日々雑感
DiaryINDEXbacknext


2004年12月24日(金) 帰りたい

海の向うの友人たちよりクリスマスのメール。ポストにはカード。友人たちが送ってくれた写真には、毎日のようにそのほとりを歩いていた川の流れが写っている。高い尖塔を持つ教会がある。見慣れたバスが走っている。この街を私はよく知っている。

そして夜、お世話になった家族と電話で話しながら、今さらのように確信した。今の自分の状態、これを「ホームシック」というのだろう。


2004年12月21日(火) 冬空の下で

草も枯れてまっさらになった空き地の真ん中、まっすぐに木が立っている。枝の隙間からは冬の日の光が漏れる。葉をたくさん繁らせていた夏が過ぎ、ただ幹と枝だけとなった姿の、確かさ、揺るぎなさ。あんなふうに自分もありたい。


2004年12月20日(月) あのころ

昨日は大学時代のサークル仲間の忘年会だった。それぞれの外見だけでなく、集まったときの場の空気も全然変わらない。思ったことを思ったままに口にして、大笑いしていられる場所。自分にとっての宝だと思う。幸せな気持ちで何杯も飲んで、久しぶりに深く正しく酔っ払う。

帰り道の足どりが怪しかったらしく、「家に着いたら必ず連絡するように」と友人に念を押されて、わかったわかったと頷いていたのだが、家に戻り、コタツに入ったところで力尽きる。目が覚めると既に朝。留守番電話のランプが点滅し、携帯のほうにも何件もの着信履歴が。心配してくれていたのだろう。それがこちらときたら、電話の音にも気づかずに、気分よく、ぐっすりと眠っていたのだ。夢も見なかった。こんなに深く眠ったのはいつ以来かと思う。ほんとうにリラックスするためには、誰かの存在が必要なのかもしれない。そんなにストレスをためるほうではないけれども。

明けて今日、部屋の中で仕事。友人から借りた「モーターサイクル・ダイアリーズ」のサントラを聴いている。映画の中のいろんな場面が浮かんできて、今すぐにでもまた観に行きたくなる。若きエルネストの無鉄砲さ、何をどうすればよいのかわからないけれども、とにかく何かやらなければという気持ちだけは溢れている頃。使われている音楽が、サークルで自分たちが演奏していたものと似ていることもあり、昨日の余韻もあわせて、つい、大学構内外れにあるサークル棟に入り浸っていたときのことを思い出してしまう。少し恥ずかしいけれども、あえてその言葉を使うとしたら、あの人たちと共に過ごした日々が自分にとっての青春だったと思う。


2004年12月18日(土) 埋もれる

植物に埋もれそうになっている家が好きだ。やがて木々や草といっしょに朽ちてゆきそうな気配がする建物。

夕方用事を済ませたあと、いつもとは違う道を帰ろうと思い、迷う。路地を奥へと進んでゆくたびに、そんな家が何軒も現れた。たいてい、何本かの大きな木が周りを囲んでおり、ときには蔦がびっしりと絡まっている。合間に辛うじて木枠の窓がのぞき、ぼんやりと部屋の中の灯りが透けて見えることも。そこだけ時間の流れが違っているようで、あの窓の向うから見えるこちら側はどんな感じだろうといつも思う。

冬の夕日はどこまでも届く。忘年会だろうか、居酒屋へと入ってゆく大勢の人たちとすれ違いながら、暗くなった頃、無事に家に着いた。


2004年12月14日(火) 年越し前

駅までの路地にて、植木の手入れをする半被姿の職人さんを見る。

脚立に乗り、大きな植木鋏で松の木を整え、もうひとりが竹箒で落ちた葉を片付けてゆく。鋏を使う音も竹箒の音も、冷たく乾いた空気の中、遠くまでよく響く。その規則正しい音とともに、この一年のうちに降り積もった諸々も、収まるべきところに収まり、余分なものは清められてゆくような心持ちになる。クリスマスソングが流れる大通りの一本裏、これぞ日本の正しい年の越し方かもしれない。

店頭には新巻鮭が並ぶ。年の瀬の匂いする。


2004年12月12日(日) 「モーターサイクル・ダイアリーズ」

恵比寿にて、映画「モーターサイクル・ダイアリーズ」見る。

のちの革命家チェ・ゲバラ、23歳のエルネストは、友人とふたり、「ポデローサ号」と名づけたおんぼろオートバイで南米大陸縦断の旅に出る。踊りが苦手で融通はきかない。納得のいかないものは、どうしても納得いかない。その「バカ正直」さゆえに、あっちこっちでぶつかるエルネストがとにかくいい。たぶんそばにいたら、旅の道連れであった友人アルベルトのように、ちょっと待て、と言いたくなるような言動ばかりだけれども(自分はどちらかというとアルベルトに近いと思う)、そんな眼差しにこそ見えてくるものがある。

少なくとも若いうちは、「ものわかりよく」なんてなるな。「わかる」というのは、もっと大変なことだ。泣きそうな思いをしながら、身体と心に刻みこんでゆくものだ。

南米の大草原の中、まっすぐに風を受けて走るふたりの姿がいい。こんなに美しい青春映画はないと思う。最高でした。音楽もよかった。あと10回でも観たい。そして、旅に出たくなった。


2004年12月10日(金) 『銭湯の女神』

夜に気分転換したいときには近所のブック・オフに行くことが多い。新刊書店は10時で閉店だけれども、こちらは12時まで開いている。日中は店員さんたちがひっきりなしに何か連呼している店内も、閉店近くならばお客が少ないせいか気になるほどでもないし、何より、本と人の気配に同時に触れられるのがよい。

