2015年10月26日(月) |
2012〜13年にあったこと(1) |
お久しぶりです。
……と言っても誰も読んでない可能性の方が高い(苦笑)
最終更新日が2011/9/19なので約4年ぶりの登場です。(Twitterにはたまに出没してますが)
我が家はダンナもわんこもそして私も年齢を重ねてあちこちガタが出つつも、それなりに元気に罵り合いながら(おい)仲良くやってます。
でもこの4年、残念ながら全く何もなかったわけではありませんでした。
2012年3月某日
先月携帯の調子が悪くなって修理に出したり、ノートPCが壊れて買い換えたりと出費がかさんでいた所にコンポまで壊れるという負のスパイラルでげんなりしていた所に母さんから電話。
持病の為、あちこちの骨がもろくなって手術を繰り返している母さん。今度は右足首の手術を決断した模様。
2012年4月某日
母さんの手術、5/28(月)に決定。術前の連休にダンナやわんこを連れて帰省するか、術前術後に私一人で帰省する方どっちがいい?と聞くと「入院に必要なものを事前に買いに行きたいから連休中にきて欲しいな」と言われ航空券を手配。
2012年4/29〜5/4 娘一家帰省
地元空港に父さんが迎えにきてくれる。相変わらず元気そうだけど、少し口臭がするかも。また飲みすぎなのか?(苦笑)母さんは手術前の右足首が痛いようだけれど色々な工夫をして家の中では必要最低限の活動はできるみたい。(外での移動は車椅子)
父さん、朝は顔が凄くむくんでいる。大抵昼過ぎにはマシになるけど…。しかもここ最近便秘気味の様子。「下剤飲んでもきかねーなー」と言ってる。去年、腸の具合が悪くて2週間ほど入院したことがあったから(父さんは10数年ほど前に大腸がんで腸を切除する手術をしています)、もしや同じ症状なのかなと思いつつ連休終了の為、娘一家は帰宅。
この後、父さんはどんどんお腹が出てきて「元々太ってるのに酷いことになってきた」という状態に(苦笑)さらに「何だか最近息苦しくて、仕事で階段上るのが辛いんだよなぁ」と。
結局母さんの入院前に父さんも入院することになりました。「去年のことを考えると父さんは2週間くらいで退院できると思うから(傷の治りが悪い母さんは未定だ・笑)父さんの退院まででいいから帰ってきてくれないかい?」との要請で、急遽私一人でまた帰省することに。
2012/5/25
前日に帰省していた私はこの日の朝、母さんを入院させたりとバタバタ過ごしていました。麻酔科の担当医に手術時の説明を受けていた所、父さんから「病状の説明があるから呼吸器科にきてくれ」とメールが。「……内科に入院してるのに呼吸器科???」と思いつつ母さんを病棟へ送り急いで向かうと…
外来の診察室で肺のレントゲン写真や色々な検査結果の数値を淡々と説明され、ごく普通の口調で「肺癌のステージ4(所謂「末期癌」)です」と宣告されました。
ちなみに説明を受けたのは私と母の兄のトシオ伯父さん、そして父さん本人(苦笑)。 最近は本人にズバッと告知するんだなぁ…と思いながら父さんとトシオ伯父さんの顔をちらりと見ると2人とも呆然としてました。そりゃそうか。私だって…と思いつつ、ここは娘がしっかりせねばと、これ以降の説明&質問などは主治医と私の2人で進め、終了。 とりあえず来週は脳と骨を検査して転移がなければ肺にある癌細胞への化学療法(抗がん剤)を始めることに(完治はできないので現状維持をする為)。ちなみに癌細胞を調べた結果、裁判沙汰で有名になった「イレッサ」は父さんの癌には効かないことが判明。遺伝子の型が合えば他の抗がん剤よりも効き目がいいらしいから残念…。
ということを母さんに説明すると本当に驚いた顔をした後、「……とりあえず自分の手術は予定通りやって少しでも早く動けるように頑張るよ」と言ってました。さすがにこの日の夜は父さんも母さんも私も色々考えてあまり眠れず(と次の日お互いに言い合っていた)。
2012/5/28
母さん手術の日。私は朝早い時間から病院へ。トシオ伯父夫妻にユウゾウ伯父、テツオ伯父の妻ミエコ伯母(伯父本人は仕事と…ある理由の為(後述)平日はここの病院にあまりきません)カツコ伯母夫妻など続々と母さん方の親戚達が集まりました。母さんの手術日恒例の近隣親戚大集合(苦笑)
同室の入院患者さん達に(いつも大抵4人部屋です)お昼ごはんが配膳される中、「行きましょうか」と看護師さんが2人やってきました。ベッドからストレッチャーにうつりガラガラと運ばれていく母さんにぞろぞろついていく私達。いつも思うがブレーメンの音楽隊のようだ…。
