diary/column “mayuge の視点
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姉と妹

 マユゲの会社の同僚に、ミッコ姉さんという人がいる。

 彼女は、派遣でこの会社に来ているのだが、マユゲが今の職場に転属になったとき、そこですでに重要な役割を果たしていた。正社員の半端な奴よりもずっと強い責任感とプライドをもって、仕事に取り組む人なのだ。

 こういうと、すごくお堅い感じの女性をイメージするかと思うが、それが全然違う。見た目は、もろにコギャル。一年中真っ黒に日焼けしていて、すっごく目のやり場に困るような服を好む。しゃべり口調もとてもフランク。ていうか、周りの男性陣が少々おっかながるいくらい。さらに会社以外では、エアロビクスのインストラクターをやっているというから、もう!!!である。

 そんな彼女に対する尊敬と親しみの念から、同い歳であっても、マユゲは「姉さん」と呼んでいる。マユゲから頼む仕事も多いし、机を並べてPCの影でくだらない話をすることもある。最近では人生の相談をすることさえある。

 そのミッコ姉さんちの猫が、重い病気で危篤の状態にあるいう。いつもは気丈、というか男勝りの彼女が、今日はいつになく気を落としていた。心配である。飼っていた人なら分かると思うが、ペットって本当に「家族」だからね。忘れている人、もしくは気が付いていない人が多いと思うけど、ペットってかわいがられるために生きているんだよね。だからシゴトなんてしない。とにかくかわいがってもらうことこそが、彼らのシゴト。そこが人間と決定的に違うところ。

 だから、ミッコ姉さんには、今、猫ちゃんのそばにいてあげて欲しいと思う。仕事のことは俺たちに任せばいい。とにかくその子の存在をまっとうさせてあげて欲しい。

 そんなことがあって、マユゲにも切ない記憶が甦った……。

               ◇

 マユゲの実家にも昔、犬がいた。

 他人が見ると、ミニチュアダックスフントに見えるらしいのだが、それはそれはかわいい「妹」だった。小さなその子がうちにもらわれてきたのは、マユゲが小学校高学年の頃だったか。

 その日からマユゲ家は完全な「総 親バカ状態」。母親はいつも彼女と一緒に寝ていたし、父親も早く帰ってくるようになった。それこそ夫婦喧嘩も仲裁に入る妹のおかげで激減。月並みな表現を敢えて使えば、彼女は僕たち一家に「幸せ」というものをもたらしてくれた。

 夜遅く帰ってきて玄関の鍵をカチャっと鳴らしたとき、寝ていたはずの妹が短い足で廊下を懸命に走ってくる
チャカッ、チャカッ、チャカッっていう音。たとえ帰ってくるのがこんな奴でも、もの凄く喜んで尻尾をちぎれんばかりに振りまくり、おなか見せて寝転がって「おかえり」をしてくれる。こうなると、高校生になったマユゲでさえ、たまらなくなって気が付けば「赤ちゃんコトバ」。

 おーおー、ちょーかちょーか、ありがとねー。しょんなにうれしいかぁー。よーちよち。てな具合。

 無条件にかわいかったよね。のろけついでに言えば、彼女にはとってもノーブルな雰囲気があった。

 毎年、冬の寒さが峠を越え、日中あたたかな陽射しが差すようになる早春の季節。縁側に敷いた彼女専用の座布団に優雅に横たわった彼女は、時折おもむろに頭をもたげ、クンクンと何かを嗅いでいたっけ。それを見てマユゲは思ったものだ。彼女は春の匂いを嗅いでいるんだと。

 日本には四季というものがあり、その時々の独特な感じがある。そこに空気があるのを感じられるくらい暑く湿った空気の夏。独りもんのくせに、街や自然の色使いで何故か恋人たちの季節なんだと思ってしまう秋。家を出て駅まで向かうとき、空気が緊張していると感じる冬。そして、うららかな休みの午後1時、風に春の匂いを感じる春――。春の匂いってものを感じることができたのは、妹のおかげだったな。自然というものに、本当の意味で感動できたのは彼女と出会ってからだったな。世にいう情操教育ってこういうことなのね、なんて大人びたことを今になると思う。

 もう一度会いたいな。
 あの手のひらのプニプニした肉球、懐かしいな。

 そんな彼女も腎臓病を患い、6歳という若さにしてこの世を去った。最後は、入院していた麻布獣医大学から夜連絡が入り、両親とともに会いにいった。彼女は、インターンの学生も交じった数人の医師団に囲まれ、診察台の上で懸命に生きようとしていた。しかし、だんだん弱くなっていく鼓動が、心電図の波線に表れる。次第に、医師達が懸命に心臓マッサージを施して辛うじて脈を打つ状態に。

