月の輪通信 日々の想い
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暖かい春の気配に、いつもは肩までたらしている髪を高くまとめてくるくる巻いてお団子にしてバレッタで留めた。 ものめずらしそうにアプコが寄ってきて、「あ、そのくくり方、ひいばあちゃんと一緒や!」と指差す。 明治生まれのひいばあちゃんは、白髪ばかりになった髪をゴムできゅっと縛ってお団子にしてグサグサとヘアピンでさしてまとめている。 若い頃の丸髷の名残だろうか。ゴムを解いて髪を降ろしたところを見たことは無いのだけれど、ひいばあちゃんの髪は見かけによらず結構なロングヘアなのだ。 工房仕事の大先輩、いくつになっても仕事の手を休めようとしないひいばあちゃんに髪型だけでもちょっと真似っこ。 悪い気はしてない。
「パン、全品3割引」のチラシにつられて朝からスーパーへ出かけた。 男の子たちがおやつ代わりに食べる惣菜パン、アプコの好きな甘い菓子パン、昼食用のテーブルロール。パン屋さんが出来そうなほどレジ籠にパンを詰め込んでレジに並ぶ。 どのレジにも2,3人ずつ並んでいる人がいて、一番空いていそうな列に並んだら、すぐ前に老齢の婦人が並んでおられた。 ご婦人の籠には一人用のお刺身のパックや500mlの牛乳パック、にんじんが一本・・・・いかにも一人暮らしの夕食らしい食品が6,7点。我が家の毎日の膨大な買い物量に比べたら、なんとささやかなお買い物。高齢者の一人暮らしの食卓とはこんなものなのかなぁと思いはかる。 レジ係のお姉さんが手早く商品をレジを通し支払い金額を告げると, おもむろにバッグの中の小銭入れを引っ張り出し、硬貨を一枚づつ台の上に並べ始める。 ご婦人の買い物額は900円足らず。始めに500円玉を出したもののそのあと続いて出てくるのは10円玉や5円玉など茶色い硬貨ばかり。どうやらお金が足りないらしい。 「ではどれか減らしましょうか?」 レジ係の女性はご夫人を気遣って、声をかける。ご婦人はしばらく考えて佃煮の小瓶を返すことにしたが、計算しなおした買い物額でもまだ数百円お金が足りない。こんどは小さなお醤油のビンを返して、財布にありったけの小銭を払ってようやく足りたようだった。
「お待たせいたしました。」 ご婦人のレジを終えて、私のレジ籠に手をかけたレジ係の女性が頭を下げた。3割引のパンだらけの籠ににっこり笑ってレジ打ちを始める。 ところが先ほどのご婦人は支払いを終えた籠を袋詰め用の台に運ばずに、同じレジ台の端っこでそのまま商品を袋に詰め始めた。そして、小さなふくろに数点の品物をつめると、空のレジ籠を手にキョロキョロ周りを見回してから、「この籠、ここに置いていっていいかしら」とレジ係に訊く。 レジ係はちょっと困った顔をしたけれど、「いいですよ、置いていってください」と答えた。ご婦人はレジ係の答えを聞くまでもなく、レジ台の端に空の籠を置いて立ち去ってしまった。 レジ係の人は会計を終えた次のレジ籠を送り出すスペースを奪われて、ちょっと戸惑ったようなので、私は「いいよ、一緒の片付けとくから、重ねておいて頂戴。」と申し出た。 「すみません、お願いします。」とレジ係さんは私のレジ籠を老人の空のレジ籠に重ねておいた。
「なんか身につまされちゃいますね。」 それまでお仕事仕様のスマイルで応対していたレジ係さんがふっと表情を緩めてささやいた。 「ほんとにね、歳をとるって辛いね。」 と私もうなづく。 混んだスーパーのレジで手際よく支払いを済ませる敏捷さも、自分の所持金と買い物総額をあらかじめ確認しておく気構えも、自分の後ろに並んでいる人への気兼ねも、年齢とともに衰える。そして自分が周囲の流れと微妙にずれていることにさえも気づくことができなくなる。 そういう老いの悲しさを彼女もきっと感じたのだろう。 きっとこの人も自分の身近に年老いていく人を抱えているのではないだろうか。 忙しい買い物の最中の些細な一こま。 名前も知れないレジ係の女性との間に、何かしら柔らかなぬくもりに似た繋がりを感じて、ほっと心が緩んだ一瞬だった。
朝、父さんと義兄はワゴン車いっぱいに作品を積み込んで東京へ向かった。 父さんの出て行った後、明かりの消えた工房に入る。 つい昨日まで汚れた刷毛や釉薬の容器が所狭しと転がり、ポットミルや乾燥庫の運転音がなり続けていた工房はきれいに片付けられ、しんと静まり返っている。最後の窯出しを待つ間にさっぱりと片付けておいたのだろう。ここ数日の怒涛のような苦闘の跡がうそのようになくなっている。 父さんの作業台に残された釉薬まみれのエプロンをくるくると丸めて持ち帰り、洗濯機を回す。 これから一週間、父さんは東京の個展会場に連日詰める。 子どもたちと父さんの留守を守る一週間。
アユコ、学年末試験初日。 居間のコタツで試験勉強を始めたけれど、すぐに困った顔をして教科書を閉じた。 「おかあさん、どうしよう。ノート、友達に貸したまま返してもらうの忘れてた。明日試験なのに・・・」 はぁ?のんきなことで。早く連絡して返してもらってきなさいよ。 「でもメールアドレスしか知らないし・・・」 近頃学校ではクラスの連絡網が廃止されたので、普段仲良しのクラスメートでも電話番号を知らないこともよくあること。 「メールアドレスならわかるんだけど・・・」 とおもむろにPCを開いてメールを送るが、相手もPCなので相手がすぐにチェックしてくれるという確証もない。 電話帳を調べてもそれらしい番号が見当たらない。 「どうしよう。」 とうなだれて考え込むアユコにしばしお説教。
ちょうど昨日の日曜日の朝、別の友達がアユコに借りていたノートを返しに来て、昼過ぎまでなにやら部屋でしゃべりこんで帰っていった。 試験ぎりぎり前だというのに、友達にノートを貸したり自宅でおしゃべりに付き合ったり・・・。そんなことをしていられるほど、余裕があるの? 朝はお寝坊しているみたいだし、TVを見たりPCを触ったり、ちっとも試験に集中していないようじゃない。 昨日もそんなお説教をしたばかり。 だいたい、試験前日になって手元にノートがないことに気づくってどういうこと?借りたまま返さない子も悪いけれど、そんなことくらいちゃんと自分でチェックしておかないでどうするの。 仲良しこよしはいいけれど、ちゃんとやっておかなければならないこと、守らなくてはいけないルールというものもあるんじゃないの?
