日々雑感
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夜はまだ寒いのでストーブをつけている。
テレビも音楽も消すと、ストーブの音だけが低く聞こえる。その音を聞いているとなぜだか落ち着く。小さい頃からそうだった。いつも、ストーブのすぐそばに転がってぼんやりとしていた。暖かい。
火のそばにいるという安心感なのだろうか。火や灯りや暖かさは、茫々と広がった世界に点々と散らばる道標のようだと思う。
朝日新聞の読書欄に、和田誠さんの『物語の旅』(フレーベル館)について書かれた久世光彦氏の書評が載っている。久世氏の書棚は<怖い本><白秋さん><二・二六>というようにジャンル別になっていて、その中に<幸福>というコーナーがあるのだという。そこにあるのは和田さんや川上弘美さんの本。
自分の本棚を考えてみる。<幸福>と呼べるかはわからないが、<とっておき>というコーナーはある。他に<しみじみ>とか<一気読み>とか<背伸び>とか。
「私も一冊ぐらい<幸福>の書棚に置かれるような本を遺したいと思う。」という久世氏の言葉に「うんうん」と頷く。「本を書く」に限らず、何にでも言えることだろう。誰かにとっての<幸福>という部分にそっと置いてもらえるような仕事ができたらいい。
2002年03月30日(土) |
いろんなものを捨ててきた |
夕方から友人の家へ。友人は試合観戦のために上京するほどの熱烈な巨人ファンである。今日は開幕戦、何としてもテレビを観なければいけないということで、もう一人の友人といっしょに観戦に便乗。自分自身は特にどこが贔屓ということもないけれど、今年は何となく阪神を応援している。
はじめのうちこそ真面目に試合を観ていたが、友人が大きな「開かずのダンボール箱」を持ってきて中身を調べ始めると、そちらに夢中になる。小学校の卒業式のしおり、中学校時代の寄せ書き、高校生の頃の日記など、いろんな物が次から次へと出てくる。修学旅行のときにもらったパンフレットやチケット、部屋割りのしおりまで取ってあって、どれも皆なつかしい。自分はどうかというと、もうほとんど残っていないはずだ。同じだけのものを手にしてきたはずなのに、いったいどこへやってしまったのか。いろんなものを捨てたり、忘れたりしてきたのだ。
試合は阪神が勝利。ちゃんと気合入れて応援しなかったのがまずかったと、友人は悔しがる。シーズンは始まったばかり。最終戦の頃にはみんなどうしているだろうと、ふと考える。その頃までに、いったい何を捨てているだろう。そして、何かを得てはいるのだろうか。
友人の運転する車に乗って出かける。顔をあわせるのはお正月以来だ。
目的地は県南の山のほうにある神社。友人が「縁結び神社 秋田」の項目でインターネットを検索したら、その神社が一つだけ出てきたという。はっきりした場所はわからないということで(地図にも載っていない)、勘と方位磁針を頼りに車を走らせる。
道を間違えたり、後戻りしたりしつつ、ようやく目的地の神社にたどりつく。山裾に古い木造の鳥居。しかし、前までいって呆然とする。鳥居をくぐるとすぐに急な石段になり、それが暗い杉の林を抜けて、山のずっと上のほうまで続いている。加えて、深い雪がその石段を覆い、これではとても上までは行けない。
せっかくたどり着いたのにねと言いながらうろうろしていたら、社務所から女の人が出てきた。「どうされました。」お参りに来たというと、どうぞと言って社務所のそばの建物を開けてくれる。どうやら、そこでもお参りができるらしい(冬季期間限定か)。
どこから来たのかと聞かれて答えると、「わざわざそんなところから」という感じでびっくりされる。はるばる山や川をいくつも越えてきて、よっぽど気合が入っていると思われたのだろうか。「せっかくだからどうぞ」と言って、神社のお守りを渡してくれる。
鳥居のあたりを歩いてみる。雪と枯れ草の間から、ぽこぽことふきのとうが見えている。やわらかい緑色。桜の木も何本もあったけれど、まだ固いつぼみらしきものが現れ始めたばかりで、満開の時期は遠いだろう。山の奥では、春はゆっくりやってくる。