 父親が言う。

 「もう……、もう、結構です……」

 医師達が手を止めると、心電図の波線は、ゆっくりと直線に変わった――。当時高校生で、生意気やっていたマユゲも、そのときだけは大声で泣き崩れたのを今でも鮮明に覚えている。

 そこで叫んだ彼女の名前は、

 「ハッピー」。

 きっと医師達は複雑な心境で聞いたことだろう。

 マユゲのちょっと切ない思い出でした。

2000年08月29日(火)

STAY GOLD

 最近、ミレニアムも手伝ってか?、マユゲの大学時代の仲間が結婚ラッシュである。もう、そういう歳なのかもね。つくづく思う。

 昨年だったか。同期2番目に年貢を納めたカンちゃんの結婚式。新郎カンちゃんは、とっても素晴らしいスピーチをした。それを聞いてマユゲは思った。

 みんな見た目は全然変わらない。歳なんて全然とっちゃいない。バカやってたあのときのまんま。でもこの数年で、実はみなそれぞれがそれぞれなりの経験を積んだんだな。きっと死にたくなるくらい辛い思いもしたんだろう。深く自分を見つめたことだろう。もがきながら、自分なりの答えを少しずつ導いてきたんだろう。

 でなきゃ、あのスピーチはできない。半端な奴からは、あの言葉は出てきやしない。見た目とは裏腹に、みんな「大人」へのステップを確実にのぼっているんだ……。

 転職の知らせや、今の仕事に押しつぶされそうだという悲痛な声がメールで行き来する今日、この頃。くしくも、同期結婚第一号、二号の二人から、もがきつづける仲間たちに便りが届いた――。彼らなりの想い・悩み、そしてとても心のこもったメッセージ。

               ◇

(ウシバからみんなへ)

隆吾さんおめでとう。

それにしても、本当に最近おめでた続きですね。

おそらく行けると思いますが、なんせ異国の地(大阪だけど)にいるのもあって仕事の予定(ゴルフ接待がその時期多い)がわからなすぎます。
頑張って行くように努力します。

ところで、
最近皆様の悩みメールが多いようですが、どうなんでしょう。
私も神ちゃんの意見に近い所があります。

一つだけ皆さんに質問!!!
皆さんは、休みの次の日(休み無い人すみません)会社行くのがいやですか?
それとも楽しみでしょうがありませんか?
特に楽しみにしている人教えて下さい。(何で楽しみか)

ちなみに最近の私は一番いけないどちらでもないといった感じです。
なんか、ただ人生の波の上に乗っているだけです。
仕事も家庭もうまくいってると自分では思ってるのですが、刺激というか、どきどき感が無くなってます。
あのセーフティ(ラインバッカーよりセーフティ)をやっていた時のランニングバックが抜けて来た時のどきどき感(右か?左か?)はもう一生味わえないのでしょうか?
マラソンやってってもつまんないしね・・・
ちょっと神ちゃんとは違うかな・・・

               ◇

(カンちゃんから、ウシバそしてみんなへ)

