの裏町では、へんぽんと翻る洗濯物が下町の逞しい生活の匂いを運んでくれ、
スパッカ・ナポリのピッツエリエでは、おばさんたちが夕べのおかずを買いに行列。
その店の奥で従業員達が賄い料理を食べていた。
旅人も混ぜてもらい、トマトソースとモッツアッレラが溶け合った熱々のピッツアに食らいつく。
その名は「ピッツア・マルゲリータ」


その昔、ピッツア好きのブルボン家のマルゲリータ王女様が、ピッツアコンクールを催し、一等に選ばれたのがこれ。
おいしいとほめると、ズッキーニの花と茄子の揚げ物を新聞紙にくるんでサービスしてくれた。ナポリ風てんぷら。
下町の人情は所変われど皆同じ。気さくで人情に溢れて温かい。

フローレンスからナポリへ向かう国際列車の中では東京赤阪にある大使館に勤める
某国の一等書記官に声をかけられカプリ島やナポリの見所を教えてもらったり、
トレビーゾでは新聞社のインタビューを受けるハプニングがあったり(私ってそんなに有名だったっけ?)、フローレンスのレストランではおいしいお酒、レモンチェロを注文しないのにこっそりご馳走してくれたり、道端に落ちていたバスの未使用の切符を拾ってバスに乗ってしまったり、列車に乗り遅れそうになり、重いリュックを背負って全速力で町を駈けて右足の不調をすっかり忘れさせてくれたりした。

ローマから空港までの列車の中では韓国で一番人気のある26歳の俳優(イタリア留学中)
にコンパートメントの中で声をかけられた。
熱く語る人生観と演技論、女性観、自分への挑戦など、久しぶりに燃えるような人物に出会ったりした。

こうしてイタリアの旅は食、人情、芸術、歴史、文化を通して旅人の私に多くのことを
与えてくれた。

点から点への移動にすぎない「旅」が線を描き、面となり、「豊饒」の立体の像を結んだ。

長靴の形をした素敵な国、イタリアよありがとう。
Arrivederci !

メンデルスゾーン交響曲第4番「イタリア」を聞きながらまだぬくもりの残っているイタリアに思いを馳せるとしよう。



2004年03月14日(日) イギリスでのデート(イギリス篇)

ウイリアム・モリスの図柄のついたお気に入りのマグカップの取ってがとれてしまっ
た。
イギリスを去る日、思い出の品として2つ買ったものだ。一つは自分用にもう一つは
長い間アッシー君をしてくれたステイ先の隣の家の青年に。
「イギリスの庭」と呼ばれる美しい都市ウースターの学校に通っていた頃、朝夕送り
迎えをしてくれたマーティン。180cmの長身に、はにかみを浮かべた笑顔がとび
きり素敵だった。ある日、ステイ先のママが気を利かせて隣町で開かれるアンテイッ
クフェアーを見に行くデート計画を勝手に立てた。
私はその頃、学校へ入学したばかりで英語もまだおぼつかなかった。クラスメイトに
何を着ていこうか、何を話せばいいのか、相談をもちかけるともう大変。みんな色々
な知恵を絞ってこのデートを成功させようと大騒ぎになった。当日車で校門の前に彼
が到着するやいなや観察しがてら冷やかそうと大勢のクラスメイトが門に鈴なりと
なった。
塀に鈴なりとなった顔・顔.顔を見て、マーティンはぎょっとしたけれどそこは大人。イギリス紳士の名に恥じぬようジェントリーに私をエスコートして車に乗り込みいざ出陣。
隣の町まで美しい絵画をみるような田園がどこまでも広がっていた。
町につくとそこはアンティックの店が軒を連ねていた。
私はアフタヌーン・テイー用の2段になったケーキ皿が気に入って買う事にした。
100年くらい前のものだろうか…持つ手の銀に彫刻がほどこされ、お皿には
花が小さく散っていて上品なたたずまいを見せていた。
何軒もアンティックの店を見てまわって疲れた私達は小奇麗なケーキやで
お茶を飲むことにした。並んで歩いている時には感じなかった恥じらいが突如
目覚めてきた。目をじっとみつめて話すマーティンの顔がすぐ目の前にあって
うろたえて顔が赤らんできた。下手な英語がもっと下手になって単語が浮かばない。
何か聞かれているのにもう頭が虚ろ。
突然テーブルの上に所在なげに置いておいた私の手の上に彼の手が触れた。
あ〜ぁ、ど、ど、どうしよう・・・
彼の顔が近づいてきた
映画ではこんなとき、目をつむるんだったっけ・・・
あ〜ぁとうとう私の唇が・・奪われるのかも・・・
などと思っていたら、なんのことはない、もう帰ろうという合図だった。

