股・戯れ言


BBS

風邪よさらば!アリよさらば!

毎日うだるような暑さが続いておりますが、
こんな真夏に風邪を引きました。
夏風邪と言うやつです。
先週の火曜くらいからやけに咳が出るなあ、痰が絡むなあと悠長に思っていたのだけれど、水曜夜から本格的に体がだるくなってきました。
とにかくまー、関節が痛い。喉が痛い。咳が止まらない。痰が切れない。
お昼ごはんを2日連続で残してしまってたので、これはもしや?と思ったら案の定熱が出ておった。
妹に、
「前にいきなり団子食べたいって言ってたから買ってきてもらったんだけど、食べるでしょ?」
と言われて、「すごく食べたいけれど食べられないわ」と答えちゃったくらいだもんな。具合が悪くなきゃ断らないし。
とにかく毎日熱で体がフワフワしてたまらんかったです。
地に脚が着いてない感覚がずっと続くのって苦痛なんだよ。


そんな調子に夏風邪をこじらせていたので、気持ちも弱くなりまくってました。
いや、気力が弱っていたから体調もおかしくなったのかもしれないな。
なんというか、うじうじ蓄積されていた気の弱まりが、一気に体調方面で爆発した、というような感じがします。疲れが出たのだろうね。
水、木、金と会社通いながらうんうん唸ってたけれど、土曜は完璧に1日ダウソしてました。文字通り寝込んだ。
で、熱も下がり、だいぶよくなったけれど現在まで咳と痰は止まらんな。
長引く風邪よのう。誰に会っても「声、ヘンだよ」と指摘されとります。


というわけで、風邪でよわよわなので、ゆるーい日記をば。


月曜は渋谷くんだりまで出かけてきました。
「うちわの骨」を探しに。
今、一番はまっていることが「うちわを作ること」なのです。PCのペイントでせこせこ絵を描いて、色つけて印刷して、それをきれいに切り取って骨に貼るという具合。そんな単純作業が楽しくてしょうがない20代終盤の夏でございます。
うちわの骨は探し回らなくても、東急ハンズであっさりと購入できた。
でも体力もままならぬので喫茶店で一息ついていたところ、
なぜかテーブルの上に蟻がおりました。
土も水も太陽もないところに、何故、アリ?
と思ったのだけど、なんとなく殺すのも忍びないなと思いまして、
腕にのっけて(わしは虫に比較的強い。ゴキブリはつのだじろうの「恐怖新聞」読んで以来ダメになったけど)店の外に連れ出し、道路の植え込みのところに逃がしてやりました。
べつに「蜘蛛の糸」のようなことを期待したわけでもないのですが。


で、火曜日。
風邪を一気に終わらせたい!と思い、薬膳料理屋に行ってきた。
http://homepage3.nifty.com/didean/index.html

↑のHPを見るとなにやらこじゃれダイニングのようにも見えますが。
薬膳料理屋ですから、へんな酒もちらほら置いてあって
同行の後輩女子ちゃんがなぜか
「蟻の酒」
なるものを頼んだのでした。
WH〜Yなぜに〜?なぜ蟻酒を頼むのか〜?

と疑問に思っていたら、蟻酒のビンが運ばれてきて、
瓶いっぱいのウォッカに大量の蟻がぎっしり詰っておった。
蟻の頭や腹や足がプカプカ浮いてた。
けっこうグロい。
虫が大丈夫なわしでさえ、ちょっとたじろいでしまったよ。

が、「体にいいんだよ!薬膳なんだもの!」と無理やり自分に言い聞かせ、飲んでみた。
「体にいいんだよ!ウォッカ漬けなんだもの!」と言い聞かせ、つまんで食べてみた。
意外と普通。
蟻酒は紹興酒のようだし、
蟻はプチプチするけど別に味しなかったしで、
まあ、思ったよりびびらずに済んだ。


けども、家帰るまでの間にもーのーすーごーく腹くだしましたわ。
そーこーぬーけーに腹ピーピー。


月曜にアリ助けときながら、火曜に食べたバチが当たったのか!?
そんなにすぐに罰って当たるもんなのかよ。
7年殺しみたいにあとから何かあると思ってたんだけどなー、そういうのって。
(実のところは、わしは紹興酒NGなので、それが原因で腹下したのかもしれないけどな)