母さんが入院している7階の病棟から2階の手術室へ。「頑張ってね」「うん」と手術室へ吸い込まれるように消えていく母さんを見送るのも、もう何度目かわからないけれど毎回切ない気持ちになります。「問題なく帰ってこれますように」と。入院や術前術後の準備をてきぱきとこなせるようになってもこればかりはいつまでたっても慣れない。
などとひたってる間もなく、私には「母さんが無事に(手術室から)出てくるまで、親戚の相手をすること」という重大な使命が。これが凄く大変なのですよ……………。
(親戚接待は省略・笑)
母さんの手術は無事終わり、5時すぎに病室に戻ってきました。全身麻酔で朦朧としている母さんの顔を見届けた親戚達が帰宅した後も私は残ってあれこれ動いていましたが、麻酔が覚め始めて暫くたった頃「今回の術後は凄く楽だよ〜。だからそろそろ帰っても大丈夫だよ」と言われて8時ごろ帰宅。
と書くとあっさりしていますが、車のアクセルを踏むのも嫌なくらい疲れていました。夜ご飯も食べず、お風呂に入って就寝。明日も「術後母さん」の世話をする為早く病院に行かねばーーーー。
2012/5/29
術後なのでいつもより早めに病院へ行くと、げんなりした顔の母さんが。「…あんたが帰った後から具合が悪くなって大変だった…。今までで一番大変だったよ…」と。あららら…。でも一番酷い状態は脱した模様。尿の管も取れて、車椅子に乗ってトイレに行ったりしているようです。 父さんは心臓や肺の周りに溜まった水(体液)を抜いたら、お腹まわりに溜まっていた水も一気に抜けたようで夜中に何度もトイレに行って(尿として排出されたようだ)大変だったーと笑ってました。体重も減ったし浮腫みもなくなって本人曰く「すっきりした元々のいい男」に戻ったらしい(苦笑)
2012/5/31
父さん、脳と骨に転移はなかった模様。一安心……。というわけで、肺にある癌への抗がん剤を始めることに決定。糖尿食であまり美味しくないご飯を食べている母さん、毎日「漬物を持ってきて」とかリクエストが多い(苦笑)糖尿食の意味がないじゃないか…。ちなみに父さんも糖尿食だったんだけど、前回の入院で「普通食、但しご飯類は3分の1カット」に変更してもらったからあまり食事に対して文句は言っていない(笑)2人ともそれほど酷い症状じゃないから、おやつとか持っていっても平気だしねぇ。
(今回は編集上過去記事に続きがあります。目次から飛んで下さい)
2015年10月25日(日) |
2012〜13年にあったこと(2) |
2012/6/2
朝、実家で掃除や洗濯をしていると父さんから「今日から日曜の夕方まで一時帰宅できることになりました。」とメールが着信。まぁ、まだ抗がん剤も始まってないし調子もいいからねぇ。私は疲れることになりそうだけどな…。 お昼、母さんの病室でご飯を食べていると私服に着替えた父さん(帰る気満々)が登場。父さんの病室は3階、母さんは7階、食事は下の階から配られるのでお昼ご飯を自分の病室で食べてから着替えてすぐに母さんのところにやってきたみたい。ここの階は食事を配膳されたばかりだったから、暫くデイルームで待っててもらって父さんを連れて実家へ。久しぶりに自宅へ戻れた父さんは病人だとは思えないくらいドタバタと活動(苦笑)
2012/6/3
父さんにご飯を食べさせたり、病院へ行ったり、買い物に行ったりと動き回った後、特急で帰省してきた弟を駅へ迎えに。さすがに弟も自分の父親が末期癌だと知ったら心配で様子を見に来た……けど、いつもと変わらず動き回り、酒を飲んでいる父さんを見て拍子抜けしていた(笑)
2012/6/5
父さん、抗がん剤開始。3種類の点滴を半日ほどかけて投与。母さんは元気だけれど、傷の回復が悪く(持病の為長年ステロイドを飲んでいるから)整形外科の医師達があれこれと試行錯誤している。そんなわけで本格的なリハビリを始まられず…。
2012/6/9
今週末も父さんまた一時帰宅(苦笑)抗がん剤が始まってるのに酒を飲もうとするから大喧嘩(というか一方的に娘が怒っている)まったくもうー。
2012/6/15
抗がん剤の影響で白血球の数値が少しだけ落ちている父さん、今週末も生活には影響がないということで一時帰宅。「俺は嫌いなものがないぞ」とか言いつつ家族の中で一番好き嫌いがあるから食事の支度が面倒くさいんだー! 母さんはやっと軽いリハビリが始まって筋肉痛で苦しんでいる(笑)
2012/6/23
数値が良好なので父さん退院。私は明日関西の自宅へ帰ることに。犬と戌年のおっさんが首を長くして私の帰宅を待っている…(笑)