「友達はちゃんと選びなさいよ」ともう一言、言ってしまいそうになるのをぐっと堪えたところで、メールの返事が返ってきた。 「あ、今日持って行ったのに渡すの忘れてた」 「ごめん」の一言もなければ、「すぐに返しに行くわ」の気配もない。 電話と違って「すぐに返して!」と返事をすぐに返すことの出来ないメールのもどかしさ。 アユコはその文面にがっかりして、私が飲み込んだ言葉の意味を自分で察して唇を噛んだ。 「もう、絶対あの子にはノート貸さない。」 アユコの頬に大粒の涙がこぼれた。
そうでなくてもこの年頃の女の子たちのおつきあいは、微妙にべたべたしたりピリピリしたりして難しい。 一番の仲良しと思っている子から些細な事で裏切られたような気がしたり、不用意に傷つける言葉を発して仲たがいをしたり。 何かというとなぐったとか怪我をしたとかそういうい事態に発展する男の子たちとも違って、女の子には女の子の彼女らなりの微妙なお付き合いの難しさがあるのだろう。
「で、どうするの?ノートなしで試験勉強するの?泣いてたって解決しないよ。さっさと考えて行動しなきゃ。」 心を鬼にしてアユコのお尻を叩く。 「その子の家にあなたが取りに行くことは出来ないの? もう一度連絡をとってみたら? それが駄目なら、誰か近くの友達に借りるとか、他に方法はないの?」 いろいろ考えた末、近所の仲良しのAちゃんに30分だけノートを借りてきてコピーをとらせてもらう交渉をしたようだった。
授業中ちゃんとノートをとっていたアユコが試験直前に友達のノートを借りに走り、人のノートを借りっぱなしの友達が「あ、忘れた」と平気な顔をしてる。 これってなんか悔しい。 たった30分とはいえ、ノートを貸してもらったAちゃんにも、迷惑かけたことになる。 女の子にとって仲良しの友達って大事だけれど、だからこそ気持ちのいい友達づきあいのルールってヤツをしっかり考えてみたほうがいい。 とりあえず明日、相手の女の子に「昨日はノートが無くてとっても困ったわ。」と文句をいってごらん。彼女はもしかしたらアンタがいま、とっても悔しい思いをしてることに全然気がついていないかもしれない。それは彼女自身にとっても不幸なことだよ。
・・・そんな風にアユコを諭したのだけれど、多分アユコは明日学校に行っても彼女にそのことは告げないだろうと思う。いつものように笑ってノートを返してもらって、たわいないおしゃべりをして、でも2度と彼女にノートは貸さなくなるのだろう。 「あの子は、多分いっても気がつかないと思うから・・・。」 友達のためにあえて文句を言ってお互いに気まずい思いをするよりも、何事も無かったような顔をして一本線引きをした表面だけの友達関係を続けることを選ぶようだ。それが面と向かってぶつかりあうことを極度に嫌う今どきの子どもたちの、仲良しごっこの実態なのかもしれない。
アンタがそれでいいと思うんならそれでいいんだけどね・・・。 母はなんか違うと思う。 うまく説明は出来ないんだけれど。
いよいよ個展準備最終日。 明日の朝には、たくさんの作品をワゴン車に積み込んで、父さんと義兄が東京へ向かう。 工房では最終の窯出し。出てきた作品が冷めるのを待って、華入の内側にシリコン溶剤を塗って防水処理をする。 霞にけぶる春の野山を描いた華入の淡い色合い。 いいなぁと思う。 窯から出たばかりの新作に描かれた穏やかな春の景色を誰よりも早く目にすることの出来る妻の特権。
午後から出品作品のリストチェックと梱包の作業。 義兄の作ったリストに従い、80点あまりの作品に品番シールを貼り、薄様とミラマットで梱包して段ボール箱に詰める。 今回は窯展ではなく、父さん個人の個展なので少し前に作った作品も出品する。数年前に作ったモンゴルの陶額や富士山の華入など懐かしい作品の包みも再び開ける。 毎回毎回、展覧会のたびに新しい作品を次々に生み出していく父さん。こうして以前の作品と最近の新作を並べてみてみると、扱う風景やテーマだけでなく、削りの技術や釉薬掛けの工夫も時を経るごとに変化して洗練されてきていることがよくわかる。
何点目かに開いたのは、沖縄の紺碧の海を切り取ったような平型の華入。 コバルトやうす青、紫などの釉薬を微妙に塗り重ねた海の色が、使い古した梱包材の中から現れると、その鮮やかな青に思わず作業の手が止まった. 私は沖縄の海をみたことはないけれど、夫の作る作品の青で南国の海の晴れやかな海と空を味わう。 これだけの作品を作り出す手が、今、私のすぐそばにいるこの人の手だということの不思議。
吉向孝造 陶彩展
2006年 2月28日(火)〜3月6日(月)10:00〜19:30 (最終日17時閉場)
東京 池袋三越 4階 アートギャラリー
父さんの仕事場、いよいよ風雲急を告げる。 最後の最後まで粘って、吹き付けの釉薬がけ。 一番よく使う透明釉がとうとう底をついて作り置き用の大きなバケツの底をさらって漉し器で漉し、とりあえずの用を足す。 徹夜続きの父さんの顔や髪は、細かい埃や釉薬の塵で汚れ、うっすらと霧がかかったように煤けている。男前がだいなしだぁ。
