堀井On-Line
4175, 閑話小題 ー恐ろしい近未来がまっている |
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2012年08月31日(金)
* 恐ろしい近未来 南海トラフ地震の最悪の死者予測が32万人と政府が発表、マスコミが騒ぎ出したが、もう一年以上も前から週刊誌で騒がれた 記事と同じ内容。しかし、政府発表となれば違ってくる。大手ゼネコンの含み笑いが聞こえてきそうだ。これは太平洋沿岸沿いには 住めないということになる。その地区の住宅地や商業地が暴落というより、ほぼゼロになってしまったことになる。 当事者は、 まだピンとこないはず。 千年前の大地震の後に二回、17年内周期で大地震と大津波が起こっている痕跡があるという。 活断層が不自然に捩れていて、何らか次の大地震が起きる可能性が大きい。決して非現実的予測ではない。 これに関東直下型地震の可能性がある。更に世界恐慌も遅かれ早かれ起こる。いや、すでに起きている? これでは、夢も希望も持てやしない。この数年来、大卒の正規社員就職率が63パーセントで、三分の二も就職ができてない。 これが恐慌が吹き荒れる前で、この有様。数年先は、こんなものでないはず。 40数年前の私の卒業の時とはえらく違う。 金の卵で、会社は選び放題。私の同期の男たちは、殆どが一部上場の有名企業で、ハッピーリタイアをした。時代は大きく変わった。 * 田中真紀子が民主党党首に立候補 ? 久々に面白い話に驚いた。途中で立ち消えになるかどうか?だが、真紀子様が民主党党首の候補の可能性が出てきたという。。 思わず失笑したが、それほど民主党は困っているということになる。 あの外相時の相応しくない姿を忘れてしまったのか。 あの人物から誠意の何も感じられない。一国を束ねる力量があるとは到底思えない。何が今さらだが立場が野党なら、最適の逸材か。 あの辛辣な口撃は溜まったガス抜きになる。 まあ国が衰えると、こうなる。 政治は、何でもありである。床屋レベルの政治談義 からみると、この世界的危機の中での、日本、米国、韓国、中国のトップ交代による政治変動は非常に興味をそそられる。 なるほど2012年問題は、危ない要素に満ちている。安倍自民党総裁、田中真紀子民主党党首、それに安倍に担がれた橋元首相。 面白いが、どうだろう? それと何時起こるかしれない南海トラフ地震と、関東直下型地震。それと世界恐慌の可能性がある。 20世紀前半に世界恐慌を挟んで二つの世界大戦があった。このドサクサで一億以上の人たちが犠牲になった。 それより大きな変動が、始まってしまった。 これから壮大なシネマのような世界が展開される。 ・・・・・・ 3810, 世の中の商売、すべからく代理・代行 2011年08月31日(水) 旅行代理店、保険代理店、会計事務所などのサービス業があるが、すべからく世の多くは代理サービスの変形である。 家電商品も、その多くの製品は代理システム品である。洗濯機、電気炊飯器、扇風機、暖房機も、人間の労働の代理品である。 20年前に、「一世代前の人が、現在の生活をするには200人の従者を必要とする」と聞いたことがあった。現在では、 数万人でも無理だろう。 車は馬車の代行であり、カメラは専属カメラマンの代行。 夕食の宅配は、主婦の仕事の一部代行である。 旅行代理店のパック・ツアー。その大ファンにとって、その恩恵は大きい。アフリカのタンザニアや、ケニアのヌーの河渡りなど、 素人では絶対に無理だが、ツアーに参加すれば誰にでも気楽にいける。スナックや、居酒屋も家庭内で満たされない料理や、お愛想、 色気などの代行である。 この事業整理の一連も、弁護士事務所が会社が300万プラス個人が50万、合計350万で、一括業務?委託。 一連の委託契約をすると、全ては弁護士の管理下に入り、良くいえば債権者から守られる。 逆に、一切の社会的信用はゼロ、 前科者に近い後ろ指、陰口の絶好の対象になる。 また、最近通いだしたスポーツジムも、各種のエアロビがあり、運動の指導を パッケージにしてある。それに従っていれば体質改善が合理的に出来る。 その指導を多くの会員を集めることで、パックにして、 場の提供をしている。 これも各自で行っていた個別運動のパッケージ化になる。 ところで、これまでの蔵書、ベストの100〜200冊をデジタル化して、iPadに気楽に入れられたら、よいだろうにと思っていたら、 一万冊を入力してiPadに入れて持ち歩いているという人の本があった。それは面倒と思っていたら、一冊100円で入力をしてくれる サービスがあった。とりあえず、100冊を?と考えているが・・。 また、アマゾンに注文した本を、そのまま業者に本が直送し、 スキャンしてくれるサービス業者もあるという。デジタル本が、まだまだ普及してない中、これは良い代行システムになる。 情報化とデジタル化の時代、代理・代行システムは重要なキーワードになる。 それにしても、面白い時代になったもの。 各種代理システムをiPadを端末として、如何に使いこなせるかが、これからのポイントのようだ。 ・・・・・・・ 2010年08月31日(火) 3445・秘・異郷の旅、よもやま話・・2 *初めての21歳の欧州旅行 ー1 どの旅行が一番良かった?と聞かれても、答えられない。半分、いや三分の二以上が、それに当たるからである。 ショックの段差が大きかったのは、初体験の学生時代の一ヶ月間の欧州旅行。見るもの、聞くもの全てが驚きの連続。 当時は、やっとカラーテレビが普及し始めたばかりで、欧州の映像など殆んど目にしたことはなかった。 モナリザや、ミロのビーナス像、パリの凱旋門などは中学か高校の教科書の小さな白黒の写真でしか目にしてなかった。 それが突然、目の前に本物が次々に現われるのだから、驚き唖然とするのは当然である。 まず飛行機乗って、夕飯にヒレのステーキが出てきた。まだ憶えているが、牛肉に細い糸が巻き付いていた。 生まれてこのかたヒレステーキなど、食べたことはなかった。 そのためか、その味の美味しいこと。 次に初めての海外に降り立った地はデンマーク。そこは、私が今だ見たことがなかった明るい空と緑の中に街がある御伽の 国に思えた世界があった。人種が違うのである。金髪の大柄な男女。空の色が違うのである。そして、林や森のグリーンが、 違うのである。考えてみたら、日本全国の自然さえ見てなかったのである。それが、いきなりデンマークの空とグリーンと、 北欧人を目の当たりにするのだから。一挙に御伽の国の真っ只中に降り立った時の驚きは新鮮であった。自分の精神を 正常に保つだけで精一杯であった。 当時、海外旅行に出る人は、まだ20万人でしかなかった。現在の100分の一である。 だから、出発前から気持ちが高揚していた。 ・・・・・・・・ 3070, 衆院選挙の結果をみる 2009年08月31日(月) 終わってみれば、マスコミが発表をした最終の予測調査の通り。週刊誌では週間朝日の最終予測の307が一票差で、 完璧に近い予測。森元総理が落選するかどうかに注目をしていたが、残念ながら?当選、その反面、太田公明党首が落選した。 今回の特徴は元総理など多くの実力者が落選したことだが、これは歴史的転換への時代の要請である。 色いろな意味で歴史に残る選挙になった。 自民が国民から大きく離反した結果のオウンゴール(自滅点)。 民主党は私の事前の予測の325には及ばなかった。 私の周辺では殆ど自民党を支持する人はいなかった。 あと講釈で言えば、自民の三代の首相が解散のタイミングを何回も逸し、自民党を粉々に崩壊させたことになる。 もう二度と元の自民党に戻ることはない。 海部元首相や派閥の領袖などの大物が消えたことは最大の収穫。 権力も失ってしまえば、磐石に見えた彼らも虚構でしかなかったということ。アメリカの政治体制の変革に続いて日本も大きく 舵を切ることになった。当然といえば当然の流れである。自民党も振りかえると決してマイナスだけではない。 プラスの面も多かったが一度、旧態依然の官僚支配の体質の根本的な改革をしろ、という天の声である。 それにしても自公の大物等がよくも雁首を揃えて落選したもの。 これで経済に続いて政治も動乱に入った。 面白くなったと他人事のように言っていられないのが、現在の日本の危機状態である。 幸福党の教祖様は、この結果を予測もできなかったのか? 元もとは布教活動の宣伝活動だったのか? 我が区の真紀子様、大恥の結果だったが、これが地元感情である。それにしても素朴な人が多く残っているもの。 次は、新政権の組閣の顔ぶれに興味が移る。 法務大臣が誰になるか面白い。検察のゴミ掃除をどうするかだ。 これで日本も良きにつけ悪きにつけ大きく変わる。 あまり期待はしてないが、期待できない自民よりは良い。 ・・・・・・・・・ 2008年08月31日(日) 2705, 酒の話 ここでも、何度か酒の失敗について書いてきた。しかし楽しい酒はこれまた格別よい。致命的な大失敗をしても仕方が無いと割り切れるほど、 酒は日常の制約や退屈さから解放をしてくれる。「酒はモラルの休暇」とは、よく言ったもの。世界の人たちは酒の少々の失敗は認めてくれる。 歴史を振り返っても、どの社会でも飲めや歌えの大騒ぎを許容する祭りや行事があり、その日のことは、大目にみられてきた。 ただ酒で抑制が解放されてしまい、殺人や、思ってもいない浮気や、失態も起こる。 「しらふの人間が心の中で思っていることを、酔っ払いはベラベラと話してしまう」ことが、酒の一番の欠点だろう。 そういう不節制にも教育的?価値もあるという。 少し無理はあるが、直接跳ね返ってくる身近な事件?になるからだ。 あまりに真面目くさった人生も、これまた面白くも可笑しくもない。 下戸の人は、酒を飲んで大騒ぎをしている高揚した楽しさ、 至福を知らないまま生涯を終えるのである。 普段の生活の中に自分を解放する夕時の一時の時間として一般的には、どの世界もアルコールは 日常の生活に入りこんでいる。どの街にも飲み屋街が繁華街にあり、多くの人が頻繁に出入りする。スペインにはバールが何処にいってもある。 値段の安い西欧居酒屋である。 そこには、誰もかしこも入り浸っている。 長い歴史の中で、出来上がった庶民の娯楽施設だが、そこで家族や友人同士が夜遅くまで話し合っている。 カフェテラスのように店の前にも席があって、多くの人が親しそうに話しをしているのを見ると、奇異な感じがする。 バイロンは「理性があるからこそ、人は酔わねばならない。人生で最高のものは、けだし酩酊なり」と、いっている。 酒に十の徳あり(酒には十種の長所がある)という。 百薬の長、 寿命を延ばす、 旅行に食あり、 寒気に衣あり、 推参に便あり、 憂いを払う玉ぼうき、 位なくして貴人に交わる、 労を助く、万人和合す、 独居の友となる。 酒は、つらい日々ほど、その時間だけは美味い酒で楽しい最高の気分になれる。 辛い日々の酒こそ、美味い味わいが残る。 一時的に天下を取ったような気分に慣れるのである。 達成感など実際の喜びを感じるには長い年月と、汗と涙が必要となる。 しかし、酒は酔いという作用で、その喜びを与えてくれるのである。 だから、恐ろしいのである。 まあ、よくぞ、これだけ、酒で失態をしたものだ。 しかし、その時々に本当に美味い酒を飲んできた。 これが、もしかしたら、人生で一番の価値あることだったかもしれない。 たまには大騒ぎをするのも良いじゃないですか、 ということだが、「御前の場合は、それさえなければ、な〜」と何度言われたことか。 そして自戒しとことか! でも、私から、それを取ったら毒の無い河豚みたいなもの。 棘の無いバラ、それともノンアルコールのビール? (以下、字数の関係でカット11年8月31日) ・・・・・・・・・・ 2007年08月31日(金) 2341, 「私」とは何か? 〔● ォ'`ョゥ○〕ヽ(・д・`●) 「狂人三歩手前」−中島 義道 (著) −読書日記 ー「私」とは何か?ー 「私」について、その構造について、過ってこの読書日記で書いたことがある。 成る程と合点がいったが・・・ 常に考える時、「私」は何々・・・と一日、数百回も自問自答しているのに、 その「私」とは何ぞや?と考えたことがない。それをキチッと知っていると、いないとでは、思考の根本が違ってくる。 ー「私」が無になることーのコーナーの「私」についての説明が解りやすい。 ある哲学書で「私」についての説明があった。 {「いま・ここ」の主観を私とは言わない。 土手を歩いていて振り返った時、さっきの橋を歩いていた主観が 「私」として飛び出してくる。云々}と。成る程と思いつつ、解ったようでもう一つ理解できないモヤモヤが残っていた。 過去を振り返った時に「私」が初めて発生するということ?垂直に縦にある「いま・ここ」の主観は、 まだ私になってないということ? ところが彼は、この本の中で、その「私」を噛み砕いて解りやすく説明をしている。 −p.86 「いま・ここ」に存在するものを「私」だと思い込んでいるのだ。だが、そうであろうか? いま両肩から下に頭部を欠いた 独特の身体が広がっているが、なぜこれが「私の」身体なのだろうか?そこに独特の感じがするから?だが、なぜその独特の感じが 「私の」感じなのだろうか? こう問いつめていくと、この方向に答えは見いだせないことがわかる。「私」とは知覚とは別の 独特の作用によって端的にとらえられるものではないか? いや、そんな独特の作用など見いだせない。「私」とは知覚しているときに、 同時にそこに感じられるものではないか?いや、胃がきりきり痛い時にそれと並んで独特の「私」という感じなどない。 そもそも「私」とは作用の対象ではなく、作用の絶対的主体なのではないのか?多くの哲学者はそう考えた。 そして、それを「純粋自我」とか「超越論的統覚」とか名付けた。だが人間としての「私」がそんな抽象的な 発光点のようなものであるはずがない。あれもこれも否定して、振り出しに戻ったわけである。 ここで、別の視点から反省してみるに、「私」とははじめから異なった時間における同一なものと了解されている。 「私」とは過去のあの時も同一の「私であった」者である。しかも、その同一性は二つの対象を見比べて判定するのではなく、 現在の側から一方的に過去のあの者を「私であった」者と判定するのである。「私」は、過去と現在との関係において登場してくる のだから、現在の世界を隈なく探しても見いだせないのは当然である。過去自体はすでに消えている。過去の記憶だけが残っている。 現在の知覚される世界ではなく、過去の想起される世界を探究することによってはじめて「私」は身を現わすのである。 ここにきわめて重要なことは、過去のあの時に私が不在であっても「私」の同一性は保たれるということだ。 夢の場合で考えてみよう。夢を見ているあいだ「私」は自覚されていない。 「私」は、夢から覚め「私は夢を見た」と過去形で語る時にはじめて自覚される。 まさにその時、あれが「私の」夢であったことが忽然と了解され、遡ってあの時「私が」夢を見ていたことになるのである。 夢ばかりではない。この構造は広く普遍化できる。「私」は仕事に没頭している時や、夢中でボールを追いかけている時や、 ぼんやりもの思いに耽っている時など、いわば消えている。しかし、あとから「私は〜していた」と語れる限り、 その時「私」は存在していたことになるのだ。夢中で小説を読んでいた。 ふと気がつくとあたりが薄暗く、電気をつけてみるともう三時間も経っている。 私は小説の内容を細部に至るまでありありと覚えている。一体誰が読んでいたのか?ほかならぬこの「私」である。 ーーー 夢を例にした説明が、理解しやすい。夢見ているうちは「私」は成立してない。じゃあ、夢の中で私は何々、云々と いっているのは何だろうか?ただ夢の中で過去のことを考えただけで何の問題は無いか!まだ夢の中で成立してない 純粋何とかいう未成立の?が、夢の中で成立した「私」として過去からの流れの何かを考えていた! ということになる、ただそれだけだ。 そういえば、また夜半にリアルな夢をみた グッ。・:*:☆w(´・з・`)バァイ ・・・・・・・・・ 2006年08月31日(木) 1976, 充実した人生 おはよ〜!(*^ワ^*)i(~O~)ふぁ・・ 時差ぼけだ〜 先日の新聞広告の「男の品格」という紹介文で「自分の一生が幸福だったかどうかは、男にとっては大した問題ではない。 だが充実していたかどうかは大きな問題だ」という内容があった。ところで私の場合はどうか、考えてしまった。 幸福度は70~80点? 充実度は、どうだろう? どうしても知人との比較対象になってしまう。その充実度は外的なものになってしまう。 それでも、やはり80点か? 幸福度は気持ちの問題だから、その本人次第だが充実度は? やはり過去の人生の密度に関係してくる・・・ 密度は濃かった?、それとも淡白だった?のだろうか・・・ところで「充実したか」と、「幸福」を置き換えて、 「人生は充実していたかどうかは大して問題ではない、だが、幸福と思えるかどうかは大きな問題だ」という理屈も、成り立つのでは? 充実をした人生を送ってない人も多いから、その見方も大事じゃないかと?? ( ̄ω ̄;)!! 全て解釈ー受け止め方、そう言葉・言葉でしかない。 どう考えても充実した人生を送ってない人が、自分は充実した人生を送ったと 勝手に思い込んでいる人もいるし、充実した人生を送ってきた人が、自分は充実した人生を送ってこなかったと思い込んでいる人もいる。 だからよいのだろう!人生は。 充実した人生か〜 やはり大事なのだろう! ところで充実した人生とは? ・感動・感激・感謝の詰まった人生 ・自分の夢を追い求め、そのプロセスで自分の力を出し切った人生 ・自分の好きなことをやり遂げた人生 ・燃焼しきった人生 ・よく遊び、よく学び、よく働いた人生 というところか!! ( ̄▽ ̄)■]~~~ 珈琲TIME♪ 美味い酒を飲んで、美味い飯食べて、上さんで満足して、ニコニコしていて、 充実した人生のことなど我関せずで人生を終えるのも良いのだが・・・ ところで充実している時って充実感など意識してないものである。食べている時満腹感がないのと同じこと。 感動・感激、そして達成感などが、溜まった状態をいうからだ。不幸のときに充実感はない! しかし充電をしているのだから、空の状態。下手に充実感など持たないほうがよほどよいのでは?とも考えられる。 まあ、いいか! この旅行の直後のためかイヤニ充実感がある! 気功をすれば、 早朝の散歩も、 気の充実はできる。 それで充分といえば、それまでだが・・・ ホンジャ(。・ω・)ノ☆゜+.バイ!
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2012年08月30日(木)
* 電機メーカーの苦境 日本の電機各社が苦境に陥っていると、マスコミを騒ぎ出している。この原因が、あのエコポイント。電機メーカーにとって、 神風になり大きな利益を確保したが、その間に韓国などのメーカーが主力商品に力をつけ日本が太刀打ち出来なくなっていた。 数年前まで、薄型TVで勝ち組だったシャープが死に体で倒産の危機になり、同じく恩恵を受けたソニーとパナソニック、東芝、 日立の各社が数千億の赤字というから尋常ではない。世界に名立たる日本のブランドが、今や苦境に立っている。 耳を疑うが、 これが現実である。 現在、同じことが自動車で行われている。 どうしたというのだろうか。 中小企業救済法も今となれば、 良かったのか悪かったのか? しかし、産業の不振は日本に限ったことでない世界的な流れ。 スマートフォンとタブレットPC、 この中に、電話、テレビ、パソコン、デジカメ、ビデオ、全ての機能が入って同じ位の値段なら電子機器が売れなくなるのは当然。 日本のメーカーが、専用機種に目を奪われている間に、マックや韓国メーカーが、ここに集中していたのである。日本のメーカーは 決定的なミスを犯してしまった。10年前、5年前なら考えられない事態が、目の前に起こっている。 グローバル化は恐ろしい。 * 地元経済は、ますます悪化 先日、3ヶ月ぶりに自宅に送付されてきた一連の書類を持って弁護事務所に行き弁護士と30分位、世情話になった。 中越地区の景気状況は、来春の「中小企業特別救済立法」の打ち切りに向けての動きが顕著になっており、その上に刈羽原発の 休止にともない関連の5千人の従業者のうち3千人が、この秋に整理される。更に小千谷にある大手の工場も雲行きが怪しい。 それらから景気は一段と悪化しているという。一線から退くと生の情報は殆んど入ってこなくなる。必要がないからもあるが。 この9月から12月にかけて、リーマンショック並みの一大イベントが発生する可能性が大と見ているが、その前兆の波か、 それとも思い過しなのか? 景気は一段と悪化の道をたどっているようだ。 ・・・・・・ 3809, つれづれに 2011年08月30日(火) ▼ 収まる所に収まった民主党党首 最後の最後まで、誰が民主党党首に選出されるのか分からないギリギリの選挙だった。しかし、海江田と野田の二人の決戦となれば、 どちらが相応しいかはTV画面が正直に語っている。 しかし小沢一郎と鳩山が後盾の海江田が勝つのではと予測されたが、党員も、 その歴然とした差に、野田に雪崩をうっていったようだ(立候補者の一人が最後の最後に野田支持に回ったのが勝因ともいうが)。 たまたま投票直前にTVを入れたら、野田が演説をしていた。朴訥とした中に人を惹きつける感情のこもった内容に引き込まれてしまった。 その前にも、彼の立候補の政策を聞いたが、至極自然なもので、他が悪すぎたこともあり、一人光っていた。 【 二年前に政権についたが、国民からみて期待はずれの結果しか出せなかった。次の選挙まで残された期間は二年。それまでに捨て身で、 この国難とマニフェストを達成しなくてはならない。大震災の国難を乗り切るためには、野党との大連合を考え、かつ党内融和も必要。 また赤字の国家財政と、大震災を乗り切るためには増税もやむをえない。】 この当たり前のことを当たり前に述べているに過ぎないが、現在の与野党も含めて、これをいうと世論受けしないとか何とかの ジレンマに陥っていた。 小泉も含めて、この数代の首相の中で、一番真っ当であってほしいものである。菅首相の直後では、 やりやすいだろうが、この日本の政治と経済の惨状下では、それもどうか?。 まさか、海江田とか、あれ、ではね。 これで当分は、 少しは政治不信は小さくなるだろうが(いつも最初は期待感でそうだが)・・ この国の体質は、この20年で、あまりに劣化した。 ▼ あれから5ヶ月 あれから5ヶ月になる。 事業期間三十年のうち、初めの10年が登り。 次の10年間はバブル崩壊の日本経済の混乱の最中、 逆に積極策に出て客室を増やした(これが、今回の倒産の間接原因になる)。 最後の10年の始まりが9・11で、二度の中越大地震、 三年前のリーマンショックの直撃、とどめが半年前の東北大地震。 その中で一番の打撃が、リーマンショックであった。 この影響は、まだまだ序盤で本格的津波=大恐慌は、この秋口からアメリカから世界、そして日本に吹き荒れること必定。 この二十年、日本の政治は混乱を極め国家の態をなさないほど疲弊してしまった。それと比例して、この今回の倒産である。 事業がビジネスホテル。ネットなどの情報化と、長期不況による新幹線日帰り二時間圏と、客室在庫の過剰もあり、その対応不能に陥り、 この結果である。 逆に、ここまで次々の大波で悪化すると諦めがつくもの。後悔とか未練は少なくなる。 事業として荒波に飲み込まれたと同時に、業態の老衰ということもある。 しかし全体として、面白い経験をさせて貰ったと感謝している。 それにしても、日本経済、どうなるのだろう。 この三年間は大暴風雨になる。 特に地方経済は、来るところまで来ているから、なお。 ・・・・・・・・ 3444・秘・異郷の旅、よもやま話・・1 2010年08月30日(月) * 海外旅行に見せられて これまで47回の海外旅行で、フラッシュ的に記憶から飛び出したことを思いのまま書いてみる。 その方がむしろ、これまで書けなかった生の体験をリアルに表現できそうだ。 痕跡として残るのは、現場で撮った写真と言葉。 人生を旅に喩えることがあるが、素晴らしい経験と同時にトラブルを如何に少なくし有意義な旅に仕上げるかがポイント。 そのために、行き先の選定、日々の過ごし方、対処の仕方などのコツが大切になる。 また日本の遥か彼方から、逆照射してみた 自分の人生の卑小さが何とも滑稽に感じることがある。 それが気持ちに余裕を持てるのが収穫になっている。 まずは、思いもよらない経済恐慌に出くわした為に、人生の仕上げに入った計画に狂いが生じてきた。それも、なるがままの人生。 旅先で、絶対に行きたかったが行けなかったところはない。 ガラパゴス諸島ぐらいだが、それほど行きたいと思わない。 秘・異郷旅行での最大の収穫は、想像を遥かに超えた自然が与えてくれる感動。 自然そのものが何か波動を発している。 その波動に、飲み込まれにいくのである。 この感動は、山好きの人が国内の色いろな名山で経験しているものと同じだろう。 世界の異郷の地で、違う形で経験をするのである。 学生時代の多感な頃に北海道、九州、そして紀州と一人旅をしたことがあるが、 あの時の下地と、21歳時の一ヶ月の欧州旅行でのカルチャーショックが下地にあったから、ここまでノメリ込んだのだろう。 その結果、ほぼ毎晩、BS/衛生TVの何処かのチャンネルで、これまで行った先を放送しているが、見ていると旅の延長のようになる。 「一回の旅は、帰ってきても、そのまま続いていく」が、そこで実現してくる。一点豪華主義?としても、贅沢である。 ・・・・・・・ 3069,新インフルエンザの恐怖 2009年08月30日(日) 新インフルエンザが全国的に流行期入りをし、拡大はもう止まらないという。 どうせ感染するなら、早くなって直った方がよいと割り切った方が良いようだ。 先日のTVのモーニングショーで、新インフルエンザ(=A)と、これまでのインフルエンザ(=B)との 違いを説明をしていた。その内容とは、 ・Aの方が、症状として重い。 身体がだるく、下痢や、発熱になり、気管支がやられ呼吸などが困難になる。 ・Bに比べて感染力が圧倒的に強く、かかる比率は比較にならないほど。 ・5〜19歳までが患者の7割で、青少年が罹りやすい。 ・予防でタミフルを飲んでも、48時間しか持たない。 ・外出後の手洗いと、ウガイ以外に、これといった予防方法はない。 ・感染者の接触した箇所の菌は48時間は死滅しない。だから、人の集まるところは何処もかしこも菌だらけ。 こんなところだが、ようは殆どの人が罹ると理解した方がよい。 一昨日の新聞報道では、まず10月半ばに一波のピークが来た後に、一度沈静化をして第二波がくるという。 (次数制限のためカット 2011年8月30日) ・・・・・・・・・ 2704、共同幻想を抱いていただけ? 2008年08月30日(土) 松井孝典の「レンタルの思想」の中のキーワードの一つが「共同幻想」である。 一万年前に農耕牧畜を始めて、「人間圏」を作り上げてきた。 そして右肩上がり人間圏の拡大が共同幻想だったことを、 人類は宇宙に出て地球を俯瞰して初めて知った。資源が有限であり、農耕以来、環境破壊を続けてきたことも、 これ以上の人間の欲望を拡大できないことも知った。 ー著者の松井孝典は、次のように人間圏の危機を述べている。 ≪欲望のカタチは所有であり、人間は地球という大地を「所有」すると、錯覚していたのである。 これが人類の「共同幻想」というのである。共同幻想は、これだけでなく、貨幣は未来永劫に交換可能とか、神様の存在とか、 人間の命は地球より重いとか、民主主義とか、市場主義経済とか、自由平等とか、人間を規定する概念すべてといってよい。 21世紀の人間圏にとって、その崩壊の引き金になる最も高いシナリオは、これらの共同幻想が多くの人に幻想と 認識されたときである。 その一つがインターネットとという。インターネット社会は、個々人を主体化し、 情報が個人に拡散する。 情報が拡散するということは、社会が均質化していくことになるが、共同幻想という面では 理想的かもしれないが、宇宙からの視点から見れば、人間圏のビッグバンになる。 それは秩序も構造も、情報もあってない、混沌とした社会になる。》 そこで、共同幻想とは何かを知るためにネットで調べてみた。 ー以下は共同幻想についてのウィキペディアのコピーであるー 共同幻想(きょうどうげんそう)とは、複数の人間で共有される幻想である。日本の思想家である吉本隆明が用い、有名になった言葉。 吉本は、自分の共同幻想とは、マルクスの用語である上部構造と同じ意味であり、ただ手垢がついているから使いたくなかったと述べている。 吉本隆明は、著書「共同幻想論」で人間関係は、3種類に分類されると提唱した。 ▼ 自己幻想 = 個人と個人の関係。 ー芸術がこれに当たる。他者には影響を及ぼさないため、無制約に自由である。 ▼ 対幻想 = 個人と他者とのプライベートな関係。 ?家族・友人・恋人がこれに当たる。 ▼ 共同幻想 = 個人と他者との公的な関係。 ?国家・法律・企業・組合がこれに当たる。 宗教は、個人の内面に収まっている限りは自己幻想に当たるが、教団を結成し、布教を開始すれば、共同幻想に当たる。 この分類は効果的であり、世界を正しく見るうえでこの3つの幻想領域を混乱、混同させないことが大事であると吉本は主張する。 これらはそれぞれ独自の法則で動いているのである。 例えば、吉本は心理学者のフロイトはリビドーと言う対幻想性を、社会領域まで 無条件に拡大して採用しようとしたところに誤りがあると批判する。また、1人の人間もこの3つの領域でそれぞれ違う顔を持っている。 *職場にいる顔と、*家庭にいる顔、*1人でいるときの顔や行動は、それぞれ違うのである。外弁慶、内弁慶という言葉があるように、 冷酷な独裁者や軍人が家庭内では優しいよき父親であったり、逆に職場では物静かな男が家庭内では暴力的な暴君として振舞うなど ということは、充分ありえる。吉本隆明は、共同幻想の世界では、個人が幽霊としてしか存在できないと主張する。 例えば、「今は企業の危機だから、粉骨砕身働け」との企業幹部の檄は、 労働力を売りに来ているに過ぎない個人としての労働者の立場と矛盾する。 〜〜〜 以上だが、 松井孝典の二冊の本は、大きな衝撃であった。 地球学という視点で、自分を振り返ると、大いなる共同幻想の中で蠢いていた小さな生命でしかないことだ。 太陽の惑星の一つの地球、 その大気圏の中の、物質圏の、生物圏の、人間圏の、極東圏?の中の小さな島国の、北陸圏の、新潟圏の中の、何でしかない私。 地球の外から俯瞰すれば、そういうことである。そして共同幻想を何の疑問を持たないで抱いていた存在である自分を振り返り、 「何?何だったのか?」と根こそぎ、人生観がぐらついている。恐らく身近に死を感じ取った時に、直感的に感じる恐怖心の向こうに 見える宇宙的な俯瞰の視線は、織田信長が舞ったという敦盛の「人生50年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。 一度生を得て、滅せぬ者のあるべきか」を彷彿させる。 ・・・・・・・・・・ 2007年08月30日(木) 2340, さっきみた幻想的、かつリアルな夢 -v-)。o○《Gооd Мояйiиg》○o。(-v-★) これだけ、ハッキリと憶えている夢は珍しい。毎朝書いているモーニング・ページに夜半にみた夢を書いているが、殆ど忘れている。 それでも、五日に一度位は大筋は書いているだろうか。夢から醒めた直後は忘れないように反駁をしているが、しかし殆どは反駁した ことだけしか憶えていない。ところが、どういうわけかリアルに殆ど憶えているのである。夢見た直後に、リアルに、詳細に書けば、 読んでいても面白いだろうから、あえて書き出してみる。 まずは、私の夢の世界を、ご覧あれ。 私の潜在意識の公開である! ▼ 近所を散歩していると、面白そうな家が目に付いた。家の向かって右の方に、子供のための遊び場がつくってある。 そこで主人らしき人が手作りで何かを作っている。 声をかけると、中に入ってもよいという。 そこに入っていくと右が廊下のようになっていて、手作りの小さな部屋が5つ位ある。 その中に子山羊がいたり、子供の遊び場があり、 遊び道具が入っている。その廊下の奥に少し広い空間があり、カヤックやカヌーなどが置いてある。 家の右全体が自分たちの遊び場として、その主人・松尾という人が自分で手作りで作ったという。 そういえば去年、大学の学生時代の友人がカヤックを持ってきて新潟の阿賀野川の河口で大水の中、二時間ぐらい遊んだことがある、 と言うと、急に打ち解けてくる。そして、居間に案内をする。そこには、彼の友人が4〜5人遊びに来ていた。 毎週のように週末は仲間が集まるという。そこで奥の方の部屋に行き、そこで松尾さんと話をする。薄っすらとした髭をはやした 五十歳位の人で、自由業のようだ。名刺をだそうとしたが、出さない方がよいと判断、自分の姓だけをいう。 急に睡魔が押し寄せてきたが、そこに10歳位の彼の息子が来て、正座をして挨拶をする。私も挨拶をしようとしたが、眠くてできない。 その松尾さんに、「あなたは自由業でしょう。弁護士か、医者か、会計事務所の先生とか」というと、その通りだと答える。 そうじゃなければ、このような好きなことを好きなまま、できないはず。ところが、この夢には次の場面がある。翌日、何と家内を連れて、 その松尾さんの家に行ったのだ。そして家内は松尾さんの奥さんと話をしている。半分お互いに知っていたようだ。二人で世間話を始める。 まあ、せっかくのところに何で家内か、と思っているうちに帰ることになった。ところが、何か騒がしいので行ってみると、 この家の老いたお手伝いさんが前日亡くなり、そのお参りに近所の人が来ていたのだ。 そこで私も、仏壇の前でお参りをする。 身寄りではないが、お手伝いとして面倒を見ていた人という。 聞いていて涙が出てくる。その後、一人で自宅の前に帰ってくると、 宅配の人が玄関口にいる。その前に宅配の人がきていたようで、不在の紙がある。そして、家に入ろうとすると、何か人の気配がする。 二人の息子と、二匹の犬が一Fの部屋にいる。庭から部屋の中を見るとまだ高校生の彼らである。 その辺りで眼が覚める。 何か不思議な、リアルな夢である。心象風景ということか? 他人の夢を垣間見るのも面白い? というより、珍しいか!私も直後にこれだけ、鮮明に文章化したのは初めてである ネムイ! ・・・・・・・・・ 2006年08月30日(水) 1975, 写真家はインドをめざす \(^▽^*)おは! ー読書日記 インドを精通する写真家14人が描いたフォトエッセイが、この1冊に凝縮してあり、読んでいて魂まで吸い込まれるようだ。 この本、この数年で5〜6回は図書館で借りてきては返している。 読めば読むほどに何とも魅力のある本である。 いや本が魅力があるというより、インドの地と、そこに住む人々の混在した多様性にひかれる。 カルカッタのマザー・テレサの建てた「死を待つ家」。路傍でまるでゴミのように死んでいく身よりの無い人々が、 せめて屋根のある家で死んでいけるように建てた家の死を待っている老人達の写真を冷静に撮ってあるもの。 ・物乞いのライ病患者や、駅の隅で転がっている少女の死体? ・河の辺で焼かれている燃え上がっている死体。 インドをドック・アイの視線でカメラマンの目は鋭く一瞬を抉り撮っている。白黒の写真が、むしろピッタリである。 一人当たり7〜8頁の文章と、10枚位の白黒写真がその文章の後にある。画家や写真家のエッセイは何故、ここまで優しく鋭 く人の心を捉えるのだろうか?恐らく、一瞬の被写体の中にある本質を見抜く感性が私たちの心の奥の共感を呼び起こすからだろう。 この本のトップの日比野宏の出だしの文章から、対象を鮮明に表現する。 (字数の関係でカット09年08月30日) ・・・・・・ 2005年08月30日(火) 1610, 閑話小題 ーダイエー長岡店閉鎖ー (次数制限のためカット 2011年8月30日)。 ー今度の選挙は自民大勝かー (字数の関係でカット08年8月30日) ・・・・・・・・・ 2004年08月30日(月) 1245, オリンピックが終了 オリンピックが、昨夜(日本時間では今朝方)終わった。期間は8月12日から29日までの17日間であった。 結局は金メダルが16個。前回の三倍、東京オリンピックと同数、であるから大成功だった。 復興委員会が数年前に打ち立てた戦略の結果であった。 私の印象の強い順に書くと ・金メダルを16個取ったこと ・女子マラソンで野口が優勝したこと(丁度ツアーで、ウィーンのホテルでチェックインをした直後にゴールを見た) ・柔道が8個の金メダルを取ったこと ー野村が三試合連続金メダル、谷亮子が女子でニ連勝、 優勝最有力視されていた井上康生が一回戦で破れたことなど ・水泳では、男子の岡島が金を二個、女子ではあまり目立たなかった選手が優勝をしたこと ・体操の団体優勝の緊迫した内容と優勝 ・優勝選手のドーピングで、銀であったハンマー投げの室伏選手の逆転優勝 ・優勝をめざしていた野球が銅に終わったこと −日本のプロ野球の威信をかけたが、この程度の実力ということが判明したことと、これで、一リーグ制に加速がつくだろう 以上、誰もが同じ印象であろう。ところで、過去に日本が強かった卓球、体操、レスリングなどを、中国と北朝鮮が 冷戦時代に戦略的に集中して強化して狙いうちをしていた。そしていつの間にか彼らの得意競技になっていた。 それを一部とりかえしたといってよい。いずれにしても、日本復興委員会をつくって本気になって 金メダルを狙いにいった結果だった。 まあ素晴らしいことだ! ・・・・・・・・・ 2003年08月30日(土) 878,「何故なれない富士山が世界遺産に!」 (次数制限のためカット 2011年8月30日)
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2012年08月29日(水)
* 二つの違った未来観 ! 「木を見る西洋人 森を見る東洋人」 ニスベッド著 ー 西洋と東洋の認知の違いはなくなるか ー フクヤマとハンチントンの二人の政治学者の未来観こそ、西洋と東洋の違いである。20世紀に入ってから、哲学が、 決して西洋が文明的に優れているのではないという構造主義の考え方が主流になってきている。しかし時代は木も森も、そして、 地球環境も同時に見ていかなければならない時代になってきている。3・11震災がもたらした原発事故が、それを我々に突きつけた。 この対立は、避けることは出来ないが、何とか、それを抱えて未来に向うしかない。 ー まずは、その部分から ≪ 今、二つの非常に異なった未来観が、多くの領域の社会科学者たちの間で戦わされている。 ひとつは政治学者のフランシス・フクヤマが唱えた未来観で、世界の政治経済システムが一極に収束し、それに伴って 価値も一極化していくことを予測するもの。もうひとつは今後とも多極化が続くことを予測するものである。 フクヤマは著書『歴史の終わり』のなかで、資本主義と民主主義が勝利をおさめた今、面白い出来事を生み出すような 切迫した力はもはや存在しないと述べている。片や政治学者のサミュエル・ハンチントンは、世の中が今度とも多極化を 続けると予測している。社会が収束に向かうというフクヤマの視点とは大きく異なり、ハンチントンは世界がまさに『文明の衝突』を 迎えようとしていると断言する。東アジア、イスラム、西洋といった主要な文化集団における価値観や世界観の違いは調整不可能であり、 したがって対立は避けられない。「民族の対立と文明の衝突が生じつつある中にあって、西洋文化の普遍性を信じる西洋人たちの 信念には、3つの問題点がある。その信念が誤りだということ、道徳に反するということ、そして危険だということである」 言うまでもなく、経済や政府のかたちがどこでもみな同じならば、人の心の中はどこへ行っても同じだろう。 逆に、文明の衝突が避けられないならば、思考の習慣は多極化を続けるだろう。 ・・・・ フクヤマの未来観は、多くの西洋人、特にアメリカ人の視点を代弁している。アメリカ人は、誰もが根はアメリカ人か、 そうでなければ、これからアメリカ人になると思っている。・・・今やどの国の人たちも、ジーンズとTシャツを着て、 ナイキの靴を履き、コーラを飲み、アメリカ音楽を聴いて、アメリカ映画とTVを見ている。 逆にハンチントンによれば、世界の文化が西洋の文化に同化しつつあるという考えは、近視眼的かつ自民族中心主義な発想に もとずく幻想である。社会は互いに違っており、今後の国際紛争は、過去に見られた経済的あるいは政治的な対立よりむしろ、 文化的対立を発端にしていると考えられる。・・・≫ ▼ 「東洋と西洋の混血が現時点の日本」と仮説を立てると、日本の混乱が見えてくる。和魂洋才という言葉が、それを あらわしている。情報化の進展で世界がグローバル化された現在、決して否定出来ないこと。要は和魂を常に意識すべきである。 これは日本だけでない。トルコがイスラム教国に関わらず欧州よりの国家体制を作っている。矛盾があっても乗り越えてである。 いずれにしても、あらゆる人種をかかた世界がネットで情報が共有された現実がある。それゆえの混乱は激しくなるのは当然。 ・・・・・・ 3808, 哲学人 ー⑧ 2011年08月29日(月) ● 社会主義〜 妄想的理想社会への逃避 ー「哲学人」ブライアン・マギー著より 残念ながら、学生時代から社会主義・共産主義に対して本能的に、その虚偽を見抜いていたつもりだった。経済も社会も、国家単位の 計画で成立するはずがない。「経済は個々の競争原理の弱肉強食の戦いの中から優勝劣敗で進化する。その歪を国家がコントロールすべきで、 役人がたてた計画経済で、ことが上手く進むなどありえない」という単純な考えから抜け出れなかったのが本当だったが。 ここで、マギーは、学生時代に「資本論」に大きな影響をうけたと述べている。 人生で夢中になった一ダースに満たない本の一冊に 「資本論」を上げている。 しかし、社会主義国家が本当に成立するかどうか、疑問を持ったとも、述べている。 【 * ー 資本論を、二週間ひたすら読む ー 二学年めの復活祭の休暇中、私はオックスフォードに見つけた下宿屋にこもり、二週間は朝も昼も晩もひたすら『資本論』を読みつづけた。 じっくりと読み進め、書いてある内容について考えたくなったら、いつでも本を置いて好きなだけ黙想し、散歩をしながら重要な一節について 思索したり、夜にはべッドのなかでもこの書物について思いをめぐらせたりする。そんなふうに夢中になった本はそれが初めてだったし、 生涯を通じてもその数は一ダースに満たない。プラトンの『対話編』、『新約聖書』、ヒュームの『人性論』、カントの『純粋理性批判』、 ショーペンハウワーの『意志と表象としての世界』、『ウパニシャッド』、力ール・ポパーの『開かれた社会とその敵』、アインシュタインの 『一般相対性理論』ぐらいだろう。こういった本が私を変えてくれた。これはつまり、こうした書物に感化された考え方をするほど夢中になった ということであり、もし読んでいなかったとしたら、いまのような人間になっていたとは思えないということである。誰であれ、そんなふうに 言える本はめったにあるものではない。 私の場合、戯曲家、で同じことがあてはまるのは、少なめに見積もるとシェイクスピアひとり、 作曲家は七、八人といったところだろう。もちろん、読書や観劇や音楽鑑賞の蓄積が、その人の考え方や人格にじわじわと影響を及ぽし、 自覚できる変化を自我に生じさせた張本人と特定できる作家は、少数である。 ここに挙げた書物の半分はドイツ語圏の作家によるものだが、 この事実(作曲家の大半もその地域の出身であり、時代も同じであるという事実を加えてもいいのは、私の精神生活がどんなものであるかを 示唆している。 『資本論』の大半を占めているのは、英国の産業革命の歴史である。しかしそれは、ある主張を展開するために詳しく 論じられた歴史である。私はこの本を読んでもマルクス主義者にはならなかった。マルクスは労働価値説を自説の基礎としているが、それが 実体のない形而上学上の概念であることはすぐにわかったし、歴史の変化は科学的に予測しうるとする彼の信念は初めから受けつけなかった。 にもかかわらず、私の考え方はマルクスに多大な影響を受けている。その影響は、彼の著作を吟味するにつれて薄れていったけれども、 けっして消えはしない。私はそうなることを望まないし、マルクスの提示する洞察には不変の価値があると思っている。 彼は偉大な作家であり、大人物でもある。その怒りと裁断は厳しすぎ、エホバめいたところがあるとしても、である。 『資本論』は退屈でわかりにくい大冊だなどという考えがどうして出てくるのか。私には、その厚さにうんざりした人たちがこしらえた、 読まないための口実としか思えない。『資本論』は名著である。 世界史上、指折りの影響力をもつ書物であるのは確かである。 】 ▼ ソ連の崩壊と、中国の実質、社会主義的計画経済の放棄は、それは理想であって、現実にはそぐわないことを立証した結果になった。 そこに起こったのは、役人の特権化と汚職の氾濫であり、狂った独裁者の誕生であり、国家経済の疲弊である。 熾烈な競争経済の中でしか経済は発展しないことが、数千万の餓死などの犠牲者を出し証明された。まだ残存は残っているが。 ・・・・・・・ 3443, 最近の昼飯事情 2010年08月29日(日) * まさか昼飯がパン食になるとは! 最近の昼飯は外食から事務所内で駅のベーカリーで買ってくるパン食に切かえた。 時どき弁当もあるが、どうも冷えた弁当は部屋で 食べるにはそぐわない。レンジでもあれば別なのだろうが。それもインドのナンのようなものでパセリと海老か、唐揚げを包んだものがラップに 巻かれている。若い女性が好みそうなやつで、それだけのコーナーがある。 以前は、他にカレーパンなど二個だったが現在では一個にバナナ。 この歳になると、味は美味しく、サッパリして、腹に持たないものを求める。とすると女性向きにつくられたものが丁度良い。 30年近くのランチャーも卒業で、お部屋でヒッソリとパン食。 なれると外食が馬鹿馬鹿しくなる。 駅内にあるミニ・スーパーの 弁当コーナーを見ると、300円弱から400円辺りが中心プライス。月に3〜4回は買うが、何かイマイチ。 駅のベーカリーに イートインのコーナーがあり、コーヒー付きで400円位である。近くのマクドナルドなどと競合しているが、殆どが女性客。 早い時間から客席は半数以上は埋まっている。最近、長岡駅内にも出展したが山崎パンの直営店という。 最近、ほぼ同じものが 地元のスーパーに見かけられるようになった。スーパー原信が、地元のベーカリーチェーンを買収して、自社店舗内に出店している。 土日のどちらか一日の早朝7時に毎週行って、焼き上がりのパンとコーヒーを飲むのが楽しみの一つになっている。 昼にパン食に切り替えてから体重が1〜2キロほど痩せたが、これで20歳半ばの体重に戻った。歳相応になったということか。 それより、ランチを食べに行くのが面倒になったということ。 ・・・・・・・・ 3068,衆院選後のマスコミ社説を先取りすると! 2009年08月29日(土) 衆院選挙の自民党の壊滅は、ほぼ決定的である。バナナを使って捕獲されたサルと自民党の姿そのものが重なって見える。 サルを捕獲するに、箱にバナナを入れておき、サルの手が入る穴からバナナを掴むと手が抜けない。そこを捕獲するという逸話がある (本当かどうかは確かではない)。それと、自民党の300議席からくる権力の執着に似ている。 誰かがこの喩えを使うかどうか。 翌日のマスコミの解説の内容は以下の通りだろう。 * 民主党の大勝に意味すること 《 民主党が歴史的大勝をしたが、これは自民党の4年間の政策に対する国民の失意の結果。 (字数制限のためカット 2011年8月29日) ・・・・・・・・ 2703, 「レンタルの思想」−7 2008年08月29日(金) 地球は太陽の周りの隕石が何度も何度も衝突を繰り返しながら拡大し、生成されたもの。 聖地が石で出来ているというのも、その辺に秘密があるのだろう。 趣味の究極は石になるというが、 それもまた同じ理由なのかもしれない。いま気が付いたが、植嶋啓司の本を取り上げたことがあった。 全く忘れていたが、聖地の共通点を取り上げた内容だった。 〜〜 「宗教の隕石学」への挑戦 松井孝典×植島啓司 *聖地の岩石学 松井: 植島さんの本を読んで、なるほどと思ったのが「聖地というのは、みんな石切り場だ」ということです。 植島: 石を切り出したところ、あるいは特殊の石組みですね。 松井: 自然が宇宙の歴史を記した古文書なら、石切り場も古文書です。 植島: 20年間、世界中の40数箇所の宗教の聖地をおとずれたが、共通して出会ったものは「石」であった。 エルサレムの黄金のドームは「岩のドーム」と言われているとおり巨大な一枚岩が置いてあるだけ。 聖墳墓教会のあるゴルゴダの丘もかっては巨大な石切り場だった。 ストーンサークル(環状列石)、 岩石刻文の宝庫であり、 パルテノン神殿が建てられたアテネの小高い丘は巨大な石の塊、エジプトの ピラミッドは元々は石灰岩の山で、崩して平らにして組みなおしたもの。これらは偶然だけではないだろう。 植島: 聖地の条件として、ある樹木があるとか、洞窟があるとかではなく、なぜ石なのか、石には何か特殊の 力があったのか。・・・ 古文書として石を読む上で、分析は非常に大事だと思います。 ただ石の成分を読むのではなく、石が置かれた文化的環境を読む。 石ということでは、隕石や地球のマグマとの関係も重要です。・・・ 松井: 実は1980年以前はそういう認識はなかった。というのも地質学では、巨大隕石の衝突と地球史・生命史を 結びつける考え方は、科学では退けられていた。 しかし天から降る石があって、それが人間の存在や 考え方に影響を及ぼすという認識は、自然科学の登場前からあったかもしれない。 松井: 今こそ地球上に多くの人が住むようになって、絶えず隕石の落下が報告されているが、これが人間が少ない時に 大空から大音響とともに火の玉が降ってくるというのは、すごいインパクトがありますよね。 ▼ 解) 聖地は、どれもこれも、石切り場の跡にあるという。 私も多くの聖地を見てきたが、全てが石組みであった。 古代は大創造物は石しかないのだから、何も不思議ではないじゃないか、という見方も出来るが。 隕石に不思議な成分が 含んでいたのかもしれないし、宇宙の暗号があったのかもしれない。現代の人類が、その暗号に気づかないだけかも。 隕石に不思議な波長を、特殊能力のある人は、感じ取っていたのだろう。空から轟音とともに石が降ってくれば、神からの贈物と 思うのも不思議ではないが。「聖地の隕石学」も面白いだろう。親父が晩年、石に興味を持ち、庭には大きな石と石灯篭がゴロゴロある。 一昨日も、兄の庭にあった石灯籠を一つ引き取った。一年ほど前から、庭の花を写真に撮りだしてから、この庭に惹かれるようになった。 石と木と花と緑のバランスが良いが、実は特徴は背景の石だったということだ。 ・・・・・・・・ 2007年08月29日(水) 2339, 意志について ・ω・)ノはよー 「狂人三歩手前」 ー中島義道著 −哲学などしないようにー 哲学は、全て根こそぎ疑い、そして疑いの中から真実を見つけようとする。 哲学は曖昧な言葉をミキサーのように砕いてしまう。 意志についても哲学者は、その言葉に含まれている前提を見逃さない。 (字数の関係でカット08年8月29日) ・・・・・・・・ 2006年08月29日(火) 1974, 東京駅の一瞬の出来事! Good☆':.*^ヾ('c_'ヽ,,)*.:'☆Morning (~O~)ふぁ・時差ぼけ! ケニア旅行の帰路、最終の新幹線に間に合わないので日暮里に泊まった。翌朝、東京駅の新幹線改札口の近くに行ったところ、 突如顔色を変えた黒服の背広の10人位が走ってきて通行をストップした。一瞬、テロ爆弾の予告電話が入り閉鎖を始めたのかと思った。 しかし、その直後冷静にみると何か違う。黒服の男達は改札口の両側にロープを張って、その中に人を入れないようにしている。 「はは~、超ビップの新幹線の乗り込みのための警戒のための何か?」と直感。 逃げかけた家内を呼び止め「超ビッグのための警戒。 (字数制限のためカット 2011年8月29日) ・・・・・・・ 2005年08月29日(月) 1609, 愛とは何か −1 この歳になって、いまさら「愛とは何か」でもないが、この年齢でなればこそ、愛が人間の心の背骨と実感する。 ある愛の定義が納得のいくものである。「愛は、自分自身や他者に対して共感的にあるがままに受け入れることと 尊重することである」これから考えてみると愛することとは、自分を自分として、他人を他人として受け入れることになる。 まずは自分と他人を尊重することである。他人を愛するということは、よかれと思い、その道を一緒に探し求めることである。 判断や批判なしに受け入れることが、愛の第一歩である。飯田史彦著「愛の論理」の「愛」の定義が面白い。 その一部を抜粋してみると、 ー愛の定義 p.334 愛とは、自分という存在の価値認識と成長意欲から生まれるものであり、相手がただ存在してくれていることへの感謝ゆえに決断し、 永続的な意志と洗練された能力によって実行しようと努力する、相手の幸福を願い成長を支援する行為である。 p.374 私たちは、愛の実行力からみた人間としての成熟度に応じて現在の自分に可能な範囲で精一杯の愛を実行すればよい。 なぜなら、成熟度を大きく超える愛の実行を試みても、そこには必ず無理が生じて、自分自身を痛めつけたらり、 相手をも巻きぞえにして傷つけてしまう結果になるからである。ただし、私たちは、自分の成熟度を高めるための努力を、 つねに怠ってはならない。なぜなら、私たちは、愛の実行のみによってゆるされるのではなく、 より高度な愛を実行しようと挑戦することによって、ゆるされるからである。したがって、私たちは、はるか彼方にそびえる 「愛の山頂」にあこがれながらも、いま目の前で踏みおろすべき「次なる愛の一歩」を、見きわめなければならない。 そして、まだ山のふもとや中腹を歩んでいることを自覚しながらも、 着実に山頂を目指して登ろうと努力する時、その勇気と成長によって、私たちはゆるされるのである。 ーまた谷川俊太郎の詩がよい あい 谷川俊太郎 あい 口で言うのはかんたんだ 愛 文字で書くのもむずかしくない あい 気持ちはだれでも知っている 愛 悲しいくらい好きになること あい いつでもそばにいたいこと 愛 いつまでも生きてほしいと願うこと あい それは愛ということばじゃない 愛 それは気持ちだけでもない あい はるかな過去を忘れないこと 愛 見えない未来を信じること あい くりかえしくりかえし考えること 愛 いのちをかけて生きること −− 宗教の愛についての教えも深い。 愛について聖書にはこう書かれています。 「愛は寛容で、情け深く、ねたむことをしない。高ぶらず、誇らず、無作法をしない。自分の利益を求めない。 いらだたない。恨まない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。すべてを忍び、信じ、望み、耐える。」 また仏教では、「無縁の慈悲」を究極の愛の姿としています。 つまり、私が誰かに何かをしてやるということを全く意識しないで、他者を幸せにすることです。
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2012年08月28日(火)
* 認知科学者は間違っていた? 「木を見る西洋人 森を見る東洋人」 ニスベッド著 最近になり、「自分が理解していることは、言葉で説明すれば相手は理解してくれているはず!」が、私の思い込みに気づいた。 人間は知りうる範囲で理解しているだけだが、自分が理解している範囲とは違うのである。 「自分が真実と思っていることと、 真実は違う」のである。 真実と思っていても、思い込みのことがあまりに多い。今まで国や文化や肌の色や宗教によって世界観が 変わっても、人間がものを考えるために用いる道具は同じと誰も疑わなかった。「ものごとを知覚したり、推論するために用いている 道具は同じである。論理的に正しい文章は、日本語も英語も中国語であれ、正しいことに変わりはない。だが、もし、それら全てが 間違っていたとしたら、認知科学の大前提を覆ることになる。」と、いう。緑の原野で、何を見て、何を信じてきたのだろう。 ー以下の部分は、その部分ー ≪ ヨーロッパ人の思考は「対象の動きは(それが物体であれ、動物であれ、人間であれ) 単純な規則によって理解可能である」との 前提の上に成り立っている。西洋人は物事をカテゴリーに分類することに強い関心をもっている。 なぜなら、分類することによって、 今問題となっている対象にどの規則を適用すればよいかがわかるからである。また、問題解決に当たっては形式的な論理規則を 適用することが有効だと信じている。これに対して、東アジア人は対象を広い文脈のなかで捉える。 アジア人にとって、世界は 西洋人が思うよりも複雑であり、出来事を理解するためには常に複雑に絡み合った多くの要因に思いを馳せる必要がある。 形式論理学はほとんど問題解決の役には立たない。実際、論理にこだわりすぎる人間は未熟だとみなされることもある。 私は心理学者として、これらの主張が革命的な意味をもっていると感じた。もし彼らが正しければ認知科学者は間違っていたことになる。 つまり、「人間の認知はどこでもみな同じ、ではない」のだ。 人文・社会科学諸分野の研究者たちは、明確にそれとは言わなかったが、実は思考の本質について非常に重要な主張を行っていた。 第一に異なる文化の人々は、世界の本質についてそれぞれの根本的メタフィジックスな信念、彼らなりの「形而上学」を有していること。 第二に、それぞれの人々に特徴的な思考のプロセスには大きな違いがあること。 第三に、そうした思考プロセスは、世界の本質についての信念に合致したものであること。言い換えれば、人は自らの世界観に 合致した方法で世界を認知するということである。 注目すべきことに、社会の構造や人間観というものは、それぞれの社会に生きる人々がもつ信念体系や認知プロセスと非常に よく合致しているように思われる。アジア社会は、集団や周囲の他者との協調を重んじる傾向があると言われる。こうした特質は、 アジア人が文脈を重視して広い視野で世界を眺める傾向をもっていることや、「出来事は極めて複雑なもので、その生起には 多くの要因が関係している」と信じていることと合致している。これに対して西洋社会は、個人主義的でお互いの独立性を重んじる 傾向があるとされる。こうした西洋人が特定の事物を周囲の文脈から切擁して観察する傾向をもっている。≫ ▼ 「アジア人が文脈を重視して広い視野で世界を眺める傾向をもっていることに対して、西洋社会は、個人主義的でお互いの 独立性を重んじる傾向があるとされ、西洋人が特定の事物を周囲の文脈から切擁して観察する傾向をもっている。」ことより、 「気を見る西洋人、森を見る東洋人」という本の題名になっている。同じ森林を見ても、これだけ思考の仕方が違ってくる。 また一神教の欧米と多神教の東洋人とは、同じ現象でも受け止め方が違って当然である。それと、好き嫌いという感情で違ってくる。 「世界についての考え方は根本的にひとつである」大前提が違うとすると、文明の相克はあって当然。争いは永遠に続くことになる。 ・・・・・・ 3807, iPadを買った ー2 2011年08月28日(日) iPadを買って六日になる。これはブログ、電子書籍、ネット新聞、メールなど「閲覧用と割り切って使う」のと「ゲーム」に適している。 ゲームやアプリを取り入れ「自分の面白空間を創造する手みじかで持ち運び可能な電子基地」になる。これまでのPCを固定電話に喩えると、 これは携帯電話、それもモバイル携帯に一挙に進化したもの。もし迷っているようだったら、買うことを勧めます。 モバイル携帯のiPhoneは私には合わなった。これは、それが大型化しただけ?と躊躇したが、実際に手にして私にも使えるシロモノ。 まずよいのは画面を横にスクロールすると、ページが次々と切り替わる。 これがアイコンの分類に非常によい。 一ページ目に、元もとiPadについていたアイコン。二ページ目には、気に入ったブログ。三ページ目には、ダウンロードしたソフト。 4ページ目は、ゲーム等々に分けることができる。これが使う立場からすると扱い易い。そしてゲームやアプリなどを、それぞれのページに 溜め込むことができる。 現在のパソコンのセカンドとして、閲覧とゲーム専用に割り切るとネットに繋がる時間が圧倒的に増える。 ノートと同じ薄型で、無線のため、持ち運びが手軽で、これまでと格段にネット世界が広がる。 パソコンのある机に縛られていたのが、 そこから開放されるのは大きい。先ほど述べた携帯電話が固定電話から人々を解放したと同じで、一度開放されたものは元に戻ることはない。 その意味で、これは革命的進化といえる。モバイルPCはあったが、キーボードで操作であった。しかし、これは直感的に画面上の タッチ操作になっている。iPhoneと、どこが違うかのか? というと、まず画面の大きさである。手帳とノートの差といえば、 分かりやすいだろう。講習会や授業で手帳に書き込む人はいない。誰もがノートである。電子ノートと思えばよい。 iPhoneは携帯電話にパソコン機能をいれたもの。これは電子ノートパソコンであり、画面の大きいわりに移動時に嵩張らない。 週刊誌や新聞も、あと数年もしないうちに大部分が、これを通してみることになる。もうひとつ、Youtubeがワンタッチで直にみれる。 こうなると、文字情報の伝達から画像、映像に手段が移動していくことになる。ということは、情報が、圧倒的に個人間で増加していく。 年内は、私に最適なアプリ探しがテーマになるのだろうが、それにしても面白いものが出てきた。これにツイッターの映像公開となり、 これにネットTVときたからには、政治も、経済も、企業も、一般消費者の変化に対応出来なって当然だろう。ネット世界が我われを覆ってきた。 ・・・・・・・ 3442, 我が家に新しいTVが −3 2010年08月28日(土) 新しいTVに切り替えて二週間になる。 画面の鮮明さは説明するのが難しいほど。時間が経過しても驚きは消えない。 ボクシング、プロ野球、歌謡番組、演奏会、大自然などの旅番組などの現場の臨場感がこれまでと違う。 剥き出しのエネルギーが、これらから直に伝わってくるからである。 その結果、それ以外のワイドショー、バラエティー、中途半端なドラマなどを、ほぼ見なくなった。 マシーンが逆に視聴者の選択を変えてしまう現象である。それと対象をリアルに変えてしまうのである。 米国の本格的な映画も、これまでと違った迫力が画面に出るので面白みが倍増してきた。そうこう考えると、やはり大したしろもの。 現場で人間が見える対象より、デジタル加工した方が、より鮮明になるという領域に入ってしまった。 これに3Dの立体化された映像が加わったり、スーパーハイビジョンが本格的に放送されたとしたら、世界各地に 実際に行ってみるよりTVで見た方が良く見えるということになる。(現に、ある領域では達しているが) その一端を垣間見ているのである。 実際には現地でみる360度の視界で、五感で体感するものにかなうはずはないが、 視覚・聴覚の世界で数倍鮮明に映し出される世界は違う。 まだ地デジがアンテナの関係でまだ映らないが、 これが入ると本来の多くの機能が加わる。それが凄いようだ。(8画面を同画面で見たり、地デジ8チャンネルを26時間録画したり・・) 高機能TVというより、未来の先取りのTVという感である。 テレビなどバカが見るもの!は間違いない事実。 しかし自分が行った旅先の映像が、より鮮明に画面に映し出され、そこに深く浸かることが可能になった。 面白い機能のひとつが、テレビのセンサーが室内の照明や室外からの陽光を読んで、画面を修正する「おまかせ」がある。 テレビは、それぞれの家庭の居間で毎日、顔を突き合わせるもの。そのため、メーカーは、そのシェアが即、会社の力を あらわす。そのため、いずれも総力をあげ商品作りをしてくる。 一歩出遅れた東芝がプライドをかけたエネルギーが伝わってくる。 ・・・・・・・・ 3067,私の世界からみえた衆院選の予測 2009年08月28日(金) 私の世界から垣間見た、この衆院選挙の直感的予測は、民主ー325 自民ー95である。飲み会、同級会、会社、取引先などで 自民党に同情的な人は皆無という事実からみても、自民党の惨敗は間違いし、80議席以下の可能性もある。 輸出産業関連の大手企業の支配下にあった自民党政権の一番の被害者の地方の中小・零細企業や農水産関連の人たちの怨念は深い。 小泉劇場での郵政民営化の争点だけに国民の目を向けて、旧守派潰しの芝居をつくりあげて大勝をした。 そして、自分も含めた 4人の元総理などの二代目、三代目に政権のタライマワシをして自分たちの権益を守ってきた。日本国家の戦略の布石を試みたが、 実力不足で出来なかった。 最後は麻生の質の悪さの露呈である。 これでは、国民は怒りを通りこし侮蔑の感を持つのは当然のこと。 小泉が薄ら笑いを浮かべて、《私の手法のワンフレーズの 「郵政民営化・自民党を叩き壊す」を、今度は民主党が「政権交代・官僚支配の打破」の切り替えに成功している 》とのたまっていた。 当の本人だから、その辺のことが鮮明に見えるのである。冷静に考えれば、民主党が270議席辺りが政治的に妥当だが、 自民党の4年の醜態を見れば、壊滅的破壊を求めるのは国民感情である。 民主党の鳩山も所詮は鳩山一郎の孫で、同じ穴の狢。 政治家業の老舗の一員でしかない。 手垢のついてない日本のオバマが出る懐の深さがないのが現在の日本の現状。 民主大勝で、日本も遅ばせながら大きく政治が変わる。 あの元首相などの顔が消えるだけで、非常に喜ばしい。 あれこれ考えると、やはり民主ー325でよい。 創価学会などの政治介入を断ち切るためにもである。 その隙をついて怪しげな宗教家業屋が政界進出?だと、ったく! ・・・・・・・ 2702, 閑話小題 2008年08月28日(木) *首都圏の不動産の本格的倒産が始った アメリカのサブプライムローンの影響で、外資が一斉に引きはじめた影響が出始めた。 一昨日も「旭ホームズ」が780億の負債を抱えて倒産。先日はアーバンコーポレーションが2500億円、 旧興和不動産が1700億、ゼファーが1000億弱、セボンが700億、スルガコーポレーションが600億と、 たて続きに倒産してきた。周辺をみると長岡市内も、新潟市内も、過剰なマンション建設がおこなわれている。 誰が見ても不況の中にあって無謀に見える。 土地の仕入れから完成まで3?5年は最低かかるので、急な景気停滞に 対処できないのが、彼らの宿命である。完成時には、時代が様変わり、というのが現在の経済状態である。 数日前のTVで、売れ残ったマンションを買い叩いて再販する業者の特集をしていた。だいたい仕入れ値が、当初の6割。 2割が経費と利益として、8割の売値が相場。新潟市内も売り出す前から、既に値くずれが生じているという。 これが今後5〜10年間つづく大変動の始まりか。 あくまでも始まりであるところが、恐ろしい。 *星野野球のバッシングが手厳しい (字数制限のためカット 2010年8月28日) ・・・・・・・・・・ 2007年08月28日(火) 2338, ホッファー −4 (*'▽'*)/☆゜ ほっふぁー ようさん〜〜〜〜♪ (;-""-);'↑ ー更にHPにあったホファー「波止場日記」の中から言葉を拾ってみるー 『ー 〜〜 ー は感想』 <たびたび感銘を受けるのだが、すぐれた人々、性格がやさしく内面的にも 優雅さをもった人々が、波止場にたくさんいる。この前の仕事でアーニーとマックとしばらく一緒になったが、 ふと気付くと、この二人はなんと立派な、寛大で、有能で、聡明な人間だろうと考えていた。 じっと見ていると、彼らは賢明なばかりではなく 驚くほど独創的なやり方で仕事にとりくんでいた。 しかも、いつもまるで遊んでいるように仕事をするのである> ー人間の価値とは何か?最近、解らなくなってきた。誠実であるということ、そして努力をし続けること、 他人と比較しないこと、知恵を出す術を知っていること、他人ことを気遣いすること、 他人に笑顔を浮かべること、迷惑をかけないこと。その基準で図れば解るはずだがー <労働者としても、また人間としても比類ないニグロが幾人か波止場にいるのを知っている。 この人たちは柔和で、誠実で、非常に有能である> ー結局は、アメリカこそヒンズー教のような差別・階級社会である。これだけは、仕方がないと割りきるしかない。 おうおうにして下の人の中に、柔和で、誠実で、有能な人がいるのも解る。ただミス・フィットなだけだー <知識人は自己の有用性と価値とに自信がもてないために、とてもプライドなしには 立っていけないのであり、普通は国家とか教会とか党とかいった ‘ある緊密なグループと自己を一体化してプライドの根拠としている’のである> ーロータリー、青年会議所、銀行の主催した会とか、色いろあって名刺にベタベタ書いている立派な方がいる。 誰も面と向かってアフォと言わないのが日本的で良いが、それにしてもね〜。 <自分自身の幸福とか、将来にとって不可欠なものとかが全く念頭にないことに気付くと、 うれしくなる。いつも感じているのだが、自己にとらわれるのは不健全である> ー不健全の何処が悪い?という声が聞こえそうだが。でも、健全に越したことはないー 全般的に見て、教育のある人間より大衆の方が、人類についてよい見解をもっている。 ・・教育はやさしい心を育みはしない> ーその人の性格によるが、概してそうみてもよいか?− <人は、充実した2,3分の間に、数ケ月にわたる努力以上のことを なしとげられるものだ> ーそれじゃ、努力した数ヶ月はどうなるの? そういうこともある!というのが本当じゃないか!ー <私は欠点や欠陥にみちた社会に生きている。 しかし、この社会は全ての人に好きなことをさせる十分のゆとりをもった社会である。 ・・・干渉されることなく自己の能力と才能を発揮したい人にとっては、 この国(アメリカ)は理想的な国である> −そう思うから、良いんじゃないのですか? 違う?ー (以下、字数の関係でカット 09年8月28日) ○´・ω・]ノ ヂャァネッ ! ・・・・・・・・・ 2006年08月28日(月) 1973, 三回目のケニヤ旅行 −1 ケニアに行ってきた。 家に着いてまだ二時間だが、現実に帰る前に書いている。 これでタンザニアに行った時に通過したことも含めて4回目になる。旅行をしていて気づいたことは、三回で充分。 タンザニアのセレンゲッテーか、南アフリカのオカバンゴにすべきであった。 といってもケニアの大地は、そこにいるだけでも精気を充電でき、バカンスとしては十分に満足できた。 今回のハイライトを印象度から書いてみると ①まず初日のサンブルのサファリでみた、豹のペアリングである。これは、プロのカメラマンでも、ほぼ見ることが出来ないもの。 これだけでも、今回の元をとってしまったといってよい。(しかし、初日に何枚か撮った写真を間違えて全て消去してしまった。) 仲間内のSDカードをコピーしてもらったので、何とか・・・ ②マサイ・マラの夕景も良かった。あとで写真を掲載するが、マサイの夕陽は何ともいえない哀愁がある。 そういえば以前のヌーの河渡りのウォッチングの帰り道の夕景の小高い丘の光景を思い出した。 一匹取り残された足の折れたヌーが怯えて、神経質に周りを見渡していた姿。 夕景は死の間近を暗示、 足の折れた姿は病気を、 一匹取り残された姿は孤独を、人間の死期を悟った時の心象風景そのものである。夕陽の赤に近いオレンジ色は、朝日の色に似ている。 死と生は酷似しているのだろう! 今回の夕景は 2~3日うちに掲載予定。 ③いつも感動するのが、ナイロビからマサイマラに向かう道路からみる大地講帯の広大な風景である。 それも、どんどん変わっていく風景が素晴らしい。 これも見ているだけでも心が洗われる。 ④アバーディアのサファリで見た、小さな川での二匹の象の水場での争いも印象的であった。一匹の象が水を飲んでいるのを 後できた象が待機していた。やおら飲み終えて帰ろうとしたのを見はらかって、待機をしていた象が歩き出した姿を見て、 帰るのを止めて後ずさりをしてその象を頭で押し返してしまった。さらにその河水飲み場に糞をして嫌がらせをした。 何か人間の浅ましい姿に似ていた。 ⑤サンブルでの、変わった動物が次から次へと見れたことだ。 特に印象的であったのは、網目キリンと、オリックス、ディクディク、ゲレヌクなどが印象的であった。 前回の、ヌーの河渡りの時も、そうだったがアフリカに来る人は癒しを求めてやってくる。 あの大地は、そこにいるだけで心が洗われる思いになる。 今回も、充分過ぎるぐらいの精気をいただいた思いである。
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2012年08月27日(月)