※今振り返るとこの時期が精神的には一番きつかったです。父さんが末期癌→どう考えてもあと少ししか「父さんが生きている時間」はない。こんなに(はた迷惑なほど・笑)元気なのに…となかなか病気を受け入れられませんでした。父さんが母さんの車椅子(2人とも病院の寝巻き姿)を押しているのを荷物を持って後ろからついていきながら「この姿を見られるのは今回で最後なのかな」と思ったりしていました。実はこの時、母さんの術後の傷の状態が悪く、皮膚移植の話も出たりしていたので娘はさらに追い詰められていた(苦笑)
肌寒い北海道から蒸し暑い関西の自宅へ戻った後はいつもの生活が待っていました。 自宅にいる父さんは仕事(警備員のパートや細々続けている自営業)に復帰しながら通院&母さんの面会をドタバタとこなしているようです。元気。
2012/7/6
抗がん剤の副作用で白血球の数値が下がっている父さん、本当は入院しなければいけないのに春から予約を入れていた遠方(実家から100キロ以上離れてる海)での船釣りに行くと言ってごねまくり。「感染症にかかったら大変なことになります」と主治医に言われても聞きやしない(苦笑)入院中の母さんが何度も呼ばれて説得を頼まれたらしい……が、「頑固者スイッチ」が入った父さんは誰の言うことも聞かないということを家族は嫌になるほど知っているし「…もしかしたら船釣りに行けるのも最後かもしれないからね…」と「何があっても自分の責任だ」的な誓約書にサインして出かけさせた(笑)ちなみに久々に仲間達と行く釣りは大変楽しかったみたいで、帰ってきて片付けも早々に病院へ行って血液検査をしたら数値がよくなっていたらしい(驚)当然呼吸器科では「命を顧みず釣りに出かけたおっさん」とばっちり覚えられる羽目に(笑)
2012/8/11〜13
広島県某田舎のダンナ実家へ帰省。私の両親よりもずっと年上の義両親は相変わらず元気だ。今回の大ニュースは義兄が離婚していたこと。バツ2になっていました(苦笑)義実家の隣町に住む義姉夫婦仲も雲行きが怪しいし…。さすがに義両親が少し気の毒。
2012/9/1
母さん退院。今回の入院日数は丁度100日だったらしい。長い(苦笑)。でもまだあまり歩けないから、通院は車椅子を使っているようだ。これから厳しい冬がやってくるし、春までに少しでも歩けるようになるといいけれど。 父さんは今まで投与されていた抗がん剤が効いていないので、別の種類のに変えることに。警備の仕事に行ってるけど、最近は疲れが残るようになってきて少ししんどそう。
2012/9/20
今日は楽しい給料日………なはずが、珍しく早い時間に(と言っても午後10時頃だが)帰ってきたダンナ、開口一番「10月1日付けで滋賀の部署に配属されることになった」 …………はい!? 我が家からは通勤できない距離なので、当然の流れで単身赴任という形に。確認するが今日は「9月20日」。異動日は「10月1日」……あと約10日でこのおっさんを一人暮らしさせる引越し準備をしろと!?
ここから暫く慌しい日々。でも若い頃「引越し魔」だった私は、文句を言いつつも10数年ぶりの引越し作業が楽しかったのかも……。
2012/11
単身赴任生活になって約1ヵ月。ダンナは金曜の深夜に自宅へ帰ってきて、日曜の夜(色々食べ物を持って)滋賀の部屋へ戻っていきます。「毎週末帰ってこなくていい!!(その方が金銭的&精神的にも楽だから)」と言いたいものの本人には言えず(苦笑) この頃、父さん体力がもたなくなって大好きだった警備員の仕事を辞めました。
2012/12/中〜
父さん、また心臓や肺の周りに水が溜まって状態がよくないので入院。でも、本人は「少しでも動いたり歩いたりすると凄く息苦しくて動けなくなるけど、それだけだから。」と色んな管や点滴をぶらさげながら言っている。げっそり痩せてもいないし(食欲はあるけど胃が圧迫されていて一度に食べる量が少ないから、ちまちま食べている)、相変わらず声が大きい(苦笑)でもこの時点で家族には「余命3ヶ月」との宣告が。私もダンナも弟も「とりあえず」な喪服は持っていたものの、年齢的にそして「これからやらなければいけない」立場的にもきちんとしたものを、と慌てて買いに走る(笑)世間はクリスマスで浮かれてる時期なのに…と思いながら漆黒の服を選んでいました。
2012/12/19
父さん72歳の誕生日。おめでとうメールを送ると 「何にもできなくなってしまいましたが、これからの人生を楽しく生きていきたいと思います」という内容の返信。
2012/12/23
「今日は天皇誕生日なのでお昼ご飯が豪華でした。」と父さんからメール。次の日もクリスマスイブなので夜ご飯に鶏肉が出たり、小さなケーキがついたりと季節感満載で喜んでいました。実家で頼んでいたクリスマスケーキをデイルームで父さん、母さん、トシオ伯父夫婦で食べていたみたいです。母さんは随分歩けるようになってきて、外では「押し車」を使いながら移動できるようになりました。もちろん短距離だけど。