ひゃー。恥ずかしい!
目をつむって唇つきださなくてよかった・・・
危うく大恥じかくところだった。

ってなわけで、小1時間もそこにいて帰途についた.
この続きはまた後で…
さてそのウィリアム・モリスであるが、彼のデザイン柄は未だに廃れず、ファブリックやカーテン、壁紙、などで使われ人気がある。
イギリスの想い出にモリスのデザインのものを買って身辺にイギリスをいつまでも感じていたいと思った。
そのマグカップが壊れてしまった。
想い出まで壊れてしまった訳ではないのになぜかさみしい想いがこみ上げてきた。
風の便りでは、あのマーティンはいまだに独身だそうな。
マーティンのマグカップは壊れていないだろうか?

柄がとれてしまったマグカップを見ながらイギリスの想い出が頭をよぎった。

三寒四温。
寒い昨今だけれどもうじき3月。

“March comes in like a lion.”


“And goes out like a lamb.”

二人で交わした最後の会話。

今夜は冷えそうだ。
柄のとれたマグカップでミルクティーを飲もう。


2004年03月13日(土) パーティー(イギリス篇)

イギリスにいた頃、
クラスにアラブのさる国のお姫様が留学していたので、ついでのおまけとしてご学友
(?)の私達数人も貴族のお屋敷のパーティーに招待されることがあった。
お庭を案内すると言われても広大な森
になっていて馬にのって散策するという。遙か彼方まで領地で、小川が流れていて
シェリーやワーズワースでなくても田園詩人になれそうな雰囲気だった。居間の椅子に何気なく腰掛けようとしたら
ビクトリア女王から頂いた物だとか?
「うそー!このこぎたないぼろの椅子が?」と思わず言いそうになってやめた。

いよいよ晩餐会の始まり。左隣の席にハンサムな青年が座った。右は中年のおじさま。このおじさま、、話題が豊富で面白い。シェイクスピアにやたらと詳しい。ソネットをそらんじていて朗々と語ってくれたりする。一方的に聞くだけでは
いけないと思って、日本にはシェイクスピアより200年も前からお能っていう伝統
芸があるのよ。知ってる?なんぞと言ってみたら、このおじさ
ん、お能にも詳しかった。そのうち、能「葵の上」と「「オフィーリア」の演技につ
いて私見を交わしたりした。
さて、ディナーも終わり、居間へ移り、晩餐のお礼にピアノ演奏をした。
演奏し終わると先の青年がつかつかと寄ってきて小さな花束をくれ手にキスをしてく
れた。これは貴族の子供が幼いときからしつけられるマナーでベイズマンとよばれ
る。。話してみるとここの当主の息子だとか。ついでにさっきのおじさんの正体をき
くと英文学者で元有名なシェイクスピア役者だそうだ。道理でソネットをたくさん
知っているわけだ。と思っているうちに早くもおじさまが立ち上がって、詩の朗読を
ご披露しだした。
「韻を踏んで朗々たる名詩だね」と隣の紳士が私にささやいた。「素敵ね」と答えて
おいたが、残念ながらさっぱり分からなかった。
さてかのアラブのお姫様はというとこの晩餐会の日を境に大事件を巻き起こすことに
なった。それはかのベイズマンとある人物とを挟んで恋のさやあて合戦に発展して
いったのである。、その後、私達友人はお姫様の恋のカモフラージュの為に色々な
パーティーにかり出され、お陰で面白い事柄に事欠かない日々を送ることになった。

続きはまたあとで・・・・


2004年03月12日(金) 英国式誕生日の祝い方(イギリス扁)

誕生日の早朝、まだベッドの中でうとうとしていると、ドアをノックする音が・・・

寝ぼけまなこで返事をすると、
ワゴンの四隅にハートやら丸やら色とりどりの風船を結びつけてステイ先のお父さんのバリー、、お母さんのアニー、高校生のイアンそして犬まで、家族一同が「♪ハッピーバースデー♪」の歌を歌いながら入ってきた。

ワゴンの上には朝食が並んでいた。

歌がすむとクラッカーを派手に鳴らし、両手のこぶしで机をかたっぱしから叩いて「イェーィ」と奇声をあげた!

