3月に開催されるWBCへ出場するか、はたまた辞退するか。松井秀喜の出場辞退から紛糾した、選手としての決断に対する様々な見解は、半ば予測できたことではあるが、この大会そのものの存在意義を根底から揺るがす事態に発展しつつある。 松井が辞退したことは、日本代表の戦力を計算する上では大きな誤算であったことは間違いない。監督を務める王貞治が『出てくれるものと確信しているので、代わりの選手は考えていない。一番待つことができる範囲まで待つ。こちらからせかせるとか、追い詰める気はさらさらない』と話していたのは、王が言うように決して圧力めいたものではないだろうが、願望にも近い焦りのようなものだったのではないか、ということは推測できる。 そこに加えて、井口資仁が正式に辞退を表明し、クローザーを任されると思われた大塚晶則も、パドレスからレンジャーズへのトレード移籍で環境が変わったこともあり、辞退の方向に向かいそうだと本日付のスポーツ紙が報じている。 当たり前と言ってしまえば当たり前のことだが、正式に辞退を表明した松井、井口に対する批判意見は出ている。日曜朝の番組で有名な某評論家氏は、『こういう機会だからこそ、これまで得てきたものを日本の為に還元しなければならない』と、辞退した松井と井口の“身勝手ぶり”を批判していた。 「真の世界大会に向けて最強メンバーを組む」というのが掛け声倒れに終わる空気になりつつあるというのが、出場辞退に対する批判の根幹であると思う。最強メンバーが組めないという肩透かしは、シドニー五輪やアテネ五輪の際にも感じたことだが、五輪時はチーム事情がそれを許さず、今回は選手個人からの申し出によるという点で、若干背景が違うようにも感じる。しかし、松井の所属するヤンキースから辞退が相次いでいることを考えると、松井の場合はチーム事情によるもの、という見方も当然できる。 シドニー五輪時は主力選手の派遣がパ・リーグのみに留まり、アテネ五輪時は最強メンバーという掛け声を掲げながら各チーム2人という枠を設けたことに対して、私は日本球界に軽い虚脱感を覚えた。チームの事情は理解できる。派遣人数に不公平があるなら許せないという理屈も、現場を預かる身になれば至極当然だとも思う。 それでも、過不足ない最強日本が見たかったという思いは燻っている。「メンバーが違えば金メダルを取れた」などと、今更言ってもどうしようもない絵空事を言う気は毛頭ない。毛頭ないが、日本球界が100%燃焼した末の結果がアテネの銅メダルだったとはどうしても認めたくない自分がいるのも、どうしようもない実感なのだ。 松井がいない日本代表は、最強という冠からは一歩後退すると思う。それだけの存在感を、いまの松井は不動のものにしていると感じる。2番・セカンドという観点で見れば、ホワイトソックスでスモールベースボールの真髄に触れた井口は、最高の楔役になれる人材と言ってもいいだろう。絶対的なクローザーと言える存在が少なくなった中で、大塚の経験とタフネスさは強力な武器である筈だ。 その3人が出ない見込みになった。「また最強はお預けなのか」という思いがないと言えば嘘になる。代わりに選ばれる選手が不足だとは決して思っていないが、その3人がいない事実は動かせない。 だからと言って、それでも3人に対して「何で出ないんだよ」とは言えない。言える道理がない。 WBCに出場するということに対する裁量は、最終的には選手本人が持って然るべきものであるし、外野がとやかく文句を言えることでもないと思う。野球は確かにチームスポーツだが、プロの選手である以上、個々人は個人事業主に過ぎないからだ。 “球界の春団治”と呼ばれた川藤幸三が、在籍時の阪神タイガースのことを「己の技術を持った奴の完璧な個人事業主の集まり」と表現したことがある。江夏豊、遠井吾郎、藤田平、吉田義男、鎌田実、辻恭彦、藤井栄治、村山実……実際にプレーを見たことは、ない。だが、多くの文献を紐解くと、そこにはいまからでは考えられないような破天荒な生き様がある。それを確固たるものにしたのは、一切の文句を言わせないような、確かな職人としての筋とスキルだったように感じる。 阪神に限ったことではなく、あの当時の球界そのものが、一般の常識が通用するような世界ではなく、一芸に生きる猛者達の巣食う、社会の真ん中にぽっかりと空いた修羅の穴のような感覚であったと想像する。そんな修羅達に共通していた気性が、野球そのものをどこまで愚直に求めることができるか、ということだったのではないかと思うのだ。 