2012/12/28
父さん一時帰宅。曰く「年末年始はどうしようもない容態の人以外は帰されるんだ」と。………いや「何かあったらすぐ連絡して下さいね」と言われる程度にはよろしくない容態なんだが(苦笑)
2015年10月24日(土) |
2012〜13年にあったこと(3) |
2013年正月
最後の正月になるかもしれないから、父さんと母さんの写真を撮っておいて、と帰省してる弟にお願いしたら(ついでに某ホテルのおせちの画像も・笑)すぐネットに画像を上げてくれた(便利) どれどれと見てみると、おせちを前にご満悦の父さんはやっぱり顔がむくんでる…。心臓や肺の周りに水が溜まっているから呼吸状態もよくなく、少し動いただけで息苦しそうにしているらしい。 ある日地元では雪が降り雪かきをしなければいけない事態に。父さんはもちろん身体障害者の母さんもできるわけがなく、弟がせっせと雪かきをしていると、大雑把なやり方が気になったのか、父さんが手伝おうと外に出たらしい。
「何してるの?動いたらまずいのに出てきたら駄目でしょ」と息子に怒られた、と後日父さんは嬉しそうに語っていました。(弟は大人しい性格なので父さんに口答えとか一切したことがないから余計に嬉しかったみたいだ)
父さんの容態が気になったテツオ伯父(医者)が電話をかけてきて父さんと話した後、母さんが「こんな呼吸状態なのになんで入院させないんだ」と怒られたらしい(苦笑)本人が正月明けまで家にいるとゴネてるんですもの…。 そう言いつつも相当苦しかったようで、病院の診察開始日に行くと決めたようだ。
2013/1/7
というわけで、父さんまた入院。今回は今までで一番状態が悪かったみたいで、色々管に繋がれたらしく暫くベッドから動けない生活に突入。
我が家周辺では次々と外壁塗装工事が始まって賑やか。ダンナは(単身赴任先で)私の車で通勤してるので、私はダンナのでかい車を乗り回しているから工事の車が路上駐車してると通りにくくて不便(苦笑)
2013/1月中旬
父さんの具合も一進一退。いつ地元に呼ばれるかわからないから落ち着かない日々。 そんな中、玄関先に停めていた母さんの車にスリップした車が突っ込むという事故が。ちょうど父さんの車と母さんの車を売って2人で1台にしようと探し回っていた矢先だったから運がいいのか、悪いのか(苦笑)
2013/2月
実家の車、やっと次に買う車が決定して納車日も決まり一安心。(納車の日はたまたま父さんも外出できて、新しい車を見て喜んでいた模様) 父さん、水が溜まりにくくなる処置をして容態が安定してきたから、新たな抗がん剤開始。我が家は相変わらずダンナが毎週末帰ってきて落ち着かなかった。
2013/3月
中旬、父さん退院。随分元気なようであちこち出歩いてるようだ。一時はどうなることかと思ったけど、まだ暫く大丈夫そうだな…と少し気を緩められました。
2013/4/13
が、私の平和は長く続かない(苦笑)
慣れない環境、仕事内容などで疲れてしまったダンナ、睡眠障害を起こしてしまい心療内科へ通うことに(実は数年前にも軽い鬱病になったことがある) 上司にすぐ報告したところ………
2013/4/17
あっという間に来週からこっちに戻ってくることに決定。(とりあえず所属は滋賀のまま、こっちが忙しいから応援にくるという名目にしたようだ) 我が家がこんな状態の時、地元では数年ほぼ寝たきり状態だったユウゾウ伯父の奥さんが亡くなったと連絡が。86歳…だったかな。伯父達は手伝いなどでバタバタ忙しいようだ。
2013/4/22
最近頭痛がすると言っていた父さん、癌が脳に転移していることが発覚。 ついにきたか、という感じだけど本人は予想よりも落ち込んではいない(苦笑)頭に放射線を当てる時、顔を保護するマスク(お面)を作るのを「イケメンを作るんだ」とか言っている。 …さすがに母さんは脳転移にショックを受けていました。
※確かこのころ「癌はステージ10くらいまであるのか?」と素敵発言をしていた父さん。父さんらしいねーと笑いつつ、あまり詳しいことは知らない方がいいかもしれないね、と母さんと密談。
2013/4/28〜/30
ダンナ実家へ帰省。 あまり言いたくなかったけど、そろそろ報告しておかないとまずいだろうと父さんの病気をさらっと説明。「だから次、いつ帰ってこれるかわからないし、私はしばらく自分の実家にかかりっきりになります」というのを暗に匂わせたつもり(笑)
2013/5/1〜/3
滋賀のダンナ部屋を掃除したりするついでに名古屋にきしめんや味噌カツを食べに行く(笑)
連休明けから父さんの放射線治療がスタート。しばらくすると髪の毛も全部抜けてしまったようだ。そしてこの頃から副作用なのか、病気の症状からなのか、何でもバクバク食べて太っていた父さんの食欲は少しずつ落ちていきます。