ちなみにアリ酒の効用は
「強壮・リウマチ・肝炎」
だそうです。
風邪や咳とはいっさい関係なかった。
飲んだ意味なし酒。アリなのに。
2008年07月23日(水)

わかってもらえんかもしれないけどさ

i-phoneがいろいろと騒がれておりますが(珍しく時事ネタ)、私もこないだ携帯電話の便利さを改めて思い知る機会がございました。

「やしきたかじんの曲を携帯にダウンロード」

いやー時代は便利になったなー
わざわざCD買うまでもないアーティストの曲を250円程度で購入できるなんて。とか言ってますが、3,4曲ダウンロードしちゃったけど。
もし、今、携帯電話落としたら、
「あんた」
「やっぱ好きやねん」
「なめとんか」
「ICHIZU」
という曲リストがばれるけど。拾った人のほうが動揺してしまうことだろう。
しかし「あんた」はいい曲だ。とくに二番が泣ける。「女でよかった」のくだりな。


と、たかじん漬けになっていたので、こないだ久しぶりにレコード屋に行く機会があったのだけど、最近の曲はサッパリわからん状態でございました。
ダブのよい(ジャケットが)オムニバス盤があったのだけど、買わないでおいた。まーたかじんばかり聞いているのもなんなんで、マーク・スチュワートやグランドマスターフラッシュを復習しておったのですよ。
そんな中で、キヨシローもよく聴いておりました。
「ぼくはぼくの為に」をふと、昨日の晩、寝る前に聴いてしまった。


「バイバイ 君といたってしょうがない」


私は私の為に、いま、ずっとあがいたり、苦しんだり、もがいたり、臆病になったり、震えたり、泣いたり、グズグズしたり、モヤモヤしたりしていたのだけど、
それって本当に私のためなのかな。
私は、勘違いにまたがって、そういうことしてるだけなのかな。


で、その後に「わかってもらえるさ」聴いて、
何も間違ってない、もうすぐさーなどと気を取り直して寝たのだけど
今朝、新聞でキヨシローのがん転移の記事を読んでいろいろと愕然としました。


詳しくは書かないが、私もとある病気を患ったときに、その病気ですよーと宣告されただけで目の前が真っ暗になったことがあった。
冷静に考えればたいしたことじゃないんだけど、なんでこういうことって、突然起こるのかな。私はなんか悪いことをしたのか?何が間違っていたのか?どんなバチがあたったんだ?などと思って、普段は普通に生活してても、家に帰ったとたんに玄関で泣き崩れたりしておった。
どんなに悲観的になっても、もう患ってしまったもんはしょうがないということで、その後ちょいちょい病院通ったり、処置をしたりして、まーなんとか普通に暮らしている。
ああ、気がつけばもう1年経ったのか。
治ったわけではない。
恐怖もなくなったわけではない。
ないけれど、なんとか前向きに生活しておるところです。


清志郎さんも同じように前向きに生活していたことだろう。
してたところで、再発してしまって、ショックも大きかったことだろう。
けれど、自分のために、自分がより長く歌っていくために、今はライブをすべてキャンセルして治療するのだろうな。
自分は自分だけの為に。
自分を乗り越える為に。


果たして私は、私だけの為に、いままでがんばってきたのかな。
そうではなかった気がする。
私は、誰かの為に自分を矯正しようと、がんばっていたんじゃないのか。
こんなことを書いてしまうと、ここ数回書いた日記がぜーんぶ嘘っぱちに見えてしまうけれど。


でも、それも含めて、私は、やっぱり私の為にがんばってきたのだ。
今も、私の為に、がんばっているのだ。
そこは自信持って言える。
どうにもならないことにぶつかっていますが。
私は、私の為に、これを乗り越えようと思う。
病気も、生活も、感情もぜーんぶ乗り越えますよ。
自分自身も乗り越えるよ。


そういうのが、いつかわかってもらえるさ。
いつかそんな日になる。
僕ら(恐れ多くもキヨシローと俺)、何も間違っていない。
もうすぐなんだ。きっと。




2008年07月15日(火)