川藤がまだ若手だった頃、阪神で有名なお家騒動が起こっている。監督の金田正泰と江夏の、修復しようがないほどの溝。江夏と金田の対立は、金田の後に監督を引き継いだ吉田と江夏の関係も壊し、後に江夏は追われるように南海ホークスへ移籍する。 対立についてはどういう感想を抱いていいのかわからないが、そこには双方が譲れない、野球に対する深い思いが交錯していたように思う。それ故に譲れない溝が生まれ、感情がもつれたのではないだろうか。江夏は後に移籍した南海や広島でも、監督や球団首脳との関係悪化により移籍に追いやられていると聞く。それが野球選手の振る舞いとして正しかったのか、それを述べる資格は私にはない。 一つだけ想像するならば、恐らく江夏豊という野球人は、そういう生き方でしか己の責任を全うできなかったのだ、ということである。江夏豊という個人事業主が己を全うする為には、敢えて肩肘を張って、周囲との対立を恐れず、己の癇に障る者を徹底的に突き放しながら、その左腕を振り続けるしかなかったのではないか、と。 例えば松井が、ヤンキースがWBC出場にいい顔をしないのを承知で、敢えてWBCに出場したとする。それで調整が狂いシーズンで満足な活躍ができない場合、スタインブレナーはどんな豪腕を駆使してでも4年64億と伝えられる大型契約を破棄しにかかるかもしれない。 例えば井口が、ホワイトソックスのキャンプに参加せずWBCに出場し、結果としてレギュラーポジションの座を失ったとする。井口は確かにワールドチャンピオンに貢献したが、1年で磐石な地位を築いた訳ではない。井口自身、今年を勝負の年と位置づけているのは間違いないだろう。そこでレギュラーを失えば、再度レギュラーを奪取するのは生半可なことではない。 松井や井口がWBCに参加したことで被る何らかのリスク、それを背負うことができるのは、結局のところ松井や井口本人でしかない。成績が振るわなかったからといって、その保障は誰もしてくれない。個人事業主というのは、そういう意味である。入場料を払って球場に来た客に、その額に見合うだけのものを見せたのか――。そしてその言葉の意味は、いまよりもスマートでなく、いまよりも獰猛な匂いを球界が発していたであろうあの時代と、何ら変わることはない。 3月開催という時期的な問題により、松井や井口に限らず、WBCに“巻き込まれた”形の全ての選手は、どちらを選んでも多大なリスクを負う選択肢を突き付けられている。WBC出場を選べば、何らかの形でシーズンにリスクを負うことになる。辞退を選べば、今年1年の視線はより厳しくなり、シーズンにおける一切の理由付けは許されない空気が出来上がる。 WBCに参加しつつ、シーズンでも最高のパフォーマンスを発揮できるコンディションを整える。それができるかどうかという判断、リスクを背負えるかどうかの決断は、国の為にするものではない。日本球界の為になど、正直しなくてもいい。選手なくして球界は成り立たないからこそ、それぞれの決断は、それぞれの責任において委ねるしかない。 その意味で、松井も井口も立派にその責任を負った上での、辞退という結論なのだろう。それはそれで、一つの責任の取り方である。松井や井口は、シーズンに対してこれまでよりも数倍厳しい視線に晒される。身勝手ではない。その責任が果たされなければ、リスクを負わなければならない。 出場する選手も同様だろう。国際試合で活躍できなければ厳しい批判が待っている。シーズンに持ち越した時、ファンとしては「あれがあったから」と言ってやることはできるが、それは選手にとってビタ一文の得にもならない。契約更改の席では厳しい査定を突き付けられ、その後の野球人生を左右することにもなりかねない。 3月開催という時期には、開催の決まっているいまでもかなり強烈な不満がある。選手が個人事業主であることは大前提であるが、それ故にどちらを選んでも多大なリスクのある選択を強いられることは、理不尽と言うしかない。それがこの問題の本質ではないか、と思う。 それでも3月はやってくる。最強への憧れは燻り続けている。ただ、一介の野球好きとしては、「己の技術を持った奴の完璧な個人事業主の集まり」の活躍を祈るしかない。日本代表チームが活躍し、メジャーでは日本人選手が更なる飛躍を遂げ、日本では今年も素晴らしいプロ野球が行われることを祈るほかないのではないか、と思うのだ。
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