家の前の道路に座り込んで、ゲンがなんだかぶつくさ独り言を言いながら作業をしている。ゴム動力のグライダーのゴムの部分に絡まった凧糸を苦心して解いているのだ。 「ありゃりゃ、派手に絡まったねぇ。凧糸、切ったほうがいいんじゃない?」 「うん、でもな、途中で切るのももったいないし・・・」 あ、そっか。ゲンも絡まった毛糸は最後まで切らずに根気よく解いていきたいタイプだったのね、アタシと一緒。で、親子で地べたに座り込んで絡まった糸を少しづつ根気よくとき始めた。 「・・・で、なんでグライダーに凧糸なんかが絡まったの?」 「あのな、ごっつうええこと思いついたと思ったんやけどナ・・・」 ああ、みなまで言うな。この間からしょっちゅう自慢の愛機を飛ばしては、近所の木の枝や屋根の上に引っかかって何度も苦心惨憺していたゲン。あれこれ考えて凧糸をつけて飛ばせば、引っかかっても糸を引っ張って落とすことが出来ると考えたのだろう。 ところが残念。木に引っかかるほど跳ぶ前にキリキリ巻いたプロペラのゴムに糸を巻き込んでしまい、この有様。
「あはは、ちょっと考えが浅はかやったなぁ。第一、糸つけたまま木に引っかかったら、下からひっぱっても突っついても落ちてこないじゃん。」 「あ、そっか。考えてみたらそうやなぁ。」 「よかったなぁ、木に引っかかる前に気がついて・・・。」 「それもそうや。」
いいこと、考えた!と思ったら、躊躇せずさっさと試してみる。 あとさき省みずにとりあえず飛びついてみる。 うまくいったら、大喜び。失敗して凹んでもくさらずに敗因を分析してあっさりと負けを認める。 天真爛漫のチャレンジャーぶりが我が家の次男坊の愉快なところ。
苦心の末、凧糸の金縛りから救出したグライダーを恐る恐る、でも嬉しげに宙に投げる。 ふわりと風に乗り、気持ちよく滑空する雄姿はやっぱり命綱を持たない自由さがいい。
「ぼく、ぼく!」 受話器をとると、オニイの声。 「誰よ」 「僕、僕!ボクボク詐欺やで!」と笑っている。 「自分で『詐欺やで』と名乗るヤツはおらん。」 「それもそやな。あ、面接、今終わった。これから帰ります。」 やけに緊張して第一志望の高校の面接試験に出かけていったオニイ。 試験が終わってよほどほっとしたのだろう。いつも無愛想なオニイの電話の声が今日は妙に弾んでいて、くだらないジョークを飛ばして自分でへらへら笑っている。 中学の先生の話し振りではほぼ間違いなく安全圏という志望校だけれど、それにしてもオニイにとっては先の見えない「一世一代」の入学試験だったのだろう。 とりあえず、無事試験を終えられてよかった。 お疲れさん。 発表は来週木曜日。
実を言うと今回の受験で私が心配していたのは、偏差値や内申点でも試験の成績でもなく、オニイの試験当日の体調だけだった。 昨年春の不登校騒ぎの後も、すっかり元気になったとはいえ、定期テストや個人懇談の前日など、ちょっとしたストレスの前にはなんとなく調子がわるくなる事もあるオニイ。「ゆうべ、なんか変なもの、喰ったかな?」なんて紛らせてはいるものの、まだ時々「過敏性なんとか」の傾向は残っているようだ。もしかして大事な受験の日の朝に何かあったらという僅かな不安が、オニイにプレッシャーや期待をかけることを躊躇わせていたような気がする。 幸い、今回は私学と公立2回の試験の日にもこれといった体調の変化も無く、無事に試験を終えた。多分これからはオニイのことをもっと手放しで大らかに見守っていくことが出来るようになるだろう。 よかった。
「おかあさ〜ん、見てみて!」 アプコがピンクのキティちゃん自転車で私を追い越していき、道幅の広くなったところでクルリとUターンして見せた。 先週、ようやく補助輪なしの自転車の乗れるようになったアプコ。 つい昨日まではカーブを曲がることも出来なくて、直線コース限定で家の前の道路を往復するばかりだったのに、今日はもうオートバイのレーサーのように車体を傾けてザザッとかっこよくUターンが出来るようになっている。 一日一日新しいことが出来るようになる、自転車乗り始めの嬉しい気持ちがあふれんばかりの笑顔に見て取れる。 生まれて初めて寝返りが出来た日。 生まれて初めて歩いた日。 あのときにもきっと、こんな笑顔でいたのだろうなぁ。
朝から工房の手伝い。 父さんの個展搬入まであと数日。 父さんの表情にも追い詰められた緊張感が混じる。日数を逆算するとどうしても焼き上げまでの時間が足りない。 新しい釉薬を調合しようと計量を始めたら、なんと一番ベースとなる材料のストックが足りない。残った原料の量にあわせて、再び計算しなおして新しいコバルト釉を作る。 小さいほうのポットミル(攪拌機)の回転する音は軽やかな三拍子。 「作りたい!作りたい!時間が足りない!」と嘆く父さんの目は血走っている。 個展前のいつもの風景。 うんうん、いい感じの追い詰められ加減だ。
遅ればせながら、ひいばあちゃんが介護認定を受けることになった。役所から訪問調査員が派遣されてきて、ひいばあちゃんと直接会って普段の生活の様子を聞き取り調査にこられた。 調査員の女性はにこやかな感じのいい女性で、耳の遠いひいばあちゃんのそばに顔を寄せてゆっくりと話すそぶりが高齢者相手のおしゃべりになれているなあという印象。 私は仕事場で洗い物をしながら、ひいばあちゃんとその女性が話す様子を聞くともなく聞いていた。