ヤツザキ・ヴァニシング・ポイント

以前に会社のリレー自己紹介というやつ(リレー形式というかいいとも形式というか、とにかく社内報に載る自己紹介バトン)が回ってきたとき、
「ああ!わしの特技ってなんだっけ!?」
と特技の欄にたいそう苦しめられたことがありました。
そろばんができるわけでもない、ベロでさくらんぼの紐を結ぶこともできない、
かといって剣玉ができるわけでもない。いわゆる特技を全然マスターしないまま長年生きてきたことをだいぶ後悔しましたが、
・電話で男によく間違えられる
・目がいい
・声がでかい
などということを思いついて、とりあえず「電話で男に間違えられやすい」というのを特技の欄に書いたのだった。
でもこれって、よく考えたら「特技」ではなく「特徴」だった。
わしの特技は!
似顔絵を描くことと包装でしたよ。
あと雑誌などの写真を上手い具合にハサミで切り抜くのも得意。
・・・あ、要するに工作が特技だったのか。
しまったなー。そう書けばよかったなー。


と、いろいろ書きましたが、私のもうひとつの特技?特徴?に
「直感的にモノを決める」
「わけわからんほどのフットワークの軽さ」
というものがありました。
私は迷うけれど、一度腹を決めたらあまり迷わない人間なのだった。それはわけのわからない行動力に溢れていたからだ。もう、これだ!と思ったらそれに向かって一直線となり、形振りかまわず突っ走っていくというのが私であった。
前に日記にも書いたことあったな。
ここだ→「ヤツザキVSマサコ」

なぜ、「だった」「であった」と過去形になっているのかというと。

ここ最近のわしは、決めた後もぐずぐず迷ってしまっているのだよ。

この答えは間違ってるのかもしれない、やっぱりダメなのかもしれない、とかぐ
ずぐずしっぱなしなんですよ。


ここ2ヶ月くらいの間、いろいろなことがあって、
でも普通に生活もできているし、むしろ自分改革!革命!チェンジザワールド(自分内)!と頑張ってきたのだけれど、
わしは知らないうちにわけのわからない行動力を失ってしまっていた。
弱虫になるのをやめようとがんばってましたが、前よりも弱虫になっている。ような気がする。
いや、自分に向かっては一歩踏み込んだのだけど、外に向かっての一歩が、もう全然踏み出せなくなってしまった。
前に書いた日記風にいえば、私は「ヤツザキさん」(=わけのわからない行動力に溢れている方の私)を失いつつあるのだった。

まあ、決定的に自信がないほうの人=マサコさんを大事にすると決めたから、それはしょうがないのかもしれないけどね。
いやー、しょうがないじゃないや。
どうして両立できないのかねえ。自分を二股してあげたいのだけど。


と、自分に疑問形で投げかけてみましたが、よく考えればわかることで、
要するに「わけのわからない行動力」が打ち砕かれる出来事があったからなのだよな。
前の日記に

>わけのわからない行動力が溢れてくる時は、自分でもよくわからないのだが、
>頭でうじゃうじゃ考え過ぎる時、な気がする。今までそうだったから。
>で、このわけのわからない行動力というのが自分でも計り知れない。
>わけのわからない行動力が発動すると、たいていのことは実行されるし、
>たいていのことはなるようになる。たいていのことは思いもよらぬ着地点に向かう。
>不思議なことにそれは絶対に後悔するようなことにはならないし、
>最初に想定していた着地点よりもはるかにおもしろいところに辿り着いたりする。

と書いたのだけれど、今回のうじゃうじゃに対しては、
わけのわからない行動力ではどうにもならなかった。
なるようにもならなかったし、
思いもよらぬ着地点にも向かわなかった。
なによりも、「絶対後悔するようなことにならない」というのが
まったくダメだった。後悔、後悔、また後悔の雨嵐だ。毎日土砂降りだ。