2013/6〜7
食欲が落ちる→体重も落ちる→体力も落ちて動くことが少なくなってくる→動かないからお腹も減らない→(無限ループ) すっかり病人生活になってしまった父さん。思うように動けないストレスに加え頭痛も常にあるようで、母さんに辛く当たったり文句ばかりを言ってる様子。色んな辛さから逃れる為、昼間から酒を飲んだりしてる父さんを見て母さんもイライラしつつ、病気だし…と自分に言い聞かせてる。
そして去年無理やり参加した遠方での船釣りに父さんはまた行った(笑)ええ、抗がん剤の治療を調整して。
2013/8/11〜18
ダンナ&わんこと帰省。 空港には前日に帰省してる弟だけが迎えにきてくれればいいと言ってるのに「俺も行く」とごねる父さん(苦笑)不特定多数がいる場所で万が一何らかの菌を拾ったら大変だから、と言っても聞く耳を持たず。結局好きにしろ、と迎えにきてもらうことに(母さんは実家で留守番)
到着ロビーで待っていた弟の横に見知らぬ人が……いや、父さんだ……。 帽子とマスクをしていたとは言え、本気で自分の父親のことがわかりませんでした。
(すっかり痩せちゃったなぁ………。無駄に威圧感のある人だったのに(笑)もうそんなのどこにもないよ。)
1週間ほど実家に滞在しましたが、ビールを飲んでご飯をもりもり食べた後アイスを3個ぺろりと食べたりしていた父さんの面影は全くなく、お昼にラーメンを半人前食べた時に、母さんが「凄く沢山食べられたね。娘が作ってくれたやつだからかな」と嬉しそうに言ってました。 次帰省するのは…………できたらまだ少し先がいいな…。
2015年10月23日(金) |
2012〜13年にあったこと(4) |
2013/10月中旬
「突然歩けなくなりました(涙)」と母さんからメール。何事かと電話してみると、右の足裏が地面に少しでも触れると激痛が走ると(汗)今までの関節系の症状とは明らかに違う痛みらしく大変そう。もちろん父さんの具合はよくないし、実家がとんでもないことになってきた…。帰ってあげたい……けど、今後のことを考えると……(苦悩)
2013/11/15
母さんあの後色々あって(足の主治医がすっとこどっこいで担当医変更してもらったりとか・苦笑)手術も決まり入院。1週間から10日くらいで退院できるよ、と言われたものの…傷の治りが悪い母さんだしな、と娘懐疑的。
2013/11/18
母さん手術日。 父さんは体力も落ちてるし感染症も心配なので自宅待機。トシオ伯父夫妻、ミエコ伯母が立ち会ってくれた。手術は予定時間を大幅に過ぎて終了。なぜ時間がかかったかと言うと、麻酔がなかなか効かなかったから(苦笑) 待ってる人間達は気をもんだけど。特に父さんは無事終わったと時間が過ぎても連絡がこなくて心配した挙句あちこちに電話をかけ、自宅の電話の設定をおかしな風に変えてしまい、伯母達からの電話を着信拒否設定にしてしまっていた(笑)
2013/11中旬〜下旬
母さんが入院中、父さんがお見舞いにきてもヨタヨタフラフラしていて、同室の患者さんや病棟の看護師さん達にも「大丈夫なの?」と凄く心配されていたらしい。母さんも見ていて辛いから「こなくていいよ」と言っても最初のころは毎日きてた、と。でも、その後は家から出ずに(出られずに、かな)母さんの退院を待っていたみたいです。(当然娘は心配で頻繁に電話をしたりメールをしたりしていましたが……。)
さてその頃の私は。 父さんの具合がかなりまずい状態になってきているのをひしひしと感じていたので、いつでも帰省できるようにしていました。
が。 たちの悪い風邪をダンナにうつされ、かかりつけ医に「肺炎になってるかも」とあれこれ検査されるくらい酷い気管支炎に苦しむ羽目に(涙) こんな状態で帰省したら、私が父さんにまずい感染症をうつしてしまうー…。げほげほごほがほ。
2013/12/2
父さん入院。入院したくないとゴネてゴネて先週の金曜日、病院で母さんと大喧嘩しかけていたけれど(遠い目)トシオ伯父夫妻が実家へ父さんを迎えに行ってくれて、(病院についた後は)もうほとんど歩けない状態だったから車椅子に乗せて入院させてくれたようだ。 病室に入った後、母さん(当然歩けないので車椅子)が様子を見に行くとお気に入りのシャツにスラックスの姿でベッドに腰掛けていたから「早く(患者用のパジャマに)着替えないと」と急かすと「(手に力が入らなくて)シャツのボタンがはずせないし、立ち上がれないから着替えるの手伝ってくれないか」…と。気力・体力の限界だったんだね…。
12/4