「胸のほうはまだ痛いですか。」 先日洗面所で転倒したひいばあちゃんは、救急車で運ばれた病院では骨は折れてないと診断されたのに、数日後別の病院で見てもらったらやはり肋骨の骨折が見つかった。 場所が場所だけにこれといって手当てをすることも出来ないそうで、普通の生活をしながら自然に治癒するのを待つしかないのだそうだ。 調査員の人はその怪我の経過をひいばあちゃんに尋ねているようだった。 「体、動かしたり咳をしたら、まだ痛いですねぇ。・・・歩くのは大丈夫ですか?そうですねぇ。痛くても動かないとねぇ・・・。」 ひいばあちゃんの訴えを一つ一つ繰り返しながら、根気よく相槌を打つ。ひいばあちゃんも丁寧に受け答えしてもらって、ご機嫌よくおしゃべりをしておられる様子だ。 「怪我のほうはね、『日にち薬』ですからね、しょうがないですねぇ。・・・『日にち薬』ってね、優しくない言葉ですけどね、ぼちぼちのよくなられますからね、辛抱なさってね・・・。」
「優しくない言葉」 相談員の女性の漏らした些細な言葉が胸に引っかかった。 そうか。「日にち薬」という言葉を「優しくない」と感じる人もあるのか。 確かに痛みや苦痛を今現在抱えている人に対して、「そのうち治るから・・・」と辛抱を強いてそれ以上の訴えを封じてしまうかもしれないその言葉は、もしかしたら本当にその人の立場に身を置いた親身の言葉とはいえないかもしれない。 普段、何気なく慰めの言葉のつもりで使っている「日にち薬」という言葉にそんな風に神経を使うのは、さすがに日々高齢者の福祉を職業としている人の感覚なのだろうなぁと感心する思いで聴いた。 ・・・・のだけれど、やっぱりなんか違う。 「優しくない言葉」に引っかかりを感じたのは、相談員の言葉に対する細やかな心配りに感心したからではないような気がする。 この微妙な違和感は何なんだろう。
「環境に優しい洗剤」とか「地球に優しい企業」とか言う言葉がよく聞かれる。「優しい」という言葉が、「〜について配慮している」「〜に気配りをしている」という意味で多用されるようになったのは最近のことなのだろうか。もうすっかり耳慣れて、新鮮さは全くなくなってしまったけれど、私はあの言葉が嫌い。 もともと「優しい」かどうかは、その行為者が自分の行為に対して評価することではなくて、あくまでもその行為を受けた相手が感じること。だから行為者自身が自分の行為に対して「優しい」という言葉を使うときには、必ず「優しくしてあげる」という恩着せがましい自己アピールのにおいが混じる。 「私はこれだけ思いやりのある人間です」「当社はこれだけ環境問題に積極的に取り組む会社です。」と真正面から言い切る厚かましさがどうしても胸に引っかかってストンと落ちることがないのだ。
同じことを「優しくない言葉」に適用するとするならば、私は今日相談員の女性の言葉に「私はクライアントとの会話の中で使う言葉遣いに対して細心の注意を払っていますよ。」というかすかな自己アピールを感じてしまったのかもしれない。 それは多分、目の前で話しているひいばあちゃん自身に対してではなく、そばで聞いている介護者である家族に対する「高齢者に優しい相談員」としてのイメージのアピールなのだろう。 そのかすかな不快感が私をそこに立ち止まらせたのではないかと思ったりする。
耳も遠く、周りの会話の流れがのみ込めないひいばあちゃんの受け答えは時にとんちんかんで要領を得ない。近頃では時間の観念にも少し乱れが出てきて、自分の寝間で過ごされる時間も長くなった。手足も衰え、以前のように仕事場へ降りてこられることも少なくなった。 ひいばあちゃんの仕事台には、ひいばあちゃんの仕事用の前掛けが畳んだまんまで埃をかぶっている。 傍目にはひいばあちゃんは「介護してあげる」「面倒を見てあげる」「優しくしてあげる」に十分な高齢者なのだろうと思う。 けれども私自身はまだ、この偉大なる明治の女であるひいばあちゃんに対して「してあげる」という言葉を吐く気持ちになれない。 幼い頃から窯元の仕事に入り、早世した先代さんの未亡人として窯の火を守り、息子たち孫たちの下で淡々と職人仕事をこなし、一つも自分の名を刻んだ作品を残すことなく生涯を終えるだろうこの人は、いつまでたっても親しみを込めて見上げる人なのだろうと私は思う。
今日明日、オニイの公立高校入試。 明日の面接試験。 「尊敬する人物は?」と問われたら、オニイは「うちの曾祖母です」と答えるのだという。「ひいばあちゃん」ではなく「曾祖母」と言う言葉を使ったほうがいいよねぇと首をかしげている。 言い慣れない言葉を使うのがなんとなく億劫なのだろう。 オニイもまた、この人の偉大さをよく理解してくれているのだろうと嬉しく思う。
朝ご飯の片づけをしていたら、父さんが通りかかったので「ねぇ、今晩何食べよう?」と聞いてみた。 「別に、何でもいいよ・・・ってのがいちばん困るんでしょ?」 といわれた。 別に当意即妙の答えは期待していないからいいけどね。 「しっかし、主婦ってのも大変だよなぁ。朝ごはんが終わったらと思ったら昼ごはん。次は晩御飯だもんなぁ。 三食、そのたびごとに考えて作っていかなければならないし、食べるほうはチンと座れば食事が用意されてて当たり前の世界だしね。 僕にはできん仕事やね。」 と父さんが珍しく殊勝な発言。 「あらまぁ、それはありがとう。 私なんかに言わせれば、父さんの仕事のほうが大変やと思うけどね。 自分の腕一本で作品を作って、たくさん売って女房子どもを食べさせていかなければならないし、徹夜続きでいつも締め切りに追われてるし、手は荒れるし腰は痛めるし・・・。 アタシには出来ん仕事やね。」 「お互いに自分に適した仕事が出来てよかったねぇ。」 と顔を見合わせて笑う。 こういういたわりの言葉をさらりと照れずに言えるところが父さんの優しいところ。 それとも、「同病相哀れむ」の心境か?