『銭湯の女神』星野博美(文藝春秋)を買う。ファミレス、ゴミ捨て場、100円ショップ、そして銭湯。それらから透けて見える人びとの姿や社会の有り様について綴られた36篇の随想が収められている。数年に渡る香港暮らしを経てからというもの、日本での生活に不思議な居心地の悪さをおぼえ、さらに、「日常が旅に侵食されて」いるためか、世界中のどこにいても「いつまでここにいるかわからない」と感じてしまう。そうした距離感から生じる眼差しが、批判一方でもなく、感傷的でもなく、淡々としていながらこちらを引き込む語り口を生んでいて面白い。

著者は写真家でもある。写真家によい書き手が多いのは、よく視るという姿勢と関わっているのだろうかとも思う。そこにあるものを、決して見過ごさないこと。

著者のお母さんによると、銭湯に行く人は真面目らしい。いわく、「この豊かなご時世、多くの人にとっては、家に風呂がないっていうのは想像を絶する不便さだろう。買いたい物は目の前にゴロゴロ転がってる。(中略)銭湯に行く人は、そういうことに背を向けてるってことでしょう。自分に何が必要で何が必要でないのか、わかってる人たちだよ」。自分の場合はそこまでの信念があるわけではなく、風呂もやっぱりあるに越したことはないのだけれども、とりあえず「そうか、真面目か」と背中を押されつつ、今日も銭湯へ向かう。


2004年12月07日(火) 瀬戸内海

いつも行く銭湯には壁いっぱいに瀬戸内海の絵が描かれている。どうしてなのかはわからないが、下のほうに白い文字で「瀬戸内海」と書かれているので、確かにそうなのだろう。うらうらとした春の日らしき海だ。空はうすい水色、水平線近くには白い雲が流れ、帆掛け舟が何隻か浮かんでいる。それにいくつもの島々。

飛行機や電車であのあたりを通り過ぎたことは何度かあるけれども、しっかりと瀬戸内海を眺めたのは、広島へ行ったときの一度きりだ。よく晴れた秋の夕方、尾道の坂の上から淡く暮れてゆく島影を見て、見たことのない海だ、と思った。自分がそれまで知っていた日本海はもっと黒々としていた。色も光も違う。

この銭湯、いつも浴室には音楽がかかっている。それも決まって、「古きよき」という枕詞が似合いそうな洋楽である。お湯につかり、瀬戸内海を眺めつつ「マイ・ウェイ」のサビの部分などを聞いていると、気分が盛り上がってきてなかなかよろしい。瀬戸内海には短調ではなく長調の曲が似合うと勝手に思っている。

今日は「テネシー・ワルツ」が流れる。合わせて、誰かが低い声で歌っている。


2004年12月05日(日) バスの旅路

渋谷にてテオ・アンゲロプロスの特集上映が行われていたことに、終了二日前に気がついた。木曜日、ずっと映画館のスクリーンで見たかった「永遠と一日」に何とか間に合った。最終日である金曜日には「旅芸人の記録」を見る。渋谷の片隅でひっそりと地味に行われている(と思っていた)上映で、さらに平日昼間であるにもかかわらず、館内は満員。みんなどこで知ってやって来るのだろうと、自分のことを棚に上げて不思議に思う。

「永遠と一日」。不治の病を抱えた老詩人が、偶然出会った少年とともに乗り込む<魂のバス>。車窓を流れる夜の港の明かり、白っぽいバスの車内、そこにいろいろな人が乗り込んできては、また降りてゆく(まるで銀河鉄道のように)。曇天のギリシャ、冬の海の灰色、「旅芸人の記録」にて、古典劇を上映しつつギリシャ各地をまわる旅芸人一座が、踊りながら歌う、そのときの掛け声、「ヤクセンボーレ!」

映画を観ていたというよりは、そこに流れている時間を自分も生々しく体験したかのようで、帰り道は、うわ言のように、まいった、まいったと繰り返すばかりだった。

そのせいもあったかもしれない。嵐の音を聞きながら、今朝、バスの夢を見た。夜道を行くバスに自分は乗っている。運転手の後ろの席だ。反対側の窓辺には友人の姿がある。しんとした商店街。波打ち際のバス停。知らない人、なつかしい人、たくさんの相客がいたけれども、ひとり、またひとりと降りてゆき、やがて友人とふたりきりになる。

すべてのものが、まだ息をひそめてじっとしている長い夜明け前の暗がりを抜けて、目的地に近づいた頃、夜が明けた。よく知っているような、はじめて来るような、判然としないけれども確かに「なつかしい」その街は、朝陽に照らされて、なんてきれいだったろう。光る水路のまぶしさが忘れられない。これをよい夢といわずして、何という。


2004年12月04日(土) 約束

好きな飲み屋がある。駅裏のビルの3階。店内はそれほど広くはない。低い音でジャズが流れている。

上京してきた友人とふたりして、久しぶりにその店で飲んだ。スペインの赤ワインのボトルを一本、いろんな話をしながらゆっくりと空けた。とりあえずこのひとときは、何もかも忘れて、ただ幸せ。たまにはこんな時があってもよいだろう。

そこにいるあなたに。今度いっしょに飲みませんか。どうでもいい話をたくさんして、幸せな気分で酔っ払いましょう。


ブリラン |MAILHomePage