帰りは海沿いの道を行く。雪に覆われた鳥海山が陽の光に白く浮かび上がる。春のはじめの薄い空と海の色だ。
夜、地元に戻って軽く飲む。渡されたお守りを眺めつつ「縁」についていろいろと語る。山奥の縁結び神社の効果は果たして。
実家。雪もすっかり消えて、枯れ草の間から黄色や紫色のクロッカスがのぞいている。温まった土の匂いがする。
窓の外を見ていると、キジの雄がやってくる。キジも孔雀と同じように、雄がきれいな羽を持ち、雌は枯れ草と同じ地味な色をしている。雄は、辺りの様子をうかがいながらうろうろと歩き回っていたが、ガサガサと音がしたと思うと、やぶの中から雌が現れた。後から後からどんどん出てきて、数えたら雌ばかり六羽もいた。キジは一夫多妻制なのか、それとも一羽以外は子どもたちなのか。
小さい頃から、いろんな生き物があたりにいた。キジの他に、いたち、ヘビ、キツネ(友人と林の中を探検しに行って発見した)、なぜか大きな亀が現れたこともある。あれはどこから来た亀だったろう。近所に住むおじいさんが甲羅を抱えて海へと帰しに行ったのを覚えている。
猫を何匹か飼っていたので弟といっしょに「猫のおじいさん」と呼んでいた人だ。犬や猫をいつも傍らにはべらせていたり、ケガをしたカモメを連れてきて手当てしたりと、まるで「動物つかい」のようで、ドキドキしながら(そして尊敬もしつつ)、おじいさんのことをいつも見ていた。
「猫のおじいさん」は今も元気で、ときどき犬の散歩をしている姿を見かける。噂では、庭でハーブも育てているらしい。何十年か後にふと訪ねても、まったく変わらずにそこにいるのではないかと思ってしまうような人。
夜、テレビで「サウンド・オブ・ミュージック」を観る。何度観てもいい。
朝から雨。月曜日に東京に来た従姉妹にとっては東京滞在最終日、自分自身は彼女を送りがてらいっしょに帰省の日。
東京駅に早く着きすぎる。最後に東京らしい場所を見物しようと、傘をさして皇居まで歩く。皇居前広場まで行ったところで、「広いねー」「大きいねー」と言いながら、大雨に負けて早々と退散。ジーンズも靴も雨にぐっしょりと濡れてぺたぺたする。
駅弁を買おうと約束していたのだが、蕎麦屋の前を通りかかるといい匂いがして、思わず中にすいこまれる。ちくわ蕎麦とたぬき蕎麦を注文。店内はどこかへ向かう途中の人ばかり集まってあわただしい空気だ。デザート代わりに人形焼きなど買って新幹線に乗り込む。
桜も終わりかけの東京を後に、北へと向かう。居眠りする従姉妹の横に座りながら、ぼんやりと考える。今でも地元に対しては「帰る」と言ってしまうけれど、いつか「帰る」という言葉を使わなくなる日がくるのだろうか。そもそも「帰る」っていったい何だ。
終着駅。ホームに降りると空気が冷たい。青ざめた夕暮れの街の中、山の上にかかった大きな月を眺めながら帰る。
島へ行く夢を見る。小舟で船着場へ着くと、浅瀬には鷺のような紫色の鳥が何羽も佇んでいる。その島は、浜だけでなく町中の道も全部砂だ。何度も足をとられそうになりながら歩いてゆく。ときどき風で砂が舞う。
夜になり、高台にある宿に着く。「海の家」のような建物。二階の窓からは浜が見渡せる。月夜の砂浜。波の音。海には月の光で道が出来ている。ふと見ると、隣りの建物の屋根の上に、ギターとカンテにあわせてフラメンコを踊る赤いドレスの女性がいる。足音。パルマの音。極彩色の絵のような風景。久しぶりに夢らしい夢を見た。
昨日に引き続き従姉妹と歩き回る。お昼など御馳走しようとしても、頑として割り勘を主張、反対に「いっしょに食べよう」と言ってクレープをおごってくれる。10も年下の子におとなしくおごられる方も問題か。ブルーベリーと生クリームのクレープ、おいしかった。
高校生の従姉妹が上京。上野駅まで迎えに行く。新幹線に乗るのも初めてということで、緊張した顔をしてホームに降りてくる。
いっしょに東京の街を歩きながら、自分自身が東京に出てきたばかりの頃の視線を思い出す。「東京だとみんな歩くの速いね。何か急がなきゃいけないような気がしてせかせかしてしまう。」以前はやっぱりそう感じていたはずなのに、その自分自身が今はいちばんせかせか歩いている。街のリズムというものがあって、住んでいるうちに沁みこんでしまうのだろうか。
