月の輪通信 日々の想い
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2004年08月27日(金) 怪獣の卵

お隣からお庭で採れたゴーヤをもらった。
恥ずかしながら、我が家ではゴーヤを食べた事がない。
ニガウリというくらいだからきっととっても苦いんだろうという認識はあるものの、調理する私自身が食べた事がないモンでどうも尻込みしたまま現在に至る。
「苦いから好き嫌いはあるけれど、体にはいいというから・・・」とおっしゃってくださるので、「せっかくのいい機会だから。挑戦してみます。」と格別大きな一本を頂いて帰る。

「ほらほら、見て!これなぁんだ!」
「あ〜、ゴーヤだ!」
子ども達も食べた事はないものの、名前くらいは知っているらしい。
外から帰ってきたアプコも、机の上に忽然と置かれた緑色の物体を不思議そうにぶら下げてやってきた。
「ねぇ、これ、どうしたの?」
ごつごつ、でこぼこのグロテスクな姿が面白くて、アプコ、けらけら笑う。
「面白い形してるよね。もしかして、これ、怪獣のたまごじゃない?」
何を馬鹿な事言ってんのよ、この人は・・・というように、しらけた顔でまじまじと私の顔をみあげるので、
「あ、ごめんごめん。ほんとはコレ、ゴーヤだよ。お料理して食べるの。
でもね、なんか、怪獣の卵に似てない?」
とあわてて、とりなして言う。
アプコ、冷ややかな目で母をにらんだまま
「見たことないから、わからん」
確かにそうでした。
母も怪獣の卵は見たことないです。
すみません。

アプコも少しずつファンタジーの世界と現実の世界をしっかり見分けるようになってきてるんだなぁ。
理屈っぽい大人びた発言をするときには、小さなお鼻がぴくぴくするのがまだまだ可愛いアプコだけれど、ファンタジーやたとえ話よりもちゃんとした理に適った説明を聞きたがるようになってきたことに最近気がついた。
ちょっとびっくり。
ちょっとさびしい。

「○○山、来る?」
しばらくして、アプコがつんつんと私をつついて、聞いた。
「へ?なぁに?きこえなかったよ。もう一回言って。」
「あのね、○○ヤマ!」
「え?何やま?」
よく聞き取れなくて何度も何度も聞き返す。
しまいにアプコがプッとふくれて、言い放った。
「ゴーヤーマン!」
はぁはぁ、あの一昔前のキャラクターグッズのあれですか。
もしかして、アプコ、ゴーヤーマンはいると思ってんの?

・・・・まだまだアプコのファンタジー時代は続きそう。
ちょっと嬉しい。


2004年08月26日(木) 老いの日

ご近所の独居老人Tさんが、とうとう、隣町の施設に入所された。以前から入所できる施設を探して空き待ちしているとは聞いていたが、今日、息子さんの迎えの車でいってしまわれた。
お向かいのMさんとのトラブルがエスカレートしていて、今にも一触即発かと周囲がハラハラしていただけに、Tさんの入所は実にタイムリーともいえるのだけれど、これといった予告もなく、すれ違う車の窓からの簡単な挨拶だけで行ってしまわれたTさんと息子さんに、ちょっと拍子抜けしたような、空虚な思いがどうしても残る。
とりあえずそれほど遠くの施設でもなく、途中で戻ってこられる可能性もないわけではないので、これでさようならというわけではないのだけれど、外出のたび、近所でぶらぶらひまをつぶしておられるTさんの姿をしばらくは見かけることがないかと思うとなんとなく胸が痛む。

「年をとったら、子ども達に面倒を見てもらうことは期待しない。老後のことは自分で考えて施設やホームなどに入れるように手配しておきたい」
子ども達の生活を尊重し、自分の人生の後始末は自分で行えるようにしたいという、現代の潔い「自立した老い」への憧れ。
近頃よく聞く進歩的な「老い」のあり方だが、私は自分自身の老後を考える時、見知らぬ人たちとの共同生活をしている自分というのをどうしても考える事ができない。
できる事なら、子どもや孫達の声の聞こえるところで、「もう!ばあちゃんはしょうがないなぁ」としょっちゅう小言を言われながら、さほど疎まれもせず、こじんまりと人生の終いの日々をすごしたいと思う。

一時期、身内が入所している「老人保健施設」をたびたび訪れていた事がある。休日にまだ幼い子ども達を連れて、おじいちゃん、おばあちゃんに会いに行く。
施設はとても明るく清潔で、たくさんの若いスタッフの方達がにこやかに老人達の身の回りの世話をしてくださっていた。比較的、介護の必要の少ない元気なお年寄りが多かったので、施設内では季節の行事や趣味の講座が開かれ、ホールに集まって談笑したりTVの時代劇を大勢でワイワイと見ていたりと、楽しそうにすごしておられるように見えた。
一人暮らしの孤独や周囲に負担をかけているという気持ちの辛さから開放され、心穏やかに老いの生活を送る事ができるならそれもよし。
そうは思いながらも、あの年齢になってから見知らぬ人たちとの共同生活は私にはちょっとつらいなぁと思わざるを得なかった。

たまに幼い子どもを連れた家族が面会に訪れると、近くにいるお年寄り達が次から次へと子ども達の顔を見にこられる。
「お年はいくつ?」「「飴、上げようか?」と声をかけてこられるのは大概おばあさん達。自分の孫やひ孫のこと、若い頃の子育ての苦労を必ずといっていいほど話して行かれる。幼い子どものやわらかい肌に触れ、おずおずと頭をなぜて下さるお年よりの頭に浮かんでいるのは、目の前にいるうちの子ども達ではなく、離れて暮らす幼き日の我が子や孫、曾孫さんたちのことなのに違いない。
入所者の老人達の熱烈歓迎を受けて、子ども達は帰りの車の中では決まってぐったりと爆睡していた。普段お年寄りばかりで過ごす静かな生活の中に、たまに訪れた子ども達の黄色い声やたどたどしい足音は確かにかなりご迷惑だったろうが、小さい子達の暖かい肌に触れる事で老いた我が身に若い生命のエネルギーを貪欲に吸い上げていらっしゃってもいたのではないだろうか。
整った設備の中で手厚い介護を受け、茶飲み友達や娯楽の機会にも恵まれて過ごす老いの日々に私が手放しに夢を描く事ができないのは、なぜなのだろう。

人生の終末期を施設で過ごされるお年寄りの方々には、それぞれそんな風に過ごしていくそれなりの理由や事情がある。
気持ちのよいスタッフに囲まれて、何不自由なく気兼ねなく快適な老後を過ごせる事のできる事を喜んで生活をなさっているお年よりもたくさんいらっしゃるに違いない。
それでも、施設へ行かれるというお年寄りに寂しさを感じ取ってしまうのは、無知な若いモンの偏見に過ぎないのかもしれない。
けれども、年齢を重ねたお人が地域や家族のいる場所で終の日々を穏やかに過ごすという当たり前のことが、とても贅沢な老い方であるという事に愕然とする。
「お母さんは自立した年寄りになんてならないよ。4人も子どもを産んだんだから、きっときっと若いモンの背中にしがみついて、ぶちぶち口煩いしゃあないばあさんになってみせるよ」と、今から散々子ども達に言って聞かせる。
果たしてウン十年後、母のずうずうしい願いは果たされるだろうか。

Tさんが施設に入られた事を、積年の喧嘩相手であったMさんに伝える。
「そら、よかったわ。もう一人で暮らすのには無理があったんや。」
Tさんがいなくなってセイセイしたとでも言われるかと思っていたMさん、「よかった」と言いながらもその声は心なしか元気がない。
「コンチクショウ!腹が立つ!」と激しい言葉でTさんをなじっていたMさんも、遠からず訪れる日の自分を思われているのかもしれない。
「いろいろ、世話、掛けたな。」
とMさんはバケツいっぱいの新栗をくださった。
「うちじゃ一人では食いきれん」
収穫した野菜や果物を、家族で分け合って食べられる幸せをいつまでもいつまでも手放したくない。
上手に年をとりたいと、ちょっと悲しくなったりした。


2004年08月24日(火) なくならない話

2,3日前、アプコの金魚の銀ちゃんが突然死した。
夏のお祭りにアユコがアプコのために金魚すくいでとってきた6匹の金魚のうちの一匹で、赤い金魚の中でたった一匹銀色のボディで、アプコのお気に入り金魚だった。
金魚すくいの金魚にしては元気いっぱいで食欲旺盛、もしかしたら何年も長生きする長寿金魚なんじゃないかなぁなんて考えていた矢先の事。
銀ちゃんは水草の間で静かに動かなくなっていた。
「死んじゃったら、しょうがないね。」
アプコは銀ちゃんをすくって、土に埋めた。
声は沈んでいたけれど、わぁわぁ泣くほどのショックは受けていなかったようで、まずは一安心。幸いほかの5匹の金魚は元気そうだし、一件落着と思っていた。