* つれづれに このところ尖閣諸島、竹島や、北方領土に、中国、韓国、ロシアが意図的に仕掛けてきている。 現在の首相がレイムダック状態で、組みやすいタイミングとみてだ。 しかし日本にとっても、沖縄米軍基地問題の中、 その存在を考えるに丁度良い問題でもある。関連している各国全てが良い上に、国民の目をそこに引きつけてくれる。 もう直ぐに、中東で決定的な何かが起こすための目先の意図的な小競り合いの要素がある。 中国は権力の移行期における 軋轢が起こっている上に、景気は減速。 韓国は、現大統領の側近が収賄などで次の選挙に立候補さえ出来ず、失職後に 恒例の暗殺か、自殺?か、逮捕劇が待っている。 極東も不安定状況になってきた。 アメリカの穀物が異常気象で干ばつというニュース。 深刻なら経済が一挙に際どくなる。 一昨晩のBS/TVで、 欧州の経済不況の現場を特集していた。 スペインの移民が住宅ローンの破綻で、家の明け渡しのトラブルとか、 アルゼンチンにUターンをしている事例とか、深刻な内容。 5年、10年後の日本の状況である。 * iPad導入、一年 去年の8月25日にiPadを購入して一年になる。当初の熱は冷めたが、使い勝手が良いこともあり、今では必需品である。 居間と書斎に卓上型のiMacを置いているが、居間のPCは家内が専ら使っており、そこで私はiPadを使っている。 TVに飽きたり、コマーシャルの間、ネット・サーフィンをしたり、本のチョイ読みが専らである。 気楽に自由空間を飛びまわっている感覚が良い。 電動アシスト自転車が三年、未来型TVが二年、iPadが一年。 それぞれ大きく日常の生活を変えてくれた。 新しいツールが、日常を大きく変えている。 馬鹿になっているだけだが! ・・・・・・ 3806, 哲学人 ー⑦ 2011年08月27日(土) * 歴史の知識が、物事の理解の仕方に及ほす影響 ー「哲学人」ブライアン・マギー著より 【 歴史の専攻に費やした五年間(パブリック・スクールでの二年間と大学での三年間)は、一般的な遺産をひとつと、個別的な遺産を いくつか残してくれた。一般的な遺産として私の頭のなかには、古代ギリシャかち現在までつづく西洋の歴史に関する概略的な知識が残った。 こうした知識は習得に数年間の研究を要するので、当然たいていの人は、いや、かなり高学歴の人でさえもっていない。 物事の理解の仕方へのこの知識の影響は根深いらしく、私の考え方には、対象が音楽であれ、演劇であれ、政治であれ、哲学であれ、 ともかく決まって歴史的な側面が認められる。私にはあらゆるものを、その成り立ちや今後の展開といった観点から眺める傾向がある。 また、過去の人物をより広い文脈に置く傾向もある。そうやって、その人々が住んでいた社会の様子や、彼らが活動していた当時の状況、 その時代にはまだ起きていなかったこと、彼らが知リえなかったことなどを認識するのである。さらに私は、現実が絶えず変化しつづける ことを踏まえ、‘現在には特別扱いすべきところなどない’とわきまえている。いま起きていることには特別な重要性がある、 そう思いこんでいる人が大勢いるようだが、私はそうではない。過去全体がいまへとつながっているのであって、かつてのどのいまとも 同じように現在は一時的なものであり、ときに総体としての過去のなかの一瞬にすぎなくなることを私は知っている。過去、現在、未来を 問わず人は誰しも、複雑で途絶えることのない大きな歴史の流れのなかの任意の時点に人生をはめこまれるのであり、その歴史の流れは 絶えず変化し、各個人の死後もつづいていく。その流れのなかに、ほかと比べて特権的な時点などなく、ほかより多少なりとも 絶対的な時点もない。こうした思いが私の骨の髄まで染みこみ、芸術と知的生活のどちらに対する態度にも行き渡っている。】 ▼ ついつい我々は、「自分の生きてきた時代を特権的かつ絶対的な時点」と思い込んでしまう。それが自分が生きてきた時代という 理由だけで・・ しかし過去を振り返れば、長い歴史の中の一コマでしかないは明白である。従って、日本史や、世界史を何度でも 読み返し、自分の置かれた時代を冷静に見つめるため、地球儀と世界史の本を身近に置いておくべきである。グーグルアースとは別に。 ・・・・・・・ 3441, 政治談議 2010年08月27日(金) * 小沢一郎が、民主党党首に立候補 日本の歴史始って以来の危機の時期に、小沢が立候補を決断をした。 この恐慌を乗り越えるには、自民党、民主党という枠を超えた大連合しかない。その断行は待ったなし。 管首相以下の三人が政権運営維持、難局に対処出来るなど考えられない。 面白いもので、小沢が立候補のニュースをみた直後、近くあった月刊誌の「現代・プレミアムーノンフィクションと教養」 を手に取ると、週刊文春などの編集長などをいていた花田紀凱が小沢一郎批判をしている文に行き当たった。 田中角栄直伝の集金システムの手法は、そのまま続いている。 ここで、1993年、小沢が新生党を結成した時に立花隆が朝日新聞に痛烈な批判の文章を取上げていた。 (字数の関係でカット09年8月27) ・・・・・・・・ 3066,ウワサを考えてみる −2 2009年08月27日(木) 「うわさ」をもう一歩掘り下げて考えるために「オレルアンのうわさ」と「和服美人局のうわさ」を対比してみる。 似ているところは、バックにある犯罪組織の臭いと、性的な危うさ、そして「ユダヤ人経営者」=「女好き経営者」への虐め。 違うところはオレルアンが若い女性の間の噂だったのが、長岡は街の酔い客である。前者は根も葉もないデマだったと後で判明したが、 後者はファジーのままで終焉したこと。「うわさは愚者に始って、賢者で終わる」というが、冷静になれば風評ということが分かるはず。 人は「事実より、信じたいことを信じる」傾向があり、心の闇に符号することには更に強くなる。 「悟りとは、平気で死ぬことでなく平気で生きること」というが、うわさなど一々気にしていたら自分の世界を小さくするだけである。 特に地方では小さい世界を更に小さくしてしまうことになり、生き辛くなる。 女性週刊誌は芸能人の「うわさ」(とくに下ネタ) を商売のネタにしている。逆に芸能人も売名のため、自分の方からネタを売り込む場合もある。「火のないところに煙がたたない」というが、 うわさをたてられた当人が火ではなくて、うわさを好んでする「劣化した連中の口が火元」になるから、複雑になる。 中世の頃にあった「魔女狩り」や、第二次大戦の東京大空襲直後の「朝鮮人狩り」とか、デマが真実と信じられ殺害にまで至る。 今では「2チャンネル」のサイトが、その機能を果たしている。人間の心の弱点には「自分の心の不安を言葉に言い換えた物語を 信じてしまう傾向」がある。それをついたのが新興宗教であり、占い師である。 週刊誌の記事は売らんがために、不安のネタを見出しにし、 あらゆる手法を使う。 それを額面どおりに受け止めるのも問題だが。 この選挙のキャンペーンにも、その不安を煽って物語をつくり、 自分を解決の主役にしている輩を多くみかける。 それを選挙民が求めているいるのだから、虚像でもよいから演じるのは当然のこと、 といえば、その通りだが。 ・・・・・・・・・ 2701, 地球史における革命的事件 2008年08月27日(水) 6500万年前に巨大な隕石が衝突し、恐竜が絶滅したというドキュメントをTVでみた記憶はある。 この本で知ったことだ、米ソの核の爆発のエネルギーの1万倍の規模とは驚いた。 当時、「もし核戦争で起こって核が全て使われたら人類を数万回は殺戮できる」と聞いていた。 その一万倍の破壊が6500万年前に実際あったのである。 それが現代に来たとした物語の映画が幾つかみたが... その御陰で、恐竜が絶滅して人類の祖先が生まれる環境が出来たのである。 1000万年遅れれば、我々人類の祖先さえ、まだ地球上に存在してないのである。 以下は「レンタルの思想」を読んで、さっそく取り寄せた本にあった地球にとっての革命的事件の内容を抜粋した。 「地球システムの崩壊」松井孝典著 −読書日記 *地球史における革命的事件 K/T境界層と略称される地層がある。絶対年代では、6500万年前の地質のことである。この年代を境に、生物の絶滅が起こっている。 それぞれの地層にふくまれる化石に基づいてその年代が決められる地質年代では、その前後の年代を、白亜紀、第三紀と命名して区分。 それぞれの年代の、外国語表記の頭文字がKとTなので、その境界の地層は、K/T境界層と呼ばれる。 この地層は世界中至る所に分布する。もちろんわが国にもある。・・・・ カリフォルニア大学の、アルパレスという地質学者を中心とする チームが、そのK/丁境界層で、イリジウムという元素が濃集している事を発見し、それが巨大な隕石の衡突によってもたらされた、とする 学説をサイエンス誌に発表したのである。 それが地球史観においてなぜ革命的なのかといえぱ、従来、地質学の根本原理といわれていた (字数の関係でカット08年8月27日) ・・・・・・・・・ 2007年08月27日(月) 2337, 郵便配達夫シュバルの理想宮 −1 (字数の関係でカット08年8月27日) ーーーーーーー 2006年08月27日(日) 1972、事業百訓ー1996年(10) (字数の関係でカット08年8月27日) ーH0805 エジプト、トルコ感激の旅 ーエジプト編ー まさにタイム・スリップして数千年前の古代を旅している日々であった。まず最初に訪ねたのがカルナック神殿。 “まさしく驚愕!”直径が二mの石の大列柱が百数十本並ぶ神殿。これが三千数百年に!周辺の王侯貴族を驚かす為に造られたというが、 今まさに自分が、目を丸くして驚いているのだ。 歴史が私という小さな存在を見下ろしている。 日本ではまだ縄文の時代、 これを造りあげた高度の技術があったのだ。壁に刻みこまれたレリーフ、古代文字、現地のまだ若い日本人女性ガイドの熱心な説明も手伝い 古代文明の世界にタイムスリップした気分になってしまった。 空に天を指すオペリスクとラムセス鵺世などの王や神の像の数々、 今まで何度か海外旅行をしていながら、何故ここにもっと早く来なかったのだろうか?と考えてしまったほどだ。 次に行った“王家の谷”。ここは何代の王様の墓が、 かくれるように数々掘られている集団墓地だ。 この中で英国の考古学者カーターの執念でつきとめられたツタンカーメンの墓室にも入ってみた。 また、夕日の長い影を落としていたハトシェプスト女王の壮麗な葬祭殿と、そこにやはり刻まれていたレリーフの数々。 その帰りにたちよったネクロポリスの麗に立つメムノンの二体の巨像の神秘的な光景も印象的であった。 その翌日行ったアブジンベルの大神殿、小神殿、のラムセス二世等の巨大な立像も実際そこに立ってみて古代歴史の深さを実感。 またアスワンのナイル川で乗ったのんびりした“ファルーカ”という小さな帆かけ舟の夕日の中での“ひととき”も、 一瞬の中に永遠を感じる事ができるようだった。 旅の後半になってカイロに入ったが、ナポレオンが言ったという“四千年が諸君を見下ろしている!”という、 まさに異様なイスラム社会が大きなカルチャーショックになった。丁度、ラマダン(一ケ月間の日の出から日の入りの断食の行) という事もあり、異様さがさらに目立ち、我々日本人は西欧社会に感化されているのが対比する事ができた。 早朝、街中とどろくアラーラの祈りのスピーカーの音も異様そのものだった。我々の目からみると、接するエジプト人全員が金に汚い詐欺師、 “騙すより騙されるのが悪い!”“車は轢かれるほうが悪い!”とか、それがイスラム教という。 カイロ郊外にある二百五十万個の巨石を 積みあげたピラミッドも本当にすばらしいの一言。考古博物館のツタンカーメンの黄金のマスクと財宝をみた瞬間、身ぶるいをしてしまった。 まだ今にも起きあがりそうなラムネス?をはじめとする数々のミイラも数千年をこえ、不死への激しい希求を魂に語りかけてくるようであった。 ーH0805 エジプト、トルコ感激の旅 −トルコ編 ー トルコといえばキノコ岩等の奇岩の群れカッパドキアが有名である。トルコ中央に位置しているアンカラの南東に広がる高原地帯にある。 中世にイスラム教徒の圧迫により逃れ逃れたキリスト教がたどりつき、奇岩をくり抜き洞窟教会や住居をつくりあげた聖地。 まさにSF映画やアニメ漫画に出てくるような現実ばなれした奇景そのもの。“本当にここは地球上?”と息をのんでしまうほど。 その近くにあった地下都市・カイマルクも異教徒からの目から逃れる為の秘密地下都市群。あちこちに蟻の巣穴のように縦横に掘られており、 地下のマンションと形容できた。一万人以上が何世紀にわたり隠れ住んでいたという、信仰の深淵さをみた思いであった。 そして、その帰りのバスの中より夕景の“大きな 丸い真赤の月光”も生まれて始めてみる生涯忘れられない光景であった。 イスタンブールの地下宮殿と呼ばれている地下水道の貯水池“イエレバタン・サライ”も非常に印象的なものであった。 十二列×八mの列柱が336本整然と並んでおり、その一本の柱の下に神話に出てくる女神、メンドーサの石首が土台になっているのが神秘的。 バック・グランド・ミュージックにベートーヴェンの第九が厳かに流されていたが、その場の雰囲気にぴったりであった。 トプカプ宮殿では、かのオスマントルコ帝国が、何世紀にわたって世界中より集めた秘宝がところ狭しく展示してあった。 リンゴ大の四十数カラットのダイヤモンドや純金の椅子には驚いた。宮殿もその絢爛たる宮廷生活をしのばせ、四〇〇年間のスルタン(皇帝)の 日々が目に浮かぶようだ。 また、イスラム寺院のブルーモスクやアヤソフィアも、その荘厳な内部も圧倒された。 私自身、気功をやっている為か、右手がいたくなるほど、しびれがきたのには驚いた。 これだけの深い歴史の国に四日間だけで、 ほんの一部しか触れる事はできなかったが、この国の“光”の一部はしっかり見たつもりである。 最後に行った巨大市場、スークも面白かった。 五千の貴金属、みやげ物を売っているが、ほとんど偽物の金銀の貴金属商品という。そういう目でみると逆に面白いものばかりであった。 殺人的なスケジュールの十日間の旅であったが、中味の濃い感動・感動そして感激の日々であった。 (H 8年.1月30日〜2月8日) ーH0807 インカ帝国<夢の旅> ーマチュピチュの遺跡編 ー ペルーはインカ帝国がスペインに滅ぼされるまで文字が一切ないという不思議な文明の国であった。 その為かプレインカ(インカ帝国以前の文明)と、インカ帝国がより神秘的にナゾめいて来る。 その圧巻がマチュピチュの遺跡である。高度三千三百mのインカの首都であったクスコよりバス、登山列車、 登山バスを乗り継いで四時間あまりの行程。 四千〜五千mの山々の谷間に、突然小さな(といっても二千三百m) 山が見えてきた。 そこに空中都市といわれるマチュピチュの遺跡が、霊界のように造られていた。まさに地上世界ではなく「あの世」を思わせる神秘的、 霊的、宇宙的な別世界である。エジプトのカルナック神殿をみた時の驚き!と同じか、それ以上の驚嘆に一瞬につつまれてしまった。 あれだけTVドキュメントと写真でみていたのに、“現実にみると全く違う!” 神秘的あまりにも神秘的、いや霊的神性という言葉が、 ぴったりとする! 本当に地球は広いそして深い!とあらためて実感した。 この空中都市は、インカの人々がスペイン人より逃れる為と 復習の為の作戦都市といわれている。そして突然、この都市を焼き払い奥地へと消えていき、 まだ発見されてない地に伝説のそして 幻のビルカバンバの都市を建設したという。マチュピチュを去る決意をした人々は老人と“太陽の処女”たちを殺し、その一角の墓地に葬った。 この遺体がこの遺跡が発見された時に一緒に発見されたという。私もこれだけの異界文明の“すごみ”を経験するのは生涯で初めてであった。 まさにSF小説の地を夢で浮遊しているようであった。 ーH0807インカ帝国<夢の旅> −ナスカの地上絵編ー AC百〜六百年の昔、海岸から三百八十kmの乾燥地帯に一つの文化が栄えていた。 謎の地上絵で知られるナスカ文化である。彼等は何を思ってか九百k?にわたる広大な大平原に直接、 三角形の図形と線の動物、虫、植物、宇宙人(?)の絵を描いた。 (その絵と同じものが当時の土器に描かれているので、彼等の時代に描いたのが判明できたという。) その地上絵は飛行機ではじめて発見、判明された。それが何を意味しているのか、 宇宙人説、空飛ぶ人間説、星座をあらわすカレンダー説などあるという。 灰色の土地を十cmも削ると黄色の地面が出てくる。それを三十cmの巾で十〜三百mにおよぶ絵をえがいている。 その数がペルー全土で二百以上あるという。そしてその多くがナスカに集中している。 セスナ機で二十分位飛んだ大平原にあちこち見えてきた。 本当に宇宙人にみせる為としか思えない。“UFO”のまさに世界である。 少なくとも、このフライトの間は宇宙人は本当に存在しているのでは?と確信したくなる光景であった。 ハチドリ、クモ、コンドル、サル、宇宙人の絵と、その背後に何キロにわたる縦横に描かれた直線は、 誰に見せる為のものであろうか不思議そのものである。 編みあげの髪の毛のインデォのおばちゃん、アンディスの山脈、チチカカ湖にすむ原住民の素朴な生活。 そして世界の七不思議といわれる巨石建設の技術等に、強烈なペルーの魅力的な世界が今でも脳裏に やきついてはなれない。高山病に悩まされ死ぬ思いであったが、そんな事は些細に思わせるほどの 聖なる不思議な日々であった。 (次の南米はペルーの反対側にあるキアナ高原にある世界最後の秘境、テーブル・マウンテン)ーH08年6月6日〜 ーH0809 大地の果て南アフリカー はじめに南アフリカに注目した時、何と遠い国かと思ったが、 英国・ジンバブエ・ボツナワと飛行機を乗り継いで本当に“遠くへ来たものだ!”と実感した。 わずか十一日の間にこれだけ多くの見聞と感激と驚きを経験できるとは…。 ツアーの同行者十名が二十〜五十回以上のリピーターが大部分で、トラベルにつきもののトラブルを 全員で逆に楽しむ強者ばかり。そのためかストレスが最小に済んだ事もあって、非常に楽しく味わい深い旅行であった。 ・ 一番の圧巻はジンバブエにある世界三大瀑布の一つのビクトリア滝であった。 リビングストンの発見したこの滝は幅千七百m、落差百五mあり、 まさにあのイグアスの滝に匹敵する壮大かつ豪快な男性的な景観であった。 (字数の関係でカット12年8月27日) ーH0809 愛と憎しみと価値判断ー (字数の関係でカット09年8月27日) ーH0811 人生の楽しみ方ー (字数の関係でカット09年8月27日)
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2012年08月26日(日)
* 若きドン様の親の敵討ちは残酷! 何気なくTVをみていたら、北朝鮮の金正日の元料理人が出ていた。これが漫画的ドラマ仕立。 その男が、「金正恩に招待され北朝鮮に行ってきた内容」で、金正恩や、そののファミリーと食事をした写真があった。 父・金正日を裏切り逃げ帰った過去全てを水に流してくれた温情深い現在のドン様に感激している、という筋書き。 その日本人は現地に妻と二人の子供を残してきたが、正恩の計らいで残留家族と対面した。ところが、「料理人の長男が、 再会した二週間前の夜半に苦しみだし、両手を三回突き上げ絶叫し、亡くなった」という。心臓発作だった。 『 呼び出しに応じたのを確認したと同時に、長男を毒殺し、家族に会わせて、その事実を知らしめ、今度は長女を殺す、 という脅しをかけ、北朝鮮のメッセンジャーを暗に強要している』のは誰の目にも明らか。 その後、妻と娘を残して帰国し、 TVに出演したのだが、その筋書きをキャスターに指摘されると、「そうであっても、それでよいと思っている」という返事。 北朝鮮に愚弄されている姿が、そのまま出ていたが、陰湿で残酷な仕打ちのドラマ仕立。 リアルで現在進行中のため、 料理人が翻弄されている姿が痛々しい。 独裁国家のドン様を裏切り愚弄すると、このザマになるという残酷ショー。 これは北朝鮮が茶の間に直接日本愚弄のメッセージをしてきたことになる。逆にみれば、この程度の連中でしかない。 マスコミが、この料理人を抹殺するか、パンダとして利用するか、パンダ利用になるのだろう。 現地の家族が本当に存在していたのか、そう持ちかけられたのか、本人の作り上げた物語なのか、色いろの仮説がたつ。 コミック漫画の悲劇か、喜劇か? くさい話だけは確かだが。 ・・・・・・ 3805, 哲学人 ー⑥ 2011年08月26日(金) * 学生時代の恩恵 学生時代の恩恵は、現在でも大いに実感している。 もしも学生時代に一度、頭を粉々にしてなかったらと思うと・・・ マギーは、ここでイギリスのエリート学生の内面を正直に書いている。 哲学と芸術の長い歴史が大学にあり、 そこのプログラムを学生はこなしているのである。都市には、美術館があって歴史的名画を身近に見ることができる上に、 コンサートも子供時代から親から連れて行ってもらっている。 教養のベースが、風土の中に染み付いているのである。 ー「哲学人」ブライアン・マギー著よりー 【 結局、大学が知性という面で私にしてくれたことの中で一番肝心なことは、知的価値が芸術的価値とは独立して存在しているという こと、そして、知的価値に関心を持つように仕向けてくれたことである。 一年目には、理知的で気の合う仲間の中に、他にもまして 知的な価値に傾倒している人がいることを知ってカルチャーショックをうけたことである。彼らとの交流のかなで、そうした価値を 自分なりに受け入れられるようになるに三年目まで待たなければならなかった。 そのおかげで、知的価値は私にとって欠かせないものとなり、私の人生と考え方に色褪せることのない彩を添えてくれた。 ちなみに、私はこのような経験をしたおかげで、一部の聡明な人々に対する理解を深めることができたのではないかと思っている。 それは、さまざまな理由から大学教育を受けたことがなく、そのためにこういだ経験をしていない人々についてである。 そういった人々がどんなものの見方をするか私はわかるつもりだし、彼らの身になってみることもできる。 ひょっとしたら自分も 同じ立場になっていたかもしれないからだ。 正式な教育は、世界というものが個人の見解や意識や関心や想定の単なる拡張ではない という考えを育むよう仕向けてくれる。これは正式な教育が授けてくれる最大の恩恵である。当然のことながら、こうした教育は 他者の助けなしにできない。 他者は私たち個人をしばっている拘束をまぬがれているからである。 けれども、ここから導かれるのは、独学の者は生半可な教育を受けた程度にしかなりえないという、残念だが逃れようのない事実である。 オックスフ・オード入学当時の私の考え方にはっきりいって欠けていたもののうち、最も重要だったのは、その後の経過を考えると、 哲学ということになる。 人間の関心事の中で最も価値があって大切なものとして、哲学は確かに偉大な芸術に近い水準に達しているし、 その理由も似通っているように思う。どちらも、人間が到達しうる最も高いレペルで真理を探究する活動である。どちらも物事の本質を、 つまり存在の根源的な神秘を探ろうとしている。 それを果たせないとしても、人間の理解に限界があるせいにすぎない。 ショーペンハウアーが述ベているように「芸術家が具体的に行なっていることを、哲学者は抽象的に行なっている。」 哲学者は自分の意見を概念で表現するよりほかなく、そして概念というものにはどうしても一般性がつきまとうため、哲学は芸術ほどの 深みには到達できないかもしれない。 だがその一方で、哲学にはできても芸術にできないことがある。 アイリス・マーギックは 「よきにつけ悪しきにつけ、芸術は哲学より深いところに達する」と語ったが、哲学には芸術よりすぐれた面がいくらかはある という意味ではそのとおりであるし、全体としては芸術に及ばないという意味でもそのとおりである。】 ▼ 芸術と哲学が教養のベースであるのは今さらだが、マギーの、このような文章を読むと、より芸術に触れておくべきだったと実感する。 芸術作品は、作者の魂そのもの。それぞれの時代が生み出した人物が全霊を捧げて、作品の中に魂を入れ込んだ名作である。 それに直接触れ、感動するのが一番、人間の魂を高めることになる。そのためには時間をかけて対象と向き合うしかない。 ・・・・・・・ 3440, 再び、死について考えてみる ー4 2010年08月26日(木) * 死を喩えると 死を喩えると、旅と、眠り、とされる。 「死ぬ」が旅と、眠り、に喩えとされることは、プラトン『ソクラテスの弁明』の一節にある。 ー「つまり死ぬということは、次の二つのうちの一なのです。あるいは全く何もない.無」といったようなもので、死んでしまえば 何も少しも感じないといったものなのか、あるいはまた言い伝えにあるように、それはたましいにとって、ここの場所から他の場所へと、 ちょうど場所をとりかえて、住居を移すようなことになるかなのです。そしてもしそれが、何の感覚もなくなることであって、ひとが寝て、 夢ひとつ見ないような場所の、眠りのごときものであるとしたならば、死とは、びっくりするほどの儲けものであるということになるでしょう。 ・・・・また他方、死というものが、ここから他の場所へ、旅に出るようなものであって、人が死ねば、誰でもかしこへ行くという、 あの言伝えがが本当とすると、これより大きい、どんな善いことがあるのでしょうか、裁判長諸君。」ー 葬式で、「故人は旅立たれました」というが、夢なら醒め、旅なら帰ってくるのが前提にある。 永遠の眠りというと、そこで夢を見る可能性がある。無に帰した者が夢の見ようがない。あくまで心象風景でしかないのが、 これでわかる。 最近、ブラックホールに喩えることがある。その人の全てが、その中に吸い込まれ、再び戻ってくることはない、 という意味で、喩えとして科学的風である。 ブラックホールは生命を終えた星が爆発をして、その重圧で空間の歪が生まれ、 穴が開いて異次元?の時空に周辺のものを吸い込んでいく。これを死に喩えることは、これはこれで、説得力がある。 最近、ホワイトホールも、存在も云われるようになってきた。何処かの歪から何が噴出している空間の存在。それは生命ということになる。 面白いのが、死の喩えを、生そのものにしている説がある。 これまでの死の喩えのは、生のうちで経験される現象=旅、眠る、去る、 失う、等々である。それらは再び我われの元に帰ってくる可能性がある。死は絶対性であるから、「死ぬ」に永遠性が現われてくる。 そうすると、永遠に眠る存在になる。こんなそんなで、結局、死は喩えると分かりやすそうだが、生きている人間の論理というのが 露出するだけ。 同じ動物の牛に喩えると、先ほどの喩えは不自然である。死も、生きていることも、幻想でしかないなら 喩えでイメージするのも良いではないか。 少し、眠たくなってきた。 ・・・・・・・・・ 3065,ウワサを考えてみる 2009年08月26日(水) * オルレアンのうわさ 『オルレアンのうわさ』とは、1969年5月、フランスのオルレアンに流れた女性誘拐の噂。 オルレアンは、パリの南方100kmほどのところの人口十数万人の地方都市。この街のブティックで、女性が消えると言う噂が 流れたのは、1969年5月。若い女性がブティックの試着室に入ると、催眠性の薬品を嗅がされたり薬物を注射されたりして、 前後不覚になったところを誘拐され、地下道から外国の売春宿に売り飛ばされていく、というもの。 (字数制限のためカット2011年8月26日) ・・・・・・・・ 2700, 「レンタルの思想」−6 2008年08月26日(火) ー 読書日記 進化生物学者の長谷川真理子との対談が面白い。 ネアンデルタール人と、現生人類が重なってた時期があるが、何故に 現生人類が生き残ったのか? 脳の大きさよりコネクションが違っていて、そのことが多くの道具を使うことを促して生き延びたこと、 言語能力が格段と上だったこと、更に病気に対する抵抗力の差があったという。 そして「おばあさん」の誕生が現生人類の特徴という。 それまでの色いろな人類のメスは排卵が終わると 直ぐに死んだ。 しかし現生人類の女性はその後も生き延び、お産のノウハウを娘に伝授したので人口が増えたという。 人骨から「おばあさん」の骨が多く発見されたことから分かったという。 面白い節である。 ーおばあさんの誕生ー 長谷川真理子×松井孝典 *おばあさんの不思議 長谷川: いまある限りの現生人類の骨から年齢を測ると、おばあさんの骨が含まれているから、長生きしたのだと思います。 松井: それは現生人類が繁栄するという意味で、非常に本質的な点ですね。なぜそうなのかについて何かアイデアはあるのですか。 長谷川: 「グランドマザー仮説」というのがありまして、祖母の知恵が、娘が母親になるときの孫の 生存率を上げたのではないかと言っています。 松井: それはそう思いますね。出産の経験がまったく蓄積されないで単なる生物として初めて出産を経験するのと、 出産とはこういうものだということをあらかじめ意識として持っているのとではすごく違いますよね。 長谷川: 全然違いますね。 松井: それで人口が増えることに加えて、寿命も長くなるわけで、環境には二重の負荷がかかる。 長谷川: そうですね。でも流行病とかが時々ありますから、長いこと人間の人口はそんなに増えませんでした。 だけどまず一万年前に増えて、それから産業革命から増えて・・。でもそれから豊かになると出生率が減るでしょう。 進化的に生物として考えると、 自らの繁殖率を減らそうとする生き物はいないわけです。 豊かになるということは条件がよくなるわけで、条件がよくなると普通はもっと産むので、 だから人間がどうして豊かな暮らしになればなるほど持ちたい子供の数が減るのかなと。 松井: おばあさんが存在するという不思議と、もう一つは豊かさがあるところに達すると産まなくなるという不思議と。 長谷川: 全世界的にそうです。それがどうしてそういう心理状態になるのか。 松井: やはり出産が大変じゃないのかな。本当は産みたくないんじゃないのかな。 長谷川: それもあるかもしれませんが、進化生物学的に考えれば、そんな心理を持つこと自体が 不思議なことですから、 いろいろモデルをたてて研究している人がいます。そこから見えてきたのは、べつにこういう先進国だけではなく、 牧畜民の社会とか、農耕社会とか、少しでも富の蓄積ができたあとには、 子供だけではなくてー子供も富と数えてー 持っている富全体を最大化しようとするみたいなのです。・・・・・ 〜〜 (−対談を終えて) 松井孝典 これまでの人間論には、生物学的人間論と哲学的人間論があった。今回は生物学的人間論とはいかなるものか、 ということで長谷川さんと対談した。現生人類の起源には、多地域進化説と出アフリカ説とがあり、後者が有力になりつつある。 (字数制限のためカット2011年8月26日) ・・・・・・・・・・ 2007年08月26日(日) 2336, ホッファー −3 (★>з<)。o○[ォハヨ]○o。 一昨日、アマゾンで注文をしていた中古本の、ホッファーの自伝が送って来た。 一昨夜半、二時間かけて読破したが期待したどおりの内容であった。 ミス・フィットや港湾労働者の立場で、 何故独学であらゆる分野の知的好奇心を持ち続けることが出来たのだろうか、まず疑問を持った。 それは7〜15歳までの盲目体験である。そして、彼の父親がやはり働者に係わらず、読書好きの教養人だったことが 彼の勤勉性を培ったようだ。さすらいのホームレスから見た、ミス・フィットの人たちの生態も克明に書かれていて、 時空を越えた当時の生身の生活が垣間見れ、彼と一緒に20世紀前半のアメリカを彷徨っているような気持ちになってしまった。 ホッファーの言葉を幾つかのHPから拾ってみた。 なかなか含蓄の深い言葉ばかりである。 (ー 〜〜 ー は私の内語である。) ーーーー <世界で生じている問題の根源は自己愛にではなく、自己嫌悪にある。> ー自己嫌悪を無くすには、他人への愛が必要ということ! 自己愛は、人への慈愛から育てるのが近道。それが出来ないのが人間か〜 でも、半々と割り切ってしまうしかないか、自己愛と自己嫌悪! 他人が嫌ってくれているのに、自分まで同調することもないだろうにー <驚くべきことに、われわれは自分を愛するように隣人を愛する。 自分自身にすることを他人に対して行う。自分自身を憎むとき、他人も憎む。 自分に寛大なとき、他人にも寛大になる。自分を許すとき、他人も許す。 自分を犠牲にする覚悟があるとき、他人を犠牲にしがちである> ー{これはホッファーの「思いやり」についての最も深い部} というが、 自己犠牲という奴ほど、自己というエゴがヘバリツイテイルということに 注意しないと、軽い?人間のボランティアになってしまう。解る?その意味ー <私の言う知識人とは、自分は教育のある少数派の一員であり世の中のできごとに 方向と形を与える教授の権利を持っていると思っている人たちである。 知識人であるためには、良い教育を受けているとか特に知的であるとかの必要はない。 教育のあるエリートの一員だという感情こそが問題なのである> ーそういうこと!「教育のあるエリートの一員」か〜? エリートなんぞ対比の問題でしかないのが解らないのは、単なる馬鹿! ある本を読んでいたら、何処かの大学の教授が自らを日本を代表する教養人と のたまっていた。 まあ、可愛いいから許せるか?− ー字数の関係上カット(2008年08月26日) バイヾ(・ω・`)ノバイ ・・・・・・・・・ 2006年08月26日(土) 1971.事業百訓 ー1995年(9) ー H0701新年にあたりー ー字数の関係上カット(2007年08月25日) ーH0701 事業百訓 ー 446 “ドーナツの穴”、あれこそ色即是空です。 ああそれと小沢昭一がいった“色っぽい事をすると空しくなる。 ”あれも、まさにその意味をいいあてている。 −永六輔 447 業態とは損益分岐点である。−ヨーカ堂、鈴木社長 448 「自分なりに」を禁句とせよ! 自分を限界づけて、その範囲内という意味におちいってしまう。−田舞徳太郎 449 ほうたいをまいてやるなら、他人の傷にふれてはならない。−ヘッセ 450 人の痛いのは三年でも我慢する。−ことわざ 451 好きな事より、してよっかったと後で思える事をせよ。−ドバル 452 真理はしばしば矛盾の中にある。 453 釈迦については、人類史上最初に人間の肉体と人生より “精神”というものを抽出し、凝視し、よき作用を見、悪しき作用の機能を指摘した。 さらに悪しき作用を押さえこむ処方まで与えた。 それが仏教であるといえる。 この凝視と方法に医学が気付くのに十九世紀末のフロイトまでまたねばならなかった。 −司馬遼太郎 454 「泥棒と悪口を言うのと、どちらが悪いか」私の教会の牧師は「悪口のほうが罪が深い」といわれました。 大事なものは取られても生活を根底より覆されるような被害ではない限り、いつか忘れる。 それで自殺した話は聞かない。 しかし悪口を言われて死んだ老人の話や子供の話はよく聞きます。 それは人をおいやり子供を精神薄弱にする力がある。...私達は二つの尺度を持っている。 「自分のする事は、そう悪くない」「人のする事は大変悪い」自分の過失を咎める尺度とは、全く違う。 ...自分の未来を勝手に決めないで下さい。こんな未来しか持ってないと、わかった顔をしないで下さい。 紙の書かれるシナリオと貴方の書かれるシナリオは全く違うのです。..ドイツのことわざに “共に喜ぶのは二倍の喜び、ともに苦しむのは半分の苦しみ”があります。−三浦綾子 ーH0701 テーマ日記ー (字数の関係でカット08年8月26日) ーH0703 事業百訓ー 455 行動の動機が、行動の本当の判断基準である。みかけ上は同じような行動を千人がする。本当はその動機が違えば、みな違う。 <なぜなら行動とは意志のことだからである。>しかし意志は行動と同じではない。 <行動せずに考えたり、意志したりすることは、そこにチャンスが存在するとしても “壺”の中の炎や、砂にまかれた種と同じである。燃えずに消え、芽を出さずに死んでしまう。> 仏教徒と同じようにスウェデンボルグは、人間とはその人の意志した行動の総和だと断言する。 <人間の霊的肉体とは彼が自分の意志によってした行動以外の何ものでもない。> そして<天国への道は、この世の外にあるのではなく、この世にある。>(スウェデンボルグ伝より) 456 自分の“木”をみつけるべし。さがしつづければ、ある日その木はどれだと判るはず。(山尾三省) 457 (a)七千万年前に原始ザルが生まれ、 (b)二千年前に霊長類が生まれ、 (c)七百〜八百万年前に今の人類の原型が生まれた。 (d)一万二千年前に農耕がはじまり、地球上に三百〜四百万人の人類が存在した。 人類は“森林”の中で天敵がなかった。その為自らのうちに敵を持つシステムをつくっていった。―河合雅雄― ーH0703 ブラジル旅行記ー “行って吃驚!玉手箱”主観をこめて現地の実感を書いてみる。 カーニバルはリオディジャネロだけでなく、全国津々浦々の都市で行われており、四日間全国がお祭りの為休みとなる。 その最も有名で世界的に知られているのがリオのそれなのである。リオのカーニバルのランクがA・B・Cとなっており Aランクが9チーム、 Bランクが15〜16チーム、 Cランクは数十チームとなっている。 AとBチームが特設スタジオのメーン、ストリー800mを80分の持時間で踊りながら行進する。 (字数の関係でカット12年8月26日)
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2012年08月25日(土)
「ご老人は謎だらけ 老年行動学が解き明かす 」佐藤 眞一 (著) * 老生自覚 ≪ 自らの老いを自覚することを「老性自覚」と呼びます。老性自覚には「内からの自覚」と「外からの自覚」があります。 △ 内からの自覚には、物が見えにくくなったり耳が遠くなったりする「五感の能力低下」、しわや白髪が増える、歯が抜けるなどの 「身体的徴候」、もの忘れが増えたり、計算が遅くなったり、根気がなくなったりする「精神的な減退」などがあります。 △ 一方、外からの自覚には、子どもの成長や孫の誕生、配偶者や友人の死、定年退職、他者からの老人扱いなど、 「社会的なできごとや経験」があります。 このような老性自覚は、「老い」にネガティブな意味だけでなく、ポジティブな意味も感じていた時代には、当たり前のこととして、 自然に受け入れられていたのかもしれません。しかし今は、そうではありません。第1章で述べたとおり、現代人は老いを感じると、 暦年齢を主観年齢に合わせるべく、アンチエイジングに励みます。また、身体の状態も75 歳〜80歳ぐらいまであまり下がらずにきて、 最後の数年でガックと落ちるのが今の老人です。日本人の場合、介護が必要になるのは平均して寿命の1割、7年間か8年間程度なのです。 つまり、現代の日本人には、極端にいえば老年期がなく、壮年期のあと直ぐに死と向かい合う時期がやってくるのです。 このことは、「死に対する準備ができない」ことを意味します。老性自覚を自然に受け入れ、心も体も徐々に老いていった時代には、 自身が老人になることや死ぬことを、自然に受け入られたのだと思います。≫ ▼ 人は脳卒中や心臓発作などで病院に運び込まれたり、死に直面する病気に直面し逃げ場のない状態に追い込まれた時や、 自信を失ったときにガックと老いるのである。老人は自分が失敗したことで自信を失うのではなく、周囲が、それを繰り返し 指摘することで生きる気力を失うことが多い。だから周囲は、このことに気づく必要があるが、現実は甘くはない。 少くとも服装と言葉と運動量は注意しておく必要がある。「一年後は無いかもしれない!」を常に意識しているが・・ それでも 一期一会の気持が甘くなる。仏壇に祖父の遺影があるが、私より10歳若い57歳時だが、80歳近くに見える。 目先を精一杯生きるしかないが、果たして死に際、冷静でいられるのだろうか? 充分生きたので静かに逝きたいが、所詮、無理。 ・・・・・・ 3804, iPadを買った 2011年08月25日(木) タブレットPC、来年春のiPad3が出てから買おうかどうか迷っていたが、思いたったが吉日で、三日前に購入した。 去年から八月に買うと決めていたが、この春先の騒動で、それどころではなかった。ここで気持ちも落ち着いてきたことと、 「iPadバカ」というタイトルの本を読んだのがキッカケとなった。 そこで実際に手に取ると、成るほど面白い。 感想として、これはモバイル携帯が大きくなったというより、無線のタッチ式タブレットパソコンである。 パソコンでゲームをしたことは皆無だが、今度はゲームなどソフトをダウンロードして、使いこなしてみたい。 タブレット(バインダー)で持ち運びが簡単で、無線であることが、これまでと違った感覚。 ベッドや車内などで、 気楽にウェブ上の新聞やニュース、ブログなどを見ることができる。 パソコンの前に座り、電源をオン、ヤフーのHPにアクセス・・ 等々を、タッチだけで出来るので手軽にネット世界に入れる。しかも板状で、何処へでも持っていける。 まだ使い始めて数日なので、 門前から一歩を踏み込んだばかりだが、これは日常の必需品になると直感。 初期投資がゼロ円、ランニング・コストが5千円が高いか 安いかは、その人によるだろうが、新聞を止めて少し生活を切り詰めれば何とかなる? 少し重いのが気がかり。あとは本を自動的にめくり、 スキャンしてくれる器械でも出現すれば良いが。 新聞・雑誌がタブレット式パソコンなどの端末の出現で淘汰されるといわれているが、 実際に手元に使ってみて、その流れになると確信。先日、近くのステーキチェーンでランチの写真を撮っていたら、フロアーの女性が来て、 「写真を何に使うのですか?」と、聞かれた。( HPに写真が多く掲載されているので、競合店の視察とも思ってもいないはず) 「ブログに、気に入ったランチを時々載せているので、これも」と答えると、暫くして再びやって来て、「店長がブログを見たいので、 ブログ名を教えてもらえますか」という。 少し躊躇したが、教えたところ、厨房の辺りから、「出てきた出てきた」と小さな声。 モバイル携帯で早速、何人かで見ているようだった。そういう時代になったのだ。 薄型タブレット、無線、ツイッターなどで、誰でも直ぐに 情報が繋がると、現実社会の上にネット社会が覆いかぶさる時代が現実に、こういうカタチでやってきたのである。面白い時代である。 ・・・・・・・ 3439, 「うち」と「そと」という、考え方 2010年08月25日(水) 日本人の考え方として、「うち」と「そと」を区別する。 「そとの人」に対し「うちの人」の話をするときには、 その人に敬称をつけないのが一般である。元もと「家」の単位をベースにして、その内側を「うち」といい、一歩出ると、 「そと」とする。 家の玄関は鍵をしめて用のある人以外は、あけない。節分には、「鬼はそと、福はうち」と、豆をまく。 江戸時代の藩制度の名残で、属している組織の帰属を第一にする考え方は現在も続いているといってよい。 朝礼、社員旅行などは、うちを固める儀式。日本的な名残である。それが人間関係の中でも、考え方として色濃く残っている。 「この人は、うち側の人で、友人。うち側でない人は、そとの人で、知人」とする。 裏切られたり、騙されると、あっさりと、 心の中で、そとの人に分別してしまう。 面白といえば面白いが。一般的に、家族と、信頼している友人、そして、 会社の同僚が、「うち」になる。それ以外は、「そと」と単純明瞭。これが個人主義の欧米人からしたら不思議なようだ。 欧米は一神教。 ビック鶸と「私」の関係が「うち」で、その神の前で永遠の愛を誓った連れ添い、そして、二人の間の子供と、 「うち」が拡大して、「家庭」が存在する。 しかし、日本の「うち」は、多神教をベースにして「家」に、まず帰属して、 その内側が「うち」で、外側が「そと」になる。 私自身を振り返ると、この二分法で知人、友人、同僚を振り分けていた。 一度、信頼を失った相手は、そとの人と、二度と、心を開くことはない。特に、卑しさを見せつけられると我慢が出来ない。 そういえば、「タテ社会の人間関係」で、中根千枝が《日本社会の人間関係は、個人主義・契約精神の根づいた欧米とは、 大きな相違をみせていて、まず「場」を強調し「ウチ」「ソト」を強く意識する日本的社会構造に、どのような条件が考えられるか》 を論じ、タコツボ社会が日本的特質と指摘している。 その考え方そのものが、私の造語になるが「タコツボ思考」ということか。 自分を省みると成る程、いやに納得できる。ウツボが徘徊している中でタコはタコツボに入って、最後は人間に食べられてしまう。 「うち」と「そと」の間の「にわ」か「うちにわ」を日本人は昔から取り入れて自然を取り入れていた。 ・・・・・・・・ 3064,階級社会だと! −3 2009年08月25日(火) こういう話は大好きである。「石ころがね、その大きさやカタチを競ったって、少し離れてみれば砂利じゃないかい」 ということだ。だから、名刺に多くの肩書きを書いたり、ロータリー・クラブなどに入って特別な人間と思い込んで いる可愛い人の優越感も、人間の性と割り切れば良いのだが。その生臭い人間が何とも愛おしいのである。これも揶揄か? 「幼い頃より一流作品の絵画や音楽や大自然を可能な限り、シャワーのように浴びせることが、親の子供に対する 最大の勤めである」というが、これがハビトォスの骨格づくりになる。クラシックの演奏会や美術館に家族で行くことは、 家系としての文化資本が無ければ無理。私など父親からは大相撲の地方巡業かプロレスに連れて行ってもらったことしか記憶がない。 下町の魚屋一家で演奏会に連れ立っていくイメージが全くわかないのと同じである。 演奏会は山の手の家庭のイメージである。 家屋敷の佇まいでもハビトォスの匂いを嗅ぎ分けることができる。 家柄とか学歴の良し悪しで全て決まるわけではない。 自分で意識して美術館に行って一流の絵画や彫刻をみてまわり、音楽会に行って良い音楽を聴く習慣をつければ、その習慣行動 (プラティーク)の積み重ねから、それをつくり出しているハビトォスがつくられていく。片方はハビトォスが崩壊し、 片方はハビトォスがカタチつくられてのを身近で見てきたからいえることだが。 習慣とは、第二の天性。 良い習慣を幾つか積み重ねていけば、それが、その人の天性になる。出世とやらを考えるなら、目指すポジションの習慣行動と ハビトォスを作ることが近道になる。したがって偉人(例えばフランクリンなど)の伝記や、三国志や孫子の兵法などで学び、 良い習慣行動身に付ければ、その背後にあるハビトォスの構築になっていく。 「力、愛、知」が、人間力の構成要素なら、 その一つの力は、男にとって必要欠くべからざる要素。階級社会では、全身全霊で習慣行動をつくり上げるのは男として当然のこと。 しかし、一つの側面として割り切っていないと、そこで挫折をした時にハビトォス全体が破壊される。 考えてみたら46回の秘・異郷ツアーの中には、ハビトォス構築の全てが含まれていた。世界中の大自然の景観に魂の振動を経験し、 美術館では世界的名画や彫刻に感動し、アルゼンチンタンゴやスペインの闘牛や、フラメンコに呆然として見入り、 アフリカの手づかずの動物に触れ、・・・等々、 文化資本の蓄積は何にも変えがたい財産である。 そのわりに、自分自身に文化資本の蓄積が感じられないのは如何してか? 幼少時の文化シャワーが足りなかったということ?! でも、父親に骨董店に幼時から多くを見てきたが・・・ ・・・・・・・・・ 2699, 「レンタルの思想」−5 2008年08月25日(月) 「宇宙の発展と文化の論理 」ー 鷲田清一×松井孝典 *ここにないものと関わる能力 松井: 前回は、生物学者の長谷川真理子さんと対談しました。 そのときの話では、現生人類には抽象概念が生まれた契機の一つが、喉の構造の変化です。 逸れによって、文節性の高い言語を獲得できたということです。その御蔭で目の前に起こってない現象でも、 抽象化して相手に伝えることができ、知恵の伝達が可能になるということでした。 つまり人類がいまのような生き方をするうえで重要な要素として、言語の機能というものがある。 それを哲学がどう考えてきたかというところから、話を始めましょう。 鷲田: 人間とはなにかということは、思想史の中でいろんな語られ方をしてきました。 いまおっしゃつた、話す人(ホモ.ロクエンス)という思想はもちろん根本的なものです。 また、遊ぶ人(ホモ・ルーデンス)というのもありますね。「遊び」ということができることを人間の本質としてみる。 ホモ・サピエンスとか、ほかにもいろんな捉え方はあるのですが、これらの共通点をみれば、ここにないものに 関わっていくということ、つまり不在なものに自分を関係づける力をもつということなんです。いま目の前に現れているものを、 取り換えられない必然のものと捉えるのでなく、それをさまざまな可能性のひとつとして了解しなおすということなんですね。 人間以外の動物は、生物としてのシステム沼に、別のあり方がないような形で組み込まれている。 ▼ 解) 「ここにないものと関わる能力」、これは言葉の持つ最大の効力だろう。カラスは500の鳴き声のサインがあるというし、 ケニアではシマウマが鳴き声で多くのサインを出しているのを知った。それでは、鳴声と言葉の違いは何だろうか? それは、正に 「ここにないものと関わる能力」が言葉の中にあるということである。 亡くなった親族や恩師や友人とは、生きていた時より、 むしろ深く関わること出来るようになる。 教養とは、多くの「ここにいないものと関わってきた」蓄積である。 過去を振り返ると、自分の読書量と経験量が、ここにいないものとの関わる能力の質を決めることが解る。 予習能力も復習能力も、そのうちの一つになる。 それと、更にすすむと予知能力もある。 言葉は考えれば考えるほど、奥行きが深い世界に我々を誘い込む。ファンタジーも、妄想もある。 ・・・・・・・・・ 2007年08月25日(土) 2335, どうせ死んでしまう ノヽ∋―_φ(≧ω≦*)♪ 「狂人三歩手前」ー中島義道著 −1 ーどうせ死んでしまうー この本は月刊誌「新潮45」の連載で、時々、このコーナーを図書館で読んでいた。 その連載をまとめたのが、この本である。本の題名が「狂人三歩手前」というのが良い。 この本の冒頭からして、 ーどうせ死んでしまうーである。いずれプッツンするのは解っているが、 生きているうちは、せめて「いま・ここ」に集中して面白おかしく生きたいと思っているが・・・。 {いずれ死ぬのなら、何で「いま・ここ」に集中して生きる必要などあろうか?}という投げかけの言葉も道理である! 生死の問いかけになる。「死んでしまえば、それまでよ!」も、生き残った此岸から彼岸へいった死体に対する、 思い込みでしかない。まあ、哲学は哲学でも、この人はあまりに嫌世過ぎる。 でも、甘ったるい人生論より余程面白いし、考えさせられる。心の奥に、「所詮は死んでしまう!ケセラセラ」という、 中空を持っていないと、現実に振り回されてしまう。「飯喰って、糞して、死ぬだけ、人生は!・・所詮死ぬのだから」 ーP・11 (字数の関係でカット08年8月25日) ・・・・・・・・ 2006年08月25日(金) 1970.事業百訓 ・・・? ー1994年 H0601新年にあたり (目先の流れを間違わないように!)潮流は大不況である。 −以下、字数の関係でカット(2007年08月25日) ーH0603 海外旅行ー 二年前まで五年つづけて年二回ずつ海外旅行に行った。さすがこの二年は一回ずつだったが合計十六回になる。 私の趣味の一つといってよい。海外旅行より得た感激は私の人生を非常に豊かにしてくれた。それぞれ全てがすばらしい。 違う“とき”が流れていて、その中にはまりこむ、その広がりと深さの味わいは旅行し、現実にその場に立ち 感激しなければ理解できない。初めて旅行したのは昭和四十二年、海外旅行が自由化された翌年だった。 大学の海外旅行研究会が募集した三〇日間世界一周というコースであった。当時はまだ年間二十万人しか旅行者はおらず、 旅行先で日本人と出会う事はほとんどなく、オーストリアなどでは見ず知らずの日本人を平気で自宅に招待してくれたり、 英国では留学生が日本人が恋しいのだろう、どこまでも市内を案内してくれた。また欧州の文化文明に大きな カルチャーショックを受けた。帰国して数ケ月はただ呆然としていた。二十才という年齢もあろうがオーバーに言えば、 人生の一大転機のきっかけになった。 それだけ感激とショックは大きかった。 ーH0603ゴネ社会のカラス達ー ーH0605 般若心経のすすめー ー以下、字数の関係でカット(2009年08月25日) ーH0605 事業百訓ー 432 長い人生において、誰しも受け入れ難いことに遭遇するときがある。 真正面よりたち向い頑張ろうとしても、のり超えられないときもある。 = 以下、字数の関係でカット(2010年08月25日) = ーH0607 ケニア・サファリ紀行 前知識はほとんどなし、 「何がおきるのか出たとこ勝負の旅」というのが率直な気持であった。 ところが秘境の旅というイメージで行ったところ、そこは欧州の高級リゾート地であった。 三十年前まで英国領であった為、欧米のサファリを目的としたリゾート地として区画整備されてあった。 広大な動物保護区及び国立公園と一般の土地はわけられており、前者は天国、後者は貧困そのものであった。 サファリ(動物ウォッチング・ドライブ・ゲーム旅行)は生まれて初めて、 一日一日、一シーン、一シーンが鮮明な感激として脳裏に焼きついている。 強烈な印象の順に列記してみると、 ・夕方、五十頭の象の群れが一列になり、右手にキリマンジェロをみながら林の方に帰っていく、 (TVでこのシーンを見た事があるが、まさか初日にこれをみれるとは思わなかった) ・ライオン二匹がペアリングしている横で一頭がシマウマを食べているシーン、 ・チーターが二百m先に一匹のガゼルをねらいを定めて木影でスキをねらっているシーン、 ・ 二十頭位の象の群れに三m位近ずいたシーン、 ・湖でカバの群れに近ずいたところ一頭が我々のボートを追いかけてきたシーン(一ケ月前にその群れに漁師が殺されたとか) ・数千〜数万頭のヌーの大移動、 ・マサイ・マラ族の村の中での異様な雰囲気、 ・気球の船上よりのアフリカの大地の景色、 ・四〇〜五〇頭の水牛の群れの真只中にサファリーカーでつっこんだシーン、 ・キリマンジェロの遠景、等々書けばきりがない。過去十七回の海外旅行の中でも最も刺激的印象的なものであった。 欧州では“アフリカの毒”という言葉があるとか。その毒(魅力)にあたり、ウワ言のようにアフリカ、アフリカと 言うそうで、今の私はまさに毒にあたっている状態です。(1994.7/10 〜18 ) ーH0609 歩行とダンスー 丸山圭一郎と黒鉄ひろしの対談集で“歩行とダンス”という二人の対話が面白かった。 “ドアにむかって歩いていくのが歩行、これは手段である。ダンスはドアに向かわないし、その行為そのものが目的。 それではドアに向かってダンスをおどって行く事はありうるか!?ありうる!”という。非常に含蓄のある面白い内容である。 人生、仕事、学問すべてにあてはまる内容である。今回の仕事(第二新館増築)の最中にこれをよみ、 “よしこの仕事とチーク・ダンスをして、ドアまでいってやれ”と、一人笑った。 私の学生時代の大手商社に勤めている友人と、酒をのみながら右の話をした。 本人いわく “私はさしずめ、それはホーク・ダンスだな!。好きな奴もいやな奴も次々と仕事仲間でまわってくる。 それも楽しそうな顔をしながら手に手をとっておどる妙味!”当意即妙であった。 ドアに向かっての歩行なら誰でもできるが、それをダンスとしてリズムをとりながらパターンをマスターし、 かつ楽しみまで高めてドアに向かう事となると誰にでもできない。 ついついドアを忘れたり、ダンスを忘れてしまう。 ダンスを忘れある年令に達して愚痴を言っている人が何と多い事か。 そしてその反対に逆の人も。 ーH0609 至福の時ー 母が八十六才になり、年相応?の初期の痴呆症があらわれて三年、年を重ねるという事は大変な事と思いしらされる。
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2012年08月24日(金)
「あなたが大金持ちではない10の理由」ドナルド・トランプの著 アマゾン内のネットサーフィンで見つけた不動産王ドナルド・トランプの著「あなたが大金持ちではない10の理由」が面白い。 耳が痛いが・・ まず基本的な考えは「お金持ちになりたいなら、お金を持つ前からお金持ちのように思考しなくてはならない」である。 まず金持ちであるかのように考え振舞うことから始めよ、である。 そう振舞ってもダメなのはダメだが・・・ ー「あなたが大金持ちではない10の理由」ーとは ① 休みをとらなくちゃいけない・・・と思っている 「休みをとりたいなぁ」と思ったらその仕事はあなたに合っていない。 まず自分が好きになる仕事を選ばなくては! ② 睡眠とらなくちゃ・・・と思っている 著者は一日4時間しか寝ない(午前1時〜午前5時)。寝る間を惜しむほど仕事に打ち込むことが基本。 ③ 集中力に欠けている 「私は相手が二、三語話しただけで次に何を話すかがわかる。それが出来れば会話をリードできる」 相手に集中する能力。 ④ テクノロジーに頼り過ぎ メールでは感情を伝えられない。電話したり、直接相手に会うこと。 ⑤ 相手の期待値を考慮していない 賞賛や驚きは相手の期待値により変わる。 相手の期待を知って初めて効果があがる。 ⑥ 仲間に頼りすぎている 最後は一人。「どんなことでも自分でできる!」と思い、自分でやるべきことをやらなくては何も進まない。 人に頼りすぎると仕事の遂行が遅くなってしまう。 ⑦ 成功グセをつけていない 一つの成功は次の成功を呼び込む。まず実際に行動を起こし何かを成し遂げる。著者は「彼の触ったものは黄金に変わる」評判がある。 ⑧ 意思決定がいいかげん 「意思決定は恋人を決めるときと同じように」。 多くの人が意思決定を「一目ぼれ」のように扱っていることを嘆く。 会議で他人の意見を聞くのは「あの子のことをどう思う?」と聞いているのと同じ。意見を聞きつつ、注意深く意思決定を進めること。 ⑨ 家族とうまくいっていない。 家族はもっとも重要。 家族と良い関係が、基本中の基本。 ⑩ 好奇心をもっていない 成功者は何にでも興味を持つ。興味はイノベーションにつながり、成功の鍵。起きていることすべてに興味を持つこと。 ▼ 今さら金持ち云々など、関係ないが、それでも道理は面白い。 上手くいっている人は上記はクリアーしている。 会社を創業し軌道に乗せるに、ほぼ上記をカバーしないと不可能だが、それも震災ひとつで、パーである。 お金は、お金を意識しないで済む程度が一番よいという。 年齢にもよるが、一般的に100万ドルか、一億円が目安。 ・・・・・・ 3803, 哲学人 ー⑤ 2011年08月24日(水) ここでもテーマにした吉本隆明の「共同幻想」という言葉がある。その典型が国家である。 その元になっているのが、ウパニシャッドといわれる。 また信長が好んで舞ったといわれる部分の敦盛の歌詞 《 思へばこの世は常の住み家にあらず 草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし 金谷に花を詠じ、 栄花は先立つて無常の風に誘はるる 南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり 人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり 一度生を享け、滅せぬもののあるべきか これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ・・・》 所詮は、幻想のようは儚い一生を鳥瞰した歌詞。 マギーは、ウパニシャッドを簡潔にまとめてあり、分かりやすい。 * ウパニシャッドとは ー「哲学人」ブライアン・マギー著より 【 15、6歳のころ、世界の偉大な宗教の経典を集めた「世界の聖典]という本を学校の図書館で見つけ、好奇心から読んでみた。 この本の中で、唯一、私の想像力を心底かき立てたのが『ウパニシャッド』だった。 驚いたことに次のような記述があった。 「ー人間の知識と経験の全領域はイメージだけで成り立っており、そのイメージは流動的であって、永遠不変の存在を持たないのだが、 それに対して実在する現実は、永遠に存在するものであるけれども、我々は直接それを知ることができず、それを明確に把握することも できないー」。 私は自分の考えが目の前のページに、それも数千年前の昔の書物に載っているのを見て愕然とした。そこには、さらに、 私の思いもつかない説明まで書かれていた。それによれば、「私たちの心には無数の多様なイメージが浮かぶが、そのイメージを去来 させているのは、個々とのイメージと同数の、直接触れることのできない対応物ではなく、あるひとつの大きなものである。 私たちは個人として生まれたときから分化し、死ぬと再びそこにとけこむ。突きつめると、実際には、その大きなものしかない。 互いに相容れることなく個々に分離しているのは、イメージだけである。また、イメージはあくまでイメージであって、主観的で はかないものである以上、そしてとくに、人間には生来、イメージを独立して存在する事物と混同する傾向がある以上、イメージを 幻想とみなすのは、しかるべき理由があることになる。分離した個々の事物、人間を含む個々のあらゆる事物は、してみると 現像ということになる。現実には万物はひとつである。」 ・・・私には、この見解は確認できないように感じられたのである。 たとえこれが真理であったとしても、そのことを知るすべが見当たらなかった。 とはいえ、この見解は、ある重大な事実を 痛感させてくれた。私は自分でも気づかぬうちに、ー存在しているものは基本的に私たちの考えていることに「似ている」、 すなわち多種多様なものが存在していると想定していたーのだが、この想定には根拠がないことが明らかになった。 考えてみれば確かに、現実の本当の姿はどういうものかをめぐるいかなる意見にも根拠がないように思われる。】 ▼ 過去を振り返ると、実際あの時の経験は記憶とていて残っている。 その対象も物理的に残っているものもある。 しかし時間は、記憶も、物理的残存しているものも、容赦なく変えてしまう。そうすると、残っているのはイメージである。 そうこう考えると、ブラフマンの存在こそ、そこから発生し、そこに戻っていくという考えに、ついつい・・・夢幻でしか!と。 恋愛など、性欲がつくりあげたイメージのダンスでしかない。ダンスが終わったら・・・ 類推は、いくらでも出てくる。 ・・・・・・・ 3438, 腰痛について 2010年08月24日(火) 腰痛について何度か書いたことがある。《下にコピー》去年にも二回書いている。 そういえばこの一年、日常的な腰の重みはあっても、顔をしかめるほどの腰痛はない。 一年間何もないのは近年には記憶がない。 低反発マットと、海老反りマシーンによる背筋伸ばしと、立振動の バイブレーション・マシーン効果がでているようだ。四足だったサルの祖先を持つ人間が、両足で立って歩くようになったのが、 腰痛の原因。特にディスクワークで椅子に座る時間が長い人とか、立ち仕事の過剰が腰に負担をかけるのが原因。 日常的に心がけることは、 ・なるべく歩くように心がけること(一日1万歩を目安にする)、 ・普段の姿勢で胸を広げアゴをひいて頭を背骨に上に置くようにし、 ・前かがみの時は、屈まないようにして膝を曲げるように心がけ、ものを拾うときは、腰から上は立てたまま膝を曲げる。 ・右手でものを拾うときは、反対の左足を必ず前にだすこと ・電車の座席や、喫茶店、居酒屋で座席に座る時に、足を組まないこと ・腰の冷えに充分気をつけること、また夏の冷い飲物の過剰摂取による内臓の冷えも危険 ・常に自分は腰痛持ちであることを意識をし、腰痛を目覚めさせないように、注意をすること ・季節の変わり目には、腰痛になる前から腰痛ベルトを事前にすること などなど、ある。 腰痛と、嫁姑問題は、人類の永遠のテーマのようだが、予防の習慣で、ある程度は押さえ込むことは可能。 腰痛の御かげで、早朝の散歩の習慣を25年間も続けることも出来たし、姿勢は良くなった。 その結果、全身の血の巡りは良くなった。 まずは嫌わないで腰痛と仲良くすること。 ―― 3063,閑話小題 2009年08月24日(月) * 日本文理高校が決勝だと 日本文理高校が、あれよあれよという間に決勝戦まできた。国体開催の一月前ということもあり是非とも優勝をしてほしいもの。 今日は県内は大きな盛り上がりになるはず。昨日は県岐阜には勝てないと踏んでいたが、まさか勝つとは。過去に準々決勝が最高だったから、 新潟県にとっては大快挙である。地元の予選では対戦相手とは段違いの力だったが、ここまで来るとは思ってもいなかった。 彼らナインも監督も同じだろう。 新潟県は、このところ二度の大地震が続き、景気も最悪の事態の上に、この天候で稲作も期待できない。 優勝でもしたら国体までのつなぎになる。たまたま今日は飲み会が入っているので、酒の味が美味くなる。 * 新インフルエンザの恐怖 商売が商売だけに、この新インフルエンザで日本中に蔓延した最悪の事態も考えなくてはならない。 半年も客が誰も泊まらないこともありうること。そうすると「 」 考えても仕方がないことだが、現実に有りえることである。 この恐慌?の中で、更に日本経済は壊滅状態。特に地方経済は体力が消耗しているので深刻の事態になる。ビジネスホテルは直撃を受ける。 新潟国体の特需を計算に入れていたので、もし大幅の縮小となると大問題になる。 困ったものである。 支配人の近所の親しくしている家の子息が新インフルエンザになったとか。 タミフルを飲んでホボ直ったというが、現実に身近に感染者が出てきたのである。 お盆で海外旅行から持ち帰った菌と、帰省などの国内旅行でばら撒かれた菌が、10日の潜伏後で表面化する。 更に来週から学校が始ると、密室の教室内で大蔓延するのは火を見るよりあきらか。 一ヵ月後には、日本中が新インフルエンザで大問題になっている可能性が大である。 新潟国体の縮小も充分に有りうること。 これからは一日一日が、スリルとサスペンスの日々になる! そうこう考えると、恐慌も重なった大津波の本体が押し寄せてきたというのか。 数ヶ月先も読めなくなってきたが、それが日本の現実か。 高校野球の優勝かどうかより、 直撃を受ける本体の方が大問題である。 不安と不機嫌の日々がつづく。 ・・・・・・・・ 2698, 閑話小題 2008年08月24日(日) *大曲の花火 昨夜は、秋田の大曲の花火をNHkのハイビジョンでみた。この数年の年中行事の一つになっている。 電気を消した見ていると、自分が土手で見ている気分になる。プロの花火師の評論が面白い。 花火には「菊」と、「牡丹」の形があるとか。 丸い花火は割りものとか、云々。 大曲は、日本中のプロの花火師が競う競技大会。 その結果が公表される。 開くタイミング 10点、 開き具合 30点 色彩および配色 30点 技術 30点 の比率で評価される。 地元の長岡の花火も良いが、大曲の方が華やかで規模(数)が大きい。 〜〜 *日本野球がオリンピックで敗れた訳 日本が、良いところがないまま、敗退してしまった。結果論からいうと、星野監督の選定ミスである 現役を退いて何年もたった監督と、コーチでは勝負勘が全く無くなっている。 せめて副監督として古田元ヤクルト監督をつけておくべきで、御友達感覚の監督、コーチで勝てるわけがない。 選手が、星野監督とコーチの前で、すくんでしまって実力を発揮できなかった、ということ。 更にG.G佐藤の二回の大エラーも、水を大きく指した。 本人の一生の傷になる。数年間は針の筵だろう。 ニュースに流れた日本人の観客のヤジ「御前ら、日本の野球はこんなものだったのか?」も厳しいが、 それくらい星野には良いだろう。 あまりにプロ野球の監督とし鮮やかな辞め方をしたのだから。 それより、あの二年前のワールド・ベースボール、あれは劇的過ぎただけ。 ただ星野は、酷かった。 人生は、こんなものだろう、 所詮は!+−ゼロ。 〜〜 *オリンピックが終わるか これまでは、あまりオリンピックは見ないが、時差のあまりない北京で行われたことと、 お盆を跨いでいたこともあり、これだけ見るのも珍しい。といって決勝進出と、注目された試合だけだが。 前回の三分の二の金メダルだったが、こんなものだろう。テロによる混乱も無く、まあ無事終了のようだが・・ 中国にとっては大成功のオリンピックとは言えないが、そこそこ(65点)だった。 独裁国家がオリンピックを開催すると、何年後かに独裁体制が崩壊するのは、ナチのドイツとソ連の崩壊から推測出来る。 これから10年間は、大きな試練が待っている。上海の万博まで持つだろうが、火はついたことは間違い。 ・・・・・・・・・・ 2007年08月24日(金) 2334, 離人症体験 オハ…YΘ!!。_゜ヽ(*´∀`)ノ゜.:。+ ある本の中の「離人症」の経験者の話に目が釘付けになった。 私の最も好きな内容だからである。そこでネット辞書で調べてみた。 ーー 「離人症とは、自分が自分の精神過程または身体から離れて外部の観察者になったかのような自己の知覚または体験の変化」と定義される。 ・離人感は深刻な感覚の歪みがあらわれる。例えば、世界が霧か煙を通すようにぼやけて見えるとか、声が遠方からのように聞こえます。 ガラスの檻に閉じ込められ、それにより「現実の」世界から切り離されている感覚。 具体的には、自分が存在する実感がない、 自分が見知らぬ人間であるように感じる、 自分が生きている感じがしない、などがある。 ・身体に関する訴えとして、自分の体が死体・ロボットのように感じる、 自分の体の実感がない、自分の体が大きく・小さく感じる、などがある。 ・また、行動する自我とそれを観察する自我の分離があり、自分の行動を離れたところから自分が観察するという感覚がしばしば起きる。 このような分離は、心の中での果てしない自問自答、堂々めぐりと体験されたり、 自分の体から自分が抜け出す経験(体外離脱体験)と 感じられることもある。 トランス状態にあるような様相を呈することもある。 ・自分以外の人間は自分の体験を真剣に取り上げてくれないと嘆き、これらは心的外傷に深い関連があり、自傷行為や自殺企図もある。 ーー 以上だが、その中で体外離脱体験もあるようだ。 私自身、色いろな体外離脱やパニックに陥ったことが度々あった。 この「離人症経験」とは違うプロセスで体外離脱体験になったのである。 人生の大きな変わり目とか、 厳しい秘境旅行の帰りの飛行機の中とか、大きなストレス状態の時などに生じるところが似ている。 過去の随想日記に、そのことを幾つか書いてきたが、離人体験とは少し違う。 (後記の数年前の文章を貼り付けた中に、偶然に夢について書いてあった。) 一番近いのが、ある旅行からの帰りの飛行機の中での恐怖パニック体験。 (何度か書いたことがあるが・・・)秘境旅行の帰り、ホッとして眠っていたところ夢をみた。 自分が地上からフワフワと風船のように浮遊して、空に舞い上がっていく。 みるみる電信柱を越え、空に上がっていく。「これは危ない、地上に戻らないと!」と、 本能的に夢から我に帰ったところ、そこは地上ではなく空中を飛行中。戻るはずの地べたがないのである。 空中から地上に帰ったはずの自分が、逆に更に高い空中を飛んでいるのである。 それも自分が1000キロの速度で飛んでいる実感がしたのである。 飛行機も、周囲の人も消えて、独り空を超高速で飛んでいるのである。 恐怖で失神?なんてものではない! このような特異の恐怖体験をした人は世界広といえ、殆どいないだろうと、 パニックが収まった時に頭に浮かんだ。(実際は多くいるだろうが、特異という意味で・・・) バンジージャンプで二回飛び降りているが、落下時の恐怖より恐ろしい?瞬間であった。 その落下としても垂直に空中を飛んだ経験があるから、その時に実感できたのだろう。 数分は続いただろうから、よく心臓が止まらなかったものである。離人体験の恐怖を語っているブログがあったが。 その類の知識のない子供が、自分が自分から抜け出た感覚は本当に恐ろしいのは解るような気がする。 離人症という病があるとは、知らなかったが、欝になり、落ち込んでいる心理状態は、正にこれじゃないか? 「ものみのとう」とかいう、あのカルト集団、あれも集団離人症候群じゃないかい? {娑婆を「物見の塔」から見下して、あの集団で修行すれば、千年後に奇跡があらわれ、キリスト様と出会い・・} それも、幸せな集団離人症ということ? ホンジャ(´_`○)ノ ノヾィ♪
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2012年08月23日(木)