もうひとつ。部屋に入っても従姉妹は鍵をかけない。入ったと同時に鍵をかけるのが無意識の習慣になっているけれども、確かに地元では留守にするときでさえめったに鍵をかけないのだ。いろんなものがあるはずなのに、自分たちのやっていることしか見えていない。気づかないうちに、眼差しが狭まったり固まったりしているのかもしれないと思う。
夕方、ビルの最上階の展望台にのぼってみる。ちょうど夕日が沈もうとしているところ。すじ雲がたなびいて、向こうにはうっすらと山並が広がる。線香花火の終わりにできる火の玉のような、まんまるの夕日。ぽとりと落ちるのではなく、にじんで、しぼんで、ゆっくりと消えていった。
花見日和の週末なのに、一日中部屋の中で仕事。なかなか進まず。夕方になって、ようやく外へ出る。
本屋でも覗こうかと思い、近所の5階建てデパートのエレベーターに乗る。満員だ。ぎっしりと人が詰まった中の端と端に、父親に手をひかれた小さな男の子と、おばあさんといっしょの小さな女の子がいる。同い年くらいか。大人たちの足の間に小さな子が二人、ふと目をやると、何の言葉も仕草もなく、お互いにじっと見つめあっている。目線が同じ二人。
本屋をぶらぶらと見て周り、外へ出ると桜の花びらがはらはらと散っている。その様子を見上げながら、今度は両親といっしょの女の子が言う。「雪みたいだねえ」そうそう、ちょうど今同じことを思ったよと、心の中で話しかける。いつか彼女が見たのはどんな雪だったのだろう。春の雪。桜吹雪。
午後、強い雨が降る。突然の夕立のような降り方。
雨はだんだん強くなってくる。外も、部屋の中も薄暗い。電気をつけたほうがいいかと思ったとたん、雷が鳴った。どこかに落ちたかのような、大きな音。窓がビリビリと震えて、鳥が何羽も鳴きながら飛んでいく。
その一回きりの雷を合図のように雨は止み、嘘のように晴れ間が広がった。雨上がりの道を歩くと、水たまりや葉っぱについた水滴、いろんなところが陽の光に反射して光っている。青空を背景に桜の花がいっそう白い。あれを春雷と呼ぶのだろうか。
一日中、くるりの「ワールズエンド・スーパーノヴァ」を聞く。どこに惹かれるのかわからないけれど、この曲ばかり繰り返し聞いている。
国立へ行く。駅の改札を出たら、ずっと向こうまで満開の桜並木が続いている。視界いっぱいの桜にくらくらする。
写真展をみる。会場は小さな喫茶店だ。いつも来ているらしい女の人や、新聞紙を広げた男の人など、みんな気持ちよさそうにぼんやりしている。
喫茶店の壁に飾られた何枚ものモノクロ写真。砂丘の風景、空、雲、光、その中にぽつんと小さな人の影。写真には地平線が写っているけれども、その向こうに遥かな広がりがあるのを確かに感じる。まるで、いくつもの窓があるみたいだ。喫茶店の椅子に座り、コーヒーを飲みながら、その窓を通して彼方に広がる世界を眺めている。
どこまでつづいているのだろう。自分の目では地平線までしか捉えることができないけれど、その先にも確かに世界はあるのだ。静かで、深くて、強い写真。
店内にはCDのバイオリンの音。コーヒーがとてもおいしい。地元にいる友人のことを思い出して、彼女もここへ連れてきたいと考える。きっと、このお店も写真も気に入るだろう。
桜並木をぶらぶらと散歩しながら帰る。夕方から雨。もう雨が冷たくない季節になった。
夕方。ものすごい夕焼け。空気まで夕日の色に染まっているみたいだ。ときどき、こんなふうに圧倒的な夕焼けを見る。
ある年の夏のことだ。地元では送り盆に海へ灯籠を流すのだが、その日の夕方も、灯籠が流される船着場まで歩いていった。中に入ったろうそくに火がつけられ、ぼうっと光る灯籠が次々と海へ放たれる。灯りの固まりは、くっついたり離れたりしながらゆっくりと水平線のほうへ向かってゆく。