今日、アプコが慌ててとんできた。
「おかあさん、銀ちゃんを埋めたところにね、蟻さんがいっぱい来てるねん。どうしたらいい?」
銀ちゃんが食べられちゃうと必死の訴え。
可愛がっていた銀ちゃんのことを食物連鎖の学びのネタにするのはどうかなと戸惑ったけれど、もう6歳になったアプコには理解できる事かもしれない。
「あのね、蟻さんたちは銀ちゃんのからだを食べて、生きていくんやで。」
へ?と虚を突かれたようなアプコの表情。
「何で、銀ちゃん、食べちゃうのン?」
「アプコがお魚を食べたり、お肉を食べたりするのと一緒。蟻さんは銀ちゃんのからだを食べて、大きくなったり元気になったりするんやな。だから、死んだ銀ちゃんのからだはもう蟻さんたちにあげようね。」
「・・・蟻さんは、銀ちゃんを食べておおきくなるの・・・・」
アプコは小首をかしげ、しばらく考え込んだ後、
「あ、わかった!だから、なくならへんねんな。」
と大きな声で言って、スキップして行ってしまった。

「あ、わかった!」とは言ったものの、アプコは銀ちゃんと蟻の関係の何をどんな風に理解したのだろう?
確かに新しい真実を見つけたときの輝く瞳で笑っていたけれど、アプコはどんな真理に触れたのだろう。
「だから、なくならへんねんな。」
なくならないものって、何?
蟻さん?蟻さんの食べ物?銀ちゃんの体?この世界に息づくたくさんの命?
アプコに食物連鎖の厳しさを教えたつもりの私が、アプコから難しい禅問答のような疑問をポーンと投げ渡されて、びっくりする。
なくならないものって、なんだろう。
銀ちゃんが死んで、土に埋められて、蟻達に食べられてもなくならないもの。
もしかして、アプコは答えを知っているのだろうか。

「おかあさん、おかあさん、アタシ、ちょっと嬉しいな。
もうすぐ、銀ちゃんを食べた銀ちゃん蟻がたくさん生まれてくるんでしょう?」
銀ちゃんを食べた銀ちゃん蟻?
それって、どんな蟻?お魚の形の蟻さんかな?
「ちがうよ。普通の蟻さんでしょ。」
あ、失礼しました。
アプコにはちゃんと分かってるみたいだね。
命と命の深いつながりの謎。

母は今日もまた、アプコに一つ学ばせて戴きました。


2004年08月22日(日) 世代交代のメカニズム

23日、24日は地蔵盆。
工房には小さな古いお地蔵さんがあって、毎年この時期になると、子どもたちの名前を書いた提灯に火をともし、お菓子や果物をお供えし、お寺さんに来ていただいて地蔵盆会を行う。
今は家族だけでごくごくこじんまりと行う行事だが、父さんが子供の頃には町内の子どもたちがこぞってやってきて、いろんな出し物をしたりフォークダンスを踊ったり、とてもにぎやかだったのだそうだ。
幼い頃に地蔵盆の経験のない私に、懐かしそうに語る父さんがちょっとうらやましかったりする。

お地蔵さんのお堂をきれいに掃除し、提灯のコードを張る。うちの子達やいとこたちの名前の入った赤い提灯をパリパリ開いて、コードにかける。新しい赤白の前掛けを何枚も縫って、子供たちの名前と生まれ年を書いて、お地蔵さんの首にかける。お花やお供えのお菓子を買いに回り、お線香立てやお佛花用の花入れをきれいにする。
毎年なぜだかこれらの準備は父さんの役と決まっていて、忙しい仕事の合間に買い物に行ったり、お掃除をしたりとばたばた走り回る。
「いつから、これは父さんの役なの?」と聞いたら、
「10歳ごろからずーっとやってるね。」との答え。
「じゃぁ、そろそろ息子たちに代わってもらわなあかんね。」
「でも、この時期は毎年、どの子もそろそろ夏休みの宿題に追われている時期だしね。」
なんとなく、子どもたちが小さい頃から、「子供たちへのサービス」とでもいうような感じで、大人たちが準備を整え、お菓子を用意して迎えていたうちの地蔵盆。本来はちょっと大きくなった子ども達が順番に小さい子達のために準備を手伝い、大人になって受け継いでいく、そういう行事だったのだろうなと気づく。
「オニイは今さっき暇そうにしてたから、呼んで来ようか。高いところの提灯は私よりオニイのほうが手が届くかも。」
そんな事を言っているうちにアプコがぴゅーっと走って帰って、いぶかしげな顔のオニイを引っ張ってくる。
「お忙しいのは承知しておりますが、ちょっと手伝っていってよね。」
提灯要員、一名確保。

小さい頃は大きいお兄ちゃんお姉ちゃんたちに世話をしてもらい、大きくなったら今度は小さい子達の面倒を見るという世代交代のシステムが、昔はもうちょっとしっかり機能していたのだろうなぁ。
私達が子供の頃には、たとえば夏休みのラジオ体操なら、どこかの中学生のお兄ちゃんがラジオを持ってきてくれ、前でお手本の体操をして、出席のはんこを押してくれた。
今、うちの地域の子ども会では、小学生のお母さんたちが一手に企画や準備を引き受け、子ども達を楽しませてくれるが、その子ども達は中学になるとぱったりと地域のお祭りや奉仕作業には加わらなくなる。
子ども達にとって地域の行事は大人たちが準備してくれて遊ばせてくれるものになり、自分達が準備したり運営に参加したりするものではなくなってしまった。

たとえば剣道の稽古。
普段の稽古では、中学生は稽古前に小学生達の掃除の監督をし、整列させ、竹刀の不備や着装の乱れを直してやる。大人の先生方に混じって、中学生の子達は小学生の小さい子達の稽古を受けてやる側に回る。低学年の子達の力量に合わせて、ひょろひょろの面や小手や胴をひたすら受けてやる。ちょっと腰を屈めるようにして受けるのだが、時々初心者の的外れな胴や小手を防具の隙間の生身で受けて、痛い思いをしたりもするようだ。
それがひとしきり終わってから、今度は自分達が大人の先生方に稽古をつけてもらう。
小さい子達は先輩達を憧れを持って眺め、自分がその年齢になったら今度は自分が小さい子達の稽古の相手をする。そういうシステムが子どもたちの道場の運営の大きな助けになっていたのだろうと思う。
ところが、最近中学生になるとパタパタと道場をやめる子が増えた。
塾があるとか、学校の部活がいそがしいとか、仕方のない事情もいろいろあるのだろう。辞めるまでも行かなくても、「試験前だから休み」とか「ちょっとしんどいから休み」とか、自分の都合で稽古にでないことも増える。
「大きい子が小さい子の面倒をみる。」「面倒を見てもらって育った子が大きくなったら、また下の子たちの面倒を見る。」そういう、先輩後輩の輪が中学に上がるところでぷっつりと切れる。

今年、アプコの幼稚園の父母会は存亡の危機にあった。
いつもなら年度始めの行事の準備が始まっている頃なのに、まだ本部役員のなり手がない。本部が決まらないと子どもたちが楽しみにしている夏祭りやバザーもなしになる可能性がでてくる。「楽しい行事がなくなるのは困るわ」といいながら、誰も役員にはなりたがらない。わが子がお祭りを楽しめないのは困るけど、自分はお手伝いはしたくないという人が増えたのだろうか。以前の役員経験者からは「あんなに一生懸命お世話してきたのに、引継ぎ手がないなんて嫌になる」とため息が出た。
結局、どういう経緯かは知らないけれど、なんとかかんとか、今年の本部役員さんたちは決まり、夏祭りは無事開かれたが、当日リーダーとなって走り回っていた役員さんたちの中には、昨年度や一昨年度の役員経験者の顔がいくつも見られた。「なり手がないなら仕方がないなぁ」と頼み込まれて再度役を引き受けてくださった方も多かったのだろう。気の毒だなぁと思う。
まだ一度も役に当たってない人もたくさんいるだろうに・・・。

それまで散々、先輩達のお世話を受けて楽しませてもらってきたのに、いざ自分達がお世話する立場になると自分の都合を優先させて抜けてしまう。「人のお世話をするばかりで自分が楽しめないから」と不満の声があがる。
そういうのって、なんだかいやだなぁと思う。
誰かに世話してもらって楽しませてもらったら、一度は自分もお世話する側に回らなくては・・・。
そういう気持ちが長く続く行事や伝統を支える心棒になる。
個人の事情を優先させて、お世話する立場になる事を用心深く避け、美味しいところだけつまみ食いしていく風潮では、地域の行事や世代交代のネットワーク作りはどんどん難しくだろう。