それで、行動力を発揮することにずーっと臆病になってしまったのだよな。

世の中には自分の力ではどうにもならないことがある。
というのを身をもって知ってしまったというか。


というわけで、行動力を発揮したい、でも発揮したところでどうにもならない、ということで毎日グズグズしてました。腐ってました。
友人にそのあたりの話をしたら
「発揮すればいいじゃん。今までそうしてたんだし。さらっとやれよ!」
と言われました。
言われたけれど、
「でも、発揮してみて、何もなかった時に自分がものすごく落ちるのが怖いのだよ。ダメージ受けて立ち直れなくなるのが怖い」
と返しましたところ、

「うわ!やっさんの口からそんな言葉聞きたくなかったわー」

と言われて、あああ、そうだ。
ホントその通りだなーと思った。
ヤツザキさんはどこに行ったのだろう。
わしは、自信のない自分も大事にしてあげなきゃいけないんだけど、同じくらい行動力に溢れている自分も大事にしなきゃ。いや、大事にしたいのだよ。

その後、別の友人に同じ話をしましたら、
「自分で自分のやり方を思い出せるようになるまで、私はアドバイスはしないよ」
とのことでした。
この友人は(前述の友人もだが)、行動力に溢れているほうの私を、ちゃんと覚えててくれたのだな。
私だけが、それを忘れていた。ほんとは大事にしたいのに。
ああ、本当に自分を救えるのは自分しかいないんだな。


そして土曜日。偶然、遠方からやってきた友人がたと会いまして、いろいろと歓談したのですが、その時もいろいろ話しながら「自分の殻を破ることが出来るのは自分だけなんだな」と思った。
怖いけど。
前回の日記にも書いたが、自分で決めてやることならば、怖さも自分で背負える。
覚悟ってこういうことなのね。


というわけで、今までグズグズしていた件について、日曜日に実行してみたのですが(実行する前に手が震えた。私はそんなに恐れていたのか)、
なんてことなくあっさり失敗に終わりました。
あんなにさんざん恐れていたことだったのに、
あまりにもアッサリ失敗だったので、落ちもしないし、ダメージも受けなかった。
なんだ、こんな簡単なことだったのか、と思った。
すべてのことは簡単だな。
難しいと思っているのは自分だけ。
簡単だけど、永遠に難しいまんまなんだなー。


ヤツザキさん=わけわからん行動力すら、全然取り戻せなかったな。。


なんかもー、このまま「ヤツザキ」は消失してしまいそーだ。


でも後悔はしてないだけ、いいのかもしれん。
ちょっとだけでも、そうやって前向きに考えていくしかないなー。
やっぱり、すべてのことは簡単で難しい。
わしはいつになったら完全な自分になれるんだろう。
自分で自分を工作していくしかないのだなー今あるパーツで。
いろんなやり方駆使して。

2008年07月14日(月)

ガマン知る

大変お恥ずかしい話なのだけど、先日、K察から電話がかかってきて
「近親者が酔っ払って頭打って道で倒れてたんで、引き取りにきてもらえませんか?」
と言われました。

もー。何やってんだか・・・

幼少の頃から、この近親者の泥酔っぷり、泥酔して人に絡む嫌さをさんざん目の当たりにしてきて、酔っ払う男はダメだ、最低だ、と思っておりました。
誰も信じないかもしれないが、その頃は、わしは酒は飲まねえぜ!とも思ってました。

が、気がつけば自分も酒飲んで荒れる側であるし、
付き合う男も酒飲みばっかだった。
で、酒に飲まれて日々暮らしているうちに
なんかそういうことを忘れていたけれど、
ちょっとそういう初心を思い出しましたよ。

いや、前と違って「最低だ」までは思わないけれど。

最低ではないけれど、
酒は飲んでもかまわないけれど、
おもしろかったらだいたいオッケーだけど、
酒飲んで人に不快な思いさせたり迷惑かけるのは、やっぱダメだよなー。


まあ、その泥酔ソソウ遺伝子がわしの体内にもしっかり刻まれているのですがね。
嘆かわしい事実だなー。
できることならばその遺伝子を特殊組み換えして消し去ってしまいたい。
泥酔ソソウの数々の過去も、ぜーんぶ消し去ってしまいたい。