「ご老人は謎だらけ 老年行動学が解き明かす 」佐藤 眞一 (著) * 「長寿者は少食」という、間違った思い込み 私の両親をはじめ、若い時から多くの老齢の人との接点が多く、人生を充分に生きた人たちのエキスを得ることができた。 最期は脳梗塞やガンなどで亡くなっていった。それぞれが壮絶で、生きた人生のとおり死んでいったが、死んでしまえば、それまで。 身近で知る限り、80歳辺りから一年一年、急激に体力が落ちていく。中年まではメタボにならず、老齢期に入ったら、逆に 痩せ過ぎない方が良いようだ。長寿の人には、小食というより肉にしろ魚にしろ何でも食べる人が多く、食事を楽しみにしている。 それと愚痴は少なく、明るく何事にも興味を持つ性格が共通している。 それと孤独の人は認知症になりやすいという。人の接点が少なくなり、それが存在理由を小さくして、内に篭もるようになる。 それが認知症を進める。 一般的に男の方が定年後、横の関係が出来てないため孤立傾向になりやすい。 妻に先立たれると、 孤立する傾向が強くなる。そこで個食が孤食になり、その寂しさからアルコール依存症になっていくケースが多い。 一度、アルコール依存症になると、倒れるまで飲まないと気が済まない状態になる。 その結果、孤独死。 孤立する原因に、 時どき新聞ネタになる「ゴミ屋敷の住人」の主がいる。 老人の判断基準で分別が出来なくなり、苦情などでゴミを捨て辛くなり、 その結果、家にはゴミの山になり近所との軋轢が出てしまう。この傾向は全国的にエスカレートしているとか。 私の場合も、 家内に先立たれたら直面する可能性がある。 自分の年齢と、その自覚の差異が7歳もあるのが問題の起因の一つ。精神の老いに 生活が追ていけなくなる問題である。 もう一つ70歳を過ぎると免許証の返納を勧められる。しかし本人にとって最後の砦を 失うことになる。危ないという自覚がないから、尚のこと。歳をとり日常生活でイライラすることが多くなるほど、車の運転は 自己効力感が強くなり、貴重な楽しみになっている。それを取り上げると、気力も何も無くしてしまう。いずれに、直面することに なると思うと暗くなるが、今日一日を精一杯生きていくしかない。老人化も、冷静にみれば面白いもの。生きているだけ儲けもの? ・・・・・・ 3802, 哲学人 ー④ 2011年08月23日(火) * 驚きを忘れた人々 (P/29より) 【 あらゆる意味とあらゆる目的がこの世界のなかにあリ、価値と道徳は人間によってつくられる、つまり、価値と道徳は社会的・歴史的に 形成されるのである。真実はミステリアスであるとの意見を『彼ら』は理解できず、それゆえ人間の経験の意味するところは私たちの理解を 超えているのかもしれなといった意見を、まわりくどい戯れ言(その正体はやはり宗教的なもの)とみなした。私にとってこの態度のどこが いちばんなじみにくく、いちばん理解しがたかったというと、それは私たちが存在していることに、というより、なんらかのものが 存在していることに驚異(あらゆるものが奇跡にほかならないということ)を感じる感覚が欠けているという点である。 結局のところ、 深く考えなくても、子どもくらいの思考力さえあれば、私たちの経験のきわめて一般的かつ基本的な特徴すら私たちは自分では 気づいて当然なのに、私がいま述べているような人々はその点を見抜けなかったらしい。 ある種の常識的なものの見方がほぼ正しいと いうことを自明だととらえているようだが、私にとって自明だったのは、「常識は正しくない」ということだった。 あっという間に不可解さと自己矛盾の泥沼に嵌ってしまうからである。さらに正直に言うと、「『彼ら』は常識的な世界観を否定することを ばかげているとみなしたけれども、私からすれば、それを容認することこそばかげていた。彼らの見解は、その基盤を顧みないあいだしか もちこたえ代物だった。はなはだ浅薄であったばかりか、支えとなるものはなく、ぽっかりと宙に浮いていたのである。『彼ら』の見解の 根本を問いただしても、そうした疑問はことごとく退屈で的はずれなものとして退けられた。世界や経験のさまざまな基本的特徴は、 人間の推理力ではとうてい理解できそうにないという事実に注意を向けようとすると、彼らはこの事実を逆手にとって、問題を提起する ことを封じこめた。彼らの望みは、理解できる事物の領域に自分の人生を閉じこめることだった。最初に挙げたクルーブと比べると、 わずかながら深遠で批判的でもあったが、結局、両者の態度には多くの共通点があったのである。 大人になるにつれて、世界にまつわる驚異の念にひたり、世界が差し出す解決できそうにない問題(とくに、時間、空間、物体の知覚、 物体の本質などに関する問題)にのめりこんでいったおかげで、私はまわりの人たちからやや孤立することになった。こうした問題を 語りあえる相手が見つからなかっただけではない。 そんな問題をもち出せば変人扱いされかねないことを思い知らされたのである。 人づきあいをしなかったわけではなく、人生のほかの局面ではとても社交的な人間だった。昔から友人はいたし、17歳になって恋愛もした。 パーティが大好きで、熱烈な音楽愛好家にして、芝居通でもあった。それでも、経験のきわめて形而上学的な次元に心を奪われていることは、 たとえ日々そうした問題に取リ岨んでいたとしても伏せておくべきだと知ったのである。そんなふうに孤独感を覚えながらも、この問題に 取り組んだのは、なんといってもこの問題が圧倒的に重要であったからだ。私たちの本質や、私たちが暮らしている世界の本質にとって 根本的なものであるのに、こうした問題に何故誰も魅了されないのか理解できなかった。 頭の良い人なのに、何よりも重大な問題に 暗黙のうちに禁じられているには、何とも奇妙に思われた。 】 ▼ ここで、マギーは「 私にとって自明だったのは、常識は正しくないということだった。あっという間に不可解さと自己矛盾の泥沼に 嵌ってしまうからである。さらに正直に言うと、彼らは常識的な世界観を否定することをばかげているとみなしたけれども、私からすれば、 それを容認することこそばかげていた。彼らの見解は、その基盤を顧みないあいだしかもちこたえ代物だった。」と、述べている。 常識は、殆ど正しくないことは、今さらだが、あえて事を荒立てることもない。私も常識とやらは、ほぼ間違えていると、この年齢で実感する。 考えてみれば「あの人は常識人」ほど侮蔑の言葉はない。大部分である常識人のいうことを、まともに聞いてきた人生、何だったのだろう。 ・・・・・・・ 3437, 64歳の現時点で、感じること! ー2 2010年08月23日(月) * あと5ヶ月で65歳になるが 65年の人生を振り返ると、月並みだが長いような短いような感じだが、決して長くはない。アッという間である。 家庭に恵まれていたし、時代背景にも恵まれていた。 満足度は70、いや80点である。 明日の金が無くて呆然としたことも無かったし、人間関係で悩むことも比較的少なかった。 また事業を四十年近く、やれたことが良かった。また装置産業を選択したため、自由時間に恵まれたのが良かった。 好きな秘境ツアーも、私の環境=条件内では最大限に楽しむことができた。 好きな本も充分に読むことができた。 好きな箱物(ビル)造りも、小規模だが増築を含めると8棟を立ち上げることができた。 もっと事業を大きくできたチャンスがあったが、恐慌になった現在、それが良かったかどうか。 第二次世界大戦の終了から、米ソの対立、朝鮮戦争、ベトナム戦争、中国の文化革命、そして、ソ連と東欧の崩壊、 日本の高度成長、バブルと、その崩壊、そして失われた20年という長期の停滞。アメリカのニューヨークの9・11テロと、 アフガン・イラク戦争。そして、極めつけがアメリカ発の大恐慌である。それが今後、10〜20年と色いろなカタチで、 20世紀的なものや、文化の破壊がすすむ。65年の人生で、半分以上は成長期の時代を味わってきた。特に20代、 30歳代は、高度成長期にあたっていた。もう日本が、これだけの右上がりに成長を謳歌する時代は二度とこない。 そうこう考えると本当に良い時代背景だった。 情報化社会の到来で、劇的変化を始めた時代の入り口を生きている。 その変化は想像を遥かに超えている。 毎日が驚きと、感動と、おののきの日々である。それにしても知らないことが多すぎる。 ・・・・・・・ 3062,階級社会だと! −2 2009年08月23日(日) 上流階級?の人が落ちぶれた時に、階級の存在をシビアに知ることになる。 その時のハビトゥス(その人の習慣をつくりあげている文化構造)の崩壊のプロセスを身近で何人か見てきた。その崩壊は人間性の崩壊になる。 階級社会にとって必要なことは、その入れ替えの弾力性である。弾力性が無くなれば階級社会が自滅することを経験的に知っているからである。 時間軸の長短から考えれば誰もが成上がりでしかない。イギリスは階級制度のハッキリした国であるが、その入れ替わりには長年の経験上、 当然のように受け入れるシステムになっている。新しい価値をつくりあげれば、その価値の創造者として認める。日本でも明治時代の伝統で、 家柄より学歴を優先する社会的システムができている。日本の最も優れた文化資産である。 (字数制限のためカット 2011年8月23日) ・・・・・・・・・ 2697, 散歩について 2008年08月23日(土) 散歩の習慣と効用については何度か書いてきた。1月から3月半ばを除けば毎朝、豪雨でない限り歩いている。 もう25年ほどになる。年々少しずつだが歩数は減っているが、それでも毎朝一時間弱は歩く。 日本人の歩行は、この三十年で激減しているという。30年前で7000歩が現在では6000歩弱に、車通勤では、4000歩も歩かない。 江戸時代には日本には散歩という概念がなかった。車がないので、何処に行くのにも歩いていたから、敢えて歩く必要も無かったようだ。 それでも、現代人と比べると3倍から5倍は歩いていたという。西欧人のように、「楽しみのための目的なしの歩き」に名前を散歩と名を つけたのは、勝海舟であった。氷川清話には、散歩の話がところどころ出てくる。散歩の語源は、漢方の言葉で、漢方の内服薬を飲んだあと、 その薬を早く吸収させるため歩くことを意味していた。勝海舟は、外国人が生活の中に散歩を取り入れているのを見て、 心身の健康の効用を看破した。私にとって、散歩のない日々は考えられないほど、日常の生活の一部になっている。大雨で歩かなかった 翌日など、身体から毒素(恐らく活性酸素だろう)が抜けていくのがわかる。それと、脳の活動が活発になるのも分かる。 これを続けていると鬱病などなる訳がない。早朝に、陽光にあたりながら、鳥の声と、川のせせらぎの音を聞きながら、深呼吸を して歩いていれば、マイナス思考など出ようがない。最近はiPodでアルファー波のタップリ入った音楽を聴く習慣も取り入れた。 哲学の小道が京都になるというが、決まった道を、他のことを意識しないですむ道という。 ソクラテスではないが、プラトンなどと問答しながら歩いたのは、脳が活性化するためである。散歩を健康のためとか、 考えるため、というのでは長続きはしない。あくまで楽しい日課の一つとして取り入れて、スキップするような気持ちで歩くことだ。 最近80歳過ぎの少し痴呆症の入った年配の人が散歩をしている。道に立って、来る人来る人に手を上げて親しそうに話しかけている。 (字数制限のためカット 2012年8月23日) ・・・・・・・・・・ 2007年08月23日(木) 2333, ホッファー −2 *ヾ(´∀`o)+。才ノヽ…YΘ! この特異な哲人ホッファーの存在が、今日のように我々に知られるに至ったのは、マーガレット・アンダーソンという 「コモン・グラウンド」編集長である。「たった一人、彼女が東海岸で自分の原稿を待っているのだと思えることが、 自分の思索を持続させた」と、ホッファーは書いている。世に出た著書は、好評だったが、爆発的に売れたわけではない。 あくまでも彼は本の“著者”にすぎない状態だった。1964年にカリフォルニア大学のバークレー校で週に一度の学生たちとの講義も 担当するようになったときも話題をよんだわけではなかった。ホッファーのような変わった人物を講師にするのは、バークレーのやり方。 しかし、ホッファーはひとつの感慨をもつ。「人にはこのように、世界のどこかでそれを待っているところが、少なくとも一カ所は あるものなのだ」ということを。 以下は、ある本からの抜粋である。 ▼ ホッファーが人気をもつきっかけはテレビであった。1967年、エリック・セヴァリードとの対談がCBSで放映され大反響になった。 それから一年に一度、ホッファーはテレビ対談に登場する。かれ自身はつねに目立たない存在を望んだが、どんな評価も名声も ホッファーの生活を豊かにすることも、その精神を危機から脱出させることもなかった。社会や世間のほうがホッファーのような “例外者”を必要とした。こういうホッファー・フィーバーのなかで、彼はまったく変わらなかった。 沖仲仕をやめて著述に専念するようになるのは六十五歳をすぎてから。八十一歳で死ぬ(一九八三)まで、本を書きつづけ主要な著作は 十一冊をかぞえる。うち六冊は日本でも邦訳が出たが、現在も入手可能なものは一冊しかない。これほど数奇な人生があろうかと 思わせるほど波乱に富んでいるが、これ以上に面白いのが、彼がいろんなところで出会った、数々の特異な社会的不適応者たちの語る 自分の人生である。この自伝には、そのような忘れがたい人々との忘れがたい出会いがつまっている。その一つ一つが、 まるで短篇小説以上の仕上がりになっている。こういった出会いのすべてが彼の哲学的思索のナマの素材になっているのである。 (以下、字数制限野関係でカット 09年8月23日) −つづく ・・・・・・・・・・ 2006年08月23日(水) 1968.事業百訓・・・? −1991・1992年(6) H0301新年を迎えて!! (字数の関係でカット 08年8月23日) ーH0307事業百訓 ー 今より20年前、人間には周期(波動)があるのではないかと気がついた。 九年が一周期で前半が陰・後半が陽である。 (マイナス3才〜5才) (6才〜14才) (15才〜23才) (24〜32) (33〜41) (42〜50才)(51〜59)(60〜68才)(69〜77)……。 (字数制限のためカット 2012年8月23日) ーH0309事業百訓ー (字数の関係でカット08年08月23日) ーH0311事業百訓ー 最近私が造った言葉で“夜明けのリゾート・タイム”がある。(江藤淳の“夜明けの紅茶”をもじったものだが) ・早朝(4時半〜5時半)起床 ・近くの土手を一時間散歩 ・テレビ体操 ・瞑想 ・家族全員のお祈り・食事と続く。 特に散歩がよい。山の彼方をみながら複式呼吸をして歩く。季節ごとの草花や鳥をみながら川のせせらぎを聞き、 時々に般若心経をとなえる。この散歩に全てが含まれても過言ではないという“気”にもなる。これを実施して4年、 副産物として夜に出あるく事と、酒量が激減した事だ。健康食品を口にする事も加えて七kgも体重が減った。 時々不節制が続くと散歩していると身体がだるく重くなるのがはっきり判る。 また朝の風呂も非常によい。当初は疲れが残ったがなれると気分爽快になる。 早朝型のきっかけは松下電器の山下俊彦元社長の講演を聞き感激して、自ら挑戦してみた事だ。 彼は登山がライフ・ワークであり、その訓練も含め毎朝3時半起床。 1時間半10km歩くという。 そして読書とシャワーをあびるとの事。夜は定時がくるとすぐ帰宅。夜のつきあいは一切断っている。 これが逆に考える時間と、心の余裕をつくったのでないか。山下跳び(飛躍的出世)の秘密もこれがポイントではないか。 ーーーーーーーー 事業百訓ー1992年(11) H0401新年を迎えて!! (字数の関係でカット) ーH0405事業百訓ー (字数制限のため中間カット2010年08月23日) ーH0407事業百訓ー 395 ~402,字数の関係でカット ーH0407高野山へ旅してー 十年前より行きたいと願っていた高野山へ二泊三日の旅(ドライブ)をしてきた。 初日は比叡山の延暦寺へ寄り、“根本中堂”へ、二度目だがその荘厳さに圧倒された。 また新しくできた国宝堂の国宝・重要文化財の仏像・仏画等も延暦寺ならではのものであった。 翌日の高野山、特に“奥の院”への老杉に囲まれた参道は神秘的で左右の墓石群に千年の歴史の深さを感じた。 何げなくみた墓が上杉謙信、明智光秀、浅野内匠・伊達政宗・前田利長・豊臣秀吉等の墓であった。 三十人位の白装束の集団がすわりこみ“般若心経”を、あげていたのが武田信玄の墓であった。 県内では村上藩、長岡藩、新発田藩などがあった。他にも代々の天皇家の墓や松下(電器)家の墓等も印象的であった。 この終点にある灯竜堂も灯竜の灯火が天井等に無数にならび、形容しがたい感動的なものである。 その奥にある弘法大師の御廟所も信者がそれぞれ“お経”をあげており、奥の院そのものという感じであった。 秀吉が母の菩提を弔うために建てた金剛峯寺も剛荘な構えで、“柳の間”(関白秀次が切腹させられた間) がそれとは知らず、突然目の前に歴史を見せつけられたようであった。 高野山へ登る途中の林海の深さに感動、千百年も前によくぞこの場所をみつけたものと不思議であった。 ーH0407城下街小唄 ー 私の出身地の長岡はかつて“長岡藩”の城下街であった。 (字数制限のためカット 2011年8月23日) ーH0407霊的体験ー 二十年近く前になるが、父の死後四九日の終わるまで何度か不思議な体験をしてみた。死後一週間後位か妙な夢をみた。 私自身父の気持になり“死にたくない。もっと生きたい、生きたい”という“念”になってしまった夢である。 そして夢よりさめた時の妙な気持。私自身父になってしまった。いや私自身(父自身)生きている!という妙な不思議な感覚である。 夢の“念”は父そのものであるし、父と一年身近で苦しんだ為に“念”が実感できたのだと思う。 それが夢よりさめた自分の魂が“父の魂”と一緒になった!という不思議な実感。経験した人間ではないとわからないはずだ。 また死後二〜三日後の夢も強烈な夢であった。何か強烈な恐怖感がおそってきた。その時、父のベットで寝ていたが“おやじ助けて!” と言ってしまった。と同時に廊下の向こうにある仏間より本当に強烈な“引力”が足をひっぱった。そのひきずりこまれた瞬間 ベットにしがみついたが、その時隣に寝ていた母がスクッと立ちあがりトイレに行った。全身汗びっしょりであった。 まだまだ不思議な事がいっぱいある…。あれ以来最近は少なくなったが幽体離脱とか、妙な霊的体験が多くなった。 ーH0407禁断の秘密 ー (字数制限のためカット 2012年8月23日)
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2012年08月22日(水)
「ご老人は謎だらけ 老年行動学が解き明かす 」佐藤 眞一 (著) * 長寿の人の共通点 ーわがままに生きる 「憎まれもの世にはばかる」ではないが、歳をとると因業になっていく。先がないので抑えていた我がままが表だつ。 長寿の共通点が「わがまま」。わがままと因業は紙一重。 ー その辺りをまとめてみた。 【 日本には100歳をこえる人は4万8千人いる。50年前には153人しかいなかったというから300倍以上である。 10年前で1万人をこえたというから、僅か10年で5倍である。人間の寿命の限界は、フランス女性の122歳。 100歳以上の人に対し医学や遺伝子の様々な研究が行われていて、心理学研究では、ある程度共通した性格ががわかっている。 男性の場合は、性格が几帳面で、自分を曲げないで、日課がほぼ決まっていて、生活がきちんとしている人。 女性の場合は、明るくてわがまま。ちょっと強引だが、周囲の人を幸せにしてくれる、‘大阪のオバチャン’みたいの人。 男女とも、「わがまま」の人が長寿である。「自分勝手」とは、少し違うが、我が強い人である。「わがまま」の意味は、 「自分が決めたことを、自分の思うようにできている」で、誰かが元気がない時に、その人が喜びそうなことを、積極的に動く人。 それは「自律できている」ことである。自律を保つことで幸福度を高く保っている人ということになる。アメリカの心理学者が、 面白い実験をした結果がある。 ≪ 三匹の犬を一緒につなぎ、電気ショックを与える。 一匹目は、電気ショックを与えたら、 鼻でパネルを押すと電気ショックを押すと止むようにし、二匹目は、一匹目が押した時に、電気ショックが止みますが、自分では 何をしても止まない。三匹目には何もしない。これを繰り返した後に、それぞれを仕切りに分けたボックスに入れて、 電気ショックを与えると、二匹目の犬は、すぐに飛び越えられる低い仕切りでも、うずくまっただけで、逃げようとしなかった。 この犬の状態を「学習性無力感」と呼ぶ ≫ 】 ▼ 何か勤め人根性が染み付いて、退職後に誰も指示しないため無気力になる大方が二匹目の犬に近い? 身につまされる人が多いだろう。身近な人に似たような人がいるが、人生は誰も同じようなもの? わがままな二代目か、婿取り娘が果たして長生き?かというと、そうでもない。それはそれで気苦労があるのだろう。 ライフワークを続けること自体が、わがままになるが、10年20年が必要だが、今からでも遅くはない。 ・・・・・・・ 3801, 哲学人 ー③ 2011年08月22日(月) 『哲学人』 ブライアン・マギー著 ー読書日記 ー 第一章 子供のころの記憶 〜時間に始まりと、終わりはあったのだろうか?〜 鵺 【 何かが存在するためには、その何かは「ほかのものとは違うなんらかの個性」を備えていなければならない。 つまり、その何かとは「異なるもの」も存在していなければならないのであり、その「何かに限界がなければならない」のである。 したがって、いまあるものに終わりがないということはありえず、いまあるものに始まりがないということもありえない。 私は始まりのない時間も終わりのない時間も不可能であると確信するようになった。 かといって、始まりや終わりがあるという 可能性をつかめそうにないわけでもなかったが。 さらに、似たような問題が空間に関して存在することにも、私はすぐに気づいた。 いまでも覚えているが、ロンドンからイングランド中部のマーケット・ハーボロに疎開していたころ(確か十歳か十二歳の頃だった)。 公園の芝生に横になって雲ひとつない青空をずっと奥まで見通そうとしながら、こんなふうに考えたことがある。 『 もし僕が空のなかにまっすぐ、昇ってそのまま突進んでいってたら、どこまでも進んでいけたっていいはずだ。 でも、そんなことはできない。どうしてできないのか? きっと、最後には終わりみたいなものに突きあたるからだろう。 だけど、どうして?最後に何かにぶつかるのだとすると、その何かは空間のなかにないといけないんじゃないだろうか。 そして、その何かが空間にあって、空間ももっとあるとすると、その向こう側にも何かがあることになるんじゃないか。 ただ、そうすると限界がないことになるけれど、終わりのない空間なんかあるはずない。終わりのない時間がありえないのと同じである。』 こうした問題にしきりと頭を悩ませた末、私はこう考えるようになった。最大の間違いは、自分に想像できないものがあるはずはないという 仮定にあるのだろう。 考えられることと、実際にありうることとは違うのかもしれない。結局のところ「つぎはどうなる? そのつぎは? そのつぎは? そのつぎは? 」と、ずっと問いつづけていれば、確かにある意味では、永遠につづいていくものがあると考えることはできる。 しかし、その永遠につづくものは考えられるだけで、実際には存在しないということも、当たり前のような気がする。 無限というものは、考えることはできても、存在することはありえない。たとえば星の敗が無限であることなど実際にはありえないように・・。 それとも、自分は落とし穴かち抜け出そうとしているのに、いままた落ちつつあるのだろうか? ともかく、真相がなんであれ (考えられるものが存在できず、考えられないものが存在できるとしても)、それは自分が現に抱えている問題を解決する役には立たないだろう。 時間に始まりがあるのかないのかについて、それは真相を教えてくれないからである。いったい、このふたつのうちどちらが本当なのだろう? 】 ▼ 私が、年齢を重ねて実感していることを、既に10歳前後から考えていたのだから文化の背景が違うということになる。 欧州では中学校の頃から哲学の授業が取り入れられている。 考える基礎を感受性の強い中学の時期に教える必要性を ギリシャから続いている哲学の歴史から学んでいたのである。「何かが存在するためには、その何か、他のものと違う何らかの個性を 備えてなければならない」という考え方は、西欧の考え方のベースにある。 島国の日本では、個性を押しつぶした右倣いが必然になる。 欧州は多民族のため、常に隣国から虐殺される危険があり、万一の場合、それぞれが違った個性で生きのびる必要性があった。 そのため自分の頭で考えることが最重要になる。 やはり、考えて生きるべきである。そのことは周辺、いや自分を省みて了解できる。 ・・・・・・・・ 3436, 人生で後悔することとは? 満足していることは? 2010年08月22日(日) * 私の人生で後悔することを、まず3つ挙げるとしたら 先日、「死ぬときに後悔すること」を取りあげた。そこで私の場合はどうか、考えてみた。 ● 人生で後悔すること ・酒の飲みすぎと、それからくる失敗の連続 ・身近の人たちへの配慮の不足 ・NTT株やカラオケ事業など中途半端な準備で大失敗したこと ・100年、250年に一度の世界的変動期に遭遇してしまったこと ・大学ノートに絞って生情報・知識を整理したおくべきだった。 記録のパターンの統一の不徹底 ● 人生で、本当に良かったと思えること ・幼児期・少年期に、両親の創業を家族として体験できたこと(両親が必死に働いている姿を身近でみたこと) ・大学時代に多種の経験ができたこと。 最も充実した学生生活を送れたと言えること 《ゼミ、一ヶ月間の欧州旅行、寮生活、クラブなどなど》 ・30歳までに、問題の大部分を吐き出し、乗り越えたこと。 ・26歳から、四十年近く独立独歩で事業ができたこと。 ・55歳からHPを開設、公開し、一日一テーマで9年3ヶ月、休むことなく書き続けたこと。 その結果、ネット世界に乗り遅れなかったこと。 まる『10年』に9ケ月になったこと その結果、情報化社会の一端を垣間見れたこと ・好きな秘境・異境ツアーを中心に海外ツアーなど47回、続けて旅行できたこと ・両親などの家庭環境に恵まれ、時代背景が歴史的にみて日本がベストの時代に20、30、40歳代を過ごせたこと ・人生で致命的な場面に遭遇しなかったこと(今までは、だが) 〜〜 実際は後悔することだらけなのだろうが、やりたいことは、やった実感がする。「人と比較をしない」のがポイント。 何度も書いてきたが、「上を見ればきりがない。下を見れば底がない。横を見れば情けない」の最後を「ありがたい」にすればよい。 後悔か〜 やはり、感謝が足りない分、後悔することになる。 一日、一回でも心を込めて「ありがとう」というか。 ・・・・・・・・ 3061,階級社会だと! −1 2009年08月22日(土) 世の中には露出されてないが、階級社会が歴然と形成されている。地方などでは、あまり表面化してないが、都会などでは 住む街からして歴然としている。千葉・総武線沿線界隈などの下町と、自由が丘などの山の手界隈と街並みからして違うのは今さら。 世の中に平等など考えてみたら有得ないのは当然で、有るとしたら選挙権とチャンスの平等位のもの。 ところで、仏の社会学者のブリデューが、「プラティーク」と「ハビトゥス」という概念で社会階層のあり方を分析している。 ・「プラティーク」とは、習慣行動と訳されるもので、我われが何を好み、色いろな場面でどのように振舞うかである。 ・「ハビトゥス」とは、その習慣行動を派生させている規範システムをいう。 高校受験で、まず分類され、高校のクラスも 成績順に分類され、大学でふるい分けられ、次は就職、そして、それぞれの組織の出世競争でランクつけられる。 ブリデューは、「それぞれの階層の含まれる人間は、全てでないにしても、同じような習慣行動をとる」 このような構造を発生するものとして「文化資本」という概念を示している。 そういえば父が私を道具屋に幼児の頃から連れて行き、色いろな茶碗や仏像を意識的に見せていた。 母は、ことあるごとに倫理的な話や、商売の原理原則の話をしてくれた。 第二次大戦前まで、何代か続いた古美術店を営んでいて、 戦中、戦後に色いろな商売の立ち上げなどの経験を具体的に聞かされていた。 また、山本五十六や、地元の「ツガミ」の津上退助や、 野本互尊との親交の中で学んだことなど聞かされて育った。 それが、「ハビトゥス」のベースだったことになる。 それがあったから、どの場面でも偉そうな何を見ても、それがどうしたで、相手から威圧を感じたり、仰ぎみることはなかった。 文化資本の一部分の引継ぎがあったのだろうか。その文化資本は決して親だけでなく、自分で長年かけて形成しなければならないことも 両親の生き様をみて分っていた。 毎日の早起きであり、読書であり、下世話な話をしないことであり、日常の贅沢をしないことであり、 死に金を使わないことである。 「で、御前さんは、その程度か?」と言われれば、それまでよである。 ただ、私たちは、 その文化資本の匂いは嗅ぎ分ける。その文化資本は、倒産などで一瞬に崩壊してしまうケースを、あまりに多く見てきた。 それぞれの階層は、その匂いには敏感である。特に腐った匂いには。「習慣は第二の天性」である。 だから自分で良い習慣を 一つずつ作り上げれば、ある日、突然違う自分を見出すことも可能である。 その反対もある。 ・・・・・・・・・ 2696, 「レンタルの思想」−4 2008年08月22日(金) ー人類を救う「レンタルの思想」松井孝典対談集ー どの対談を読んでも、なかなか難しいが、何度か読むと解かってくるから不思議である。 対談でないと、専門家(特に学者)の書物を読む気にはならないが、対談の場合は意識的に 難しい部分を、噛み砕いて対談をしてくれるから、話しの内容についていける。 私が、この二人の対談で理解できたことは、 ・「『人間とは何かを考えたとき』 言語・法・貨幣 という本能と理性の間にある媒介物こそ、 人間を人間にしているのだ」ということである。 しかし、その貨幣が欲望の肥大を生むのである。 ・「貨幣という概念の誕生によって初めて、グローバルな人間圏が定義されるのではないか」 「所有という欲望の具体的なカタチを貨幣という抽象化し、それがグローバルな人間圏を形成させた」という点である。 これにインターネットで電子マネーが瞬時に世界を駆け巡るのだから、世界がグローバル化するのは必然。 まずは、一番印象に残った部分を抜粋してみた。 ー欲望の倫理学ー ー 松井孝典 × 岩井克人ー 岩井克人: 法のない社会では、たとえば他人に殴られた人間は、その人間を殴り返すか、または直接賠償を要求しなければならず、 そこでは個人の力の大小や属するグループの強弱によって人間関係が支配されてしまう。しかし、法があれば、その法を媒介として、 殴られた人間と殴った人間との関係は抽象的な権利と義務の関係に還元されることになる。 それが人間社会を拡大する。 さらに貨幣が導入されると、人間と人間との間の交換関係がグローバル化する。贈与交換にもとつく共同体では、交換の範囲が お互いに顔を知っている人間同士に限られるのですが、貨幣の媒介は顔を知らない人間同士でも交換を可能にする。 地球上にちらばっていたローカルな人間圏が統合され、本来の意味での人間圏というのができることになる。 松井孝典: 地球システムのなかの人間圏という概念を定義する仕方に、二つあると。一つは物質エネルギー循環的に定義する方法、 もう一つは貨幣という仮想的概念のもとに、一つの共同体として成立するか条件から定義する方法。 岩井克人:そういうふうに考えると、じつは『人間とは何か』と考えたときに、それは、言語・法・貨幣 という、 自然でもなく人為でもない人間関係の媒介物、ハイエクの言葉を借りると(本能と理性の間)にある媒介物こそ、 人間を人間にしているのだということになる。 それは同時に、人間を普遍化させることになります。 《対談を終えて》 松井孝典 生物圏から人間圏が分化したその時、人間の欲望が解放された、と私は考えた。欲望の具体的表現が所有であるから、その時に 人類の地球の所有が始まった、と以来考えている。しかし、主流派経済学では所有権という概念を用いて、生物圏の種の一つに過ぎない 段階でも、人間の行動の全てを解釈する、という。 貨幣という抽象的概念の誕生によって初めて、グローバルな人間圏が定義 されるのではないか、という指摘と共に頭の中が刺激される。ただし、未来という時間軸は、所有権という概念をもってしても、 その議論に組み込めない。私風に言えば、歴史を規定する境界条件が変化するとき歴史に基づいて未来は予測できない、 ということであるが、問題の難しさはいずれにせよ、この問題に帰着するようだ。(松井) 〜〜 後記:電子マネーとか、地域マネーとか、ポイント制などの企業内マネーとか、 これまでとは違った貨幣が生まれだしてきた。特に注目するのはネット内の仮想世界のマネーである。 ネット内では、共通ルールと、共通マネーと、共通言語が必要となる。それを前提としてネット内の 仮の個々人が成り立つ。そして、リアル世界では実現できなかった欲望が解放される。 金か〜 使ってこそ金、貯めるものじゃない、欲望を開放するもの。 ただ仮想的概念でしかないことを忘れないことだ。 ・・・・・・・・・・ 2007年08月22日(水) 2332, ホッファー −1 オノヽ∋―_φ(゜▽゜*) アメリカの社会哲学者というより、哲人・ホッファー。彼の文章を読むと、深い魂を呼び起こす熱が伝わってくる。 彼は自分の生きかたを通して人生の何たるかを考え続けている。 知識として、やっと彼まで行き着いか!というのが感想である。日本でいうと中村天風のような人物である。 「ホッファー」で検索をして、日本で現在一冊だけ出版してある本を見つけ、中古本だがアマゾンから発注をした。 「エリック・ホファー自伝 構想された真実」だが、今から読むのが楽しみである。HPに彼に関する書き込みが多いのに驚いた。 これからみても彼の哲人ぶりを垣間見れる。生きていく上で真の「学び・学習」とは何かを深く考えさせられる。 まずは、検索で調べた哲人・ホファーの人生の概略図である。 ーーー ・ホッファーは(1902年7月25日〜1983年5月20日)は独学の社会哲学者。ドイツ系移民の子としてニューヨーク、ブロンクスに生まれる。 ・7歳のときに母と視力を一緒に失った。 (字数の関係でカット09年08月22日) ・・・・・・・・・ 2006年08月22日(火) 1967.事業百訓・・・? ー1989・1990年 (5) ーH0101事業百訓ー 313 生物はあきらかに“物”の領域である事を認識しなくてはならない。 ……人間の“心”は社会現象によってつくられたものかも。 あれだけ誰もが信じて疑わなかった天動説が地動説にとって変るように、心の存在そのものも…… 314 気分は悲観、楽観は意志である。(宇野収・東洋紡会長) (字数の関係でカット、2008年8月22日) ーH0105ー 事業百訓 320 あの世で神様が「あなたの一生の中で、一日だけ、もう一度生かせてあげます」と言ったら、どの一日をあなた選びますか? (字数制限のためカット 2012年8月22日)
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2012年08月21日(火)
* 今年の熱さ対策 今年は当初は熱暑だった。しかし7月末辺りから暑さも収まってきたが再び盆からぶり返してきた。ひと月前にミニサイズの 扇風機二台を買ってきて、居間と書斎に一台ずつ置き、これまでの古い扇風機と併用して使っている。それにスーパーで売っていた 「冷却ジェルパック首もとベルト」を3つを冷凍庫で冷やし交互に使っている。これは冷たさが一時間しかもたないが、冷却時間が 三時間のため複数必要になる。 ところで今年の電力不足騒ぎ、今のところ起きてない。問題は残暑のこれからになるが。クーラーは 寝室の就寝時間だけ入れて、居間では夕方の一時間ぐらい入れている。夏場の電気料金が月に三万円、一日千円になる。 * 大手大橋にて 先週土曜日の早朝、何時ものようにポタリング(ミニ・サイクリング)の大手大橋で、ヒキチャリをしながら歩いていると、 後ろから声をかけたれた。車椅子に乗った隻手の男性で、恐らく交通事故で右腕を根元から切断、下半身麻痺で自走式車椅子である。 私の電動アシスト自転車に興味を持ち声をかけてきた。電動アシスト自転車が如何に良いか説明すると、自分の車椅子が電動切替え式で、 背後に電動モーターがついていて時速6キロという。何度か薄暗い中、かなりのスピードで走っているのを見たことがあった。 人それぞれの運命と人生がある。 ところが昨日の朝、いつものコースの信濃川の土手を走行していると、屋根つきの休憩所で、 30歳前後の男女二人が、その電動の車椅子を畳んでいた。本人は不在で、まさか聞く訳もいかないし、そのまま遣りすごしたが。 その前に何か(熱中症とか?) あったのだろう。ポタリングを始めて4年目になるが、続けていると色いろある。 そういえば、雀が少なくなった。去年の大雨で河川敷の雑草地に水が使ったせいだろうか。燕も少なくなった。多いのはカラスだけ。 ・・・・・・ 3800, 人間の五感が認知できる範囲を世界という 2011年08月21日(日) 「知的余生の方法」渡部昇一著 〜2 * 人間は世界内存在である 第二の人生は、その世界内存在の隅に足を入れたことでもある。隅から逆視線で世界内を見直すと、これまで見えてこなかった、 世界内存在の皺と虫が不思議に思えるぐらいに奇妙に見えてくる。なるほど悲劇と喜劇は裏表とか、善悪の基準のいい加減さとかが。 学生時代あたりから、この辺のこと、「現象に現れていることと、本当のことは、違う」ことをゼミなどで少しだが分かっていた。 だから、「学び続けていないと、大きな転換期に対応できなくなってしまう」危機感が人一倍あったが、最期は、このザマ。 それでも、最悪の事態の備え、家族を事業に入れないとか、家内と私の通帳管理は全く別にしておくとか、家内にも厚生年金を別口で かけておくとか(退職金や、倒産時の失業保険はないため)一般の勤め人とは違ったリスク管理をしてあった。 それをもって勤め人の立場からすると、計画倒産というらしい。 【「人間は世界内存在である」という場合の「世界」というのは、人間の五感が認知できる世界ということになる。 縦、横、深さの他に時間をいれてもせいぜい四次元の世界である。五次元、六次元の世界がどのようなものであるかは想像すらできない。 音も光も人間が五感で認識できる周波数の範囲は限られている。それは、象の皮膚の襞の中の寄生虫には星が存在せず、梅の香が存在 しないようなものではないか。人間は五官の世界に閉じ込められていて、これから逃れる方法はない。 この状況を 「人間の世界内脱出不可能性」というらしい。人間は象の皮膚の嫉につく寄生虫とは違う。人間は自分が五官の世界内に存在していることを 知りながら、そこから脱出しようという努力をしたり、脱出することを、祈ったりするからである。そしてそれに成功している人もあると 主張する人もいる。それがオカルトである。オカルトとは、つまり五官と時間の囲い込みを超越しているという意味である。どの宗教の 神様も人間の世界内に閉じ込められてはいない存在だ。だから有難いのである。神様とはいかないまでも、超能力があるという人もある。 ある宗教家には私の前世がわかるという。私の霊魂は在原業平とベンジャミン・フランクリンのそれだったという。 二人とも私が好きな人であり尊敬する人でもあるから悪い気はしないので、それを信ずるわけでないが、有難く承っている。 こういう認識の仕方は、人間の世界内存在の状況を完全に超越しているわけである。普通の人間は解剖学的制限の下にある。 これを哲学的に言えば、「世界内存在」の実体である。だから解剖学者はオカルトの世界を認めない人が多い。霊魂だとか 超能力などは、人間をいくら解剖し、いかにすぐれた顕微鏡や検査法を用いても存在をつきとめられるわけではないからだ。】 ▼ ビックバンが起こって宇宙ができたというが、それは世界内というのか、それを人間の知識が感知した範囲でしかないから、 人間は世界内存在というのか、どうか。インドのカースト制度。それぞれの身分に世界があり、最下位にも、チャンとした目下がいる。 世界は、それぞれの視界内のことになる。 この情報化、世界中の寄生虫が、他の寄生虫と瞬時に情報交換が可能になってきた。 ・・・・・・・ 3435, 再び、死について考えてみる ー3 2010年08月21日(土) 新聞広告に「死ぬときに後悔すること」の幾つかが載っていた。直接、死とは関係ないが 死際の後悔は事前に準備で少なくできる。 面白そうなのでネットを調べてみた。 ーアマゾンの「死ぬときに後悔すること25」の紹介文よりー 《 ほとんどの人は死を前にすると後悔するという― では、人生の最期を前に、どのようなことに後悔するのか。 本書は、終末期医療の専門家である著者が、千人を越す患者たちの吐露した「やり残したこと」を25に集約して紹介。 この本の著者は1000人の死を見届けた終末期医療の専門家。死に直面した時でも充実した生き方をして生ききったら、 『この世に未練はない!』の境地になれそうである。》 =「死ぬときに後悔すること25」のうち20に絞って記した。 ▲1 健康を大切にしなかったこと ●病気になる前にお金を使うか、なってから使うか ●健康のうちから健康を大切にする ○3 生前の意思を示さなかったこと ●大切なのは遠慮なく話し合うこと ●平素から意思疎通をしておく ◎5 自分のやりたいことをやらなかったこと ●自分の気持ちに嘘をつかない ●自由に生きるか、忍耐に生きるか ○6 夢をかなえられなかったこと ●一つのことを続けると良いことがある ○8 感情に振り回された一生を過ごしたこと ●小事に心を揺るがせないことが大事 ?9 他人に優しくなれなかったこと ●優しさを行う難しさ 心の優しい人は後悔が少ない ?11 遺産をどうするかを決めなかったこと ●遺産と介護の問題 ●遺産分与の話し合いは元気なうちに ?12 自分の葬儀を考えなかったこと ●自分の望む葬式とはどういうものか ●自らの葬儀を準備した女性 ◎14 美味しいものを食べておかなかったこと ●好きなものを楽しく食べる ◎15 仕事ばかりで趣味に時間を割かなかったこと ●「仕事命」の人生を後悔しないために ●病気をきっかけに散歩の喜びを知った ◎16 行きたい場所に旅行しなかったこと ●旅行は出来るうちにしておくほうが良い ●最期の旅で人生を完結させた人たち ◎17 会いたい人に会っておかなかったこと ●人は終わりまで他者を求めるもの ●人との出会いは一期一会の精神で ?18 記憶に残る恋愛をしなかったこと ●恋愛の記憶は最後の日々を豊饒にする ●スローラブのすすめ ○19 結婚をしなかったこと ●結婚という「形」がもたらす安心感 ●夫婦の深い結びつきが苦しみを和らげる ○20 子供を育てなかったこと ●多くの家族に囲まれた患者には笑顔が多い ●自由と孤独はいつも隣り合わせ ?21 子供を結婚させなかったこと ●子供が結婚していないという心残り ●まず子供を独り立ちさせるところから ◎22 自分の生きた証を残さなかったこと ●人生の総括は早めにしておくほうがいい●生きた証として何を残すか●手紙に思いの託して ◎23 生と死の問題を乗り越えられなかったこと ●生の意味、死の意味を考える ●「マイ哲学」を確立する ○24 神仏の教えをしらなかったこと ●世界で一番死を恐れる現代日本人 ●「来世」の持つ癒しの力●健康なうち宗教について考える ○25 愛する人に「ありがとう」と伝えなかったこと ●家族愛が問われる時代 〜〜 ×▲○◎は、私自身の評価である。第三者の評価は違っているのだろうが、死ぬときの心の問題としての自己評価。 ×と▲が少ないのに驚いているが、普通に生きていれば?、こんなものか! 唯一の▲は酒の飲みすぎ! ・・・・・・ 3060,逆説思考 ー4 2009年08月21日(金) 逆説思考で思い出したことがある。 武澤ゼミの武澤信一先生に中根千恵著「縦社会の人間関係」の読書と、その感想を述べる課題が与えられた。 その前年の昭和42年に出版されて注目された本で、日本社会の特性をズバリついた内容。 現在でも日本社会を知る名著として知られている。 ーその概要をネットで調べてみると 《今では、常識になっている縦社会(日本)、横社会(西欧)という概念を最初に提示した古典的な本。 初版本は昭和42年であるが、今でも現代の日本社会に当てはまる内容である。逆にいうと、それほど日本社会における 普遍的な構造を捉えた本と言う事ができる。 本書によると、社会集団の構成の要因を、資格(構成員に共通したもの、 例えば、氏、素性、学歴:出身大学、地位、職業、資本家、労働者、など)によるものと 場(一定の職業集団、所属機関、地域) によるものに分類し、どちらの要因で社会構造が構成されているかで、社会が特徴づけられている。 日本は場により構成される社会であり、その中での順序:通常は年功序列、が重要な縦社会である。 日本のような縦社会は、分業が成り立たない社会(競合メーカーはフルセット戦略をとりがち)、能力平等という非現実的な 事柄を前提とした悪平等社会、中央集権の政治構造を持つ社会、派閥の功罪の生じる社会、である。 一見すると縦社会であるということとの因果関係がわかりにくいような現象についても、縦社会という社会構造が原因であると、 分かりやすく説明されている。 また、契約精神の欠如のために、共通の目的・仕事の達成に責任感が乏しく、往々にして、 それ以上に感情的な人間関係が重要視される社会である。》 ▼ 以上だが、年功序列・終身雇用を前提とした日本社会の人間関係について社会人類学の観点から論じている。 日本社会はタコツボ社会とも喩えられ、現在の中央省庁の官僚機構も、それぞれ独立性が強すぎて国家運営の障害になっている。 (字数の関係でカット11年8月21日) ・・・・・・・・・ 2695, 「レンタルの思想」−3 2008年08月21日(木) 「レンタルの思想」を、私の理解したレベルで、まとめてみよう。 ー以下は、思いのまま書いた内容で修正を敢えてしなかったー 《地球システムを構成しているのは、大気圏、その中の物質圏、その中の生物圏、そして、更に一万年前に出来た人間圏である。 それまでの生物圏で採取、狩猟で生きてきた人間が、牧畜・農業を始めたことで、爆発的な人口増加を可能にした。 そして5000年前から始る各地の文明は一万年前の牧蓄・農業への転換と、その結果としての人口の爆発的増加から始っている。 人間が狩猟に留まっていれば、せいぜい5〜600万の人口が限度であった。それが、その1000倍を超えた現在、地球のシステムは、 人間圏を支えることが出来ない相転移点の水が氷、水蒸気に変化すること)に、達っしてしまった。現在の天変地異や、エイズ、 鳥インフルエンザなどの世界の混乱は、その一現象である。我々は、人間圏からみた哲学的人間観、生物的人間観だけでなく、 宇宙から俯瞰した地球システムの中の人間圏の中の人間観を改めて作らなければならない。 ここで、一万年前から始った牧蓄・農業の もととなる所有という欲望を、見直さなければならない。 それは、地球上の自然だけでなく、土地、そして我々人間すら、 地球からの借り物=レンタルという視点である。地球システムは、このまま人間圏が膨張し、地球を汚染、破壊し続けると、 人間圏に対してマイナスのエネルギーを発することになる。いや、既に発している。 それがミャンマーのサイクロンであり、エイズであり、鳥インフルエンザであり、世界各地で起きている大地震である。 それを解決するヒントの一つが江戸時代にある。江戸時代の支配階級の武士社会は、武士階級の土地の所有を認めなかった。 更に江戸時代の消費をするものの大部分が有機物の植物であった。 それは、自然循環するもので、廃棄物そのものが、殆ど出ないもので賄われていた。》 〜〜 以上が、私が著者のー地球をすくう「レンタルの思想」ーから理解した概要である。著者は対談の中で、インターネット社会は、 地球外から俯瞰して考えてみると、危ないという。情報が均質化され、個々人が過剰に主体的になりすぎるからである。 それが進むと、ビッグバンの状態に近い、混沌状態が生まれて、何が起きるか解らない事態になる。 これは、実感として解る。 現在の社会問題の多くは、これを起因しているといってよい。 この本を読み返し、そしてインターネット上で、彼のインタビューや、彼の著書の評論を読みながら、考えているが、深い大きな示唆が 提示されている。人生観や信条が根こそぎ揺らぎだしてさえいる。考え出して僅か一週間で、根っこが揺らぐのだから、私も知れたものだが、 それだけのインパクトがある。この百年の人口増加の比率が、今後3000年続くと、地球の体積と人間の体積が同じになるという。 それだけ20世紀は、人口が爆発的に増えてしまった。その一部の文明国?先進国が化石燃料を使い込んだため、その汚染で地球システムは 崩壊を始めたのである。僅か100年で、地球が数十億年かけて創りあげてきたシステムを根こそぎ破壊したのである。 この狂った猿は、「一人の人間の生命の重さは、地球より重い」と、のたまっていたのである。隣の国では、狂った独裁者が今だ存在をして、 将軍様と名乗り国を乗っ取っている。しかし内向きという点では下手な資本主義より、地球のシステムにとって良いのかもしれない。 オウム教を肯定するのではないが、視点は宇宙からである。 オームとは、宇宙からの音波の音である。 地球システムに人間は従うべき?という思想があるかどうかわからないが、一度修行で、宇宙に出て、 再び現生を見直すことに関しては否定は出来ない。インターネットという、人類にとって一万年、いや十万年スパンの、 とてつもない手段を手に入れた人間は、時を同じくして地球システムの破壊という大失態をしてしまった。 以上だが、なるほどと、改めて納得する。図書館で借りた本だが、他の著書と同時にアマゾンで発注をした。 ー次は、印象に残ったの対談の内容を書いてみる。 ・・・・・・・・・・・ 2007年08月21日(火) 2331, 「ぼくの血となり肉となった500冊」ー2 (*'▽'*)/☆゜'Good☆Morning −読書日記 「ハエとハエとり壺」は、哲学の意味の説明に解りやすい喩えである。 道理さえ解れば何とことがないが、知らない当人にとっては道理の存在があることすら解らない。 還暦過ぎたり、死の間際になって気づくことも、若いときに少し考えれば解ることばかり。 それが教養ということなのだろうが、若いときは人生経験が浅いので如何してもディズニーランドのキャラクターの ように頭でっかちになってしまう。しかし、それでもよいから教養を身につけることこそ必要である。 ーヴェド・メータ著『ハエとハエとり壼』ーの斬新さ 立花隆 (字数の関係でカット09年8月21日) ・・・・・・・・・ 2006年08月21日(月) 1966.事業百訓・・・? 事業百訓ー1987年・1988年(4) ーS6201新年をむかえて (字数の関係でカット2010年8月21日) ーS6209事業百訓ー “宇宙と地球と人類”を大雑握にとらえまとめてみると− ? 我々の宇宙は百二〇〜百五〇億年前にラグビーボール大の素粒子がビック・バン(大爆発)により生じた。 ? そのひろがりは(a)二千億の太陽で一つの宇宙(銀河系)を形成 (b)その銀河が百億存在しているところまで確認され ? 地球誕生は四十五億年前であり、太陽のまわりの細かい隕石がぶつかりあって拡大して生じたも (字数の関係でカット12年8月21日) 事業百訓ー1986年(5) ーS6101新年にあたりー (字数の関係でカット08年8月21日) ーーーーーーー 事業百訓ー1988年ーS6303 魂の色は何色 5才の時、一年間牧師が毎週家庭に説教に来ていた時の事である。牧師の質問が“魂の色は何色ですか?”であった。 姉兄等は当然答えられず、最後に私のところにきた。一瞬考えた後の私の答が“魂の色は顔色”であった。 牧師と両親のその時の驚きを、今でもはっきり記憶しています。そこであの時の牧師の用意していた答は何だったのか、 T氏と酒をのみながら話し合った事があるのですが、結論はでずじまいでした。その時のT氏は“白光色”。 私はおそらく“虹色”ではないかという意見だったようです。もちろんこの話にはオチがつきます。 五才の子供にこの言葉の意味がわかる訳がなく、肌色という意味で顔色という単語がでたのがそのタネあかしです。 しかし絶妙のタイミングで、絶妙な答であった事は事実でした。今の私にこれ以上の“答”をだす事は不可能です。 せいぜい“目の色”“音色(ねいろ)”“夢色”“十人十色”です。でも本当にすばらしい答は“肌色”かもしれません。 ーS6305ー 新井石龍禅師に学んだ事 ー1 学生時代に、父と禅師が親交があり、実家泊りに来ていただいた事等の因縁で、六日町の禅寺“雲頓庵”に 読書を兼ね春・夏休みになると滞在させていただいていた。度々なので自然と禅師と話をさせていただく機会が多々あった。 無知と若さの為平気で生意気な質問をした私にいつも笑顔で答えていただいた事が、今では懐しい思い出になっています。 (私) −禅とは一言で言うと何ですか? (禅師) −字の通り天地宇宙に己の単(一人)である事を示す(気づく)事。 社会に出て半年あまりで気負いすぎで早くも行き詰まり、五日間の夏休みでの雲頓庵の禅師との対話 ( 私) −世間と理屈は違う。理屈どおりに世の中いかなという事がつくづくわかりました。 (禅師) −あなたの理屈がおかしいだけ、世の中は厳しくも甘くもない。世間も理屈もあるものか! (厳しく感じたのは自分自身そのものが甘いだけ)。 後者の時は頭を真二ツにわられてしまったというのが実感でした。頭で物事を考えていた私が、 “自分が”前に出ていた私が、その時点でたたきこわされ、社会人の一員にやっと一歩踏み入った瞬間でした。 ーS6307ー 人生は雷光なり 二人で二百才になろうという人の対談の中で、過去百年をふりかえり、実感として“人生は雷光のようなものだ” 以下字数の関係でカット2008年8月20日)
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2012年08月20日(月)
「ご老人は謎だらけ 老年行動学が解き明かす 」佐藤 眞一 (著) * 自伝的記憶 最近、思い出す頻度が高いのは20〜25歳の頃のことが多い。当時の日記が残っているためと思っていたが、その年頃は強い感情が 満ち、自由で未来への旅たちの時節。少しの決断が、人生を大きく左右に分けてしまい後悔も大きい。多くの自伝的記憶は、 この頃がピークになる。あの極度の緊迫感のあった日々は過酷だが懐かしさが残る。 ー次の部分は、理解しやすいー ≪ 日常のできごとの記憶である「エピソード記憶」のうち、自分の人生に関する「自伝的記憶」だけは、20代をピークに、 10歳後半から30代前半までの青春時代のできごとを、たくさん思い出すのです。なぜか青春時代よりも今に近い、30代後半以降のことは、 青春時代ほどには思い出しません。この、青春時代の記憶を突出してたくさん思い出す現象を、「レミニッセンス・バンプ」と呼びます。 レミニッセンス・バンプは、老人に限ったことではありません。中年以降の人ならば、誰にでも起こります。 では、いったいなぜ、 青春時代の記憶だけが突出しているのでしょうか? その理由の一つには、「強い感情を伴うできごとは、記憶しやすく思い出しやすい」 という、記憶の特徴が挙げられます。10代後半から30代前半にかけては、進学したり就職したり、親元を離れたり、友と出会って友情を 育んだり、けんかをしたり、恋愛をしたり結婚をしたりと、強い感情を伴うできごとが多くあります。そのため、それらのできごとが、 ことごとく心にしっかりと刻み込まれるのです。また、親の監視下から離れ、なおかつ重要な仕事を任されることも、 養うべき家族もないといった、社会的責任のない青春時代は、人生でいちばん自由かつ可能性に満ちたた時代です。親や地域の抑圧から 解放され、社会からの抑圧はまだない。ほんのひととき。その、今は失ってしまった自由と可能性に満ちた時代に、人はノスタルジア という感情を喚起され、好んで思い出すのです。≫ ▼ 自伝的記憶は、その時どきで再編成される。あらゆる可能性に満ちた青春時代は、老いれば老いるほど懐かしいものとなる。 俗世の縛りから解放され、そこはかとなく楽しい気分でいられる時間がある老人は、楽しいことを思い出しやすい。 人間は楽しい気分の時は楽しいことを、悲しい気分の時は悲しいことを思い出す傾向にあるためである。人生のピークは、青春の 真っ只中にあるため、その辺の記憶が鮮明に戻ってくる。 老年は、自分の人生という物語の記憶を校正している。過去の日々を 思い出し、「日々是好日」というより、過去の「日々是口実」を都合良くすることになる。 自伝的記憶の再構成である。 ・・・・・・・ 3799, タブレット式パソコン 2011年08月20日(土) そろそろタブレット式パソコンを、と思っていた矢先に、この一連の騒動。 ここで、少し落ち着いたので、 家電メーカーのタブレットPCのコーナーに行ってみて驚いた。それより隣のモバイル携帯電話コーナーに驚いてしまった。 その内容は今度にして、タブレット、ここで買うと二年間は縛られてしまうので慎重になる。 売り場で感じたことは ・ソニーかアマゾンの読書用専用の機種か、 ・ドコモの多機能のものか、 ・MacのiPadか、 ・家のパソコンに無線ランをつけ、電波を飛ばして、家庭内の第二の携帯パソコンとして割り切ったものに、大方分類される。 その中で、どれを選ぶかである。 私の知人のように、両方選ぶというのもあるが・・ 年金生活者として 殆ど家にいる身として別に買わない選択もある。 電話機能が付いているかどうかは機種によるが、モバイル携帯が大きくなっただけ。 各メーカーが数年後の主力商品を目指し機能の競争が始ったため、少しでも後の方が良いものが出てくるはず。 しかしデジタリアンとして、ここで我慢するのも辛い。外的世界から、内的世界に気持ちの重心を移動したので焦る必要もない。 ところで最近、モバイル携帯電話やタブレット式PC用の直感的なブログが出始めてきた。写真と、映像が直感的に表現でき、 かつ見やすく、面白い。数年後には、これにデジタルTVかパソコンに連動するのだろう。 最近、目にする丸めることが可能な シート式モニターにモバイル携帯を連動するものが出てくるはず。こと、デジタル機器に関しては、想像を遥かにこえたものが 次々と出てくることになる。手段=道具の方が、人間の進化を超えてきている現実は、プラスにもマイナスにもなる。 ますます、面白、怖い時代になっていく。 とにかく、モバイル売り場へ遊びにいってみたら、今と未来の一部が垣間見れるはず。 ランニングコストは、モバイル携帯が6千円、タブレットが7千円。その中間的大きさの商品が初期投資 0円になっていた。 その境目の基準が、大きさだけだと! 今日、明日、他の家電メーカーの店頭で、説明を聞きにいくつもりだが、今のところ、 あと数ヶ月は待つ方になるのでは? ところで一年前に買いかえた多機能TV、面白過ぎてバカが増している。 今さらか・・・ ・・・・・・・ 3434, 再び、死について考えてみる ー2 2010年08月20日(金) * 死に際の恐ろしさ 家内が、近所に住む友人の通夜で聞いてきた話。 肺が溶けていく病気で(肺結核)、息の出来ない苦しさと痛みの果てに、 最後には「オトウサン、助けて!」と叫んでいたという。 断末魔の苦しみは、近親者にとって一番辛いもの。 同級生の葬式で、衰弱しきった遺体を見て驚いたばかり。 死に際の苦痛は避けることが出来ないのだろうか。 最後は独りで苦悩と苦痛の中で死を向かえると思うと、何ともやりきれない。 といって考えても考えなくとも結果は同じ。 なら考えない方がよい。年寄りは、そういう事例を多く見聞きしているから「ぴんぴん・ころり」と死にたいと、願うのである。 死を悲劇と考えるか、生の成就と考えるかは難しい。 最近、亡くなった友人の大部分は、苦痛と苦悩の果てに亡くなっていったようだ。 最期は、リンゲル(麻薬)の濃度を高め、苦痛を緩和し、その果てに死を早めるしかない。 そこではリンゲルによる極楽と、肉体の苦痛の地獄が混濁する。 父親も、手術後の数日間は苦痛の極みにあり、 「あんなに苦しむなら、手術などしなければ良かった!」と死ぬ数ヶ月前に言っていた。 手術の一年後に亡くなったが、 最期は病室で独りで頭を掻き毟っている姿をみた。「死んでいいから、どんどんリンゲルを打ってくれ」と、延命より、 安楽死を望んだ。 また、私の4番目の姉の旦那が亡くなった時の、断末魔の苦しみの状況も、姉からリアルに聞いた。 最期は苦痛で暴れるのを、何人かで抑えて・・・・ 亡くなった。 数年に一度は、訳のわからない新聞記者とか、検察が、断末魔の苦しみの末に、強いリンゲルとか何かで死期を早めたのを 聞き込んで、逮捕や刑事告発をするケースがある。ガンだけではないが死に際には苦しむ患者の息を止めてやるのが、医師の役割。 誰が苦痛の際で生きているより、早く解放された方が良いのは当たり前のこと。死は誰にも平等に、思わぬ苦痛を伴い、やってくる。 人生は生きているうち!美味い酒を飲んで、好きなことをして、後悔の残さないように生き、そして最期は、 のたうちまわって死ぬしかない。上手く死ぬのも芸のうち、など言っていられない。 何処かのホテルのバスにナミナミと水を張り、睡眠薬をタップリ飲み、美味い日本酒を一升も飲めば楽に逝けそうだが。 まだまだあるが、こういうジョークは止めておこう。 ・・・・・・・・ 3059,逆説思考 −3 2009年08月20日(木) * 「逆説思考」を逆説で思考してみよう。 まずは逆説思考の典型的事例は、フランクルの心理学である。フランクルが「夜と霧」で、死と隣り合わせの日々で、 コペルニクス的転換の心理転換が起こる。「人生に何かを求めるのではなく、人生が私に何を求めているか。 そう、生き抜いて愛する人と再会をし、自分の残してある仕事をやり遂げること」である。人生が何を人に求めているか? ・創造価値(何かを創造することによって実現される価値) ・態度価値(人生でどうしようもならない究極の場面で態度を変えることで実現される価値) ・体験価値(何かを体験することで実現される価値。美しい夕日や景観を見て実現される価値) これらを知るために、「本当にしたいことは何か」「夢は何か」「人生の目標は何か」をまず追求すべきである。 しかし、自分の人生は無意味という観念にとらわれた人にとって、その価値を受け容れることが難しい。 それでは、どうするか! 「闘う」ことしか、自分の価値を創りあげることができないのである。 人生に押しつぶされいる人は、「生きるのが辛くなっている」のである。その「つらさ」については仏の哲学者ドゥルーズが原因を 追究している。彼は「器官なき身体」という生きることの実相を明らかにしている。我われは「欲望」と「欲求」によって動いている。 喉が渇けば水を飲むことによって欲求を満たそうとする。性欲も、食欲も、睡眠欲も、排泄欲もである。 しかし、それだけで人間は行動するわけではない。自動車がガソリンの補給と、ラジエーターの水の交換だけで動くものではない。 それは自動車が人間の目的のための道具であるのと同じく、人間も、身体の生理的欲求だけでなく、 「器官の欲求」を超えたところに存在する何かのありさまを「器官なき身体」とドゥルーズはいう。 ー彼は以下のようにいう。 (*参考 「現代思想の使い方ー生きるのがつらいと感じた時ードゥルーズ」P176) 「闘いとは、反対に、力と力で補完し、自からの捕らえるものを豊かにするあの『器官なき身体』の生命力のことである。 赤ん坊が呈示しているこの生命力、すなわち、執拗で頑で飼い馴らしがたく、あらゆる器官組織的な生とは異なる、 そんな生きるー意志である。」それは、私たちの「存在そのもの」に由来する力であり、「存在そのもの」が指し示し、 進んでいこうとする方向性である。「存在そのもの」とは「生そのもの」と置き換えることが出来ます。 辛いというのは、その「生そのもの」の発露が何かで阻止された状態である。 この辛さを克服するには、「器官なき身体」の目指す方向を見据え、その方向に努力することである。 それは、別の存在と衝突し、その価値観を取り込んでいくことにより次第に達成されるのである。 その闘いを、ドゥルーズは『あいだにおけるー闘い』と呼ぶのである。「あいだにおける闘い」によって、私たちは、 「存在そのもの」へと近づいていくことが出来ます。たとえば自然と闘うとき、「対抗する闘い」ではなく、 「あいだにおけるー闘い」を行うことによって、「自然」と融合し、新たな何かなることができます。 「裁きによって、人は成長しない」と彼はいう。「裁き」は既存の枠組みによる準拠して何らかの価値判断を行うことであり、 それでは、それから一歩も抜け出せない。 我われが、その裁きから抜け出て闘いを選択しなければならない。 その闘いが我われの生命を輝かせるのである。 ーーー 以上だが、 生きていくうえで、3C(チャレンジ、チェンジ、コンペティテーション)が必要である。 世界は常に変化しているなら、己も変化しない限り、不自然状態になり、「つらさ」という圧力が押しかかってくるからだ。 フランクルの人生の意味を見出していける人なら、価値を求めることも出来ようが、意味や価値をどのようにして 見出していくかという、更なる根源的な問いが必要になる。そこにあるのは、闘いしかないのである。 先ほど書いたように「つらさ」は、その闘いの回避に原因があるのである。 常に自問自答している「正中心一点無」の気持ちで問題から目を背けないで立ち向かうしかないということになる。 最後の最後は「見方を変えるのではなく、宇宙の中で自分は独りと自覚し、己の価値を闘い取るべし」ということだ。 アウシュビッツ収容所内では無理だろうが! 部屋の中からなら良い、ということ? ・・・・・・・・ 2694, 「レンタルの思想」−2 2008年08月20日(水) 二十年ほど前か、「人生は神様からの借り物、何を焦っているのか! 借金も資産のうち、その資産も借りでしかない。 自分自身も大自然からの借り物でしかない。借りの世界と言う人生では、何事も真正面から目を離さなければ、 それだけでよい!」と、視点を見据えたら気持ちの重みが半減した。 所詮、娑婆は生きているうちの幻想でしかない。 「色即是空、空即是色」ということだが、それもこれもレンタルと思えば、それでよい。 宇宙からの俯瞰からみる宇宙的人間論も必要な時代に差し掛かったのである。 ーネットにあった「レンタルの思想」の松井教授の‘インタビュー’の部分をコピーしたー ・夜半球の地球を宇宙から眺めると煌々と輝く光の海が見えます。 この光の海を "地球システムを構成する人間圏という構成要素"としている。 ・大気が見えるとか、海が見えるとか、大陸地殻が見えるとか、森林が見えるとかと同様に森林は生物圏です。 ・我々が一万年前か農耕牧畜という生き方をしている。狩猟採集"と"農耕牧畜"という生き方を宇宙から 見るということと同じですが、地球システムという見方で比較すると、この二つはまったく違う。 "狩猟採集"というのは、"生物圏"という地球システムのサブシステムに閉じて生きる生き方です。 動物がやってる生き方なんです。我々人類が700万年ぐらい前に類人猿から分かれたといっても、 狩猟採集をしているうちは基本的にほかの動物と変わらない ー人間は、生き物の一種にすぎなかったー ・人間は生物圏の中の種のひとつとして生きているということなんです。 食物連鎖に連なって、生物圏の中の物やエネルギーの流れを利用して生きる生き方。 いろんな人類が生まれては消えたという歴史の中で、現生人類も1万年前まではそういう生き方をしていた。 その"農耕牧畜"という生き方を地球システム論的に考えてみる。例えば、森林を伐採して畑に変えると、 太陽から入ってくるエネルギーが地表で反射される割合が変わるわけです。 これは、太陽のエネルギーの流れを変えてるわけ ・雨が降ったときに大地が侵食される割合も、森林に覆われているときと農地とでは全然違うわけです。 それが土砂として海に流れていく。これは、地球における物質循環を変えるということでしょ」 これはすなわち、地球全体のエネルギーや物質の流れに関わって生きるということです。 それを地球システム論的に分析すると、"人間圏"という新しい構成要素をつくって生きる生き方ということになる。 その結果、地球全体の物やエネルギーの流れが変わったということです」 ー"人間圏"というのは、我々が生物圏の中から飛び出して作った新たな構成要素ー ・1万年ぐらい前に生まれて、どんどん大きくなって今に至ると。その発展段階での違いも分析することができます。 すると今の人間圏の問題点も浮き彫りになってくるわけですよね。 そのシステムが何であれ、システムを記述するときにはその構成要素が何なのか、構成要素間の関係性が何なのか、 これを特定するとそのシステムの特徴が分かるわけです。関係性とは駆動力が何なのか、によっています」 地球システムの場合で言えば、構成要素とは先程述べたようなさまざまな物質圏です。その関係性とは例えば、 海から蒸発した水が大気中で雲を作り、雨となって落ちて大陸を侵食して……といった循環ですね ・人間圏の場合だと、産業革命のころまではその誕生以来、基本的な変化はありません。 駆動力という意味では、 地球システム固有の自然のエネルギーを使っていたということです。すなわち、地球という星全体の物やエネルギーの 流れを人間圏にバイパスさせていたということです。日本だと江戸時代まで、ずっとそうなんです」 ・体にしたって、皆さん自分の体だと思ってるでしょ。でも自分の体じゃないよね。生きている間、地球から借りてるだけだよね。 ・元々地球を構成している元素の一部をたまたま体として利用している。我々が生きるときに身体という物が 重要なんじゃなくて、それぞれの臓器が重要なんです。人体というシステムを構成する構成要素ですが、 その臓器がそれぞれの機能を発揮して、人体というシステムを作ってる。重要なのは、その臓器の機能なんですよね ・これはどういうことかっていうと、実は身体という物を所有するんじゃなくて、レンタルしてるということです。 こういうふうに物事を考えない限り、地球システムと調和的な人間圏は作っていけない こういう方向に動いていかなきゃいけないけど、これは基本的には資本主義経済とか市場主義経済とかと矛盾するよね 「例えば江戸時代だと、領地にしても家屋敷にしても、所有しているのではなく、貸し与えられているだけですね。」 「そのころは、もともと所有なんて概念はない。みんなレンタルだった。加えて駆動力をその内部にもたないから、 江戸時代に環境問題なんてほとんどない。これは地球システムと調和的な人間圏。 そういうことを考えてみれば、わたしの言ってることはそんなに荒唐無稽じゃないんだけど」 ーー 一万年来の、大転換期に差し掛かっているのは解っていたが、それは情報化時代の到来が起因と思っていた。 それが人間圏の膨張による限界点を超えたことによる、とは。 地球のシステムが間違いなく人間圏を破壊する。それが温暖化による天変地異や、これから間違いなく 数千万規模の死者が予測される鳥ウィルスの流感や、エイズである。 それを目の当たりに見ているのである。 ミャンマーのサイクロン、中国の四川省の大地震、至近では中越大地震、中越沖地震、これは始まりでしかない! 人生の元を取っている?ので、諦念でとらえているが、しかし5年〜10年スパンのことではない。 50年〜100年単位で、いやもっと大きなサイクルだろう。20世の人類は何をしたのか?未来の人類に。 ・・・・・・・・・ 2007年08月20日(月) 2330, 「ぼくの血となり肉となった500冊」 ー読書日記 (`・ω・。)っノXXXXXXX>C 才ノヽ∋― 「ぼくの血となり肉となった500冊そして血にも肉にもならなかった100冊」ー著者 立花隆 昨日の「株価暴落の意味するもの」で引用したが、この一ヶ月は隙間時間があると、この本を読んでいる。 彼の猫ビルにある3万5千冊の中から選んだ数百冊の本のミニ・ダイジェスト。 数行から数十行の内容が キラリと光っているものばかりである。 ランダムに面白そうな部分を抜粋しながら考えるに丁度良い。 『思索紀行 ぼくはこんな旅をしてきた』の続刊的な本である。 この本がキッカケで、彼の著書「エーゲ 永遠回帰の海」を買って読んで、今年の旅行ははギリシャと決定した。 更にウィトゲンシュタインの「90分でわかるウィトゲンシュタイン」を買った。 彼の本は、読書のナビゲーター として割り切って読んでいる。まずは、彼の彼たる所以である特徴の部分から抜粋してみる。 −− *フィクションからリアル世界へ(P−64 ) (字数の関係でカット2008年08月20日) ・・・・・・・・・ 2006年08月20日(日) 1965.事業百訓・・・?