提灯のコードに一つ一つ電球を取り付け、赤い提灯をともす。
お地蔵さんは小さい子どもらの守り神。
提灯や前掛けに子どもらの名前を記すのは、大事な次代を担う子どもたちの健やかな成長を祈るため。
お下がりのお菓子の袋をもらってはしゃいでいた子どもが、大きくなって今度は提灯をつるす手伝いをする。
世代交代のメカニズムは、こんな小さなところから少しづつ組み立てられていくのではないだろうか。


2004年08月21日(土) 育児の記録

この間、里帰りしていたとき、母が、「こんなものが出てきたよ」と古いメモ書きを見せてくれた。
小さな大学ノートの切れ端に鉛筆書きの私の筆跡。
「よくまぁ、こんなものとっておいたねぇ」と呆れながら、懐かしい文字を読む。

アユコを出産したとき、オニイはまだ1歳7ヶ月。
切迫流産のための入院期間に、父さんの中国出張旅行が重なってしまい、留守中のオニイの世話を実家の母が引き受けてくれた。
それまで母親の手元を離れた事がないよちよち歩きのちびっ子を、母は実家まで連れて帰って面倒を見てくれた。
当時、オニイは偏食がきつく、野菜はほとんど食べない。果物も食べられるものはごくごく限られている。まだまだスプーンも上手にに使えなくて、手づかみのほうが速いくらい。
「この子は私の手元を離れたら、いったい何を食べるんだろう」
預ける私が不安になるくらいだから、さぞかし母は悪戦苦闘して慣れない幼児食をこしらえてくれたのだろう。
母が台所の引き出しから見つけ出したのは、そのとき私が母に託したオニイの「食べられるものリスト」だった。

食べられる野菜の種類や切り方、調理法まで指定した細かなお子様メニューリスト。末尾には「食後は必ず歯磨きをさせてください。寝る前に甘いものは飲ませないで下さい。食事は手づかみでもできるだけ自分でたべさせるようにしています。飴やチョコレートはあたえないで下さい。」と、生活上の細かな注意が書き添えられている。
今の我が家の大雑把育児からは考えられないほどの綿密な指令書を読み返して、ため息をつく。思えば第一子であるオニイの子育てには、こんなに神経質に肌理細やかな神経を使っていたのだなぁ。
「そんなこと、構っちゃいられない」と、どんどんややこしい事は端折って大雑把になっていった我が家の育児の歴史を気恥ずかしく振り返る。
それにしても、日頃一緒に暮らしていない幼児をぽんと預けられて、こんな偉そうな指令書を娘から受け取った母の思いはどんなだっただろう。3人の子を育てて、育児の大先輩であった母になんとまぁ、大層な失礼千万な指令を強いたものである。
「この子の事は、母親である私でなくちゃ駄目なのよ。」という気負いや、初めて我が子を人に預けるという事に対する不安で、はちきれそうになっていたあの日の私。
子育てに厳しいルールや高いハードルを自ら設けて、「この子をきちんと育てる」という事に肩肘を張って必死で子育てしていたあの日の息詰まるような空気が痛いように感じられる。

次々に下の子達が生まれて、子育てが自分の書いた設計図どおりには進んではいかない事を何度も何度も経験して、我が家の子育てはどんどんシンプルになった。
今、ニンジンが食べられなくても他の物で栄養分を補えればそれでよし。
今、偏食が多くても3年先に食べられる食品が増えていればそれでよし。
今、上手に「おしっこ」が言えなくても、自分でぬれたパンツを洗濯機に入れられるようになればさしあたりはそれでよし。
子どもが子どものペースで、自分で目の前のハードルを越えられるようになればそれでいい。
そんなふうに、子ども自身の成長する力を信頼して待つという育児観を私は子どもたちとの生活を通じて、少しずつ習得していったように思う。

春にママになったばかりの義妹のTちゃんが、いやに熱心に私の古いメモ書き
を読んでいた。
新米ママのTちゃんにとっては、一年先の育児の手引きとして先輩ママの育児の記録に興味がわくのは当然のこと。
でもねぇ、Tちゃん。
そんな神経質に肩肘張った育児メモ、生真面目にお手本にしないでね。
あくまでも日々の子育ての道標になってくれるのは、あなたの目の前にいる我が子の毎日の成長そのもの。
その事に気づくのに私は10年かかった。
親もまた、自分なりのペースで成長していくものだという事を嬉しく思う。


2004年08月20日(金) 通り雨

からりと晴れていると思ったら、ぱーっと曇って通り雨。
「わーっ、降ってきたよーっ!」
と叫ぶと、2階の子供部屋でうだうだしていた男の子たちがバタバタッとベランダへ出て、洗濯物を取り込んでくれる。
一階のテラスに干したバスタオルは、アユコとアプコがわっしょいわっしょいと部屋へ入れてくれる。
最近では気が向けば、取り込んだ洗濯物を部屋干し態勢にかけなおしてくれるようになって母大助かり。
子供たちが一日うちでごろごろしている夏休みは、とりあえず、お洗濯取り込み要員だけは取り揃えてある。
これが普段の昼間なら、私一人で一階と2階をばたばた往復して大汗をかくところ。
「たくさん子ども、産んどいてよかったわぁ。」
なんていうと、「産んどいてよかったのは、洗濯物取り込むときだけ?」とツッコミが入る。
「さし当たってはそのくらいかなぁ。」と憎まれ口を叩くけれど、ホントはほかにもいっぱい助かってるよ。

我が家のベランダには屋根がないので、ちょっとした雨でもすぐに洗濯物はぬれてしまう。だから一日にたびたび通り雨が降ったりすると、主婦は洗濯物を外に出したり、慌てて取り込んだりしているうちに、あっという間に一日がくれてしまう。
怪しいお天気なら、最初から戸外に干すのはあきらめてさっさと部屋干しにするのだけれど、ちょっとでもお日様が出てくると部屋の中に湿った洗濯物を吊っておくのがもったいない気がして、様子を見ながら外へ干しなおしたりする。
そんなときに限って、再び大粒の通り雨があったりして、またばたばたとベランダへ駆け上がる。
何やってんだかなぁ。
最初っから部屋の中に干しときゃいいのに、出したり入れたり、無駄な時間と労力使ってるなぁ。
主婦の仕事ってほんとくだらない仕事の繰り返しだなぁなんて、妙にむなしい気もちが残っちゃったりする。

部屋の中でじわじわ乾かしたタオルと、明るい太陽にたった30分でもさらして乾いたタオルは、使った感じがぜんぜん違う。
雲間から覗いた明るい日差しを、ちょっとでもたくさん取り込んでおきたい。そのために、わずかな晴れ間にも洗濯物を戸外に出そうとする主婦の貪欲。
好天気にお布団を干しそこなったり、珍しく涼しい気持ちのいい朝にお寝坊して朝の家事を片付け損なったり、そんな些細な事で主婦がとっても損した気分になってしまうのはなぜだろう。
幼い子どもが、せっかく見つけた大きな水たまりにジャブジャブ入ってみないではいられない気持ち。
せっかくの暑い夏の日に、水遊びをせずにはいられない、あの差し迫ったようなわくわくする気持ち。
洗濯干しに追われる主婦の欲深は、そういう幼い子たちのこみ上げるような気持ちにどこか似ている。

この間、実家へ里帰りしていたときの事。
子どもたちの洗濯物を干しに出たら、バスタオルが何枚か先に干してあった。小さい赤ちゃんを連れて帰ってきた義妹のTちゃんが干したものだろう。細いワイヤーの物干しハンガーに、ちょうど背中からショールをかけるようにバスタオルがかけられ、ちょうど襟に当たるところできちんと洗濯バサミがとめてある。
あ、変わった干し方だなと思った。
うちではバスタオルは、たいてい1階のベランダの手すりかバスタオル専用の物干しに二つ折りに広げて干す。場所がないときには、ハンガーにタオルの短いほうの辺で洗濯バサミを二つ止め、垂れ幕のようにだらーっと広げて干す。
東京のもう一人の義妹に聞いてみると、バスタオルは物干し竿に直接二つ折りに広げて干すという。
そして、実家の母は、物干し竿に直接干すか、ワイヤーハンガーの底辺にくしゃっとかけて干している模様。
ははぁん、バスタオルの干し方一つとって見ても、その家、その家にやり方ってあるもんだな。お洗濯物の量や、干し場の事情、主婦の癖やら生活環境やら、そんなもので「いつものやり方」は決まってくる。
同じこの家から巣立った子どもが、それぞれ違った空の下で、それぞれのやり方で干したバスタオルを使う。
なんだか面白いなぁと思う。
我が家の子ども達が築く未来の家庭では、どんな風にバスタオルを干すのだろう。

