股・戯れ言


BBS

フール・フォー・ユー、フール・フォー・ミー

先日、女子たちで「ファミレスdeドリンクバー飲み放題フリートーク大会」(結構しょっちゅうやってるから大会ってほどでもないが)していたときに、「自分が男に求めるものは何か」という話題となり、
わしが
「性的な部分。私が欲情し、私に欲情してくれること。」
と言ったら、「ちょっと!シノさん、それって薄っぺらくないですか〜?」と非難されてしまったよ。
なんでよ!?
俺はただおまえと、やりたいだけ!っていいじゃないか!
それでキャアキャア言ってた女子が男に求めるのは「やさしさ」なんだそうだ。薄っぺら具合だったらどっちもどっちだと思うのだけど、皆様いかがでしょうか。

まあ、やさしさを求める気持ちもわかる。
「やさしさなんて持ってて当たり前じゃーん」という意見もあるけれど、意外とやさしくない男って多いからね。暴力振るうやつとかさー。貢がれたり、おだててもらえるのが当たり前だと思ってるやつとかさー。

でもお金のことに関しては自分で稼ぐから男をアテにはしないし、
楽しかったり、深い部分の話ができたり、自分をわかってくれたりするのって、友達じゃないかと思ってしまう今日この頃。
自分が傷ついたり凹んだりしたときに、男は決して手を差し伸べてくれない。それどころか邪険に振り払われたり、傷ついていることに気がつかない場合もあるくらいだ。
本当に助けてくれるのは友達だけだ。
助けないまでも、絶対に見捨てないでいてくれるのは友達だけだ。


で、まあ、私は男とは欲情を求め合う関係でありたいのだけど、
その欲情を求め合う男と、友情も持ちたいのですよ。
欲張りでしょうか。
ちなみに、友情を持っている男には欲情は求めません。
だって欲情を求め合う男とはカテゴリーが違うから。別の生き物だから。
って書くと大きく矛盾していることがよくわかるなー。
つまり、欲情を求め合うことと友情を持つことは、両立しないということか。ううむ。へんなことに気がついちゃったな。
ちなみに、
欲情を求め合う→友情に変わるというのがないのだとしても、
欲情を求め合う→家族になるというのはあるのだろうけどね。

私は、友情を持っている→欲情を求め合うというのは実際にあることだと思うのですけれど。逆はないものなのかなー。
欲情を求め合ってしまうと、ダメージや失うものがあまりにも多すぎて、友情はもてないものなのかなー。
まあ、それくらい欲情ってあやういものだからなあ。ダイレクトに肌をさらす分。内側を見せ合い、触れ合い、溶け合わす分。ハイリスク・ハイリターン。


などと言っておりますが、先日、昔ご縁のあった男性から電話がかかってきて、久方ぶりに話をしたのでありました。
以前のわしなら話するのも遠慮していたところだが、時の流れって優秀だね、ああ、元気にしてた?という感覚で話ができた。
それは自分の軸が絶対にブレない、という自信があったからなのだよね。
私は以前の私ではないということを心の底から自信が持てている今だからこそ、話ができたのだろう。臆することなく自分の状況を話せた次第であった。この人に気持ちは持ってかれない、ってわかってたからな。
友情を確立している男にも、同様で、こいつと話をしていても自分の軸は絶対にブレない、気持ちを持ってかれることはない、ってのがあるから友情があるのでありまして。
しかし、欲情を求めあう男には、もう、最初から気持ちを持ってかれているのである。自分の軸なんてブレてもいい、あんたが求めてくれるならば、という心持ちになってしまうのである。
まさにフール・フォー・ユーの世界。
おいらを愛してくれるなら、なんでもおまえの意のままに!だ。


まー、だけどもうここには帰ってこないー(新型セドリック)なんだけどさ。やっぱり、おいら、ひとりじゃだめなんだ。(あ、曲が変わってもうた)


と、最近はルースターズ1stばかりを聞いていたのでルースターズだらけの日記になってしまいましたが、わしは女なのに大江慎也の歌詞に同調ばかりしておるのであった。思春期かよ!
で、「恋をしようよ」を聞いては、ああ、このやりたいって気持ちを皆、いやしいもんだと思ったり惨めなものだと思ったり(かつてのわしも肉体だけ求められるのは自分が惨め、と思ってましたが)して、肉体の関係ってのは人に言うのも憚られる、最低の関係だと思いがちだけれど、
この「やりたい」という気持ちはとてもとても大切なものだと思うのであった。

セックスなんて誰とでもできるけど、誰とでもやりたいわけじゃない。
そこには意志が存在する。この人、と思った人と「やりたい」のだ。
そして、この人にだけ、やられたいのだ。
さらに言うと、この人、というのはこの世でたったひとりしかいないのだよ。

それは全然薄っぺらなことじゃない。罪悪感を感じることでもない。
「わたし」が選ぶことなんだから、全然恥じることじゃない。
と、私は思ってます。
わしは自分のことには自信のない女だけど、この部分に関しては自信を持っているなあ。性的な部分に関して、私は主体的選択をしているからだろう。
いやー単に私に「やりたい」というお誘いがないから、主体的選択するしか
なかったからなのだがね。ザッツ処世術。
2008年10月31日(金)

自己スパルタ愛の幻滅

人間っていうのはもともと
「人をなでなでして、自分をなでなでされるもの」だと思うの。
そんなやさしさのやりとりから、自分も元気をもらう。
だから、人を慰めたら自分も元気出る。
「そんな心配せんかてええて。何とかなるよ」という感じね。
でも、こんなこと言うて、何ともならへんかったらどないしましょ。
そんなこともあるしねぇ。
まあ、神サンいてはるわ、どこかに。



前の日記には瀬戸内寂聴先生のお言葉に胸打たれて涙がビャーっと出たこと書いたけど、今日は朝日新聞の夕刊に載っていた田辺聖子先生の「恋の究極の姿とは?」との問いに対するお言葉。
ええ、また読んだ途端に泣きましたとも。最近、涙腺がバカになってきとるな。
毎日泣いて笑ってと感情がフル回転であるよ。