牛場様、バッカスご一同様へ

牛場のメール読んでちょっと書こうと思いました。

 人生とは何ぞや

 僕は基本的に下のように考えています。ちょっとマトが外れているかも知れませんが、
悩んでいる仲間に少しでも参考になればと思い、恥ずかしながら書いてみます。

 僕は人間の人生というのは次の4本柱から成り立っているのだと思います。
大切なもの(ちょっと語弊があるかもしれませんが)の順に

 1.遊び(趣味とも言える。要は自分が本当に一番熱中できるもの)
 2.恋愛(結婚)
 3.仲間
 4.仕事

です。

 人間は所詮一人で生まれて一人で死んでゆく生き物です。寂しい言い方だけどそう思います。そんな人生をいかに自分の為に生きられるか、熱中して生きられるか、楽しんで生きられるか、その1点にテーマを絞るとすると、僕は一番大切なものは、心のそこから熱中できるものを見つけることだと思います。それさえやっていれば、他の全てを忘れて自分が生きている実感と喜びを味わえる、これさえあればもう何もいらない、そう思えるようなものに出会うということこれが人生の最も大切な1点と思っています。極端な言い方をすれば、つきあっている女性若しくは妻から「仕事と私のどっちをとるの?!」じゃないけど、「自分の熱中できるものと妻のどちらを選択するのか」と問われれば、はっきり言って『熱中』を取ります。だってそうでしょ、妻を選んで、自分の人生を捨てるなんてできないよ。まあ、これはだいぶ大げさな話しであって、両者を天秤にかけること自体が間違っているという点もあるんだけどね。でもまあこんなような気持ちもあって、非常に僅差で1位に『遊び』が来ている訳です。自分の場合のこれは、今はズバリ「42.195kmのフルマラソン」です。毎週末土曜日・日曜日とウィークデーの1日、これはもう必ず練習をします。充実感の固まりです。おかげでバッカス時代マックスで92kgあったウェイトも今では69kgだよ。「フルマラソン完走したら、人生変わるんだろうな・・・」なんて思いながら、青春をつっ走ってます。どうして個人競技か?どうして単調なマラソンなのか?と問われれば、それは単純であるからこそこれ以上自分の力だけに頼らなければならないものはないからです。だってそうでしょ。いっくら自分1人が駄目なラインマンだったとしても、いいQBとRBとWRとその他皆んなが実力のある選手ならば、自分の駄目な実力に関係なく、チームは勝ってしまうものな。己との戦い、そしてそれがタイムというあまりにも客観的な結果で判定が下る、そういうものにかけてみたい、そんな気持ちで選びました。人に迷惑もかけない、かけられもしない永遠の一人の戦いです。でもそんなに好きだったら、プロのトライアスリートになればいいじゃないかと誰かが言いそうです。でもそれじゃ×。走ることが義務になっちゃいかんのです。走ることで金なんてもらっちゃいかんです。自分の『人生の対価』に金なんていらん、いらん。喜びあればそれで十分!

 次に恋愛(結婚)。上のような強がりを言っておきながら、弱く、脆く、壊れ易いのがこれまた人間。僕も今の奥さんに大学の頃から、本当に助けられました。皆なも知っているとおり、僕はバッカスいち怪我の多い選手だったから、皆んなと一緒にアメフトできたのば、皆の1/3、いや1/4くらいだったかな。その時は正直つらかったよ。試合に参加して負けることだって出来ないんだから。負けて流す悔し涙はまだまし。その場に立てない、惨めさは自分一人で耐え抜くしかない。慶応病院に入院して、皆が見舞いに来てくれた時は、本当に嬉しかった。でもその反面、皆がうらめしくもあった。そんな時に助けてくれたのが、今の奥さん。いくら皆が気を許した仲間だからって、皆の前では言えないようなこともある。彼女にだけ言えることがある。彼女の前だけで泣けることがある。そういう意味では、一人きりで生きてはいけない人生で、彼女もしくは、妻は最大の理解者であって、最大の親友であることが必要だね。本当にそう思います。

 3番目に仲間。皆んなのこと。社会人になって早くも5年目。皆もそれぞれの人生をそれぞれに生きていて、色々と悩みを抱え、喜びを味わいこの4年とちょっと、生きてきたのだと思う。大学の頃とは人生観がかわった奴もいるだろうし、ずっとあの頃の真っ白なハートなままの奴もいるだろう。あたり前の話しだし、皆んなだって絶対そう思っていると思うけど、いつまでもあの頃のことを忘れずにいよう。こんなに気を許せる仲間をつくるってのは、なかなか難しいものな。でもここで注意を1点。俺もたまに思っちゃうんだけど「あの頃は良かったな・・・」は止めたほうがいいと思う。本当にいい思い出として、心から懐かしむいうものにしないといけないよね。『今』から逃げる意味での「あの頃は・・」はきっと良くない。皆んなそれぞれ成長してるんだ。少なくとも5年前よりは確実にそうであるはずだし、そうでなくちゃ絶対×。

 最後に仕事。今皆んな(本当に深刻に悩んでいる奴)が一番(かどうかは僕には分からないけれど)抱えていること。僕はなんで仕事を最後に持ってきているかというと、それは極めて単純。仕事は単に金儲けの手段としてしか考えていないから。少なくとも自分にとってはそうです。仕事はいくらでも選択肢があるし、『熱中』や『結婚』や『仲間』みたいに変えがきかないものじゃないものな。だってそうでしょ。僕はマラソン以外なんて見向きもしないし(本当のお遊びでやるんなら、野球だって、サッカーだってなんでもやるけど)、それ以外のことに本当に自分の力を注ぐなんてできない。今の奥さんだって自分には最愛の人間だし、皆んなのことだって誰とも交換なんてできない。そういう意味で、交換してもいいと思える仕事っていうのは、4本柱の最下位にくる訳。ガキみたいな例えだけど、みんな100億円の宝くじがあたったとして、仕事続ける?僕は間違いなく辞める。人生の仕事以外の3本柱がしっかりしてれば、仕事なんていらないもん。だからとって、自分で責任をもって選んだ仕事である以上、決していい加減な気持ちであたってはいけないと思う。やっぱり社会、会社は他の大勢の人間の支えがあって成り立っているのだし、何よりも金をもらって『プロ』としてやっている以上、自分の責任・仕事はしっかりとまっとうしなくちゃいけないのは最低限のルールです。そこに生きがいを感じるのか、感じないのかは個人の自由だし、誰にも強制なんてできない。ただ僕は仕事は「生きがい」にはなってません。生きがいであるならば、月曜日の朝に『仕事行きたくないなー」なんて思わないし。よく言われることだけど、「仕事があるから遊びや趣味が余計に面白くなるんだ」っていう考えがあるよね。一理あるけど、やっぱり人間は楽をはしたいものだものな。