一瞬、あたりの色が変わった。空も雲も海も、流れてゆく灯籠を眺める人たちも、みな夕日の色に染まっている。まるで、その時間そのものが夕日の色に浸されたかのようだ。その中を、灯籠の灯りだけがゆらゆらと流れてゆく。お経をよむ声が低く聞こえてくる。遠くで名前の知らない鳥が鳴いている。
ぼんやりと、この夕焼けのことはきっと忘れないだろうと思った。今日の夕焼けはどうだろう。いつか振り返って、この街の景色といっしょに思い出すだろうか。
スーパーでおはぎを買う。ゴマときなこを一個ずつ。夕飯の前にお茶を飲みながら2個とも食べてしまう。
外を歩きながら、いろんな人を見かける。「おさかな天国」を口笛で吹きながら歩くお兄さん、「ちびのミイ」のキーホルダーを鞄にぶら下げたスーツ姿のおじさん、猫を肩にのせつつ、犬を散歩させるおじいさん。猫はずいぶん大きく、犬は小さなチワワだった。
日暮里へ行くついでに谷中霊園をのぞく。桜の木、先週はまだつぼみだったのに、もう満開に近い。お彼岸ということでお墓にはいろんな花が供えられているが、今年はちょうど桜が間に合った。天然の供花。お墓とお墓の間のスペースに「ここ、夕方から使います」などと書かれたシートが何枚も敷かれている。花見の場所とりだ。向こうのほうでは、もう宴を始めている人たちもいる。
高台から眺めると、街のあちこちに桜の花がぼうっと浮かび上がっている。白い霞のようだ。夕空には三日月がかかっている。
夜、日暮里でバイト先の人々と送別会。2階にあるお店の窓からは、ちょうど桜が見える。期せずして少し早い花見となった。夜桜を眺めつつビール。
2002年03月19日(火) |
「アンフォゲッタブル」 |
演劇集団キャラメルボックス「アンフォゲッタブル」」を観に行く。新宿シアターアプル。
キャラメルボックスは、あえて言えば、ディズニーランドに似ているかもしれない。「ディズニーランド」という世界があって、ゲートをくぐった瞬間から全部忘れてその世界に没入でき、ミッキーマウスの耳などつけた人がうろうろしていても全然違和感がないように、キャラメルボックスにも、劇そのものだけでなく、劇団の雰囲気、受付から前説にいたるまで「ああ、これだ」という空気がある(そして、演出する側は真剣に、徹底してその世界を演出している)。今回は久々だったけれど、その空気は変わってなくてなつかしかった。平日だが客席は満員。当日券のお客さんも通路までぎっしり入っている。
「アンフォゲッタブル」はタイムトラベルものである。「スキップ」という言葉が出てくることもあって、北村薫の『スキップ』を連想してしまったけれど、もちろん「スキップ」の仕方や作品の色合いは違う。
ほんとうは言いたいのに、照れくさくて口に出せないこと。そんなの言葉にするのは恥ずかしいんじゃないかと感じていること。けれども、とてもまっとうで、きっと誰もが思っていること。そういったものがストレートに伝わってくる舞台だったと思う。そして、それを観ているこっち側は、何をためらっているのかとポンと背中を押されるような気がするのだ。
劇が終わって一瞬暗転し、灯りがつくと役者さんたちがずらりと並んでいる。さっきまで舞台の上で演じていた人たちが「その人」に戻ってこちらを見つめている。あの瞬間が好きだ。
いっしょに行った友人と「爽快だったね」と言いつつ帰る。喫茶店に寄り、コーヒーとクロワッサンサンド。ピーナッツクリームの「つぶつぶ」というのを頼んだら、「つぶつぶはあんまり甘くないですよ」と言ってチョコレートクリームをかけてくれた。おいしくて身と心に沁みる。
大学へ行く。桜もハクモクレンも咲いている。あちこちにサークルの新入生歓迎の立て看板。
用事をすませ、構内の野球場の桜を見にいく。毎年、ここで花見をするのが恒例なのだ。いつもはだいたい4月第一週の土曜日に決行なのだが、今年はもう三分咲きくらい。今週末には満開になってしまうかもしれない。風が吹くと花びらがはらはらと散ってくる。今日は風が強い。
桜の季節。ほんのひととき盛んに咲いて、あっという間に散ってゆく。そのひとときを逃したくなくて、みんな開花情報や道沿いの桜のほころび具合にそわそわするのだろう。桜を見るのは、過ぎてゆく時間をつかまえようとするのに似ている気がする。