わしが精神的に一番しんどかった時期に読んでいた本が「愛の幻滅」であった。20代終わり近くのOLが40代半ばのおっさんと恋愛する日々(ちなみに不倫)。わずかな時間しか会えなくても、会うことが楽しみで、嬉しくてという恋することの喜びが余すことなく書かれてておるのだが、同時に時の流れや主人公自身の成長というか生まれ変わりがあったりして、「離れていかなければならない→んなこと考えんでも自然と自立していく」ということについても余すことなく書かれておった。
今、手元にないんで読み返せないんだけど。もしかしたらちょっと違ったかも。
で、この小説の後半〜最後にかけてはまさに「そんな心配せんかてええて。何とかなるよ」という感じなのだよね。

この小説の主な舞台が神戸でありまして。
わしの最後の出張地がその、神戸でございました。
神戸ときいてすぐに思い浮かんだのがクールファイブでも大震災でもなく、この「愛の幻滅」だったのだよなー。
まあ、小説に出てくるようなドライブコースなんかは行けず、市街地から地下鉄で30分くらい離れた山ん中のスーパーでの仕事だったんだけど。(むろん上下作業着)
ちなみに神戸が最後の出張地じゃーと思ってたら、結局最後にもう一丁出張できて最後じゃなくなってしまったんだがね。



その後、神戸には実はもう一度降り立ったのですよ。
沖縄から帰る前に神戸に立ち寄ったのです。
晴天の那覇から一転して、曇天模様の神戸。天気は最悪だったが、この神戸に降り立ったこと自体が、自分にとって
「そんな心配せんかてええて。何とかなるよ」
と言われたよな経験であった。それこそ誰かに慰められて元気が出た感じ。頭をなでなでされたような感じ。
いや、実際にわしに元気を与えてくれたのは友人なんだけど。阪神電鉄乗ってワーワーとテンション上げまくったぜい。
まあ神サン、ホントどこかにいてはった、という感じだ。大変すばらしいなでなでプレゼントでした。



しかし依然としてわしの中にいる神様はオマエはアホだもっと耐えろ強くなれ、まだまだダメだ、このままじゃもっとダメだ、どーすんのオマエ、とわしを厳しく責めたてておる。
ああ、わしは「そんな心配せんかてええて。何とかなるよ」と言ってくれる人が欲しいのに、そばにいて欲しいのに、まだまだ厳しい神様とか、厳しく突き放した人に惹かれている。
そっちを全然手放せないでいる。
そういう人がいないと自分が今よりもっと醜く、汚らわしい人間になってしまうとばかり思ってしまう。


結局、自分をなでなでできない/したくない(自分はなでなでされるに値しない人間だという自己認識がある)からなのだよね。。


そら恋愛できん人間なわけだよ。自分に対してやさしさがないんだもの。
やさしくなりたいなあ。
自分を嫌いになること辞めたはずなんだけどなあ、ちっとも変わんないや。
時間って全然経たないもんだね。もどかしいのー。
2008年10月28日(火)

ひとりでも生きられることなんか、わかってらあ!

こないだ古本屋でなんとなく買った瀬戸内晴美先生の「ひとりでも生きられる」という本が!ものすごーく心打たれました。
もう、しょっぱなから涙ダーダー。

「私は少なくともこれまでの生涯、自分の情熱だけはいつわらず正直に生きてきたといえる」

うわああああ!
わしの中で断固として消えようとしないものも、これなのだよな。
情熱に突き動かされてバカが見るーとか、わざわざそんなことをしなくても、とかばかりが多いわけだが、もうイタイ女になりたくない、傷つきたくない、などと思っていても情熱を消すことが出来ない。というか、全然消えてくれない。最近のわしはその情熱の存在を、もう見て見ぬふりしたほうがいいんだろうな、などと思っておりました。
でも見ないふり出来ないんだよ。
見ないふりしようとすればするほど、それがくっきり見えてくるという始末。
自分の心の思うことがわかってしまうという体たらく。


しかし!しかーし!
自分の情熱に正直になろうとも、
どうしようもないことが世の中には存在するのだ。


情熱みたいなのがなかったら、ものすごく楽になるのだろうけど、
(なぜならば相手を求めないで済むから)
果たして、その状態にはよろこびやかなしみは存在するのかな。
わしは、傷ついてでも、苦しんででも、悲しみに明け暮れてでも、
相手を求めて、ほんの僅かでも悦びを得たいんではないのか。
そういう風に、相手と関わりたかったんではないのか。


でも所詮、そう思っているのは自分だけなのよね。
ひとりよがりというやつですな。
自分はそう思ってても、相手はそんな波瀾万丈を必ずしも望んでいるわけではない。てか、むしろ嫌だろ。平穏が一瞬くらいしかないなんて。
相手に膨大な不安や苦しみを与えられるくらいなら、
ひとりの平穏がいいのだろう。
わしはそれくらい相手を傷つけ、苦しめてきたのだ。そういうことだ。


結局、わたしはひとり。
でもそれはしゃあない。ひとりで生きていくしかない。
それは全然不幸な事じゃない。
情熱を自分で消さなきゃいけなかったことに比べたら、ずっとマシだぜ。

2008年10月26日(日)

ウォーキング・ウーンデッド、いやほんとデッド

毎日イテエことばかり書いていてもしょーがないので、違うことでも書きましょうか。皆さんもう飽きているだろうし。

最近、なんと、無謀にも再びダイエットを始めたのでございますのよ。
「リアーナみてえな格好がしてえ」と思ったりしているのが動機かと言えば、そうではなくて、先週末、なぜか知らないが一日のうちに1時間〜2時間以上歩く機会に二度恵まれたのでした。うひーしんどいーなどと思っていたのだけど、体重計に乗ってみたら週末だけで1キロ以上体重が落ちたので、これはおもしろいなあ、と思い毎日歩き出したのでした。
今日は1時間プラス1時間歩いたので(ってもジャージなどを着て歩き回るのではなく、遠出したあと早歩きで帰ったりするくらいなんだが)、アラ、これは大変に体重落ちたのではないかしら?と思っていたのだけど、

変動した体重はわずか0.1キロでした。

なんだよ!2時間歩いて100グラムしか消費しないのか俺の体は!
燃費よすぎだろ!