 ちなみに法学部卒業の僕が、何故、大成建設というゼネコンを選んだのか。答えはいたって単純。(なんか5年前面接でこんなこと言ってたな・・・)

 1.バッカスでアメフトやって、ガードっていうポジションやらせてもらって、地味だけど、一番男らしいポジションだなって思ったから。つまり、自分は脚光を浴びるスター選手に決してなれなくても、皆んなを支える『縁の下の力持ち』、とことんまで皆んなを活かす職人であるって思ったから。ゼネコンにおいて、主役は当然、理系の技術系の工事担当の人間です。彼らの頑張りで1つ1つの建物は出来上がるのです。それを縁の下で支える僕ら文系の事務担当の人間もガードというポジション同様、決して華々しいものではないけれど、誇りをもつという意味では十分に魅力ある仕事であると思ったから。

 2.自分の知識が血となり肉となり、1つの建設物へと発展する工事の人間とその喜びの種類の違いはあれど、自分が携わった建設物という商品、作品が世界にたった一つしかないかけがえのないものとなり、しかもそれが50年、100年の長期のスパンで、世に残るという他にはない『男』の仕事であること。

 3.今の東京でもそうだけど、刻々と変わっていく風景をつくりあげている仕事だということ。(本当にたまに東京に帰ると、あまりの変化の早さにびっくりします。遅れないようにしないと)

 4.単純明快給料がいいこと。

 「生きがい」は感じずとも「一生懸命」頑張ってます。それでいいんだ。それ以上は望まないし、それ以下になってもいけない。望まなくても、いつか『生きがい』に変わる日が来るかもしれない。そのくらい気楽に構えてます。学生の時にアメフトか勉強と言われて、勉強なんてまるで無視して、アメフトとトレーニングに掛けたのが、社会人になっても、『熱中』と『仕事』を天秤にかけてマラソンをとってるような要は幼稚な人間と取られても仕方ないかも。

 なーんて、偉そうなことばっかり並べて僕って何様? でも、こう見えて結構寂しい思いもしたのも事実。最初から地方勤務と分かって仕事を決めたものの、大阪や名古屋のような大都市ならいざ知らず、新潟に3年半、金沢に1年、特に新潟の山の中の現場はつらかったよ。今となってはいい経験だけどね。バリバリの東京の四谷のシティボーイであるこの俺様が何で、人里離れたこんなとこで、明りがぜんぜん見えないこんな夜の風景の中、現場のプレハブ小屋で一人電卓たたいているときはホント涙出そうだったよ。でもおかげで強くなったよ。関東バッカス会からも関西バッカス会からも遠く離れ場所で4年半、皆はどんな人生を送っていたのでしょうか。俺は少しだけ強くなれたよ。

 たまに会ったときは、昔のように皆で大騒ぎして、大笑いしてお互いに満面の笑顔でいましょう。柳生のときはいけないけど、横山のときは出席できそうです。

 長ーくなってしまい、申し訳ないです。これを読んで誰か一人でも少しでも元気になってくれたら幸いです。牛場のメールを読んで1つ何か書いてみようかなと思って昼休みフルに使って書きました。

 それでは、また。

               ◇

 「俺は少しだけ強くなれたよ」

というカンちゃんの言葉に強く共感しました。

 でも俺たちの苦悩はまだまだ続くことだろう。マユゲだってそうです。「卒業」という世の流れに乗り、自分を見つめるという人生で最も大切な作業をいい加減にしてしまったツケが、他でもない自分に、今、その清算を迫ってきます。

 ヴァンサンカン? それは女の子が迎えるターニングポイントなんだろう。違う。25じゃ気がつかないこと。今、なんだよ。30歳へのカウントダウンが始まる、この27、28を迎えるときっていうのが、俺たちのターニングポイントなんだよ、きっと。