夜、銭湯でおばあさんたちが「風の強い日だったねえ」と話し合っている。「今あれでしょ、中国から黄砂っていうのが飛んできてるんでしょ」「中国からいろんなものが飛んできてるって言うからね」「どうせだったらお札とか飛んでくればいいのにねえ」。ひらひらと中国のお札が舞う春の空。
浅草へ演奏会を聞きに行く。学部時代に所属していたサークルの4年生による卒業記念コンサート。
会場は、浅草の合羽橋からほど近いところにあるお寺である。ここでは、月一回くらいのペースで、本堂を演奏会の会場として開放している。ステージとなるのは仏像の真ん前のスペース。さらに、お彼岸が近いということで、卒塔婆まで両脇にずらりと並んでいる。
出演しているのは、この3月に卒業する4年生19名。これを最後に社会へ出て行く人もいれば、大学に残る人もいる。何しろ、全員がそろって演奏するのはこれが最後になるだろう。彼らがたどってきた4年間や、その間にあっただろう様々な出来事を思い浮かべてしまって、客観的に演奏を聞けない。どうしても、かつての自分自身をもそこに重ねてしまうからか。
そんな訳でうまく感想が出てこないのだが、いい演奏会だった。音楽ってすばらしいとしみじみ思わされるような演奏会。
演奏会が終わって外へ出ると、桜が咲いている。夜桜だ。春はまた巡る。
日中、ずっと部屋の中で作業。煮詰まってくる。空気も悪い。気分転換に、午後遅くから外へ出る。大家さんの庭では桜草が満開だ。桜草やスミレやパンジー、花の色が鮮やかで目にしみる。
迷子になりそうな裏道をわざと選んで歩く。いつも通る商店街の横道を入っていくと、古い家やお店が並んだ細い通りが続いている。入り口の前に青と赤のぐるぐる回るやつ(何というのか)が置かれた床屋。商店街から外れたところにぽつんと一軒だけの八百屋。さらに行くと、鉢植えや植木に埋もれるようにして中華料理屋の入り口が見えた。暖簾には「幸楽」(こんなところに「渡る世間は鬼ばかり」が)。
迷子になろうと思っても、今はなかなか難しい。いつかは必ずどこかへ着くだろうという、開き直りに似た安心感があるからか。それとも、ほんとうに迷子になりそうな道は、無意識に避けて歩いているのか。
子どもの頃、親とはぐれると、それがよく知っているデパートや町でもほんとうに怖かった。「あ、いない」と思った瞬間に世界が一変した。ひとりぼっちで取り残されて、手をのばしても、つかまるところが何処にもないような感覚。だとすれば、大きくなるというのは、いろんな足場や「つかむ場所」を自分で見つけてゆくということか。
ぐるぐると一時間近く歩き回り、元の商店街に戻ってくる。安売りの野菜ジュースを買って帰宅。気分はすっきりしたが、作業の続きをしようと机の上にいろいろ広げたまま寝てしまう。散歩逆効果。
新宿で友人の送別会。彼女は昨年の秋にオーストリアの人と結婚したのだが、いろいろな準備をすませて、来週本格的にウィーンへと引っ越すのだ。
場所は西新宿の台湾料理屋。小さなお店だが、19時すぎには満員となる。ピータン、「手で持って食べてください」という春巻き、筍や鶏レバーを湯葉で包んで揚げたもの、焼ビーフン、それに豚足や豚の耳など、どれもおいしい。滋味豊かという感じがする。デザートに食べた「仙草」という黒いゼリーはゲンノショウコのような味がした。薬草っぽい風味。「こういう料理もしばらく食べられなくなるなあ。」と友人が言う。
彼女からは、結婚生活とか、海外で暮らすとか、そういったことに対する不安や気負いのようなものはまるで感じられなくて、ものすごくしっかりとこれからの生活や自分自身の考えを見据えている。昨年出席した結婚式で見た結婚相手を思い出す。しっかりした彼女と、とにかく元気で「やんちゃ」という印象がある彼と、よいコンビだった。嬉しくてたまらないといった感じの二人の表情が忘れられない。
帰りはJRの新宿駅まで歩く。高層ビルのずっと上のほうまで、まだ灯りがたくさんついている。駅構内でアイスクリームを食べたあと、逆周りの山の手線に乗る彼女と階段前で別れる。「またメール書くからね。」これから遠くへ行くのだという気がしない。また来週あたり、どこかでお茶でも飲んでいそうな気がする。ウィーンを「遠く」と感じさせないのは、彼女の軽やかさのせいだろうなとぼんやり考えつつ、ひとり電車に揺られて帰る。