いや、まあ、生理中なのでね。体重落ちづらいんだけどさ。
それにしてもがっかりさせられたわい。
こんなことだからわしはわしが嫌いになってしまうんじゃないかよー。

まーよく考えてみたら昼も自炊、夜も自作(母上は最近料理作らなくなったしな)、という状況ですので、おやつを食べるなどの間食がなくなったのだよな〜。だから、ダイエットにはもってこいの状況であるのだ。ストレス溜まってヤケ食いってのの元凶であるストレスもないし。
あと、なるべく金使いたくないので飲みにも出かけない=酒を飲まない(わしは家では酒を飲まない人なのです)というのも、ちょうどよい感じであるよ。
この勢いで頑張り続けたいものです。
・・・わしが甘えさえ出さなければ続くんだよな!
あとわしの体が燃費悪くなりさえすれば!よし、いっちょ病気でもすっか!(ウソ)


が、なんでか知らないが無性に甘いものを食べたい。
いちごジャムのべっっっったり塗ってある食パンを貪り食いたい。
だめだだめだ、我慢しなされ俺!
はー何やっても結局苦行だなあ。。。
ちなみに今自分に買い物も禁じ中。これも欲望との日々戦いで、だめだだめだ我慢しろ耐えろ、と自分に言い聞かせて毎日苦しんでおります。

あと保持しているものをすべて捨てていったりもしておる。こないだ10袋分処分した。わしには「捨てる」という行為もなかなかツライものなのだけど、だめだだめだ物が多すぎるんだ執着するなすべて捨てちまえ!と、心を無にしてものを捨てていく日々だ。

食べること、買うこと、ものを持つこと(保持すること)、好きなように想うことすべてを自分に禁じておるというわけだ。
ストイックになろうとしているのだろうけど、なんか、自分に無理を強要しているだけなような気もする。。。いや、今はいいんだよ!今までが過剰すぎたんだから。
でも、こんなに一気にいろんなことを禁止していると、
そのうち自分に復讐されるような気がするなあ。
反動で暴走して止まらなくなるわしが現れそう。おー怖。
でも今はすべてを禁じて生きていくしかねーんだよ!
苦しんで、血反吐吐いて、ボロボロになりながら前進していくしかねーんだ!
わしの救われる道はそこにしかないんだからなー。
今までの自分は死んで生まれ変わるたぁ、そういうことだからなー。
って、わしゃブッダか。
2008年10月21日(火)

わしゃビリー・ミリガンではないが

若年性痴呆症の夫を介護する妻のドキュメンタリーを先日見た。
働き盛りのうちに症状が発生したため、稼ぎ頭を失った家庭において、夫の介護をし、さらに稼ぎにも出ているという奥さんの苦労は相当なものなんだろう。カメラに撮されていない部分や精神的な苦痛なんかは、想像を絶するレベルなのだろうと思われる。
だって、いくら介護しても、いくら働いて稼いでも、だんなさんはどんどん忘れていってしまう。支えられていることすら、忘れていってしまう。そして、奥さんのことすら、忘れていってしまうのだ。
まあ、そういう病気なんだからしょうがないのだろうけど、あまりにも切なすぎる。辛すぎる。
何度も心が折れそうになりながら、奥さんは日記にこう綴っていた。
「あなたは忘れてもいい。私が全部覚えておくから」

で、まあ、この言葉を目撃して、涙したんですけど。
あなたは忘れてしまう。忘れないでと願っても、全部忘れていってしまう。あなたがどんなに忘れたくないと願っても、記憶は自動的に消去されていってしまう。でも私が忘れないから。私がすべて覚えておきましょう。
もちろん、長い年月を共にしてきた夫婦ですから、いいことばかりあったわけではないと思う。美しい記憶だけじゃない。つらいことも、思い出したくないようなことも、何度もあったことだろう。
私のこのつらさも苦しみも、全部覚えておくから。あなたひとり、忘れてしまうなんて、そんなことは許さないからね。そのうえで、あなたをすべて受け入れましょう。

「私が全部覚えておくから」という言葉の中には、そういう意味もあるのだろうと思った。やや深読みかもしれないけど。




わしは自分が忘れないように、こうやってみっともない感情をすべて書いているわけだが、それは、「私は忘れていない」「私は覚えている」ということを言っておきたいから書いているのだと思った。

いや、前言はちょっと違うな。
私は今も苦しんでいて、そんな苦しんでいる私の存在を認めてあげたいからだ。くるしみは存在するのに、普段の生活していると苦しんでいない私しか必要とされないからね。でも、苦しんでいる私にも発言の場を与えてあげたかった。解放してあげたかった。
私は私を嫌うことをやめたのだ。私を受け入れていくことにしたんだから。
苦しんでいる私へ。あんたがヤツザキなのか、マサコなのか、どっちなのかはわからないけど、あんたもちゃんと私だ。
2008年10月20日(月)

ココロのパンツの穴

毎日毎日、何やってても、ガハハと笑っていても、心にぽっかり穴が開いているようで、つらいなあ、とか苦しいなあ、とか、むなしいなあ、とか感じてしまうのだけど、
じゃあ、ソレ、何で埋められるの?
というと、それがなんなのかわからない。

誰かに埋めてもらうことは不可能。
自分を幸せに出来るのは自分だけ。
他人、というか、男には何も期待してはいけない。
期待したらしただけ自分がへこむだけだから。

ということは、とっくに承知しているので、まあ「穴が開いていようが耐えろ。ガマンするしかねえんだ!」と自分に言い聞かせる。
自分に言い聞かせているだけでは甘え癖が出てしまうので
公言したりして(こうやってわざわざ書いてみることも含む)自分を追い込むのだけど、
それでもなお、
誰か助けて!私の穴を埋めて!(not下品な意味)
と求める声が、心の奥底から聞こえてくる。