先週、お出かけが多くて工房の手伝いがなかなか出来なかったので、一日工房エプロンで過ごす。 池袋での個展を前に、いよいよ父さんの仕事も大詰め。 工房の中では、あちこちに製作途中の作品が並んでいる。 洗い物用バケツに投げ込まれたおびただしい数の使用済みの刷毛類をまとめてガシャガシャと洗う。 釉薬の調整に使うCMC(ふ糊)もあっという間に空になり、空いたビンが流し台に並んでいる。慌てて4本分まとめて拵えて、冷蔵庫にしまう。 洗い物が山積みで、CMCの空き瓶が次々できて、父さんの作業エプロンがどろどろに汚れていると言うことは、昨日今日の父さんの仕事が充実しているということの証。 何より何より。
新しい釉薬を作るというので、ポットミルのポットを洗い、釉薬の材料を計量する。ポットミルは釉薬を粉砕攪拌するための機械。重い陶製のポットに大小の陶製の玉と計量した材料と水を入れ、からからと回転させて釉薬を攪拌する。 重いポットから前に作った釉薬を掻き出して別の容器に移し、陶製の玉とポットをきれいに洗う。 決められた量の原料をはかりで量って、ポットに入れる。 セメント袋からばっさばっさとスコップで取り出すと、腕まくりした肘までまっしろに粉を吹いたようになる。 ポットのふたをねじで閉めて、ミルにかける。 カラカラとミルの回転する音がはじまると、工房にあたたかい空気が流れるようで、私は釉薬作りの仕事が好き。
ところで、台所仕事ではゴム手袋なしでも手荒れの経験のない私の手。 釉薬のポット洗いの仕事をすると必ずというほど、ガサガサと荒れた手になる。釉薬の細かい粒子や乾いた粉が手指の脂分を絡めとってしまうのだろう。 この冬我が家の茶の間にはいろんな種類のクリームのビンが並んだ。 仕事の手荒れ専用のハンドクリーム。冬にはガサガサ角質化するかかと専用のクリーム。アプコの乾燥肌用の「もものはな」。 今日、父さんと二人でお互いのガサガサの手の甲を仲良くすり合わせてハンドクリームをぬってみた。毎日徹夜仕事の続く父さんの手は私以上にガサガサと潤いを失っている。 お互いの手を労わる想いでそのぬくもりを分かち合う。
オニイの私学入試、合格発表。 ちょうど公立前期の出願日と重なったので、代理で結果を見に出かける。 とりあえず合格でほっと一息。 学費や通学時間の問題もあってあくまでも第一志望は公立だけれど、今日の私立高校は美術の専門校。おっとりした穏やかな感じの校風が悪くないなぁという印象。もしもオニイが一人っ子で彼一人に十分な教育費をかけてやれる環境が整っていたなら、こんな学校で好きなことを十分にやらせてやってもいいかなぁと思ったりするのだけれど。 許せ、オニイよ。
今年一年、オニイの進路をめぐってあれこれ家族で考えることが多かった。 子どもたちの将来の進路のこと。 これからおそろしい勢いで増えていくであろう教育費の負担のこと。 窯元襲名が近づく父さんの仕事のこと。 そして、この仕事を誰にどんな風な形で継がせるということ。 近頃、父さんのあとを継いで陶芸の仕事をしたいと少しづつ決意表明しはじめたオニイは、進学する高校選びにもその進路を意識した選択をしたようだ。 早くから自分の進路を定めて、その方向に絞った学校選びをすことが彼にとって果たして最善の選択なのかどうか、今はまだわからない。
仮に希望する学校に入学することが出来なかったとしても、その学校でたった一人、一生の友情を暖めることの出来る友人や尊敬できる教師に出合うことができたら、その学校は誰かにとって「最善の学校」となるだろう。 どんなに評判のいい学校に入学しても、たった一人、いやな教師、よくない友人に出会ってしまったら、それだけで誰かにとっては「最悪な学校」になってしまうかもしれない。 どちらにしてもそれはその人その人の運命のようなものではないかと思うl 結局のところ、彼が自分の選んだ学校で何を学び、どう生きていくかというこれからの彼の努力しだい。 そう思うと、とりあえず試験の結果で入学することになった学校が彼にとっての最善の学校。そうなるように、大らかな気持ちで見守ってやりたいと思う。
旧姓で呼ばれる夢を見た。 夢の中で私の名を呼んだのは、子どもたちの友達のお母さんで、私の旧姓を知っているはずのない人なのに、夢の中の私は当たり前のように返事をしていたりして、なんだか不思議な夢だった。 思えば結婚して今の姓になって15年余り。 旧姓で呼ばれることも、旧姓の下に自分の名を書き記すこともなくなって久しい。 たわいない夢の一こまに長く慣れ親しんでいた実家の姓を呼ばれて、たったそれだけのことなのに、何故だかちょっと嬉しくて、今朝はとてもいい朝だった。 この間、実家からあれこれ食料品の詰まった嬉しい小包が届いたせいだろうか。 電話で久しぶりに実家の父母の声を聞いたせいだろうか。
習字の稽古に出かけた。 9月に習字を始めたばかりのアプコは、作品の端に小筆で書く自分の名前がずいぶん上手に書けるようになったと褒めてもらった。 中学生になって「かな」を学び始めたアユコは、自分の名を少し崩した行書で書く。近頃急に大人びた文字を書くようになった。 あっさりした漢字二文字の姓の下に、映りよく収まるようにと娘たちに命名したひらがな3文字の名前。 考えてみたらこの子らにとっても、いつの日か今の姓は「旧姓」になるのだ。せめて今だけ、やがて旧姓となる今の姓を大事に丁寧に書いて欲しいなぁと思ったりする。
アプコのお食事はいつもマイペース。 朝のあわただしい時間、「あと5分で出かけるよ。」という時間になっても、慌てない、騒がない。悠然と箸を運ぶ。 自分の好きなおかずは一番に箸をつける。 目分量で「エビフライは一人3個ずつ」という暗黙の了解は、通用しない。 自分のお皿にたくさん取り分けた食べ物があるのに、大皿の別のおかずに手を伸ばす。 大皿にたった一個残った「遠慮のかたまり」は当然自分に与えられる物と信じている。 そのくせ、自分のお皿に取りすぎたおかずが食べきれなくて、「おなかいっぱい」とお残しをする。 近頃、こうしたアプコの傍若無人の食事態度が、他の兄弟たちの癇に障る。