「わー!雨だ!」
と叫ぶと、皆がいっせいに洗濯物を取り入れるために立ち上がってくれるのは、それが主婦のやるべき仕事ではなく、家族みんなの仕事だと感じていてくれるから。
だから、何かの事情で急に降り始めた雨で洗濯物を濡らしてしまったとき、「ごめん、気がつかなかったよ。」という言葉が誰かの口から自然にもれる。
ありがたいなと思う。
たくさんたくさんの布オムツやお食事エプロンを洗ってやった子どもたちが、今ではこんなに母の助けになってくれる。
たたんで重ねた布オムツに感じたお日様の匂いを、はや大人サイズになりつつあるTシャツや洗いさらしたジーンズに感じる今の私。
子育てという長い長い山道の幾つ目かの峠を、また一つ超えつつあるようだ。

近いうちに、毎日日光にさらされて、脆く色あせた洗濯バサミを一掃して、新品に替えようと思う。
当たり前に続いていく当たり前の日々を、パチンパチンと新しい洗濯バサミで挟んでみよう。
新しい風が吹くかもしれない。


2004年08月18日(水) 銭洗い

脱水の終わった洗濯機のふたを開けてびっくり。
濡れてくしゃくしゃになった1万円札がはらり。
え?え?と思っていたら、続いて5千円札、千円札・・・・。
や、やってしまいました。
父さんのお財布、丸洗い。

年に何度かあるんだよな。
ジーンズやエプロンのポケットに物を入れたままのお洗濯。
財布のほかにも、万歩計とか腕時計とか鍵とか、小銭とか・・・。
ポケットティッシュ丸洗いにも泣かされるけれど、気分的に痛いのは腕時計。生活防水オンリーの腕時計は、一回洗濯機にかかると、8割がたオシャカになる。懲りもせず何度もやって駄目にするので、最近ではすぐ壊れても惜しくない1000円均一のおもちゃ時計しか使わなくなった。
赤いサインペンを一緒にお洗濯したときには、白いシャツや体操服がぜーんぶ桜色に染まって参った。
洗濯機を回す前に、ちょっと確認すればいいだけのこと。
それが分かっているからこそ、やってしまうと妙に落ち込む。
かかって悔しい落とし穴。

盆の上に、濡れた紙幣やらカードやらを広げて干す。
あーあ、うっとおしい。
このお札、なんだか色が薄くなったみたいな気もするけど、大丈夫かなぁ。
レシート類は破れてぼろぼろになるのに、さすがにお札は破れていない。
よっぽど丈夫な紙を使っているのかしらん。
妙な感心をしながら、父さんの財布の中身を日向に広げる。
お盆のふちに洗濯バサミで、紙幣をパチンパチンとはさんで留める。
この日差しなら、数時間もすれば、お札も財布もバリバリごわごわに乾くだろう。

とりあえず残りの洗濯物を干しておこうと、洗濯籠を広げてまたびっくり。
真っ白のバスタオルに、濃いグレーの染み
財布の中にはいっていたレシートか何かのインクが移ったらしい。
あらら、また一仕事増えちゃった。
でも、白だし、漂白剤をかければいいか・・・と思っていたら、あら大変。
この間、加古川のおばあちゃんに買ってもらったアプコのお気に入りのピンクの半ズボンのお尻に、でっかいグレーの染み。
どうやら、バスタオルとアプコのズボンが被害を一手に引き受けてしまったらしい。
こっちは漂白剤をかけたりしたら、きっときれいなピンクがまだらになって、散々なことになってしまうだろう。
アプコの見ていないところで、洗剤をいっぱいつけてこすってみたけれど、一向に落ちそうな気配はない。
汗だくになって、ごしごしやっているところをこれまた運悪く通りかかったアプコに見られた。
「なに、やってんの?」
この子はホントに勘がいい。内緒でいいもの食べてるときや、見られて都合の悪いことをやっているときには必ずといっていいほど顔を出す。
「あのね、父さんの財布に入っていたレシートのインクがね・・・。」
仕方なく事情を話す。

唇をへの字に結んで汚れた半ズボンをじっとにらんでいたアプコ。
「お気に入りだったのになぁ、おかあさん、お父さんに怒っといてね。新しいズボン、大事にしようと思ってたのに・・・。」
それだけ言って、どこかへ姿を消した。
もっとわんわん泣いて怒るかと思ったのに、ちょっと拍子抜け。
ま、いいか、もう一枚、似たようなズボンを買ってやれば気が済むかも知れない。ちょっと気が軽くなって、汚れたズボンを濃い洗剤液の中に漬け置きして、お昼ご飯の準備にかかった。

お昼、仕事場から帰ってきた父さんに午前中の騒動を説明する。
盆の上で生乾きになった財布をみて、父さんしばし呆然。
そこへとんできたアプコ、
「もう!おとうさんのお財布のせいで、アタシの新しいズボンが汚れちゃったよ。おばあちゃんに買ってもらったお気に入りなのに・・・!」
と猛抗議。
ぷっと膨れたアプコに父さん、いまいち状況がつかめぬまま、ごめんごめんを繰り返す。
さっきのあっさりした反応とはうってかわって、いじいじねちねちと繰り返す抗議に、しまいには上の兄弟たちがカチンと来た。
「父さんだって、わざとやったわけじゃないよ。アプコ、もうそれぐらいにしときな。怒ってもズボンが元通りになるわけじゃないんだから。」
オニイ、おねえに叱られて、ますます膨れるアプコ。
完全に拗ねて、ひざを抱えてうつむいてしまった。

父さんがわざとやったわけじゃないのも分かってる。
汚れたズボンがもう一度まっ更にならない事もよく分かってる。
でもやっぱり悔しいんだよね。
いっぱい抗議して、どんなにこのズボンが好きだったか聞いて欲しかったんだよね。
さっさと「ごめん」と謝られて、悔しい気持ちを「もういいよ」と封じ込めてしまわなくてはならないのが悔しかったんだよね。
小さいアプコの頭に、こんなに複雑な葛藤があることをお兄ちゃんおねえちゃんはまだ理解してくれない。
突然の事態に頭が真っ白な父さんも、アプコのほんとの悔しさには気づいていない。
「似たようなズボン買ってくるよ。」
と、弱り果ててはいるけれど、アプコがホントに大事なのはおばあちゃんと一緒に買ったあのズボンなんだよね。

泣きべそのアプコと一緒に、漬け置きのズボンをもう一度広げてみる。
みると、あんなに大きく広がっていた染みがあら不思議、ずいぶん薄くなっている。
「完全に元通りにはならないけど、これだったら履いてもおかしくない位にはきれいになるかもしれないね。」
汗と涙で汚れたアプコの顔をタオルでぐいぐい拭いてやる。
アプコの顔に、ほんのちょっと笑みが戻る。
「ああ、おなかすいた、早くご飯食べておいで。」

「確かに洗面所でジーンズを脱いだけれど、洗濯機に入れた覚えはないんだけどな。」
後になってもちょっと納得のいかない顔の父さん。
私だって、いれた覚えはない。洗面所に脱ぎ散らかしていく服のポケットの中身くらい出しておいてもらいたい。
うちじゃあ、洗面所に脱いである服は「洗濯する物」ということになっている。私じゃなくても誰かが気を利かせてぽいと洗濯機の中に放り込んでおくことだってあるんだから。
・・・洗濯機を回す前に確認を怠ったわが身の責は棚に上げて愚痴を言う。
いろいろ大変だったんだから、私の愚痴もちょっとは聞いといてね。
素直な父さんは盛んに首をひねりながらも、悪かったねとただただ謝罪。

数十分後、ぱりぱりに乾いたお札を持って、父さんと上の3人の子供たちは約束していた映画を見に、町へ出かけた。
アプコのズボンの染みは漬け置き洗いで意外にきれいになり、何とか支障なく着られそうだ。
全く困ったもんだねぇと、アプコと二人、みんなに内緒のアイスを食べる。
そういえば、父さんの洗濯済みのバリバリ紙幣、自動券売機を通るんだろうかねぇ。

ところで「銭洗い弁天」なんてのが、確かにあった。
お金を霊験あらたかな水で洗うと、金運がよくなってお金持ちになるんだって。
夏休み、何かと出費のかさんだ我が家には、霊験あらたかな弁天さんのご加護がぜひとも戴きたいところ。
やっぱり洗濯機洗いじゃ無理だよねぇ。
財布を洗うと、金運が落ちるという話も聞いた事があるような・・・。


2004年08月17日(火) 初めてのアプコ

昨夜、帰省先から戻って、子供たちの就寝時間はかなり遅くなってしまったのだけれど、今朝はアプコが早朝出勤。
朝、8時45分からの短期のスイミングスクールの初日なのだ。
グダグダと一向に起きてこない雑魚寝の子どもたちの中から、寝ぼけ眼のアプコをピックアップ。
とりあえず、朝ごはんを食べさせて、ブンと車に乗せる。
それでもなんとなくぼーっと寝ぼけ顔のアプコ。
初体験スイミングスクール、大丈夫か。