だーかーら、
誰も助けてくれやしねえんだよ!
もう、十分わかっているじゃないか。

ついでに、もう一度、お前に教えてやる。
お前もとっくにわかっているはずのことを。
お前の埋められない穴ってのの正体もこれなんだろ。


お前の欲しいこと、知りたいことは、もう一生手に入らないのだよ。
どんなことをしても、手に入れることはできないのだ。
願い続ければ、願いは叶うなんて大嘘。
お前は、理由を手に入れることはできない。絶対に。
だって、お前は存在を拒否されたのだから。
お前は、いないことと同然なのだから。


と、冷静な私が言っておる。
うむ、その通りなのである。
私は知りたいことを知る術をすべて失った。
術どころか、資格も失った。ほんとにもう何もない。
それがずっとずっと苦しいのである。
つらいのである。
私は名探偵ではないので、状況や、己の記憶や、その他もろもろの証拠から真実を推理することはできない。
で、「ま、わかんなくていーや」と思っても、ふとした瞬間に「あの答えはなんだったのだろう」と思い続けてしまうのである。
あきらめりゃいいのに、ずっとずっと気にしているのですよ。
何か他のことを成し遂げれば、そんなことは自然に忘れていくことができるのかと思っていた。もっと自分のことに夢中になれば、そんなことは鼻くそ以下になるのかなあ、と思って自分のことに夢中にもなった。
でもずっと忘れられない。
なんだよ、この驚異の記憶力は!
自分のことに夢中になればなるほど、忘れることはどんどん不可能となっていった。なんたる皮肉・・・。
忘れろよ。得意の忘却力よ、こういう時に発動してくれよ。「切符どこにしまったか忘れた」みたいなのはもうどうでもいいから!


こんなものは自分の問題ですから、自分で忘却するしかない。
自分でケリつけて、立ち上がるしかない。
自分でよーくわかっているので、ケリもつけた。
つけたつもりでおった。
それなのに、
忘れらんねえ!
とあがき、そして、
誰か助けて!
私をここから救い出して!
と思っている自分もおる。
でも、私、心に穴がぽっかり空いておりまして、それというのも欲しいもの、知りたいものが一生手に入らないってのがはっきりわかったからなんですよね、で、タチが悪いことにそのもやもやを断ち切れないんです、などと前置きしている女を、救い出してくれるような男は
あ ら わ れ な い。
現れたとしても、それは恋愛感情にはならんよなー。
少なくともわしが男だったら、そんな女救い出したくねーや。だって、あらかじめ「自分には本気の愛を向けてませんよ」て宣言してるようなもんだもん。
しかもだね、あつかましくも、「私はあなたには本気の愛は向けられるかわかんないけど、あなたは私に本気の愛を見せて」って要求したりするからね。ああ、タチ悪い。



というような話をぐたぐたとオカマな友達に話したら、
「最初にあれがいいってハードル高いことを言ってしまったから、その後取り消せないだけなのよね。今更、あれじゃなくていいの、それがいいの、欲しかったの!って言えないだけじゃない」
と、言われました。
うーん、オカマは身も蓋もない。
ズバット言うな。とほほ。

でも私は、何が欲しいのかなあ。
今でも答えが知りたいし。救い出しても欲しい。
救い出しては欲しいが、愛とかそういうのが欲しいのかな。
愛なんてのを介在させてしまえば、また同じ道に堕ちると思うのでそれは怖い。あー「愛」とかいうのがあるから、自分も傷つくし、相手も傷つけてしまうんだよ。いらないんだよ。でもいらないくせに、なんで本気の愛なんてのを求めるんだ。ザ・愚行。グココココ・・・!


いや、まあ、すべては私が臆病なだけ。見栄っ張りなだけ。
バカが見るーとなりたくなくて予防線を何重にも張り巡らせようとしているだけ。(って、いつもその予防線は役に立たないんだから、張り巡らせる必要もうないんだけどさ)
あと欲張りなだけなのだ!
心の思うままにしたらいいよ、と皆さんアドバイスをくださいますが、
心の思うままに進もうとする時、いつも邪魔するのは自分だなあ。。

2008年10月19日(日)

C!C!C!イタイタC!

このところ愛だの恋だの情だの欲だのに苦しみ、もがく、どうしようもない心情ばかり書いておりますが。

わしは、苦しいとかつらいをちゃんと感じているのであります。
大丈夫とかゆるやかに蘇り中とか書いてるが、まだ痛いよ。ずっとこの先立ち直れないのかもしれん。先のことはわからない。
自分で認めて、自分で決めたことだから、潔くもう何も言わないのがいいのだろうけど、
平気なふりなんかしたくねえんだ。
そうやって、いろんなこと忘れたフリして、いつの間にかほんとに忘れたつもりになってしまうのが嫌なのですよ。
自分に嘘つきたくないのよ。
私は強くないのに、強くならなきゃ、ガマンしなきゃ、なんて暗示を自分にかけるのは、したくないのだ。

傷つくのが怖いなんて、当たり前。
でも、傷ついてでも触れたいのだよ。
触れて、幸福な時や気持ちもあじわえたしな。
んで、今こうしてボロボロなわけだが、何もしなかったよかずっとマシだぜ。毎日つらかろうと苦しかろうと、なんにもない人生よりずっといい。痛いけどな。そんでもって、イタイ女にしか見えないだろうけどな。


自分の人生の主役は自分だけど、傷つきたくないとかそういうことで、他の登場人物を排除してくよーな人生を、私は選ばない。
どうせ主役なら、登場人物がいろいろ個性的で、本気の舞台で主役張りたいんだよ。すべての感情フル稼動の。本気でぶつかり、求めあえる相手とともに。


文学や音楽や映画は、その舞台の、あらゆる場面をより豊かにしてくれる道具でいい。あんたらのことは好きだけど、あんたらは決して主役じゃないぜ。



あ、なんか最初に書こうと思ってたことからまるっきり離れたことを書いてもうた。
重いことには変わりないからまーいいや。


しかし、めっきり寒くなりましたな。雨降ってるわなんやらで、外出するのも億劫なんでマドンナとリアーナ大声で歌いながらキャベツ料理づくし(豚肉と塩揉みキャベツの炒めもの、キャベツとニラのチャーハン、キャベツとジャガイモとたまねぎ煮込んだスープ)を作っておったよ。んで食っておった。
ザ・無職という感じですね。リアーナよいなー。最高すぎる。リアーナのような格好をしたい今日この頃。
MIAぽい格好もしたくてたまらんのですが。どっちも年齢やらプロポーションやら度外視しすぎですがね。あと難易度高いけどさ。