家族一同から誕生日のお祝いの言葉と抱擁を受け、驚きと嬉しさと、英国に来てはじめての誕生日の儀式に驚きの気持ちで一杯になった。

お母さんがベッドの上に朝食のトレーを置き、いつもよりちょっとだけ豪華なイングリッシュ・ブレックファーストを独りでベッドの上で食べることになった。

食べながら英国では朝食をベッドの上で食べるのが何か特別な事なのかなあっと不思議な思いだった。
つまり寝床で至れり尽くせりのサービスを受ける女王様の気分を味わうことなのかも・・・と。

うきうきと朝から楽しい気分で学校へ行くと
午前のお茶の時間に先生がお手製のケーキをしずしずと持ってきてクラス全員で誕生日を祝ってくれた。

お礼の言葉をみんなに述べたついでに貰ったカードの紹介をみんなにした。
その内容は「私は今朝、ある有名人から直筆の誕生日カードを貰いました」と告白したのだ。
クラスメイトは「誰?だれ?」とワイワイ、がやがや騒ぎ出した。

それはあのテニスプレイヤーの「ボリス・ベッカー」です。というとあっという間に大騒ぎとなった。

なんで知ってるんだそのカードを見せろと迫ってきた。
そこで私はおもむろにそのカードをみせるとみんな「なーんだ」とがっかりしてから大笑いの渦となった。

そのカードのサインは不思議なマークが付いていた。犬の足跡!

つまり飼い犬の「ボリス・ベッカー」の足の裏にインクを付けて家族がカードを作ったのだった。

「百合にだまされた!!!百合はもうすっかりイングリッシュ・ジョークを言うようになった」とクラス中拍手になった。

放課後、家に帰ると部屋のテーブルの上にお父さんのバリーからのプレゼントが乗っていた。
仕事の途中に一端戻って置いたようだった。

それは二人の共通の趣味であるアマチュア無線の英国のステッカーだった。
なかなか手に入らないであろうステッカーを何処でいつ手に入れたのだろう?

胸がじーんと熱くなって涙が出てきた。
異国にあって、他人の家でこんな風に暖かく遇される嬉しさで一杯になった。

いつか何かの形で恩返ししたいと心に決めた一日だった。




「英国生活の追想」より



2004年03月11日(木) シェリー酒の想い出(イギリス扁)

イギリスにはお城や貴族の館がたくさんある。
未だに狩猟を楽しみ、きらびやかな夜会が催されたりもしている。

私がいた学校も素晴らしい貴族の城、館であった。由緒ある館で屋根裏の謎の部屋では戦争の時密かに作戦会議が催された場所であるとかといわれていた。しかしその部屋へ通じる道をいくら教えて貰ってもたどりつかない。
なぜならその部屋へ行くには居間のからくりドアから行くのであるがそのからくりドアが巧妙に出来ていてわからないのである。
コモンルームと呼ばれている部屋は生徒みんなの憩いの部屋である。大きな暖炉があり、書棚には何世紀も前からの古色蒼然とした金背表紙の本が並んでいた。床は寄せ木細工で出来た素晴らしい手仕事のものだった。その上にペルシャ絨毯がひかれ保護されていた。午前と午後にそれぞれティータイムがあり、お抱えの給仕人によって焼かれた熱々のスコーンとビスケットが出された。スコーンにはクロテッドクリームとよばれる黄みがかった濃厚な生クリームが添えられ、ジャムと一緒に付けて食べる。おいしい紅茶を飲みながら先生や生徒達と談笑するのはこたえられない楽しみであった。
時々、シェリーパーティーとよばれるパーティーがあり、色々な人が集まり賑わった。
色々な人としゃべる中、私は一人の素晴らしい紳士と意気投合した。背が高く渋いスーツを着て薄暗いあかりの中でいぶし銀のように光って見えた。温かそうな茶目っ気たっぷりな目をしていてとても気に入った。話をするにつれ、彼がピアノの名手であることが分かった。シューベルトが好きで良く弾くということでシューベルト談義となった。私はよせばいいのに自分の考えや思うこと弾き方、解釈など山ほどしゃべってしまった。
彼は時々私の無謀とも言える飛躍的な話しに大笑いをし、「面白い解釈だね」と茶々を入れた。話が佳境になりそうなとき、パーティーがお開きとなってしまった。「次回必ず君を捜すよ」と言われ名残を惜しみつつ別れた。
それから数日過ぎて、友達に彼の名前を言うと、とたんに顔が蒼白となった。彼はシューベルトの第一人者といわれている世界的に有名なJ・D氏その人であった。
無知と若さは垣根を越えてとんでもない会話ができてしまうものだ。
シェリー酒を飲むたびに思い出すあのいぶし銀のおもざしとあのコモンルーム。