「遊び食べはしない」 「おいしいものはみんなで分ける。」 「お皿に取り分けられたものは残さず食べる。」 「欲張らない、がっつかない」 上の3人の子どもたちが幼い頃には、それなりに厳しくしつけた食事のマナー。 少し年齢をあけて生まれてきた末っ子姫のアプコには、どうしても「まだ小さいから・・・」「まだ難しいから・・・」と特別扱いされることが多くて他の兄弟たちには面白くないのだろう。 一方、生まれた時から好きなもの、欲しいものを比較的最優先に与えられたアプコにとっては、オニイからの小言もアユ姉からの教育的指導もゲンからのブーイングも「何、言ってんの、この人たち・・・。」と無表情に聞き流す。 これもまた、オニイオネエの癪の種だ。
「私のときはもっと厳しく叱られたのに・・・」 「僕が小さい頃には、食べ残したお皿と一緒にベランダに出されたのに・・・。」 オニイオネエは訴える。 「そんなこともあったけねぇ」 母はとぼけてお茶を濁す。 確かに上の3人が幼い時には、私もずいぶん躍起になって子どもたちの生活をあれこれ縛ったものだ。時にはヒステリックなほど些細なことにこだわったり、子どもとの意地比べのように厳しく叱っていたこともある。 けれどもそんな怒涛の子育て期が一段落して、幼いアプコが生まれたときにはそれほどのエネルギーは失せてしまった気がする。
「あせって無理に食べさせなくても、そのうちあっさり食べられる時期が来る。」 「こまごまうるさく叱らなくても、少し大きくなれば自分で周りを見て自然と気がつく時がくる。」 そんなことを悟らせて貰ったのは、まさにオニイオネエたちの子育ての結果。上の子たちには申し訳ないけれど、「今はまだ、黙ってみていても大丈夫かな」と腕組みしてアプコの成長を眺めていられる余裕は、試行錯誤の子育てのすえに得られた知恵だ。
好きなものを好きな分だけ、満たされた表情を浮かべて自分のペースで食べるアプコはかわいい。 嫌いなものは嫌い。欲しいものは欲しい。 そのマイペースな振る舞いは気まぐれな猫の愛らしさ。 どこかでこのまま大人にならずに手元にそっと置いておきたい気持ちも残る。 「お母さんが叱らなくても、アプコをうるさく叱ってくれる人はいっぱいいるでしょ。」 へらへらと笑ってごまかす母をオニイやアユコはどんな想いで見ているのだろう。 「末っ子だからって、甘やかして・・・」 と、面白くない思いを募らせているのだろうか。
オニイ、私学入試。 英語、国語にデッサンの実技。 朝早くから弁当を作って送り出す。 実技に使う大きなカルトン(画板)を抱えて、緊張した面持ちで駅へと歩き出すオニイ。 彼にとっては今回の入試が、誰かから「試される」初めての経験。 こうやってまた一つ階段を上っていくんだな。 頑張って行ってこい。 今日はとりあえず前哨戦だ。
午後から、アユコの学校の百人一首大会参観。 PTAから生徒たちに豚汁の炊き出しを行うというのでエプロン、カセットコンロ持参で手伝いに出かけた。 調理室で大小15個のお鍋にたっぷりの豚汁を煮る。材料をダンダンと刻んでワッシャワッシャと鍋に投げ込み、ぐつぐつと煮こむ。 一度にたくさんの調理をしたり、台車でバケツのようなお鍋を運んだりするのは、なんとなく給食のおばさんになったようでワクワクと楽しい。 若い中学生たちの食欲は旺盛で、大きなお鍋がたちまち空になっていくのも気持ちがいい。
豚汁つくりの合間に久しぶりにNさんとおしゃべり。 Nさんは地元の神社の宮司さんの奥さんで、アユコとそこの長男は幼稚園の頃からの同級生。 Nさんのお宅は人里はなれた山の谷あいの古い神社で子どもたちの小中学校への登下校は今でもNさんが毎日車で送り迎えしているという。 「いつまでたっても、私たちは子どもの送り迎えばかりに時間を費やす人生ねぇ。」と同じ僻地に住む者同士、相憐れむ。 代々続く家業を受け継ぐ跡継ぎを育てなければならない境遇もよく似ていて、たまにおしゃべりする機会があるとついつい話が盛り上がる。 今日はオニイの入試の話から始まって、子どもたちの進路の話題になった。 Nさんの長男は、小学校の卒業文集で「将来はお父さんの後をついで神主になる」としっかり跡継ぎ宣言をしておられた。それはそれでとても頼もしいことだけれど、Nさんは「いつかは子どもたちの誰かが継いでくれないと困ることは確かだけれど、ほんとは子どもたちには自分の好きなことをさせてやりたいとも思う」という。 「家業を継ぐ」というと、「将来、就職の心配がなくていいわね」とか「跡継ぎがいて安心ね。」とか、周りからはいいように言われるけれども、これはこれで親も子も悩みは多い。 学校での進路指導でも、上の学校に行って普通に就職する方法は教えてくれるけれど、特殊な進路を選ぶためには親があれこれ情報を集めて決断していかなければならないことも多くなる。 「こういう家業の家の子育てって、結構むずかしいわよねぇ。」 うんうん、わかるわかるとしきりに頷く。
「ま、とりあえず、家の中になんだかんだ仕事はあるから、外で就職できなくてもニートになる心配だけはないのよね。」といいつつ、 「でも、『引き篭もり』はまだ可能性としては無くはないけどね」 と、大らかに笑う。 大丈夫。 子どもたちは毎日の送り迎えの苦労や親たちの働く姿をしっかり見ながら成長している。きっと親の想いを汲み取って、しっかり大人になってくれるよ。
で、肝心の百人一首大会。 会場では、アユコは壇上に上がって、合図の太鼓を叩く係や読み札の「読み手」を務めていた。幼い頃「人前で話すのは苦手」とはにかんでいたアユコが堂々と役目を果たす。 キンと冷えた体育館の静かさの中に、アユコの札を読む声が朗々と響く。家では百人一首などほとんどやったことが無いのに、あの独特の節回しをいったいいつどこで学んだのだろう。 「お宅のアユちゃんは、しっかりしてるわねぇ。」と名前も知らないよそのお母さんから声をかけられた。 「いえいえ、外面がいいだけですよ」 とはぐらかしながらもちょっと嬉しかったりする。 親ばか、親ばか・・・。