あ、今日は女の業音楽聴いてないからそういうこと書けないのか。なるほど。
2008年10月15日(水)

レンアイ・イズ・マーダー

女はね、いつだって、これが最後と思って恋をする。それくらいの覚悟がなくちゃ、恋なんかしてられないんだよ。失うものが、あまりにも大きすぎて、遊びでやってる余裕はねぇんだ。だって、そこには自分の存在価値がすべて、かかってるんだから。



新潮45掲載時から、中村うさぎ先生のこの文章読んで、ぐあーと身もだえしておりました。
そうなんだよ、まさにその通りなんだよ。
いつだって、この恋で終わり!これ以上はもうないと思ってきた。
次の恋なんて、想定できないんだよ。そんなもんないって信じちゃうんだよ。
この恋で死ねたら、本望なんだよ!!



でも、いつも男たちが、自分を欝陶しく思ったりするのかもしれない、離れていくのかもしれないという不安に怯えてしまう。

自分で自分をいやな女、むなしい女と思いたくないから、男に何もない女、つまんねえ女と思われたくないから、私はいつでも自分にやりたいことを用意してきた。
ほんとは私のやりたいことなんてどうでもいいの、あなたが私を本気で求めてくれさえすればいいの。本気の証を見せてくれさえすれば、私はそれだけで十分なのよ…


私が私に用意した存在価値をすべて奪って、新たな価値を与えてくれるくらいの激流/大いなる力に飲み込まれることこそが、恋愛だーと思っておった。ずっと、そういうのを求めていた。
でも、恋愛て、それだけじゃないのだよね。
まあ今はそう思えるようになりました。
やりたいことも卑屈にならずにやれてるし。あー自信をちょびっとでも獲得してよかった。


しかし、中村うさぎ先生と同じく、わしもすぐ「愛されたい地獄」に堕ちる人間だからなー。
私を本気で愛して、求めて、本気の証拠を見せて、とな。
自分のそれを自制するために、愛なんてほんとは存在しねえよ、などとうそぶくわけだ。あとでバカが見るー、ということにならないよう、牽制牽制。

まあ、もうすでに「あんたは、どうしても相手に本気を求めてしまう人間なんだよ」と見抜かれているわけだが。
みなさんにバレバレでしたか。そうですか。知らぬはわしだけかい。


あーわしもうさぎに負けず劣らずややこしい女であるな。
て、昔の男によく言われておったわ、「ややこしい女だな!」と。何年越しで自覚してんだよなあ。29にして客観性獲得だよ。遅!
2008年10月14日(火)

グレートジャーニー・フィリピン編

■ジャーニーの今のボーカルって誰だか知ってる?
と妹に尋ねられ、スティーブ・ペリーじゃねえの?と答えたら、
その人が抜けて、YOUTUBEでジャーニーそっくりさんバンドの映像公開してたフィリピン人なんだって!と聞いた。
嘘でぇ、と調べてみたらホントに42歳くらいの長髪フィリピン人だったよ。
すげえな!
YOUTUBEは世界中のそっくりさんバンドにオープン・アームズなんだな!
まさにアメリカンドリーム。いや、フィリピンドリームか。


■MTVビデオアウォードクラシック見てたら、ダイアー・ストレイツのビデオってものすごく今、受けそうなポップ感満載なんだなーと思った。80年代ブーム様様ですね。
あと、マイケル・ジャクソンのスリラーは完成度高いがやっぱ長ぇ。


■MTVといえば前にやってたラップの番組再放送がおもしろかった。NWAが全員で「俺達の地元案内するぜ!」とLAのキケン地帯をウチくる!?ばりに案内するやつが最高。昔のラップっつーかヒップホップ文化は面白いなあ。


■黒人といやぁ、地元の廃れた地下鉄駅で黒人に道を尋ねられた。どう見てもアフリカ人なのに「自分はブロンクス出身」と言い張っておった。あーそうなんですかー、と流しておいた。
日本にいる黒人の八割はアメリカ人を名乗る黒人らしいよ、横須賀とか沖縄以外は。


■中森明菜の「愛撫」という曲は、わしの声とキーがあうなー歌いやすいなーとしか思ったことがなかったんだが、

「愛さないでね 愛してないから」
「許さないでね 許してないから」

など、なんかいろいろ堪える歌詞であるな。
愛も許しも、理性ではいらないと思う。これ以上私は苦しみたくない。ああ、もうこんな思いまっぴらごめん。ノーサンキューノーサンキュー。

けど触れて欲しいと切に思ってしまうのは何故だ!?

ああ、何故とかいうのも煩わしい!触れて!私に触れて!



なんかそういう歌だなーと思った。
そういう本能の求めというのは、愛を誓わないと不義理になるのだろうな。だろうな、なんて暢気に言ってるが。誓いとか証とか契約とか。
と、いろいろ考えてしまうのは、また中村うさぎの「私という病」「セックス放浪記」読み返しているからだろう。おおう。


■そういや、知らないうちに「ギラギラ」がドラマ化するそうで。
葛城大成が石橋凌て!どんなキャスティングだよ!!憤死。


■落ちたりしんみりするのばかり聴いててもラチが空かないので、ここ2日はミルトン・ライトとサーモン&ガーリックだけを聴いておる。
ミルトン・ライト最高!マイアミソウルで気分はカリビアンハイウェイ(そんなもんあるか知らないが。行ったことないし)
サーモン&ガーリックも最高だなー16曲中歌モノが6曲くらいしかないけど。奄美んちゅファンクええのー。
気分十分上がったのでそろそろPJハーヴェイ聴いてズーンと女の業に沈むとするか
2008年10月13日(月)