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2012年08月19日(日)
「ご老人は謎だらけ 老年行動学が解き明かす 」佐藤 眞一 (著) 還暦から65歳までは自分が老人と意識したことがなかった。しかし会社から離れ、家庭中心の生活に入ると、急に老いを 目前に突きつけられた感がする。 思いもしなかった過去の記憶が突然に蘇る頻度が多くなり、それぞれの時節に袋に閉じ込めていた 遠い記憶がフラッシュバックしてくる。 図書館で借りてきた本だが、なかなか老人の本質をついていて身につまされる。改めて 老人学を調べると、面白い本がある。要は、人生を通して学び続けてきたかどうかだろうが。 ーアマゾンの内容紹介ーより 【 = わけがわからないご老人の行動には、理由がある! = あなたはご老人を見たときに「なぜ、あんなことをするのかな?」と、思うことがありませんか? たとえば、もう先が長くないのに、 気にもかけず、毎日楽しく暮らしている人。誰が見ても反射神経や判断力が低下しているのに頑なに車の運転をやめない人。 些細なことでキレ、頭から湯気を出して怒っている人....。ご老人たちの行動は、謎だらけです。しかし彼らのこのような行動には、 実はそれなりの理由があります。 その理由を探り、高齢者の行動と心の謎を、老年行動学によって解き明かしたのが本書です。】 ▼ 冒頭の、「なぜ老人は都合のよいことしか覚えていないのか?」の問い、が面白い。 「どうやら老人は自分の都合の良いことや楽しいことしか覚えてないらしい。」の問いを立て、次のように答えている。 ≪ 老人に限らず、もともと人の気分は、ネガとポジの真ん中ではありません。うつの人などはネガ寄りですが、通常は真ん中よりも ポジ寄りなのです。なぜかというと、人はみな、自分が死ぬことを知りながら生きているからです。いつか必ず死ぬとわかっていながら 生き続けるには、「自分には生きている意味がある」という自己肯定感や、「自分は生きる価値のある存在だ」という自尊感情が必要で、 それがないと人は生きていけないのです。そのため人は、自分という存在を肯定し、自分の価値を高めてくれる情報を、無意識のうちに 集め、記憶し、脳に蓄積していきます。そして、気分をポジ寄りに保つことによって、生き続けるのです。 この基本的なしくみは若者も老人も同じなのですが、若者の方がネガティブな事に目が向きやすく老人はポジティブな事の方により向き やすいのです。実際に、悲惨な写真と楽しい写真を見せると若者は悲惨な写真を見る時間が長く、老人は楽しい写真を見る時間が長いという 実験結果があります。理由の一つとして、生きていく上で必要な学習機能として、若いうちはネガティブなことに目が向くと考えられています。 人生の端緒を開いたばかりの若者にとって、長い時間を生き抜くには、他人はどのようなとき自分を攻撃し、自分はどのような状況で傷つき、 どのように苦しむのかといったネガティブなことに目が向くのではないかと考えられている。それに対して老人は、散々ネガティブなことを 経験してきていますから、もうそのようなそのようなことを学習する必要はありません。しかも、高齢になって残された時間が短いことを 認識するようになると、気分をポジティブに保つことが、今後の人生を生きる上で重要になります。経験上、ポジティブなことに目を 向けた方が生きやすいため、注意力や記憶力という‘限られた資源’を、ポジティブなことに当てるようになるのです。 ≫ ー 老いはポジ寄りに意識的に向けていないとネガティブに陥る傾向にある。なる程、この年齢になって気づいたことは、年齢に 気持ちが追ていけないこと。実際のところ、心の精神年齢の調査では50、60歳代で6歳の差があるという。 アメリカでは、男が15〜6歳、女が22〜23歳もあるという。私は10歳近くは若い。というより、年齢に気持ちがついて行けない。 ・・・・・・・ 3798, まずは「自分の世界の自覚」から! 2011年08月19日(金) * 世界内と世界外 40歳の頃から20年間にわたり世界の秘境・異郷に熱中したのも、その世界の凄みに引き付けられたことがある。 それぞれの世界は、それぞれ他から隔絶され、それぞれの時間が流れているのを実感させられる。その世界を対比することで、いかに 自分の世界が小さく、脆い現象世界に存在していることに気づかされる。ここで世界を象に喩えているところが面白い。その皮膚の襞が、 それぞれの社会。そこの寄生虫が我われと見ると、わかりやすい。 問題は、それぞれの寄生虫は、そこが全世界と思っていること。 それを知るには、その世界外に出てみないと分からない。 人間は世界内存在とハイデッガーが述べたのは、そのことである。 ーまずは、渡辺昇一著 「知的余生の方法」の ≪自分の世界の自覚≫ よりー 【 ここでは人間の「世界内」と「世界外」について述べてみたい。 こんな句がある。<虫けらは やはり自分の 世と思い 阿部佳保蘭> 毛虫は、住む木の種類が決まっているという。Aという毛虫はKという木の葉しか食べない。その毛虫にとってはその木の傍に美しい花咲く 種の木があろうが、おいしい葉を持つσ種の木があろうが関係がない。Kという自分の木だけが全世界だと思っている。 この応用は いくらでも応用できる。「象の皮膚の襞につく寄生虫は、自分がくっついているその襞だけが自分の全世界で、象がどのような形をしている 動物かも知らない」というようなことを言ったのはフランスの哲学者ルコン・デュ・ニュイであったろうか。このように虫の立場から見る 世界とか、鳥の立場から見る世界とか、人間以外の動物の目から見る世界の「視点の転換」を教えたのはユクスキュウルというドイツの動物学者。 哲学史でどう取り扱われているかは詳しくは知らないが、人間の思考法を大転換させる業績だと思う。 木田元さんは近代西洋哲学の、特にドイツの哲学者ハイデガーの権威である。・・・木田さんはハイデガーの『存在と時間』の訳を 読んで発奮されて東北大学の哲学科に入学され、哲学者になられた。ハイデガーを本当に理解したいと思ったからだと言う。当時の私は 中学の教科書のほかには、佐々木邦の『珍太郎日記』とか、吉川英治の『三国志』を耽読していたのだから、暦日年齢的には三、四歳ぐらいの 違いなのに、精神年齢としては十歳以上も違っている。そう言えば、同じ中学の五年先輩の丸谷才一氏の読書歴を見ても、私とは確実に 十五歳以上の精神年齢差がある。その木田さんは比較的早い頃からハイデガーについての著述をなされていたが、ハイデガーを本当に 理解できるようになったのは、ずっと後年で、ハイデガーがユクスキュウルの動物学の影響を受けているのがわかったからであるという。 象の寄生虫の存在を「象の皮膚の皺という世界内存在」ということになる。」・・・ 】 ▼ この辺は、カントの論に似ている。カントは五感の能力内でしか世界を認識できないと初めて論じた人。寄生虫と、人間の違いは、 自分が象の皺の中にいることを実感しているかどうか。それを知るには、長年かけた教養を積むか、その地を遥か離れなければならない。 そういえば、力・愛・知の追求の他に、それらから一歩離れた価値の追求をしてきたのは、五感の外の(世界外)存在も念頭に入れていたため。 ・・・・・・・ 3433, 電子書籍の衝撃 ー2 2010年08月19日(木) 「電子書籍の衝撃」佐々木 俊尚 著 *iPadの有利な理由と、不利な理由 ◎ まず優れている点は、 ・汎用機としての魅力。パソコン、そして携帯電話に次ぐ三番目のデバイスとして生活の中の確固として存在になる。 大きな画面を近距離からリラックスした姿勢で見ることができる。書籍、ちょっとした動画の鑑賞、映像つき音楽などが 気楽にみれる。 マニアを除けば一人一台になると、キンドルのような専用機は不利で、本も動画も見れ、ウェブも 楽しめる汎用機を皆が見れるようになるか。 ・次に、iPadはiPhoneをベースにしているため、そのアプリ(ソフト)を、そのまま使える。既に数万点もある。 既に一年前で3000万台を持ったユーザーが、そのまま横滑りをしやすい。 ◎ 不利な部分は、 ・サイズと重量、バッテリーの持続時間などのスペック。キンドルに比べ面積も重量も、大きく重い。 持続時間は、バッテリーの10時間に対して、キンドルは7日から10日。 ・第二に、キンドルはバックライト付きの液晶画面で、見た目が紙に近く、液晶より文字が読みやすく、目が疲れにくい。 ・第三に、値段がキンドルの二倍もする。 それらから、結局何を選ぶかになる。 ▼ 以上から、決め手は、そのプラットフォームになってくる。プラットフォームとは、購入システムのことをいう。キンドルなら、 アマゾンという書籍専門のネット販売サイトがある。それに対しiPadは、iTunesストアがあり、そこから音楽や映像も購入できる。 その何を選択するかになる。流行している本は、なかなか入手しづらいが、ネットなら、そういうことはない。これにグーグルがソニーと組んで 参入してくるというから、その有利なプラットフォームを前面に打ち出してくる。それが何かまだ分からないが、二社に対して強烈なものに なるだろう。 他にもマイクロソフトも何かを出してくる。その激闘の中で、今までの紙の新聞・書籍が壊滅過程に入る。いや、既に入っている。 ・・・・・・・ 3058,逆説思考 −2 2009年08月19日(水) 逆説思考といえば、ここでも取り上げた京都大学工学部の新宮教授が、 古今東西の幸福論を読み漁った成果としての「幸福の4階建て論」説が面白い。 《「幸福ということ」−エネルギー社会工学の視点からー新宮秀夫著 》 4階:克服できない苦難や悲しみの中に、幸福がある。 3階:苦難や悲しみを経験し、それを克服する。 2階:獲得した「快」を永続させる。 1階:人間の本能的な「快」(恋、富、名誉など)を得て、増やす。 この論に関しては釈然と出来ないので何度も考えてみた。それでも疑問が残ったが、考えるという面では良い問題提起である。 これを逆説思考と考えると違った見方になる。挫折、失恋、倒産、などで失意のどん底でもがいている、そこに幸福があるのだろうか? 金沢時代を振り返ると、そこには何ともいえない酒の味とか、友情とか、仲間の邂逅があった。節目となる失意の底ほど、無駄なようでいて、 一番大事なことをしているのである。「窮すれば変じる、変じれば通じる」である。竹の節目と同じ。哲学的にみれば横の時が平常とすれば、 窮した時は垂直の時ということになる。垂直で立ちっぱなしも問題だが、ここは志が試されている時である。 ーネットで逆説思考を調べてみたところ《逆説思考 ー自分の「頭」をどう疑うか 森下 伸也著》が、あった。 ーその概要とはー 逆説こそ「思考力」「洞察力」の根本とし、通常の価値観の一面性を暴露し、それを反転させてしまう思考のスタイルを、 「逆説思考」と定義している。 転倒思考(常識の命題を逆にする)、逆因果思考(常識の因果関係の結果を逆にする)、 因果反転思考(常識の因果関係を因果反対にする)という3つの類例を設定する。 ことわざや文豪の例でその3パターンを具体的に観察し、オイディプスの予言では逆説が与える心理的な効果を考察、 さらに逆説は欠陥動物である人間に本質的なものであり、それゆえ人類の文明は週末が来ると広げていく。 「ロミオとジュリエット効果、カリギュラ効果(禁止されるとやりたくなる)」 「ハンディキャップ進化論(人類は記憶力や体毛が退化したことで言語や火を発明した)」 「エラー進化論(人類は失敗を成功の元にして発展してきた)」 「エゴイズム的自殺(自由が空虚を生む)」 「アノミー的自殺(規範がなくなって不安になる)」など、逆説的なトピックを紹介している。 エジソンやアインシュタインそしてダ・ヴィンチ は、脳に障害があった。しかし、その傷害のおかげで、天才になった。 その人に とって負の面が、逆に、その人を形成している重要なファクターになっている。天才の殆どが梅毒という説もある。 ー 以上だが、通説とか常識を根こそぎ疑うことこそ、時代の大変動期には特に必要である。 次回は、この逆説思考を逆説してみる! ・・・・・・・・ 2693, 「レンタルの思想」−1 2008年08月19日(火) 松井孝典の対談集の ー人類を救う「レンタルの思想」ーが面白い。 あるブログに松井教授の「レンタルの思想」を簡略した内容があった。 ▽ まずは、その思想の概略から、 ・一万年の人間圏の歴史でみると、現代を人類の歴史上相対的な意味で、飢えから解放されて豊かになった時代。 この豊かさはなぜ実現できたのか。 未来はこのまま豊かになり続けるのか。 ・地球の歴史は、環境問題として考えれば汚染の歴史である。 ・地球システムの構成要素が変化すれば、地球システムのモノやエネルギーの流れが変化し、環境が変わることは 当たり前である。 問題は人間が、この時間変化を速めている事にある。 ・では我々はこの問題になぜ危機感を抱いているか? それは100年という非常に短い時間に環境が変化し、我々がそれに 適応できないからである。人間圏がここまで大きくなってくると、時間変化をこのままずっと速めていくという事はできない。 ・我々が右肩上がりという共同幻想を維持したいとしても、それは達成できなくなりつある。そのひとつが、インターネットによる サイバーワールド。 情報という仮想的な世界、地球というリアルワールドでなくて、情報社会というサイバーワールドをつくって、 その中の時間を速める事によってサイバーな豊かさを追求しようとしているのが、現代の人間圏のもう一つの特徴である。 サイバーワールドは飛躍的に拡大していけるが、リアルワールドはもう拡大できない。これまでの右肩上がりが継続し、時間変化も いくらでも速められるという幻想を、あたかも現実であるかの様に見せる世界だけが発達しているのが現在の人間圈である。 そのサイバーワールドに、右肩上がりという共同幻想を押しつけて、あたかも未来も豊かになっていくかの様な 幻想の中に生きているのが現在の我々である。 ・人間圏の未来を考えた時、この様な右肩上がりで均質化をめざす事で良いのだろうか。 又、人間圏の現状をどう認識する上で宇宙から見た視点が必要だと言う事である。 ・我々は20世紀を振り返って21世紀を考えるという発想をするが、もっと長いタイムスパンで現在を認識しないと、 人間圏をつくって生きるという、我々が地球の上で行なっている生き方の是非は論じられないことを指摘しておきたい。 ・長い歴史に基づいて未来を考えるとどうなるか。 その様な歴史においては、歴史とは「分化」だとすれば、 人間圏が「分化」するというのが「未来」という事になる。 「人間圏の分化」とは、人間圏を構成する要素、ユニットをどう考えるのかという問題である。 ・単なる造具にすぎないインターネット社会という人間圏に、今後どんな共同体が新たにつくられていくのか。 あるいは国家という共同体、EUの様な地域的な国家の共同体が、人間圏のユニットとして、今後どういう意味を持つのか という事を考え直さなければいけないのである。 人間圏の新しいユニットとしてどういう共同体をつくっていくのか、 そこに未来がかかっている。その為には新しい思想が必要である。 それを「レンタルの思想」と呼んでおきたい。 ・人間圏をつくって生きるという生き方で、これまで追求されてきた事は、個人が豊かになっていく事である。 豊かさとは具体的には物を所有する事である。人開圏をつくって生きはじめた結果、我々は初めて欲望を解放しても 生きられる様になった。 しかしそれは、人間圏への物やエネルギーの流入を増加させる事ができるからである。 ・人間の欲望は際限なく、右肩上がりにどんどん増大するから、それを満たす様に人間圏を拡大させてきたのが人開園の歴史である。 人間園が拡大できなければ、これまでの様な豊かさの追求はできない。従って今、豊かさの意味が問われているのである。 ・我々の存在そのものも実はレンタルである。 我々は自分のからだを自分の所有物だと思っているが、これは物としては地球から 借りているにすぎないのである。 地球から材料をレンタルして我々は自分のからだをつくり、その機能を使って生きている だけの事。「所有」に対するアンチテーゼは「借り物」、即ち「レンタル」という事でレンタルの思想と命名したのである。 ・本書では、地球の上にへばりつき人間圏の内部に閉じ、人間を絶対的な存在として全てを考える人間中心主義的な人が陥りがちな 考え方へのアンチテーゼとして、 宇宙人という知性が存在すればこう考えるのではないか、という考え方を紹介してきた。 宇宙人としてどう生きるかを考えない限り、これからの地球システムと調和的な人間圏=文明 はありえないと思うからである。 その様な視点から21世紀の科学が創造できるのではないか、その「解」一つがアストロバイオロジーである。 〜〜 以上だが、次回は松井教授のインタビューを紹介して、考えてみよう。 ・・・・・・・・・・ 2007年08月19日(日) 2329, この株価暴落の意味するもの ヾ(´∀`o)+。才ノヽ…YΘ!! この一ヶ月足らずで、株価が3000円近く、大よそ15?の下げは、やはり気になる。アメリカの低所得者のローンの破綻や、 アメリカ経済の疲弊、自民党の参院の大敗、近々に予測される衆院選挙と、その結果の混乱を先読みした結果である。 参院選挙以降から株価がジワジワ下がり始めて、ついに一昨日800円の暴落になった。 ところで立花隆の「ぼくの血となり肉となった500冊」で紹介されていたスティーブン.ローチ著『超大国の破綻』 (中央公論新社)の内容が、アメリカ経済の破綻が始まったのではないかと不安になる。立花隆の本からの抜粋をしてみると・・ 目次には、 「もはやアメリカ経済は世界経済を支えられない」「ドルの暴落は必然的に起る」 「激突の道を走る世界経済/グローバリゼーションが生み出した世界的供給過剰/ 資産バブル破裂/かくてデフレは生じ、今後も続く」「情報革命は『失敗に終わった革命』」 「幻想をばらまく"ばら色のシナリオ」「景気二番底の危機に直面するアメリカ経済」がならぶ。 (字数の関係でカット08年08月19日) ・・・・・・・・・ 2006年08月19日(土) 1964.事業百訓・・・ S5801新年にあたり 激動の年 (字数の関係でカット09年08月19日) ーー ーS5801事業百訓 (字数の関係でカット10年08月19日)
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2012年08月18日(土)
・30年前=36歳。新潟のホテルの立ち上げ二年目で営業は順調で、一息ついた時。 二つ目のホテルの土地を近くに見つけ、 買収交渉に入りつつあった。時代は右上がり。ホテルの1Fで学生ショップを兼業しており、ホテル名も学生服メーカーの 名前をつけていた。月〜金曜日はビジネスホテルが満室で、土日は学生服の売上を稼ぎと当初の思惑が当たり、ピークの時。 この頃、東北・上越新幹線が開通し、新しい波が東北と裏日本といわれた日本海側にも打ち寄せてきた。 ・25年前=41歳。1987年といえば、プラザ合意から三年目。バブルで日本中が湧き上がっていた。ホテルも280室になり、 利益体質が完成していた時期。この時、郊外型ホテルを考えていたが、結局は新潟駅前で500室を目指すことにした。これも、 バブルの影響である。こうして振り返ると、戦後の日本経済と命運が全く同じだったことが見て取れる。 ・20年前=46歳。それまでの無理もあって病気で打ちのめされていた。日本経済もバブル崩壊からくる大不況に突入。 それでも、バブルの予熱が日本を覆っていた。客室数は280室、さらに500室に舵を切る決断をしてしまった。 この時期、まさか20の都銀が近い将来、次々に倒産や、吸収合併されていくとは、夢にだに思ってなかった。 ・15年前=51歳。母親が亡くなった翌年。 人生を俯瞰して、「やり残したことを還暦まで圧縮して生きる。30年分を 9年間に押し込む」と考え、決断。今から考えてみて、これは正解で。 バブル崩壊で金融機関の再編成、真っ只中。 ・10年前=56歳。「人生の良いところ還暦まで!」と、年数回の秘・異郷旅行など無我夢中。 個人のHPも立ち上げ、 生活の中心をネットに移動して二年目。 意味・人生を謳歌していた時期。しかし、売上はジワジワと下降曲線に入っていた。 ・5年前=61歳。リストラ効果も出始めて、新潟駅前再開発事業も進み、何とか目安がたちホッとしていた。二つのホテルが 道路拡張工事で買収が近い将来あるまでと・・ まさか、翌年、リーマンショックが起こるとは、夢にだに思ってなかった。 ・そして現在である。 やはり、この10年も激動期。 二つの中越地区の大地震、そしてリーマンショック、東北大震災で、 近い領来には間違いなくリーマン・ショックによる大津波が襲ってくる。そうこう考え自分の人を振り返ってみると、 日本経済の光と陰が、ほぼ重ねっていた。 経済大震災と東北大震災からして、やはり去年三月が引き時。 ▼ 5〜10年スパンの節目で振り返ってみて、目先の日常にとらわれ、長期的視野で決断できない姿が見えてくる。 振り返るってみて、私の人生の折り返しの時節は34歳。 独立の一歩を踏み出した時である。とにもかくにも無我夢中。 そして、人生の後半に入った。 11年前の9・11テロの翌月から、売上減がジワジワと三年続き、その後に中越地震である。 この時は震災復興関連景気で何とか持ったが、何とか目安がたってきた2008年9月のリーマン・ショック。この日を境に、 毎年20%半ばの売上減が続き、三年目に入っても同じ下降曲線。10年前の売上減を加えると、売上が三分の一まで激減。 そして、決断。「年内に、大津波の本体の一波が押し寄せる」という仮説を立て現実を見ると、末恐ろしいが・・ ・・・・・・ 3797, 知的余生の方法 2011年08月18日(木) 4月から、これまでの30年の新潟の事業の終焉で、新しい生活に変わった。サンデー毎日(毎日が日曜日)の生活も思いの他、 抵抗なく馴染んでいる。 定時に家を出て、新幹線で新潟に行き、事務所で時間を過ごし、帰ってくる生活を「外的時間」とすると、 家を中心に気ままに過ごす時間を「内的時間」というのか?。 早朝に、この随想日記を書き上げたり、独り自転車で信濃川の川辺を サイクリングをしたり、スポーツジムで運動をする時間が私にとっての「内的時間」。 社会に出てからは、ひたすら未来へ進むことに関心が向いていた。それは世界の動向と変化を察知することであった。 そこに気持ちが集中している時は、「外的時間」を過ごしている時である。その中で、ふとした瞬間、過去の思い出や経験が フラッシュバックし、過去から呼び出される事がある。良いことだけでなく悪いこともである。過去は自分を形作った日々であり、 これからの人生のベースでもある。 これからは、外的時間から内的時間の絶対量が逆転する。 渡辺昇一著「知的余生の方法」に次のような一節がある。≪「内なる時間」を使う≫ 【 カレルは、時間には2つあるという。1つは物理的な時間。例えば、地球の自転を24時間と決めたりするといったようなことだ。 もう1つは「内なる時間」。これを彼は、抜群の比喩で説明している。物理的な時間は世界中同じだが、彼はこの時間を川の流れに 例えるとどうなるかと問う。そして、同じ速さで流れる川に沿って歩く人間を考える。 朝早く起きて元気に満ちて川沿いを歩くと、 川の流れが遅いのに気づく。ところが、どんどん歩いていって夕方になって疲れてくると、川の流れが速くなっていると感ずる、というのだ。 川の流れは同じ速さなのに、人間が元気な時は遅く見え、疲れてくると速く感じる。どうしてなのか。「内なる時間」のせいと、カレルは言う。 若い頃の時間はゆっくり流れる。しかし、年を重ねるとだんだん速く流れるようになる。だから老化というのは、実は、時間の流れを速く 感じるようになることなのだ。年とともに時間の質が変わってくる、そして、シニアはこの質の変化に戸惑う。 比喩でいえば、20歳の時は時速20キロで流れ、60歳の時は時速60キロ流れると考えればよい。あまりの速さについて行けず、 結局は無為に時間を過ごしてしまうことにもなりかねない。】 ▼ ここで、これまでの人生の価値観を大転換し、未来中心に向けていた目を、過去にも向け、過去を修正する作業が人生の仕上げになる。 人生を逆照射し、前向きで時どき見ていた過去を、しっかりと後ろに向き直し、見つめ直す時間も「内なる時間」ということ。 これまで読んだ本や、読みかけの本に再チャレンジしたり、やり残したことなど幾らでもある。それを坦々とこなすことも内なる時間と いえる。そうこう考えると「人生が自分に余白を埋めて欲しいことは何かを聞き出すこと」が必要である。私の場合、この随想日記がある。 毎朝、これを書き上げた後に、字数制限のため、書いた分だけ過去分の一部をカットする作業がある。これは、過去のエネルギーの カットのように思えて辛いが、しかし、その時にしっかりと読み返し、再考することになる。これこそ私の内なる時間になる。 ・・・・・・・ 3432, 再び、死について考えてみる ー1 2010年08月18日(水) 数日前に近所の家内の友人が急逝した。 最近、「60歳過ぎれば今日明日亡くなっても不思議でない。 今年しか人生が残されていないと一日一生の思いで生きなければ。だからチャンスがあれば、何ごとも可能な限りやらなくては。」 と話したばかり。 哲学でも、死について多く考えられている。 以下は、「現代哲学の冒険シリーズ」の中の【「死」 細川亮一「恐れと驚きー死と生の問いー」】を参考にして書き上げた。 ≪ そこで「死の人称性」は、死を語る上で分かりやすい説明になる。 ・まず三人称の死は、「彼らが死んだという過去形」か、「彼は死ぬだろうという未来形」で語られる。 ・一人称の死(私の死)は、過去でも現在ではない。将来自分は死ぬだろう、死ぬ運命にある未来形である。 ・二人称の死は、「あなたが死んだ」と過去形ではいえない。「あなたは死ぬかもしれない」とはいいえるが、あまり馴染まない。 弔辞でいう「あなたは死んだ」というのは過ぎ去った過去のことでなく、葬儀の現在のことである。したがって、あくまで現在の範疇。 人の死の人称性の、一人称、二人称、三人称が、 過去・現在・未来の時間性を有しているのである。≫ ー以上だが、今回のような亡くなる前日に電話をしたが不在といわれた友人が、翌日、そ連れ添いから 「実は死に病で最近になり入院していたが、朝方亡くなった」と電話があり、家内がショックを受けた、という死に話は、 間接にしか知らない二人称の死であり、もっとも死について考えさせるケースである。そこから逆に、死から生への逆照射をすると、 【生きるとは何か】のヒントが、みえてくる。【私は生まれた】と、逆に私の誕生を過去形でしかいい得ない。未来の死と、過去の誕生、 「現在、生きている私こそ、この世の存在」ということになる。だから、現在、四苦八苦としても、それを生きる証として受け止めるのが自然。 私の死と誕生の、死の時点は、私にとって特異点。 この2つの特異点の間が「私が生きている」現在形として語ってよい。 自分の過去も、現在、そして未来を思い浮かべている現在も含め、全てが現在と言いうるのではないか。 そこにベルクソンの時間論の意味が、ある。時間など人間の主観?の捉え方でしかないと。 で、二人称の死から考えられるのが、自分の死と生のイメージの絵の書き加え、修正作用となる。 ・・・・・・・・ 3057,逆説思考 2009年08月18日(火) 「逆説思考」というのがある。哲学は、常識をまずは疑ってかかる。 「逆ではないかい?」と、まずは逆説をたてることから始める。私が学生時代に学んだことは、これだった。 まずは、否定してみる、そして、次に立ち戻って肯定してみる。その間に、第三の案が出るのを待つ。それが考える第一歩となった。 その繰り返しの中から自己の客観化すなわち「自己距離化」が生じる。 もし自分が大きなミスをして追い詰められた時に、 「この大きな問題を解決する能力を神によって与えられた試練である。問題の中心に向けて集中していると自ずから解決の糸口が現われる。」 と考える。 これも逆説思考でプラスへの切り替えである。 看取り学のキュープラ・ロスも人生は問題の連続と看破。 その解決のプロセスを学びと捉え、最終のレッスンが死であるとした。これもまた逆説思考である。オーストリアの心理学者のフランクルは ナチスの死の収容所の生死の淵で、数年後の自分の姿を思い浮かべ辛さを乗り越えることが出来た。「その時に私は、あるトリックに すがりました。1945年のそんな中で想像してみたのです。 私は、講演用の見台の前に立って、講演をしているんだ。 たとえば、『一心理学者の強制収容所体験』というような題で講演しているだ、大きく、綺麗で、明るい照明の、なによりも 暖房の効いたホールで」というように。これも逆説思考である。金沢で落ち込んでいた時に、夜半に同じような気持ちの切替えの経験があった。 いや、ずっとこの連続が人生であった。『自分は事業を立ち上げる修行にきているのである。最悪の状態こそ最良なのに何が苦しいというのか。 この現実を受け入れること、そして経験を味わうことだ』と。そう考えてから、気持ちが楽になって冷笑していた自分と環境が違う視点で 見ることができた。 人生、還暦を過ぎた今こそ、逆説思考が必要なのだろう。 生老病死が現実として目の前に突きつけられる。 今さらジタバタしても遅いが、生老病死のレッスンもまた面白いと思えるかどうかだが・・・ 山田風太郎の世界? 果たして、人生の完成などあるのだろうか? あるわけない、迷ったままで充分! これも逆転思考。 ・・・・・・・・ 2692、「誠実であるということ」とは、どういうことか? 2008年08月18日(月) 私の好きな哲学者の中島義道が『哲学者というならず者がいる』の中のカント哲学「実践理性批判」で、誠実性について次のように 述べている。「誠実性が実現されてない限り、いかに外形的な善が実現されても厳密な意味で『善』は実現されていない。」 誠実性とは何か?とは、「善い行為」を実現するさいに、僅かでも自己利益が混入してはならないということ。 (取引を求めない、という仮言命法、ということか) 中島はカントが実際言ってないとしても、言いそうなこととして次の4つをあげている。 ・自分をわずかでも実際より善く見せようとしないこと。 ・自分が不利益を蒙るとわかっていても、それが真実だから「そうだ」と語ること。 ・他人が不利益を蒙るとわかっていても、それが真実だから「そうだ」と語ること。 ・いかに優位に立っていようと、たとえそれがいかに理由のあるものであろうと、 いささかも放漫であってはならない。-誠実な人は決して放漫ではない。いささかも誠実を誇ることはない、ということである。 以上のことを実際に実行すると社会は成立しないだろうから、ある程度は不誠実でなければ生きていけない。 そういえば以前に、 誠実であるとは如何いうことか? 考えたことがある。「誠心誠意、無心に対象にエネルギーを注ぎ込むこと」が、結論であった。 それと、「自分を騙さない。それが人を騙さないことになる。」「約束を守る」ことである。 「あの人は誠実な人」というと、それからどんなイメージが連想されるだろうか? ・自分の言った言葉に対して責任を持てる人。 ・自分を信じてくれる人である。 ・「良心」を大切にして、人を利用しない人である。(心の綺麗な人) 誠実そうな人はいても、誠実な人は、ナカナカいないものだ。「論語の会」にでも入って、鼻声で斉唱しようか? 私の姉の名前は、正子、恭子、優子、そして礼子。正しく、恭しく、やさしく、礼儀か〜 誠実そのもなじゃないかい! 父親の名前は誠作だから、潜在意識が、そうさせたのか?それとも、親しくしてもらっていた野本互尊翁から命名して貰ったか? ・・・・・・・・・ 2007年08月18日(土) 2328, 近視矯正手術 'Good☆Morning 。っω-)..。 私の周辺で最近「近視矯正手術」をする人が目だってきた。先日の葬式時に、幼馴染みの同級生が眼鏡を外していたので 「コンタクト?」と聞いてみた。しかし彼の答えは「白内障の手術時に眼球の中に近視レンズを入れた」であった。 さらに彼の三人の娘も手術をしたという。(三人のうち二人が片眼だけの手術)本人の話だと「とにかく楽になった、 眼の重さがかなり軽減した。それで娘も決意した」という。ところで私も、この春に手術をしようと決意をしたところ、 ある知人が「15年前に白内障の手術と一緒にレンズを入れた経験からみて、やらない方がよい。それでもどうしてもしたいなら、 片眼をやってから様子をみたほうがよい。白内障など已むを得ない場合を除いたら、やるべきでない!」と強く諭された。 その瞬間、あれだけ強い決意も、一年間時間を置いてから判断することにした。 「出来ることなら眼球にメスを入れるのは避けるべき」というのも道理であるし、15年間の経験の言葉は貴重である。 それにしても、ここにきて急激に手術をする人が増えているようだ。眼球にメスをいれる矯正も、 日が経ってないのに大丈夫なのだろうか?今から十年前にアメリカで近視矯正手術が爆発的に普及した時は、 毎年2〜3倍の確率で伸びたとインターネットに出あった。今の日本と同じだったのだろう。近視矯正手術にはレンズを眼球に 入れるケースと、角膜を削るケースがあるようだが。眼は最も重要な器官であるから、慎重に慎重を重ねないと! でも、あれだけ楽になった爽やかな顔をみるにつけ、少し迷いが出てきた。 ヾ(・д・。)バイバイ ・・・・・・・ 2006年08月18日(金) 1963.事業百訓・・・? 事業百訓ー1981年・1982年ー (1) S5606創刊に際し! 堀井八郎 総員十名前後の会社で、“社内報”?。大げさな!と受けとめられそうです。 しかし、三人以上のグループになった時、何はとりあえず自己表現の場の一つとして絶対不可欠の“事”のはずです。 当社の方針として内的情報はすべて“ガラスバリ”で公表する事を基本としています。 “内的よどみ”をなくし“外”にむかいオープンにする。と同時に外との交流を積極的にはかり “知識の集積化を企業単位として個人として図る体”をつくる方針です。 その一つの媒体としてこの社内報をフルに活用していく事が必要です。 社内報は社内だけではなく、取引先、お客様等にくばる事を前提としています。 従って社内の実情等はすべて裸のまま公開されるので、会社及び個人として“社風”を そして“営業内容”を良好に保っていなければ“悪臭”を外に向かって放出する事になりかねません。 また文章化されたものはどういう訳か絶対にごまかしはできないのも事実です。 それと同時に後々までも残るので非常に注意をしてかからねばならないのです。 全員がこの社内報をみるのが楽しみなものにしていってほしいと思います。 次に文章の書き方としてのポイントを私なりに書いてみると ? まず単文に ? 次に単文と単文をつなぎ合わせる ? ありのままにきどらずに ? 必ず何回か書き直しをする事 ? 最後のしめの文章を強烈な印象のものにする ? カクテルより“ドブロク”的である事(他人のものの混合より自然発生的アルコール) ? 普段より書くクセをつけていく事、等です。 何か参考になればと思います。最後に発行するからには必ずつづけて途中休刊にならないように! 恐らくいずれの会社、グループでも半年1年は後、80〜90%は休刊か廃刊のはずです。必ず続く事をいのります。
ーS5606ホテル開業にあたり!ー ○ S54. 6 → 市内ホテル調査の結論が出る ○ S54.10 → その結果を約4カ月の“あたため”の後に当ホテル開業の最終意志決定。 ○ S55. 3 → ホテル運営会社“株式会社池津屋興産”(資本金壱千万円)を設立。 ○ S55. 9 → 着工 ○ S56. 3 → 完成 *調査の結果、ビジネスホテル業界について 私なりに感じた事を書いてみると理論体系が全くない * 固定観念の非常に強い大名商売である * 企画段階で、90%以上の結果が出てしまう等々です。 その対応として、次の特性を戦略にすれば、充分な勝因なるという結論がたった訳です。 (1) オールシングル (2) ロープライス統一料金 (3) 徹底下請け (4) 立地要因(駅より100m)を生かす (5) 学生ショップとの兼業(レンガ張り) (6) チェーン理論の導入 (7) 自己資本の高比率化 オープン後、現在前記の要因によりすべてが順調です。 しかしそのすべてのものは、オープンと同時に、 無限への陳腐化の方向に向かうという事を前提に、次の戦略を自らに課さねばならないと思います。 ーS5608事業百訓ー 私の手帳にメモしてある仕事百訓を、この機会をかりて紹介してみよう。 これは過去にうけた講習会や書物より抜粋したもので、私自身一日一回は必ず読むようにしており、 私にとっての“お経”みたいなものです。 (字数制限のためカット 2012年8月18日)
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2012年08月17日(金)
ここで人生を5年スパンに区切り、振り返ってみる。ミニ自分史である。自分の姿が浮き上がってくるようで、面白い。 何度も書くが両親と時代に恵まれていたことが見て取れる。歴史的にみて、終戦後40年間ほど豊かだった時期はないという。 その中で、その豊かさを充分味わった実感は、何ものにも代え難い財産である。 ー まずは前半から ー ・60年前=6歳、長岡市立阪之上小学校一年生だった。担任は女性の茨城先生。20歳後半のヒステリックの先生で、 優しい反面、厳しい先生だった。当時の住まいは長岡一番の繁華街の4階建てのビルの3Fに住んでいた。家は、そこで 衣料店を経営していて、まさに小説のような異様な家庭環境にあった。成績は普通で、とにかく毎日が面白く刺激的だった。 ・55年前=11歳、阪之上小学校6年。勉強に少し目覚め、虐めの要素もあったが級長にされていた。街中もあり、生徒の質は 決して悪くはなかったが、異様な緊張した雰囲気が漂っていた。この辺で、その人の素質が決まってしまうという。 ・50年前=長岡高校二年生で、試験試験の日々。何時もギリギリの成績だったが、追試は受けたことがなかった。 勉強をすれど、どうしたら成績が上がるかの術が分からない辛く暗い日々。受験校のため成績で人間が区分されていた。 ・45年前=21歳、立教大學三年。欧州の30日間旅行で、それまでの自分が粉々に壊れてしまった時期。人生で一番、光っていた。 見るもの触るもの全てが新鮮で、明るく光ってみえていた。時代は1967年、日本も山頂に近づいていた。 ・40年前=金沢の‘いとはん’(衣料スーパーのチェーン)を辞めて実家に帰ってきて、千葉の千城台ビルの計画に入っていた。 父は末期ガンで東京女子医大で手術後、退院した父親と、計画を進めていた。父は、医者の宣言通りに手術の一年後に亡くなった。 死期が分かっている父と事業経験の伝達を一年がかりで始めて二ヶ月目に入っていた。将来に向けた明るさと、死に直面した 父親の苦悩の狭間で、真近で人生と事業の原点を学んでいた。翌年、石油ショックが起き、最悪の出だしになった。 ・35年前=長岡の大手通の四角にある実家の衣料量販店の店長で、4歳の頃のできた古ビルの建て替え工事の計画に没頭していた。 引き継いだ店も順調に推移、商売が面白く、身体が浮いているように動いていた。一種の躁状態で、怖いものなし、目は血走り、 何かに取り付かれているようだった。衣料は一シーズンごとに完結する博打的要素が強い。そのコツを掴むと、これが面白い。 30年前からは次回にするが、振り返ると刺激的で、恵まれていた背景があった。 ・・・・・・・ 3796, 「役に立つ」とは? 2011年08月17日(水) * 「役に立つ、立たない」を判断基準にしてないか? 私たちは、何時の間にか、役に立つか、役に立たないか、で物事を判断してしまう。その是非は色いろあるが・・ しかし経験則で、我われは役に立つ立たないは結果でしかないことに気づいている。教養は、その最たるもの。教養を役立てるために 身につける人はいない。これは目的でも手段でもなく、人間性の素養として積み上げること、そのことに意味(価値)がある。 哲学などは、目先、役に立たない。しかし自分の頭で考え、判断し、その結果を積み上げていくのが人生である。 それを放棄し、 目先の利益になるかどうかで判断したり、直ぐに手軽な身近な人の意見に従って判断、決断をしてしまい、重大なミスをする。 その辺のところを、今回の変動の中で、しっかりと見せてもらった。(実は、その最たるものが自分?) 〜 哲学者?の池田昌子は、著書の中で、鋭く指摘している。(「メタフィジカル・パンチ」ー学者さんー)〜 【 「学者」というと、役にたたないことをする人という自嘲気味な言葉が風潮になっている。「学問をするところ」であったはずの 大学という場所が、レジャーランドか、就職予備校に変わってしまった世の流れに呼応しているのだろう。「学問」すなわち 「役に立たないこと」、「学者」すなわち「役に立たないことをする人」、そういう等式が、人々の頭の中に、しっかりと できあがっているようにみえる。 ・・・(中略) ところでこの「役に立つ」ということの意味なのだが、科学理論に対する科学技術の関係に明らかなように、生活と生存に直接に 関係するもののことを人は「役に立つ」と言う。 相対性理論は役に立たないが、宇宙開発は役に立つ。 解剖学は役に立たないが、 医療技術は役に立つ。とはいえ、それぞれ前者あっての後者なのだから、この御時世、総じて理科は文科よりは旗色がいい。 文科、この無用の長物、経済学者が金持でないことが学者が無用であることの最たる証拠だと、妙な理屈を言った友人がいるが、 それなら中世の英文法に基づくシェークスピア解釈を一生の仕事にしている学者はどうなる。 古代バビロニアの懊形文字の読解に 全生涯を賭けている学者の立場はどうなるのだ。 ましてや哲学、哲学科。外国語に事寄せることもできない、この学科を選ぶことは就職を捨てることだ、と私の頃でも聞いていた。 が、そういったことがどういったこととかを考えることこそ先決であるはずだ、という理屈は、私にとってあまりに自明なことだったので、 考えるために哲学科を選ぶことに迷いを覚えるはずもなかった。まあこのあたりが、どうも普通の人の感覚からずれてきてしまう その核心部ではあるのだけれど。その生活と生存に直接に関係するという意味で、「最も役に立たない」と思われている哲学という学問を、 学問の府から追放せよという動きが文部省内にあると最近聞いた。こんな時代、実学以外に余計な金は出せないと。そういえば、 「総合人間学部」とか、よくわけのわからない学部の一分科として哲学科があるのを目にしてはいた。あれは、そういうことだったのか。】 ▼ この随想日記の長期講読の皆様も、今回の倒産劇で、「偉そうに言っているが、何だい、この様は」と思ったに違いない。 私自身が、「偉そうに書いてきたが、所詮は、こんなもの。自分の脳内を、そのまま公開した結果である。止めるなら今回がチャンス。」 と少し、動揺をした。が、しかし、「目的は、自分の『弧』の中の内側をネット上で世界を公開することで、ネット世界を身近にすること、 そして、現象世界を、冷静に見つめる直すことが出来ることである。役に立つ立たないは現象社会の波間の判断でしかないのは、今さら。」 と、気持ちを持ち直し続けている。ある意味、断層で自分の支えでもある。役に立つ以前の問題。振り返ると、役に立たないと思っていた ことが逆に役立った方が多いのに気づかされる。目標地点が明確でないから、それが分からないのである。所詮、死んでしまえば同じだが。 ・・・・・・・ 3431, 我が家に新しいテレビが ー2 2010年08月17日(火) * 新しいTVについて ーとにかく画面が抜群に綺麗ー (以下、字数の関係でカット2012年08月17日) Yahooのバードウォッチのコピーしておきます。 ・・・・・・・・ 3056,人生は旅である 2009年08月17日(月) 『人生は旅である』の喩えは昔から多く言われてきたことで今さらだが、 沢木耕太郎著『旅する力』に含蓄の言葉があったので、その幾つかを紹介してみる。 ・「旅する力」それは広く云えば「偶然に対して柔らかく対応できる力」 ・「人生を過ごしていく人を旅人に喩えると、人生の目標は旅の目的地になる」 ・人生で起こるトラブルは旅で起こる困難性。 その解決プロセスが人生も旅を豊かにする。 ・人生の大きな区切りは、旅の日程や、立ち寄った街であり、泊まったところになる。 その街での偶然と奇遇などの 出会いがあり、それにより次の展開が違ってくる。 そこは人生の交差点であり、人と人との交差が人生も旅を作りあげる。 ・お金と知識は、人生でも旅でも大きな要素。 それは歩く旅ならバックの中の食料に喩えられる。 ・旅に無性に出たくなる動機は、「感動」と「非日常」を求めること。人生でも、それが大きな要素になる。 ・年齢を重ねると新しい出会いが面倒になるが、自分で乗り越えなければならない。 ▼ 旅の方から人生を照射してみると、人は常に新しい出来事を求めて何事にもチャレンジする必要性が分かってくる。 そこで出会う感動と、未知との遭遇こそが人生を豊かにしてくれる。人類が数千年かけて創りあげてきた文化も文明も我われは 殆ど知らないが、旅の多くの経験を通して様々な邂逅が可能になる。地球に知的生物として生まれてきたからには、大自然も、文明も、 文化も可能な限り見聞し、感動することで世界を広めた分が自分の世界になる。旅に出る前の、あのワクワクした高まりが青春であり、 晩年に差し掛かった時の満足が人生の充実感である。そうこう考えると、まだまだ人生の旅路から多くのことを経験し続けるべきと、 書きながら内省をしている。まだ与えられた人生の有り難みが足りないような気がする。旅路の果て。パタゴニアの果ての街で夕日を見ながら 老齢の残り日とはこんなものか、アレが人生の全てを照らしたイメージか、と思ったが。そう新幹線からみえる弥彦山の日没にも。 あと12年で後期高齢者。一つの目安と考えると、一クルーをこなすに時間は充分にある。さて何をするか、何をしないかを真剣に考えないと。 ・・・・・・・・・ 2691, 強者同士相互扶助婚姻 2008年08月17日(日) 希望格差社会 −2 ー読書日記ー 「構造改革」とか「市場淘汰」という社会では、基礎的な能力が高く、かつプライヴェートな相互扶助組織を自己創造していく。 「人脈、学閥、閨閥など」に支援されていて、かつ「戦略的に考えることのできる人間」は巧みにリスクヘッジすることができる。 彼らはリスクヘッジをさらに確実化するために、「強者同士の相互扶助組織」を強化する方向に向かう。 その端的な表れが、「強者同士の婚姻」である。 これまでの家族社会学の常識では「夫が高収入の場合は妻が専業主婦となり、 夫が低収入の場合は妻が就労して家計を補完する」。この常識はもう覆えされつつある。 話は逆になっているのである。 「夫が高収入の場合ほど、妻の就労率が高く、夫が低収入であるほど、妻の就労率が低い」という傾向が顕著になってきている。 高度専門職についている「強者」の男女が婚姻し、さらに豪奢な生活を享受する一方で、不安定就労者同士が結婚した生活能力のないカップルに 「できちゃった婚」で子どもが生まれて一層困窮化する。不安定就労者の若年男性は、事実上、自分と同程度に社会的弱者である 不安定就労者の女性の中からしか配偶者を選べない。(高度専門職に就いている女性強者が男性弱者を配偶者に選ぶ可能性はほとんどない)。 だが、弱者同士の結婚は、「共倒れ」のリスクをむしろ増大させるだけ。不安定就労の若年女性が、男性強者の配偶者に選ばれる(「玉の輿」) 確率はそれよりはずっと高い。しかし、リスク社会では、かりに女性が不安定就労者であっても、男性強者は配偶者に相当の学歴や教養や 人脈などの文化資本を要求する。言い換えれば、男性強者の専業主婦たりうる条件は「文化資本を備えた強者の家庭のご令嬢」である というかたちで、予め限定されている。未婚率の急上昇、少子化の進行の背景には、この勢いづく「強者連合」によって蹴散らされた 「結婚したくてもできない弱者」の急増という事実がある。リスク社会は「勝つ人間は勝ち続け、負ける人間は負け続ける」という フィードバックを繰り返し短期的に二極に分化。その結果はどうなるのか。強者はより強く、弱者は一度落ちたら二度と這い上がれない。 「夢に向かって努力すればその夢は必ず実現するというのは『ウソ』である。 