「父さん、オムツになりました」と母さんからメール。予想以上に衰弱が早い…。私の気管支炎が治るのはもう待てないので週末帰省することを勝手に決定。(相変わらず一日中たちの悪い咳をしてる状態)
凄い勢いで荷造り(ダンボール3箱分。……ダンナと私の喪服(涙)一式込)をしたり、あれこれ準備。ダンナの仕事が忙しいのでお犬様は私が連れて実家で面倒をみることになりました。
12/5
入院中だった母さんの姉(私には伯母)が死去。と言っても88歳だったので大往生かな。「おばちゃん」と言いつつ「おばあちゃん」くらい歳の離れた伯母さんでしたが、子供の頃から随分可愛がってもらいました。 ……だがしかし、父さんや母さんのことで頭が一杯だ(汗)
12/7
移動日。
当然私の具合はまだ全然駄目な状態なので処方された薬で色々無理やり抑えつつ、ふらふらしながら飛行機乗り継ぎ。(機内では毛布3枚使って蓑虫状態になりながら寝ていました)地元空港には昨日の夜遅く帰省していた弟が迎えにきてくれた。ありがとう、凄く助かるよ。
実家に犬を置いてから、すぐ病院へ。父さんの病室は詰め所の目の前に位置する「重篤患者の部屋」。子供達が帰ってくるのを楽しみに待っていたようですが、自力では起き上がれない状態で、夏に帰省した時よりもさらに痩せこけ話し声もか細くて聞き取りにくく、「ああ、本当に父さんはもうすぐ死んでしまうんだ」というのを実感できる姿でした。 覚悟はしていましたが、あの姿を見るのは凄く辛かったです。
12/8
「次は2週間後に3連休あるからその時に帰ってくるね」と父さんに声をかけて弟は帰宅。 父さんは顔色がいいけれど、ぼんやりしている。薬(痛み止めの麻薬)が効いてるみたい。
12/9
数日前亡くなった伯母は晩年娘が住んでいる街に引っ越し(私の地元からは120キロほどの距離)葬儀はそこの街で執り行われたので、伯父伯母達は数日そちらに行っていました。 実は仙台に住んでいる母さんの妹のセツコ叔母夫妻も今回きていて、伯母の葬儀が終わった後、父さんと母さんのお見舞いにきてくれました。 叔母夫妻が父さんに話しかけてる最中、起き上がれないからベッドに横たわったままの父さんがぽつりと呟いた言葉が
「俺の釣ったアブラコ(魚の名前)、食べさせてやりたかったな」
叔父も叔母も、その言葉を自分の病室で聞いた母さんも泣いていました。セツコ叔母と「今度は楽しいことの時に会いたいね」と言い合ってお別れ。
12/10
この日、地元は暴風雨。この時期の雨は路面が凍結して危なくなるからやめてくれーと思いつつ大荷物で病院へ。 右手にバスタオルやタオルケットが入った大きいバッグ、左手は父さんの紙オムツのパック(寝たきりになったので種類を変えることになり買ってきた)などを持ち、車から降りて歩き始めたら風に煽られて吹っ飛びそうになった(苦笑)
父さん母さんの看病をしながら、色々なこともしていました。 確実に近づいてきている父さんの葬儀をどのようにするか。葬儀を執り行うために必要なお金のこと。多額のお金を引き出すための準備。 そして父さんの釣り仲間や仲のいい近所の人がお歳暮を持ってきてくれたりしたのでそれらの対応など。 さらに、自宅から実家へ連れてこられ長時間の留守番をしているわんこがすっかり「暴れ犬」になってしまい私の疲れも倍増(苦笑)
12/12
父さん、ずっと寝ている。それはそれはもう、いびきをかきながらぐっすりと。母さんが単独で会いに行った時は起きていたようだけど。
12/13
痰が絡み始めて苦しそうな父さん。痰を切るのが得意だったのに(…変な特技だが)。もう自力で痰を吐くこともできなくなってきたようなので(痰の)吸引をお願いしたんだけど、一回目(喉から)だけでは取りきれなくて二回目(鼻から)をやった後、余程苦しく痛かったのかここ最近では一番大きな声ではっきりと「もうたくさんだ!」と涙ながらに怒っていました。でもね、痰がつまって呼吸困難になったら…もっと苦しいからさ…。(そしてこの日は雪が凄い勢いで降っていて、帰る時病院の平面駐車場に停めていた車を動かせるようになるまでかなり時間がかかった…。疲れてるのにー)
12/15
日曜だからかお見舞い客が多かった日。テツオ伯父夫妻、トシオ伯父夫妻とその娘の(私には従姉)ミドリお姉ちゃん。父さんの釣り仲間のフジイさん。父さんはたまに目を開けるものの、ほとんど寝てる状態。
12/17
父さんにモニター(ドラマとかでよくあるアレ)がついた。これで詰め所に父さんの容態がすぐわかる状態になったから安心……だけど、いよいよ近付いてきたかとも。父さんの病室にいる時はできるだけ明るく母さんと話していたけれど(父さん本人は寝ているからわからないのに)母さんの病室に戻ってくるとお互い暗い顔をしていたなぁ…。
12/18