わしの「荒野へ」

東京に帰ってきたタイミングで遠藤さんが映画「イントゥ・ザ・ワイルド」を見に行かないか、と誘ってくれたので、行ってきましたよ。1000円だった。映画サービスデー様々であるな。
http://intothewild.jp/top.html

この映画の存在は知っておったのですが、「ああ、絶対観たい!」と思っていなかったので、誘われなかったら上映中に見ることはなかったであろう。
けども、誘ってもらってよかった。ほんとよかった。
またしても号泣、号泣、号泣の嵐でした。
ああ、いい映画に出逢えたなあ。遠藤さんありがとう。

小説「路上」や映画「モーターサイクル・ダイアリーズ」とジャンルは同じ旅物なのだけど、その2つが友人/仲間との旅であるのに対して、これは1人で荒野に向かう話。しかし、旅に出る動機(これがまた!大変に心に染みた)や、旅の道すがら出会う人々との交流とか、なんかもー全部が泣けた。
自分が会社辞めて、二週間ほど東京を離れていたからという状況もあったのだろうけど、全然優秀でもないし、一人で北米縦断したわけでもないのに、すべてをアレキサンダー・スーパートランプ(主人公)に重ねてしまったよ。

なんというのかな、自分が会社入って、いろんなところに行って、会社でもいろんな場所でもいろんな人に出会って、でも自分はそこに留まらず、あらかじめ去っていく人間だった、というところが、どんなにいろんな人と出会い、交流しても、やめろキケンだと言われても「俺はアラスカを目指すんだ!」とその場を去り続けていくスーパートランプと同じだなあ、と思ってしまった。
最後のほうで旅の道すがら出会ったすべての人の顔が走馬燈のように順々に映し出されるのだけど、そのシーンでこれ以上ないほど号泣。
私が社会に出てから知り合った人たち。
日本全国で出会った人々。
その人々の顔が脳裏に浮かんで、もう、たまらなくなった。

私は会社を辞めて、さらなる荒野に向かおうとしてるんだよな。
しんどかろうがなんだろうが、会社に勤めていることのほうがずっとマシなのかもしれない。そういうアドバイスを送ってくれる人たちも沢山いたが、
結局、自分の道は、自分で選びたいのだ。
しんどいと言われる道も、自分でしんどいと感じたいのだ。
だから、私は私にとってのアラスカに向かうのでありまして。


最後の最後にスーパートランプが辿り着いた、
「幸福は、誰かと共有できた時のみ、真実となる」
という言葉が印象深かった。


ここしばらくの間、「(私の)幸せを考えたら、〜したほうがいい」という言葉をたくさんいただいた。
皆さん、真剣に言って下さって、本当にありがたいのだけど、
なんか私のことなのに、私じゃない誰かのための幸せの話みたいだなーと思って聞いてしまう時もありました。まあ、「未来の私」が幸せであるために、ってことだから、「今の私」が他人の話のようだな、と感じるのもしょうがないのだが。
で、前述の言葉を見た時に、ああ、私は自分ひとりでアラスカに向かわねばならんのだから、今は幸福がわからなくて当然なんだなー、と思った。
誰かと共有する、という段階にきていないわけだ。
自分で決めたことを実行したいから。自分で現実を見たいから。
誰かと幸福を共有するのは、その後なんだろう。きっと。



その他にも「おまえはまだ若い。だけど、怒りや感情を制御できるようになれ」とか(まーわしはもう若くないが)、いちいちセリフにぐっと来る映画でした。ちなみに、ここしばらくの一連の流れの中で、私も感情をセーブすることをおぼえたのだけどね。アドバイスしてくれた方、ありがとよー。感情をセーブして決断したことで、わしは自信を持てました。←大人になった、と書こうとしたが、もう十分大人ですので自粛しておきました。


あと、この映画は曲がとにかく良いよ。
エディ・ヴェダーがこの映画用に曲を作ったようで、全編通してエディ・ヴェダーの歌声だらけ。若い青年の孤独、葛藤、苦悩、逃避、勇気、不安、といったすべてを包み込むような重厚で暖かみのある声。
私が中学生の時、パール・ジャムの歌を聴いてはなんでこの人はこんなに厚みのある声、というかくぐもった声で悩み続けているのだろう、とよく思ったものだが(パール・ジャム初来日公演も見に行ったな〜)、あれから15年。エディ・ヴェダーもエディのアラスカ行って、戻ってきて、より素晴らしい人間となったのだろうなあ。

パール・ジャムを聴かなくなってずいぶんと時間が流れたけれど、生きていたから、こうやって再びエディの歌に出会えた。何度でも巡り会える。
私が出会った人々にも、また、何度でも出会えるのだろう。
人生は、旅は、そうやって続いていく。
だから、大丈夫だ。何も問題ない。


というわけで、まあ、見て下さいよ。おすすめ。
2008年10月09日(木)

ノー・オーディナリー・試練

先日の日記にシャーデーの「スイーテスト・タブー」が頭から離れん、と書いたのだけど、シャーデーベスト盤行方不明につき、同じシャーデーの「ラブ・デラックス」だけを一日中聴いておりました。
おなごじゃのー、わし。

一年以上前は、自分の女な側面が気持ち悪い、自分が自分じゃないみたいで違和感が!などとのたまっておりましたが、今は自分の女である部分にもだいぶ慣れました。慣れたというか、認めたというか。
わしの座右の銘になりつつあるけど、ピート・タウンゼンド先生(そういや、ザ・フー来日だそうで。見たい!)の
「生まれた時から持ってるものは何も変えられない。だから自分と仲良くしろよ。喧嘩しちゃダメだ」
という言葉を、29にしてやっと受け入れたわけだ。
女ですよ。誰よりも激しくな。


で、「ノー・オーディナリー・ラブ」が繰り返し流れるたびに、よよよと泣くのであった。
まさに、アイ・キープ・クライング。
前回、前々回と愛の存在を否定しておきながら!なんたるザマ!