全ての人が希望通りの職に就けることはあり得ない。 (以下、字数の関係でカット2011年08月17日) ・・・・・・・・・・ 2007年08月17日(金) 2327, ベナレス −2 。っω-)..。oо○(゚+。ぉレ£∋ぅ゚+。) インドは強烈な印象の国であった。帰路の飛行場に着いたとき、本当のところホッとした。聞きしに勝るインドという国の文化に、 良きにつけ、悪きにつけショックであった。ヒンズー教とカースト制度、貧しさと豊かさ、タージ・マハールなどの霊廟や城、 ガンジス川とベナレス、そして古代から現代までが入り混じった社会。日本の日常とは全てちがっていた。その中でもべナレスの街と ガンジス川の沐浴と、舟からみた二ヶ所の火葬場。そしてガンジス川からみた日の出。ガンジスの火葬場周辺にいる修行僧の顔と眼。 そして我が物顔で歩いている牛。そしてライ病の集団の物乞い。幼女の乞食。この本ではベナレスの「死を待つ館」の家族がありのままを 映しだしている。生も死、貧しさも豊かさ、差別も、その全てがリアルにそのまま露出されている。それが日本とは対照的なのである。 人生の折り返し地点を越えベナレスに引っ越してきた老夫婦や、老齢になったことで自らべナレスの僧院などにやってきた人びとなど、 死期を間近に感じる前に移り住む人もいる。この街は「死を受け入れる街」として永年をかけて奥行きを広げ、深さを増している。 インド各地から運ばれてくる死体は多い時で100体。また家族や、死者の灰をガンジスに流すために訪れる人も毎日数千人もいる。 なかには郵便で灰が送られてくるケースさえあるという。ここは死者の為の街であり、その準備の為の街。ここの「死を待つ館」の人に、 「死ぬのは恐くないですか」と聞いても、「どうして怖いことがあるのか。ここは寺院もあり、ガンジス川もある。この街が私を呼んだのだ」 と答えて、平然としている。彼らにとって、ここでの死は誇らしいものであり、ここに連れてこられること、その家族にとっては、 連れてくることが喜びなのである。 死が喜びとは!素晴らしいではないか! ☆ァディオス☆(`・ω・´)ノ ・・・・・・・ 2006年08月17日(木) 1962, 「事業百訓」を読み直してみて おはよ〜!(*^ワ^*)i (~O~)ふぁ・・ ねむ! 二十五年前から書いてきた社内報の事業百訓を、明日から十数回のシリーズで振り返ってみる。 このHPのコーナーにあるものだが、書いた私自身、この数年殆んど読み返してない。 丁度良い機会なので、纏めつつ回顧しながら読んでみる。必死に書いたのだろうが、まあ真面目なものだ。 「そのわりには現在の貴様は何じゃい!」と赤面してしまう。読みかえしていると、大きな変化がわかる。 (字数制限のためカット 2010年8月17日) ・・・・・・・ 2005年08月17日(水) 1597, ひらがな思考術 −2 ーまずは第一章のほどくの内容の概略をまとめてみた。この本は、読めば読むほど深い。 難しいことばを、簡単な優しいことばに置き換える以前に、ひらがなことばで考える習慣をつけてしまえということか。 (以下、字数の関係でカット、2009年8月17日) ・・・・・・・・・ 2004年08月17日(火) 1232, 「こころ」の出家 -読書日記 この年齢になると周囲が、定年、病、倒産、子供の自立、連れ添いの死、老父母の死、等、 何らかの大きな転換期に直面してくる。情報化社会に翻弄されて深刻な危機に何らか陥っているケースが多い。 (以下、字数の関係でカット、2008年8月17日) ・・・・・・・・・・ 2003年08月17日(日) 865, 同級会−2 昨夜は中学の同級会いや同期会があった。 小学校は一学年の同期が100人足らずのため、5年に一度の同期会になっている。 中学校の同期会は今回が初めてであった。クラスで親しい男が卒業して以来初めて出席していた。名刺を見たら「日本レコード協会」 の専務理事の肩書。ということは、日本の歌の世界の隠れたドンだ。ビクターの取締役になり、その後関連会社の設立に参加。 その後今の仕事をしているという。かなり重い仕事と言っていた。早稲田を卒業後、ビクターに入社。初めの仕事が、桜田順子など 3人娘の教育係だったという。森進一など有名人は殆ど旧知の仲とか。「自分ほど面白い経験をした人間は少ないのではないか」とシミジミ。 中学だけをみてみると、その時の成績順で人生が決まってしまっている。ちなみに一番だった男が慶応大学の教授(数年前死亡)、 二番がこの人、三番が自衛隊のえらいさんになっている。後は保険会社の支店長、学校の先生など。成績の悪い人はあまり恵まれた 人生ではないようだ。恐ろしいものだ。「何を持って恵まれた人生か?」という疑問があるが、あくまでも表面的なことだ。 あと二年で60歳、皆その歳を目安に生きてきたようで心境は複雑のようだ。しかし会えば、心は今だ中学生だ。 クラスでは50人中既に7人亡くなっている。そのうち男は5人で2割になる。 最近亡くなった人の殆どが癌だ。 地元に住んでいると、小学校、中学校、高校の同級会に出席する機会が多くなる。30歳すぎから仕事や子育てに余裕が出るためか、 それぞれ頻繁に開かれるようになってくる。私も30歳前後に地元に帰ってきてからは出席をするようにしている。 学生から社会人に脱皮の20代は、学生時代の人間関係から一度離れることが人間形成で必要である。 その為に30代辺りから自然に開かれるのだろう。同級会は40歳が社会的に最前線に立っているときであり、担任の先生の 定年時期も含めて一番良い時である。クラスによって全く開かれないか、頻繁に開いているかどちらかだ。 (以下、字数の関係でカット2008年08月17日) ・・・・・・・・・ 2002年08月17日(土) 490, 随想テーマ日記の効用 毎日一テーマで、その日思いついたことを書き続けて一年数ヶ月が過ぎた。何か毎日が、そのために追い立てられている感がする。 多くのエネルギーが、その為に取られていることは事実だ。 しかし、エネルギー対効果比率から考えても充分その価値がある。 「何のために毎日こうも書き続けているのか?」という疑問があると思う。 ・それは簡単だ、自分の為に書いている。 ・公開することで、あらゆる人に見られていることを意識、その為に客観化が必要になるからだ。 ・毎日、その都度思いついたことを書き続けることにより、過去に考えたことを、一づつ引っ張り出し、外部化をしていく作業が 記憶と行蔵の整理になる。 ・またその時その時の自分の気持ちや心境のメルクマール化が可能になる。 ・その時点のホットな情報の中期記憶化・デジタル化をしていることになる。 デジタル化をする事で、あとで組換えの時大テーマの要素の構成部分のパーツとしてつかえる。 ・書きつづけることで、外部の情報に対する感覚が鋭くなってきている。 ・心や内面の公開が、結果的に自分を積極的に主張出来る。 ・これをチップに記憶させておけば、数十年先数百年先に見てもらえる。 結局は波動の蓄積という事かもしれないが、死んだあとも残る。 とりあえず3年1000のユニットを書き続けることが目標だ。 実際、世界が毎日激変?している。内部の入れ替えがおきていること。 ・・・・・・・・・ 2001年08月17日(金) [111] 数ヶ月ぶりの古町 数ヶ月ぶりに古町に出る。16日の為か店は半分ほど休んでいて、飲み客も少ない状態であった。昨年の暮れ行った店で‘安寿’という店で、 「人生楽しく!」が本人と店のコンセプトということをこの笑い顔を見て今思い出した。このように笑えるのは大きい財産であろう。 「楽しいから笑うのでなく、笑うから楽しい」ということを本人がよく知っているのだ。笑いは訓練でできる能力だ。古町は少し高いが やはり面白い。私のミニノートにジョークと駄洒落の索引がかいてある。いつも鞄かポケットにいれてある。開くとα波が出てくる。
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2012年08月16日(木)
* 鍵はシリア! (第三次「油断!」イラン危機ー文芸春秋4月号ー参照) 現在、シリアでの内戦が激化しており、アサド政権の崩壊も視野に入ってきた。もし早めにアサドが崩壊すれば、イランも これまでの強気な政策を変えざるを得ない。首都・ダマスカス中心部で一月ほど前に爆弾テロがあった。国防相や、国防副大臣を 務めるアサド大統領の義理の兄が死亡、他の閣僚もケガをした。 イスラエルを先頭に欧米各国は、まずはアサド政権の崩壊に 全力を向けているが、イランへの制裁効果をみて9〜11月辺りに核施設攻撃の判断をする可能性がある。しかしイランが裏交渉 で引き下がることも考えられる。もし、何事もなければイランが核開発の全面的撤退を飲んだとみてよい。その前に、少くとも シリアがイランに援助を与える余裕がなくなるまで内戦を激化させている。その前にアサド暗殺か軍部の寝返りが起きるのか。 しかし、イランはイスラエルに届く数百のミサイルを持っており、その他にレバノンのヒスボラが5万発のロケットと、 ガザ地区のハマスを使いイスラエル攻撃も可能で、世界同時テロもある。それを踏まえてもイスラエルは攻撃を仕掛けるしかない。 それほどイランの原爆保持は重大問題。イラン・イスラエル戦争ともなれば、世界情勢は一挙に緊迫する。イランも原油生産国の 資金で軍事力は豊富。ただならぬ戦争になるが、それでも世界相手では3ヶ月が限界とみられる。アメリカも積年の恨みがある。 もし戦争になり、ホルムズ海峡が閉鎖ともなれば世界恐慌の起爆の危険性もある。 いずれにしても、ユーロ圏の金融危機と、 中東は一段と緊迫した事態になる。国内政治も解散が目前に控えていて、政治的混迷が起きてくる。今度の起爆は乾いた藁が 世界中に積み上がっているため一瞬で燃え上がる可能性大である。シリア、トルコ、イラン、イスラエルの一連の動きから、 目が離せない領域に入ったと見るべきである。だから、国内では解散と総選挙を急いでいる。保守連立内閣の体制を早急に つくらなければならない。年内は何でもありの歴史的スペクタルショーが始まる。アメリカ大統領選、盛り上がりがないのも当然。 ・・・・・・・ 3795, 哲学人 ー② 2011年08月16日(火) 『哲学人』 ブライアン・マギー著 ー読書日記 ー 第一章 子供のころの記憶 〜時間に始まりと、終わりはあったのだろうか?〜 鵯 私が5歳、9歳の時など、ものごとを深く考えることはなかった。10歳頃に親戚の葬式で、故人が焼却場で骨になったのを 目の当たりにしたときに「、何故、人は生きている間に好き放題に生きないのだろうか?」と思ったことがあった。死を目前にすると 年齢に関係なく、人生を鳥瞰する視線が顔をだす。子供の頃から時間の始まりと終わりを突き詰め考えていたマギーの頭脳には驚かされる。 【 時間に始まりはあったのだろうか? 終わりはあるのだろうか? 9〜12歳くらいまでの2~3年の間、私は時間をめぐる謎の虜だった。 夜の闇のなか、ペッドに横たわったまま、よくこんなことを思ったものだ。きのうという日に前の日があるし、その前日、そのまた前日と、 覚えているかぎり日にちをさかのぼつていくことができる。でも私が覚えている最初の日にも、やっぱり前日はあったはず。 自分の誕生日にも前日はあったにちがいない。そして、その前日の前の日も。・・・ どこまでも、どこまでも・・ いや、そうだろうか? この、どこまでもどこまでも溯っていくということが、私にはうまく飲みこめなかった。そんなことは不可能に思えたのであった。 たぶん、きっとどこかに始まりはあったはずだ。でも、始まりがあったとすると、その前はどんな状態だったのだろう? もちろん、 何もなかった(まったくの無だった)のは明らかなわけで、そうでなければ始まりなどありえない。けれども、もし何もなかったのだとすると、 どうして何かがはじまることがでできたのか? その何かはどこから生じたというのか? 時間がひょっこりと( なんとも不思議なことに! ) 無から現れ、ひとりでに動きはじめたわけがない。無は無であって、何かではないのだから。とすると、始まりということ自体が思いも 寄らないことであり、始まりがあるということもやはり不可能であるように思える。こうして結局、時間に始まりがあったとは考えられず、 始まりがなかったとも考えられないということになってしまった。きっと何かを見落としているにちがいない、私はそう考えてみた。 選択肢はこのふたつしかないのたから、どちらかが正しいはずだ。 ふたつとも不可能ということはありえない。そこで私は、まず一方を 集中的に検討してから他方に移り、集中力が尽きたら、またもとに戻るという作業をつづけて、どこで間違ったのか突さ止めようとした。 けれども、なんの手がかりもつかめなかった。私はこの問題に取りつかれベッドのなかだけでなく、しだいに日中も考えこむようになった。 初めのうちはカになってくれそうな大人たちに相談もしてみたが、彼らの反応に私の混乱はかえって増すばかりだった。自分にはわからないと 認めたかと言うと、そんな疑間を話題にしてもおもしろくないといわんばかりに別のことを話しだけでなく、あからさまに見下し、 「おやおや、そんなことに気をまわして時間を無駄にしないほうがいいよ」とせせら笑うかのどちらかだった、私にはわけがわからなかった。】 ▼ 神様が、ここで早めに現役からの退去(倒産)を命じたのは何故だろうか?と考えると、 「ここで、娑婆気から一たん大きく離れ、哲学書にしろ、トルストイなどの古典的小説を腹を据えて読みなさい。 そして、自分の過去を振り返り、そして、現在の己を見つめなおし、人生の総括をすべし」という事だろう。 そのために、やはり哲学書を?み締める必要がある! その点、「自己を見つめる 」渡邊二郎 (著) を、その直後、選択をし、 その時の事象を噛み締めながら読んだことは正解であった。そして次は、この書である。それと、この随想日記の過去分を再思考すること。 ・・・・・・ 3430, 我が家に新しいテレビが 2010年08月16日(月) * 運送会社のサービス化とは ーまずは、商品搬入で垣間見た「運送会社のサービス」の話しからー 「運送会社でも、ただ運ぶだけでなくサービスを付加したところが、不況の中で検討している」という話しは度々聞いていた。 具体的には何かと考えてなかったが、一昨日の新しいTVの納品を見ていて、「これが運送会社のサービスではないか?」と、感じ、 「運送会社の設置サービスですか?」と聞くと、「そうです!」という。チームで幾つかの搬入現場を同時に動いているのが分かった。 少し分からないことがあると携帯電話で現場同士が頻繁に連絡しあっている。 設置終了まで、予測どおり2時間半を要した。 その間、延べ6人が出入りしていたが、激務のようで全員が目が釣りあがっていた。色いろなメーカーの電器商品を納入を家庭にするから、 大変な仕事である。 それに対する知識がないとやれないが、それらをチームで携帯電話のやりとりでフォローしていた。 8年前のテレビの購入時は、運送業者関係者ではなかったようだ?。そうすると家具店も同じようなものか。スーパーの宅配も始ったが、 これも運送業者の受け持ちか。 これらは運送サービスの典型的事例。運送といえば、宅配便と、引越しセンターが、運送のサービス化 としての市場を形成している。それが直接に消費者に対するサービスの付加なら、家電や家具店などの業者の配送部分の委託である。 物流の一場面だから、当然、納品サービス(家電の家庭内のセットなど)付配送も、当然あっておかしくない。しかし店サイドとの軋轢が、 電話のやり取りから手に取るように分かった。これからは農家や漁業関係の産直がネット販売の出てきている。 ヤマト運輸の宅配便は、 サービス化で先行しているので、潜在需要を作るに有利。特にネット社会では運送業者のキメ細かいサービスが求められる。 これまでの旧来の運送業務だけでは、生存競争が激しい時代には生き残れないのが現実。 時代の変化に合わせて企業も変化し続けて いかなければならない事例。 それにしても、生々しい世界を垣間見てしまった。 ・・・・・・・ 3055, 功利主義者の読書術 2009年08月16日(日) 「功利主義者の読書術 」佐藤 優 (著) ー読書日記 佐藤優の読書術本なら、買わないわけにはいかない。 ビジネス書、世界文学の名作、哲学書、宗教書まで「役に立てる」という観点から本を紹介しているが、この人の本は決して 期待を裏切らないからよい。 私にとって「如何いう本を読むべきか」という先生役が、立花隆から佐藤優に重心が移動したと いってよい本でもある。 この本の中に私も過って読んだ本も何冊かある ー高橋和己著『邪宗門』 副島隆彦著『恐慌前夜』 ソルジェニーツィン著『イワン・デニーソヴィッチの一日』池田晶子著『死と生きる』ーなど、 佐藤の解説を読むと己の浅さを思い知らされる。それが、ここでいう自分の立ち位置を知るということ。 ここで著者は、 「実用書やビジネス書は、初めから役に立つようにつくってある。そこで功利主義的な考えからいえば解説をしても、 読者にとって追加的利益は殆どない。そういう観点から『新約聖書』や『資本論』『カラマーゾフの兄弟』のような古典が、 21世紀の現下日本と世界を読み解くのに、いかに役立つかをを、あえて取り上げている。更に、実用主義は、 何か軽佻浮薄に見えるかもしれないが、そうではない。目に見えるものだけが現実と考える傾向が強いが。 (字数制限のためカット 2012年8月16日) ・・・・・・・・ 2690, 若者が危ない! 2008年08月16日(土) 希望格差社会 −1 ー希望格差社会ー山田昌弘著・筑摩書房 著者は「若者が危ない」という。そして「若者が社会的弱者になりつつある」 「やがてこの弱者たちが社会に危険をもたらすであろう」と。統計をみると、 ・親と同居している未婚成人(その過半がいわゆる「パラサイト・シングル」)は1200万人。 ・離婚数は年間29万組(結婚75万に対する数値だから結婚したカップルの40%が離婚) ・結婚75万のうち、「できちゃった婚」(婚姻届提出後10ヶ月以内に出産)は15万。 ・フリーター(未婚若年アルバイト雇用者)は200万人。失業中、未婚派遣社員を入れると未婚若年不安定雇用者数は400万。 ・「引きこもり」については正確な数値がないが、推定50万人。 ・義務教育期の不登校は13万。 ・児童虐待は児童相談所が把握しているだけで年間2万件。 ・「将来、自分の生活がよくなる」と考えている若者(25−34歳)は15%。 ・中学生の70%が「将来、日本は今以上豊かにならない」と考えている。 どうして、こうなったか? 著者は、その理由を「リスク社会」の出現という。 ー「リスク社会」とは何か、 「リスクをとることを強制される社会」、「選択を強制される社会」のことである。「自分のことに対しては、自分が決定する。 (字数制限のためカット 2010年8月16日) ーーーーーーーー 2007年08月16日(木) 2326, 被災地・柏崎の現在の事情 才ノヽ∋ ー ヾ(^ω^*) 今日で「柏崎沖地震」から丁度一月になる。昨日、家内の実家の墓参りに柏崎に行ってきたが、中心地ほど倒壊している家が目立った。 ダウンタウンの本町辺りの商店街の通りを中心として倒壊した民家と商店が生々しく現れてきた。そして(住んではいけない)赤紙と、 (住居注意の)青紙が半数以上の家に張られていた。地方局のアナウンサーのTVのクルーが撮影している姿が更にリアルさを増していた。 家内の実家の近所は特に酷い状態であった。家内の両親(故人)の住んでいた住宅は傾き隣の倉庫の壁を突き破っていた。 特に内部は目茶目茶という。そこは無人だったので人災は無かったが。義弟の話によると「始めの揺れで立っていられず腰を落とした瞬間、 次の揺れで身体が横に吹っ飛んでしまった」という。車で商店街を通っていると、自衛隊とパトカーが次々とすれ違い、次々と倒壊の家を みるにつけ、映画のロケ地にいるようで現実感がなかった。義弟に「この地震は、即死するかもしれない事態だった!」といっても、 キョトンとしていた。そんなことを考えている余裕が無いのだろう。「柏崎刈羽原発の再開は無い!と思いませんか? そうなれば柏崎経済は壊滅的になるので、目先の復興景気を勘違いしないように!」と忠告したが、 私が感じた角栄への怒りなど、ほど遠い話のようだ。一月経ったためか、道路等思ったより傷んではいなかったが、 やはり東電の原発の爆発まで至らなかったことが救いであった。以上が私の柏崎市の現状レポートでした。 ・・・・・・・・ 2006年08月16日(水) 1961, 今日はお盆−3 つれづれに、〜お盆〜 才八∋ウ_〆(∀`●) 昨日は、終戦記念日!もう敗戦後、61年になる。 あれから米ソの冷戦などを経て現在に至っているが、最近は宗教戦争の様相になっている。それも無差別テロが世界中に日常化してきた。 大規模のイギリスでの無差別飛行機テロ、今回は未然に防げたが、死ぬ気の連中を阻止することは絶望的だ。無差別のテロは正当化できない。 終戦直前にアメリカが日本で原爆を二発投下、一般住民を殺戮した事実とイスラムのテロと、どこが違うというのだろうか? それだけアメリカは日本に対して悪いことをしたのだ。 人類に対してといってよい。 アメリカが広島と長崎の原爆で一般人の大量殺戮をしたことを忘れてしまったのか? 日本人よ!スターリンと、 毛沢東が数千万の自国の国民を殺戮したことを考えれば、大したことがないと許されて良いのだろうか? ーところで盆について調べてみたー (以下、字数の関係でカット 2008年08月16日) ・・・・・・・ 2005年08月16日(火) 1596, 概念とは 随想日記を(旅行以外は)必ず書き続けると決心して4年3ヶ月経つ。その日以来、一日単位の柱が この随想日記を書き上げることになった。散歩をしていても、寝ていても、全てこの日記を書き上げることが中心である。 (以下字数の関係上カット09年08月16日) ・・・・・・・・ 2004年08月16日(月) 1231, エピクロスー哲学についてー29 エピクロスといえば、快楽主義者として「エピクロスの園」の酒池肉林が思い浮かぶ。次に印象に残っているのは、 「人間にとって死は存在しない、死んだと同時に存在が無くなるのだから、本人にとっての死は存在しない」という言葉である。 ー父が死期を悟り、その恐怖のどん底の時に、この言葉を伝えた。父は、「死の意味が初めて解った!」と言ったことを思い出す。 言葉の力を思い知った出来事であった。エピクロスは、人生は良く生きることである、その為には良く考えるべきだと説いた。 快楽を幸福な生の始め(アルファ)にして、終わり(テロス)であると断言した。しかし、一般的に誤解されている、官能の享楽ではない。 いや逆に、肉体的な欲望を否定した魂の平安こそが、エピクロスのいう「快楽」なのだ。官能の快楽は、その数十倍も煩わしさをもたらす。 真の快楽とは、自由をもたらすものでなくてはならない。すなわち、官能の享楽「自足」である。 (以下字数の関係上カット09年08月16日) ・・・・・・・・ 2003年08月16日(土) 864, ミッション・ステートメント ー改訂版 死ぬ時に、「すべきことは大方してきた、見るべきものは見てきた、 恵まれていたし、面白かったし、幸せな一生であった」と心から感謝していえる人生を生きる。 ーイメージとしてー 80歳の誕生日にケニヤの高級ホテルで二人の子供と孫たちとサファリを している。陽の沈むサバンナでシャンペンを掲げて 家内と二人幸せな絶頂にいる。海外旅行も行きたいところはすべて行った満足感で満ちている。 その後日本に帰ってきて酒飲み友達と銀座のスナックで昔を懐かしみながら好きな歌を歌っている。 =そのために以下の憲法を制定する= ー堀井八郎の憲法ー (字数制限のためカット 2011年8月16日) ・・・・・・・・・ 2002年08月16日(金) 589,送り火ー母への追悼文 今日はお盆の送り火ーご先祖様があの世に帰っていく日だ。6年前に亡くなった母の通夜の挨拶の下書き文を書いてみた。 もうあと一ヶ月で7回忌だ。机の中から偶然出てきた文を書いておく。 −通夜挨拶ー 平成8年9月25日20時 本日は母の通夜にお忙しい中,遠方よりご列席いただき有難うございました。母も心より喜んでいると思います。 この7月半ばまで浮腫で入院していましたが、昨日の9月24日の12時51分に帰らぬ人となりました。当初は三週間の入院予定で 順調に回復しているように見えましたが、まさかこれだけ早く亡くなろうとは・・・。88歳6ヶ月の命でした。 母は生前、今夜飾られている写真を自分で用意して‘私の葬儀に必ず飾るように!’との遺言でした。本人が一番気に入っていた写真です。 また通夜は明るく華やかに!とのことでした。私自身29歳の時から21年間、母と同居、母に手を取られて今日まできたというのが実感でした。 自分でいうのは何ですが、本当に偉大な母でした。母の死で自分も初めて一人立ちができそうです。 七年前に脳梗塞がでて以来、 大木がゆっくり倒れていくように・・・。そして今日に至りました。その中で一人の人間の「生老病死」のすざましさを身近で 見せてもらいました。私も死ぬ時は母のように死にたいと思います。母とは二年前より、早朝長岡ニュータウンの広場までドライブに行き、 誰もいない散歩コースを20~30分、車椅子で一周するのが日課となっていました。そして途中のベンチで缶ジュースを半分ずつ飲むのが・・・。 正に霊界を二人で宙遊しているようでした。そして一回ごとにこれが最後かと、これが至福の時かと実感していました。 今夜は通夜参列いただきありがとうございました。明るい話をするつもりが涙が出てしまいました。重ねて、参列有難うございました。 ・・・・・・・・ 2001年08月16日(木) [109] 偽坊主 *今の仏教界ーいや仏教業界よりましな話! 10年ぐらい前か、ー男はつらいよ(風てんの寅)を見ていたとき、ふと哲学的になってしまった。 内容というと 「世話になったお寺の和尚が風邪をひいたとき、法事に坊主に成りすまし、口からデマカセの法事で無事代役を終える役 (偽坊主)を、トラが演じていたー そのとき奇妙な感覚になった。 まず本人ーこれを 1・能作がまづあり 2・本人の苗字があり 3・俳優の渥美清 4・寅さん 5・偽坊主ーと重なりがある。能作?が2345を演じていることにきずいたのだ。このような場面は 私も何回も経験をした事がある。仕事も役割もこの重なり合いといってよい。この重なりを名優はこれを簡単にやってしまうのだろう。 渥美清もそのときその重なりを感じたと思う。 [110] 正中心一点無 15年前か、経営セミナーで栗山奉行という思想家?の話を聞いた。あまりに奇抜で面白かったので、 その人の本を買い求めた。そこにこの正中心一点無という言葉があった。見る人が見たらこの意味はお解かりだろう。 問題解決の時などこの言葉を唱えていると、その答えが自然出てくる。その中心点を無心にになって見つめて (もとめて)いると自然解決してくる。それが難解であればあるほど、この効果が出てくる。 この言葉で今まで、どれだけ知恵が出てきたことか。知恵の袋の穴と言ってよい.それにしても、酷いのが多い。
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2012年08月15日(水)
* 既に水面下で戦争は始まっている! (第三次「油断!」イラン危機ー文芸春秋4月号ー参照) オリンピックが終わると、次は中東危機とEUのメルトダウン危機が始まる。EUのメルトダウンは前に取り上げたので、 ペルシャ湾危機について考えてみる。「ホルムズ海峡閉鎖はアメリカにとっては軍事問題だが、日本にとっては死活問題」と、 いわれる。アメリカなどは安全保障上の理由から中東原油を減らしてアフリカやロシアから輸入を増やしているし、欧州は 北海ブレンド原油があり、中国も国内産原油がある。しかし日本は中東から90%、ホルムズ海峡を通過する原油が85%もある。 もしイランによる閉鎖で原油を止められたら深刻な影響を受けるのは日本である。原油備蓄が半年分あるとしても、 閉鎖をされると原油価格が50%は軽く高騰するといわれる。現在、毎日のようにシリアの内乱のニュースが流れているが、 アサド政権が倒れると、イランにとっても大打撃になる。反政府勢力にはイスラエルの援助があるとみられ、イランとイスラエルの 代理戦争でもある。もしイランが核開発を進め、核爆弾を持てば、サウジなどの湾岸諸国も対抗上、核抑止力として核とミサイルを 購入するという。それらを考えるとイスラエルが、このまま見逃すことは考えにくい。イスラエルがイランの核開発を阻止するのは、 イランの神権政治がイデオロギー的にイスラエルの存在を否定しているため。最高指導者ハメニイや現大統領が頻繁にイスラエルを 崩壊させると言っているからだ。とにかくイスラエルの領土は小さい。そこに原発を一発、打ち込めば、それだけで大打撃になる。 世界的金融危機、中東危機の、いずれにしても、際どい状況が表立ってくると見たほうがよい。昨年11月、イラン革命防衛隊基地で 大爆発がおきて、基地は完全に消滅し、ミサイル開発責任者ら30人が暗殺された。また、この数年来、核科学者が暗殺されている。 これに対しイランも、今年一月にバンコクのイスラエル大使館爆破未遂事件があった。昨年10月にアメリカでサウジアラビア大使を 暗殺しようとした事件もあった。 ごく最近では、シリアで国防大臣などが会議で集まったところにテロがあり、国防大臣をはじめ 要人が暗殺された。一連の暗殺事件や未遂事件を見ると、水面下では戦争突入状態が分かる。 日本はあいも変わらない政治的混迷が 続いており、中国、韓国、ロシアなどに足元をみられ領土問題で攻勢にあっている。 国家的大危機にあるにかかわらず、いまだ 微温湯的体質が、そのまま残っている。しかし現実は、ますます混迷に向かっている。直近の年内だけ考えても、非常に危険である。 ・・・・・・・ 3794, 哲学人 ー① 2011年08月15日(月) 『哲学人』 ブライアン・マギー著 ー読書日記 この哲学書が私の前に大きく立ちはだかっている。10年前に読んだブライアン・マギー著「知の歴史ービジュアル 哲学入門」は、 マーカーで真っ赤になっている。一度読み終わった後にトイレに5年以上は置いて、ことあるごとに読み返していた。大型本で半分は 絵と図が書かれており、重要な部分は大文字で書かれていて、難しい内容に対し、ページを開く抵抗感を最小にしてある本である。 数年前に、たまたま借りてきた本が、マギーの「哲学人」だった。今度は、そう簡単に読み進むことが出来なかったが、一年ほど前に 読みおえたが、実際は、あまり噛み砕いてなかった。350ページの分厚い、上下の二巻である。しかし、哲学評論家という立場で 自分の哲学遍歴方式で書かれているので、何とか最後まで読み終えることができた。ここで、棒線をひいた部分を中心に書き写したり、 コピーしたり、デジタル化して、私の小さなデジタル・バンクに入れるため、まず上下24章のうち、6章の要所を挑戦したい。 著者のレベルの哲学書を読み解くに、以前に彼の「知の歴史」を何年かけて読んだため、何とか続けそうな気がする。 ーまずは、この本の上巻表紙の背裏に書いてある抜粋の部分からー 《 眠りに落ちる瞬間がわからないのはなぜ? 少年時代の疑問に大人は答えてくれなかったが、それこそが哲学だった。 「オックスフォード哲学」全盛期の学生時代。言語の明晰化に終始し、哲学を「思考についての思考」とする潮流は、 現実世界の理解を深めたいと考えていた著者に何も与えてくれなかった。 知覚論、経験論、論理学、科学哲学… 多くの思想を吸収しながら、ついにカント哲学に出会ったとき、著者はみずからの方向性を確信する。 学外での人生を選択し、政治哲学の実践である国会議員と、哲学番組の企画制作の仕事を両立、第一線の哲学者と 交流を深めながら、自身の疑問に答えるため哲学を探究していく。》 ▼ この本を読んでいて、自分の子供の頃とは次元の違う世界にいて、哲学的に考えていた著者に驚愕をした。 知的風土の違いは子供に、そのまま現れ出てくる。ところで以前にも少し書いたことがあるが、私には眠る瞬間が分かったことがある。 「スゥ〜」と意識が失われる瞬間が分かったのだ。だから、私には、どんな偉い哲学者が、それを意識出来る訳がない、と論じても、 私には、それが間違いと断言できる。プッツ〜という感覚で、管が細くなっていく先に落ちていく、という感じである。 ・・・・・・・ 3429, 電子書籍の衝撃 2010年08月15日(日) 「電子書籍の衝撃」 佐々木 俊尚著 「iPad 対 キンドル」と、合わせて読むに丁度よい内容、その詳細というところ。書籍が電子化されていく世界が、「本を読む」 「本を買う」「本を書く」という行為に、どのような影響をもたらし、どのような新しい世界を作り出すのか? を、探り出す内容。 まずー著者後書きよりー 【 私は年に数百冊も本を購入し、たぶん百冊以上はちゃんと読んでいる活字中毒者です。そして同時に、年に四~五冊も本を 出している書き手のひとりでもあります。その意味で、キンドルやiPadのような電子ブックリーダーが出てくることによって、 本の世界がどう変わっていくのかは自分にとっても切実な問題としてとらえています。本文中で何度も書いていますが、 間違えてはならないのは、「電子ブックの出現は、出版文化の破壊ではない」ということです。何千年も同じような活字形式で 人々に愛されてきた本は、そう簡単には崩壊はしません。そこがたかだか数百年の歴史しかない新聞や、あるいは登場してから 数十年しか経っていないテレビとは違うところです。でも活版印刷が十五世紀に発明されて本の流通と読まれ方が劇的に 変わったように、電子ブックも本の流通と読まれ方を大きく変えるでしょう 】 電子書籍の拡大によりコンテンツ自体が著者や発行年にかかわりなく平準化し、よりセルフパブリッシングが拡大する。 音楽の世界がデジタル化で起こったことが、ほぼ同じように書籍の世界でも起こるのである。 その結果、既存の出版モデルは立ちいかなくなるということだ。 ・キンドル、iPadというタブレット式パソコンが一躍脚光を浴びてきた ・そこには優れたプラットフォームがあり、 ・電子書籍化でセルフパブリッシングが可能になり、フラット化する ・さらにツイッターなどのコミュニティなどでコンテクスト消費的な動きになる。 本屋もCD・レコード店、出版社、音楽出版社もiTunesやアマゾンの淘汰されていく運命にあるということ。 kindle・iPadが、iPhone・iPodと同じように、それぞれの世界を淘汰していくプロセスを踏んでいくのである。 ・・・・・・・・ 3054,渡辺淳一の不良講座 2009年08月15日(土) 渡辺淳一著『反常識講座』 ー第六章 軽率になって恋をしよう 渡辺淳一の恋愛感が面白い。この本の三分の一近くが、その内容である。恋愛感とテクニックは、著名な作家は 品位を疑われる?とかで正面きって書こうとしない。恐ろしい女評論家が「女性蔑視!」と攻撃されかねないこともある。 渡辺淳一は、それが売りだから攻撃する方も腰がひけるのだろう。 ー彼の云わんとすることはー ・ 男と女は体の構造が違う。 真面目くさらないで、どんどん女性に声をかけろ。 そのためには、心など込めないで気楽に褒めまくれ。 それも一人の女性に的を絞らないで、二人、三人を 同時に追いかけろ。一人を追いかけるより、その方が同時に上手くいく確率が遥かに高い。 (字数制限のためカット 2012年8月15日) ・・・・・・・・ 2689, 他山の石のことながら 2008年08月15日(金) ー大手ファミレス・チェーンが大きく揺れ動きだした 他山の石のことながら、「ファミレス」が石油高と不景気の直撃を受けているだろうと思っていたが、 案の定「外食産業の不振」の記事が毎日新聞に載っていた。(8月13日経済蘭) ファミレスのトップの「すかいらーく」の創業社長が97?の株式を握る投資会社二社による解任である。 07年12月期に二年連続赤字で、130億の赤字というから大変なことだ。 (字数制限のためカット 2010年8月15日) ・・・・・・・・・ 2007年08月15日(水) 2325, ベナレス −1 ー読書日記ー 図書館から何げなく借りてきた本だが、一時間もしないうちに読んでしまった。 写真が半分以上だったこともあるが、死の世界が剥き出しになっている。 この本はTVの放送内容を本にしたもので、TVの映像を切り取った写真と文章を中心に構成されている。 実は数年前に、この番組をみていたのである。本を読み終わってから思い出したのだから自分でも呆れてしまった。 早く読めたのも、その下地があったからである。 ー著書もTVも、「NHKスペシャル アジア古都物語」―ベナレス 生と死の聖地 ーである。 <その内容の一部を抜粋してみる> インド各地から遺体が運ばれてくるガンジス河中流域、ヒンドゥーの聖都ベナレスのレポートである。 その中で、ガンジス川で沐浴をする誰もが言う。「ベナレスで荼毘に付されれば必ず天界に行ける…」と。 全国から車やトラクターで運ばれてきた遺体は、路地を抜けるために屋根から降ろされ、人びとの手によって 担がれ火葬場へと向かう。「ラーム・ナーム・サティヤ・へー、ラーム・ナーム・サティヤ・ヘー」 (神様だけが真実である、神様だけが真実である…)担ぎ手たちはこの言葉を繰り返し口にする。 こうして冥福を祈られながら、 やがて遺体はマニカルニカー・ガートと呼ばれる火葬場に到着する。聖地ベナレスでもっとも聖なる場所の一つである マニカルニカー・ガートはガンジス河をのぞみ、街の中心部に位置する。その歴史は数千年におよぶと伝えられている。 (字数の関係で中間カット 09年08月15日) ・・・・・・ 2006年08月15日(火) 1960, 人生を物語るとは? −2 。^0^。)ノ オッ(*^○^*) ハ〜 ヨウ 「自分の人生の意味づけ」が、自分の物語の作成ということになる。 意味づけで、必死に内面を支えようとする心の自浄作業である。 意味とは価値のことである。自分の価値を明確にして、それに従って生きることが 意味ある人生であり、 価値実現のプロセスが物語になる。大人が子供に「大きくなったら何になる?」と、質問する光景はいまも昔も変わらないが、 これは既に大人が子供に人生の物語を聞いていることになる。子供の方は何を言えば目前の大人が喜ぶかを、瞬時判断して答える。 従って、その質問自体が洗脳作業になっている。 ブログで趣味などを自分の価値観で起承転結で、まとめ上げているのは、 一人物語っていることになる。ところで、成功が何だというのだろうか? 挫折物語は成功物語に対する反対語か? 堕落物語は? 幸運は果たして棚ぼた餅のことをいうのか? それもこれも、この世に生きているという輝かしい事実の前では、 如何でもよいことである。地球に今・現にあるという輝かしい日々の前においては、それらのことは些細なこと! お盆で里帰りをしている祖先の霊が一番いいたいことは、そのことである。 『そうでしょう? ご先祖様!』 ーご先祖様ー 『全くそのとおりじゃ! 死ぬ直前になってやっと気づくのじゃ、娑婆の連中は! 日々を輝いて生きるとは、平穏な日々の輝きに気づくことじゃ。 しかし困難に直面をし、乗り越えようと必死になっている日々も大事である。 その中に深い物語の意味ー価値がでてくるのじゃ!まあ、味がでてくると言ったほうが解りやすいか。 生きているうち、 元気なうち、そして愛し愛されているうちじゃ、娑婆は! 此方から見ていると、 そのことがよく解るのだよ!』 ホンジャ UvU/ バイバイ! ・・・・・・・・ 2005年08月15日(月) 1595, 自民郵政解散の攻防−5 今度の衆院選、旧守派と民主党の負け戦?の様相になってきた。この流れは余程のことがないと変わらないだろう。 (以下、字数の関係でカット08年8月15日) ・・・・・・・・・・・ 2004年08月15日(日) 1230, 広松渉(4)−哲学についてー28 価値観について、学生時代から興味を持っていたが、真正面から取り上げている 本は少ない。これだけ理路整然と書いてある文章は初めてお目にかかる。 文章自体難解なのだが、数回読むうちに少しずつ解りかけてきた。 ー大雑把にまとめてみると ・価値は、主観的感情でしかない! それに対して、いや客観的存在を認める立場がある ・価値絶対説と価値相対説を対立させて、価値の立場を明確にしていく 価値観は時代、地域などのTPOSによって変わるという相対説と、どんな時代でも、変わらない絶対説がある。 ・価値観は期待される行動と、サンクション(賞・罰)によってカタチつくられる。 ー第二節の実践と価値評価の要点を抜粋するー 第三章 実践するとはどういうことか 第二節 実践と価値評価 ー概略ー 哲学的価値論は、戦後の哲学界においては余り流行らなかったが、ひと昔前までは「哲学とは即ち価値哲学である」というほどであって、 価値は哲学上の一大テーマなのです。 哲学のいう「価値」は広汎もわたるので、ここでは行為についての正当・不当評価を論軸とする。 ・価値」なるものにおいて、二大陣営の対立がある。 一方は価値という客観的存在を認める立場であり、いま一方は価値とは主観感情にすぎないと見做す立場である 客観的存立性を認める立場においても、「価値そのもの」と、 「価値を付帯・内具しているもの・ごと」とを区別をし、後者を「財」と呼びます。 「美そのもの」「善そのもの」等が「価値」とされ、「美人」「善い行い」「良い酒」等が「財」になる。 価値そのものの特質を見てみると、哲学者は「価値」と「存在」とを区別をし、「価値判断」と「事実判断」を区別します。 価値は、真・偽、善・悪、美・醜、聖・俗・・・というように、必ず正価値と反価値とが対になっているのが特徴である。 ・価値について価値絶対説と価値相対説とがある。 絶対説は超歴史的に文化圏にかかわりなく価値は存立すると主張、相対説は 歴史的・文化的に価値は相対的にすぎないと主張する解りやすくいえば「美」という価値は超歴史的であり、いつの時代にも 「美人」と評価される女性が存在をした。しかし、ある時代に存在した美人は違う時代、違う地区では美人と認められるかというと、 そうではない。マリリン・モンローはインドネシアでは全く認められなかったというし、楊貴妃は。 現在のパリでは、全くの不美人に評価されるという。実質的価値認定は相対的である。 ー期待される行動とサンクション(賞・罰)ー 人類は動物学的に見るとき早産である謂れ、かなり長期間にわたって手厚い養育を受けてはじめて生育できる未熟児とも言われる。 動物である以上、人も呼吸・摂食・排泄をおこないますが、その仕方さえ、本能のままでなく、文化的様式化されます。 総じて、親が子に対して、上位者が下位者に対して、等々、立場上・役柄上、自覚的に賞罰行動をおこなうケースは、現実に 賞罰効果をもつ行動の極々一部にすぎないといえましょう。それにもかかわらず、人々の「共演」的行動は、大抵が、意図せざる 賞罰的な効果を対他的対自的にもつのであり、そのため、日常不断の行動を通じて、行動様態の「賞罰的」誘導規制、そのことによる 行動の間主体的同調化、ひいては、行動様態についての当為的価値評価の共同主観的斉同化が現に成立する次第になります。 -------- 偶然の一致か、去年の今日に「タイムクエスト」の本で価値観について取り上げていた。 今年の価値観は哲学として取り上げた内容であるが、それにしても偶然と言うのも面白いものである。 ・・・・・・・・ 2003年08月15日(金) 863, 「タイムクエスト」ー読書日記 (2) ベンジャミン・フランクリンの13価値観を自分にどの程度 実施しているか,100点満点で主観で自己採点をしてみた。 1、節制 飽くほど食うなかれ。酔うまで飲むなかれ。 ー40点 2、沈黙 自他に益なきことを語るなかれ。駄弁を弄するなかれ。 −50点 3、規律 物はすべて所を定めて置くべし。仕事はすべて時を定めてなすべし。 ー75点 4、決断 なすべきことをなさんと決心すべし。決心したることは必ず実行すべし。−80点 5、節約 自他に益なきことに金銭を費やすなかれ。すなわち、浪費するなかれ。 −90点 6、勤勉 時間を浪費するなかれ。つねに何か益あることにしたがうべし。無用の行いはすべて断つべし。−85点 7、誠実 偽りを用いて人を害するなかれ。心事は無邪気に公正に保つべし。口に出すこともまたしかるべし−80点 8、正義 他人の利益を傷つけ、あるいは与えうべきを与えずして人に損害を及ぼすべからず。 −75点 9、中庸 極端を避くべし。たとえ不法を受け、憤りに値すと思うとも、激怒を慎むべし。 −60点 10、清潔 身体、衣服、住居に不潔を許すべからず。 −70点 11、平静 小事、日常茶飯事、または避けがたき出来事に平静を失うなかれ。 −90点 12、純潔 成功はもっぱら健康ないし子孫のためにのみ行い、これにふけりて頭脳を鈍らせ、身体を弱め、 また自他の平安ないし信用を傷つけるが ごときことあるべからず。 −65点 13、謙譲 イエス及びソクラテスに見習うべし。 ー50点 ー以上の平均は70点である。 (字数制限のためカット 2011年8月15日) ・・・・・・・・・・ 2002年08月15日(木) 488, 毎日が刺激的−2 先日のアメリカ第六位のUS航空が倒産した。ところが、アメリカン航空と並んで世界最大規模のユナイテッド航空が、 やはり倒産寸前という。自動車でいうGMかフォードクラスの会社だ。アメリカン航空と供に20? 近くの前年対比の落ち込みだという。アメリカ全体では−11?で大手ほど昨年の9.11の落ち込みは激しい。 (字数制限のためカット 2012年8月15日) ・・・・・・・・・ 2001年08月15日(水) 108] 夢について-7 2001/08/14 07:45 毎朝地蔵様に‘あの世で安らかにお眠りください’とお参りしているためか、 今年に入って母の夢を見る事が少なくなったが、昨日の朝久々に母の夢を見た。 いつもそうなのだが自宅での生々しい夢である。痴呆状態のしかし姿は幼児の母である。 今回は玄関の辺りで何かしている、よく見ると仏像にお参りをしている夢である。 盆にピッタシの夢である。母が自分の中に生きているとか言うが、私の場合夢の中で自由奔放生きている。 ---- 今朝 見かけた鴨。一時200羽いた事があったが河川工事で少なくなった。丁度真ん中あたり。
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2012年08月14日(火)
* 今日は御盆二日目 先日から御盆のため民族大移動が国内外に向け始まった。13日は早朝、三つの寺、夜は菩提寺に二度目の墓参り。 盆暮れは日本特有の恒例の里帰りも良い風習である。不景気で世相が暗くなるほど、こういう行事は大事にされる。 しかし家族主義から個人主義へと考え方が変わる中で、こういう風習も廃れるのは避けられない。ところで墓とは何だろうか? 多宗教の日本人にとっての心の拠りどころ。最後は、あそこに入るという共同幻想があり、祖先の霊が眠っていてイメージがある。 私は自分のHPを墓場とみたて、死んだ後より生前供養に毎日来てもらうイメージがある。ところで百年、二百年先には、家の墓が 残っているかというと、旧家意外は、ほとんど残っていない。本家の墓があるが、一人息子は独身で、やはり百年?。 昨日も、両親に因縁があった無縁墓に花一輪をたてお参りをしてきたが、これも百年。 ところで御盆の13日の早朝、 オリンピックの閉会式のためか人も疎ら。こんなことは初めてである。閉会式の方が優先ということ。お寺も不況業種の典型である。 * アイスキャンディー 子供の頃、街中の「行楽」というラーメン屋のアイスキャンディが夏の名物で、アズキアイスとミルクアイスの二種類があった。 今は店も無くなり、私が知る限り一軒だけ昔のスタイルのキャンディ屋が残っている。10年位前になるたが、たまたま、熱暑の中、 雁木通りを歩いていて見つけた店で、さっそく10本買って帰ったことがあった。 ところで一昨日、近くのスポーツジムの帰りに スーパーに寄ったところ、オバサンが美味しそうにキャンディーを頬張りながら出てきた。 買い物を終え出口近くに行くと、 サービスカウンターでキャンディーを売っていた。オバサンを見なければ見逃していたが、5本買って家に帰って食べてみたが、 思ったより小ぶりで味は今イチだった。 それにしても、子供の頃に食べた行楽のアイスキャンディーは美味しかった!