・・・などと言っておりますが、遺伝子組み換えも過去抹消もできるわけではないので、
それはそれで受け入れていく所存。ジョン・ゾーン。
受け入れた上で、そういうことを今後しないようにします。
ちなみに、近親者も迎えに行ってきましたよ。
引取り人とこにサインもしてきました。


まあ、それから数日が経ったので、いろいろと考えたのだけど、
この時に、近親者が警官に
「俺はいつも我慢してるんだよ!我慢してるんだっツーの」
と絡んでいたのがとても印象に残っている。
彼は普段は大変無口なのである。
無口だからなのか知らないけれど、酒飲んだときだけ饒舌となり、必要以上に人を責める。とことん責める。
わしが幼少の頃から今に至るまでいやだったのは、「泥酔」ではなく「酒を体内に入れないと自分のいいたいことを言えない→酒が入っているからこそ、必要以上にモノを言う」状態なのだと思った。

普段言いたいことを言わない/思ったことを口にしないということは、確かにストレスがたまる状態なのだろう。わしも言いたいこと言えない状態は、とても不快だ。イライラもする。
けど、その不快を発散するスイッチが酒というのは、ちょっと違うと思うのだよね。
酒飲んだだけでは、ストレスは解消されないわけで。
酒飲んだ状態で、人に言いたいことを言うことで発散しているのだと思う。
言いたいことをすべて言った側はスカッとするのかもしれないけれど、言われた側はつらいものです。
いや、ほんとは、言いたいこと言った側もつらいのだよね。
翌日、酒が抜けた時に、まずいこと言ってしまった、って自分を責めて、相手からは責められたくないから、自分で殻作って、相手を避けて・・・という悪循環。
ちなみに近親者も迎えに行った日の翌日からずっと気まずい感じにしております。
というか、わし、避けられておりますよナウ。

別にそのことを責めないのにな。

責めたところで関係は何も変わりはしないし。


わしには、他者から見て、人を徹底的に嫌う印象がある。
先日、別の泥酔者がわしに「そういうところが腹立つんだよ」と言ってきた。
たしかに徹底的に嫌う側面を表に出しすぎていただろう。嫌いという感情のパワーが際立ちすぎて、よそから見ると見てられないレベルだったかもしれない。
それは、私が他人に対して「嫌われる」ということに恐怖を抱きすぎていたのだと、
最近は思っています。だから嫌われる前に嫌うということをずっとやってきた。
なにより自分で自分をずっと嫌っていたから。

でも、ここ数ヶ月、いろいろな出来事があって、
その中で、さる方から、
「君は、自分を思いやることを全然してないよ。自分で自分を愛してあげなきゃ」
という言葉をかけてもらう機会があった。

その時に、なんというか、全身の力が抜けてしまうくらいの衝撃を受けたのだよね。

そうだ、自分がずっと嫌いなんだ。
自分に自信がないから、今あるものを必死で掴んでいようとする。

自分に嫌われている自分が、ずっとずっと寂しい思いをしてたんだなあ。。。


そこから、少しずつだけど、自分を受け入れていこうとやってきた。
まだまだ時間は経っていないし、よそから見たら今までと変化はないかもしれない。
自分のいいところも、ダメなところも、すべて受け入れていくことで、少しずつ広い心を持てつつあったのだが、
「結局オマエなんも変わってねえんだよ。人に対して嫌な心しか持てねえんだよ」
と言われた時は、大変に哀しい気持ちになったなあ。
そう言った人が、ずっとそういう風に思っていて、でも言えなくて、いろいろガマンしていただろうということもわかる。それだけ私の書いていたものが、人に不快を与えるようなものだったことも、反省せねばならぬことだろう。(って、文章で書いてしまうとすごくうすっぺらに見えてしまうな。哀しいことに)
では、なぜ哀しい気持ちになったのかというと、酒を飲んだ状態でそれを言ってしまったこと。客観的に見ると、どうしても酔っ払った勢いで絡まれたことになってしまうから。
その人がガマンしていたことは、酒飲んだだけで取っ払われることなんだろうか?
それは本人にとって、そうであるということだけだ。
そのガマンを、理解はしよう。
理解はするけれど、私は自分には取り入れないことにしたのだ。