それはさておき、「私の内側のすべてをあなたに捧げたわ」とか「これ以上ないほどの愛をあげたのよ」とかに膝から崩れ落ちるくらいなんですよ。人が泣き崩れるのを見たことあるか!?君!という感じですよ。
あ、違う曲引用してしまった。
こんなにそのことで心痛めたことないってくらいだし。これも曲違ってしまうけどアイ・クドゥント・ラブ・ユー・モア。
のつもりだったんだが。



で、まあ、東京帰ってきても濃ゆいミーティングが別方面から続いておるのだが、
わしのゴッド姉ちゃんに本日言われたお言葉。


「ヤツザキの愛てのは、口では全力だし、行動する時は全力なんだけど、おんなじくらい自分のやりたいことにも全力っつーか自分は自分なんだよね。
自分のやりたいことは絶対曲げないというか。
相手のために自分を犠牲にすることはしないから、
男からすると、
なんだよアイツ、言ってることとやってること違うじゃないか!俺のこと何も考えてないじゃないか!
ってなるんだと思うんだけど」


核心突きすぎる御託宣!


そうなんでしょうね。きっと、それもその通りなのだろう。
他人の恋愛の話はよく聞くけれど、どのような熱量分配がなされているのかわからないから、どれほど自分を犠牲にしていいのかわからない。
いや、私なりに犠牲にしている部分があるのだが、相手からすればまだまだァ!だったりするのかな。今はもう知る手だてすらないけれど。(今じゃなくても知ることできないだろうが)

まあ、自分を犠牲にしてでも手に入る愛なら、いくらでも犠牲にしますよ。愛というか相手か。自分くらい安いもんだ。
しかし、犠牲にしなくても手に入らないんだよ。
どうしようもないのです。
これが現実。
まさに、あなたと私のような関係は他にはないわ、だよ。



まーゆるやかに蘇り中なんで、いいんですがね。
蘇っているんだか、まだ蘇りきりたくねーと思っているんだか、自分でもよくわからない状態ですが。
あーこのモヤモヤした状態を早く逸脱したい。早くキス・オブ・ライフを堂々歌えるようになりたい。あなたのおかげで蘇ったのよーと。
まあ、すべては自分の選択、自分の決断だが。なんでもそう、決めるのは自分なんだよな。決めてもモヤモヤするのも自分(今まさにそれ)、モヤモヤを振り切るのも自分。
うーん、ノー・オーディナリー・苦悩っつーか試練はまだまだ続く。。。
2008年10月08日(水)

求めあわなくちゃだめさ

「ねえ三週間、ハネムーンのふりをして旅に出よう〜」
というつもりだったのだけど、結局二週間弱の旅でした。ロングバケーションのつもりだったのだが。まあ、この二週間、毎晩、頼れる姉さんがたと濃ゆいミーティング(某レコード屋の人が命名)をしてきたので、三週間分が二週間に凝縮されたのだろう。


先日の日記にも書いたけれど、「愛」なんていうものは後付けの大義名分だよなあ。愛のない関係ほど「愛」という言葉を乱用し、情欲のぶつかり合いの関係は、「愛」がはっきりと見えないことに劣情を覚え、不安を煽る。
で、まあ、濃ゆいミーティングん時にわしの信頼するねえさんが、言っていた言葉。

「男女の間に愛はないよ。間にあるのは情や欲。愛は自分の子供なんかに向かって存在するものだから、それとは別モノなわけよ。男女の間に存在する、愛に匹敵するものは、『尊敬』じゃないかー」

言っていた本人も酔っぱらっていたし、聞いていたわしも酔っぱらっていたのだけれど、すとんと体内に入ってきた。酔い酔いの会話の中にぽろっと挟まれながら、キラリと光り、どすんと体内に落ちてくる発言。これだからこの人達と飲むのが好きなんだよな。


まあ、結局、前述のように、負けたのですがね。
存在しないものの存在に。ってことは存在していたのか。


というような、話を女性はよく話すということを友人に話したら、
女ってそんな怖いことばかり話してるのか〜おそろしや〜と言われた。



早川義夫さんという人も、こういうことについて歌っている人なのだと思う。
情と、欲と、哀しみと、悦び。
愛というフィルターごしに見ることで、和らげられているすべてをどんどん露わにしていく人。暴露していけばいくほど、自分は惨めにもなるし、醜くもなるし、切なさで胸がいっぱいになってしまうのだけれど、それでも早川さんは歌う。暴いていく。
その歌が、私の心にとても恐ろしく、美しく響く。


昨日の日記にも引用したけど、「この世で一番キレイなもの」の

「この世で一番キレイなものは
 あなたにとって必要なもの
 僕らを包む壮大な宇宙
 ひとしずくの泪
 求めあう命」

という歌詞の「求めあう命」こそが、男女の間に存在するものなのだと思う。
それを人によっては、愛と呼んだりするのかな。
(ちょっと広い心を持ってみた)

求め合うことがなくなったら、そこでおしまい。
求めているのに、応えてもらえなくなってもおしまい。
本当は求めているのに、なんらかの理由で断念せざるをえないのは、
一番哀しいことだ。つらいことだ。
でも、仕方がないことだ。

求めあうということが、不安定で自分の不安や恐怖を煽るから、
人は付き合うだとか婚姻だとかで縛り付けようとするのだね。
それは私もそうだ。
よくないなー。
自分が縛り付けられることをもっとも嫌うのに。


純粋な求めあうという心を、もっと信用しよう。
自分のだけでなく、相手のも。
何も恐れずに、今はただ求めあう心の動きに流されようかと。

2008年10月07日(火)

肉祭スイーテストタブー

29歳となりましたよ。
あーついに二十代最後の歳となったなー
今年も那覇でみなさんと飲んで飲んでのうちに誕生日を迎えることができて、幸せであるな。

しかも28歳最後の日は早川義夫先生のライブ見れたし。泣きすぎた。
「この世で一番キレイなもの」の

「もっと強く生まれたかった/仕方がないね、これが僕だもの」

って歌詞から涙が止まらなくなったですよ。
そんな涙でマスカラぼろぼろになった状態で早川さんにサインもらったり、写真撮ってもらったり。一日早い誕生日プレゼントは、早川さんからのハグでした。至福。
腰にさりげなく手回されたけど。それも早川さんだからアリだ!