今日行くスイミングスクールは、アプコのお友達のTちゃんが普段通っているスクール。本当はアプコもTちゃんと一緒に通常のスイミングを習いたいらしいのだが、送り迎えの時間的余裕がないのと経済的理由で通わせていない。それでも小学校に上がる前に、水に顔をつける事くらいは・・・と、とりあえず短期教室で様子を見る。最近はスイミングに通っている子がとても多くて、小学校の授業のプールでも「顔漬けレベル」からだとちょっとしんどいのだ。

水着のアプコを先生に預け、親はガラス越しに参観。体操とシャワーを終えて、2人の女の先生に連れられて7,8人の園児が入ってくる。
プールの水面にカラフルなボールをたくさん浮かせて、先生の持っているかごに集めるというような、簡単な水慣らしから教室が始まった。
初めてのプール、初めての先生に硬い表情のアプコ、気まじめに言われたことだけはこなしているが、楽しいんだか楽しくないんだか、外から見ている分には見当もつかない。
そういえばアプコ、幼稚園の先生以外の先生に付いて習い事をするのも初体験、緊張するのも当たり前なんだな。
上の3人を育てて、幼児期の成長過程を経験してきた私にとっては、なんでもないことがアプコにとっては初体験。このスイミングスクールだって、上の子達を何度も通わせた私にとっては知っている場所だけど、アプコにとっては始めての場所、初めての人、初めての経験なのだ。

一時間あまりのレッスンを終えて、出てきたアプコは妙に無口だった。
「面白かった?」と聞いても、フンフン頷くばかりで返事が出ない。
さては凹んだかなと、顔色を伺いながらスクールを出たが、駐車場で車に乗るなり、
「おかあさん!今日、初めて、ワニさん泳ぎができたよ!」
とぱっと表情が明るくなった。
「女の先生、面白かったよ。泣いてる子ももいたけどアタシは平気だったよ。帰るとき、バスタオルが見つからなくて遅くなったよ。名前書いといてね。明日も来る?明日も同じ先生?ああ、おなかすいた・・・・」
堰を切ったように喋る、喋る。ハイテンションでまくし立てる。
とりあえずとても楽しかったようだ。どうやら、スクールの建物の中では、まだ、緊張が続いていたらしい。

今日の昼ご飯は焼きそばがいいというので、帰りにスーパーで焼きそばの麺と豚肉を買って帰る。
うちの中では母の不在をいい事に、ついさっきまで寝倒していたらしい子ども達。朝ごはんも食べたんだか食べなかったんだか、ダラダラとけだるい空気が流れている。
朝からアプコと一仕事終えてきた母は、ばたばたとみなを急き立て、朝、やりそこなった家事を大急ぎでやっつけ、昼ごはんに取り掛かる。
「朝ごはん、遅かったから、お昼ご飯は軽くていいよ。」というので、トーストやサラダで簡単に済ませちゃおう。
「アプコ、おいで、お昼だよ。おなかすいたね。」
と、アプコを呼ぶと、あらら、べそをかいてる。
「・・・・焼そばっていったのに。」
はぁ、忘れておりました。
いつもなら、「いいから、パンにしといてよ。」というところだけれど、あんまりアプコが凹んでいるので、面倒だけど1人分だけ焼そばを作る事にする。どうせならと、コンロの前に踏み台を置いて、アプコに焼そばの麺を開けさせ、フライパンの中へ入れさせる。ジュージュー熱い焼そばを緊張した面持ちでかき混ぜるアプコ。
出来上がった焼そばはお肉もキャベツも入らない超シンプルなものだったが、アプコ大満足で完食。たちまちゴキゲンも直ってしまった。

夜になって、アプコ、母の耳にこそっと耳打ち。
「あのな、今日はアタシ、『はじめて』ばっかりの日やったで。
ワニさん泳ぎ、初めてやろ?それから、火、使うお料理も始めてやろ?
明日も、いっぱい『はじめて』があるかなぁ。」

スイミングも焼きそばも、母にとっては何でもない、いつもの日常の一こま。上の子達ですでに経験した既知のことに過ぎない。
けれども、末っ子姫の6歳のアプコにとっては、はじめての冒険、はじめての快挙なんだなぁ。
どきどきしたり、わくわくしたり、口数が減るほど緊張したり・・・。
そんなふうにいつも新しい今日を生きているアプコのまぶしさ。
そしてまた、明日の「はじめて」を期待して、胸躍らせながら眠りに付くアプコのたくましさ。
子どもの持つパワーは、本当に頼もしいと思う。
当たり前の日常の繰り返しに倦むことなく、些細な「はじめて」にこころ躍らせる柔軟な感性。
そのおすそ分けをもらって、母の日常もまた、楽しい。
「はじめてのアプコ」を見つけて喜ぶ今日の私もまた、「はじめての母」の感性を持ちたいと思う。


2004年08月16日(月) 物欲魔人

お盆休みで、実家に帰省しておりました。
帰省中の出来事は後日、日をさかのぼって、UPするという事で・・・。

帰省3日目。
実家の周辺には、大型スーパーや本屋、コンビニ、ディスカウントショップなど、買い物を楽しめるスポットが山ほどある。
牛乳一本買うのに、車を出そうかという我が家とは大違い。
おじいちゃんおばあちゃんのお財布に甘えて、日頃買ってもらえないおもちゃや洋服などを買いに出かけるのを子ども達はとても楽しみにしている。
今年も、それぞれにゲームやらお人形やらを買ってもらって、残るはアユコの洋服を選ぶばかり。
東京の弟夫婦と姪っ子、母、我が家の6人で、車を連ねて近くの大型ショッピングセンターに繰り出す。

数年前にできた某フランス系のスーパーマーケット。
我が家の近所の小さなスーパーとは比べ物にならない商品の数。
意外に安価で目新しい物がそこここにあって、田舎モン家族はすっかり舞い上がって、きょろきょろとおのぼりさんモードになってしまう。
「二つも買ってもらって、いいの?」とバーゲンで底値になった洋服をわくわくしながらおねだりするアユコ。
普段買わないビートルズのCDなどをひそかにカートに入れる父さん。
「欲しい欲しい光線」をびしばし飛ばしながら、売り場を走り回るアプコ。
目新しいスナック菓子や、外国のチョコレートに熱心に見入るオニイ。
ちょいと目を離すと、どこやらへすがたを消してしまうゲン。
都会慣れした弟家族がちょっと引いてしまうような興奮振り。

わーっと駆け寄ったのは、カラフルなゼリービーンズやチョコレートがぎっしりつまったアクリルケース。量り売りのキャンデーだ。
普通なら、「見るだけ見るだけ・・」と横目で眺めて通り過ぎるところだが、小さいいとこのAちゃんがママと一緒に好みのチョコレートを袋詰めし始めたのを見て、「ええい、無礼講だ!」とアプコも袋を取る。
アユコやゲンも加わって、「西瓜ビーンズ」だの「ココナッツビーンズ」だのをワイワイ選んでつめていく。
Aちゃんの袋がぎゅうぎゅうに詰まってはかりに載せてみると、合計金額が1000円あまり。
我が家の3人が堪能するまで選びに選んだゼリービーンズは、3人分で700円弱。
一人っ子と4人兄弟の違いって、こんなところにもあるんだなぁ。
「好きなように選んでいいよ。」と言われても、なんとなく、ほかの兄弟たちの選ぶものや父母の財布の緩み具合を微妙にはかりながら、許容範囲内でたっぷり楽しむ。
ちょっと可哀想な気もするが、実際きゃあきゃあとカラフルなビーンズを選び、「げ、変な味。」「これと、取り替えて」とワイワイと一つの袋からお菓子を取り合う楽しさは、一人っ子のAちゃんにはない。

食品コーナーをあちこち回り、夕ご飯用に惣菜をいくつか選ぶ。
「ありゃりゃ、また父さんが引っかかったよ。」
普段近所では見かけない異国風のメニューや、ビールのつまみ系の美味しいものに、ふらふらと誘惑されやすい父さんの癖。
試食コーナーを余さず巡るゲンとともに、あれこれ物色。
あれもいいな、これもチョコッと食べてみたいなをカートに入れると、レジを出るときには普段の買い物額を軽く超える金額になる。
物欲魔人と化した田舎モンの浅はかさを恥じ入りながらも、なんだか楽しい。