バイト先に届け物。日向夏を一個もらう。
バイト先には、両親が宮崎出身の友人がいる。いろんなお菓子や、カリカリのじゃこ、それにこの日向夏など、宮崎のものをいろいろと持ってきてくれるのだが、どれも皆おいしい。とても大らかな味がする。日向夏はオレンジくらいの大きさで、蛍光色のような鮮やかな黄色をしている。宮崎には一度行ったことがあるが、あの強い陽射しと濃い緑を思い出す。
帰りは少し歩く。日暮里の駅の裏から谷中霊園へと抜ける道を行く。霊園いっぱいの大きな桜の木は、つぼみがだいぶ膨らんで、遠くからでもはっきりと見える。霊園の中の小さな公園、何個か置かれているベンチは満員。昼寝する人、新聞を読む人、ぼうっとする人、そして尺八を練習する人。尺八の少しかすれた音があたりに響く。五重塔の跡地などを眺めつつ、さらに根津のほうへ歩く。古い銭湯を改築したギャラリーや、お煎餅屋、瓶ビールがずらりと並んだ酒屋(なぜかみんなキリン)、このあたりは良い感じで古びたお店が多い。
坂をだらだらと下っていくと、黄色い看板や貼り紙、のぼりなどがたくさん見えてくる。言問通り沿いに大きなマンションが建つということで、地元の住民が反対運動をしているのだ。シートの隙間からほとんど完成しているらしいマンションが見える。何棟もの高層マンションにぐるりと囲まれるようにして、真ん中には広場が出来ている。舞浜のイクスピアリや恵比寿ガーデンプレイスなど、ああいった「作られた街」という雰囲気。
反対運動をするのもわかる。日当たりうんぬんという以前に、その町から完全に浮いているのだ。その町やそこに積もっている時間をまるで無視して、自分たちだけの世界を作り、完結している。そんな建物が側にあったとして、自分の町を愛していたら、なおさらつらいに違いない。それとも、人が入って生活するようになったら、また変わるのだろうか。
夜、日向夏を食べる。苦くておいしい。
菜の花の辛し和えを食べる。かすかな苦味。菜の花は春の味という気がする。
春のものには苦味があると読んだのは、どこでだったか。たしかに、菜の花もふきのとうも苦い。つくしはどうだろう。食べたことはないけれど、やっぱり苦いのだろうか。
春、つくしを見つけると、ほんとうにうれしかった。温まった土の中から、あるいは少し湿った枯れ草の陰から、まだ小さなつくしが覗いている。北のほうでは、桜が咲くのは遅い。つくしが顔を出しているのを見つけて、ああ、春が来たなあと知るのだ。潮の匂いが強くなる。漁船の音が聞こえる。
菜の花、ふきのとう、もう少したてばワラビにタラの芽、小さい頃はどれもその苦味が苦手だったけれど、今はしみじみおいしいと思う。春の苦味の良さを知るには時間が必要ということか。
喫茶店の2階。窓際の席に座る。大きな通りに面していて、人や車がひっきりなしに行き交っているのが見える。
午後の喫茶店はけっこう混んでいて、いろんな会話の断片が耳に入ってくる。隣りに座った女の子二人は、同じ居酒屋でアルバイトをしている仲間らしい。先日あるお客に食い逃げされたことについて、ひとりが延々としゃべっている。なかなかの語り手。悪いなあと思いつつ、顛末が気になってつい耳をそばだててしまう。食い逃げのお客は、ひとしきり食べ、飲んだあと、わざと騒ぎを起こして店から逃げ出したらしく、そのやり口を聞く限りではなかなかのつわもの。
他にも、店長がいかに嫌なやつであるか、同僚の男の子がいかにいいやつであるか、二人して熱心に語り合ったあと、ひとりがぽつんと言った。「私、はやくおばちゃんになりたい。おせんべい食べながらワイドショーとか見て、芸能人の話とかばっかりしたい」。
『ニッポン居酒屋放浪記 立志篇』太田和彦(新潮文庫)を読む。全国各地の居酒屋をめぐって書かれた文章。もう、すばらしい。読みながら、しばし幸福な気分に浸る。紹介される料理やお酒もおいしそうなのだが、何より、居酒屋で飲むことをしみじみと楽しんでいる、その風情がいい。