 考えよう。今、もう一度考えよう――。

 その上でやっぱりこの道だ、と思えばそれでいいじゃない。違うと思ったら、もう一度始めればいいじゃない。そんな贅沢な身勝手が許されるのは、今、この時代にこの歳を迎える世代の特権。

 なんだってできるよ。
 どうにだってなるよ。
 そこに「意志」さえあれば。

 責任は自分でとればいい。自分で言うのもなんだけど、あんとき俺たちイケてたじゃない。泥や汗にまみれていたけど、光っていたじゃない。

 みんな。俺たちフットボールチーム同期のメモリアルVTRのラストカット、そこで流れていた曲を覚えてるかい?

P.S. 牛場、神田。文面掲載への同意、ありがとう。

2000年08月28日(月)

*******mayugeの夏休み*******

 しばらく更新をサボっていましたが、再び気が向いたので書きます。というより、見せたいネタができたので、見て見て。この間更新していなかったのは、僕のなかのひとつの恋が終わったからだけではなく、単にいろいろと忙しかったということです。

 なんとわたくし、会社に入って5年目にして初めて、「長期休暇」というものをとっちゃいました。お得意がお盆休みとなるこの時期、実は前から狙ってたんだな。8月14〜18日、会社の夏休み3日間+有給2日で計5日間に前後土日を合せて、なんと9連休! すごいとこだよ、今までの生活を考えると。

 直前まで本当に休みが取れるかどうか、ヒヤヒヤの状態だったもんだから、結構ギリギリまでエアのチケットを取るのをためらっていたんだが、今回計画している一人旅には飛行機がなきゃ始まらない……。ええーい、もうダメもと、キャンセル覚悟で、バッカスの同期でJTBに勤めているサトちんに手配を依頼。

 しかし、この時季は、やはりトップシーズン、案の定チケットはすんなり取れる訳なし。サトちんから条件確認の連絡が入る。格安チケットではもうどうにもいかない、という状況らしい。レギュラー値段でもいいから、なんとかして目的地であるマレーシアに入国する方法を考えてくれと再度頼むと、「よーし、分かった。お前がそこまで考えてるんなら何とかしてやる。」と、奴にしては珍しくカッコいいことを言う。そしてどんな手を使ったのかは分からんが、行きはシンガポール経由トランジット9h、帰りはセブ経由トランジット14hという無理矢理の便をゲットしてくれた。忙しいシーズンに手を煩わせてしまってスマン。これでなんとかなりそうだ。これが出発の3日前のこと。

 これでマユゲのマレーシア入国計画は現実のものとなった。前後の土曜日にはリベンジャーズの練習があり、今シーズンは何としても出れるだけ出たいので、日曜から金曜までの6日間。よっしゃー、行ってくるでー!

 「そんなにしてまで行くマレーシアには、何があんの?」とサトちんにも聞かれたが、ひとことで言うと、「山がある」んです。マレーシアの中でもボルネオ島の北東部にある「キナバル山」という山。聞いたことないでしょ? マユゲ自身も全然知りませんでした。山登りなんてもともと全く興味ないし。

 思考の流れとしては、「今年はどうしても長期休暇をとって旅をするぞ」→「休めるとしたら、お盆のワンチャンスだな」→「はて何処行こうか?」→「一足先に休みをとった、一緒に仕事をしているお得意の話によると、マレーシアのランカウイ島というところはメチャメチャよかったらしい。」→「うーん、リゾートかぁー。いいッスねぇ。」→「本屋行ってガイドブック見てみよう」→ペラペラ……「ん?」→「なんだこのすげー景色は!」→「フムフム、キナバル山って言うんだ。標高4,101mか。どうりで綺麗な雲海な訳だ。フムフム」→「って、何ぃー、4,101mだぁ!?」→「でも行くでしょ、これは」。

 要は、写真一発でやられてしまったわけである。茫洋と何かを求めていた今のマユゲにちょうどハマった、というだけのことなんだろうが。そんなことで上記のようにサトちんに無理を言ったというわけ。実は、約1月前に突然富士山に登ったのも、この「山」に登るための準備の一環だったんです。

 というわけで、少々前置きが長くなりましたが、今回の旅の模様を紹介したいと思います。海外旅行なので、タイトルもそんな気分を出してみました。

 ただ断っておきますが、これはあくまで自己満足の記録です。だから、うだうだ長いです。どうでもいいことを超詳細にレポートしていたりします。それを見て笑ってもらえれば、コレ、幸い。

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2000年08月13日(日)

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