父さん、酸素チューブも装着。ついにフル装備(苦笑) そして主治医と面談。余命は1ヵ月。それは覚悟してたからいいとして、「この状態が長引くようだったら転院してください」と。入院してからあっという間に容態が悪化して、もう意識もほとんどない末期癌チューブ関係フル装備状態の患者を転院…?ふーん…と娘は思っていたのですが、母さんはすっかり思いつめてしまった様子。 夕方トシオ伯父夫妻が来て、転院話をした結果…。
12/19
次の日には親戚一同(横浜、東京、仙台など遠方含む)に話が回っていた(笑) 特に激怒り状態だったのがテツオ伯父夫妻。母さんに「私達が全力で転院を阻止するから心配しないで!」と電話してきたようだ。
テツオ伯父、実は長年ここの病院で働いていたバリバリの外科医で元院長。現院長も元部下。前院長も元部下。(前院長の前がテツオ伯父)今働いてる各科一番上の医師達は全員テツオ伯父のことを知っているし、お忍びで月イチ現院長に呼ばれては色々悩み相談されているらしい(笑)テツオ伯父の奥さんのミエコ伯母も有名らしく、コーヒーを買いに伯母と2人でロビーを歩いていたら総合案内の職員さんがすくっと立ち上がり「奥様お久しぶりです。お元気でしたか?」と挨拶していて度肝を抜かれました。 そんなテツオ伯父はとにかく目立つのが嫌な人なので、ここの病院には土日祝の職員が少ない日を狙ってきていたけど、すっかり「激怒りモード」状態になってしまったからこの先どうなるのやら…。本当に「全力で転院を阻止しそうで怖い(苦笑)
そして今日は父さん73歳の誕生日。病室に置いても邪魔にならない小さめのプリザーブドフラワーをネットで購入し数日前に届いていたのでバースデーカードを一緒に持っていきました。「父さん誕生日おめでとう!」と耳元で言ったら少しだけ目を開けてくれましたよ。
転院問題でナーバスになってしまった母さん。胃の具合が悪くなって食べてもすぐ吐いてしまう状態になってしまいました。ご飯は食べたくないけど、低血糖になったら困るから少しでも何か食べなきゃ!と母さん選んだのが隣のベッドにいるヒロミさんから貰ったシュークリーム。クリームなら甘いし、少しの量で大丈夫…という判断だったらしい(笑)その結果は当然クリームの油脂分にやられて夜中嘔吐する羽目に。
12/20
「そんなこんなで昨日の夜中吐いてしまったんだけど、今日は朝ごはんも少し食べられたし元気になってきたよ」と。そして「もちろんシュークリームは全部食べられなかったからあんた食べるかい?」と言いながら差し出したものが…「かじりかけのシュー生地」「スプーンでほぼ全部掘り出されたクリーム」「なぜか物体に刺さったままのプラスチックスプーン」……「母さん、これはね、シュークリームじゃないよ。元シュークリームだよ。もっとわかりやすく言えば残飯だ!!!」 朝から娘に怒られる母(笑)
夕方わんこをシャンプーへ。夕方と言ってもこっちはこの時期午後4時前には真っ暗になるけど。
そして父さんは……話しかけても手足をさすっても、もう目を開けてくれなくなりました。 所謂昏睡状態です。痛くないなら、苦しくないならこれでいいんだと、いびきをかいている父さんを見ながら思っていました。いや、思うように努力していた、か。 「俺は苦しみたくない」。丁度10年前、同じ肺癌で壮絶な闘病の末死んだ一番下の弟を見ていた父さんの願いだったから。
12/21
今日から世間は3連休…と言うことで弟が夕方帰省予定。姉は正直ヘロヘロだけど、数日前にカツコ伯母が差し入れしてくれたカレーがあるし付け合せにポテトサラダだけ作ればいいかなと。あ、弟よ、姉は忙しいんで駅まで迎えにいけません。自力で帰ってくるように(笑) この日は急遽主治医と面談がありました。父さん、黄疸も出てきてるし容態はかなりよくないとのこと。 夕方テツオ伯父夫妻がお見舞いにきてくれて「さて帰ろうか」と病室を出たところで父さんの主治医とばったり鉢合わせ。いつもなら伯父のことを知らない医師には会釈程度で自分のことを絶対に明かさないのですが、今回はしっかり苗字を名乗り、呼吸器科を始めそこらの科の上の医師達が知り合い(というか後輩)であるような内容の話をさらーっとして帰っていきました。ああ、伯父さん怒ってるんだね、とんでもないプレッシャーかけていったなぁ…。その場に残された私と主治医は何とも微妙な空気(笑)まさか「あの人、元院長なんです」とも言えず。多分あの後すぐ調べてバレただろうけど。
夜、実家に帰省してきていた弟と今後の話をしてから就寝。
12/22
弟と病院へ。2週間ぶりに父さんに会った弟、意識がない状態の父さんに衝撃を受けた様子。 昼前にトシオ伯父夫妻が「父さんが予約していたクリスマスケーキ」を受け取って来院。デイルームで伯父夫婦、弟、母さん、私の5人でケーキを食べながら「去年も(ここで)ケーキを食べたけど父さんもいたのにね…」と。(私と弟はいませんでした)