2004年03月10日(水) 魔法のじゅうたん(北アフリカ、モロッコ篇)

水中翼船に乗ってジブラルタル海峡を渡って北アフリカのモロッコ、タンジール港へ着くとそこはまるで異国だった。
カスバ(城郭内の住居)へ行ってみたが、ものすごく不潔だった。
カスバは有名な迷路となっていて地元民でも迷ったらでてこれないと言われている。
覗いて歩き回ってみようかと思ったが、妖しげな水タバコをくわえて座ってこちらをみつめる男の視線がからみついて気味悪くやめることにした。カスバのモスクは古びていて
趣がある。
外には四角いトルコ帽のようなものをかぶった老人達がなにやら妖しげなものを飲んでいた。
「何飲んでるの?」と尋ねてみた。すると飲んで見ろと薦められてしまった。まさか麻薬かも??飲んでみると、頭が痛くなるような甘いミントティーだった。
水タバコも吸わせてくれるよう、頼みたかったがやめた。

カスバの迷路に迷い込まないうちに早々にここを引き払うことにした。。
やがてジュータン屋に入って小さなじゅーたんを買った。値切ったつもりだが、だまされたかも知れない。ま、これが旅の面白さ。

お腹がすいて、レストランに入ってモッロッコ名物を食べることにした。「シシケバブーとクスクス」を食べた。ケバブはおいしかったが、クスクスは黄色いぱさぱさのまずい鳥の餌みたいだった。そのうち突然変なものが乱入してきた。
有名なベリーダンスだ。
おへそに金のピアスを食い込ませて、腰を激しく振って、胸もゆさゆさと振ってものすごい。世の中の男性全てが悩殺されると言われているベリーダンスだが全然悩殺どころか気味が悪い。だって、お腹がたぷたぷした毛深いおばちゃまのダンサーだったから。アンジェラと私は笑い転げているうち、気がつくと、目の前にダンサーのおばちゃまのお尻があった。顔をまじまじとみると深い皺がきざまれていた。急に二人とも笑えなくなってしまった。
最終便の船に乗り遅れるとこのカスバで野宿するはめになるかもと、そうそうにモッロッコを引き上げ、スペインに戻った。


懐かしのジュータンの上には、今、愛犬が夢の世界をたゆたっている。
もしかしたら、このジュータンは魔法のジュウタンかもしれない。
呪文さえ知っていたら、世界中をこれにのって旅できるかも。



2004年03月09日(火) ロングドレスの下の秘密(ウイーン篇)

ウイーン国立歌劇場STAATSOPER。

ここのボックス席でオペラを聴けたら最高だ。

ドレスアップして優雅にボックス席でオペラを聴けたら・・・と思うけれどなかなか切符がとれない。
半年ぐらい前でも手に入らない。手に入ってもエージェンシーに5万円ぐらいで買わされる。
しかし、立ち見の席は破格に安い値段。
したがって毎日聴きに来る音楽通の席とも言えるので出演者が最も恐れる席。陣取りはハンカチを結んでおく。一人分60cmは確保出来る。

ウイーンのチケット売場の女の子と仲良しになり、冗談でボックス席に空きが出来たら取っておいてねと頼んでおいたら、なんと偶然最高席にキャンセルがあったと連絡が来た。

ジーパンにシャツ姿ではとてもボックス席には座れない。

あわてて部屋にドレスをとりに戻って息せききってオペラ座に駆けつけるとちょうどオペラ「HERODIATE」が始まるところだった。

切符を彼女から受け取り、ロングドレスに着替えていざっと言うときにはたと気が付いた。
な〜〜〜〜〜んと、ハイヒールを部屋に忘れてきてしまった!