都会の町での生活の楽しさ。
子供たちもみな、あふれる商品にあおられて妙にテンションが上がり、普段と違う歓声を上げる。
カートいっぱいの買い物をぶんぶん車のトランクに積み込む嬉しさ。
こんな大きなスーパー、我が家の近所にも一つぐらいあるといいな。
休みの日なんか、ここへ来れば一日中一家で遊べるよな。
帰りの車の中、奇妙な味のゼリービーンズをあれこれ分け合う家族に、
羨望のため息と共に微妙に皆に残るけだるい空気。
「モノに酔っちゃったんだよなぁ。」
人ゴミに酔い、たくさんの商品に酔い、買い物熱に酔う。
都会に慣れない田舎モン家族に、しゃれたフランス系大型スーパーのモノの氾濫は誠に刺激的だった。

とてもわくわくして、どきどきして、嬉しくなっちゃうけど、やっぱりこれは我が家の生活ではないよなぁ。
年に数度の無礼講のお祭り。
それなら物欲魔人と化すのもまた楽し。
でも、毎日の生活の場としては、我が家にとってはちょっと刺激が強すぎる。
都会の人には都会の人の、田舎モンには田舎モンの心地よい日常の「モノの量」というものがある。
いろんなものをいつでも買えるモノの豊かさは、必ずしも快適な生活の必須条件ではない。
そんな事にふっと気がついた。


2004年08月12日(木) アプコ6歳

8月12日、アプコの誕生日。
ずいぶん前から下見していたイチゴのケーキ。
なでるとくんくん反応する犬のおもちゃ。
みんなでワイワイ、回転すしディナー。
我が家の姫君、満面の笑みでハッピーバースディ。

6歳になったら、自動車に乗るときのジュニアシートも卒業になる。
いつも、運転席の後部座席で行儀よくシートベルトを締めていたアプコ、本日はじめてお母さんのトッポの助手席に乗る。
「おかあさん、ここ涼しいねぇ。」
おんぼろトッポは冷房の効きが悪く、これまでのアプコの指定席はとっても暑いのだ。
クーラーの風をほっぺたに受けて、6歳のアプコの笑みは可愛い。

アプコの名前は「あさみ」という。
出産の朝、ベランダに咲いていた大輪の朝顔にちなんで命名した名前は、オニイが当時のクラスメートから募集したたくさんの名前の中からえらんだ。

小学校1年生のときのオニイの作文。
「おかあさんが、このごろ太っているとおもったら、5人目の赤ちゃんが、うまれるそうです。おかあさんは、5人目のあかちゃんが生まれなくても、少し太っていた。夏休みのおわりごろに、生まれるので、こんどのなつ休みは、はじめからおわりまでたのしくていそがしくなりそうです。
ぼくのうちの四人目の赤ちゃんは、きょ年、なくなりました。そのとき、ぼくはびょういんのまちあいしつで、いつも一人でまっていた。あゆみとげんやは、ずっと、かこ川にいた。こんどの赤ちゃんは、よりみちしないで、げんきに生まれてほしいです。
ぼくはこんどの赤ちゃんは、男の子がいいです。あゆみは女の子がいいといっています。げんやは、もう一かいおにいちゃんになるので、ゴキゲンです。もし男の子だったら、ぼくの子ぶんがもう一人ふえてうれしいです。
それから、ぼくはいもうとか、おとうとかかんがえています。名まえもいろいろかんがえています。たとえば「ゆうすけ」「こ太ろう」などです。
1年1くみで、あかちゃんの名まえをぼしゅうしてもいいですか。げん気そうな名まえをつけてください。」

アプコの誕生の前の年、私たちは生後3ヶ月に満たない女の赤ちゃんを病気で失っている。その臨終の前後のつらい日々の一部始終をオニイは父母の傍らでただただじっと見守っていた。だから、5人目の赤ちゃんが生まれると聞いたとき、オニイの気持ちの中には複雑なものがあったに違いない。
当時のオニイの担任の先生は、そんなオニイの複雑な心境を察して、「赤ちゃん命名キャンペーン」を繰り広げて、クラスのみんなが一緒に赤ちゃんの誕生を待ち望む空気を作ってくださった。
今でも、時々、オニイの同級生やそのおかあさんたちから「うちでもお宅の末っ子ちゃんの名前、考えたよ。」と声をかけていただく事がある。
家族や親類縁者だけでなく、たくさんの人の祝福を受けて生まれてきたアプコは、文字通り、我が家の朝の訪れだった。

アプコが選んだイチゴのケーキ、
アユコが器用に7つに切る。
最初の一切れをオニイが亡くなった赤ちゃんの遺影の前に供えてくれた。
わが道を行く、気ままなお姫様。
アプコの命の後ろには、たくさんの人の想いと願いがある。
そんな感傷などどこ吹く風と一番大きなイチゴの一切れを迷わず選ぶ末っ子姫の明日は明るい。

誕生日おめでとう、アプコ。
生まれてきてくれて、ありがとう。



2004年08月10日(火) お母さんがいなくなる

アプコの言葉。

「あのな、おかあさんが年をとってな、
おばあちゃんになったらな、
おかあさんはおらへんになるんやろ?」
「は?」
「だって、おばあちゃんになるんやもん。」

アプコは私が年を取って、「おばあちゃん」と呼ばれるようになったら、
「母」ではなくなると思っていたようだ。
「おかあさんはアプコを産んだ人だから、しわしわのおばあちゃんになっても、アプコのおかあさん。
私市のおばあちゃんも、お父さんを産んだ人だから、何歳になってもお父さんのおかあさんでしょ。
わかるかなぁ?」
何度も何度も、同じことを説明して、ようやくアプコがにっこりした。
「ふうん、よかった。お母さんはおばあちゃんにならへんねんなぁ。」
・・・・ちょっと違う。

「おかあさんは、そのうちおばあちゃんになるよ。
アプコやアユコが好きな人と結婚して、赤ちゃんを産んだらおかあさんはその赤ちゃんのおばあちゃん。わかる?」
「じゃあ、私市おばあちゃんはいなくなるの?」
「ううん、私市のおばあちゃんは、赤ちゃんのひいばあちゃんになるよ。」
「じゃぁ、私市のひいばあちゃんは?」
「私市のひいひいばあちゃんになるかなぁ。」
「ひいひいばあちゃん」の響きのおかしさに、アプコ大笑い。
おかげで、いくら元気なひいばあちゃんでもさすがにそこまでは長生きなさらないだろうという事は言わずに済んだ。

いくら年をとっても、
体や心が衰えても、
やっぱり「おかあさん」は「おかあさん」
その事を「ああ、よかった」と喜んでくれる幼い娘。
この子にもやがて、母がいつまでたっても母である事を疎ましく思う日が来るかもしれない。
「産んでくれと頼んだわけではない。」と毒づく日がくるかもしれない。
「おかあさんも年だなぁ。子どもみたい。」と、ひょいと見下ろす日だってあるだろう。
それでもやっぱり、「おかあさんはおかあさん」と不承不承笑ってくれるといいなぁ。


2004年08月09日(月) さよならTV

TVが壊れた。
何ヶ月か前から調子悪いなぁと思っていたら、画面が真っ暗になった。
音声だけ聞こえるTVをあちこちいじっていたら、音声も出なくなった。
アプコがいつものようにぽんっと叩いても戻らず、リモコンを押すと「パスッ」と電源の入る音だけがする。
「なにー?!TVが壊れたぁ?!」
と、帰ってきた父さんが以前から壊れたままになっていた主電源を切ってみたら、今度は主電源さえ入らなくなった。
ご臨終である。

我が家のTVは一台っきり(今時!)
それも、結婚当初からずっと使っている年代物である。
結婚前には独身時代の父さんが、一人で自室で見ていた「嫁入り道具」の一つである。
父さんの部屋へ来る前、このTVは小さなレンタルビデオショップの店頭ディスプレー用に使われていたそうである。まもなく店をたたむことになったそのビデオ屋で格安の値札をつけて売り出されたものを、父さんは自分の部屋用に飛びついて買ったのだそうだ。
・・・ということは、推定20歳近く?
TVとしては十分おじいちゃんだなぁ。
そう考えてみると、今朝のTVのご臨終の経緯はいかにも「老衰」といった感じで誠に感慨深い。

新婚のとき、2DKの小さなマンションには大きすぎるこの29型TVで、よくレンタルしてきた洋画のビデオを二人でみたものだった。
オニイが生まれて、ものめずらしさに撮り貯めた赤ん坊の寝返りビデオや初笑いビデオを飽きもせず再生して喜んだのもこのTVだった。
アユコやゲンが生まれて、幼子3人の出産や子育てに奔走していたとき、とりあえず子守をしてくれるTVの画面には、「エンドレスポンキッキ」とか「エンドレス機関車トーマス」のビデオが入りっぱなしだった。
震災の日、廃墟となった神戸の町や倒壊した高速道路から落ちそうになっている車両の映像を息詰まる思いで見たのもこのTVだった。
夕餉の頃には子どもたちが好きなアニメにかじり付き、昼間は母が家事の合間にワイドショーを眺める。
仕事から帰った父さんが、お馬鹿なバラエティー番組で疲れを癒し、自然探訪や海外の風景の番組で心を癒す。
我が家の歴史と共にいつもそこにあったこのTV。
お疲れ様。