自分の中の、思いは、他者に取り入れてもらうことができない。
他者は、自分の思いを、なんともしてくれない。

取り入れることがイコール好きではない。
取り入れられないことがイコール嫌われたでもない。



誰かを傷つけようなんて思っていない。
そのぶん、自分ももう傷つけないのだよ。
傷つけないために、書いた。
それは、自分を傷つけないため。いや、違うな。
傷ついた自分を認めるためだ。
「平気平気」なんて言って平気じゃない自分も受け入れていくためだ。
その自分を、自分で立ち直らせるためだ。


もし、自分が不快な思いにさせられているとか、
誰かに傷つけられているとか、
ガマンを強いられていると感じるならば、
それを誰かにぶつけるな。
酒の力なんか借りてぶつけるな。

自分を救えるのは自分しかいない。
不快な思いをするのも、傷つくのも、全部自分。
ガマンしているのも自分。
それを理解したうえで、覚悟の上で、誰かにぶつけるのならば、いいのだけどね。(もちろん酒抜きで)


って、なんでこんなこと書いているのかというと
今、自分が、とあることに対して我慢がきかない状態になりつつあるから。
って、我慢を誰かに強いられたわけではないし、
じっとしているという選択を選んだのは自分なので、
何に対しても当り散らすことはできない。
できないから、こうやって日記に書いているのですよ。


書いてみてよかったわー
選択したのは自分だ。
苦しさもつらさも自分で全部背負っていける。
もうちょっとがんばってみよう。


そういえば今日って那覇の日ですね。
久々に那覇に行きたいな〜夏真っ盛りなんだろうなー

おめでとうございます。

2008年07月08日(火)

くるりのことと、ぐるりのこと。

最近はまたまたくるりをよく聴いております。
わしがくるりを一番よく聴いていたのは2000年前後くらいで、
当時はよく新幹線で遠方に通っておったので、
帰りの新幹線でよく「ばらの花」を聴いていた。
その頃はCDウォークマンできいていたよteam rockを。
ああ、時代を感じるなあ〜、CDウォークマンってとこに。

新幹線がゆっくり走り出すペースとばらの花の始まりが
よくマッチしていて、新幹線走り出すたびに涙がつーっと流れ出したもんだ。

それからいろいろあって、敢えて積極的に「ばらの花」を聞こうとしなかった。
(ベスト盤流しっぱなしの時などは別)
なんというか、この曲にずっと対峙できなかった。
いい曲であるし、何度も聴きたくなる曲なのだけど
私はこの曲の持つ背景(ってくるりが提示しているものではなく、自分がこの曲に関連付けている背景ね)を、いらない、と切り捨てたのだ。逃げ出したのだ。
だからこの曲を「いい曲だ!何度でも聴きたい!」という資格などないのだ。
という思いと
また、この曲は、どうしてもあの頃を思い出させるから、
やっぱり素直にいい曲だと言い切れないなー
意識的に聴かないに限るわ。
という思いがありました。

が、時を経て、
先日、友人らとのカラオケで「思い出の歌をうたおうぜい」という感じになって、
わしが選んだのはこの「ばらの花」でした。
なんかすーっと選べた。今までさんざん思っていた躊躇がなくなった。
悪い思い出だろうといい思い出だろうと、印象に残っている曲には変わりないし、
私の思い出がよかろうが悪かろうが、この曲がいい曲であることには変わりない。
そして、私が聴かないでいなくても、この曲はずっとあり続けたのだよなー
消えることなく、残り続けてたのだよなー。。

つうわけで、やっと普通に歌えました。
聴きました。
(カラオケでくるりの曲歌うってのも初めてだったけどな!)