・・・・・・ 3793, スポーツジムの景色 −3 2011年08月14日(日) 4ヶ月でのジムの運動効果はどうか? というと、体重は元もと早朝のウォーキングと、サイクリングの効果で、 適正体重を20年以上は保っていた。そのため、減増はないが、頬の弛みは無くなり体調は非常によい。 二年前に3〜4年に一度の重い腰痛になってから、色々の腰痛対策の工夫をしたプラス効果は出ていた。 しかし4月からの 午前中のサイクリングを含めた三時間の運動は、これまでの足腰の関節を鍛えなおすに効果的。この数年来、足腰の関節が固まった 感じが、このジム通いで半分はとれたようだ。 あと4ヶ月後の年内には、さらに一絞りした身体が出来ているはず。 ジムでは、常に各種エアロビックと、イージーライン(インストラクターの指導下、6つの器械とステップ台で運動を繰りかえし 一周する)などのプログラムが開かれている。 別にマッサージルームか、ランニングマシーンか、筋トレマシーンで独自に過ごせる。 時に昼をマタイダときは、外出も可能。 謹慎の身?にとって、昼間に息抜きできる場所が存在しているのが有難い。 喫茶店替わりである。 これはアメリカで出来上がったサービス業態だろう。 ースポーツクラブをウィキペディアで検索すると 【 スポーツクラブは、各種の運動施設と専門の指導員を有する施設。フィットネスクラブとも呼ばれる。 定義は明確ではないが、 たとえば日本の経済産業省の特定サービス産業実態調査におけるフィットネスクラブの定義は、「室内プール、トレーニングジム、 スタジオなど室内の運動施設を有し、インストラクター、トレーナーなどの指導員を配置し、会員にスポーツ、体力向上などの トレーニング方法などを教授する事業所」とされ、室内プールの他に室内運動施設を有しない事業所は除外するとされている。】 ▼ 私の通っている「ホリデイ」は、これにサウナ、風呂、マッサージルームが加わっている。またランニングマシーンはTVつきである。 ポイントは施設に多くの種類の施設を備え会員数を集めること。今月から極端に会員数が減ったため?、値段を平均一割程度下げてきた。 この施設も半年以上もかけて完成した。しかし完成して僅かで東北大震災の直撃である。大型設備投資の難しさを他山の石として 見ていることになる。 漫画喫茶はモバイル携帯電話と、iPadなどのタブレット型パソコンが直撃している。いずれにしても恐慌である。 ・・・・・・・ 3428, 今日、我が家に新しいテレビが 2010年08月14日(土) 八年近く使ったテレビを、地デジの切り替えとエコポイントもあり、ここで切り替えることにした。 そのため今年に入ってから 「どの機種を買おうか、何時買うか」をゲーム感覚で、家電店、そしてネットで、集中した。 昨年からはバックライトのLed方式のTVが 最近、家電売り場で目立っていて、買うならこれと決めていた。 ところが、この春のエコポイント制限期限が終了間じかになると、 3Dテレビが脚光を浴びてきた。既存のTVを売り切った後に、これ。 そうすると今度は3Dテレビに気持ちが移った。 (字数制限のためカット2012年8月14日) ・・・・・・・・ 3053,人を殺すということはどういうことか −2 2009年08月14日(金) 「人を殺すとはどういうことか ―長期LB級刑務所・殺人犯の告白」 [著]美達大和 現役無期懲役受刑者の言葉だけに、一言一言が重く深く響いてくる。受刑者の大部分が罪など悔いてないのである。 犬や獣のような連中が殆どで、自分の欲望のためなら他者の生命は全く価値も尊厳も感じないと暴露する。 照魔境で照らすと、多くの悪魔の姿が映っているに違いない人たち。 著者は、ここで罪の深さを知り、 カントなどの哲学書から「天上の輝く星、そして内なる良心」の重要性を語る。 「内なる良心に目覚めることこそ殺人の罪を償う道」であることを獣のような仲間をみて実感する。 P−10ー 生命を奪うということは、生命だけでなく過去の記憶や未来の希望も全て破壊し尽すということなのです。 それ以外にも、さまざまな負の感情を植え付け、歳月の経過と共に風化させるどころか、増殖させてしまうことに 気がつき愕然としました。・・・・私は殺人には償う術はないと思っていますが、それではどのように生きればいいのか について、懊悩してきました。 ・・・考え続けるほどに、人間の原初的な善の心の発掘が必要だと知りました。 ・・・「獄」という字は、獣や犬がものを言うと書きますが、実際に生活してみると、そのとおりでした。 正常な感覚を持っている者は本当に少ないのです。 P−250ー 私はここで服役するまで、人はもっと自省し学習すると思っていましたが、現実は違いました。 (字数制限のためカット2010年8月14日) ・・・・・・・・ 2688, 「エリック・ホッファーの 人間とは何か」 2008年08月14日(木) ー遊びをせんと生まれけむー −読書日記− 亡き佐治敬三氏がサントリーの会長だった頃(1995年頃)、 口ぐせのように言っていた言葉に「美感遊創」がある。 ・「美」は、羊が大きいが語源。大きく艶やかな羊の美しさを表わしている。美に感応する心である。 ・「感」は、 感性、感動、共感。 旅に出て自分の世界の外に出会って感動したり、絵画、音楽、映画、演劇などに 感動することが人生を豊かにしてくれる。 ・「遊」は、神代の昔から人間にとって一番大事なこと。 「遊びをせんとや生まれけむ」と「梁塵秘抄」 にあるように、人間は「ホモ・ルーデンス」。 遊ぶことで人間性を回復し、活力を得る。遊び心。 ・「創」は、新しい断面、局面を切り開いて、個性のある創造をすること。一瞬の新しいものへのシュンパツ力。 以上だが、この4つが人間の心の豊かさの要素である。 確かに、人生はこれを磨くプロセスであった。 この中でも、「遊び」が、人間にとって最も有用な行為になる。 「エリック・ホッファーの 人間とは何か」という著書に、遊びについて次のように述べている。 《実用的な道具はほとんどすべて非実用的な関心の追求や暇つぶしにその起源がある。 最初に家畜化された動物ー小犬は、もつとも役に立つ動物ではなく、もつとも遊び好きな動物であった。 猟犬が出現したのはかなり後のことである。最初に家畜化された動物は子供たちのぺットであった。 おそらく,植物栽培と灌漑も、初めは遊びとして行なわれたのである。 車輪・帆、煉瓦なども遊びの中で 発明された可能性が強い。 たとえば、南アメリカのアステカ人は車輪を使わなかったが、 足の代りにローラーをつけた動物の玩具をもっていた。装飾が衣服に先行した。 (字数制限のためカット2010年8月14日) ・・・・・・・・・ 2007年08月14日(火) 2324, 嘘でしか語れない真実もある! (。・・)ノぉはょぅ♪ 芥川龍之介に「人生には嘘でしか語れない真実がある」という言葉がある。その典型的なものが旧訳・新訳聖書。 あのような奇跡などあるわけがないが、あの話を通して事実では語りえない真実を語っている。末期がんの患者に、 「あなたは助かりませんよ」と知らしめることが、いいのか? 死ぬ直前まで嘘で固めて、気づかないようにしてやる方がいいのか? これは誰も判断の出来ないことである。日本には「嘘も方便」「嘘からでたマコト」という言葉があるが、時には嘘も大事なこともある。 女性の化粧など、嘘で固めた外形?ではないか。 いや、真実を引き出す行為か? プロの物書きは、まずは真実を伝えるためなら 平気で嘘を書きなさい!と教える。読み手は些細なことが事実かどうかより、真実を伝えてくれることを望んでいる。 「正直に拘ると、人生あまりに窮屈で面白くなくなります」という言葉が浮かんできた。 何処かの小説で誰かが言っていそうである。詐欺師など、嘘のプロが普通の人を如何みているのだろうか? 少なくとも、言葉の効用を知り尽くしている。 嘘にも色いろある。相手を陥れる嘘や自利のための嘘は結局は 自分に跳ね返ってくる。相手のためになる嘘は、それがプラスになり生きてくるものである。嘘でしか語れない真実? ー以下は字数の関係上、カット。(09年08月14日)- ・・・・・・・・・ 2006年08月14日(月) 1959, 人生を物語るとは? −1 (。^0^。)オッ(*^○^*)ハ〜 * 人生を物語るとは? 自分の人生を振り返り、現在への筋道をたどって、その意味を考えるという、人生の総括である。 悪く言えば自分の人生を絶対肯定化、正当化しようということになる。 自信が無いからか? はたまたドブ沼のドロさらい? いや宝探し? 自分の人生を物語ることが、自分の人生の意味づけなら、「物語の意味は何か?」を、考えてみる必要がある。 哲学者のリクールは『時間と物語』の中で、「物語」の本質は「筋」の存在にあり、「筋」とは不調和なものを調和の中に組み込み、 そのことによって不調和なものを理解可能 なものとし、感情の上でも受容できるようにするのだと論じている。成る程!そういえばそう。 哲学者は上手く真理をつくものだ。「物語」とは「筋」に 沿って配列された出来事の連鎖ということになる。たどってきた過去を振返り、 現在という到達点に至った道のりの要所ごとの出来事を再編成していく作業が、その人の物語になる。 ーある本に「物語」について解りやすく書いてあった。 先ず、それを紹介してみようー 自分の人生を回想的に語るとき、 ・第一に、 私たちは人生において 経験したことのすべてを語ることはできなし、語ろうとも思わない。 「語るに値すること」「語ってもよいこと」「語るべきこと」といったフィルターを通過した出来事のみが語られる。 回想とは模写ではなく、抽象である。 ・第二に、 私たちは人生において経験したことを、たんに時間の順序に従って語るわけではない。 一見、そう見えるかもしれないが、実は出来事間の因果関係、起承転結というものがそこでは意識されている。 語り手は、「人生上の出来事を因果の連鎖によって結びつけることによって、自分がかくかくしかじかの人生を歩み、 別の人生を 歩まなかったのはなぜか、ということを説明しようとしている」のである。 ・第三に、私たちはそうした 因果関係の連鎖として語られる自分の人生に対して、「幸せな人生だった」とか 「つらい人生だった」とか―実際の評価はもっと複雑であろうが、何らかの評価を下している。 このように個人が自分の人生を回想的に語る(抽象し、説明し、評価する) とき、そこには「人生の物語」のパターンが 先行的に存在している。 だからこそ私たちは、それほど苦労することなしに自分の人生を語ることができるのである。 また「人生の物語」のパターンは、人生を回想的に語る場合だけではなく、 これからの人生を どのように生きていこうかと考える場合にも役に立つ。 子供は「人生の物語」と出会うことによって、「人生」に対して自覚的(目的論的)になる。 日常生活を構成する諸々の活動が「人生」として 組織化されてゆくのだ。 「人生の物語」には四の類型に分けられる。 ・まずは努力と上昇を二大要素とする「成功の物語」 ・そして「幸運の物語」 ・「挫折の物語」 ・「堕落の物語」 「幸運の物語」とは「努力せずに上昇する(棚からぼた餅)」 物語であり、 「挫折の物語」とは「努力はしたが上昇できなかった」物語であり、 「堕落の物語」 とは「努力せずに下降していく」物語である。 「成功の物語」こそが近代社会における「人生の物語」の正本であり、 他は正本の正統性を際立たせる ための異本である。 とくに「堕落の物語」は反面教師として「成功の物語」とワンセットで取り上げられることが多い。 ー以上である 実際の人生の総括とは、混沌としたドブ沼からこれらの要素を探し出して、ドロ(成功・失敗・挫折・幸福) を抜き出していく作業である。成功とか、挫折とか、堕落とか、幸福とかは、二次的なものでしかない! ーつづく ・・・・・・・・・ 2005年08月14日(日) 1594, 犬の散歩 毎朝、ウォーキングをしていると、犬の散歩の人と行き会う。行き会う人の半数近い。何時も思うのは、犬と飼い主が似ていること。 特に年配の人と犬は、長年の付き合いのせいか、そっくり。顔つきや体型が似てしまうのは同じ環境にいるためだろう。 以前も、散歩の犬に関して少し書いたことがあるが、時代時代に犬の流行があるようだ。ハスキーが多い時期があったり、 ラブラトール・リトリーバーやゴールデン・リトリーバーだったり、最近はポメラニアンやミニチュア・ダックスフンドなどの 小型卓上犬が目立つ。実家では、必ず犬を飼っていた。そして、それぞれの犬の思い出が多くある。まぎれこんだり、拾ってきた犬で、 雄雌関係なく「コロ」という名前であった。しかし結婚をしてからは、家内が犬が大嫌いで「飼うこと相成らぬ」である。 もし人生に幾つか悔いが残るとしたら、その一つが「犬が飼えなかったこと」である? といって、いま現在では躊躇する。 そういえば、最近「雑種」をあまり見かけなくなった。どういうことだろう? 恐らく放し飼いが全く無くなって、 チャンス?が無いのだろう。ところで、雑種を三匹連れているオジサンが、いつも口笛をふきながら歩いているが、その口笛が 聞きほれるほど上手い。その三匹の犬、飼い主に似てか?すれ違う犬に大きく吠え掛かる。 口笛と犬の吠え声で、その存在がわかる。ところであるベストエッセイ集に「犬に似る」というエッセイが微笑ましい。 そしてプロの文章はすばらしい。 最後の文章を抜粋してみる。 ー犬に似るー ついでだが、犬と飼い主はたいていの場合、そっくりである。ずんぐりした人はずんぐりした犬をつれているし、 短足胴長の犬の飼い主は短足で腹が太い。 それでは、いつの間にか名前が平仮名の「そら」に落ち着いたわが家の犬はどうか。 しばらく前まで、スマートで端正な犬だとうぬぼれていたが、このところ、目の青色は薄くなり、鼻の頭は白く乾いている。 猫やカラスを追いかけるとすぐに息を切らす。息を切らすと、はあはあと長く舌を出し、腹を大きく波打たせる。 どったと寝転がっていることも多い。 そのそらのようすは私にそっくりらしい。いや、私がそらに近づいたのだろう。 先日、家の前を通っている二人連れの会話が聞こえた。「ここの犬、この家のご主人とそっくりよ。毛の色も一緒だし、 体格もうりふたつ」「へえ、じゃ、どっちが犬かわからないわね」 私は思わず吠えそうになった。 (坪内稔典 俳人) 最後の一文がきまっている。 ・・・・・・・・・・ 2004年08月14日(土) 1229, 死亡欄 この数年、新聞を見ていると死亡欄に目がいってしまう。それも自分より年齢の下の数をさがしてしまう。 傾向として40歳台から死ぬ人がおおくなる。反面90歳後半や100歳という人も結構多い。時々、子供や20歳そこそこの死亡も目に付く。 やはり女性は80歳台、男性は70歳台が多い。それぞれ一行の名前と年齢の中に膨大の人生が詰まっていると思うと人生の深さを感じる。 (字数制限のためカット2011年8月14日) ・・・・・・・・・ 2003年08月14日(木) 862、「財産を無くす人、財産を残せる人 」 ー読書日記 ーデフレ経済下21世紀の日本型蓄財術- 清水洋/著 ー以下は字数の関係上、カット。(03年08月14日) ・・・・・・・・・・ 2002年08月14日(水) 487,アメリカンインデアン 以前‘アメリカンインデアン’について書いてある本を読んで仰天した。口伝で代々受け継がれてきた内容が 3万年以前のものだたりする。その内容がどうも正確なのだ。特に「一万年前にシベリアを通ってベーリング海峡を渡る」 の内容もあるという。 (字数制限のためカット2011年8月14日) ・・・・・・・・・ 2001年08月14日(火) [107] 「私の死亡記事 「私の死亡記事」‐文芸春秋 図書館で何気なく借りてきた本だが、これが面白い!各分野の有名人に「物故者の解説を、当の本人執筆という点である」 そのお願いの文章が、前書きになっているところがまた面白い。 よくこれだけの有名人が真面目に、あるいはふざけて 書いているのがいい。まず自分の死亡時期の設定、そして死亡原因、生前の業績を当の本人が書くのだから。 どちらにしても真剣に書いてあることは文面よりわかる。特に生前の業績に対しては意外と自己正当化しているのが可笑しい。 −私も書き始めたが侘しくなってきた。死亡時期‐父と同じ71歳(そうすると後16年の時間) ・死亡原因‐酒の飲みすぎによるショック死。 ・生前の業績ー書くに値せず。 ・葬式方法は葬式坊主に一円の金も払わないようにとの遺言の為に音楽葬、但し身内のみで。近じか真面目に書いてみよう。
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2012年08月13日(月)
「老後は夫婦の壁のぼり」ねじめ 正一著 ーまずは、内容紹介よりー すべての団塊世代に捧げる老後のヒント。団塊世代の作家・ねじめ正一が、人類永遠のテーマ「夫婦、男女のすれ違い」を縦軸に、 今、団塊世代が直面する「老後の問題」を横軸に、ユーモラスに、時に真摯に縦横無尽に紡ぐエッセイ集。 ーー 図書館で、この本を手にして早速よんでみたが、身につまされる話が次々と出てくる。人生は坂を上ったり、下ったり、 マサカの坂に出会ったりするが、老いは、そんな生易しいものでなく、ロック・クライミングの室内用壁のぼり、のようなもの。 とにかく一日一日が、下に落ちまいとニジリ登っていく壁である。亭主が外で働き稼いでいるうちは、奥さんも一歩下がってきた。 しかし稼ぎを無くして年金暮らしで収入も激減し、家でゴロゴロしていると、それだけで腹がたつのは道理。そのため、すれ違いと 溝は深まるばかり。 ここで、ー夫婦喧嘩‘健康法’ーを紹介している。NHKの健康に関するTV番組に出演した時の、鈴木清順の ー夫婦喧嘩‘健康法’ーである。 番組が始まり、「ねじめさんの健康法は何ですか」と、著者に話を振ってきた。 著者は草野球をしていたので、「年間25試合の草野球が楽しい。身体を動かす喜び、仲間との交流の嬉しさ、そして、 試合が終わってから家へ40〜50分歩いて帰ること・・・」と上ずって話した。次に、清純さんに、その質問が移った。 ≪「うん、そうですね。夫婦喧嘩ですかね。ばあさんと喧嘩していると、腹が立ってきてぼけないし、脳みそが活性化し、どなると 大声が出て肺に良い。毎日欠かさず喧嘩しています」 いやはや凄い。隣に座っていた私は目から鱗が落ちた。私の草野球健康法は 海の藻屑、いやスタジオのゴミになった。≫ 以上だが、それにしても大変なエネルギーだが、それなりの信頼感がないと大声で喧嘩もしていられない。家内とも大喧嘩は 日常茶飯事だが、どうもこうも、精神的にも肉体的にも健康法とはいえない。それよりも、家に入ってからは、互いの壁のぼりが 言いえて妙である。 「神様は連れ添いに世界一相性の悪い人を選ぶ!」という格言がある。若いときは、自分にない部分を 持っている人に惹かれるもの。それは逆に、自分と重なる部分が少ない人である。それが長年かけて鬱積として蓄積されている。 それでも昼は、すれ違いで何とか耐えてきたのが、年金暮らしで昼も夜も一緒なら叩き合いになって当然である。特に男は、 縦社会に生きてきたので、日常という横社会中心の場での生活に慣れてないため、どうしても妻一人に気持ちがいってしまう。 小さな家の中での啀み合いが、「老後は夫婦の壁のぼり」になるのである。もしか、これ、ロック・クライミング? 酸素切れ? ・・・・・・・・ 3792, つれづれに ー 今日は御盆 2011年08月13日(土) 今年の御盆は格別の思いである。 姉、兄に続いて、私もこの三月末で会社を倒産させてしまった。 「亡き両親と兄たちに、どう報告すべきか?」という気持ちは、何処かにある。急激な悪化は、あと数年は大丈夫という見通しも、 数ヶ月もしないうちに、少し前倒しの決断をせざるを得なかった。この事態の中でも事業を継続発展させるのが私の務めだったはず。 経営は結果責任、言い訳は一切無用である。20年前のバブル崩壊、10年前の9・11テロ、そしてトドメが三年前のリーマンショック、 その上に更に東北大震災。 この20年と、これから10年の異変は、明治維新と第二次世界大戦に匹敵するか上回る規模になる。 問題は、それが今だ進行中であること。 父親が、第二次世界大戦の敗戦時には42歳であった。私は現在、65歳で、年齢からみて 再チャレンジ出来る年齢ではない。 また情報化とグローバル化の時代背景がある。 特に、情報のネット化が数千年、 いや数十万年に一度の人類にとって想像を絶するツールで、人類のあり方そのものを根底から変え始めてきている。 情報化、デジタル化は、多くのものを無料化させる力が働く。これはプラスにもマイナスにも働く。携帯電話にパソコン機能が入り、 個々人の間の情報が瞬時にやり取りが可能になった。 そのため世界中の既存体制が、そのコントロール不能になっている。 この中での事業経営は、非常に難しくなってしまった。 日本も世界も、この混沌とした中にあって、大きな岐路にたたされている。 この時期、リーマンショックで疲弊した日本に千年に一度の東北大震災が襲った。この布置は、世界規模では戦争か、災害が起こる 可能性がある。 それが我々の前にどのような事態で現れ出るのだろうか。 幸いといって良いのか、世界に先立って、日本は20年前に バブル崩壊を経験し、国家も、会社も、個人もダウンサイズをしてきた。その点では、体質が既に変わってしまっている。 第二次世界大戦の半年後に、日本で生を得て、そして、それに匹敵する変動を、ここで経験している自分が、そして日本がある。 その三分の二が右上がり、三分の一が右下がりであった。人生の丁度良い時節が、歴史的繁栄の右上がりだったことを感謝している。 日本の浮き沈みに自分の人生が、ほぼ同じように重ねっていた。 所詮は国家と盛衰のウネリの中で、浮き沈みをするしかない人生か! 目出度し目出度し!より、この方が、よほど良い人生かもしれない。 そう思うしかないが! でも、やはり恵まれていたことになる。 ・・・・・・・ 3427, iPad 対 キンドル ー4 2010年08月13日(金) 『iPad 対 キンドル ー日本を巻き込む電子書籍戦争の舞台裏』 西田宗千佳著 * タブレット式パソコンのブレイクの意味することは 日進月歩にパソコンが形を七変化をして便利な道具として提示されてきている。その一番ホットなのがモバイル携帯電話。 代表的なのがiPhone。それが今やiPadにとって代わろうとしている。早くいえば4倍の大きさのiPhoneである。 これをキッカケに多くが参入を始めてきた。 その競争が激しくなればなるほど、消費者は使い勝手が良くなる。 その結果、マスコミと出版業者の大部分が淘汰される。これにツイッターのようなミニ・ブログを個々人が持って、 情報の受発信を始める。 空間を越えて、それぞれがキーワードで繋がるのだから、これまでとは全く違った社会になっていく。 これからの社会の変容は誰も予測はつかないし、これまでとは違った価値観が出てくる。 考えてみればパソコンが卓上と、ノート型パソコンしかなかった方がオカシイ、ということになる。最近になって携帯に パソコンが付いたばかり。 これが板状の平面のパソコンになった。 とすると、次の何かが出てくるはず。 ヘルメット式とか、メガネに画面が映し出されるものとか、投射式とか、想像を遥かに超えたものが、早晩に出てくる。 (字数の関係でカット 12年08月13日)) ・・・・・・・・ 3052,都会暮らしが良いか、それとも田舎が良い? 2009年08月13日(木) 生きていくに都会が良いのか、地方が良いのか。 その人によって違うし、その判断は出来ない。 私自身は、成行きで人生の大部分を地方で過ごすことになった。 それに対して、良かったとも悪かったとも思っていない。 どっちにしても同じでしかないのは分かっている。それぞれの性格もあるし、体質もある。 また歩んできた道もある。 ところで、地方で自然に囲まれた老荘的な生き方を自慢げにいう人はいるが、逆に都会の方が良いと声高に主張する人は少ない。 が、あったのである。 渡辺淳一著『反常識講座』のー第三章 住むなら猥雑な都会ーの中に、堂々と書いてある。 反常識の御題目だから、堂々と書けるのである。 その概要といえば 【 齢をとって田舎住まいというなら解らないでもないが、若いうちは都会の方が良い。 田舎は社会的制約が多すぎる。東京に多くの人が住み、離れたがらないのは、都会が周囲に対して 無関心で余計な干渉をしないからだ。それだけ自由になれるからである。具体的に言えば、未婚でも、ホモでも、 レズでも、どんなカタチでもそれなりに容認してくれる寛容さがある。もし地方なら白い目で見られ 逃げ出しざるを得ない雰囲気がある。それと圧倒的な刺激に満ちていて面白い。むろんその裏には悪が満ちている、 その分面白いのである。そのチョッとやばいのが若者にとって魅力なのである。若者にとって、緑や空気が 美味いなど二の次である。生臭いのが地方では露出できないのである。だから齢をとってからなら、地方は良い。 若者は、表の顔とは別に、我がまま勝手に利己的で、性的欲望を満たし暴力もある、それを誰も咎めようしない 緊迫した都会で刺激を受けた方が良いに決まっている。 また、都会の良いところは、人材の上限と下限の 幅が広いことだ。上も下も果てが無い。】 まったく、その通りである。 私の場合は三十年近く、新潟と長岡を住と職が分かれていた。 だから地元で我慢?出来たと思っている。 どちらにも属しているようで実は、何処も属していないで済む環境が良かった。 その通勤で感じたことは、 地方の若者の緊張感の希薄性である。 希薄だから都会に出て行かなかったとも言えるが、都会のあの猥雑な 緊迫感が全く感じられない。 それはそれで、良い部分もあるが。 しかし・・・ 先日、大学の同級生と四十年ぶりに一期一会の対話をしたことを書いた。 彼は資生堂のキャリアとして、 大都市の転勤暮らしを34年間してきた。そして、奥さんが病で倒れ、最後の住まいを二度目の赴任の地の 仙台の郊外の河口の漁村に決めた。 そこは大好きな釣りの魚場。その彼に都会派?、田舎派?など問う方が野暮。 この問いの対象は、何も分かってない若者向きの問いである。 才能と金があって、もっと若ければ、都会の 猥雑の雰囲気の新宿の近くに住んで、川口湖あたりにセカンドハウスを持った生活も良いだろう。 そう一度、【新幹線を新潟駅から飛行場まで延ばそう会】で、太鼓を叩かれて踊らされかかった松下さんは、 当にそれじゃないかい! と言って、取って代りたいとは全く思わないのは、どうしてか。 それぞれ! ということを知っているから。 ・・・・・・・・ 2687, 閑話小題 2008年08月13日(水) *お盆か〜 お盆は、早朝に因縁ある3つの墓参りをし、夕方に実家の墓を参りをして、坊様に顔出しをするぐらいである。 もちろん休むことなく、誰も居ない事務所で本とパソコンいじりをしている。これも普段と変わらないが。 盆・暮・ゴールデンウィークのような民族大移動の時期はジッとしているのが習慣になっている。 (字数の関係でカット 12年08月13日)) *北京オリンピック *最近の車事情 (字数の関係でカット 2010年8月13日) ・・・・・・・・・ 2007年08月13日(月) 2323, 面構え ゜+.(ノ*・ω・)ノ*.オハヨオォォ☆ つらだましい『面魂』 ーとは、強くはげしい性格や精神が表れている顔つきをいう。 先日の葬式で同級生の何人かに会って、それぞれの顔をみると昔の面影をのこしているが、やはり人生の風雪に 鍛えられた経験が顔ににじみ出ていた。私が見るところ、その人の顔が出来てくるのは50代に入ってからである。 『面魂』に似た言葉に「面構え」がある。「面構え」とは、むしろ長い年月をかけて出来上がった顔のこと。 片岡球子という画家が「面構」をテーマとして、色んな人の肖像画を書き続けている大作シリーズがある。 その中の第1作「足利尊氏」など、あまりにも味のある漫画的顔で、頭に描いていたイメージとはまるで違う。 (字数の関係でカット 2011年8月13日) ・・・・・・・・・ 2006年08月13日(日) 1958, 今日はお盆ー2 \(^▽^*)おはよう 「今日はお盆」というテーマで書こうと思ったが、この日に、そのテーマで書いてないわけがないと振り返ってみたら、 4年前にチャンと書いてあった。(あとにコピーしてあります)気がついてないで書いていたら、80?は同じ内容だったろう。 4年も経って、大して成長していない?自分の脳が見えてくる。まあ、後退しないだけでも有難いと思わなくてはならないか? \(∀\)ココハドコ? 娑婆娑婆♭♯♪〜(/∀)/アタシハダアレ? ユー レイ♪ノ(^-'o)♪☆(o^-^)\ レジャーの無かった時代の盆・暮れという里帰りのシステム、当時の長期?休暇だったのだろう。 考えてみれば良い文化である。一年に1~2度、田舎に帰り家族や幼馴染に会ったりするのも良い。 先日、学生時代のゼミの後輩と酒を飲んで聞いた話だが・・ ーM氏は東京の中野に住んでいるが、小学校の同級会を開こうと 思い立って同級生と三人と名簿を調べたら、63人の同級生が他に一人しか見つからなかったという。 都会は、それだから良い!と思うのか? いや寂しいと思うのか?やはり後者だろう。 (字数の関係でカット 12年08月13日)) ・・・・・・・・ 2005年08月13日(土) 1593, ひらがな思考術 −1 −読書日記 図書館から借りてきた本だが、目から鱗の本である。著者はコピーライター、シンクタンク社長、コミュニケーション学部教授、 という三つの経歴を持つから言葉に説得力がある。ひらがなでわざわざ文章を書いてみたら、なるほどドンドンかけるのだ。 (字数の関係でカット 09年08月13日)) ・・・・・・・・・ 2004年08月13日(金) 1228, 広松渉(3) 哲学についてー27 ー人生舞台の役・割について 「実践するとはどういうことか」の(「行為の存立構造」の人生劇場))の概略を前回書いたが、行為の存立構造をなしている 「役・割」について、私の説を書いてみる。「役・割」が一番鮮明で解りやすいのが嫁姑の関係である。 永遠の人生の課題といってよい。結婚は二人だけの関係と思っていたのが、その取り巻く複雑な人間関係がついてくる。 それに舅・小姑が絡んでくるから、その役・割をこなす事は並大抵ではない。離婚は互いの相性もあるが、 この複雑に入り組んだ関係もある。演技者も「外面・内面」を使い分けなくては、下手な役者になってしまう。 長い年月かけて育て上げた息子が、バカ嫁に結婚を機会に取られてしまうのだから、コトは複雑である。 嫁の立場からすれば亭主の母子関係も、べたべたしたマザコンにみえてしまう。 その母親は、いつまでも子離れをしない嫌な存在になる。 家という制度が強い時代ならまだしも、 今のように個人が主体という時代では、嫁姑の関係はこじれるケースが多い。 正に人生劇場における集約された「役・割」で、お互いにぶつかる場面になる。 地方のような固定社会では、なおさら役・割が固定化するから、行為の存立構造は露わになるケースが多い。 ・小さな世界が全世界と信じて疑わない「子狐」のミニ・テリトリーの因習の世界で因果関係の芝居が演じられる ・「おれは田舎のプレスリー」的存在の地方(?呆)名士役 (字数の関係でカット 2010年8月13日) ・・・・・・・・ 2003年08月13日(水) 861, プライドー2 プライドは失意のどん底の時とかマイナスの状態の時に出てくる膿でもある。その状態が逆にエネルギーになる場合もある。 その為には、常に本を読み続けなくてはならない。心の膿がたまっている状態が「子狐」にしてしまうのだ。 したがって子狐は本を読まない人ともいえる。「プライドを捨てるだけのプライドを持て!」と、ある飲食チェーンの 創業オーナーが言っていた。「表面的な面子などのプライドを捨て、心の奥の芯ー真ーの自己尊厳としてのプライドを持て」 「捨てて捨てて捨てて、最後に残るプライドを持て」という意味だ。 自信のない人、失敗ばかりしている人ほどプライドが高いのは、捨てられるだけの実績と自信がないからだ。 捨てられない典型としては二代目とか、中途半端なインテリに多い。何でプライド?と考えたら、彼等は表面的繕いとしての それしかないからである。といって表面的繕いのプライドを捨てられないのが人間の人間たる由縁であるが。 表面的繕いとしてのプライドと真のプライドとの隔離が若い頃の特徴である。それを一生続けて死ぬときに 「自分の人生は何だったのだろうか!」と悔やむ人がいる。それが失敗の人生である。 「そういうお前こそ、その歪んだプライドが尻尾に出ているぞ!」と誰かに看破されている のかもしれない。自分の姿は見えないし、私も相対で言っているだけだからだ。「最後の拠りどころのプライドを持つのが どこが悪いのか、それを否定したら人間は生きていけないのではないか?」という声が聞こえてくる。 最後の最後、表面的繕いのそれしかないのだからそれで仕方がないともいえるが!「夢」「志」を持てなかった人は、 それでもよいのだろう。 「おいプライド! たかがプライド! されどプライド! あ~あプライド!」 ・・・・・・・・ 2002年08月13日(火) 486, 今日はお盆 13日のお盆の朝の夢は面白い夢を見る。両親の夢が多いが、祖先の霊の夢を見ることもある。祖先の霊が、仏壇から居間の 仏像のほうに数人浮いて流れていく夢とかだ。毎年、早朝お参りにいつも行くから、その緊張感が夢を誘発するのだろう。 今朝も少し見たがあまり印象に残ってない。明日の朝あたりが面白そうな夢が出てきそうだが。 13日の朝はいつも3箇所のお寺にお参りに行く。両親の墓と母親の実家の墓だ。その中である墓参りの話しをしてみる。 幼児のときから、父が叔父叔母だけで毎年お盆近くに法事をしていた。父が言うには、「戦前ある土地を買った時その地主から、 父が生きている間に、自分たちの墓参りする約束をした」とのこと。全く親戚縁者がいなかったのだ。どういう訳か解らないが、 いつも姉兄の間でいつも私だけが出席していた。その時のご馳走が楽しみであった。 当時は法事とか葬式はお祭りでもあった。 母が元気なうちは、母といつもお参りをしていた。母が言うに「永代経のお金を払ってあるから私が死んだらお参りをしなくてもよい」 とのことであった。しかしお盆の時になると、どうしてもお参りに立ち寄ってしまう。この世では私以外誰もお参りに来ないのだ。 やはりその人の念が60年~70年たっても通っていることになる。長岡の千住の浄福寺で、名前は福原兵?さん、明治25年と 墓に書いてあった。 今日のサロンでその墓の写真を貼り付けておく。 ・・・・・・・・・ 2001年08月13日(月) [107] 「私の死亡記事 図書館で何気なく借りてきた本だが、これが面白い! 各分野の有名人に「物故者の解説を、当の本人執筆という点である」 そのお願いの文章が、前書きになっているところがまた面白い。よくこれだけの有名人が真面目に、あるいはふざけて 書いているのがいい。まず自分の死亡時期の設定、そして死亡原因、生前の業績を当の本人が書くのだから。 どちらにしても真剣に書いてあることは文面よりわかる。特に生前の業績に対して意外と自己正当化しているのが可笑しい。 −私も書き始めたが侘しくなってきた。 死亡時期‐父と同じ71歳(そうすると後16年の時間) ・死亡原因‐酒の飲みすぎによるショック死。 ・生前の業績ー書くに値せず。 ・葬式方法は葬式坊主に一円の金も払わないようにとの 遺言の為に音楽葬、ただし身内のみで。 近じか真面目に書いてみよう。
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2012年08月12日(日)
「EUメルトダウン 欧州発 世界がなくなる日」 浜 矩子 (著) オリンピックも終わろうとしているが、これから年末までの4ヶ月半の日々が、緊迫した日々になる。 この本の題材のとおり、「EUメルトダウン」と、イスラエルによるイラン核施設への可能性である。ズバリ8割だろう。 この書籍は書店では目にして立ち読みをしていたが、数日前に図書館で見つけた。去年暮れに出版された本で、その後の推移は、 ほぼ当たっている。しかし、その都度EUは何とか緊急融資を決定して、乗り切ってきた。しかし、どれもこれもギリギリの決断。 ーまずは、アマゾンの内容紹介よりー ≪ ギリシャに端を発した、欧州の財政危機問題はポルトガル、イタリア、スペインといったいわゆるPIIGS諸国″に連鎖し、 遂にEUの屋台骨の一つであるフランスまでにも飛び火して、金融危機が勃発しようとしている。さらに、もう一つの屋台骨である ドイツも改革疲弊・限界支援で今後の動きが読めない。EUは、まさにメルトダウン寸前の状態にある。 ギリシャの破たんが、 すぐそこまで来ている今、ユーロは暴落し、諸外国の株価も急落している。EU発の世界経済大崩壊″第二のリーマン・ショック″は 日に日に現実味を帯びてきているのである。果たして世界最大の国家″EUは生き延びられるのかー。そして、この欧州危機は世界に 伝播し、大恐慌に陥ってしまうのか―? ‘ユーロという通貨の統合の果実が毒’に変わりつつある今、世界経済は大変革の ターニング・ポイントを迎えている。欧州危機を乗り越えるにはどんな方策があるのか? そして、日本は今後EU諸国とどの様に 関わっていくべきなのか?エコノミスト・浜矩子氏が、EUの経済危機を、EMS(欧州通貨制度)の崩壊、マーストリヒト条約締結から 現在に到るまでの歴史的事実から、EU、そして欧州各国がとるべき政策を考察、解説する。≫ ▼ 1979年に発足した欧州通貨制度は、その縛りを各国が守ることから始まったが、その足並みが揃わず、大きな壁に突き当たったが、 最後に妙案が出てきた。事実上のドイツ・マルク本位制に見立てて、各国が、ドイツの経済実態に自国経済のパフォーマンスに 摺り寄せることだった。インフレ率も、成長率も、失業率も、金利も、目指すはドイツだった。要するに「ベスト・プラクティス」を 各国がすることだった。ところが、1990年代に入って、安定するはずのドイツが、東ドイツを吸収したため、西ドイツ・マルクが消滅、 統一ドイツ・マルクになって、価値の定まらない通貨になってしまった。西ドイツの人々は、東ドイツの人々のために「連帯税」を 取られ、その力を失っていった。そして、問題であった、南欧の人たちの仕事に対する甘さが、そのまま、ドイツに重く圧し掛かって、 その将来に暗い影を落としてきているのが現状。ドイツ国民も、どこまで、この重圧に耐えられるか、もし、反対政党が、離脱でも 言い出し、勝利を収めれば、このEUのメルトダウンが大爆発を起こし消滅することにもなりかねない。その前にPIIGSの一つが デフォルトの可能性が大である。時の権力者は自分の代での爆発は避けたいもの。それが積もり積もって、限界点に到達したか? ・・・・・・・ 3791, スポーツジムの景色 −2 2011年08月12日(金) このところジムが何か変である。4月初旬に入会したが、当時は平日の午前中に関わらず会員で満タンで、 「ここは不景気とは別世界、私の知らないうちに社会は変わってしまった」と、思い知らされた。 まずは値段の安さである。 昼間の空いている時間帯(主婦と定年後の団塊世代を狙いをつけた時間帯=金曜ー定休、日祭日を除く10時から17時)のコースが、 月に5980円である。 私は、ほぼ皆勤で10〜12時の二時間は通っている。20日で割ると一日300円でしかない。 しかし私が入会後、一月もしない5月のゴールデン・ウィーク後から、ジム内の会員数が激減をしている。 まずは三割、そして五割、最近では三分の一ほどになってしまった。嘘のようだが、本当である。僅か4ヶ月のうちである。 平日昼の時間帯からみて、景気に敏感な主婦層が多いこともあるが、東北大震災の影響が直撃したようだ。 会費が二月分前払いのため、連休明けから激減したようだ。また場所柄、農家関係も多いこともある。考えてみれば新潟は福島の隣県。 イメージからして、農作物は中長期的にみて大打撃は避けられない。農業関係者なら敏感なはず。 連休後から御友達紹介キャンペインを 始めたが、新規の見学者が、このところ少なくなった。 スポーツジムはレジャーの範疇に入る施設である。 10年前の9.11テロと、 3年前の9.15−リーマンショックは、数百年に一度の文明と政治経済の大激震。その影響が、まずは日本に直撃。 それで今回、 私の事業も倒産に至った。 その上に、1000年に一度の地震・津波の自然大災害と福島原発事故である。 そして先週末からの 世界同時株安が襲ってきている。 ジムが劇的に会員が激減していくのも当然といえば当然。 家内は10年前から信濃川の川辺のイオン内のスポーツジムに通っている。 そこで家内に、会員数が減っているかどうか聞いたところ、 「元もと少ないので、減った感じはない」という。 とすると、ジム愛好者が居酒屋が新規開店に殺到するように、新しいジムに 様子見に来たのが一巡し、前のジムに舞い戻った要素もあるのだろうか?と考えてみたが、新しく大きい方が、より多くの種類の設備が 付加されているので、大方が元に戻るというのも考えにくい。 やはり大震災の影響である。それと私自身の見方が、時が時だけに、 悲観的にみてしまうことも考慮してもである。休日は、市営の公共施設のサンライフにいくが、そこで一通りジム設備が揃っていて、 我慢すれば出来ないことはない。公共のジムを二つ兼ねれば、それなりの満足感を得ることも可能である。スポーツジムからみる、 景気も、そう甘いものではない。 それにしてもジムは、ゴルフをしない者にとっては健康にとって、非常によい。 ・・・・・・・・ 3426, iPad 対 キンドル ー3 2010年08月12日(木) 『iPad 対 キンドル ー日本を巻き込む電子書籍戦争の舞台裏』 西田宗千佳著 * iPadは「eBook」ではない?! 初めの発表会でiPadが画面に出たとき、会場は単に大型のiPhoneに、がっかりしたようだった。 しかし途中から、会場の雰囲気は変わっていった。「10インチ」の意味が、デモを通して来場者に分かってきた。 アップルの狙いは「eBook」ではなく「リビング」ということが、ジョブスの紹介からみえてきた。 モバイルデバイス、要は「屋外に毎日持ち出して使う機器」だけでなく、リビングにシーンを移動したのである。 この数年、小型モバイルパソコンが爆発的なブームだったが、これは、台湾などでつくられた低価格の モバイル小型ノートパソコンが、その原点にあった。 使用者は、そこに本や書類を入れて、リビングやカフェなどで 見ていたのである。そこに目をつけ考えられたのが、このタブレット式パソコン。そのためiPadやキンドルとは似て非なる ものとなったのである。大型のiPhoneというだけでなく、大きさをソファーやチェアやベッドで寝そべって見れるところが、 ポイントとなっている。 我家の居間のテレビ前の座り机の横にパソコンを置いている。その台は回転が効いて、 私が使ってないときは、家内が向きを反転させ使っている。だから、iPadをデモで見たときに驚いてしまった。 居間で時間を遊ぶ面白さがよく分かるからである。 次にiPadの価値はiPhoneに使われている「アプリ」にある。 既に多くのものがiPhone用に開発され、世界中に普及している。それが、使えるとなると、その顧客を取り込める。 そのためkindleがeBookの「単機能」に対して、iPadは「汎用」に特徴になる。 またeBookに関していうと、 手軽な「文庫本」的なキンドル、それに対して「雑誌」的なiPadといえる。現在iPadが月に100万台の大ブレークの販売に、 一挙にタブレット式パソコンに火がついてしまった。これは、これまでの出版業界だけでなく、マスコミそのものの根本からの 崩壊に繋がる。紙の出版物は10年後には半減どころか、10分の一になる可能性すらある。傍目には面白が、恐ろしい時代である。 ・・・・・・・・ 3051,人を殺すとはどういうことか 2009年08月12日(水) 「人を殺すとはどういうことか ―長期LB級刑務所・殺人犯の告白」 [著]美達大和 図書館で何気なく題名に引き寄せられて立ち読みをしたが、その生々しさに立ちすくんでしまい、借りてきた本である。 LB級刑務所は長期の重犯罪者達の檻、その大部分は良心のカケラもない人たち。これは獄中でつづった特異な半生記・観察記で、 今年になって出版されたもの。著者自身が2件の殺人を犯し、無期懲役刑に服しながら獄中でつづった手記で、前半が自分の半生。 後半が刑務所の他の受刑囚たちの観察記である。 本人は今も無期懲役に服している。 高い知能と冷徹さを生かして社会的な成功を収めた後、自らの価値観に従ってふたりの人間の命を奪う。 逮捕後や公判中も罪の意識はまったく感じなかったが、検察の論告を聞いているときに突然、情動のスイッチが入り、 後悔や反省の念がわき起こる体験をする。最初の殺人は26歳のとき、金融業で成功を収め、ヤクザの組織に在籍していたときに 起こした。用意周到な犯行ですぐに発覚することはなかった。 2件目の殺人はその数年後。その動機について 「私から見て誠実と感じられなかった被害者の言動などが主因になりました」という。2件目の犯行で逮捕され、1件目の犯行が発覚。 その後、償いの日々を送りながら他の受刑囚を観察し、犯罪の動機や今の感情についてインタビューを試みる。 そこでみえてくるのは、フィクションでは描ききれない矛盾に満ちた人間の生々しい姿。 強盗殺人を犯したある男は、被害者に「全くざまあみろだ」と言い放つほど冷酷な人間が、TVのご対面番組には涙を流す。 ヤクザ同士の抗争で殺害した被害者の強さを畏敬し「ヤクザとしての自分の生き方がしっかり決まった」と出所していった男。 (以下、字数の関係でカット 11年08月12日) ・・・・・・・・・ 2686, 人生のハレとケ 2008年08月12日(火) 以前に何度か取り上げたことがあるが、再びハレとケについて考えてみる。人生にはハレのときもあれば、ケのときもある。 ハレは、田舎の祭りや、稲刈りのとき、(晴れ晴れの時)ケはそれ以外の地道な日々の生活である(ケチケチ、倹約の時)。 我々は、この二つのリズムの中で生きている。過去を振り返った時を考えれば、華やかの出来事に目が行くが、 しかし何気ない出来事の方が深い味わいがある。書いたことすらも忘れていた学生時代の日記が半年分、倉庫の奥にあった。 そして、その日々を此処で連日書いた。それを読み返すと何気ない日々が、何と面白いかがわかる。ハレもケも書いてあったことで 面白かった。私のハレを振り返ってみると、それが秘境・異境ツアーであり、事業のの立ち上げの時であった。 写真にも旅行記も残っているし、立ち上げは辛い反面、華やかだった。そして記憶が鮮明に残っている。そのために背景のケの日々が、 その光によってかき消されてしまいがちになる。家内が(というより女性は)、そのケの楽しみ方を知っている。 とにかく日々の平凡を楽しんでいる。これは天性なのだろう。 私も日々の生活を楽しむ術を知っている方だが、女性には敵わない。 生活を楽しむ!ということだろう。 隣に人がいてもいなくとも、ただ目先のことを楽しむ!ということを。 だから、面白くないことを我慢するなど勿体ない、とつくづく教えられる。白(ハレ)と黒(ケ)があるから互いが成り立つのであって 白だけだったら白色の白が理解できない。現在の我々を見渡すと、ハレだけを追いかけている。 しかしケ=普段の平凡な日々を、 如何に充実させることこそ人生の価値。話しは変わるが、ユニクロが狙っているのは、普段着を如何に充実させるか、ハレ(外着)の他 メーカーの商品を引き立たせる裏方に割り切っている。「隠れユニクロ」と言われようとも、普段着を如何に良くし楽しむことに 徹していれば、大多数の人が支持をしてくれる。ケの文化こそ今一度見直す必要な時のような気がする。 『日々、是好日』これこそ、知恵さえ使えばできること。 現実の日本は正にケの時である。 さて、今日の昼飯何にするかな! 鼻歌を歌ってスキップか〜 ・・・・・・・・・・ 2007年08月12日(日) 2322, 政治家の家族とは・・ −3 (o´・ェ・`o)♪。o.+゜。*ぉはょぅ☆♪ *銀座のママと政治家の共通点* 彼女自身気づいているかどうか解らないが、銀座のママという職業にとって、政治家の家庭で育った環境が大きくプラスになっている。 夜の水商売は虚飾の世界である。前に書いたが、政治家も「あるべき理想的政治家」という仮面を被る世界。社会を選挙民という 票田と捉え、人の集まりには可能な限り顔を出し、理想像を飾り票に結びつけていく。 そこには、本人個人の顔は無い。 議員として相応しい人物としての演出された顔である。夜の虚飾も高級?な社交場の演出と提供である。愛?と社交を求めて集まってくる 「社用族ータカリ族」や、「成り上がり族」を相手にホステスと自分との愛のゲーム(仮の自由恋愛の駆け引きの遊び)を夜ごと提供する。 お世辞と奇麗事と作り笑いに一晩の遊びと癒しを求めてくる男達を遊ばせ、笑わせ、満足させてナンボの仕事である。 遊ぶ方も、遊ばせる方も、全て解っていながら気違い水(アルコール)で酔い、歌い、憂さをはらす。 サカリのついた狸と、 それを遊ばせる狐の化かし愛?の世界というと、チョッといいすぎか?政治家も、できもしない公約を掲げ有権者に夢を売る。 (以下、字数の関係でカット 09年08月12日) ・・・・・・・・ 2006年08月12日(土) 1957, 片づけられない女ー2 \(^▽^*)おは! 検索に「片づけられない女」と入れたところ、「片づけられない女」サリ ソルデン著 という本が出てきた。 現代病の典型的な病で、これまでにもTVで多く扱われていた。ダラシない性格の女というわけではなかった。 ーまずは、その本の説明文ーから自分の部屋を片づけることができず、ゴミの中に埋もれるようにして暮らす女性について、 多くのマスコミは半ばおもしろがって取り上げる。本書はその原因が本人のだらしない性格にあるのではなく、 神経系の障害である可能性を唱え、全米でベストセラーとなった。 この神経系の障害は、ADD(注意欠陥障害)と呼ばれる。 幼いころから兆候が現れていても、 見落とされることが多く、大人になるまで本人が気づかないことも少なくないという。 さらに、散らかす、なくす、忘れるといった特有の症状は、社会が女性に期待する女性像とのギャップが大きく、 「片づけられない女」というレッテルを貼ることで、解決されてしまいがちだ。 カウンセラーであり、自らADDである著者は、本書でADD女性が直面する困難に触れながら、ADDを持ちながら 充実した人生を送るための意識改革の必要性を説き、同じ悩みを持つ女性たちにエールを送っている。 ー内容ー (以下、字数の関係でカット 09年08月12日) ・・・・・・・・・ 2005年08月12日(金) 1592, 幇間ー太鼓もち 幼稚園の頃から高校を卒業するまで、実家の店では年越しの宴会をしていた。そのため年末が子供ながら楽しみであった。 芸者を何人かよんだり、近くの太鼓もちを呼んだりしていた。といって長岡あたりではプロの太鼓もちはいない。 近くの酒の好きな漬物屋の親父がセミプロとして呼ばれていた。通称「八木漬物屋のオヤジ」である。彼がいないと場がしらけるほど 存在感があった。映画で観る幇間そのもので、芸者の三味線に合わせて色いろな芸をしていた。それをキッカケに他の人の芸が出てくる。 家族や従業員・取引先など50~60人の宴会が何時も盛り上がっていた。幼稚園の頃から日本酒をコッソリ飲んだ記憶がある。 幇間とは、いわゆる太鼓もちのことである。座敷に呼ばれて、芸者と同じように旦那衆におべっかを使って機嫌をとるのが仕事である。 落語によくでてくるヘラヘラしながら、しかし暖かい雰囲気を醸し出している技を持っている男芸者である。愛嬌があって、 人から何か好かれる魅力がなければならない。そして宴会などを上手く盛り上げる座持ち役である。人間は誰でも褒められ威張りたいもの。 (以下、字数の関係でカット 11年08月12日) ・・・・・・・ 2004年08月12日(木) 1227, 新潟駅前ランチ事情 新潟駅前のランチ事情も変わってきた。 この1〜2年で、横浜軒、松屋、ロイヤルホスト、すき家、などの ナショナル・チェーン店が進出してきた。それまでは、居酒屋やラーメン屋などがランチ定食を出していた。 売上不振のフグ割烹の専門店までも昼飯を出し始めていた。7000円が相場であったが、最近は300〜500円の店が増えてきた。 (以下、字数の関係でカット 12年08月12日) ・・・・・・・・ 2003年08月12日(火) 860, プライド -1 プライドについて考えてみる。 プライドとか自負心を自分で意識する時は、「逆境の時」とか、「あまり自分の意にそわない時期」に多い。 プライドー自己尊厳ーとは程遠いと思われる人ほど、プライドが高いのに驚いた経験をしたのは私だけでないだろう。 新潟では長岡人を「異常な位プライドが高く、閉鎖的で彼らだけで群れたがる」と評している。 常に小さい世界で誰かを意識せざるを得ないからだ。まあ地元の悪口になるから、長岡人の話はやめておく。 プライドが何故マイナスの状態の時とか、マイナスの人の心の状態に現れてくるのか考えてみる。 「自分の子供がよい会社にいるのを誇りに思う」とか「自分のやってきたことに誇りを持っている」とかに表現される。 (以下、字数の関係でカット 11年08月12日) ・・・・・・・ 2002年08月12日(月) 485, 「我思う故に我あり」-1 デカルトの「我思う故に我あり」という言葉はあまりに有名だが、フランスの‘生’の開祖と言われている ビランが「我意欲す故に我あり」と、デカルトを否定して定義した。 「キリストの求めよさらば与えられん」もこのことだ。 どこかの女子大の哲学の教授の「我笑う故に我あり」という本があるが、あまり面白い本ではなかった。 前回家内と「何で私らだけこれだけ感動に多く出会えるのだろ?」 と話し合った。その時の答えは「求めたからさ!」たったこれだけを殆どの人がしてない。 そこで自分で何か面白いものはないか考えてみた。 「我 実践す 故に我あり」「我 行動す 故に我あり」「我 祈る 故に我あり」「我 感動す 故に我あり」 「我 愛する 故に我あり」「我 夢みる 故に我あり」「我 美食する 故に我あり」「我 セックスする 故に我あり」 「我 読書する 故に我あり」「我 前進する 故に我あり」「我 遊ぶ 故に我あり」「我 闘う 故に我あり」 「我 歌う 故に我あり」 幾らでも出てくる。「我ーーーーー故に我あり」 自分にとってのそれは何か幾つか考え明確にしておくとよい。それが自分ともi云える。 ・・・・・・・・ 2001年08月12日(日) [106] 坂之上小学校ー同級会 昨日小学校同級会、場所はかもがわ別館。 25人参加。 かなり盛大であった。二次会は全員参加。 楽しいひと時であった。 3クラス合同の会で100人強のうち4ぶんの1あつまったことになる。 5^6人が亡くなったようだ、それもこの2〜3年で。 そういう時期になってきたと言う事か。5年に一回の会で丁度いい感じだ。 どうしても女性が多いのは、当然の事だろう。 出席してよかった。
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2012年08月11日(土)
* オリンピックも終盤に入った ロンドンオリンピックも終盤になってきた。今回のオリンピックは日本としてはメダル数が多い。外国にならいメダルが 取れそうな種目に集中してきた効果が、ここで出てきたようだ。特に女子選手の活躍が目立っている。国が衰えるとオリンピックや サッカーのワールドカップの成績が良くなるというが。 そういえば以前ほどオリンピックに大騒ぎをしなくなった。不景気で、 浮かれていられないということか。 そろそろ国内外の政治も動き出してきた。9月から年末にかけ、中東のシリア、イランか、 ユーロ圏の経済危機で焦臭い動きがで始めるだろう。 今のところオリンピックへのテロは起きてないが、無事終了して欲しいもの。 テロリストも国を背負っているので躊躇するのが道理だが、それが通らないのが彼ら。 * 地平線の距離は? 地平線という言葉は、何か私たちを惹きつける。「どの位?」というと、20キロか、30キロと思うが、実は4キロ強。 一番身近では海原と空の境目がある。海岸線に100Mの展望台をつくったら、36キロ先とか。タンザニアのセレンゲッテーの 草原で、360度の草原の地平線を見たが、これは感動もの。 私たちが数十キロ先の山や海原が見えるのは段差があるため。 * つれづれに この時節、早朝のポタリング(自転車散歩)の帰り道、子供のラジオ体操の帰り姿と出くわす。その姿を見て、「この子供たちは 60年、70年先も生きているのか!」という思いが出ている。つい最近までは、そんなことは無かったのに。一線を退いたことも あるのだろう。羨ましいとか、気の毒にとかいう気持ちは無いが、これが昔からの年寄の気持ちだったのだろう。最近、隣家が 取り壊され更地になって3ヶ月経つが、幼児二人を連れた父親が、日曜日に空き地の中で楽しそうに佇んでいた。 恐らく近く着工が決まっていて、近い将来、家族で住むのを楽しみにしている姿が良い。人生で一番、幸せな時である。 ・・・・・・・ 3790, この世界株安、リーマンショック激震の津波! 2011年08月11日(木) 先週末からニューヨークで始った世界株安、アメリカ、欧州で数日で一割近く下げたが、昨日は日米の株式市場で、 反発をして終わった。 ただ今週、いや今月一杯がどうなるかだ。 あのリーマンショックから、あと一ヶ月で三年になる。 そろそろ津波の本体が到来時期になる。この世界同時株安が、それである。 この津波は今後数年間は次次と押し寄せることになる。 リーマンショックから三年で、日・米・欧の政府は、その対策の投入などで破綻寸前、国債もデフォルト寸前の事態に陥っている。 その結果として世界同時株安に本格的突入とみてよい。 そして、その次に来る大津波がハイパーインフレである。 これが世界を覆うのは二年後から三年後。 これで世界は大恐慌の真っ只中に入る。 三年前のリーマンショックは、数百年に 一度の歴史的経済的大変動の事象であるのは、今さら言うまでもない。それを何とか世界各国が緊急対策で抑え込んでいたが、 対策を出し切り限界にきてしまったのが、この世界株安。ドルとユーロは瀕死の状態で、その崩壊も世界株安と同時に崩壊の危機。 80円代前半で推移していた円も、ここで76円代に入ってきており、年内に60円代もある。この事態は体力を使い果たした 日本にとって大打撃。そうこう考えると世界恐慌が現実の脅威として姿を現してきた。 日本の地方経済は20年前のバブル崩壊、10年前の9・11テロ、そして3年前の9・15のリーマンショックで致命的打撃をうけた。 そして、この東北大震災である。この直撃をうけた一現象が、当方の倒産だった。 ビジネスホテルは景気の変動に敏感に左右する。 だいたい30年の経験則からみて当方の売り上げ減は、その半年後から他の事業にも現れ出てくる。直線的に右下がりになるのではなく、 波状に上下を繰り返しながら、右下がり続いてくる。 東北大震災は布置(最悪の時に不思議と、最悪の事象が重なって起こる)である。 そして元社会党左派が、この時期に権力を握ってしまったのも布置。 今回の恐慌は、1930年代の恐慌とは規模が遥かに大きくなるのはいうまでもない。結果からすれば、中国が破壊と再生を繰り返し、 世界のエネルギーの中心になっていく。これから起こる大恐慌も、その布置のひとつである。 世界的にみても、前半は東北大震災。後半は、世界的経済混乱(世界的株安、ドル:ユーロ安、穀物などの高騰)、その序曲がこれ! ・・・・・・・ 3425, iPad 対 キンドル ー2 2010年08月11日(水) 『iPad 対 キンドル ー日本を巻き込む電子書籍戦争の舞台裏』 西田宗千佳著 * ソニーは、ハードの強みを狙う 【 以下は、要約である 】 2008年、2009年に、eBookリーダー市場で売れたのはキンドルだけではない。二番手として活況を呈したのはソニーである。 アマゾンが、これまでの電子書店のネット窓口から直接、端末のキンドルに送信するシステムを強みにしたのに対し、 ソニーは、版権を持っている出版社に目をつけ、契約することした。 契約社会のアメリカでは、著者と出版時に契約を交わす。 契約に際しては、「出版だけに限らずオールライトを取りにいくのが基本」だから、デジタル化に関しても、許諾を出すのは 出版会社だけでいい。 出版会社との交渉だけで、一気に大量の書籍のデジタル版について、販売権を確保できる。 この原理は、 出版だけではなく、音楽、映画に関しても同じことがいえる。そのためアメリカでは、音楽・映画配信が、日本より格段に進んでいる。 ソニーの強みは「ハード開発」である。キンドルとの最大の違いは、通信機能を使って、新聞や雑誌を講読できる点である。 更にアマゾンと敵対関係にある大手小売店チェーンと組んで、一番売れそうなコーナーなどで売ることも強みになる。 アマゾンのキンドルは大手流通の店頭では売られてない。 何故ならアマゾンのネットで販売されるからである。 その盲点をソニーがついたのである。 キンドルがブームになり、その商品を見たくなり店頭に行っても、そこにはない。 そこにあるのはブランド力のあるソニーの商品とあれば、それを手に取ることになる。さらに他のコンテンツが利用できるとあれば、 顧客は、それに惹かれるのは当然のこと。アマゾンが「オンライン」で攻め、ソニーは「店舗」で攻める戦略である。 2009年までに累計100万台以上を売ったという。去年までに、キンドルは200〜300万台を売ったと推測されるという。 そこにマックがiPadで割り込んできた。何と一ヶ月で100万台を売ったというから、その凄さには驚かされる!それは次回になるが・・・ ・・・・・・・・ 3050,4時間半熟睡法 2009年08月11日(火) 新聞で最近『4時間半熟睡法』という本の広告を見かける。買うほどでもないので、ネットで書評を読んでみた。 ・一番良いのが6時間半〜7時間半である。 ・就眠の三時間前に食事、一時間前に風呂かシャワーを浴び、熟睡タイムは0〜6時におく。 ・布団に入ったら、とにかく早く寝入るように工夫すること。等々、今さらのことばかりで書いてある大方は実行済みである。 「3時間では短すぎる。が、習慣化すれば4時間半でよい。一番良いのは7時間前後で、床についたら早く寝入る工夫をしなさい」 ということ。私は、「ベッドに7時間横になる。 寝れないときは気にしないでiPodを聴くなど工夫する」が基本。 寝れないことを気にしないように務める。だから寝不足気味ということはない。工夫として耳栓をするのが熟睡の効果となっている。 100円ショップに売っているが、寝入ってから4時間は爆睡できる。 これで8割の音が遮断される。更にゲルマニュウム入りアイマスク。 これは眼の周辺を暖めてくれる。(耳栓の半分位の効果がある) 睡眠は、それぞれの人の体質もあるから自分にあったを工夫するしかない。 昼寝が10分位は出来る環境にある人は、5時間を目安に訓練するのも良いのでは? 熟睡時間は無に近い状態だから、 要はそれ以外の中途半端な睡眠状態の時間帯を如何に工夫するかである。熟睡時間を4時間半とすれば、「残りの二時間をカットしてもよい」 と言うことになる。「習慣化すれば、4時間半の熟睡が深くなる」というのも道理である。睡眠は、食事と同じく人間にとって大きい要素。 だから軍隊や研究機関で研究される重要事項になる。その最低熟睡時間が4時間半というなら、その前提で自分の習慣つくりを すればよいことになる。 組織のキャリア(エリート)が睡眠時間が口を揃えて4〜5時間というのにも一致する。 私は、敢えて現在の7時間を5〜6時間に短縮する気は今のところ無い・・・ 時間が無いとかいうのを言い訳にしている人は、是非チャレンジすべきである。 こういう人に限って8〜9時間寝ている?か、 4時間睡眠で頑張っている?? 小○カ! ・・・・・・・・・ 2685, iPhoneは、超小型パソコンだった! −4 2008年08月11日(月) 朝日新聞の経済欄『補助線』ーiPHONEを読み解くー が面白い! ーまずは、その内容からー *使いやすさ競う時代に* 最近、中国に出張したソフトバンクの孫正義社長は一度もノートパソコンを開かなかったという。 米アップルの携帯電話「iPhone(アイフォーン)」でメールをチェック。孫氏の感想である。 7月11日にソフトバンクモバイルが国内で発売。初日は店頭に長い列ができた。 従来の携帯電謡のようなキー(ボタン)はない。 すべての操作はタッチパネルをさわる。 画面をつまむようにさわると画像が小さくなり、指を広げると拡大する。確かに面白い。 iPhone効果がでたのか、7月の契約増加数はソフトパンクモバイルが15カ月連続でトップに立った。だが、発売からーカ月がたち、 ライバルの通信会社や日本メーカーからはiPhone脅威論はあまり聞かれない。店頭には在庫があり、当初の混乱はなくなった。 (字数の関係でカット2011年8月11日) ・・・・・・・・・ 2007年08月11日(土) 2321, デジカメを使った文字スキャナー o(*'▽'*)/☆゜’おはよう〜♪ 毎日、随想日記を書くのは、かなりのエネルギーを要する。 ネタぎれになるので、どうしても「読書日記」が多くなる。 そこで、面白そうな箇所の紹介や、引用するのが一番手っ取りはやいが、本を書き写すエネルギーが膨大になる。 中途半端なブラインドタッチしかできないこともあるが・・・ 5年ほど前にハンド式のスキャナーを買ったが、読み取るのが難しく何度か使ったが、途中で諦めてしまった。 しかし、このハイテクの時代に、よいスキャナーが必ずあるはず。そこで本気になって検索で調べてみた。 (字数の関係でカット2009年8月11日) ・・・・・・・ 2006年08月11日(金) 1956, 人生と学問 おはよ〜!(*^ワ^*)i (~O~)ふぁ・・ 昨日の日経新聞のスポーツ欄の連続のコラム ーチェンジアップーで、往年の大打者で野球解説者の豊田泰光が「学歴についてのコンプレックスの心情」 について書いていた。大打者だったプライドもあろうに、思い切った心の奥の吐露をしていた。 ー先ずは、その内容を書き写してみるー 引退したとき、まだ35歳だった私は「やり残していることがある」と妻に相談した。「大学に行きたいんだ」。 妻は理解してくれたが、私は幼い子供と実家の母らを面倒をみなくてはならなかった。 無収入の学生生活というわけにはいかず、断念をした。 学の無いことは寂しいことだ。解説者として記事を書き始めたが、 漢字がわからなかった。家で書き取りの練習。おやじになってからの漢字練習はつらい。悔しい思いをしたのは引退後に限らない。 (字数の関係でカット2010年8月11日) ・・・・・・・・ 2005年08月11日(木) 1591, 外務省・ラスプーチンの記憶術 何気なく月刊誌をみていたら、鈴木宗男とともに逮捕され起訴された元外務省の佐藤優の手記が載っていた。内容は、 彼のソ連時代の外交官としての活動の詳細であった。その内容も面白いが、それより彼の記憶術とその引き出し方に興味を覚えた。 非常に深い示唆に富む内容である。 やはり映像と結びつけるのだ。 ー その一部を書き写してみるー 拘置所の減灯は午後9時、起床は午前7時なので、睡眠時間は10時間もある。私はもともと睡眠時間が短く、3~4時間で済む。 この長時間睡眠制が拘置所規則では何よりも苦痛であった。筆記道具は自殺に使われる「凶器」に使われるのであつけられない。 そこで、この時期に私は記憶力の強化を図った。私の記憶術は映像方式で、特定の映像と出来事を結びつける。 誰かに教わったのではなく、モスクワでメモをとれない状況でロシア人から話を聞き、それを大使館で暗号電報にして送る 作業を続けているうちに自ずから身につけた癖だ。ある時この記憶術を陸軍の中野学校出身の某氏に話したことがある。 「佐藤君。それは甲賀の忍者の記憶術じゃ。中野学校では甲賀忍法を応用した記憶術があった。 文字や地図、写真は比較的正確に再現できるが、表の数字は出てこない。」このやり方は、数字にはあまり適さない。 イスラエル政府に記憶力の抜群の友人がいた。「数字をどう記憶に定着させたらよいか」と尋ねたら、 この友人は「僕の場合も基本は映像記憶だ。数字は見ただけでは記憶は難しいが、一回、口に出して唱えると、 映像の中にいる自分がその数字を唱えている映像が音とともに甦ってくるので、試してみるとよい」と言われた。 実践してみたが、確かに効果がある。獄中のノートやメモは検閲されることがあるので、取調べについて重要なことは書けない。 (以下字数の関係でカット2012年8月11日) ・・・・・・・ 2004年08月11日(水) 1226, ダイエー 最終局面へ ダイエーの再建??に向けてのUFJ、みずほ、三井住友銀行が最終調整に入ったと新聞が一斉に報じ始めた。
(以下字数の関係でカット2008年8月11日) ・・・・・・・ 2003年08月11日(月) 859, 「タイムクエスト」 ー読書日記−1 ーベンジャミン・フランクリンの13価値観ー この本は一年位前に読んだ本である。「7つの習慣ー最重要事項」のさらに具体的内容を掘り下げている本である。 『ミッション・ステートメント』に焦点を合わせてある内容である。先日本棚を見ていて、読んだことに気がついた。 中途半端に読みぱっなしということか。この本と『7つの習慣』を二年前に読んでいて、「ミッション・ステートメント」 を創ってなかったのだからいい加減なものだ。何かの「良」がこの「最良」を阻んでいたのだろう。 この本の中のベンジャミン・フランクリンの13価値観が面白い。これを元に著者のハイラム・W・スミス が 自分の憲法を創っているが、それは次回に書く。それと13の価値に対する自己評価もチェックしてみる。 ーそのフランクリンの13価値のところを書き写してみるー ベンジャミン・フランクリンが22歳のときに自問自答した。 「私の人生で大事なことは何だろうか?」この時から、彼は12の価値観と考えを進めていく。 そしてその一つ一つに説明を加えていく。その結果次のようなものが出来上がった。 初めは謙遜がなかったが、あるクエーカー教徒の友人に見せたところ、その友人は最後に謙遜がないことを告げた。 フランクリンに対して彼は親切にも彼が、高慢な人間だと一般に思われていることを教えてくれた。 いくつかの例を彼はいちいち例を挙げて説明してくれ納得した。そして最後に英語でわずかに4語の説明文を加えている。 「イエスおよびソクラテスに見習うべし」(ImitateJesus and Socrates)彼は自分の生活を13週に分けて、 一週ごとに13ある価値観の一つずつ焦点をあてて、自分の行動が価値観にあったものになるよう努力したという。 78歳のとき、彼は回顧録にこう書いている。 全体的に言えば、かねてから願っていた完璧さには到達できず、それよりはるか下にとどまってしまったが、 どの努力をしない私と比べれば、より善良な人物になることができた」「謙遜」については、率直にこう言っている、 「私はこれを体得したと自信を持って言えはしないが、その見かけがそれなりにできたと思う」 ーベンジャミン・フランクリン13価値観 1、節制 飽くほど食うなかれ。酔うまで飲むなかれ。 2、沈黙 自他に益なきことを語るなかれ。駄弁を弄するなかれ。 3、規律 物はすべて所を定めて置くべし。仕事はすべて時を定めてなすべし。 4、決断 なすべきことをなさんと決心すべし。決心したることは必ず実行すべし。 5、節約 自他に益なきことに金銭を費やすなかれ。すなわち、浪費するなかれ。 6、勤勉 時間を浪費するなかれ。つねに何か益あることにしたがうべし。無用の行いはすべて断つべし。 7、誠実 いつわりを用いて人を害するなかれ。心事は無邪気に公正に保つべし。口に出すこともまたしかるべし 8、正義 他人の利益を傷つけ、あるいは与えうべきを与えずして人に損害を及ぼすべからず。 9、中庸 極端を避くべし。たとえ不法を受け、憤りに値すと思うとも、激怒を慎むべし。 10、清潔 身体、衣服、住居に不潔を許すべからず。 11、平静 小事、日常茶飯事、または避けがたき出来事に平静を失うなかれ。 12、純潔 成功はもっぱら健康ないし子孫のためにのみ行い、これにふけりて頭脳を鈍らせ、 身体を弱め、また自他の平安ないし信用を傷つけるがごときことあるべからず。 13、謙譲 イエス及びソクラテスに見習うべし。 (字数の関係でカット2008年8月11日) ・・・・・・・・・ 2002年08月11日(日) 484, 思い出のメロデー お盆近くの土曜日になると毎年恒例の「思い出のメロデー」である。 34回というから、私が20歳代前半からになる。 初めからチャンスがあれば必ず見ていた。幼児の頃から街のど真中で育ったせいか流行歌が常にあった。 その為その歌ごとに思い出が深い。生番組の素晴らしさは、歌手も失敗を許されない真剣さと今という共時性がある。 この生番組の中にそれぞれの人が自分の歴史ー自分史を見ているのだろう。昨日は前半は昭和40年代のポップスが中心であった。 丁度自分の青春時代の歌で感慨が深かった。40年代はポップス全盛時代で、これだけの名曲が出ることはないといわれている。 時代が高度成長期でその雰囲気がその歌をつくりだした。歌を聴きながら、本当によい時代に生きることが出来たと感謝している。 自分の人生を一言だけでいうと、「恵まれていた」である。特に時代背景がよかったことを歌を聴いていてつくづく思った。 今回見ていて、いつもの常連が多く出ていなかった。時代の変化なのだろう。 ・・・・・・・・ 2001年08月11日(土) [105] 写真コーナーが移転 不調だった今までのコーナーを廃止、あたらしいソフトで再出発することになりました。 デジタルは便利の反面、今までの苦労が一瞬で消えうせるという恐さがある。 あれだけデジタルカメラを持ち歩きうつした写真が、全て跡形なく消え去ってしまった。 まだ出始めで総数が少なかったが、一年も経った後だったら大変な事だった。 写真コーナーが壊れてからアクセスが半減してしまった。 二時間散歩、夜半大雨のためか花が綺麗だ。これも土手で誰かが趣味で育てた花だ。 二時間の間にそのような場所が10カ所以上ある。あと一月経つとコスモスのトンネルで花が咲く。