「客の男たちは盆休みに家に居るのも所在なくここに来たのか、ちぢみのシャツにサンダルばきでテレビの高校野球に見入っている。地方都市の夕間暮れ、ひなびた商店街の居酒屋でビールを飲みながらぼんやりと高校野球をみているのはいい気持ちだ。」
この感じである。お酒を飲んだときの、リラックスした空気が伝わってくる。
房総のなめろう、「薄い油揚げに浅葱ネギの青いところを刻んでたっぷり入れ軽くあぶった」葱揚げ、粗塩をかけて焼いた生タコ焼き、花かつおがたっぷりかかった焼きナス、鯛のきずし、「焼おにぎりとあぶった魚に熱々のダシ汁をたっぷりかけ、三つ葉を山盛りにした焼おにぎり茶漬」。
読みながら、居酒屋に行きたい欲が高まる。こじんまりとした居酒屋でひっそりと飲みたい。食い逃げ、飲み逃げしたりしないから。
鍋でお湯を沸かす。小さな泡がぷつぷつと浮いてくるのを眺めながら、ふと思い出す。
小学校の1年か2年だったと思う。同じクラスの男の子が二人、家に来たことがあった。たしか、クラス会の出し物の練習をした気がする。お昼どきになり、レトルトのハンバーグを温めて食べようということになった。それまで、自分ひとりでお湯を沸かしたことは一度もなかった。けれどその日、なぜか母親は自分でやってみなさいと言って、鍋を渡してよこしたのだ。
小さな鍋に水を張ってコンロに置き、おそるおそる火をつける。家に来た子のうち、ひとりが傍らに立っていっしょに鍋を眺めている。手にはレトルトのハンバーグの袋。ドキドキしながら鍋を見つめていると、その子が「泡がぶくぶくって出てきたら、もう大丈夫だ。」と言った。たしかに、だんだんと、底のほうから泡が湧いてくる。「おれ、いつも自分でやってるから。」なるほど、泡が出てきたらお湯が沸いたということか。お湯の沸かし方を初めて知った瞬間である。
どんなことにも「初めての瞬間」があったはずなのに、そのほとんどは、もう忘れてしまっている。けれども、あの場面は今でもはっきりと思い出せる。よっぽど感心したのだろう。
名前も顔もおぼえているが、彼が今どうしているかは知らない。元気でいるだろうか。そして今でもやっぱり自分でお湯を沸かしているだろうか。
快晴。とても暖かい日。
部屋の中にいると、低くヘリコプターの音が聞こえる。小鳥の声もする。うらうらとした昼下がり。
春の音というのがあると思う。どんな音かうまく言えないのだが、確かにある。静かなのだけれども、常に何かが低く鳴っているような(それに小鳥の声がときおり混じる)。いろんなものの芽吹きの音だろうか。あるいは、遠い海鳴りのような音。
休日ということで、大通りは歩行者天国だ。車道の真ん中をいろんな人が行き交っている。家族づれ、ベビーカーを押したお母さん、小学生たち、二人づれ。人に混じって散歩中の犬もとことこ歩く。通りぞいのお店は、車道ぎりぎりまでワゴンなど出して、街頭販売をしている。魚屋やドラッグストアの威勢のいい呼び声に混じって、和菓子屋もお饅頭を並べている。動物の着ぐるみをまとった人が、ビラを持ってうろうろ。何の動物かわからない。
夜、友人と食事。友人は花粉症らしく、目も鼻のあたりも真っ赤。あっという間にポケットティッシュがなくなってゆく。カレー屋に入る。友人はスペシャルカレー、自分はきのこカレー。スペシャルのほうは、丸ごと一個のゆで卵や大ぶりの肉、野菜などゴロゴロ入っている。きのこカレーのほうは、ひたすらきのこ。しめじ、しいたけ、ひらたけ、マッシュルーム、他にもあったかもしれない。
帰る頃はもう真っ暗、歩行者天国は車の道に戻っている。ライトをつけた車がどんどん走る。日曜日の夜。
恵比寿で友人の結婚式。昨年くらいから友人の結婚式が続いているのだが、今日は式・披露宴・2次会というフルコースである。
新郎は大学時代のサークルの同期、新婦は二期下の後輩ということで、なつかしい顔ぶれが揃う。昨年秋に結婚したばかりの二人や、職場のあるハワイから駆けつけた人も。
二人も周りの人々もうれしそうで、こういう式に出ると、結婚ってひょっとしたらいいものなのかもしれないと思う。料理もすばらしくおいしい。「おいしいよね」と皆で言い合いながら、残さずたいらげる。