「えーっ!TVなし?」
愕然とする子ども達。
好きなアニメ、連続物のドラマ、お気に入りのバラエティー番組、再放送中のちょっと前の人気のドラマ。
我が家の子ども達は結構TVっ子である。
それが一切見られないとなると、たちまちに困ってしまう。
「一週間ぐらいノーテレビでやってみない?」という提案も即答で却下。
「オリンピック見て、レポート書くのが宿題なんだから、TVがないのはとっても困る」とオニイ。
そう来たか。
「おばあちゃんちへ見せてもらいに行ったらどう?ビデオのほうは生きてるんだから、しばらくと撮り貯めて置いてまとめて見るとか・・・。」
と、とりなしている背後で、もう大型電気店のチラシを物色している奴がいる。
やはりTVなしの生活は、我が家には無理なのか。

一番そそくさと立ち上がったのは父さんだった。
はじめ予想外の出費の痛手にパンチを食らったようだったが、元来、新しい電化製品を買うのが大好きな父さんでもある。
「もう、昔のTVなんてどこにもないよなぁ。液晶TVにはまだ手が出ないけど、フラットTVって、ずいぶん安くなったんだなぁ。」
駄目だ、TV無し生活に入ったら、一番に音を上げるを上げるのはこの人かもしれない。
あっという間にカタログを調達し、夜の大型電気店に滑り込んで、あたらしいTVを注文してきたらしい。
ただし、配達は金曜日。
TV無し生活はやはり始まった。

夏の「無くては困る家電」ベスト3は、冷蔵庫、クーラー、洗濯機だと思っていた。
しかし、大したレジャーも無く部活やプールの日程も消化して、暇をもてあました子らが4人もごろごろする我が家には、TVの存在意義は予想外に大きかった。
なんとなく手持ち無沙汰。
ごろごろと漫画を読む。
退屈して、ほかの兄弟にちょっかいを出す。
小さな諍いや言いあいが増える。
ふと気がつくと誰かしらPCにかじりついてゲームをしている。
「さあ、TVを消して、ご飯にしよう」とか、「番組が始まるまでにお風呂に入っちゃおう」とか、タイムキーパーの役目もTVは果たしていたらしい。
意外にもTV無し生活が一番こたえたのは主婦の私か・・・。
「何で、夏休みの真っ最中に逝ってしまうかなぁ」
恨めしい思いで、物言わぬ箱となったTVをにらむ。

「おかあさん、『ありがとう』やな。」
アプコがぼそりと言った。
お気に入りの幼児番組が見られなくて、半べそを掻いてたアプコである。
「ながいこと、頑張ってついてたんやなぁ、このテレビ」
アプコが生まれるずーっと前から、楽しい笑いや衝撃の映像を山ほど運んできてくれた魔法の箱。
埃にまみれて、幼かった子どもらの手垢の後やいたずら防止用にスイッチ部分に張ったガムテープの痕。
誠に誠に、よく頑張りました。
一番このTVとのお付き合いの短いアプコが、一番最初に発した「ありがとう」の言葉。
「モノにも命」というけれど、我が家の歴史を丸ごと見守ってきたTVは、まさしく「命」であった。

おそらくは廃棄処分になるこのTV。
せいぜい埃を落として、きれいにして見送ってやろう。
TVなしの数日間は、忌中ということで・・・。


2004年08月06日(金) 思いはかる力

時折ざーっとにわか雨。
朝から、「今日はプール、あるかなぁ。」と小学生組もアプコも何度も空を見上げる。
小学校のプール開放は、今日でおしまい。村のお子様プールもあと数日で閉鎖になる。今まで、精勤にプールへ通った子供たちにとっては「締め」の一日。
午後のプールの開放時間の前にさっと雲がひいたので、Go!Go!とばかりに、家を出る。

朝のお天気が曖昧だったせいか、若宮プールは良く空いている。今日はアプコ、相棒のKちゃんがお休みなので、一人で細々と水に入り、ふわふわとプールの端から端へと遊泳し、まったりと水と戯れる。
空いているせいか、ちょっと年かさの男の子たちはプールの真ん中でもぐったり、逆立ちしたりして、シンクロの真似をして遊んでいる。もともと女性が主体のスポーツなのに、ここのプールでシンクロごっこをしているのは男の子ばかり。TVの影響というのはえらいもんだ。本来は飛び込み禁止の浅いプールだが、プールサイドからコミカルな振りをつけてパタパタと飛び込む様が何ともおかしい。いつものルール破りグループに眉を顰めつつ、「こどもって、ほんと単純であほやなぁ。」と笑ってしまった。

アプコがプールの向こうの端まで泳いでいく間、見るともなしによその子達の遊びを眺める。
3年生くらいの男の子3人組。プールの端からヨーイドンで競争したり、もぐりっこしたりして遊んでいる。ぼんやり眺めていると、なんだか変だなと気がついた。
「平泳ぎで向こうまで競争や。」と誰かが声をかけると、「おれ、負けるから嫌や」と遊びから外れる子がいる。
「せーの!」で潜りっこしても、負けそうになると誰かが「やーめた。」と輪を外れていってしまう。
「鬼ごっこしょうや」とはしゃぎだしても、鬼になった途端「お茶、飲んでくるわ。」と遊びを中断してしまう子がいる。
3人ともが、しょっちゅう「やーめた」とやるので、ちっとも一つの遊びが続かない。それでも特に喧嘩するでもなく仲良く遊んでいるのだが、なんだか見ているほうは一向に落ち着かない。
仲良しの友達と遊んでいても、自分がビリになりそうになったり鬼になったりすると、さっさと遊びを中断してリセットしてしまう。ほかの仲間もまたそんなふうに中途半端に遊びが途切れても、特に不平を言うわけでもない。
当たり前のように次の遊びを思いつく。

日常の些細な遊びの間ですら、自分が「敗者」とか「鬼」とかマイナーな立場に置かれるのが耐えられないのだろうか。
だからといって、一方的に遊びを抜けても誰もそのことを非難しない妙な暗黙のルールがあるようで、気持ち悪い。
昔だったら、鬼になった途端「やーめた!」なんていったら「鬼逃げ」とか「負け逃げ」とか言われて、総スカンを食ったような気がするのだが・・・。
こんな子どもの世界にすら、どこかで「白黒つけない」「突き詰めない」「痛い想いををする前にやめる」といった生ぬるい人間関係が、浸透している。

最近、中学の先生から伺ったのだが、今の子ども達には他人の気持ちを自分の置き換えて思いはかるということができない子が増えているのだそうだ。
友達の悪口をいった子を叱る。
「お前が同じことを言われたらどんな気がする?」「嫌だ。」
「じゃあ、○○くんはどんな気持ちだったと思う。」「嫌だったと思う」
そこまでは察することができても、「だから、悪口を言っちゃだめじゃないか」というところで、ぐいと心に突き刺さらない。「もし、自分だったら」という置き換えはできても、「だから○○君も」というところへの発展が苦手な子が増えているのだという。
いじめっ子の頬を打って、「○○君もこのくらい痛かったんだぞ!」というような叱り方が成り立たないのだそうだ。

先日、TVをみていたら大学生に戦争のときの悲惨な体験談を聞かせて、戦争の残酷さ、平和の大切さを共感させようという試みが行われていた。
広島の原爆を奇跡的に生き延びた老婦人の講演を聞き終わった学生の感想の中には、「話が現在の生活と隔たりすぎて、実感しづらい」とか「自分自身の問題として消化しきれない」という戸惑いを洩らすものがあったそうだ。
幼い子どもですら、夏休みに「火垂るの墓」をみて涙を流し、「戦争は嫌だ」と素直に感じるだろうに、大学生になっても、現在の自分とぜんぜん違う厳しい状況を生き抜いた老婦人の悲話に自分を重ねて共感ができないのはなぜなのだろうか。
ちなみにこの講義が行われたのは、広島の折鶴放火事件のあのK大学である。広島の悲劇を知識ではよく知っており、平和教育も十分に受けてきたであろう学生が、わざわざ彼の地へ足を運んでも折鶴にこめられた誰かの祈りの深さを思いはかることができなかったのもこんな環境があったせいかもしれない。

お互いに傷つくことを恐れて激し喧嘩はしない。親は子を厳しく叱らない。負けるゲームや苦手な競争には最初から参加しない。失敗しそうになったら、早々にリセットして最初からやり直す。
そういう突き詰めない、ソフトな環境ばかりを選んで渡り歩いていることが、今の子供たちの「思いはかる力」をどんどん削いでいってしまっているような危機感を感じる。
口当たりのいいファーストフードに慣らされた子ども達が歯ごたえのある硬い食べ物をなんとなく敬遠して噛む力を失っていくように、シビアな人間関係を消化しきれないやわな人格の大人がますます増えていくような気がする。