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2012年08月10日(金)
* 金融円滑化法、来春廃止(返済猶予後の倒産が増加) 昨日の朝日新聞の経済欄のトップに、「中小企業延命策、すでに限界」の見出しで、この活用後も経営難が悪化し、 倒産が増えている実情をレポートしていた。 ーまずは、その概要をまとめるとー ≪ 金融危機で資金ぐりが苦しくなった中小企業の借金返済を先延ばしの金融円滑化法が、来年3月末で期限切れになる。 一時的延命も、経営立て直しも出来ず、倒産する企業が増えてきた。大方の会社は、その延命期間も市場環境が悪化して、 借金が増え続けてしている。 地銀の支店長によると、正常な貸出先に戻れるのは全体の15%。計画通りにいかないのが 85%を占める」。金融庁によると、返済猶予をした中小企業は全国で30〜40万社の前途。この通りだと、25〜35万社が この秋以降、かなり厳しい事態になり、倒産が大幅に増える。≫ 私の事業も金融法で延命したが、売上減が止まらず先行きの見通しはゼロもあり見切りざるを得なかった。 恐らく無理をし続けていたら今は地獄。 おまけに、この秋口に欧州発世界的株式の暴落か、中東戦争が起きそうな状況で、 多くの倒産が続出することになる可能性が強い。これに再来年の消費税の増税を考えると経済パニックは避けられない。 この9月以降は日本も世界も非常に厳しい緊迫した状態になる。何らかの延命策も取られても、このままでは済まない。 実際に私自身が、その渦中にあったから、近未来が手に取るように分かる。 平成を装っているのか、この静けさは何だろう。 大手家電メーカー各社が軒並みに大赤字でリストラが行われている。東北大震災から一般の消費動向が一変、ショッピングに 楽しみを見出さなくなってきているという。震災の経済に与える影響は、これからという上に、リーマンショックと欧州発の 金融危機とくれば、誰もが財布を締めて当然。 どうも話はマイナスばかりだが、ことが動乱?なら仕方がない。 ・・・・・・・ 3789, 天才だもの 2011年08月10日(水) { 「天才だもの。」ーわたしたちは異常な存在をどう見てきたかー 春日武彦著 } 天才に関する本に何故我われは引き付けられるのだろう? それぞれの専門の切り口が違っているところが面白い。 天才と気違いは紙一重というが、気違いの部分が重なっているだけ。 天才と気違いは凡人の世界から遥か彼方から違った視線で、 逆照射している部分は同じである。何処が違うかというと、目指した対象の創造されたものが卓越した結果を出しているかどうか。 気違い?は、そこまで完成させる執念がない。そのへんが凡人と重なっている。 凡人も一度は狂い逆照射すべきだ!そうでないと? ーまずは、序文の中からー 【 P/16 ー天才について語る時、多くは凡庸な語り口になってしまう。ここで語られるのは、「天才」そのものよりも、 私たちがどのような人物を「天才」と見なしてきたかについて語られている、といってよい。・・・ さて天才の定義である。 あたかも天から授かったかのような傑出した才能に恵まれた「選ぼれし人」といったところだが、世間のイメージとしては、天才には いくつかの条件が求められる。早熟といった点はどうであろうか。天才は彗星のごとく登場する、しかも少年や青年のうちに・・ 。 またランボーが不細工で貧相な中年男なら、あれほどの評価は得られなかったのではないか。画家のビュッフェも画壇への登場は 若干十九歳であり、ローティーンにして大学の数学科を総代で卒業したとか、天才以前に紳童である天才伝説には必要なのかもしれない。 ・・・天才は日常生活においては無能ないし常識外れであることも、世間は期待する。グレン・グールドは夏でも手袋をしていたとか、 三島由紀夫は寿司屋でトロしか頼まなかったとか、ディケンズは青い紙に青インクで原稿を書いたとか、ペン・ジョンソンは立った ままの姿で埋葬してほしいと言い残したとか、その類の逸話を求められる。大いなる才能へ脳が機能の大部分を捧げてしまったため、 ごく当たり前のことが余力を割り当てられなくなってしまった、さもなければ形而下の出来事など関心の外へ追いやられてしまっている のだと理解することによって、やっと我々は彼らを怪物と見なさずに済ませられるわけである。 そして天才は幸福であってはならない。 少なくとも世間一般で言うところの幸福に甘んじては困る。いい歳をして電車の切符集めが趣味とか、五〇を過ぎても童貞で平気とか、 金銭にまったく無頓着とか、食事のメニューが一年三六五日同じとか、そういった非現実的なところがないと困る。 あまりにも卑俗な欲望を刹き出しにされると、我ら凡人たちのライバルとなりかねない。それは承服しかねるということになる。 妄想の持ち主、つまり精神を病んだ人たちは、ときに自らを天才と称す。つまり誇大妄想である。 統合失調症では、当初は被害妄想に 脳まされているうちに、狙われる自分ー>自分は狙われる価値ある存在ー>自分は天才だから狙われる、という具合に変化を遂げるに至る。】 ▼ 軽いタッチの天才に関する随想といった内容である。別に、御堅い天才論は別の本で読んで、これは我われが日常感じている レベルで読者と共に楽しめる内容である。この情報化の時代に、あまりに多くの天才の才能が花開いてしまうため、逆に天才が 見逃されるのではないだろうか。時どきブログで、「私は現在、精神を病んで、一歩学術の世界から身を引いて・・云々」のプロフィール に正直に書いてあるのに出会うことがある。むしろ、その方が、我われを引き付ける。特に、哲学とか論理学で行き詰まり精神に異常を きたし格闘をしている人の文章こそ真実にみちている。以前なら絶対に目にすることのできなかった人たちの血と汗が、直接伝わってくる。 ・・・・・・・ 3424, iPad 対 キンドル ー1 2010年08月10日(火) 『iPad 対 キンドルー日本を巻き込む電子書籍戦争の舞台裏』 西田宗千佳著 *「ウィスパーネット」が、kindleの秘密 アマゾンが発売した電子ペーパー本といったようなキンドル。「ウィスパーネット」といわれる通信機能が特徴。 ユーザーは通信をなにも意識しなくてもよい、何故なら通信料は書籍の代金にふくまれているので、別に支払う必要がない。 現在ではアメリカ?だけで41万冊の種類が用意されており、電子書籍の価格はハードカバーが25〜30ドルくらいに対して9・99ドル。 新刊も同時に発売されるものが多く、その場合、紙の6割ぐらいで売られている。この威力は使った人にしか分からないという。 まだ日本では馴染みが少ないが、要は「アマゾンのネットで本を注文すると紙の本の替わりに電子ペーパーがキンドルに直接、着信する」 のが特徴。 決済は、これまでのようにネット上でおこなわれる。iPod に似ているが、違うところは、直接端末に着信するところ。 一番のポイントは端末から直接、発注も可能であること。 【ネットに比べ、見にくいというが】 これまでのアマゾンの顧客を、そのまま取り込めるのがミソ。 更に新聞や雑誌も普及始めているという。アマゾンは、kindleそのもので 儲けることでなく、あくまで電子ブックを売ることが目的。ライバルは現在のところ、ソニーとアップル。 アメリカ国内では、 キンドル200万台に対してソニーは100万台を売っている。 ソニーは、日本よりも出版が自由な米国で先行。 一方、iPadは、電子書籍端末専用ではないノートPCと携帯の中間の、他の機能を多くそろえた汎用機を目指しており、 リビングでつかわれるシーンを想定している。またiPhonむけの専用OSをつかえることで、その顧客の取り込みが有利。 それにしても、端末にパソコンで注文した書籍が、直接、振り込まれるのには驚いた。 iPodは、一度音楽をパソコンに振り込むのに対し、端末の先の通信代を考えないで済む「ウィスパーネット」には、驚いてしまった。 音楽も、近い将来、機能としてつく可能性すらある。 他にも、それぞれの特徴を生かした端末が多く出てきている。 次回は、ソニーの戦略 ・・・・・・・ 3049,ハリネズミのジレンマ 2009年08月10日(月) 哲学者、ショーペンハウエルの逸話に「ハリネズミのジレンマ」がある。 (哲学書では度々取りあげられる逸話である・・・) 少し取りあげたような、無いような? 《 針のような鋭い毛を全身に生やしたハリネズミが二匹,巣穴の底で震えている。外は吹雪で巣穴の中は寒い。 そこでハリネズミは,寄り添い暖めあおうとするが、互いの針で相手を傷つけあうことになる。痛さで体を離すが 今度は寒くてたまらない。一晩中くっついたり離れたりを繰り返した結果、そこまで痛くも無く相手のぬくもりを 感じられるような距離を見つけて夜の寒さをしのいだ。》 ▼ 若い時に、ある距離を越えて友人が近づいてくると、全身から針が出て相手を拒否する自分に驚いたことがある。 それでいて、逆に孤独感から知らない間に相手に近づき過ぎて相手の針を感じたこともある。8人きょうだいの末っ子で、 家が商売をしていたこともあり、それぞれの独立性は幼稚園時代ら訓練されていた。私の家庭では付かず離れず、 自分のプライバシーは披瀝しないことが、まず要求された。 だからハリネズミの逸話が痛いというほど分かる。 大人数の家族では、むしろハリネズミであることが、自然態なのである。 大家族は、それだけで空気が暖かくなっている。 だから人混みの中の孤独には慣れている。他者と関わる時に(友人関係、親子、夫婦、会社などの人間関係)自我が露出してしまい、 一人よがりになりがちになる。 成田離婚は、ハリネズミのジレンマの典型事由である。 また孤独の大切さを実感しながら、それぞれが寄り添う都会の群衆の群れの生き方がハリネズミのジレンマになる。 ハリネズミ同士ならよいが、一方がネズミなら、ただ傷をつけるだけになる。 独居老人のジレンマでもある。 ・・・・・・・・・・ 2684, 己の地平の地を耕す 2008年08月10日(日) 知人が二人、最近になって(10年前から)素人菜園に凝っている。たまたま事務所で二人が出会ったとき、嬉々として話が弾んだ。 何か奥深く面白いらしいが、私には向いていないようだ。 下地に10年はかかるらしい。『心身にとって、これほど良いことは無い』と 二人は口をそろえて言う。それを聞いていて畑での一連作業が何か自分の心を耕しているに感じた。人生は畑を耕すのに似ている。 長い人生の道のりも計画通りに楽しみ生きるより、苦しみ努力をして歩むことが多いもの。スキップだけでは面白く可笑しくもない。 たどたどしく泥まみれが人生である。 イソップの寓話に、面白いのがある。 《 葡萄畑を持っている家族がありました。あるとき父が病に倒れた。病床の中で父はニ人の息子に言いました。 「実はおまえたちに財産を遺してある。金貨を壷の中に入れて、葡萄畑に埋めておいたのだ。 私が死んだら、その壷を掘り起こして二人で分けなさい」。父が死んだ後、二人の息子は葡萄畑を一坐懸命に掘り起こした。 しかし壷はとうとう出てこなかった。 二人は落胆しました。ところがその翌年、何と葡萄がこれまでになく見事に実った。 畑の土を掘り起こしたことで葡萄がたくさん採れるようになり、こ人の息子はとても裕福になりました。》 父の遺言は、息子に努力を教えるためのウソ。自分に与えられた人生の畑を懸命に耕してみること。そこには必ず金貨以上の幸福があるはず。 イソップの、こういう寓話を幾つか遺しているが、下手な人生論より良い。(そういえば本屋で、そんな題名の本があった。 今度借りて読んでみようか)「ところで御前さん、人生の畑を耕したの?それも真剣に?」と問われれば「う〜ん、耕してきました!これでも」 そして、「上を見れば限がない、横を見れば情けない、下を見れば底がない!」と言うところか。 このように毎日、随想日記を書き続けるのも、ある意味で、畑を耕しているようなもの。 テーマ一つずつが、畑の一部分を掘り返しているようである。しかしね〜、それで、この様だから・・・・ 畑の土は、雑草や動物が腐って積み重なって出来ている。 「人生を耕せなど、何をぬかす、御前さん! 土が既に決まっているのだろうが。」という心の奥の声が聞こえてくる。 「いや、違う。その土を見分けて肥料を自分で探して、時間をかけて自分の野菜を作るのが耕すことだろうが・・」 ということがを、畑から学ぶのだろう。土といえば、アイスランドに行った時に、驚いたことがある。国土に土が殆ど無いのである。 岩石の上に辛うじて藻が覆ってあるだけ。植物が元々生えないので土が出来ないのである。藻は菌で出来ているので土は必要としない。 しかし、それは堆積はしない。その時になって、成るほど我々は生物の屍の累積の上に生かされていることを実感した。 人生を耕す前に、畑を耕して、植物を育てると、その意味が実感できるのだろう。 ・・・・・・・・・・ 2007年08月10日(金) 2320, 「朝青龍」問題について −2 ・д・)ノ〔● ォ'`ョゥ○〕 これほど、単純だが困った問題はないだろう! 朝青龍は大相撲の世界で5年間も君臨してきた。 一人横綱を張っていたこともあり、その実績から少々の我侭も見逃されてきた。 ところが、情報化には彼も勝てなかった。仮病疑惑のサッカーの映像が放送されたからには言い逃れができない。 (字数の関係でカット11年08月10日) ・・・・・・・・・ 2006年08月10日(木) 1955, 片づけられない女−1 \(^▽^*)おはよう 昨日、昼休み何げなくTVをつけると、「TV史上一番の片づけられない女」というタイトルが出てきた。 ある30代の女性の部屋をレポートするもの。チャンネルを切り替えようとしたが、どれほど酷いものか見ることにした。 1DKのドアを開けて一歩踏み込んで見て、驚いたなんでものじゃない。部屋が足の踏み場の無いゴミ箱である。 玄関のすぐ右に台所があるが、流台の高さまでゴミが積みあがっている。かろうじて、冷蔵庫を掻き分けるようにして開けると、 4年前の食品が、そのままある。冷蔵庫の上の生卵は、一年前のもの。奥の8畳位の洋間に行く通路はゴミで、うず高く埋まっていて、 1mごとに足の踏み場の空間があり、そこをジャンプしながら部屋まで行く。部屋は中央に布団があり、布団の半分はゴミで隠れている。 (字数の関係でカット09年08月10日) ・・・・・・・・ 2005年08月10日(水) 1590, 自民郵政解散の攻防−4 昨日の全ての大新聞の一面で、各社政治部長が郵政解散の論評をしていた。なるほど、それぞれ一理ある。思ったより小泉首相に 厳しい内容が多かった。賛成反対の両者を配慮しなければならないためか、思い切って書けなかったこともあったようだ。 ((字数の関係でカット10年08月10日) ・・・・・・・・・・ 2004年08月10日(火) 1225, つれづれなるままに ・先日、インターネットの[アマゾン]で中古本で買おうとした。 フッと思いついて、近くの図書館のHPを検索にかけたところ、 その本が有った。 図書館で、買った本を、時々見かけることが何度かあった。その時「インターネットで調べることが可能なはずだが」 と思ったのだろう。 お金は少し注意すれば使わないで済む。情報化は、無駄を省いてくれる一例である。不景気になるはずだ。 ・宿泊で、駅から一番離れて不振であった第三シングル・インが最近よくなってきた。 インターネットで見て、泊まるお客が増えたからである。地理的に少し離れた第三を割り引いているからだ。 ーインターネット上では、各ホテルは割引価格を出しているのを、お客はそれを知っている。 (字数の関係でカット12年08月10日) ・・・・・・・・ 2003年08月10日(日) 858, 縦揺れ、横揺れ、斜め揺れ 一昨夜、飲んだ相手は今年になって一生に一回有るか無いかの大きい事件が二件たて続きに起きた。 そういうものだ。 あと一回は覚悟しておいた方がよいのではと忠告をした。ホテルの立ち上げを創めると、 必ずといってよいほど普段なら起きない事件が次々に身辺におきる。本当に不思議なものだが、波動が高くなっている為だろう。 「縦揺れ、横揺れ、斜め揺れ」となずけて、その波乗りを楽しむ位でないと神経をやらる。創めたからには突き抜けなくてはならない。 その三つが同時にくることがあるが、これは縦、それは横、あれは斜めと冷静にみれば、こういうものだと腹が据わる。 縦揺れは仕事の中の揺れ、横揺れはプライベートの何か、斜め揺れはそれ以外の中でおきる。こんなもんだろうと、直視しながら 一つずつこなしていくしかない。それも一つ一つが極限の出来事である。そしてピークの出来事が重ねてやってくる。 それは経験を重ねると見極めがつく。それは「もう駄目だ!」という限界につきあたった時である。同時に「ああ今回はこの程度か!」 と心の奥の声がする。遵って仕事をいかなる場合でも楽しもうという意志がなければならない。 これは仕事だけでなく人生一般にもいえる事である。一昨夜は以上の話をした。それまでは順調な人生を歩いてきた人だ。 神様は必ず平等に試練を与えるものだと最後は説教調になってしまった。 ・・・・・・・・ 2002年08月10日(土) 483, 経営セミナーにて −2 30~40代にかけて県外のセミナーに100回近くいった。それでこのレベルだから、大して有効に働かなかったが。 しかし人生訓にしろ、いろいろ勉強になった。2000万?はつかった。 しかし土地を二回転がし、すぐ元はとった。そういう事だけはクールだ。 (字数の関係でカット12年08月10日) ・・・・・・・・・ 2001年08月10日(金) [104] 自己不認識 いま感じているのは自分自身への目のミスキャストである。同年の人と会うとお前も年をとったなー、と言ってくる。 ところがその二倍の言葉を返したいほど、その相手も老けている。 その人の自己認識が全くないことが解るから、そのことを言えない。ブラックジョークである。 こういう人に(自己客観かのできない人)「貴方は女性にもてるでしょう」と言うと、得意満面で女性遍歴を話し出す。 女性にもてるとは、解りやすい事例でいうと、女性環境に恵まれないからスナックに行って、 ママかホステスに必死に尽くした結果、チヤホヤされる。それを表面だけ見ていた人が誤解すること? 知人に何人かその結果(離婚とか自殺)、家庭内が目茶目茶最悪の事態に陥って、今もそのプロセスを踏んでいる男がいる。 男の何人に一人は、ある時期こういう事態を経験しているのだろうが。 ある往年の大女優が随想で「45歳を境に急な坂を転げ落ちていくように、美容も肉体もおちていく」 と書いていた。女性の場合自覚するが?男の場合,気がつかないから恐い。まあ、どうでもよい話だが。
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2012年08月09日(木)
人間、それぞれの能力があるが、それには当然ながら限界がある。その一つに自分で勝手に決め込んでしまう心理的限界がある。 30歳・40歳までは、その限界を壊し続け、アップスケールする成長期である。自己能力の限界の設定と、その達成。 そして破壊になり、限界の挑戦の繰り返しになる。機会を見出し、挑戦、変身していく、これが成長である。これは仕事だけでなく、 趣味の分野でも同じ。40歳代に入ってからは、秘境・異郷旅行を趣味にし、カナダのロッキーから、アフリカのケニア、タンザニア、 南アフリカ、北アフリカ・中東、そして南米、シルクロードへと、行き先を広げていった。 未知の世界に初めて行くときは、 まず心理的限界を乗り越えなければならない。直前に大きな心の揺れが出て、計画断念まで考える。しかし一歩、家から出れば、 あとは成り行きに任せる。限界は誰にもある、要は、その先に踏み出すかどうか。 口では軽く言えるが、いざ実行となると、 そう甘くはない。挫折は、その限界に跳ね返された時に生じるが、自分の再構築する機会になる。 諦念とは、限界を知り、そのまま 素直に受け入れることをいうが、実に辛い。 世界的カーレーサーの言葉に、「限界は誰もいける、問題は、それから先に、 どれだけいけるかである」という名言がある。世界的レーサーだからいえる言葉。野球の野村元監督の講演で印象に残った言葉がある。 《 自分は二流の能力しかなかった。その事実を認め、戦い勝つためには「考えること」しかない。一流選手の中で勝ち残るために、 その間にプラスの要素を加える工夫しかない。それが考えること、データー野球である・・・云々》 凡人は、一に準備、二に準備、 それを常に楽しみ工夫してやるしかない。あまりに、考えない人が多い。そう思ってきたが、一番考えないのは、この私。 これは全ての人に当てはまるが。 実際に、あと10年間は考える時間が欲しいが・・。 ところで、モバイル携帯端末が普及して ネットで世界が繋がってしまった現在、能力の限界も今までとは違ってきている。脳がネットで世界中に繋がったのである。 面白く、かつ恐ろしいことで、ここに時代の大きな断層が出来てきた。20年、30年前だったら、数百億もするコンピューターが、 ただ同然に世界中の人々が持てるようになり、現実世界をネット世界が覆いだしたのである。これが断層となって既存のシステムを 根底から破壊はじめてきている。 ところで人間を不幸にしている要素に、その限界を認知できないことがある。そこに不幸の種が 出来てくる。として、限界を遥かに超えたところで、砂利の大きさと形の差異でしかない。面白可笑しく楽しむしかないか、最後は! ・・・・・・・ 3788, 閑話小題 2011年08月09日(火) * 水戸黄門が放送終了という 水戸黄門が、今年の12月で放送を終えるという。放映開始が私が社会に出た年1969年で、42年になる。 1979年には視聴率は43.7パーセントというから、信じられない人気だった。それも現在10パーセント前後まで落ちていた。 勧善懲悪がハッキリしていて、印籠を出す時間が分単位で分かるという。 初代が東野英治郎で現在の黄門様は5代目。 最後は黄門様のお上の力を披瀝することで、各藩の下々や家老などの悪事を暴く筋書き、40年以上も経てば飽きられて当然。 当初の頃、年に数度みた記憶があるが、最近は全くみてなかった。 由美かおるの入浴シーンも売りだっが、数年前に彼女も 還暦を向かえとこともあり、なくなってしまった。 当初のころ、芥川龍之介の逆視線の「桃太郎」の物語と、水戸黄門の 勧善懲悪が重なりを感じてつまらなくなった。 桃太郎が勝手に鬼が島に鬼を征伐に行って、宝物を奪略してきたという筋書き。 立場変われば善悪は逆転するという捻れた物語。鬼にとって桃太郎こそ、勝手な侵略者。 そういえば姉の一人が大好きで、脳の構造までが、印籠を出すタイミングを常に計っているようだったが・・・ 地方都市の世界は家紋か〜 城下町小唄は今も続いている。 全ての世界も同じようなもの、 そこしか知らないものにとっては * 無言の圧力 「毎日のように、貴方の随想日記を読んでいると、無言の圧力を感じる」と、ある人にいわれた。成る程、そうかもしれない。 ここでは思いの一部分も書ききれてないが・・ それを毎日続けることで、書いた言葉の背後にある無言のエネルギーを感じるのか。 理路整然と筋道を書き上げることは、それなりにエネルギーを要する。とはいえ、書き、修正を加え完成させると、それを第三者として、 それを見つめている自分がいる。それも毎日10年分の同月同日の文章もコピーし読み返していると奇妙な感覚になる。同化しているような。 一文章 2時間×10年=20時間の集中したエネルギーもある。(テーマ探しは別) 書いた瞬間に全て忘れているためか、 書いた本人が一番、エネルギーの痕跡を感じる。書いてしまった文章は過去のエネルギーであり、時間がたってしまい再度読んでいる時、 現在の自分のエネルギーと混同する。それが読み続けることで「無言の圧力」のように感じるのか。 それを感じさせるだけ稚拙ということ。 ・・・・・・ 3423, 5つの「あ」 2010年08月09日(月) 中国奥地で国際援助の植林活動をしている日本人が、「5つの‘あ’」で現地で頑張っているといっていた。 「 あせらず、あわてず、あきらめず、あてにせず、あなどらず 」である。 「中国人の反感の視線の中で、こういう地味の国際活動は、この5つの精神でないと持続できない」という言葉が重い。 人生訓でもある。 そこで、≪5つの「あ」≫と検索で調べてみると、他にもあった。 * 『あせらず』 不安、焦燥があってもゆとりを持つことが必要です。 『あわてず』 現時点で急な展開を求めるべきでなく、少し時間的猶予を… 『あきらめず』まだ自分には使っていないものがあるから、それを使えば安全・自由です。 『あるがまま』現実をありのままに見つめて、目の前のことを、感謝・喜びとして感じると、あるがままに行動できますよ! 『ありがとう』今日、一日の無事に感謝し喜びをこめて“ありがとう”と表現しよう * あんしん. あんぜん. あたたかさ. あいじょう. あかるさ * 挨拶、ありがとう、謝る、頭を下げる、新しいこと などがあった。 しかし、中国での植林事業では「「あせらず、あわてず、あきらめず、あてにせず、あなどらず 」が良い。 自然体の具体的な心の持ち方ということ。逆に「焦り、慌て、直ぐに諦め、誰か・何かを当てにして、あなどる」が、日々の自分たち? それにしても、中国でボランティアで長年、植林にたずさわっている姿に頭が下がる。 ・・・・・・・・ 3048,閑話小題 2009年08月09日(日) * 印税は定価の一割 作家の一冊あたりの手取りは大まかにいうと、定価の一割という。 といって、一万冊売れると思って出版はしたが、 半分も売れなければ、その一割が入るかどうかだ。本を出版して一万冊売れるかどうかが目安(現在は7〜8000冊ともいうが) 1500円の本が、まあ売れたとして150万円でしかない。だから作家にしても、ノンフィクションのライターが 物書きで生活するには並大抵のことではない。 現在は、出版不況で総合月刊誌の休刊が相次いでいる。 * モノを知らないから困るのではない 「我われは、モノを知らないから困るのではない。知っていると勝手に思い込んでいるから困るのである。」という名言がある。 その上に、知っていることが、実は間違っていることもある。 「人は、それぞれが知っている範囲の中でしか、理解しえない」ということも最近つくづくと思うこと。 結局は何にも知らないも同然だったということだ。特に他人に対して、それがいえるのでは。 知っていたつもりの人が、全く知らない一面というより、多面を持っているのを知り度肝を抜かれることがある。 我われがインドのカースト制度の差別社会を見るとき、それは実は気づかないだけで、日本でも歴然としてあること。 自由、平等、そして思いやりのある博愛、等々は全部ウソ。 それを知っているつもりで、実態は不自由で、 身分社会が厳然としてあり、大方が金で左右される取引社会の真っ只中にある事実が見えてないだけ??。 * 昨夜は高校の同級会 昨夜は、高校の同級会。 幹事だったので気を使ったが例年通り盛況に終わった。出席が15名。 ドタキャンが一人と、 連絡なしの欠席が一人。 二次会は6人出席。 ドタキャンもあろうと会費を千円を上乗せをしていたので何とか凌いだが、 問題の二人は、これまで一度も出席をしたことのない男。 亡くなった山田君の奥さんに三回忌という名目で出席して貰ったが、 故人も喜んでいただろう。 それより故人の奥さんが、その場に馴染んでいたので安心をした。 驚いたのは、奥さんも含めて無職が一人だけのことだった。 自営業が半分以上ということもある ・・・・・・・・・ 2683, iPhoneは、超小型パソコンだった! −3 2008年08月09日(土) −Phnoe の経過報告 これが気に入っているのは携帯電話に馴染めなかったことが大きい。ボタン入力が苦手なこともあり、気楽に弄りまわせないでいた。 それより気楽に電話をかけたりメールを出す相手がいないこともある。家内が昨年の春に初めて自分の携帯電話を持ったとき、 嬉々として使い出した。妹とメールの遣り取りを遊び感覚でしはじめた。土日の暇なときに、「いま、暇。何してる?」 とかをメールで入れたり、私がTvを見ている前で、ワンセグで他のTvを見たりしている。 (字数制限のためカット 2010年8月9日) ・・・・・・・ 2007年08月09日(木) 2319, 5次元世界が存在する? ヽ(★>з<)。o○[ォハヨ]○o。(>ε<☆)ノ 何かSF的な話か、新興宗教の本に出てくる異次元の話が、たまたま見ていたNHK・TVで放送していた。 「エッ、何?」と注目してみた。あと数年もしないうちに「『5次元の世界』が発見される可能性がある」という。 来日中の理論物理学者のリサ・ランドールがNHKのアナウンサーと、朝から異次元を語っていれば、私でなくても誰でも驚くであろう。 彼女は、いま全米が注目する物理学会のニューヒロインで、5次元世界の提唱者。加速器を使った粒子の衝突の実験で、消えてなくなる 素粒子が存在することから、その理由を探しているうちに5番目の次元に移動するのでは?と、思い至ったという。 5次元の世界は私達が触ったり、感じたりはできないが、物理的には必ず存在するという。3次元空間の中にスライスされた 2次元の平面(膜)が無数にあって、その膜のひとつに私達や銀河が張り付いているようなイメージという。 これは「超弦理論」の 「M理論」に非常に似ている。 M理論とは「プレーンとプレーンの間は唯一重力が伝播されていて、あるときプレーンとプレーンが 何かの要因で接触すると莫大なエネルギーが解放されてビッグバンが起こり、新たな宇宙が発生するメカニズムを理論化したもの」 M理論は11次元の超重力理論であり、ランドール博士の5次元宇宙と何処が違うか私の知識内では理解できない・・ ランドールは子供向けに数式を使わずに「ワープトパッセージ」という本を書いていて、全米の科学分野でベストセラーに なっているという。20年位前に、NHKがシリーズで壮大な「宇宙」についての番組を放送していた。 その中で、「ブラック・ホールが周囲の星など何もかも吸い込んでしまうが、その宇宙の歪みからできた穴の行き先は、 この宇宙とは違う宇宙に通じている。」という説を紹介していたが、それにも通じるのかも知れない。 その時、その別宇宙への目に見えない管が我々周辺にも満ちている、と。それにしても、数年以内に5次元世界の存在が証明される? 現実的には信じがたいことである。発見されれば、科学にとって、いや人類にとって衝撃的ニュースになる! 別宇宙の空間が我々の周辺に満ちている?そんなバカな! (≧∇≦)ノ~~~マタネー ・・・・・・・・・ 2006年08月09日(水) 1954, ある首斬り役人の日記 −1 「ある首切り役人の日記」 フランツ・シュミット/ 訳・藤代幸一 白水社 −そろそろ、お盆! 少し背筋が凍りつく内容もよいだろう!ー 何気なく図書館で借りてきた本。少し気味悪いが、人間の極限における生々しい姿が書かれている・・・ 初めは事務的に時系列の処刑の記述が、時間が経つにつれて具体的にリアルになっていくのがわかる。 しかし汚職とか、 政治闘争の結果の死刑は見当たらない。16世紀に実在した、死刑執行人の日記で、自分の仕事内容を記録したもの。 16世紀末から17世紀初頭にかけて、ドイツで刑の執行を行った親の代からの首切り役人フランツ親方の日記で、剣と綱で 生涯に361人の処刑をした。他にも鞭打ち・指切りなど死刑以外に彼の手にかかった処刑者は345名である。 (字数の関係でカット2011年08月09日) ・・・・・・・・・ 2005年08月09日(火) 1589,自民郵政解散の攻防−3
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2012年08月08日(水)
【 ニーチェの警鐘 日本を蝕む「B層」の害毒 】ー適菜収著 より 哲学者の適菜収のー日本を蝕む「B層」の害毒ー論が面白い。B層といえば(何度か取り上げたが)、小泉元総理が 「ワンフレーズ」で、「マスコミに扇動されやすい大衆に名付けた層」をいう。2005年の郵政選挙の際に選挙戦略として 国民をIQと構造改革への姿勢からA層、B層、C層、D層に分類し、B層を選挙のターゲットとしたことに由来する。 これで当時の自民党に圧倒的大勝利を収めた。この層について、著者は以下のように分析している。 ≪ 「B層」とは何かというと、 ◎〈マスコミ報道に流されやすい『比較的』IQ(知能指数)が低い人たち〉とあり、〈B層は絶対に反省することがありません。 無制限に拡大した権利意識と被害者意識がB層の行動を規定します。郵政選挙で騙され憤慨し、再び民主党のマニフェスト詐欺に 騙され失望し、将来にわたり「騙された!」と喚き続ける存在がB層です。〉とある。 ◎〈今の世の中が肌に合わない人。今の世の中のどこかがおかしいと感じている人。今の世の中を深く軽蔑している人。 そういう人はニーチェの言葉に耳を傾けてみるべきでしょう〉という ◎〈B層の問題とは、すなわちキリスト教の問題なのです。〉 〈B層が無知を自慢し、偉大な人物が死んでも「アタシ知らなーい」 「誰それ?」などとわざわざネットに書き込むのは、彼らがキリスト教の影響下にあるから。〉 ◎〈まともな哲学者・思想家は、例外なく民主主義を否定しています。人類の知性は、民主主義と戦い続けてきたのです。 民主主義は、十八世紀に発生したキリスト教カルトです。〉 (わが国にも「民主主義には寛容の精神がある」「民主主義は少数意見を尊重する」などと言う人がいます。 バカなんでしょうか? 民主主義に一番たりないのは寛容の精神と少数意見の尊重です。) ≫ ▼ 問題は、B層が悪いのではなく、彼らは、どの様にも操作されやすいということである。これまで、マスコミは、大衆として、 彼らを捉えて、その操作を駆使しトップダウンを役割にしてきた。 ところが、そのB層に超小型パソコン=モバイル携帯が 普及して、これが情報のコンテンツになってしまった。B層には、自分がB層の自覚がないため、そのレベルの判断が 体勢を占めてしまう。これが「B層の害悪」になるのである。B層はA層にコントロールされてこそ、社会は保たれるのに、 B層が主導権をとったら、そこには混乱があるだけである。現在の民主党の混乱は、これである。A層を自認してきた自民党も、 あのざまで、C層化している自覚が全くない。この超小型パソコンが、今後もたらす影響はモンスターのように、世界を 混乱に陥れることになる。タブレットPCも含めた端末情報機器が、プラスにもマイナスにも社会を激変させている。 ・・・・・・・ 3787, 閑話小題 2011年08月08日(月) * アメリカ国債の格下げ ここでアメリカ国債が、アメリカ議会での共和・民主党の対立で危うくデフォルト(債務不履行)になりかけた。 このため70年維持してきた格付けがトリプルAからダブルAに下げと発表になった。これはアメリカ国家の格付けと同じである。 3年前のリーマンショックは世界経済システムの崩壊だったが、それに対してアメリカ政府は、やれることは全てやり尽した。 それが限界にきた結果がデフォルトの危機である。 このことは、円高、ドル安は当分の間は続くことを意味する。その結果として 世界にとって、とりわけ日本にとって最悪の事態になる。 まず世界同時株安、そして世界恐慌の具体的現象化とみてよい。 それが今年の後半から来年に始ることはリーマンショック直後からいわれていた。欧州経済も右倣いで崩壊寸前の事態で、 その歪が何時爆発してもおかしくない異常事態。 まず今週から来週にかけて世界の株価がどうなるか見ものである。 * 原発事故、これから始る影響 原発事故による放射能汚染の実態が一つずつ表面化している。まず、この秋の新米がどうなるのか。最悪の場合、東北・関東甲信越の 新米が全滅ということもありえる。その対策として消費者は既に古米の購入に走っている。 特に子供がいる世帯は他人事ではない。 汚染が、どの程度で収まるのか今のところ誰も分からない。 それは時間と共に現われ出てくる。悲観楽観論は、この事態では失せてしまう。 放射能は水の循環の中で動植物の生態の循環の中に静かに入り込み我々に影響してくる。昨日、チェルノブイリの事故の、その後の 現地民の汚染による影響のTV番組の再放送を見た。 あそこまで酷くはないとしても、日本人は放射能に敏感である。それが水と農作物、 畜産物から体内汚染とくれば、壊滅的打撃になる。 本州崩壊と原発事故直後に風評が聞こえてきたが、それが現れ出てきているのか。 * 私は特別の人間! だもの 若い女性は、いや人間そのものは、心の何処かに「自分は特別な存在」と思っている。しかし少し考えれば、それぞれが 特別の存在であり、今さらいうことではない。しかし世界の広さと深さを知り、自分の卑小さ知るにつけ、特別の存在という 思いなど吹っ飛んでしまう。 最近、身近の人が正直に「私は特別の存在なの」と面といわれて驚いてしまった。 その言葉の中に、特別選ばれしものという思いあがりを感じたが、そう心の底に、思える純真は大事なのかもしれない。 ただ見方によれば、ただ無知なだけだが・・ 今、此処にある存在の不思議からみれば、私は特別の存在と思うのも仕方がないのか? たまため去年の同日に取りあげたテーマの通じていた。 ・・・・・・・・ 3422, 哲学者の言葉 100 ー2 2010年08月08日(日) * 第一章、哲学と人間 ≪ すべての人は、われわれのようなものである。<ヤスパース> ≫ これまで生きてきて、どの世界にも同じような人がいて、同じことを考えていた。ただ違うのは、地方性と、レベルの差。 そこで差異をみると同時に、同じところをみることが、早く同化するポイントになる。年齢差、男女、地域性、学歴差、 などあるが、まずは、同一性が問題になる。 まず P−21の以下の部分を、抜粋してみる。 【 そもそも人間とは何であるかについて、ヤスパースは次のように考えました。 「人間は一つの点のように存在しているのではなく、いつも何かの状況の中に拘束されて生きている、そのような"状況内存在"である。 さまざまな状況と関わりをもち、いろいろな予測や判断によって危険を回避しながら事を運んでいくが、最後には乗り越えることの できない壁にぶち当たる。それは、争い事や、責め苦や、死によってもたらされる」 ヤスパースにとっては、人間は言葉をもち 思考する生物であり、行為によって国家(都市国家・ポリス)を法律のもとに共同体としてつくった生物であり、道具を製作し仕事をし、 経済によって生計を営む生物なのであるが、決定的なことはそういう事柄にはない。 人間の本質は運動の中にあるという。 人間は現状のままにとどまってはいられず、他の動物のように平穏無事に世代から世代へと同じことを繰り返す存在ではない。 人間は、袋小路、退化、転倒を繰り返し、自己疎外に陥ることすらある……。・・・ ヤスパースは、このような意味で 「すべての人は、われわれのようなものである」と言いました。そして、人間が、やがてどこかで、いつの日か、限界状況にあるのを 知ったときに、人間はこれまでと違うことを始める。知識欲や、航海の冒険、とどめがたい好奇心等々いろいろありますが、 それは勇気を伴なう。この勇気こそが限界状況でも人間に自由への希望を与え、勇敢に終局へと向かわせるもの、とヤスパースは考えた。 人間が何であり得るかは、やはり彼の自由の希求の中に秘められています。人間が生きていく限り、絶えず努力して獲得しなければ ならないのは、人間として品位であり、人間が人間であるのは、その品位をまた他人の中にも認めること、それが、 「すべての人は、われわれのようなものである」というヤスパースの言葉の内実(内なる事実)でもありました。】 《 人間が生きていく限り、絶えず努力して獲得しなければならないのは、人間として品位であり、人間が人間であるのは、 その品位をまた他人の中にも認めること、それが、「すべての人は、われわれのようなものである」》は、究極の真理である。 そうありたいが、そうはいかないのが人間様である。人間としての品位のないのが、人の中にあるわけのない品位を求めてしまう から、ことが拗れてしまう。勇気こそが限界状況の中で自由への希望を与える、というのも道理である。老いは勇気の喪失からくる。 ・・・・・・・ 3047,自信過剰な人 2009年08月08日(土) 異常なくらい自信過剰な人を最近、身近で見かけた。その位でないと、この時代では前進できないが、それが自分の実力を超えた 思い込みでは、自滅する確率は高くなる。 やはり身近で自信喪失の人もいるから、その両者の断層から多くのことが見えてくる。 世の中は自信過剰な人と自信喪失の人で成り立っているし、人生はその交互作用でもある。この不況の中では「私」は少々自信喪失 気味だが、そのぐらいの方が良いのだろう。 特に若いときなどは自信過剰と、その結果としての無残な失敗の繰り返しがある。 失敗に対して、繰り返し立ち上がってチャレンジできるかで人生が決まってくる。 大学を卒業し数年、大きな挫折体験の中で、「自己能力の限界の設定」という言葉に出会ったが・・ ーまずは、ある本の説明部分を抜粋してみるー 《 英語では(overconfidence)という。 自己の能力や知識を過信すること。悪い事態が起きる確率を過小評価し (「過度の楽観主義」という)、いま目の前に起こっていることがコントロール可能だと思い、成功の確率を主観的に 高く評価する(「支配の錯覚」ないしは「マジカル・シンキング」という)。まだ、いくつもの可能性を残しているにも かかわらず(「狭すぎる予想範囲」という)、そのまま突き進んでしまう。 そこへ追加的な情報が与えられても、 自分の予測を補完するものだと確信を強めてしまい、予測の範囲がそれほど広がらない。 たとえば、投資家の心理として、情報の正確性を誤認し、過度の取引をしてしまう(予測が外れるのは数%と判断しても、 実際は20-30%外れていることは多々ある)。また、「後知恵」的解釈の原因でもある。 》 こういう実験がある。 質問=あなたは幾ら賭けますか? Aーコインを投げる前に、表と裏と幾ら賭けますか? Bーコインは既に投げられたけれど、どちらが出たか分からないが、幾ら賭けますか? この実験の結果は、後者の方が掛け金が少なくなる、という。 そこには、本人の意志は通らないが、何か心理トリックで意志が通るような錯覚に陥ってしまう結果が出てしまう。 それが事業でも全てにいえるのである。 自信も同じで、自分で気づかない心理トリックが潜んでいる。 新規に何かをする方からしたら、考えつくした上で発狂するしかない。 何もしない人間の壁を見ているからだ。 しかし心理トリックを実験で導き出す面白い事例である。 この心理トリックで女も男も、相手をどんどん換えていくのである。 許されるのは若いうちだけだが。 ・・・・・・・・・ 2682, マネーの未来、あるいは恐慌という錬金術 −2 2008年08月08日(金) この本は、特に目次が面白い。 結局は、金融のエリートと称する詐欺師に素人が騙されたいる図式しか見えてこない。 しかし時代は、断層の時である。 自分がその真只中に居るから、その大きさに気づかないだけ。いや、目を逸らしているのである。 この本の目次を見ているだけで、この本の概要がわかる。間違いなく、アメリカの崩壊が始った。 アメリカはイギリス連邦と、日本と組んでブロック化をしていくだろう。 それが早まるか、遅くなるかは大統領選挙の結果で決まる。その意味で、この選挙の結果は大きい。 ー目次ー (字数の関係でカット 09年08日) ・・・・・・・・ 2007年08月08日(水) 2318, 岸洋子の世界 おはよー (((。・-・)从(・-・。) さん! 一昨夜、何げなくまわしたチャンネルNHK・BSで、懐かしい岸洋子が歌っていた。彼女は十数年前(1992年)に亡くなったが、 今でも強い印象が残っている歌手である。番組は丁度半分過ぎていたが、後半だけでも充分に見ごたえのある内容であった。 早速インターネットで調べてみた。後に、その番組の紹介内容をコピーしてある。波乱に富んだ人生を紹介しながら彼女の、 その時々の歌の録画を構成していた。そのエピソードを聞きながら岸洋子の歌を聞いていると、涙が溢れてきた。 その歌の合間の石井好子と菅原洋一のコメントが好い。菅原洋一をして「全ての面で彼女の歌は私の上です。彼女には敵いません!」 と言わせている。 菅原は私の大好きな心の歌を多く歌っている。最盛期の彼の歌は絶品であり、魂から迸る叫びを感じた。 菅原洋一のコメントを聞いて彼女の一曲一曲を改めて魂を込めて聞いてみると、なるほど彼より上、というのも謙遜と思えなくなる。 彼女が死の病を抱えて開いたステージの歌があった。命を賭けた魂の歌とは、このことか!と、思い知らされた歌であった。 石井好子の彼女への言葉「一流の歌い手とは、歌に命を賭けています。命を賭けた歌は、声がかすれようが、その心は相手に伝わるものです。 彼女の歌は、それを感じます!」が好い。好きな人と別れ、その人がパリに行く。その後、彼女は一日だけパリに立ち寄ったが、 彼と会わずに帰ってきた。パリのタクシーの中で聞こえてきた歌を、日本に帰ってきて自分のものにして涙ながら歌っている場面があった。 たしか「恋心」だったが・・一人の誰かを思い浮かべ感情を込めて囁きかけていたようだ。その囁きは全ての人にも通じ、奥深く振動する。 そのナレーターの話を聞いた後に、彼女の歌を聞けば誰でも涙が出る。世の中は、人生は、感動で満ちている。感じ取れないのは 「日常の牡蠣の貝殻」が、コビリツイテいるから。 たしか、それがバカの壁になってしまうとか?横に流れている時間に、縦に立つ時間 (魂の入った、感動した時間・・)がクロスする時に人間は活きているのである。そして、そこに永遠が立ちあがっている。 この人の歌を聞いていた時に、永遠を感じていたようであった。「感動を子供にシャワーのように浴びせてあげなさい!それが親の一番の努め」 という。大人になったら、自分に常に感動のシャワーをかけ続けないと・・それが自分への一番の勤めです。 {BSエンターテインメント 歌伝説 岸洋子の世界 − 8月6日(月)BS2 午後7:45〜9:15} (字数の関係でカット 09年08日) ーーーーーーー 2006年08月08日(火) 1953, ローマから日本が見える−22 Good☆':.*^ヾ('c_'ヽ,,)*.:'☆Morning ー読書日記ー 第九章 ローマから日本が見える −2 ー「ゲルマニア撤退」を決意 ー アウグストゥスの政策の中で唯一の失敗は、ゲルマニア地方への遠征であった。 カエサルの定めたローマの基本防衛はライン川であった。しかし、彼はその基本ラインをライン川より更に 東にあるエルベ河に移そうとする。アウグストゥスがカエサル暗殺後の内戦に勝ち続けることができたのは、 生前カエサルがつけてくれた優秀な副官アグリッパのお陰であった。彼が長生きしていたら、ゲルマニアの遠征は 行われなかっただろう。カエサルでさえも、「ゲルマニア」は短期の征服はできても、最期の征服は無理と見た土地である。 長年軍事を任せていたアグリッパを失った彼は、現地の状況を充分知らないまま遠征プランを立てて実行に移してしまった。 そのままローマがこの地で戦いを続けていたら、帝国はどうなっていたか解りません。ところがローマ帝国はやはり違った。 アウグストゥスの次の、第二代皇帝ティベリウスによってAC17年、ゲルマニアからの撤退を決めてしまう。 (字数の関係でカット 11年08日) ・・・・・・・ 2005年08月08日(月) 1588, 自民郵政解散の攻防−2 (字数の関係でカット 12年08日) ・・・・・・・・・・ 2004年08月08日(日) 1223, 思い出のメロデー お盆前のこの時期は、NHKの歌謡番組の「思い出のメロデー」である。毎年必ず見ることにしているが、生の番組みの迫力がよい。 今年は、例年より長い時間(19時30分〜23時30分)まで放映をしていた。どういうわけか全員、熱が入っていたようで、圧倒されみていた。 「歌は世につれ」というが、その時代を反映をしている。次から次へとでてくる懐かしい歌にやはり長い年月を感じる。 歌は過去に向かって歌うものというが、「思い出のメロデー」はまさにタイトルどおりである。思い出の歌は魂の故郷である、 お盆の里帰りのようなもの。それぞれの人が、それぞれの思い出の中に帰っていく。終戦直後の戦災の焼け跡に生まれたこともあって、 当時流れていた歌が特に懐かしい。そして、戦後50年間は日本にとっての黄金期であったことを、改めて思い知った。 本当に良い時代に生きてきてよかった。繁華街の真ん中の店で、10歳まで暮らしていたこともあり、いつもラジオから流行歌が流れていた。 当時の歌を聞くと、感無量になる。それと学生時代の歌謡曲黄金期のポップスも、思い出が深い。 時代は、どんどん変わっていく。だからこそ、思い出の歌が必要なのだ。 ・・・・・・・・・ 2003年08月08日(金) 856, 経済評論家ー高橋乗宣の本 高橋乗宣の『日本経済、価値革命のうねり』と『日本経済の破断界』とたて続けに読んでみて、 日本経済の悲観論者の論とはいえ背筋が寒くなる。彼はバブルの最中から今の日本は大恐慌になると警鐘をならしていた。 (以下、字数の関係でカット 2008年08月08日) ・・・・・・・・・ 2002年08月08日(木) 481, ある信条 -経営セミナーにて 30歳代は数多くセミナーに行った。一番何でも頭に入る時期であった。それと焦りがあった。700人の席の一番前の真ん中に いつも座って聞いていた。この豪華の第一線の学者や経営者は自分一人の為に、講義にきてくれているのだと、思うように聴いていた。 見ていると、日銀の総裁のような面の皮の厚くみえる人でも震えている。テーマを話しながら結構自分の信条とか信念をいう。 これがなかなか面白い。今でもハキッリ憶えているのがある。香港の財閥家と結婚して、今はその財閥のトップになっていた日本女性の話。 その信条がよかった。「他人には優しく、自分に厳しく。いつもニコニコ、人によかれと思って生きる」を自分に言い聞かせているという。 なるほどな!と思った事を憶えている。ー人間は、そのままだと 自分に甘く、他人に厳しく。何か人の不幸がないかと考えて、 いつもブッスとしている。 教養のないあの子狐がその集約された姿だが。考えてみれば、自分でもある。 ところで何時も書いている子狐のモデルは誰?と聞かれる。もちろんいるが80パーが合致している、いや90パーか。 実際は過去に見てきた卑小の人間の複合体である。しかし、誰もが持っている要素である。だからあれは自分の事ー影と言っている。 先日も「自分が言われているみたい?」と言われたが。その%の濃いか薄いかである。話しがそれたが、そこで感じた事は皆明るい事!。 それでも多くの人が逮捕されたり、倒産したり、失脚している。電電公社の会長、地産の会長、フットワークの社長、 100円ライターの東海??の社長とか。そう甘くはない。 ・・・・・・・・ 2001年08月08日(水) [102] 夢について−6 (字数の関係でカット 12年08日)
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2012年08月07日(火)
以前に少し取り上げた「虎穴問答」について。 金沢の「いとはん」という衣料チェーンにいた時の話。 同期10数人で勉強会をつくって、そこに石川県知事を呼んで話を聞いたことがあった。それが社長の逆鱗にふれ、「預りの身?」 の立場上、抜き差しのならない事態になった時に、書店で見つけた本にあった問答である。そして自から、その会を潰すことになった。 去年の倒産劇の時も、この問答を思い出していた。死に体の会社を一歩早く潰すか、ぎりぎりまで頑張るべきかの決断の際に、 この問答を何度も類推し、考えてみた。 ーそこでネットで「虎穴問答」を調べてみたが、その部分からー ≪ 大阪控訴院でのこと、ある日、審理の最中に王仁三郎は裁判長に向い、「人虎孔裡に墜つ」という禅問答をいどんだことがある。 これはひとりの人間が虎の穴へ落ちこんだ場合どうしたらよいか、という問答だ。 王仁三郎が、「裁判長、あなたはどうお考えに なりますか」というと、裁判長は自分は法律家だからわからないが、どういうことかと逆に問う。そこで王仁三郎の説法がはじまった。 人間より虎のほうがつよいから逃げようとすると殺される。刃むかっていっても同じことだ。ジッとしていても虎が腹がへって くると殺しにくる。どっちにしても助からない。けれどひとつだけ生きるみちがある。それは食われてはだめだ。 こちらから食わしてやるのだ。食われたらあとにはなにも残らんが、自分のほうから食わしてやればあとに愛と誇りとが残るのだ。 王仁三郎はこの問答で大本事件を語ったのである。裁判長はさすがにうたれるものがあったとみえ、うーんと嘆声を漏らしたという。 また、粛然とした空気が法廷に流れ、敵味方の区別なく一同思わず襟を正したそうだ。さて、この虎穴問答はもうひとつ深い意味を もっている。というのは、虎に身を与えた愛と誇りの犠牲が、現実の事件全般の進行に一大転機をもたらしたからだ。奇跡的に 死地に生を得たもので、九分九厘だめだったものがあと一厘で逆転にむかうのである。これこそ一厘の仕組みとかいうものだろう。≫ ▼ 戦前戦中の時代に、破竹の勢いで信者を増やしていった大本教が、軍部や政治家から目をつけられ、大弾圧にあった。 その過程の裁判での、この虎穴問答は人生に色々な示唆を与えている。虎を、生老病死としての四苦八苦と例えることが できる。それぞれの苦に、自ら受け入れ苦しむことこそ解決の最短の道になる、と考えることができる。事業断念も決意も、 虎を3つの断層=9・11テロ、9・15のリーマンショック、3・11大災害の三つの震災とみなし、その重なりから、 虎穴に落ち込んでしまったと想定。逃げ回るより、先んじて喰われてしまおうという最後に思い出したのが、この問答。 当時の大本教を題材にしたー『邪宗門』高橋和巳著ーを読んだが、これが面白い。 ・・・・・・・ 3786, ユング −17 2011年08月07日(日) * ユングについての総括 ・ 父親の死の時の不思議な体験をキッカケに奇妙な感覚が10年余りの間、身についておたこともあり、ユングの理論には 非常に興味をひかれた。ユング本人に元もと通常以上のシックス・センスがあったため、それを、そのまま発達すればよかった。 大本教の出口なお、天理教教祖の中山みきは、そのセンスが強力だったようだ。 また日蓮には身体全体にオーラが包み込んでいた という記述が残っている。 27歳時の父の死亡時での実体験が無ければ、シックス・センスに対して信じることはなかっただろう。 現に幽体離脱のような(夢?)体験をしたのだから、これは信じるしかない。 ユングがフロイトと対立・離別をしてまで、 この方面の研究を続けた内容は侮れない。 ・ ユングが取り上げた中で、「共時性」と「布置」に、まず興味をひかされる。 奇妙な偶然の一致の不思議さである。 これは多くの人が経験しているはずだが、それを話すと、何か軽薄と誤解されるのを恐れてか、あまり口外をしない。 子供の頃に親戚の人が、その類の話しをするのを聞いて、「いい大人が、他愛無い話をしている」と心底で感じていた。 しかし人生経験を積み重ねるうちに、親戚の人たちの言っていることは、決して他愛無い話でなかったことを知った。 幽霊の話しも、その一つになるが、これも、あり得ることである。共時性、布置とは少しズレルが・・ ・ またオカルト現象も、ユングを読んで、実際のところ驚いてしまった。これも個人が持っている、ある能力が何かに 感応した働きだろう。そうこう考えれば、哲学の存在論に関わってくる。現在、自分が、現に此処にいる不思議からみれば、 オカルトなど、他愛にないもの。エスキモーで5キロ先にいる白兎を見つけることが出来る人がいるとか、犬が数千キロ先の 親の鳴声に反応するとかを疑問に思うこと自体が、小さな限界の範囲内で決めているからである。脳には20億年の生物進化の記憶がある。 ・ 最近、特に感じるのが、それぞれが持っている経験と能力の深さと広がりである。特に、ブログなどで、それが比較的簡単に 覗き見ることが可能になったこともある。デジタル化で人間の五感を遥かにしのぐ機器が不朽はじめると、逆に人間の持つ不思議さが 一つずつ解明されることになる。ブログ、ツイッターなどの普及はユングの世界を超える可能性がある。ネット世界の出現こそカルト? ・・・・・・・ 3421, 日本の幸せ度 2010年08月07日(土) 昨日、ランチを食べていた店の週刊誌に「日本人の幸せ」について、特集をしていた。 といっても、ある本の内容を、そのまま要約した内容、許可を得ているのだろうが・・・ メモを持ってなかったので、頭のメモに書き付けてきた。如何いうわけか、全部スラスラ?と、出てきた。 日本人の幸せー9 * 流動資産一人あたり700万、一世帯1500万、金融・土地など資産2千万が、幸福の飽和点。【これ以上あっても、同じ】 * 幸福度は、学歴に正比例する。 【 中学校、高校、大学の同級・同期会を見ると、歴然としている】 * 女性より男性の方が不幸の割合が高い。 【 家内と私を比較すれば分かること。男は社会の消耗品 】 * 都会は、そうじて幸福である。 【これも残念ながら、本当。新潟市、長岡市は都会かどうか?】 * 幸福の80パーセントが、遺伝する。 【 選択前の最終学歴の同級生の、その後をみると、正比例している】 * 経験・体験は、幸せには左右されない。 【 これは、難しい問題だが? 】 * 世界的にみて、税金の高さは幸せに関係しない。 【高いところほど、豊かだからか?】 * 幸福度は加齢とともに下がっていく。 【 そう、一番幸せだったのは、0〜9歳、20〜29、30〜39、50〜59歳の順】 * 失業の不安は、幸福度に関係してくる。【 】 以上だが、間違いがない。 ▽ その他に、* タバコを吸う人は不幸になる。* 月一度以上、ギャンブルする人は不幸になる。 * 気短、心配性、は不幸な人が多い。 * 社民党は不幸な人が多く、内閣支持者に幸福な人が多い。 この辺が、私の記憶である。よくぞ憶えていたものだが・・・ 幸福論が好きだからだ。 ラッセルは、「幸福な人を特徴づけるのは、まずは人生への熱意であると言う。人や物に敵意をもつようなことをせず、 熱意をもって生きれば、外界への興味も湧き、人生も楽しくなる。 男性も女性もほんものの愛情をもち得る。 家族、家庭での生活も楽しくなりプラスに転じる。」といっている。 前向きの熱意が、この恐慌の中では、どうもこうもである。 ・・・・・・・・ 3046,卒業40年周年か〜 −5 2009年08月07日(金) 40年前に奥野君と何を話したのかを知りたくなって、「分類のコーナー」の中の検索で『奥野君』を入れたら、 その当時の文章が出てきた。 これは一度書き込んでしまえば、直ぐに出てくるから便利である。 この3000の随想日記は私の人工頭脳?のストックの役割を果たしている。当然、みすぼらしいのは自覚している。 いや、自覚せざるをえない、というのが本当のところ。ところで4時間も何を話したのだろうか? 当時の日記を読んでみて、 書き残しておく重要性をつくづく思う。言葉として残しておくと、それを糸口として40年の時空を超えて、当時の光景が 昨日のように蘇ってくる。現在、日記を「10年日記」など何種類か書いているが、このような心情を、そのまま書くものはない。 いや、もう書けなくなったのかもしれない。 20歳半ばからも日記を書き続けておけばと後悔をしている。 この随想日記は良いメルクマールになっているが、心情ではない。 ー11月19日ー 1968年 2003/11/22 ・11時起床。 13時半に同級の奥野君が私の部屋に突然に訪ねてくる。 1〜2年の時、席が隣のこともあって親しかった人だが、専門課程になってから疎遠になっていた。 話をしたかったのだろう。 人生について、倫理観について、その後読んだ本で感銘したことを必死に話をしていった。 特にケネディの自伝に感銘を受けた、というのが印象的であった。 見違えるように自信を持ったように見えた。 男っぽくなったという言葉がピッタシだ。4時間ばかりして帰っていった。もうこうして彼と話し合うことは無いだろう。 アパートから一時間以上かけてきたというから、自分のメッセジーを伝えたかったのだ。 ・それにしても最近多くの人が吹き付けるように来るのに驚く。 聞き役に徹していることもある。 それと大学最後の時が来ているからだろう。 ・武沢先生にいわれて急こしらえに親しい女性をつくろうとしても無理。 といってチャンスは幾らでもあるが。理想と現実の乖離か大きすぎるのだ。妥協はしたくない。 ▼ 最近になって知ったことだが、女性は同じレベルの学校ではなく、一〜二ランク上の男を狙う。 だから当時は妥協できなかったのである。 それと姉達のレベルより下げることができない シスターコンプレックスもあった。 四人の姉は、地方では、それなりのレベル?だったので、その眼もある。 一つの判断が人生を大きく左右する時期で、ふりかえってみると非常に緊迫した日々だった。 この齢になったためか、一年前も二十年前も、四十年前も大して変わらない感覚になってきている。 過去という一つの袋の中味が一年前も五十年前も大して問題ではなくなったというイメージである。 死期を悟った時に、これがもっと強くなるのだろう。 この時期の日記を読み返すと、当時は人生の使用前。今は使用後。という感? 使用後というには早いか? 学生時代は、社会に出る前の予備訓練期というのが、みてとれる。 ・・・・・・・・・ 2681, マネーの未来、あるいは恐慌という錬金術 −1 2008年08月07日(木) 「マネーの未来、あるいは恐慌という錬金術」 松藤民輔著 -読書日記 この数ヶ月以来、この人の本は三冊目になる。「無法バブルマネー終わりの始まり」「世界バブル経済の始まり」 を読んで、世界と日本の先ゆきに唖然としたが、更にこの本はショッキングな内容である。 金山を買って、大もうけして、更に金のブームを起こしたいのだから、力が入っている。 世界経済の危うさは誰の目にもハッキリしている。金鉱山の投資家の切口から社会の潮流を見ると違ってくる。 まずはーはじめにー の以下の部分から 〜〜 さて、いまが本当に金融恐慌の入り口なのであれば、身をすくめてこの「嵐」が通りすぎるのを待つしかないのか? けっしてそんなことはない。ものは考えようである。いつの時代も、運の女神は前向きに創意工夫する人間をサポートしてくれる。 恐慌とは、あらゆる「プロ」が負ける時代を意味する。従来の投資法が通用しない時代を意味するのだ。恐慌が本格化する前に、 この恐慌を逆手にとってひと財産築いてしまえばいい。 そのためのポジションを早急に準備すればいいではないか。 金融恐慌を前に、わたしたちがとるべきポジションは「金」と「金鉱山株」しかないと思うが、どうだろう。 これは、過去の大恐慌の歴史のレッスンでもある。 投資で勝つ鉄則は、「真似る」「学ぶ」「待つ」という3Mにこそある。 十五年間、わたしはこの恐慌を待っていた。 それは、いまかいまかと「恋人」の登場を待っている気分に似ている。 いま、金は、一九八○年の最高値一トロイオンス1875ドルをあっさり超えて、1000ドルを挟んで上下しているけれども、金融恐慌が 本格的に始まれば、あっという間に二〇〇〇ドルの壁を超えていくにちがいない。わたしは一九九三年、ソロモン・ブラザーズ証券で 当時得ていた二億円の年収を捨て、ペーパーマネーの世界から実物経済(金鉱山事業)の世界へと身を投じた。 いまや北米をはじめ、世界のあちこちで鉱山を経営している。普段はヘルメットをかぶって地下二千の鉱山で金を採掘している。 つまり、パソコンの前で金や金鉱株の動きに一喜一憂している「投資家」ではない。自らリスクを負った経営者として、 現在のこの金融恐慌に向き合っている。いずれにせよ、もしもこの恐慌が最大級のものならば、リターンも最大級のものになる。 そのとき、恐慌は、わたしたちにとって「恋人」から「恩人」に変わっていることだろう。 〜以上だが、更になぜ、私たちが恐慌のトバ口に立っているかを次ぎの5つをあげている。 ーサブプライム問題は、まだ片付いてない。 ー金融機関の倒産は、これからが本番 ードルの転落 ー原油高、資源高、食料高の三重苦が始る ー「有事のドル」の伝説崩壊 〜次回は、この本の目次を俯瞰しながら考えてみる。 ・・・・・・・・ 2007年08月07日(火) 2317, 「朝青龍」問題について オッ☆ o(≧▽≦)o ハァ〜 ここで扱う問題ではないが「戦後最強?の横綱」が「ノイローゼ」一歩手前がテーマとして面白そうなので取りあげてみる。 (字数制限のためカット 2010年8月7日) ・・・・・・・ 2006年08月07日(月) 1952, ローマから日本が見える−21 ー読書日記ー 第九章 ローマから日本が見える −1 さて、最終項である。この読書日記を書いていて、自民党を中心としてきた戦前からの官僚システムが、 共和制に酷似していることに唖然とした。それも二代目・三代目が恰も共和制度の破壊者という顔をして、 そのじつ国民を欺いている現状を鳥瞰できる。 小沢一郎も同じ穴のムジナだが、しかし本気で壊そうとしているだけマトモということか? ー「リストラの」名人たち ー BC753年の建国から始まっておよそ8Cにわたるローマの歴史がこの本の主旨であったが、ローマ人は「リストラ」 に長けていた民族であった。事業縮小や、撤退、人員の削減といった消極的な改良ではなく、 本当の意味でのリストラクチャリング、すなわち再編成なり再構築に何度も成功したからこそ、 ローマは千年の歴史を持つことができた。本書の中で取り上げた中でも大きなものだけで、数えて三回あった。 ・最初は、王政から共和制への移行です。 BC509年、ルキウス・ユニウス・ブルータスによって第七代王「尊大な王タルクィニウス」が追放され、 以降は一人の王に代わって、執行官が毎年二人ずつ選出された、この二人が国の政治の最高責任者になった。 ・二度目の改革は、BC390年に起こった、「ケルト・ショック」を機に行われた共和制体部の改革である。 貴族と平民との階級闘争も終わり、ローマの再興を果たすため政府の要職を平民に開放する決断もこの時に行われた。 ・そして三度目の改革は、帝政の移行であった。 カイサルがその設計図を引いて、アウグストゥスが、そのとおりに石を積み上げていくことであった。 ローマの改革は、もちろんここで取り上げた三つだけではない。 ・BC494年から始まった護民官制度、ポエニ戦役ごの「混迷の時代」にグラックス兄弟やマリウスやスッラが行った 諸改革は、数えればきりがない。 ローマ人にとっての政治システムは、ローマ軍の補修と同じく「メンテナンスすべきもの」であったということ。 ・哲学的思考によって真理を追い求めようとするギリシャ人とも、 ・一神教の絶対神を信じるユダヤ教やキリスト教の信者とも違って、ローマ人はこの種の「絶対」は馴染まない。 どれだけ優れたシステムであっても、人間が作るいじょう、かならず欠陥を隠し持つという現実的な感覚を彼らは持ち続けた。 ある意味で、ローマ帝国史における経験は、人類にとっての大きな遺産の宝庫である。多民族が入り乱れる欧州で 1000年以上も帝国を存続させたシステムは、現代でも、いや現代こそ、経験則として学ぶべきである。 −つづく ・・・・・・・ 2005年08月07日(日) 1587, NHK 受信料不払い問題 (字数の関係でカット 09年08月7日) ・・・・・・・・・ 1222, 今まで見たことがないほどのバス 2004年8月7日 長岡祭りの花火で、メインは信濃川の駅から見て手前側であった。この数年川向こうにも観覧席が出来はじめたときいていた。 (字数制限のためカット 2012年8月7日) ・・・・・・・・ 2003年08月07日(木) 855, 「借りた金は返すな!」ー読書日記 本屋の平台に最近山積みになっていている。題目からして刺激的である。中小の経営者の知人が、この本を読んで 目が洗われる思いだったといっていた。潮流が恐慌状況の為、ベストセラーになっていると家内も言っていた。 その人から借りようかと思っていたが、最近会うチャンスがなかった。wアマゾンからある本を発注する時に偶然この本を見つけた。 中古本もあり半額以下で買える。迷ったが買ってみた。読んでみて、中小精細企業の経営者なら、会社の良し悪しに関わりなく 読む価値があると思った。ここに書いてあるようなことをやらなければならない事態に陥らないようにすることが大事であると思えた。 (字数制限のためカット 2011年8月7日) ・・・・・・・・・ 2001年08月07日(火) [101] 倒影ー2 人の悪口は倒影の最たるものだ。「あまり悪口をいうな、その指摘部分が自己に移るから」という理屈は子供のときから 分かっていたが。「人を指差すときあとの指は自身を指している。」という戒めの言葉もそういえばあった。 「人を呪わば穴二つ」という諺もあった。「ある自信過剰の男、周りの人間かったぱしから、弱点を見つけて倒影を続け 一人満足をしていた。 (字数制限のためカット 2012年8月7日)
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2012年08月06日(月)