ロングスカートの下にスニーカーは上手く隠れたのでもう意を決して入る事にした。

きらびやかなオペラ座の階段をしずしずとロングスカートを引きずりながらボックス席に座った。
3階のボックス席は5人一部屋。その最前列に座れた。
オペラは「サロメ」を現代風にアレンジしたものだった。

幕間にはシャンパンやワインで喉を潤しながら歓談する。
私もすっかりその雰囲気にとけ込んでシャンパンを飲む事にした。小テーブルでシャンパンを飲んでいたら隣にいた紳士の肘が当たってオペラバッグが床に落ちてしまった。
あわてて拾おうとするとその紳士がバッグをいち早く拾ってくれた。でもそのときの表情!!!!
はっと私は気づいたときは後の祭り。
つまりバッグを拾おうとした紳士は私のロングスカートからわずかに覗いたスニーカーを発見したというわけだ!!

エレガントにドレスアップしたロングスカートの下からのぞいたどろんこのスニーカー!!

世界一豪華絢爛。ウイーン国立歌劇場での世紀の大失敗である!
ウイーンというとこのときの有様を思い出し、冷や汗がでてくる。

正月元旦。我らが小澤征爾さん指揮のウイーンニューイヤーズコンサートを聴いて感激しながらも思い出した一事件だ。



2004年03月08日(月) ハンガリーの混浴風呂(ハンガリー篇)

風が強い一日。庭のテーブルと椅子が風で倒れていた。こんな寒い日はホットチョコレートかホットワインで体を温めたい。
2年前のこの時期、ハンガリーも寒かった。チューリッヒから夜行列車「ウイーンナワルツ号」に乗ってウイーン西駅に着いたのが朝の8時だった。そこからオリエント急行に乗り換えブタペストに着いたのがちょうどお昼。マチャーシュ教会の裏手にあるレストランで凍えたからだをホットワインで暖めた。ブタペストの街は本当に美しい。ドナウ河を挟んでブタ(砦)とペストに分かれている。ペスト側からブタの王宮の丘を望む風景は生涯忘れられない感動的な美しさだ。13世紀からあるゲレールト温泉所はまるで王宮のように豪華絢爛。温泉は水着で入る。

ドナウの女王と言われるハンガリーの美しい都“ブタペスト”には184の源泉と38の浴場を持つ温泉地がある。その中でも巨大な石造りの温泉プールが有るゲレールト温泉とマルギット島の中にあるテルマール温泉は有名。 「ゲレールト温泉」は番台のようなところで入場料を払って入口を入っていくと、この荘厳なつくりの温泉プールに圧倒される。この他施設内には5つのプールと36の浴槽がある他、インハレーション(霧状の温泉水の吸引療法)、ハイドロマッサージ、スチームバス、飲泉等の様々な設備がある。収容人数は600人。隣には高級ホテル「ゲレールト・ホテル」があるが運営は別にされている。 また、ドナウ川の中の島であるマルギット島のテルマール温泉は6haの敷地の中にレジャー用に海を模写して造られた波浪温泉プールがある。どちらかというと治療・療養に主が置かれた施設が多いヨーッロパの温泉地の中で、ここはスポーツ・レジャー感覚で温泉を楽しめる施設がある。療養を望む方には5星ノテルマルホテルがあり最新設備を備えた温泉療法が受けられる。

入浴料は600円。中に入って水着に着替えているとものすごい金髪の美女と小錦のようなおばさんが向こうからやってきてどんどん裸になっていく。全く隠さない。隠さないどころか全裸のまま私に話しかけてくる。きゃー、私はどうすればよいの?目はどこへやれば?小錦のおばさんはやっとこさっとこその巨体を水着に押し込み、金髪の美女はグラマラスな肢体をもっったいなくもかしこくも、同じく何の変哲もない水着に包み込んでしまった。私、やまとナデシコも恥ずかしがってては江戸っ子が泣くと思い、ご披露しつつ無事水着に着替えた。(私だって金髪に負けませんことよー(*^_^*))オット、小錦には完敗ですよ、勿論。温泉浴場はまるで映画にでてくるような豪華絢爛。プール状になっているもの、ローマ風呂のようなもの、様々。混浴で大変面白く、なんと2時間も入ってしまい出てきたときはどこもかもふやけてしまって指の指紋はくしゃくしゃ。鼻歌歌いながらペスト側にある中央市場で買い物。トカイのワインが超安価。各種のワインを試飲しているうちにすっかり酔っぱらってフラフラ。キャビアとワインをお土産に友達の家に着いた頃にはもう寒さなんか吹っ飛んでいた。ドアを開けて立っている友達をみてびっくり!わー。ちょっと逢わないうちにすっかり彼女も小錦になっていた。
この時期になると思い出すブタペストの美女達。


2004年03月07日(日) イタリア式結婚(イタリア篇)