寒くて、どよんとした曇りの朝。 昨日の汚れ物の片付けに工房へ出動。古新聞や段ボール箱の類を焼却炉で燃やす。久しぶりに焼却炉を使ったら、火に近づきすぎて自分のまつげの先を焦がしてしまった。なんとなくお間抜け。
朝から、ひいばあちゃんを近くの医院に連れて行くというので、慌てて今日の洗濯物を干しに帰る。 天候が怪しいのでどうかと思ったけれど、昨日の部屋干し分も溜まっていたので「ええい、ままよ!」と屋外に干して出かけたら、果たして雪混じりの雨。結構しっかり降ったようで、かえって見たらフリースの肩にはうっすらと雪が積もって、バスタオルは凍って板のように固まっている。 「駄目だ、こりゃ。」と再び部屋干し。 うっとおしい。
昨日、転倒したひいばあちゃんは、「腰が痛い」とは言われるものの食欲旺盛で顔色もよく、心配なさそうだ。普段定期的に通っている近所のなじみの医師も「よく食べられるんなら大丈夫。あとは日にち薬で治るでしょう」との見立て。 明治の女は強いなぁ。 歳をとってからの転倒は、骨折などの危険があるというけれど、ひいばあちゃんの骨格は人並みはずれてお丈夫なのだろう。 「昨日は、アンタにもえらいお世話をかけて・・・」 と何度も何度もおっしゃる。 なんのこれしき・・・。とりあえずひどい怪我でなくてよかった。
昼前、ぱぁっと雲が切れて晴れ間が覗く。それっとばかりに部屋干しの洗濯物を屋外に出す。せめてアプコのおねしょパジャマだけは乾いてほしいのだけれど。 昼食後、買い物を兼ねてアプコのお迎え。小学校へ届け物をして、アプコと一緒にいつもと違うスーパーへ足を伸ばす。 途中また雨。 駄目だ、今日の満艦飾の洗濯物。
帰宅後、取り込んだ洗濯物を再び脱水機に投入。 一日中、散々表に干したり取りこんだりバタバタしたのに、結局朝よりじっとりびしょぬれになった不運な洗濯物。 なんだかなぁ。 主婦の仕事なんて、時にはこんなくだらないことの繰り返し。時折どっとくたびれて空しくなる。 「おかあさ〜ん、あたしのパジャマはまだぁ〜?」 責める口調のアプコには、主婦の一日の奮闘が見えない。
朝から工房で白絵塗りの仕事。途中で、新しい釉薬の調合の手伝いをしたり、釉薬鉢や筆、刷毛などの洗い物。 最近、工房で私に任される仕事は主婦の台所仕事にちょっと似てる。混ぜたり洗ったり漉したり捏ねたり。 その昔、うちの窯元では代々釉薬の仕事はその家の主婦の仕事だったという。作家である夫のそばにいて、家事の合間に仕事場のちょっとした片づけ物をしたり、作業に手を貸したり・・・。そういうきっかけで夫の手助けをするには、釉薬の仕事は一番に手を染めやすい作業のひとつだったのかもしれないなぁと思ったりする。
午後になって手が空いたので、父さんのとなりの作業台の大掃除。 少し前までは義父が使っていた作業台だが、義父が2階の小部屋に仕事場を移してから、すっかり物置状態のまま手付かずになっている。大きなゴミ袋と古雑巾を持ち出して、長年の間に溜まりにたまった要らないものを処分してすっきりと片付けた。これでいつもどこかの作業場に間借りして行っていた私専用の作業スペースが確保できた。そのうち、子どもたちの誰かが工房での仕事を始めたときにも利用できるだろう。まずは懸案の大仕事を終えて充実感。
さて、夕飯の支度を・・・とうちに帰って台所に立ったとたんに工房からの電話。義母が慌てた声で、ひいばあちゃんが2階で転倒したという。 慌てて工房に取って返すと、ひいばあちゃんは自分でポータブルトイレの中身を処分しようとしていて洗面所で躓いて転んだのだという。父さんと義父母がひいばあちゃんを部屋へ運んで、右往左往。ひいばあちゃんは「胸が痛い」と訴えられるので、救急車を呼ぶ。
救急車を待つ間に、悪臭ぷんぷんの洗面所の掃除。 古新聞を大量投入して散乱した排泄物をぬぐい、消臭剤を撒く。狭い洗面所に所狭しとおいてあったダンボール包みも全部外へ出して汚れた外箱を処分する。 我が家には高齢者が3人もいるので、遅かれ早かれ私にも介護の負担がかかってくるものと覚悟はしているものの、こうして実際に排泄物の後始末という難行に直面してみるとこれから大変になるだろうなぁとため息が出る。 こういう汚れ物の仕事は養護学校勤務時代には日常茶飯事だったので、それほど抵抗はないほうだけれど、これが毎日のこととなるときっと別の覚悟もいるのだろうなぁと思う。 義父母たちは、まだまだひいばあちゃんの介護は自分たちの手でと思っているようだけれど、実際のところは介護の主体は義兄や父さんや私たちが負っていかなければならなくなるだろう。 それも、そう遠くない将来にやってくることなのだということを切実に感じる。
救急車には父さんが同乗して、私がその後ろから車で病院に直行。近所の救急病院へ搬送。 ひいばあちゃんは耳が遠くて、医師や看護士さんとの会話がなかなか進まないので、ひいばあちゃんの自覚症状すら正確には伝わりにくい。おまけに最近では時間の感覚がやや混濁しているので、「腰が痛い」といわれてもそれが転倒によるものなのか以前からの慢性的な腰痛なのかもはっきりしない。 とりあえず、レントゲンなどの検査で異常がないので、内臓の損傷や骨折などの心配はないだろうということで、うちへ帰って一晩様子を見ることにする。 やれやれと一安心。 慌ててでてきたので、ひいばあちゃんの靴や上着を持ってくるのを忘れた。 車椅子を借り、父さんと私の上着を貸してひいばあちゃんを車に乗せたけれど、次回からは忘れないようにしよう。 前回の義父、数年前の母と、何回か救急車のお世話になり、だんだん救急車慣れしてくるなぁと父さんと苦笑する。