今から5年前といえば、2007年8月である。それから13ヶ月と10日後にリーマンショックが生じた。 当時は以前に経営していた会社のリストラ効果で、何とか目途が立ったところで、アメリカの住宅ローンの債権証券が 危険水域にあると新聞が書き始めていた。そして2008年9月15日にリーマンショックが現実に起きてしまった。 それから売上は激減、二年半後に倒産に至った。あの時と現在の状況を比較すると、東北大震災もあり現在の方が格段に悪い。 今後5年後を考えると、早ければ年内に、遅くとも数年内にリーマンショックなど比べようもない激震が世界中に駆け巡る。 それからして、かなり厳しい想定を現実としてしなければならない。私自身も年齢からみて、これまでの不摂生を考えると、 今さらなので腹を据えているが。 実際のところ5年後、どうだろう?この5年の激変より遥かにマイナスの状況と見るのが自然。 今から5年後に、「現在の状況を予測できたか」という問いに対して、やはり想定外であるという答えが帰ってくるだろう。 目に前に迫っている経済大津波は分かっているが、実際に起きてみないと実感できないのが人間。想定外のことは考えられないが、 万一の備えを作っておくことは可能である。家族経営をしているところは、①身内を外に出すか、それとも自分が出るか。 ②身内の債務保証を無くすこと。③売上が半減した時の想定をしておくこと。④運転資金がマイナスに転じた時の対処の想定。 (見切り千両のタイミングの想定)⑤予備資金の準備、などが考えられる。 私の場合、7年がかりで予備資金を準備をして、万一、これを一時的にも流用した時が見切り時とし、そして実際に実行した。 ところで5年前に、現在の状況は想定外だったのだろうか? その頃、危機管理セミナーに立て続けて参加していた。 予測通りの部分と、まだ予測に至ってない部分があるが潮流は大方、予測通り。しきりに金の購入を勧めていたが、当時より 金価格は2〜3倍になっている。恐らくハイパーインフレが5年内で吹き荒れるが、その状況が予測不能ということか。 中国が一度、国内外で動乱が起こる可能性があるが、いずれにしても立ち直りは早いはず。ユーロ圏、アメリカ、ロシア、中国、 日本と、いずれも激変するはず。 大変とみるか、面白いとみるかだが、前者だろう。 まず経営者は5年後の仮説をたてないと! ・・・・・・ 3785, 世界でひとつだけの幸せ ー② 2011年08月06日(土) * 「世界でひとつだけの幸せ」 マーティン・セリグマン著 ー この本の概要からー 【 「楽観的で前向きな人は、幸せで、長生きで、成功する!!」 と、楽観主義を身につける方法が具体的に紹介されている。 ● 心から幸せを感じるにはどうすべきか ・ パート1では、過去、現在、未来において、どのようにすればよいか (*過去は感謝、容認、忘却、 *未来は希望と楽観、 *現在は快楽と充足感、との違いを理解し、充足感を満たす生き方をする)。 ・ パート2では、6つの美徳を紹介、それを基に24種類の強みを示し、どのような強みを持っているかを知り生かすことを提言。 ・ パート3では、人生の大きな3つの局面である仕事、愛情、子育ての状況において同じ強みを発揮するかという実践的な内容。 * 楽観主義の「永続性」については、「悪いことは一時的、良いことは永続的と考える」ことや、 「普遍性」については、「悪いことは一部の面に限られていて、よいことは普遍的だと考える」 * 今回の震災に直面しては、「これは一時的なことだから、もうすぐ解決する」とある。 *「学習性無力感」についてや、「まったく同じショックを受けても、それを制御できる、つまり自分が行動すればショックを くい止められるような場合には、動物も人間も活動的になり、情動が落ち着き、健康になるという結果が得られた。」 *「行動することに効果があり、結果を制御できると知ることが重要なのである」という「随伴性」についてがわかりやすい。 *「ただ苦悩を和らげるだけでは、苦しみ、自暴自棄になっている人を、本当の意味で救うことはできない。 人はどん底にあっても、美徳や誠実さ、さらには生きる目的や価値を必死になって求めている。 本当に必要なのは、『苦しみを理解して和らげることではなく、幸せを理解し築き上げることである』」 * 人間の心はいつでも変えられる。今までの説をくつがえし、人々の願いをかなえるもの、それが著者の提唱する「ポジティブ心理学」」 1.お金持ちは幸せか? = 著者は、「アメリカ、日本、フランスなど先進国はこの50年で購買力が倍以上になったが全般的な 生活に対する満足感は少しも変化していない」と。必要な生活できる収入と購買力が得られた後は富が増えても幸福は増えない。 幸福感を決めるのは、お金をどのくらい大切なものと考えるか、という価値観であると。 2.強みを生かせば幸せになれる = 「弱みを克服することに人生を費やすのは間違い。 むしろ、人生最大の成功と真の満足感は強みを伸ばした時に現れる」と。 3.過去が未来の幸福を決めるのか? =「そんなもので決まるわけ無い!」と! これまでの心理学(ex.フロイト派)の マジョリティーは「過去が決める」だった。実際の調査結果の一例として、11歳になる前に母親と死別した子どもは、 鬱病になる確率が若干高いが、女児に限るとそのリスクはごく稀。むしろ「幼児期の経験が現在の不幸の原因だと思いこんだり、 そのために未来に対して臆病になったりすれば人生をむだにすることになる。」という。 】 ▼「ネガティブ志向の人が、自らの短所や悩みを解消するのではなく、それぞれに備わっている「強み」を さらに伸ばすことで今よりもっと幸せになる」は、この本の要諦。「得手に帆を上げ」前に進む生き方を勧めている。 ・・・・・・・ 3420, その後の、我が家のインコ 2010年08月06日(金) 去年の秋口にコガネインコが、我が家に来てから10ヶ月、ペットショップの店内で従業員や客に可愛がられ人に懐いていたインコ。 あまりに人懐こいので数回、店で頭を撫ぜていた。ところが三ヶ月も経っても、いつもの籠で人から頭を撫ぜてもらっている。 何か愛おしくなったが、値段が6万8千円もするし、家内が生きものが大嫌い。もしか買った大騒動が起こる。 しかし衝動的に、そのインコが買いたくなって、「このインコ、1万円を引いてくれたら買うけど、どうですか」と女店員に言うと、 大人しそうな女店員が、「このインコは、従業員みんなで大事に育てた素直なインコ。値引きなど、とんでもない」と、怒りだした。 「じゃあ、責任者にお客が三ヶ月も売れないインコは、それだけで商品価値が下がっている。6万円なら、買うといっていると、 聞いてきて」というと、しばらくして、戻ってきて「店長がオッケーをだしました」という。 という訳で商談成立。 それはよいが、家内の怒りを考えると、冷や汗が出てきた。そして家に帰ってから、一ヶ月間は毎日のように罵声を浴びせられた。 それに耐え切れずに新潟のホテルの長期滞在の棟に、お客様のペットして持って行くことにした。 しかし、持っていこうと、 車に乗せる直前を図って、「暫くの間、置いておいてよい」との、許可を得た。本人もしたたかだ。居間のベランダに鳥篭を 置いていたため、部屋そのものにも寄り付かなかった。 それが今では毎日数回は籠の前にある椅子に座ってインコの相手になっている。 とにかく人恋しく、相手にして欲しいと鳴き叫ぶのである。あらゆる鳴き声で、自分の気持ちを伝えようというのが分かるから、 生きもの大嫌いな家内も、情にほだされたのである。 女店員がいうに「気が優しく、籠の蓋を開けておいても外に出ようとしない。 しかし人好きで、頭を撫ぜてもらうのが大好きでペットしては最高です」と、いったとおりである。人間も鳥も当たり外れがある?。 小桜インコを5代続けて飼ってきたが、子供2人が高校を卒業してからは、飼ってなかった。 小桜インコと比べると、 鳥というより、犬という感である。 とにかく人好きで、あらゆる鳴き声で気持ちを伝えてくる。個々の足音や車音で誰かの判別が可能。 また犬が尻尾を振ったり股に入れたりで、喜びや恐怖を表現するが、このインコ、羽ばたきで表現する。鳥の形をした愛犬という風。 要は自分を相手にして欲しいと全身をつかう。今でも居間の私の定位置のガラス戸一枚先のベランダで時々、鳴声で呼びかけてくる。 家から遠ざかるときは「行かないで」という鳴声、帰ってきたときは嬉しそうな鳴声。これは、むしろ犬。小桜の10倍の値段のわけだ。 ・・・・・・・・ 3045,会津八一の 学規 2009年08月06日(木) 会津八一は「学規」を作成し、 自ら及び教え子達の範とした。 ふかくこの生を愛すへし かへりみて己を知るへし 学芸を以て性を養うへし 日々新面目あるへし ー 十四ヶ条 ー 1 感情を以ってうたふこと。 2 真に内心から湧き上がる感情無きときは、漫然として歌を作らんと思わざるべきこと。 3 世才・文才・常識、そんなものでは、自分も感動してをるにあらず。それを以て他人を動かし得ざること当然なり。 4 感情を単純化してうたふべし。 5 表現も単純にして直裁なるを尚ぶ。徒に曲折せるは、真情の流露をさまたぐ。 6 詞句の曲折は初学の能くなし得るところにあらざるも、老熟してこれを自在になし得るとも真情の枯渇し居らば、かへりて厭うべきなり。 7 用語は常人の耳に遠からざるものをよしとす。ろくろく学問を精しからぬ者が専門家振りて、古語歌謡といふようなるものを 襲用するは、最も厭うべきことなり。 古語を用ふるは、やむを得ざる時にのみ限りて許さるべし。 8 散文にていふに如かざることを歌として歌ふは、根本的に心得ちがいなり。 9 和歌は我国のみにあれども、詩歌は如何なる民族にもあり。和歌はその一種なりと知るべし。我国の歌人なかまにあらざれば解しがたき 如きことを、詩歌の本道とも本質とも認めがたし。外国語に翻訳しても、その国の人々によりてたやすく解せらるるやうにてありたし。 10 従って、その辺の歌集をのみひもどき居りて、それで勉強したりとおもふは不心得なり。ひろく世界古今の詩歌を味ひみるべし。 11 いやしくも歌を作るは容易にあらず。うかうかと濫作して、よき歌の出来んことを希ふは無理なり。 一方心境を練り詩歌を弘むるとともに、真に感興の内に催すをまちて、精細を傾けて歌ひ出すべし。 12 要するに作歌は、天才と人力とをまちて、しかも精進して初めて為し得るのみ、漫然たる態度にてたづさはるべきにあらず。 14 書外は工夫をつみて悟得せらるべし。 〜〜 八一は新潟の人で名前は以前より知っていたが、 これだけ含蓄のある学規があったことを知らなかった。 (字数の関係でカット11年08月11日) ・・・・・・・・・ 2680, 漠たる不安 2008年08月06日(水) アメリカのサブプライム問題や、中国の動乱の予感や、イラン・イラク問題など世界は漠たる不安に覆われている。 それに対して二つの取り得る態度がある。 ・それから目をそらさずに色いろ対策を練って対処をするか、 ・将来に対してあまり深く考えずに、ただ目の前のことだけに対処をして将来に対しては自己逃避をするかだ。 (字数の関係でカット09年08月11日) ・・・・・・・・・・ 2007年08月06日(月) 2316, 日本の原発依存度って、どうなっている? ファァ(*つ●-*)*.;'Good☆Morning 今回の地震による柏崎刈羽原発の火災などで、殆ど意識してなかった原発に対する依存度に関心が向いた。 そこでインターネットで早速しらべてみた。それによると・・世界の電力の16%は原子力で、日本国内の原子力依存度は、約3分1強の37パー。 世界全体として原子力の依存度が高まる傾向にある。現在の日本では石油危機当時と比べ、エネルギー消費に占める石油依存度が大幅に低下。 日本と同様に石油資源を持たないスウェーデンでは、70年の77%から95年の43%へと着実に石油依存度を削減 、スウェーデンの エネルギーシステムの中で原子力発電は重要な位置を占めている。石油危機当時の73年度には77.4%だったエネルギー消費に占める 石油依存度は、2001年度に50%になった。(エネルギー消費と発電の石油依存度は違う)現在の日本には、53基の原発あり、発電量で37%を占め、 これを50?まで戦略上持っていきたいというが政府の意向。電力10社では原発31%、石炭火力26%、LNG・LPG火力24%と構成が異なるものの、 いずれも原発依存度は30%台と高い。日本の原子力発電所は17カ所、53基が稼動中。その数は米国、フランスについで3番目。 国内総発電量の37%の日本に対し、アメリカは20?でしかない。ここまで原発への依存度が高くなると撤去するわけにもいかない。 地球温暖化対策として化石燃料を増やせない現在、日本では原発でカバーせざるを得ないのが実情。刈羽原発を筆頭として、日本列島は どこでも地震が起こり得る。今度の地震も新たな活断層が動いたというが、日本で活断層を避けるのは難しい。 今回のように地震が起こって初めて分かるのが現状である。資源の乏しい日本では、エネルギーを確保、維持していくことは国の盛衰に関わる。 といって数年来の原発事故や安全性隠しで原発に対する不信感は非常に強い。敦賀周辺や東海周辺の原発の地下には活断層がある可能性があり、 一つ間違えば、大都市が近くに多くあるため、数十万、数百万単位で死者が出る可能性がある。 この問題は日本にとって今後ますます大きく問われることになる。 byebye ・ω・o)ノ゛ ・・・・・・・ 2006年08月06日(日) 1951, ローマから日本が見えるー20 \(^▽^*)おはよう ー読書日記ー 第八章 「パクス・ロマーナ」への道 −3 ーローマ軍団のリストラ 皇帝アウグストゥスは税制を整理・再構成をすることによって、以後のローマ帝国の財政面の基盤を確立した。 (字数の関係でカット10年08月06日) ・・・・・・・・ 2005年08月06日(土) 1586, 日本経済恐ろしい未来 「日本経済 恐ろしい未来」ー 読書日記 この本を図書館から、何回か借りてきた。そして読み返しながら、日本経済の行方の参考にしている。 (字数の関係上、あとの文章は「引き出し」の読書日記のコーナーに貼り付けてあります。)2008年08月06日 ・・・・・・・・ 2004年08月06日(金) 1221, 運について−2 何回か「運について」(後にコピーしてある)を書いてきたが、再び書いてみる。運にも二種類ある。 受身の運と、積極的に自分からつかみとる運である。 ・受身の運は、「結果として何時も運がついている運」 性格とか、親の愛情が本人に染み付いているとか、宗教的な 環境の中で育っていて良い結果をもたらす運である。ー性格の明るく良い人。良家の子女(躾がゆきとどいている人)。 ・積極的な運は、「何事にもポイントがある、それを見逃さないよう努力をする。意志こそ運の原動力、原因」という運である。 ここで取りあげる運は、両者を重ねもつ運である。両方が揃って初めて開ける運である。 私の周辺の女性に、美人で、性格が明るくて、一生懸命に生きているが、そのわりには状況が不幸せの人が何人もいる。 やっと幸せを手に入れたと思ったら、すぐに不幸のどん底に落ちてしまう。よく見ていると、両親が不仲だったり等、色いろの理由が ハッキリみえる。「ある程度耐える」という家系からくる知識・体質を持ってない。「ありがとう」を繰り返し言いつづけることは、 耐えることの呪文である。運が上向く以前に、耐えることが出来ない習慣を変える作用がある。いま一つ、言葉の重要性を知らない。 「自分は、ついている(運がある)」と、毎日こころの底から思っていれば、そして、「ついている」と現に言葉に出していれば、 ツキが回ってくるに。「俺はついてない」「どうしようもない」「世の中が悪い」「あいつのせいで、こうなった。あの畜生め」と、 あけてもさめても唱えていれば、不運しかこないのは当然である。もし幸運がきても、それが見えなくなってしまっている。 世の中の八割そうだから、それで良いのかもしれないが。チョッとしたことなのに、せっかくの人生、あまりにも勿体ない。 運は因縁と似ている。因は直接の原因、縁は間接原因をいう。これが重なって結果がきまってくる。多くの因縁の中で、 良いものを選択するのも本人である。やはり良い本、良い人、良い芸術、大自然にシャワーのように浴びるしかないのか。 ーーーー 265, 運について -1 2001年12月10日(月) (字数の関係でカット09年08月06日) ・・・・・・・・ 2003年08月06日(水) 854, 閑話休題 全くテーマが浮かばず如何してよいか解らない日がある。まあほとんど毎日だが。そこが面白い面もあるが。 それでも強引に書いた文章ほど後で読むとよいから不思議なものだ。そうこう考えていたら、あるホームページに「閑話休題」という テーマがあった。これから無理にテーマを決めないで、時々「閑話休題」で書くことにした。書いた後でテーマを書き換えればよいし、 そのまま閑話休題としてもよい。野口悠起雄の「超文章法」の中で、テーマの探し方に「窓から飛び降りそうなくらい大変なものである、 考え尽くしてひねり出すしかない」と書いてあったが、それを読んで学者でもそうかとほっとした。それと「文章上達は量をこなして、 校正と推敲を重ねるしかない」と本音で書いていた。結局は努力努力努力しかない。 (字数の関係でカット12年08月06日) ・・・・・・・・ 2002年08月06日(火) 479, 楽観と意志 「楽観は意志、悲観は感情」 この言葉と出会って、「楽観の意味」が始めて理解できたようなきがした。 そういえば若い時ー理想に燃えていた時、その背後には悲観という不安が大きな口を開けて足元にあった。 若い時期の楽観はあくまでも虚構のような夢の世界であった。その正体が意志であった事がこの言葉を知るまで 解ってなかった。それだけ強烈な言葉であった。悲観はただ流されている喜怒哀楽でしかない。 そういう悲観に占められていた時期の自分は、ただ感情的世界でしかなかった。鬱の自分はそう感情の世界にドップリ つかっている意志喪失の自己の世界である。常に鬱の人は教養のない感情に支配されている人が多い。また非行動的の人が多い。 行動の、行は仏教語で判断という。動はあくまで動物の動きでしかない。行動は意志が入った動きだ。行動的ということは 楽観が勝っている状態と云える。私の周辺の80?の人は悲観的な感情に支配されている人だ。また非行動的の人が多い。 行動的かつ楽観的の人はその背後に強烈な意志が隠されている。楽しかった過去を思い出し楽しみ、将来の楽しみの計画をたてている 今。それに過去の計画を実践している今。 それが楽観であり、意志である。 ・・・・・・・・・・ 2001年08月06日(月) [100] あら!たのし 難しいことをやさしく! やさしいことを深く! 深いことを愉快に! (井上やすし) 井上やすしの本を読んでいて納得して、彼のように紙に書いて机の電気スタンドに張ってある。 彼の言葉じゃなくて誰かの言葉を彼なりに変えた言葉だが。 コツとか要領を旨くついている。 天才はそれぞれこの方法を子供の時より造りあげていた。考えている対象の文章化とか、ゲーム化とか絵画化とかして。 楽しみまで高めるのはそう簡単ではないが、でもやってやれないことはない。 「四S主義 = シンプリフィケーション スタンダディゼーション スペシャリゼーション セグメンテーション 」というチェーン理論のベースになる教えも、これに近い。
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2012年08月05日(日)
オリンピック開会式で久しぶりにサッカーのベッカム選手の姿があったが、彼は強迫性障害であることを最近、告白した。 「何でもまっすぐに並んでいないと気が済まないし、何でもペアになってないと気が済まない」という。自宅の冷蔵庫や、宿泊先の 部屋でもすべてを「左右対象でまっすぐ」に並べ直す作業に長時間を費やす。 ディカプリオ主演、『アビエイター』のモデルに なった大富豪のハワード・ヒューズも、この病。この映画をみたが、「すべてのものが汚染されている」という考えにとりつかれ、 人との接触を避けるようになり、自分が買い取ったホテルで20年間も暮らして、最後は孤独死を遂げた。 ーそこで、ネット辞書で検索してみるとー ≪ 強迫性障害とは、簡単にいうと「わかっちゃいるけどやめられない症候群」。自分でも不合理だと思いながら何回も繰り返すので、 本人にとっては大変つらい病気です。よくみられるものは、トイレに入った後何回も手を洗う、ドアのカギをかけたかどうか、ガス栓を しめたかどうか何回も確認するというもの。本来これらの行為は安全を確保するために誰でも行うが、それが何回も何十回も 確認しないと気がすまない状態になると社会的に支障をきたすことになり、何らかの治療が必要となります≫ とあった。 これは、心の病と、脳の病の原因があり、それぞれの治療がおこなわれているという。心の病の場合、過去の「喪失と悲しみ」が、 原因になっていることが多い。病気に至るのは、喪失の悲しみを乗り越えられないため。人生は、考えてみれば喪失と悲しみがつきもの。 そんなことをいったら現在の私は、重症の強迫性障害に陥っていて当然である。定年も転職も失業も同じ。「喪失と悲しみ」の中で、 最も辛い一つは、連れ合いとの死別。傷が癒えるに最低二年は要するという。 亡くなった姉が晩年、合唱の先生をしていたが、 未亡人だけのグループをつくって(歌で互いに癒しを隠れテーマにして)いた。その姉が私に、「誰も平静を装っているが、 死別の傷のためか尋常でない何かを感じる!」という。 躁鬱症も、分裂症も、この強迫障害も、誰もが多かれ少なかれ持っている。 それをコントロールしようとしてできるものでない。私も当然、それに思い当たる強迫障害に近い症状が幾つかある。多人数の 兄姉の末っ子で、両親が終戦直後で、家業の再創業期にあり、異常な生活環境にあった影響が、心の奧底に大きく存在していた。 人生を通して、その脱皮が人生のテーマだった。それぞれが、それを抱え生涯を生きているのである。私の場合、心の底から笑える 性格があったことと、両親の温もりが地熱としてあったことが、症状を軽くしてくれていた。分裂、躁鬱、強迫障害症の三つを 束ねるのが自己になる。 ・・・・・・ 3784, ツール・ド・フランス 2011年08月05日(金) 昨夜もツール・ド・フランスの総集編の録画が再放送されていた。これで三度目になる。 ーまずは、ウィキペディアより、ツール・ド・フランスの概要よりー 【 毎年7月に23日間の日程で行われるステージレースで距離にして3300km前後、高低差2000m以上という起伏に富んだコースを走りぬく。 フランス国内でのレースが中心だがイギリス、イタリア、スペイン、ベルギー、モナコなど周辺国が舞台になるステージもある。 ステージ数は1993年以降「プロローグ」を含め全21ステージが定着しているが、それ以前はもっと多いステージ数で争われることもあった。 平坦ステージ、山岳ステージ、タイムトライアルステージ(個人、チーム)と多彩なステージ設定がされているが、山岳の比重が大きく なることの多いジロ・デ・イタリアやブエルタ・ア・エスパーニャに比べて平地ステージと山岳ステージのバランスとれた構成となっている。 一社ないし数社のスポンサーの名を冠した9人編成(最低6人)のチームが、20〜22チーム参加する。 出場する選手の国籍はヨーロッパだけに限らずアメリカやオーストラリア、カザフスタン、コロンビアなど多様である。 総合成績1位の選手には黄色のジャージ「マイヨ・ジョーヌ」が与えられるほかスプリント賞、山岳賞、新人賞といった各賞の対象者も 特別なジャージを着用する。 賞金総額は2009年の場合で約320万ユーロ、うち総合優勝者に45万ユーロとなっているほか、 各ステージ優勝やスプリント賞・山岳賞などに細かく賞金が設定されている。 ●特徴として、例年、前半は平坦基調のステージが続き、スピードマンの逃げやスプリンターによる迫力あるゴールスプリントが見られる。 そして中盤に一度山岳を通過し優勝候補が絞り込まれ、その後はまた平坦ステージが続き、今度はポイント賞争いが絞り込まれる。 後半にかけてはラルプ・デュエズ、ガリビエ、モン・ヴァントゥなどの峠を舞台にした山岳ステージで総合優勝や山岳賞をかけた オールラウンダーやクライマーたちの戦いが繰り広げられる。2度の山岳コースはそれぞれ3日ほど繰り広げられ、それぞれピレネー山脈と アルプス山脈を使う事が多いため、ピレネーラウンド、アルプスラウンドと呼ばれる。間の平坦基調ステージは主にこの2つの山脈の間を 移動するために設定されているが、この緩急つけたレイアウトと平坦ステージの多さ、ポイント賞のシステム(後述)などもあり、 スプリンターが一番ポイント賞を獲得しやすいグランツールとなっている。 レースが非常に大規模、かつ露出度が高いため 専門の本部が置かれおよそ500名のスタッフが運営に関わる。また交通規制やレース中の警備、極端な不正行為の取締りはジャンダルマリ (フランス国家憲兵隊)とポリスナシオナル(フランス国家警察)の2系統の警察が担当しており、これに動員される人数が約2万5000人。 さらにボランティアで警備などを担当する人は数十万人にのぼると推察されている。】 ★ この数年、7月になると、この自転車レースを見るのが楽しみになっている。色いろな賞があるが、個人総合が最も価値ある賞。 これを目指して3300kの熾烈な争いになる。距離が距離だけに、その間に多くのアクシデントが生じる。もちろん、万一の故障に備えて、 自転車を数台のせた車が伴走している。その沿道には熱狂的ファンが詰めかけ応援をする。もちろん、TVの実況がある。フランス的なのは、 最後の区間は、パリ近くに場所を変え、凱旋レースになる。ここでは区間賞だけで、総合賞は別になる。そのため、選手もギャラリーも お祭り気分になる。ただし、完走しなければ、総合優勝を失うため、同じチームの選手がヒーローをアシストする。 ・・・・・・・ 3419, 新たなる金融危機に向かう世界 2010年08月05日(木) 「新たなる金融危機に向かう世界 」副島隆彦 (著) ーまずは、アマゾンの内容紹介からー ギリシャの財政危機に端を発したユーロ暴落の裏側にはアメリカの仕掛けがあった。 アメリカは米国債に世界の資金を環流させなければもうもたないからだ。そして5月6日にダウが一時998ドル急落する過程で、 ゴールドマン・サックスのロボット・トレーディング・システムが壊された。このあと、金(ゴールド)が崩される。 そして、金(ゴールド)の大きな下落のあとにドル(米国債)が暴落させられるだろう。 ――サブプライム崩れを始め、 これまでことごとく経済予測を当ててきた著者が、2010年末の恐慌突入に向けてさらに下落を繰り返す世界の金融経済を読む。 〜〜 面白そうなので、ネットで買ったが、☆4つ、というところか。 *現在、世界のゴールドは、16万トンといわれているが、それは表の話で、バチカン、イギリス、スイスに、 それぞれ10万トン、合計30万トンある。したがって、16+30=46万トンあり、1600兆円あるとか。 だから、いつでも金本位制度へ戻ることは可能である。ただし、 先ほどの国に覇権が戻るということか? *ゴールドの大きな値下がりと、大きく新聞広告に書かれていたが、グラム3000円で、最大2500円でしかない。 現在ユーロが狙われているが、それが終わると、次はゴールドが、狙われる可能性があるという。 そして、その次にはドル(米国債)が下げられる。 ゴールドが値上がりをすると騒いでいた副島が、舌の根の乾かないうちに? *秋以降には、アメリカの株価が6500ドルに向かって動き出す。 *アメリカは、不良債権4000兆円の実損処理をしなければならない。これは血をみるおもいで、やらなければならない。 〜〜 以上が印象に残ったところだが、今年、来年、再来年と、大きな危機が次々と襲ってくる。 それは株価や、国債の暴落とか、実物経済でも不動産とかの暴落として現われてくる。恐ろしい限りである。 100年か、500年に一度の変動期に入ったが、まずは徹底的破壊から始る。それが日ごと現象に現れてきているが、 再来年には、非常に厳しい局面を世界も、日本もむかえる事になる。10年、20年スパンに渡ることになるから、 想像を絶した場面が次々と現れる。 背後にあるのは、情報化社会のウェーブ。 ・・・・・・・・ 3044、罪深き新自由主義 2009年08月05日(水) 「罪深き新自由主義」 高杉 良 (著), 佐高 信 (著) 対談・高杉良×佐高信である。二人は「小泉・竹中路線」の深層構造を取り上げ批判、 小泉・竹中路線の罪でもある「かんぽの宿」問題と、マスメディアの劣化を鋭く問うている。 「現在の日本にリーダーはいなくなった」ことに二人は共鳴し、今の不景気は小泉・竹中不況と言い切る。 小泉・竹中虚構改革で得をしたのは米国だけで、ライブドアを太らせたのも小泉の「改革」を悪用しただけという。 新自由主義を標榜していたアメリカがこけたのだから、日本は重症になって当然。 去年の9・15による世界的な金融恐慌が無ければ、これだけ早くアメリカの国家的犯罪も露出はしなかった。 数年前に、アメリカの投資会社のトップがインタビューで、耳を疑うようなことを平然と言っていた。 《 日本の1985年のバブル発端のプラザ合意で、日本銀行は金融緩和を大胆に進めた。あれは我われが意図的に仕掛けた政治的な戦略。 その結果としてのバブル崩壊と、その後の失われた10年で、我われは日本を徹底的に買い叩いた。》と・・。 (以下、字数制限のためカット 2,011年8月5日) ・・・・・・・・・ 2679, ソルジェニーツィンが亡くなった 2008年08月05日(火) ロシアの作家のソルジェニーツィン が亡くなったと報じていた。 享年89歳だった。 私が20代前半の頃に、『イワン・デニーソヴィチの一日』『煉獄のなかで』『ガン病棟』を読んで、 大きな衝撃を受けた記憶が鮮明に残っている。 当時のソ連は一番勢いがあった時期。 反体制は秘密警察に捕まり、収容所に入れられるなどの弾圧を受けた。 その経験を書いたものだが、彼の文からソ連の共産党支配の弾圧の中の重苦しさが作品から滲み出ていた。 (字数の関係でカット 09年08月5日) ーこのWeb辞書の中に次ぎの一節がある 【 1991年12月31日深夜、ソ連は消滅してしまった。代わりにロシア共和国が消滅して再生したロシア連邦は、 ソルジェニーツィンの提言どおりのロシアではなかった。 ロシア連邦の中で再び民族が捕われている。 彼の地元のチェチェン共和国はかつてエリツィンに、今はプーチンに独立を妨げられたままである。 彼は書いた。「それぞれの民族は、たとえ最も小さなものであっても、神の意志によってこの世に生まれてきて、 それぞれ独自性をもっているのである。ウラジミール・ソロヴィヨフは、キリスト教の戒めをもじって、 こう書いている。『自分の民族と同様に、他の民族を愛せよ』 ロシア人の民族自決権を認めるなら、他の民族の自決権も認めるロシア連邦になるように願うものである。】 40年前といえば、ブレジネフが第一書記で、コスイギンが首相だった。二十年近くがソ連の絶頂期だった。 この小説を読んだ感想は、「歴史的にみてー百年単位でみたらソルジェ二ーツェンは大作家、この二人の権力者は歴史的汚点」と、 直感したことを憶えている。現在、ブッシュとかいうアメリカ大統領は、話題を出すこと自体が小汚い気がする。 それだけ現在のアメリカは狂乱状態と言ってよい。 現在の日本のエリートとかいう政・財・官の連中! このアメリカの隷属に 尻尾の振り方で選抜されているに過ぎない。何かうら悲しい気がするが、自分のコンプレックスが根こそぎ解消できることも事実。 「この隷属の御陰で、物理的に恵まれた時代を過ごせてのは我々の世代だろう!」の、心の奥の声、これも事実。 ・・・・・・・・・ 2007年08月05日(日) 2315, 風評で県外観光客が10分の1!ですと ・。*ヾ(´∀`o)+。才ノヽ…YΘ!! 先日の読売新聞によると、 「・・県によると、7月16日の地震発生以降、県内での旅館やホテルのキャンセルは、約5万件に上り、 県外からの観光客は例年の10分の1以下にとどまっている。地震の被害がほとんどなかった佐渡や妙高高原、 越後湯沢温泉でも観光客が激減し、原発の被災などによる風評被害が深刻化している。」(2007年8月2日 読売新聞) 当社にとって、あまり関係ないと思っていた風評も、日ごと影響が出始めている。今のところ10?ほどだが、県外の観光客が 10分の1とは尋常ではない。 (以下、字数制限のためカット 2,011年8月5日) ・・・・・・・・ 2006年08月05日(土) 1950, 第四回新潟県活性化の会ー概要 (+>∀<+)ノおぁはは〜よう! 7月の28日に行われた「新潟県活性化の会」の概要を、私の主観でマトメてみた。 *「環日本海拠点都市宣言」をする。 −冷戦終了後、中国とロシアが自由経済を取り入れ成長。 この十数年で、環日本海の重要度が全く変わってしまった。これからは環日本海の時代である。 首都圏から新幹線2時間圏の新潟は非常に恵まれ有利な立地にある。 それを高らかに宣言し、全エネルギーを集中すべきである。 このままでは、北陸新幹線開通を機に、金沢、富山、福井(北陸地区)が環日本海の拠点都市になる。 *日本海時代の象徴として、首都東京から新幹線の新潟空港への直接乗り入れを全県総力をあげて実現をする。 *新潟空港までの新幹線延長工事が、55億の投資で延長工事が可能かどうか? それを可能にする構想案を一般募集をする。採用の際には、その案に対して500~1千万円の懸賞を出す。 「新潟国際空港への新幹線直接乗入れゴーゴー(55)作戦」いうネーミングにする。 *まず公共事業ありきではなく、 民間が主導をとって環日本海拠点都市としての機能 ー流通情報基地などーの充実をはかる。 *新幹線延長工事に合わせて、特区構想を、幾つか立ち上げる。(高層ビル特区、流通特区、チャイナ特区、朝鮮特区・・) 高層ビル特区は、あらかじめ土地を沿線に買っておき、二倍〜三倍の値段で売りぬけ、工事代金に振り向ける。 *新潟駅再開発と合わせて2015年の完成を厳守すること。 ▼ 以上だが、一つの目標(新潟県活性化)に向かって知恵を出し合って議論するのも、面白いものである。 それぞれの個性が意見として出てくるのと、「模擬・県議会小委員会」の議論のようでもある。 ・・・・・・・・ 2005年08月05日(金) 1585, 自民郵政解散の攻防 いま現在、自民党が下野の恐れが出てきた。そのため衆院で反対票を投じた連中が慌てだした。 流れからいって、一般の国民から不支持をされることは間違いがないからだ。再選はホボ絶望になる。これで衆院を解散すれば、 郵政改革阻止の犯人探しになって血祭りに間違いなくされてしまう。旧守派は、その現実的な可能性に震える事態になってしまった。 (以下、字数制限のためカット 2,010年8月5日) ・・・・・・・・ 2004年08月05日(木) 1220, 日記について このホームページで随想日記と、日々の出来事を書いているバードウォッチングを公開しているが、 その他に手書きで「10行日記を」つけている。ところが、最近はマンネリぎみである。 そこで以前買った「4行日記」と、荒川洋治の「日記をつける」と阿久悠の「日記力」を読みかえしてみた。 ・その日付けと曜日と天気を書き、 時系列に書くのもよいー特に天気はその日の自然環境であるから重要だという。 「今日は快晴で、うだるような暑さであった」とか ・身辺の出来事を書いて、会った人の会話の内容、食事の内容、夢の内容等を具体的に書くー時間も書いておくとよい ・その日読んだ本、TVのドラマの感想 ・今日の新聞記事の気になったスポーツとか、政治等の感想を書く。 それ位のことなら幾らでも身辺に転がっている。雑事として、あまり書かなかった内容こそ、後で読んでみると大事が多い。 日記は、「その日でしか書けないこと」を書くことが重要だという。 ホテルの客室と同じで、その日に売らなくては、 単なる空間でしかないのだ。 その日の雑事・出来事を書いてこそ、意味があるのだという。 通勤の新幹線の中での観察とか、知人のこととか、その日の新聞ネタとか、立ち寄った本屋の印象とか幾らでもあった。 手書きの日記までテーマ日記主義を通そうとしていたのだ。勝手に枠を決めて、幾らでも書くべき当日の日常を書かなかった。 (以下、字数制限のためカット 2,012年8月5日) ・・・・・・・・ 2003年08月05日(火) 853, 熊の世界 昨夜のゴールデンタイムのNHKスペシャルで岩合光昭の「北極熊」を放映していた。 そういえば先月行ったアラスカのツアーで、ガイドの伊藤さんから熊の生態の話を多く聞いた。 熊は他の動物と違い、仲間内の共食いが日常当たり前の世界。子供が生まれて8割から9割が途中で殺され、その大部分が 他の熊に食べられてしまうという。雄熊が実の子供を食べてしまうだけでなく、メスも度々食べられてしまう。 (以下、字数制限のためカット 2,010年8月5日) ・・・・・・・ 2002年08月05日(月) 478、100円ショップ 以前も他のテーマの中で書いたことがあるが、100円ショップについて書いてみる。初めは泡沫に見えた100円ショップも社会的認知を 得たといってよい。結構便利で使え勝手のよいものが多い。今でも月に一回は必ずいく。先回は、センスを買った。私の場合、 なくす確率が8割である、いや100?である。それなら割り切って、100円ショップのセンスを買ってみた。悪くはない、 ワンシーズン持てば充分である。3本買ったが、恐らくあと二ヶ月で二本は壊すか無くすだろう。でも200円でしかない。 旅行用で便利なものも多い。飛行機やバスで使う空気枕。小物をいれる網でできている子袋。健康機器、ハンカチ、食料いろいろある。 この良いところは、トレードオフの商品が多い。一つの機能の他は全て殺ぎ落としているのがよい。初めは、無印良品がそうであった。 (以下、字数制限のためカット 2,011年8月5日) ・・・・・・・・・ 2001年08月05日(日) [99] 現地日本人ガイド −2 南アフリカの50歳の女ガイド。 日本の商社で知り合ったイギリス人と結婚。 いろいろあってその旦那とケープタウンに住んでいるという。不安はないかと聞くとその心情の一端を話してくれた。 子供の名前の件で真剣に日本名にするか、それとも英国名にするか戦いになるらしい。自分が死んだ場合残るのは子供の名前だけ。 自分の存在がそれこそ瞬間虚無になってしまうという不安らしい。最近までケープタウンに一つだけしか日本名の墓はなかったという。 移住は若いときはいいが、老年になるときいてくるという。子供が独立し亭主が亡くなった時がきついと言っていた。 一つしかない墓の名前が女の名前でそれを見たとき、芯から不安を感じたという。聞いているだけで肌が寒くなってきた。
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2012年08月04日(土)
団塊世代が定年をむかえ、会社から家庭中心の生活に入りつつある。しかし、そこには妻という海千山千の難敵が控えている。 そして丁度良い捌け口の対象として鬼婆化して団塊粗大ゴミに襲いかかってくる。 団塊粗大ゴミの妻たちも、女社会では、 目のつく嫌われ者として君臨しているから、陰湿な闘いの勇者として力は蓄えている。ところが、その団塊ジュニアの男も、 厳しい立場にある。対象になる女性の7割近くが結婚相手に年収400万以上を求めているが、それを満たすのは僅かに 25%しか存在してない。そこに45%の絶対的開きがある。そのため未婚の男女が増えている。去年の男性の自殺率は女性の二倍。 3万数千のうち、二万以上が男である。 女性は9割以上が、「今度生まれてくるときも女が良い」という。 先日も中学の同期会があったが元気が良いのは女性だけ、男は片隅で大人しい。 家内と私の関係を見ていても、同じ流れ。 色いろあって自宅は家内名義になった途端に・・連日、サンドバック代り。 外国人の目からみて、中年女性連れがデパートや レストランに多く見かけるのに驚くという。旦那が会社で必死に働いている間に、長年かけてTVやネットで文化的教養が蓄積され、 コンサートホールや、世界的名画の展覧会などに大挙してオバサンが押し寄せる。そこに添え物のように連れてきてもらっているのが 亭主という図式。 家内を見ていて気づいたが、自分の行き先に合わせて相手を選別している。行動パターンは単独行動が基本。 年に一度は、4日間乗り放題の特別割引を使い、4日連続の日帰りの東京通いである。 曰く、「ツアーと思えばよい。 単独行動は気ままでよい。問題は一人でランチがとれるかどうか。これを身に付ければ東京は面白さが数倍になる」とか。 世界中を旅行した蓄積は、そんなことは朝飯前。 要はオバサン化いや、オバアサン化したということ。とにもかくにも、男と 違い、消耗していない。「国滅びても山河あり」というが、国が衰えると女が表立ってくる。リーマンショックと東北大震災で、 明らかに世界も日本も激変の嵐に入ってしまった。その背景には、情報化社会の本格的到来がある。 激変現象の一つが、 女の優位社会の到来がある。 子供の頃から、姉が4人もいて鍛えられていた素養が、ここで活きてくるのか? ったく。 ・・・・・・ 3783, ユング ー16 2011年08月04日(木) * ユング心理学、3つの流れ ー � 発達派 ☆ 発達派ー人間の精神的成熟と対人関係 【 ユング派の第三の流れは発達派と呼ばれており、主にロンドンを中心に活躍しているユング派の人たち。ロンドンという ユング派とフロイト派の両方が交流しながら発展している地域柄もあって、フロイト派の精神分析に近い考え方を持っている。 この派の特徴の一つに、「成人の人格の発達における幼児期の重要性を強調」している。 その人が幼児期にどのような親子関係で 育ってきたかが、その人の現在の人格のあり方にとって大きな影響力を持っているという考え方。その頃の親子関係が、対人関係と 感情や衝動のコントロールに関して、非常に重要になってしまう。その頃、あまり親に愛されてないと感じた子供は大人になって からも、「自分は(親に愛されてなかったから)もっと愛されたい」とか、「自分は、いつも良い子でないと受け入れて もらえなかったから、 この人にも良い人と思われないと、見捨てられる」とか、歪んでいきやすい性格になってしまう。 ー発達派の治療態度ー 治療場面で、治療者と患者(あるいは相談者)にわきおこる転移、逆転移を取り扱うことを主な作業とするのも発達派の特徴である。 転移とは、治療の過程で相談者がそれまでの人生において重要だった人物(親・養育者)との関係を、治療者との間で再現することをいう。 つまり、治療過程で、患者(相談者)が、両親や、それに類する人に感じられる人になるということである。 これと逆に、治療者が相談者に抱く特別の感情を逆転移という。この転移、逆転移を「対人関係におけるファンタジー・幻想」 といった方が分かりやすいかもしれない。そこに、集合的・普遍的な父親像、母親像も表現されるので、それが重要な分析材料になる。 】 ▼ いかに、幼児への親の対し方が難しいか、その辺のところが人間の精神の成熟の鍵が隠されている。10歳までに人間の性格、能力の 殆どが決定されてしまうことは、自分と、至近の人たちを見渡せば分かる。そこまで、立ち戻って治療をしていくのが発達派の治療態度。 これを血筋と昔から日本人は言っていた。(哲学的にいえばハビタス)。 もちろん、それぞれ例外はあるが・・ 両親との関係から、 現在の自分に至ったプロセスを見つめ、その歪みを自覚させるように導き出す。 多かれ少なかれ歪みの集合体が自分ということになる。 ・・・・・・・ 3418, 哲学者の言葉 100 2010年08月04日(水) 「最高の人生を送るための哲学者の言葉100」稲垣真美著 何気なく借りてきた本だが、軽いタッチで読みやすいが、唸るような言葉が次々と出てくる。 10項目に100の言葉が書かれ、解説してある。10項目の中から幾つか書き出して考えてみる。 * 第一章、哲学と人間 ≪ 心(ハート)をあらゆる努力で守りなさい。あの血(生命)の泉もそこから流れ出るのだから ≫(ハイデッガー) 【 ハイデガーの学説を、一言で解釈し、具体的に説明するのは容易ではありませんが、古代ギリシャのアリストテレス以来、 種々に考えられてきた「存在」の問題について、人間存在とは「私が在る」ということであり、したがって人間とは「現存在」である、 と規定しました。「現存在」存在の仕方を「世界内存在」とも呼びました。 この場合、「現存在」の言葉の中には、すでに 「今」という時間が入ってきます。 すなわち「存在」とは、常に「時間の問題」に突き当たり、一心同体なのです。 そうだとすると、「今(現在)」とは何でしょうか。「私がこれこれのことを意図している今」「12時である今」 「光が消えている今」等で確定される「今」には「私」「私自身」、あるいはほかの誰でもがそのまま時間ということになります。 「現存在」は時間なのです。「私」は本来的に時間であり、「私」は時間をもっているのです。このように考えて、ハイデガーは、 私たち一人一人の時間としての営みの大切さに思いに至った。南ドイッのフライブルク市の郊外にあったハイデガーの自宅の扉には、 文字を刻み込んだ一枚の板がぶら下げられていました。 その文字はハイデガーが大切な誓いの言葉とした。「旧約聖書」の箴言でした。 「君の心をあらゆる努力で守りなさい。あの血(生命)の泉もそこから流れ出るのだから」ハイデッガーは、この言葉を 「現存在」である自らに対しても、訪れてくる客人たちにも、誓いの言葉として掲げたのです。】 (字数の関係でカット12年08月04日) ・・・・・・・・ 3043,閑話小題 2009年08月04日(火) * 今年の長岡花火 今年の長岡花火、初日(8月2日)は天気予報が雨。 空を見あげると雨が降りそうな雲模様。 それなら降り出したら帰ってくればよいと、行くことにした。 夏の雨は濡れてもしれたものと家内と出かけた。 ところが信濃川の土手に着く少し前からポツリポツリ、それでも花火の誘惑には勝てず最後まで見てきた。 ところが最後の『フェニックス』が始る直前には花火の音と間違う音(雷)と共に雨が降ってきて、 せっかくの花火も興ざめになってしまった。 それでも『天地人』をモチーフにした花火が印象に残った。 二日目の昨日は、前日とうって変わった晴れ。その中での花火は、どれもこれも良かった。 特に最後のフェニックスが感動的であった。河原の人混みの中で歓声と共に一体化して見るのも風情があるもの。 * 失業率、実態は8・8%(助成金にひそむ隠れ失業238万人) 以前にも取り上げたことだが、先日の産経新聞に「6月の完全失業率が5・4%と発表されたが、 助成金申請が238万人に達しているので、それを加えると単純計算で8・8%になる」という記事が載っていた。 欧州が9・4%、アメリカが9・5%というから、この数字が実態といってよい。過去最悪時は、5・5%だから、 僅か一年足らずで1・5倍の失業率になってしまったということだ。 日米欧の失業者が3300万人となり、 昨年の3月から15月で1200万人も増えてしまった。 私たちの年齢が還暦を過ぎたので、深刻な話は聞かないが、 5〜10歳下あたりの年代では深刻な話が多い。 事業が景気に敏感な商売なので、その深刻さが直に伝わってくる。 * 「フランクリンの罫線表」 話が込み入ってくると、(アメリカ元大統領)フランクリンは白い紙を出して、真ん中に線を一本引く。 右にプラスを左にマイナスの印を付ける。そして、相手の言い分を聞きながら、「その点につていは、あなたの得で、 それはコレコレ」とプラスの方へ書き込み、そしてまた「この点につていは、あなたの方が損でそれはコレコレ」と マイナスの方へ書き込む。こじれた話が、それで一目瞭然、利害得失が、表の上にはっきり出されてくるので、 みんな重宝した。これが「フランクリンの罫線表」と云われる表である。 ・・・・・・・・ 2678, 長岡の花火 −2 2008年08月04日(月) −三大花火大会とはー 花火大会といえば秋田の大曲と、隅田川と、長岡の花火と、思っていた。そこで三大花火で調べると、色々地域によって違うようだ。 大阪の花火も、豊田市の花火も、素晴らしいようだ。花火は、それぞれの川辺の情緒を背景に見るから良いので本来比べるものではない。 川辺で各家庭が、空を見上げて団欒するのも花火見学と桜見物ぐらいである。長岡の花火は、フェニックスの花火が中越地震の翌年の 2005年から加わり、段違いによくなった。正三尺玉が、ワイドスタマインと比べてミスボラシクなって、フェニックスが無ければ ベスト10からも除外されても仕方がなかった。最近は同色の花火を同じ場所に重ねて打ち上げるので、三尺玉の数倍の大きさになる。 二年に一度のわりで、初日だけ行っていたが、フェニックスが加わってからは、二日とも行くようになった。 この数年、大曲の花火を部屋の電気を消してTVでみている。これがハイビジョンで、現場にいるようで臨場感がある。 ところで昨夜も二日目の花火見物に行ってきた。初日が良かったので、止めておこうか迷ったが・・・・ それでも〔 天地人花火 「愛と雪」〕という花火が、来年のNHKドラマに因んで特別に打ち上げられるというので、 もしかしたらと行くことにした。やはり期待通り、豪華であった。しかし人でも花火も初日に比べ劣っていた。 仕方が無いだろうが。桜と花火とスキーと海水浴と紅葉と足元をみれば屋外で四季折々に楽しめることが幾らでもある。 少しパソコンとTVから離れることも必要である。でもWowowやレンタルDVDで映画を観るのも面白い! 後記)二年前の同日も、同じテーマで書いていた。完全に忘れているから、改めて読むのも奇妙な気持。 ・・・・・・・・・ 007年08月04日(土) 2314, 今日が今までの人生で一番幸せな日 (p≧w≦q)オッ☆ o(≧▽≦)o ハァァァァァァ♪ 「今日が今まで一番幸せな日」と思って生きることが出来たら、これほど素晴らしいことはないだろう。 ある人がインタビューで話していた言葉である。 この意味を考えれば考えるほど深い。「一日、一生」「今、ここ」「一期一会」 にも通じていく言葉である。これを自分の「人生の言葉」にして、常に意識をしていたら、「ありがとうございました」に匹敵する。 幸せの選択基準がハッキリと見えてくるからだ。一日を疎かにできないし、何が大事で何が大事でないか見えてくるはず。 「今日一日は、人生で一番大事な日であるし幸せな日である」ことは、紛れもない事実。気がつかないのは日常に慣れてしまった自分。 その視線で周囲を見れば素晴らしいことが多くあることに気づくはず。心の底から今日が一番素晴らしい思えるようになれば、 過去の一番幸せだった日々を常に意識し、その気持ちが蘇ることになる。その気持ちは、周囲の幸せを引き寄せる磁石になってくる。 そうは言っていても、それは暗示でしかないじゃないか?と思うようならば、「今日が人生で一番幸せな日に‘なりますように!’」 という‘願い’にすればよい。 願えば叶うからである。もし本心に、そう思えるようになってしまえば、後は簡単。 「昨日と同じか、それより少し今日が幸せ!」と思えればよい。 「もしも身内や親しい人が亡くなって『今日が人生で一番不幸の日』 の場合は? そうは思えないだろう? 如何なものか?」そういう時は、そういうことを考えないの! ただ、最悪の日を最悪に過ごせばよいだけ。今日が人生で一番幸せ!と思える日がきっと来る!と、思えたら思えばよい。 『幸せ』の言葉の替わりに『素晴らしい』でも、『最高』でもよい。日々の中の何気ないことの中にこそ、多くの幸せのタネが 含まれているということだ。そして、それが開花しているのが「いま・ここ」であり、「今日」である。 ・・・・・・・・ 2006年08月04日(金) 1949, 長岡の花火 *第一日目(8月2日) おはよ〜!(*^ワ^*)i(~O~)ふぁ・・ 以前は、取引先の小さなビルの屋上で見ていたが・・・最近は、信濃川の土手まで行って見るのは三年に一度位。 自宅近くの土手から、遠方の花火も風情があると決め込んでいた。 去年の震災復興記念花火で超大型花火・フェニックスが打ち上げられたが、居酒屋でオヤジ相手に飲んでいた。 (字数の関係でカット09年08月04日) ・・・・・・・ 2005年08月04日(木) 1584, 2005年分路線価が公表 先日、2005年分路線価が公表された。 その要約は ・東京都が13年ぶりに上昇。 山手線外側にも値上がりが波及しだした。 ・反面、全国平均は−3.4?で、13年連続下げ。 (字数制限のためカット 2010年8月4日) ・・・・・・・・ 2004年08月04日(水) 1219, 「君のためにできること」−2 20年来、年に10回は酒を飲んていた友人が末期癌になり、終末医療の病院のビハーラに入院している。 本人が言うには、「24時間が拷問である」見舞いに行くたびに衰弱をしていくのが、わか解るから辛い。 丁度その時に、この文章を読んだこともあって身に沁みる内容であった。お盆は20年近くも、古町を飲むのが恒例になっていた。 そして、今年もその時期が目前になっているが、もう無理である。何か寂しいお盆になる。 ー以下は、作家・大崎善生の奥さんの高橋和の「第24回 言葉にできない」のエッセーであるー (サロンのコーナーに、HPが貼り付けてある) (以下、字数の関係でカット2008年8月4日) ・・・・・・・・ 2003年08月04日(月) 852, 孤独について −3 『人は人、我は我、されど仲良く』と武者小路実篤がいっていたが、それこそそれぞれの 「独」を認め、かつ自分の「独」を 大事にする言葉である。『和して同ぜず』も母校の長岡高校の校是であるが、意味がほぼ同じだ。孤独を特に感じるのは、一人旅である。 若い人のバックパッカーの聖書になっている沢木耕太郎の『深夜特急』という小説に、「独り言をブツブツ言いながら一人、 旅をしていた」と書いてあった。サルトルのいう「即自」と「対自」の会話である。青年期によく国内だが一人旅をした。 一人旅に出なくては精神のバランスが崩れてしまいそうであった。帰ってくると何か大きなものによって満たされる感じがよかった。 旅行の最中は寂しいということは全く無かった。誰かと対話をしていたのだろう。旅は孤独のプラスの異次元の世界に浸れる。 いま振りかってみて、「旅日記を克明につけておけばよかったのに」と悔やまれる。「孤独」というキーワードで検索をしていたら、 脳性麻痺の青年のホームページが出てきた。「孤独などと軽がるしく使うな!」とどやされたようだった。口がきけない人や、 盲目の人の孤独感は想像すら出来ない。私の強みは「孤独に強い」と思っていたが、とんでもないことと思い知った。 「孤独は人を殺さないが、絶望は人を殺す」という言葉をアンドレ・マルローがいっているが、孤独の中の絶望に潰されてしまうのが問題。 その時こそ愛読書が一番自分を癒してくれる。大いなる孤独ー作家の心ーとの出会いが本を通じて可能になる。 孤独であればあるほどその邂逅が大きくなる。 いま一つの孤独で考えさせられるのが老人の孤独であろう。 結婚後、母と同居をしている時にトラブルが何回かあったときに、母が「独り暮らしの孤独の知人がいっぱいいる。 彼等はどんなにトラブルがあっても、子供から離れてはならないとシミジミ言っている。我慢をしなくては」とポツリと 言った事があった。知人に数人家庭内離婚者がいる。 ほとんどが浮気がきっかけだ。それでも離婚をして一人暮らしより ましの為だろうか。一番嫌いなのは、孤独と孤立の違いも解らない輩だ。群れたがる内なる羊である。 ・・・・・・・・・・ 2002年08月04日(日) 477, 人口問題と今後の日本 先日平均寿命が発表された。女85歳、男78歳。女性の半分以上が88歳の米寿を祝う事ができるという。 童謡で「今年60の爺さんの・・・」と歌っていたが、いまや爺さんは80歳か90歳である。100年前の日本の人口は4400万人で、 現在までに約3倍になった。これから100年後は丁度半分の6000万前後になる。100年で3倍になり、今後100年で半分になる。 人口のピークは2006年で、翌年から60万人が毎年減っていくという。100年前65歳以上が5?であったのが、 後10年後には28?になり、50年後は37?を超えるという。考えたら背筋が寒くなる。 周辺は年寄りだらけになる。 (字数制限のためカット 2011年8月4日) ・・・・・・・・ 2001年08月04日(土) [98] 現地日本人ガイド 旅行シリーズもそろそろ終わりに近づいてきた。考えると話題はいくらでもある。現地日本人ガイドのことである。 彼らによって印象が全く違ってくる。添乗員から聞いた話だが、彼らが言い出さない限りあまり聞かないほうがいいらしい。 彼らは考えてみれば、色々な事情でそこでガイドをやっていて当然である。でもそれなりに見えてくる。 ここで数回に分けて事情を書いてみよう。 ーイスラエルのガイドの話。 63歳の独り者の男性のガイド。イスラエルに来て10年以上とか。日本の客は本当に少ないらしい。滞在中一回しかシスターの 数人連れしか会わなかった。本人も久しぶりの日本人の為、うれしくて仕方がないらしい。マイク口からはなさず、喋りっぱなし。 一年前癌の手術をして、放射線にかかっているっらしい。神学生崩れらしくて、神学のイスラエルの大学を卒業しているという。 旧約聖書にしても、新約聖書にしても博識だ。 ただいつ死がくるかもしれない不安と、外地で虚無になってしまうかもしれない 不安がそのまま伝わってくる。それがイスラエルの地で聖書の話をすると迫力がありぴったしなのだ。
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2012年08月02日(木)
* 8年ぶりの歯医者 昨日、朝飯を食べていると口の中で小さな砂利みたいなのが引っかかった。何だろうと見ると、奧歯の虫歯に埋めたツメモノ。 8年前に、やはり取れてしまい新潟駅前の歯科で入れ直したもの。その時も被せた下が虫歯になり取れてしまった。今回の原因も、 当時と同じであった。さっそく家内から聞いた歯医者に行くと、間接的だが、「この夏休み時期に飛び込みは困ります」という。 家内に初診でも電話予約をしていくべきと言われたが、私の判断ミス。 そこで二軒目に切り替えて大型のレストラン風の歯医者に 行ってみた。ここは、顧客サービスの視点から、待合室や診療を現代的に組み替えたシステムで、一度入って見たかったところ。 ロビー兼待合室にはパソコン、マッサージ、何台もの小型TVありで、マンガ喫茶のようである。歯科医が4人も居る。 歯医者といえば、個人医院が多く唯我独尊の前近代的スペース。 誰も語らないが、あまり行きたがらないところが多い。 そこは近代的歯科医を目指す徳真会グループで、新潟県内では松村歯科医が数店舗を出店している。10年位前に自宅から車で 5分ほどのところに出店していたが、私の散歩コースにあった。 実際に患者になった感想は、「ここを知ったら一般歯科医には、 二度と入りたくなくなるだろう」というのが感想。一度だけなので、感想は、その位にしておくが、直ぐにレントゲンを取られ、 それが診療台の前のモニターに映し出されて、こことことが虫歯になっており、15回位の治療回数になります。一回の治療の時間を 長くして回数を減らすことも可能ですという。8年間も歯医者にいってないため、あちこちに小さな虫歯があるようだ。 周囲の人の話だと、年に一回歯垢を取ったり、小さな虫歯を直してもらうとか。朝晩、マウスウォッシュでウガイを丹念にして、 電波歯ブラシで磨いているので大丈夫と、八年も行ってなければ、それも仕方がないが。初回もあり、一時間も治療に要した。 * スポーツジムは夏枯れ 会員制度だから、ジムサイドとしての経営上の問題はないが、夏休みに入ると、昼コースもあるが、館内はガラガラ。 去年も全く同じ状況で、大地震の影響と勝手に思い込んでいたが、夏休みで主婦が家に縛られているようだ。冷房がきいているので、 快適だが、家から出るのも億劫のこともある。「とにかく休まない!」をテーマの一つにしているが、人が多いより少ない方が良い。 日が経つにつれ、その場の空気に馴染んでいっている。 ・・・・・・ 3781, ユング ー14 2011年08月02日(火) * ユング心理学、3つの流れ ー 仝電鞠鼻 福悒罐鵐或翰学』福島哲夫著ーP196より) 【 ユングが亡くなって現在に至るまで、ユング心理学の考え方や心理療法派、主に3つ流れ、古典派、原型派、発達派として続いている。 ☆ 古典派= ユングの考え方を、そのまま受け継いでいる。彼らは「心の深層の象徴的イメージの変容に重点が置かれる。 たとえば、個人の中で男性イメージと女性イメージがどのように発展し、一つのまとまりあるものとして機能していくか、ということに 注目する態度に代表される。そして、このような様々なイメージを一つのまとまりあるものとしていく自己の元型の働きが夢や空想の中に どのように表現されるているかを読み取り、その働きが活発になるように関わっていく。男性、女性イメージのほかにも、英雄が龍と 戦って勝利するイメージが、母親的なものからの精神的な自立の象徴と考えられて肯定的に扱われる。 また、それまでの古い自分が死んで、 新しい自分が生まれ変わる「死と再生」、あるいは、それが儀式化されて成人式や結婚式、葬式の儀礼となった「通過儀礼」などの、 イメージを個人が内面で、どのように体験するかということも大事にされる。これは、内面のイメージの変容をどのように体験して、 それまでの自分と、どう違った自分になるかに大きな関心が向いている。 ー古典派の治療態度とはー ここで、グリム童話の「かえるの王様」を例にして自己表現を、取り上げている。 <姫が気に入りの金の鞠を泉に落として、悲しんでいるところ、蛙が現れ、条件をつきで鞠をとってもらう。しかし、蛙を気持ち悪く 思う姫は約束を破り、叩きつけてしまう。すると蛙は王子に変身し、二人は結婚をする> 古典派では、金の鞠を「自己」、 蛙を、未知なる男性、他者。結婚を自己実現と解釈する。彼女は他者と初めは嫌々ながら密接に関わりながら、正面から対決することで 大人になり、自己実現(結婚)をしていく。古典派は、このような変容過程が、実際の個人に起こることを期待するのが、立場になる。】 ▼ ひとつ夢でも、ユングの各派で解釈が色いろ違ってくる。古典派は統合と発達を大事にする。結婚=自己実現するために、 他者を叩きつけてしまう、という部分が象徴的。叩きつけられた他者は、そこで王子=理想的相手に変身するというのも意味深長。 これでは、結婚してからの蛙はたまったものでない。しかし、そういうものと心の奥で、割り切るしかないのか? いずれにしても、 親からの自立は、人類の永遠のテーマとなる。成人式も、結婚式も、ひとつの通過儀礼である。そこで、二世代、三世代家族は 多くの課題を持ってしまうのは当然の結果である。一生、小さな岩場の中に閉じ込められた山椒魚になる。気がつかないのは自分だけ。 ・・・・・・ 3416, 「憎国心のすすめ」 ー2 2010年08月02日(月) ■ 知性の定義 知性を電子辞書で調べると、 「知性とは、『知覚を認識に作り上げる精神機能。感覚によって得られた素材を、整理・統一し、認識に至る精神機能』とある。 ここで日本人には知性が足りないと繰り返しているが、その「知性とは何か」と言われるといま一つ曖昧である。 そこで著者は知性について一章をさいて書いている。 ー知性について書いている印象に残った部分を書き出してみるー * 私は、「知性とは何をしたらよいかわからないときに用いるものだ」というジャン・ピアジェの明快な表現が好きだ。 つまり「正しい答え」がないときや、通常の対処で十分とは思えないときに必要となる。 柔軟に対処したり 手探りしたりする能力で、いわば知的な即興の能力である。 モーッァルトやバッハのコンチェルトのように高度に 磨き上げられた作品ではなく、ジャズの即興演奏を思い浮かべるとわかりやすい。知性とは、即興で作られ、 思考と行動によって磨かれる「過程」のことである。』 (『知性はいつ生まれたか』ウィリアム・カルヴイン著・草思社) *『 新しい情況に当面したとき、盲目的にもがくというような、本能的方法(例えば運動暴発)によらずに適応する仕方 または課題を解決する方法をいう。過去の経験を利用することが多いので、この能力(記憶)をも〈知性〉のうちに入れるのが 普通であって、これを〈再生的知性〉という。また、人の知性のうちには抽象的思考力があるが、これだけを〈知性〉と 呼ぽうとするものもある。 なお、《英知》というコトバは精神の知的側面、とくに高級な思考作用をいう。 〈概念をつかう能力〉のような高級なものをさすことが多い。』 *『ー 困難な状況に直面して生来的なまたは習慣的な少数の反応しか持ち合わせていない動物は、その反応が成功するか、 環境の偶然の変化によって条件が好転するまで、その力と衝動の持続する限り、その持ち合わせの反応を無駄に繰返すに止まる。 (字数の関係でカット、2012年8月2日) ・・・・・・・ 3041,自宅近くの再開発地区のSCの概要 2009年08月02日(日) 自宅から歩いて7〜8分のところの再開発地区に、25店舗のオープンモールのショッピングセンターが出来る。 来年3月から徐々にオープンする予定で、その説明会が来週あると折込チラシにあった。長岡駅裏側から直線で歩いて15分で、 (字数の関係でカット、2008年8月2日) ・・・・・・・・・ 2676, ルソーの思想 2008年08月02日(土) 学生時代に戻った気分でルソーについて、考えてみる まずは ーフリー百科事典『ウィキペディア』からー フランスにおいては早くからボダンなどにより君主に主権(政治についての決定権)が存するとの思想が表明されていた。 この君主主権の観念はフランスなどを中心に当時の絶対王制を支える強力な根拠となっていたが、ルソーはこの観念を転用し、 人民にこそ主権が存すると言う人民主権の観念を打ち立てた。一定以上の財産を有するなどの特別の資格を持つ国民ではなく、 その国の国籍を有するもの全てを意味する人民にこそ主権があると宣言したことは、その後の普通選挙制の確立や民主主義の進展に 大きく貢献した。一方、ルソーらのフランス啓蒙思想に触発されて始まったフランス革命において、自由や法の支配は全く無視され、 反革命派と名指しされた者への言われなき迫害、虐殺、裁判なしでの処刑などといった恐怖政治が行われた。 〜〜 こんなところだが、ルソーは、「社会の人々に(殺せる権利)と(殺されない権利)の両方を認めるとする。そうすると、お前の(殺せる権利) と隣人の(殺されない権利)は両立しない。お前は(殺せる権利)と(殺されない権利)のどちらが欲しい?と言われたら(殺されない権利) だろう。だから、社会の皆はお互いを(殺せる権利)を返上し、(殺されない権利)を優先して『社会契約』を自然に結んでるんだ。 (字数の関係でカット、2008年8月2日) ・・・・ 2007年08月02日(木) 2312, 政治家の家族とは・・ −1 *ヾ(´∀`o)+。才ノヽ…YΘ!! あの双子の銀座ママの妹の‘ますいさくら’が、ある雑誌に寄稿していた文章である。 図書館で借りた「銀座ママが教える『できる男』『できない男』の見分け方」を読んでいた。 それによると、彼女はシングルマザーで、そのことで子供が虐めにあわないようにアメリカに留学させていることと、 銀座で合理的システムで値段を思い切って格安にしたことも。「ああ、例のママが書いているのか」と気楽に読み始めたら、 内容は「政治家の家族の火宅の実情」である。政治家の火宅の例としては山村新二郎がいる。よど号ハイジャック事件で 人質交換の時によど号に乗りこんだ政治家だが、最後は自分の娘に殺されてしまった。その家庭を彷彿させる内容である。 政治家は「井戸塀」(政治家は最後は井戸と塀しか残らない)といわれるほど、家(庭)を犠牲にしないと 成り立たない世界である。 (字数の関係でカット、2011年8月2日) ・・・・・・・・・ 2006年08月02日(水) 1947, ローマから日本が見えるー18 (≧∇≦)オハヨウ~ゴザイマス! ー読書日記ー 第八章 「パクス・ロマーナ」への道 −1 ーローマ史最大の名優オクタヴィアヌス登場 (字数の関係でカット、2008年8月2日) ・・・・・・・・ 2005年08月02日(火) 1582, 変化について 「変化、挑戦、戦い」が生物の成長のサイクルである。環境の変化に対して、自らを変えることが成長ともいえる。 また自のサイクルに変化を見つけだすことも必要になってくる。現代はインターネットなどの情報化の技術や、グローバル化で 変化のスピードが益々加速している。ところが変化することは、非常に難しい。とにかく人間は変化を嫌う。 現状を根こそぎ否定しなくてはならないからだ。それが出来なくなった時、脱皮できない蛇のように死ぬしかない。 自分の過去を振り返ってみると、その節々に大きな変化をしている。その変化が止まった時に停滞が始まっていた。 起きた現象に対して、逃げずに直面して戦うことから挑戦の第一歩が始まる。その中から変化が生じてくる。 特に激変の時代には、ただ変わればよいわけではない。激変にあわせてより大きく変身しなくては何の意味も無い。激変の時は、 真似をしていては変化に追いつかない。自らの脳で考えなくてはならない。組織内では、とにかく配転しか能力をのばすことが 出来ない。出世コースは配転を繰り返し、キャリアを重ねさせる。本人にとって重圧かもしれないが、行蔵として蓄積される。 変化は結果として竹の節のように自らを支える役割も果たす。 そのため、節は打たなくてはならない。 世界が、日本が大きな節目にきている。情報化が根こそぎ世界を変えようとしている。 ・・・・・・・・ 2004年08月02日(月) 1217, 広松渉ー哲学について ー25 広松渉の「新哲学入門」を読んで非常に難しいが、今までの常識が、根底から崩されてしまった。 その後、「哲学入門一歩前」を取り寄せて読んだが、むしろ「新哲学入門」のあとで読んでよかった。 広松渉は「もの」から「こと」の世界へのパラダイムチェンジを主張した。「物的世界像」から「事的世界像」への転換。 ・旧来の世界像は「世界、存在界をモノから成り立っているとみなす。 まず独立に存在する実体があって、それら実体が諸々の性格持って互いに関係する」 ・これにたいして、「『事的世界像』は、関係規定態こそ第一次存在とみる。 実体は、関係規定性の存在論的には独立自存体ではない。要するに関係があってこそ、存在がある」と考えた。 広松は、日常意識で当たり前と思ってきたことを疑い、それは根底から違うという。彼は近代哲学者が思索を重ねてきた疑い得ない 「基盤」を、根底から崩そうとする。「私たちが見ている現象が果たして真実なのだろうか。 善悪の判断基準は何なのだろうか。 美しいと思い込んでいるだけではないだろうか。 等、今まで信じられてきた『真・善・美』とは、果たして何だ?」 今の時代は、幸福とか消費を基本的に、「もの」の充実とか消費だけでなくフィーリングとかサービスとかいう価値観でもとらえている。 別荘を持つことより、リゾートホテルの会員権を持つ時代。家を建てるより、旅行をしてまわるほうに価値をおく時代である。 そのサービスとかフィーリングに生活に必要なものと認知してしまっている。この情報化の社会では、ますます広松哲学を 知っておくべきである。実際のところ、次代から次次代のTVは、実際の生の目でみた対象より鮮明に映し出すという。 カメラでは、その域に到達しているというが。こういう時代には、近代哲学者がたてた哲学を根本から 考え直さなくてはならない時代になっている。 それが「事的世界像」への転換というのだ。 ーつづく ・・・・・・・・ 2003年08月02日(土) 850, ミッション・ステートメントー自分の憲法 ー原案ー ・死ぬ時に「すべきことは大方してきた、見るべきものは見てきた、恵まれていたし、面白かったし、幸せな一生であった」 と心から感謝できる人生を生きる。 ・自分が自分の人生の創り手であることを認識し、自分だけの役割を果す。 ・いついかなるときも、「積極的な姿勢とユーモアと誠実さ」を保つこと。 ・私の隠された能力は人を癒すことだ、その能力をより磨きをかけることで社会と周囲の人に貢献していく。 ・何事にも囚われた生き方ではなく、自然の流れに沿って気楽に変化を受け止めていく人間になる。 また何事も「一期一会」と真摯に向き合う。 ・心の声に従って自分の価値観や信念によって行動する。それに対する批判・悪口は全く無視する。 ・子供や孫たちから「これが私の父です。おじいちゃんです」と自信を持っていってもらえる人間になるー人生を送る。 子供が「愛情と慰めと理解」を求めて、私のところにやって来てくれるような人間になる。 家内には私の伴侶として生きてきたことに満足をもてるように勤める。 ・会社に対しては、常に長期的視点に立って改革改善に努め、利益体質を保つように努力をする。 存続は社長としての第一の義務であり、その為には常に新しい知識を導入するよう努力をする。 ・健康には十分気をつけて80歳を大きい目標にする。 ー 具体的には − 1、ホームページは、これからの時代の最低必要な発信基地であり、情報の蓄積倉庫でもある。 その維持発展に努める。 見ていて自他共に面白く魅力に満ちた内容にする。 特に、随想日記は重要な発信媒体かつ蓄積倉庫としていく。 1、毎朝の散歩は一日のスケジュールで欠かせてはならない健康習慣として必ず実行する。1万4千~5千は維持する。 1、年2〜3回の海外旅行は可能な限り続ける。 60歳までに50回の目標はこだわらないが、近づけるよう最大限努力する。 70歳までに70回を次の目標とする。 1、事業は65歳を大きい目安とする。そのための後進の育成を考えていく。デフレの中、借入金の圧縮に勤める。 1、常に新しい変化に注意を向ける。デジタル機器なども可能な限り新しいものを身近に置く。 1、人間関係はこれから大事ネットとして、広く深く創ることにする。但し卑しい人間は絶対に近づけない。 我が内なる卑しさを判断材料にする。これはもっとシビアに徹底する。 1、純粋に助けを求めてきた時は、自分の力の範囲で答えることにする。 1、教養娯楽面では、読書や映画をレンタルやBS・TVを通して可能な限り吸収する。 1、80歳の誕生日にケニヤの高級ホテルで二人の子供と孫たちとサファリをしている。 陽の沈むサバンナでシャンペンを掲げて家内と二人幸せな絶頂にいる。 丁度海外旅行も100回目で、行きたいところはすべて行った満足感で満ちている。 その後日本に帰ってきて酒飲み友達と銀座のスナックで、昔を懐かしみながら好きな歌を歌っている。 ーーーーーーー 以上であるが、やはり大きな手直しが必要に思われる。 現在の延長線上でしかないからだ。 ・・・・・・・・・・ 2002年08月02日(金) 475, ある老女の遺書−1 この文は「心に残るとっておきの話」第五集に載っていた話で、そのまま写し書きしてみる。 ー老人ホームで孤独に死んでいったある老女のロッカーの中から見つかった詩、書き置きです。 「何がわかっているのです!看護婦さん、あなたは何わかっているの? さほど賢くもない年老いた気難しい女、ぼんやりとした目付きをして行動力も緩慢で、食ものをボロボロこぼしても返事をしない。 (努力して、やってみて欲しいの!}とあなたが大声でいっても、そんな事少しも気にかけない様子で、靴下や靴はいつもなくしたまま、 何も逆らわず、何をしようというわけでなく、長い一日を入浴と食事で埋めている。そんなふうにあなたには思え、そんなふうに あなたは私のことを考えているの?もしそうなら、看護婦さん、目を開いて、私を見つめてごらん。 あなたのいうままに、あなたにしたがって食事をし、私がじっと静かにここに座っている間に、私のことを話しましょう。 私が十歳の子供の時、父と母が一緒に暮らし、兄弟姉妹は互いに愛し合い、十六の若い少女のときはウキウキして、もうすぐ愛する人に 巡り会えることを夢み、やがて二十歳になろうとする時、花嫁になり心は踊り、永遠に守ると約束した誓いの言葉。 ー続く ・・・・・・・・ 2001年08月02日(木) [96] 旅行で出会ったー普段会えない人ー ・大手情報機器メーカーをリストラされ傷心の60前後の人 ・三條の67歳位の夫婦ー自在で何もおくさない人ーそのまんま!−イグアス滝でゴミ袋の底に穴をあけ首を通して雨具にしていた。 ・一度も結婚したことがないという70歳半ばの品の良いおばあさん ・ヌー河渡りを見たいばっかりに日本興業銀行を辞め、外資の銀行に勤め始めたのをまた辞めてきた30代半ばの女性 ・30数年前、ある当時?の代議士の娘、自由時間にパリ野郎に誘惑され朝帰り。 青い顔をして皆が心配しているのをしり目に、ピンク色の頬、うつろな目
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