花の都フローレンスは街全体がさながら美術館のよう。

栄華を極めた15〜16世紀、かのメディチ家に愛され磨きぬかれたその美しさは今に至ってもまだ色あせず魅了されるばかりである。

フィレンツエは夕暮れがよく似合う。アルノ川が茜色に染まり空と川の境目をなくしてしまう頃、教会の鐘が夕べのミサを告げ茜色の空に鳴り渡る。

イタリア人の友人マリアテレジアから結婚式の招待状がイギリスの我が家に届いた。
友人と車でドーバー海峡トンネルを渡ってヨーロッパ一周しながらイタリアへの旅に出立する事となった。ヨーロッパには友人が各国に散らばっているのでそこここに泊めて貰うことにした。

いよいよマリアテレジアの家に到着すると小さな家が贈り物の花で埋まってむせかえるようだった。
結婚式は古い教会で厳かに行われた。純白のウエデイングドレスに長いヴェールを身につけた花嫁は美の結晶のようだった。花婿は長身で黒髪、自信にみなぎるようなダビデの像の様な人だった。
驚いたことに全員平服だった。私と友人二人だけ、すごい正装で居心地が悪かった。
披露宴会場は丘の上のお城だった。新郎新婦の車の後に続いて全員街の中をクラクションをけたたましく鳴らしながらお城まで行くのには驚いた。

お城は何世紀も昔の古城だった。ご馳走はビュッフェスタイルだった。ものすごいご馳走で各種とりどりにお皿に盛った私を見て隣のイタリア人が目を丸くした。彼等のお皿にはほとんど盛っていない。えー?なんで?と思ったらそれから永遠に明け方までご馳走が次から次へとでてきたのであった。
最初から山ほど取ったらメイン料理がお腹に入らないわけだ。宴もたけなわとなって花嫁、花婿のダンスが始まりそれに続いて全員ダンスである。私も素敵なイタリア男性と踊って目はハート。明日は早く立ってイタリア一周の旅なので、花嫁花婿にお礼のキスをして城をあとにした。月が古城を照らしロマンテイックなイタリアの夜は過ぎていった。
イタリアはもう何回も来た所なのにいつ来てもどこもかしこも素晴らしい。フィレンツエのヴェッキオ橋のたもとでみた夕暮れ。生涯忘れない。
そこからまたピサの斜塔へと旅は続いた。コモ湖、サンジミニアーノ、ミラノ、アッシジとイタリアを周り、帰りはアルプスを越え、氷河の青緑を見ながらフランスへ戻り、またドーバー海峡を渡り帰途についた。



2004年03月06日(土) 銃殺か?(スロバキア)




空気が乾燥し、久しぶりに顔をパックすることにした。
パックするたびに銃殺されそうになった、あの夜の出来事を思い出す。
それは夜行寝台列車でスロバキアからチェコとの国境を抜けようとしていたときの事である。
スロバキアを通過するにはパスポートの他にビザが必要だった。翌日私は大事な人とチェコで会わなければならないことがあって乾燥した寝台列車の中でよせばいいのに顔をパックしたのだった。まだ乾かないパックにいらいらしているうちに、いつのまにかうとうと寝込んでしまった。すると突然、列車が「ガタン」と音を立てて止まり、ドアを激しく叩くものが
いた。鍵をがちゃがちゃと壊さんばかりにして、騒いでいる。激しくドアを叩き続けるので恐る恐る開けると、そこには機関銃を構え、迷彩服を着た兵士と黒服の男が立っていた。「きゃーっ」と叫ぶと迷彩服の機関銃男が私に銃口を向けた。
そのときの私の顔はパックのまま。真っ白な仮面をかぶった不気味な化け物顔だった。
黒服の男が機関銃男を制して下手な英語で叫んだ。「パスポートとビザを見せろ!税関だ」
どうやら列車はチェコとスロバキアの国境で止まったようだった。。黒服の男がパスポートに判を押すと、機関銃男が口を開いた。「タバコ、持っているか?」と。
私は震えながら「持っていません」というと列車の網棚の上をじろっと睨んで、二人はようやく出ていった。
「ひゃー、怖かった」共産圏ってこんなすごいところなんだと驚きながら洗面所の鏡を覗くとそこには世にも恐ろしいものがいた。
白塗りのパックが半分剥げ、残りの半分は、目と口だけ出た奇怪な顔があった。
怖かったのは私じゃなくてきっと私をみたあの機関銃男と黒服男だったことだろう。


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