夕方帰宅中の車内で弟に「姉ちゃんごめん。あんな状態の父さんと母さんに一人で向き合わせて」と言われました。「いいんだよ、あんたは仕事があるんだから」と運転しながら答えるのが精一杯でした。明日自宅に戻るけど、それまで僕が父さん母さんにつくから姉ちゃんは少し休みなよ…と言ってくれたのですが次の日はそれどころではなかった…。
【2013/12/23】
お犬様の散歩(外気温−10℃以下…)洗濯や掃除をしつつ早めに病院に顔を出して夕方自宅へ戻る弟を駅へ送って行こうかとしていた所、母さんから「すぐきて!」と電話が。父さんの容態が急変したのか?と弟と2人で急いで行ったものの、あれ…?父さんの病室に母さん@車椅子がいるものの、あまり緊迫した状態ではないぞ。 でも隣のベッドにいた人(まだそこそこ元気)が部屋替えになっていて2人部屋は父さんだけになっていました。そう、空いたスペースには簡易ベッドを置いて親族が付き添える状態に。
そうかー、母さんは入院中だし、弟はもう自宅に戻っちゃうし、私が付き添いするしかないのか…?そんな中、この日の病棟は立て続けに2人の患者さんが亡くなりさらに複雑な気持ちに。(「次はうちか?」と)
あれこれ考えているとトシオ伯父夫妻が「やっぱり心配でなー」と、また来院。すぐにテツオ伯父夫妻、ユウゾウ伯父もやってきて病室大賑わい(苦笑)でも父さんの呼吸状態を見た(「診た」かな)テツオ伯父、「ああ、もう努力呼吸になってるなぁ…」「あんまりもたないかもな…」とも。
結局私一人でずっと付き添いは無理だから、弟が仕事を休んで夜は付き添うことに決定。(幸い年末の休みまであと残り数日だったから無理ができた)
そんな中トシオ伯父の奥さんのキヨミ伯母が「いざという時の為に荷物を片付けておいた方がバタバタしないよ」と。それもそうだね、とバッグに荷物をどんどん詰め込んでいきました。この荷物達は「色々足りないものもあるし、今日のチケットもキャンセルしてくるから暫く出てくるね」と言う弟が実家に持ち帰ってくれました。重いから助かった…。
その後、伯父達も帰り母さんも病棟に戻ると病室は静かに。「フル装備」父さんに付き添いながらぼんやりしていました。
午後6時前、弟が再び来院。付き添いを交代した後、母さんの病室に少し顔を出して病院を出た後、買い物をして帰宅。真っ暗な中散歩に行って、適当に夜ごはんを食べ、お風呂に入って一休み。さすがにいつ呼び出しがくるかわからないから暫く酒は飲めないな、とほうじ茶を飲んでました(笑)
なんだか落ち着かないけれど、とりあえず仮眠を取ろうとベッドに入ってすぐ枕元に置いてた携帯に着信。時刻は午後11時2分。弟からでした。
「姉ちゃん。絶対に慌てず落ち着いてゆっくり運転してきてね。」「了解」
短い会話の後、ダンナに「父さん危篤だから今から病院に行く」と連絡を入れ、すぐ着替えて車へ乗り込み病院へ向かいました。(あらかじめ着替えと財布や免許証を入れたバッグと車の鍵を一箇所に用意していた) 慎重に運転をして病院へ到着。夜間の通用口にはすでに警備員の人がいてドアを開けて待っていてくれました。急いで病室に行くと、「○○(私の名前)がきたよ、父さん」と母さんの声が。看護師さん2人と弟、母さん(もちろん車椅子)が父さんのそばにいました。血圧は昼間よりもずっと低く、脈拍もバラバラ、呼吸も浅く一定していないのでモニターの警告音が鳴り続けていました。 私の後すぐトシオ伯父夫妻も到着。 そして
午後11時36分。父さんは静かに息を引き取りました。
… ……
この時点で病室にいるメンバーは母さん、弟、私、トシオ伯父夫妻、看護師さん2名。そう、死亡宣告ができる人間がいない(苦笑)昼間2人の患者さんを看取った主治医は自宅に戻っていたようで(こんな時間だし、そもそも今日は天皇誕生日で祝日だ)父さんの臨終には間に合いませんでした。 そんなわけで主治医が到着して死亡宣告した時間は午後11時47分。父さんが死んだ公式タイム(…苦笑)はこの時間になります。
ちなみに父さんの息が止まってすぐトシオ伯父が「11時36分か…」とつぶやいたのですが、私と弟、看護師さんが「それは先生(主治医のこと)が言うから!」とすぐ突っ込みを入れていました(笑)
この後、怒涛の「仮通夜・通夜・葬儀」編がありますが、大変長くなったので一旦ここで区切ろうと思います。暗い内容の長文を最後まで読んでくれてありがとうございます。
……もうすぐあれから2年です。
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