やっぱりいい曲だった。
よく聴いていた当時よりもずっといい曲だと思った。
サビの部分以外がズシンとくる。沁みる。
遠回りしてまた転んでとか、弱虫過ぎて踏み込めないままとか、ああ。
それは私が知らず知らずのうちにやってきたことだった。
新幹線で通っていた頃もそうだったし、普段の生活のときもそうだったし、もっと遠方に通っていた頃も、ずっとずっとそうだった。そして、弱虫過ぎて踏み込めないのは、相手に対してもそうだったし、何よりも自分に対してそうだった。

いろいろな時を経て、ようやく私は自分に踏み込みつつあるのですがね。
周りからは全然わからないかもしれないけれど。
少しずつ。

この曲から離れていた間があったから、私はこの曲を真に理解できたのかな、と思った。



と、くるりの話が長くなりましたが、ほんとに書きたかったのはこっち!
映画「ぐるりのこと。」を見てきました。
http://www.gururinokoto.jp/


子供を失ってしまって、精神のバランスを崩していく翔子(木村多江)と
女好きで頼りないけれど、彼女を思い続け、支え続けるカナオ(リリー・フランキー)という夫妻の1993年から2001年までの軌跡を描いた映画でございます。


たまたま公開日にCMで見かけて、なんとなく「今、私はこれを見なきゃいけない!」という気がしてた映画だった。久々に映画に呼ばれた感じがしてましたよ。

で、見てみた。

苦しくても、つらくても、不安になっても、絶望を感じても。
自分が無力であると感じても。
なんともできないとしても。
どんなことがあっても、逃げないということ。
どんなことがあっても、自分から手を離さないということ。

一緒にいるということは、物理的なことだけじゃないのだな。

途中、翔子が
「ちゃんとしなきゃいけないと思ってたのに、できないの。
 もっとうまくできると思ってたのに、できないの・・・」
「隣にいるのに近くにいる感じが全然しないの
 なんにも言ってくれないから、わからないの」
「なんで私と一緒にいるの・・・」
と、テーブルの脚にしがみつきながら、ものすごい大泣きで、鼻ズビズビで、まさに「泣き崩れる」という言葉どおりに叫ぶシーンがあるのだけど、

あーオデもこんな思いで、こんな風に泣き崩れたことがあったなあ。
人には決して見せられないくらいに、みっともなくなったなあ。

と思って、映画館なのにみっともないくらいに泣いてしもうた。

で、カナオが「いろいろ考えすぎだよ」と言って、

「好きだから一緒にいたい。それでいいんだよ。」
「みんなに嫌われたっていい。好きな人にいっぱい好きになってもらえればいいんだよ」

ということを、翔子の背中をさすりながら言うのだけど
こっちの気持ちも痛いほどにわかって、涙倍増(当社比)。
もうちょっとで声あげて泣くとこだったよ。
映画終わった後、トイレに駆け込んだらマスカラとアイシャドウが全部落ちてた。
ゴスの人みたいな顔になってましたわ。
キュアーのロバート・スミス状態だった。


翔子のようなわたくしですが、カナオのようになりたいなと思いました。


それにしては自分に自信がなさすぎた。
私を離さないで、って人に求めすぎた。
まあ、今はちょっと変わって、
何があっても私は離さないから、逃げないからと思っている。
だからそれだけ自分も相手も自由にしようと決めました。
たとえ周りにみっともない、痛々しい、見てらんない、と思われようと。
周りが私をどう見るかは、どうでもいい。
私が私をどう見るかに比べたら、
ちっとも重要じゃない。
それが、私が相手をどう見るか、に繋がっていくのだから。


そういう境地に至ることが出来たのは、自分に向かって一歩踏み込んだからなのかな。踏み込むことで、受け入れることで、自分の本当の気持ちや、どこに向かいたいのかが、わかってきたからなのかな。
私は、弱虫になるのをやめようと努力中ですよ。
自分を恐れないこと。何があっても、自分から、自分の本当に思う気持ちから逃げないこと。
それを実践していくことで、相手と、相手の本当に思う気持ちを逃げずに受け入れていくことができるのかなと思ってます。(それが自分にとっていいものであっても、悪いものだとしても)
まだまだ道の途中だけどね。


あと余談だけど、リリー・フランキーって全然いいなあと思ったことなかったんだけど、ぐるりのこと。の最初のほうで、全裸で台所で水飲んでるシーンがあって、その後ろ姿にドキッとした。
セックスのあと、裸(むろんフリチン)で台所や洗面所うろつく男の後ろ姿が好きなんだなー、わしは。
2008年07月03日(木)

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