「おかあさん!あっちの端まで泳いできたよ!」
いつの間にか戻ってきたアプコが、私を現実に引き戻す。キラキラ輝くしずくが熱いコンクリートのプールサイドに水玉模様を描く。
プールの別の隅では、2年生くらいの男の子がクラスメートらしい女の子に熱心に背泳ぎを教えている。女の子は水面に仰向けに浮くことができなくて、何度やっても体をくの字に曲げてぶくぶくと沈んでしまう。
「体の力を抜いてね、もっとあごを引いて、おなかを上に出すんやで。」
男の子はありったけのボキャブラリーで、ふわりと浮き上がる感じを説明するのだがなかなかうまくいかない。
「体をまっすぐにして、腰を曲げたらあかんで。こうやってな。」
何度もお手本を示してみるのだが、女の子にはどうにもうまく伝わらない。
「あのな、あのな。う〜ん」と考え込んだ男の子、「そうや!棒の気持ちになってみぃ。まっすぐの木の棒になった気持ちで浮いてみて。」

棒の気持ち!なんと難しいことを!と噴出しそうになっていたら、女の子、大真面目な顔で、ぴんと腰を伸ばした。ザブンと体を水面に倒す。しこたま水を飲み、アップアップと沈んだけれど、それでも一瞬、体が浮いた。
「そうや、そうや、ちょっとだけ浮いたん、分かった?」
咳き込む彼女を、男の子が嬉しそうに褒めた。女の子も嬉しそうにこっくりした。
男の子と女の子と、そして木の棒の気持ち。
相手の気持ちを思いはかって、自分の気持ちとして置き換える。そんな難しい作業がここでは当たり前に何気なく完了している。
まだまだ子ども達は大丈夫。
人の心を思う力は、ちゃんと今の子供たちの中にも生きている。
初めて、仰向けにプールの水面にプカリと浮くことができたときのあの愉快な気持ち。それは私にも、男の子にも、女の子にも、そして多分木の棒にも共通の爽快感に違いない。

ちょうど今日の天気雨のように、明暗めまぐるしく心動かされながら水遊びの子らを眺める。
暑い暑い昼下がり。
蝉の声がひときわ騒がしかった。


2004年08月04日(水) 怒れる老人

「今日はみんなで出かけるぞ!」と号令がかかった。
朝ご飯を片付け、洗濯物を干し、身支度をして、おおっと、今日は資源ゴミの日だ。
おにぎりや飲み物を用意して、子供たちを急き立て、さあ出発かと思ったら、父さんが帰ってこない。

トラブル発生。
奥の一人暮らしのおじいさんTさんが、ゴミ置き場で怪我をしたという。
どうやら、お向かいのMさんとの諍いで、転んで手に傷を負ったらしい。
TさんとMさんは、昔から仲が悪い。その昔、土地の境界だかなんだかで諍いがあったらしく、今でも時々、トラブルがある。
Tさんはもう何年も一人暮らし。近所に息子さん夫婦がいるが家族との折り合いが悪いとかで同居の予定はなし。デイサービスやヘルパーさんに助けられて一人暮らしを続けておられるが、少しづつボケや妄想癖も出てきてそろそろ辛くなってきている。デイサービスのない日には日がな一日、ぼんやり近所を歩き回り、草花を眺めたり、ハイキング客としゃべりこんだりして暇をつぶす。
一方のMさんも一人暮らし。植木屋さんの腕を生かして、ご近所の庭仕事や簡単な大工仕事などを請け負っておられる。仕事を終えると、2頭の犬の待つ我が家へ帰る。「こいつら、ワシの顔見ると、『散歩行けぇ』とうるさいんや。」と毎日2頭を連れて近隣の山へ散歩に出かける。このあたりでは「ちょっと変人」で通っているけど、うちのゲンにとっては虫取りの師匠、気のいいおっちゃんだ。
二人とも、ま、ちょっと、変わった人たちではあるが、格段に悪い人というわけではない。

ゴミ置き場でTさんは、Mさんにこかされて怪我をしたという。
Mさんは、Tさんのそばにゴミ袋を投げたら、Tさんが勝手によろめいてこけたのだという。Tさんが昨日からずっとMさんの家を監視していたとMさんの方も怒っている。
どちらがどこまで本当なのかは分からない。
これまでにも、Tさんは資源ごみの日に生ゴミを出したり、違う種類のゴミが入っていたりして、何度も近所の人がTさんに注意をお願いしていた。
高齢のTさんには判断も難しくなってきているので、息子さんやヘルパーさんにも、ゴミの処理の手伝いを再三頼んである。それでもなかなかTさんのゴミ出しはなかなか改善されず、息子さんの方にもあまり改善の熱意は見られない。
そんなこんなで、ご近所では「困ったもんね。」という空気も流れていたことも確かではある。

TさんがMさんの家を監視しているという。
Mさんが軽トラを出そうとしたら、門の前に立ったまま邪魔をすることもあるという。
時には、垣根越しにMさんの犬たちに石を投げることもあるそうだ。。
Mさんは「あのくそジジイ!」と怒りで目をウルウルさせて訴えてこられる。
確かにTさんは昼間、暇に任せて日がな一日ご近所をうろつき、垣根越しによそのうちの植木の花を眺める。時には、植木だけでなく家の中を覗き込んでいるときもある。私自身、TVを見ながらごろごろしていて、立ち上がったら窓越しにTさんと目が合ってびっくりしたこともある。それを「監視している」と受け取られても仕方がないかも知れない。
また、年取ったTさんは動きもスローで、声をかけても反応がすごく遅い。
軽トラの進路を邪魔しているように思えるのももしかしたら、ただ反応が遅いだけなのかもしれない。
投石に関しては、残念ながら私も以前、TさんがMさんの敷地内に向かって小石を投げている現場を目撃したことがある。私が見ていたことに気づいてもTさんに悪びれる様子もなかった所を見ると、確信犯のようだ。

だからといって、とりあえずTさんは見た目も弱弱しく、息子にもあまり面倒を見てもらえない孤独な年寄りだ。元気に軽トラで仕事に出かけるMさんが、Tさんの行動にいちいち反応して癇をたてていても、分が悪い。
ましてや、吹けば跳ぶようなTさんが転んで怪我でもすれば、高齢者への暴力として訴えられかねない。
両方の事情が分かるだけに、近所の人たちもなんとも対応に困ってしまう。
何度か警察も入ってくれたが、Tさんの訴えを聞き、Mさんには「まあまあ、年寄りのことやから、大目にみてやれ」と諭すばかり。
Mさんの方でも、「誰も取り合ってくれない」という不満がたまっているようだ。

Tさんの怪我の手当てをし、父さんが近くに住む息子さんに出てきてもらうように電話する。幸い怪我は軽傷だが、状況はちゃんと説明しておかなければならない。
「ワシが息子に意見してやる!」と息巻くMさんをなだめて、「とりあえず仕事にいってらっしゃい」と送り出す。二人を会わせると話はもっとややこしくなる。
「それぞれのおうちの事情があるのも分かるけど、おじいちゃんの様子をもっと見てあげなくては・・・」
車でやってきた息子さんに、近所のおばさんも加わって事情を説明する。

上手に年をとるって難しいことだなぁと思う。
人に迷惑をかけず、周りから愛される年寄りになるということはホントに難しい。
体も弱り、格別することもなく、老いの日々を一人で暮らすTさんにとっては、日がな一日散歩することも、ヒョイと近所の家を覗くことも、仕方のないことかもしれない。
一見粗暴なように見えるMさんもまた、実は孤独な独居老人だ。
Mさんの振る舞いに腹が立っても、家の中で「コンチクショウ」と愚痴を言う相手は2頭の愛犬だけ。「また、きやがった!」とTさんの動きに敏感に反応するのもうなずける。

近頃ではMさんは、Tさんだけでなく、Tさんの息子さんに対しても激しい非難の言葉を吐くようになって来た。
「こんな年寄りは身内がちゃんと世話してやらにゃ、はた迷惑や!」
Mさんの言葉は全くそのとおり。
公的機関や近所のものがどんなに手を貸しても、一人暮らしの老人の孤独の本質にはなかなか触れられない。
そしてMさん自身、息子は独立して離れて暮らしており、あまり行き来はないようだ。近所の人もMさんの身寄りの人の姿は一度も見たことはない。
Mさんの激しい感情の吐露は、Tさんと同じように老いの孤独に由来するものなのではないだろうか。
そう思うと、「一人で老いる」ということは本当にやりきれない。


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