いろいろなことのあった28歳だが、いい締め括り&再出発であった。
早川さんについては、また時間があったら書きます。


で、誕生日当日はこれまた楽しく祝っていただきました。
いろんな曲聞いたけど、一番印象に残ってるのはmixCDん中に入ってたシャーデーの「スイーテスト・タブー」。ちょこっとしか聴いてないんだが、一日経った今でもフレーズが頭から抜けん。
で、無性に聴きたいのだけど、シャーデーベスト盤どっか行っちゃった罠。あーあ。
しゃあないので清志郎の「仕草」を聴いて歌ったりしとります。なんかこーやって陽気に鼻歌歌えるって、よいね。精神状態が。おだやかになりましたよ。未だ不安定になる時もあるけど。

まあ、29歳はおだやかに、軽やかに生きていきたいものだ。
前途多難だがね。ナウ無職だし。
2008年10月06日(月)

くたばれラブ・ウィル・ティアー・アス・アパート

ジョイ・ディヴィジョンの「ラブ・ウィル・ティアー・アス・アパート」を、昔は反復するフレーズが気持ちよいなーと思って聞いてたけれど、
今夜、この曲の真の意味を知った気がする。あー今夜じゃないな、一週間前に知ったな。

愛は僕らを引き裂くだろう、て。
だからよ!
という感じだ。

愛は引き裂くなホント。愛なんて理想。愛なんて幻想。愛なんて大義名分。愛なんてホントは存在しないもの。
それにちりちりばらばらに引き裂かれた気がス。
わしは「愛してる」なんて言葉より、「好きか嫌いかわからないけど、毎日やりたい」という言葉のほうが何億倍重要なのに!嬉しいのに!ずっとずっと欲しかった言葉なのに!
しかし、「愛」に負けた。あるんだかないんだかわかんねーものに負けた。
なんだよー愛って。どこの誰だよ、出てきやがれ。ブン殴ってやる。



まーそんな感じですが、土曜に早川義夫大先生のライブに行けることとなったので、もう大丈夫です。
誕生日前日に早川さんのライブ見られるなんて、とっても幸福だなー。5年くらい前に誕生日前日でエンケン見た時以来の幸福であるよ。


関係ないが、義夫大先生て書くと義太夫先生に見えるね。グレート義太夫しか思い浮かばん。
2008年10月03日(金)

愛アンマン

重っ苦しい話が続いたのでたまには軽い(けど私ん中では重大)話をば。


今日はやっと「アイアンマン」見てきました。
もー予告見た時からこれは絶対!見に行かんと!と思ってたのですよ。
なぜなら、ロバート・ダウニーJr.が好きすぎるから。かっこよすぎるから。
わしにとって、あれは完璧な顔なんですよ。ヒゲなしだとイマイチなんだけど、ヒゲがつくことによって完璧となる男。それがロバート・ダウニーJr.。

映画は全編ポワーンの連続でした。ストーリーなんてのは、あってないようなもの!ロバート・ダウニーJr.萌え映画だからな。
ってのは大袈裟だけど。
わしはブレイド大好きだから、アメコミ好きなんですよ。だからこのアメコミ忠実っぷりも最高でした。
あとテレンス・ハワードっていい俳優だよね。「ハッスル&フロウ」見た時はラップの話なのにバンドやりてえ!今すぐ何か始めなきゃ!と思ったからな。


というわけで、パンフレットも買ってしまいましたヨ。(激照)
パンフレット買ってる人なんてわししかいなかったけど。恥なんてどうでもよくなるくらい、ロバート・ダウニーJr.の写真が欲しかったのだった。もうすぐ30なのに透明の下敷きに雑誌の切り抜き挟んでしまうくらいの勢い。パンフレットをA3に拡大コピーして部屋に貼ってしまうような勢い。

とにかく、ああ、しばらくはこれを読み返してニヤケながら生きていける。。。手に入れたとたんそう思いました。キモいとでもなんとでも言ってくれ。


という話やらロバート・ダウニーJr.のすんばらしさを那覇の友人にひとしきりしたところ、


「ロバート・ダウニーJr.てウチナーカーギーだよな。そこらへんにいっぱいいるよ」


と言われたわい。
たしかにそうだわ。
よく見ている気がする。
よし、これからロバート・ダウニーJr.激似の沖縄男と出会えますように。
ロバート・ダウニーJr.本人がベストだけど。
2008年10月02日(木)

シークレット・ガージューシャイン

映画「シークレット・サンシャイン」を見てきた。
他者にも厳しく、自分に厳しい人間てのは、自分のために自分を律するのではなく、周りに律されないために、厳しくしてしまうのね。
基準はつねに他者。
ゆえに、自分を許すということもできない。自分は自分に許すなんてことができる資格ないと思い込んでいるから。

だから、ずっと楽にはなれない。
ずっと誰かに許してもらえることだけを待ち続ける。
許された人間に激しい嫉妬も覚えるし、どうせ私なんて、と捨て鉢にもなる。


私は子供もいないし、それを失った経験もないですが、
シネが許されよう許されようとあがく姿の痛々しさは、私と同じだなあと思った。
私もきっと、同じくらい痛々しい。名前もシノで似てるしな。


ソン・ガンホは彼女のシークレットサンシャインなわけだが、彼女はその存在に気付かない。きづけない。
いつか、気付く時がくるだろうと思うけど、一生気付かないのかもしれない。気付きたくないて心の動きもあることだろう。



私にもシークレットサンシャインがあるのだろうけど、私はそれに気付いてても、それは違うと思ってるからな。えらべないのだよ。
今は。
これは私の意志だ。
めんどくせー意志だなあと我ながら思うけど。
でもそれが強すぎる。
こんなわしのことをガージューと言うらしい。
まあ、そんなことはよう知らんよ。知るか。


と、言ってるうちにロングバケーションも終了間近。全然ロングじゃないな。
本州に台風来てるみたいだね。台風とともに移動してる女だなー。
2008年10月01日(水)

字読みづらい!けどメッセージフォームです


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