ひいばあちゃんをつれて工房へ帰ると、汚れた洗面所は手付かずのまま。 車中から電話で伝えておいたひいばあちゃんの靴も用意されていなくて、救急車をおくりだしたあと義父母がしばし放心していたのだろうことが知れる。 今回の救急車事件では、転倒したひいばあちゃんよりも緊急事態に慌てふためく義父母の老いを改めて思う結果になった。 ただ、唯一の救いは留守番役の子どもたちの成長振り。 電話での簡単な指示だけで、なんとかご飯を炊き夕食の支度をして、洗濯物の片付けや風呂掃除を済ませておいてくれた。 これから、工房の仕事や年寄りの介護にもっと私の手がとられるようになっても、子どもたちだけでそこそこ家事を割り振ってこなしてくれるようになっていくのではないかと思う。 なにより、なにより。 これからはこの子らが助けの杖だ。
雨も上がって、暖かい日。 朝から、ここ数日室内に干していた洗濯物をガンガン外に出し、キッチンマットやコタツ敷きカバーもお洗濯。 泥んこ運動靴と6人分の傘もベランダに並べて日に当てる。 久々の陽光が嬉しい、主婦の朝。
夕方、ゲンが嬉しそうに帰ってきた。 「おかあさん!上がってきたで!」 「なになに?なんのこと?」 「ほらほら、Nさんのおうちの・・・」 ゲンがニヤニヤ笑いながら、もったいぶってご報告。
下校途中のNさんのおうちは急勾配の山の斜面に張り付くように建てられている。その斜面にはNさんの先住者が作った手作りの櫓(?)があり、はしごや階段を組み合わせた足場もそびえている。そのつぎはぎの足場や展望台のような小屋の姿は、ゲンたちの学校のグラウンドからもよく見えていて、まるで宮崎アニメの楼閣を思わせるような異様な建造物が以前からなんとも気になる存在だった。 お休みの日などには、Nさんがそのそそり立つような斜面に上り、手動式のリフトでブロックや土嚢を運び上げたり、見上げるほどの高さのところから切り払った枝や古い枯れ木を降ろしたりして作業しておられる姿をお見かけする。下から見上げている分には、何を作ろうとしておられるのか、どんな作業をしておられるのかとか細かい所はよくわからないのだけれど、なんだかとても楽しげに立ち働いておられるのだ。 「あの上には何があるんだろう。」 「あそこまで上がったら、どんな景色が見えるんだろう」 と、子どもたちは興味津々。 登下校の途中などにはわざわざ立ち止まって斜面を振り仰いだりしていた。 先日、ちょうど通りかかったときにNさんにお会いして 「ずいぶんご精が出ますね。なんだかとっても楽しそう。うちの子達も興味津々で見せてもらってますよ。」とお話したら、思いがけず、 「いつでも遊びにいらっしゃい、上がらせてあげますよ。」と快くおっしゃってくださった。 それで、ちょうど今日、下校途中に通りかかったゲンを呼び止めて上がらせてくださったのだろう。
「すっごいねんで、いっぱい階段とか道とかがあってな、ぜ〜んぶおじさんたちが自分らで作ったんやって。 階段も途中で分かれ道になってたりしてな、すっごいねん。ぼく、途中で道にまよいそうになったわ。 それでな、荷物を運ぶためのリフトが上までつながっててな、それもおじさんらが作ったんやって。 上まで上がったら、学校のグラウンドも見えたわ。」 ちょっと興奮した口ぶりで語るゲン。 長年気にかかっていたNさんの空中庭園にあがらせていただいて、ワクワクする気持ちが抑えられないようだ。 「クヌギの木とかあるみたいやから、夏になったらクワガタムシとか、おるかもしれんなぁ。また行きたいなぁ。」 山歩きや昆虫、大工仕事や土いじりが大好きなゲン。きっと夢中になるだろうと思ったら案の定。気前よく秘密基地の扉を開けて、手招きしてくださったNさんのお人柄にも惹かれるところがあるのだろう。 ゲンの興奮したおしゃべりは夜まで続いた。
「ところで、おかあさん。実はぼくも今度、Mくんと秘密基地作る約束してるねん。」 あらあら、君もですか。 男の子っていくつになっても「秘密基地」とか「隠れ家」とかって言葉に弱いですねぇ。 「そんなの、どこに作るの?」 「え?学校の近くの川んとこ」 「ふ〜ん、そんなもの作れそうな場所、あるの?」 「うん、あのな、竹やぶのそばのな・・・」 と話しかけてふと気がついたゲン。 「・・・て、全部しゃべったら、全然秘密とちゃうやん。」 と笑う。 「あら、ほんと。でも、秘密基地ってホントは誰かに見せたかったり、しゃべりたかったりするもんよね。」 「うん。ホントはね。・・・きっとな、今日のNさんもな、自分の秘密基地、ちょっと自慢したかったんちゃうかなと思う。」 Nさんの本格的な土木作業と小学生の秘密基地作りを一緒にするのもどうかと思うけど、確かにその楽しげなワクワク感には共通するものがある。
2月になった。 昨日からの雨。 アユコが作ってくれた家族全員のスケジュール表には、オニイの受験の日程と父さんの個展までの日程が続く。 オニイは学年末試験最終日。 「帰ったらちょっと出かけるけどいいかな。」 中学最後の定期テストを終えて、仲間とちょっと羽を伸ばしてくるのだろう。「受験生が今頃気を抜いてていいの?」と要らぬ説教の一つも垂れたいところをぐっと我慢。 オニイの中学生活もあとわずか。 いま一緒に遊んでいる仲間たちはそれぞれ違う高校への進学を希望しているという。試験休みに自転車を駆って遠出したり、誰かの家に入り浸ってくだらないおしゃべりをしたり、ゲームショップを覗いたりするささやかな楽しみも、今のメンバーではあと数ヶ月だ。高校受験の緊張感と同じくらいの重さで、残された中学校生活をもう少し楽しんでおきたい気持ちもあるのだろう。 何かにいつも背中を押されながら、惜しむような気持ちで味わう青春の時間。 そんな時代もあったよなぁと自らの学生時代を思い返してため息をつく。 「早めに帰ってきなよ」 そういってオニイの自転車の後姿を送り出す。
そういえば、中学入学当初、私のお古のママチャリでふらふらしながら登校していたオニイ。今では自転車の運転もそこそこ上達し、傘をさしてもふらつくこともなく軽快にペダルを踏んで坂道を下っていく。 ずいぶん大きくなったもんだなぁ。
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