式の最後には余興として全員で演奏(音楽サークルだったのだ)。新郎と新婦も楽器を持って加わる。音楽に合わせて、新婦の親戚のおじさんや小さい子どもたちが、手拍子をしながら踊ってくれる。「おめでとう」が満ち満ちているような、いい式だった。
ひとり、代表でスピーチをしたのだが、彼が言っていたように、ほんとにいろんなことを一緒にした。5泊10日くらいの強行軍で北海道を回ったり、3連泊くらいで鍋会をしたり、何でもないことにひっかかってぶつかったり、笑い転げたり、もちろん演奏をしたり。タキシードとドレスを着て並んでいる二人や、テーブルをぐるりと囲んでいる自分たちを見ながら、ふと、ずいぶん時間がたったのだと思った。
披露宴のあと、同じく恵比寿で2次会。ひとしきり騒いだあと、お開きとなる。帰り道を歩きながら「これで宴も終わりかぁ」とひとりが言った。ひととき集まって、またみんな別れてゆく。どこまでもいっしょに行きたいと願いつつ、カムパネルラと別れねばならなかったジョバンニのように、いつか必ず、みんな別々の道をゆくのだ。ほんとうに嬉しそうに笑っていた二人は、これからいっしょに歩いていくだろう。そしてその道行きを、私たちは遠くから眺めてゆくだろう。
帰りは同じ方向へ向かう四人でタクシーを使う。坂の上から街の灯りが広がっているのが見えたかと思うと、路地の中へ。まるで迷路のような道をゆく。車に揺られながら窓の外をぼんやりと眺めていたら、夜空に星が見えた。ぽつんと、それでもずいぶん明るい星だった。
夜、通りを歩いていたら、後ろから自転車が走ってきた。若い男の子だ。ひとり大きな声で歌っている。「からまるタコの足〜」という部分が耳に入って、どこかで聞いたことあるなあと思ったら、スピッツの「さわってかわって」。大声でスピッツを歌いながら、全力疾走の自転車は消えていった。
自転車に乗りながら大きな声で歌うのは確かに気持ちがいい。中学校の頃は田んぼの中の一本道を自転車で通学していたので、帰り道などよく大声で歌った。何人かで帰っても、それぞれ好きな曲を歌うのだ。耳元をびゅんびゅんと過ぎる風の音と自分の歌声だけが聞こえる。そのときの気分によって出てくる歌は違ったけれど、何を歌っていたのか、今はよく思い出せない。
あの自転車の男の子、なぜ「さわってかわって」だったのだろうと考えつつ、夜道を歩く。自分でも小さい声で歌ってみて、サビの部分ではっとする。
さわって かわって 愛も花もない夜を越えて さわって かわって 春が忍び寄ってくる心地
たしかに、春が忍び寄ってくる心地のする夜。なるほど、と納得しつつ家路につく。
隣りのアパートに住む友人と渋谷で食事。ビルの30階にあるお店で、大きな窓からは六本木方面の夜景が見渡せる。無数の灯りがずっと向こうまで散らばっている中で、それでもどこに道があるのかはわかる。道なりに並んだ灯りのうねり。
道ができる。何もなかった原っぱに、だだっ広い土地に、道が出きてゆく。今、自分が歩いている道は、必ず誰かが歩いた道なのだ。道がつくられてゆくということ。不思議な気持ちで眺める。
地元では、夜に高いところへ行っても灯りはまばらにしか見えない。原っぱや海や森が黒々と広がり、灯りがない部分のほうが圧倒的に多い。そこでもやっぱり、道なりに灯りの帯ができていた。闇の中に道が浮かび上がる。ある夏の宵に眺めたときは、夜空にかかった天の川とちょうど同じ形をしていると思った。
友人といっしょに帰宅。また彼女の家で風呂を借りる。今日の入浴剤はいつもと違って、湯船に何か光るものが浮かんでいる。どうやらラメ入りらしい。風呂から上がってタオルで拭いても、顔やら身体やら服やら、いたるところで青いラメが光っている。払い落としたつもりでも、光線の具合が変わるとまた光る。ラメ、おそるべし。青い小さな光をくっつけたまま眠る。
大学へ行く。よく晴れているので一駅分歩く。
用があって教授の部屋へ。狭いが、眺めのよい部屋だ。窓からはずいぶん遠くまで見渡せる。構内でいちばん桜がよく見えるというのが先生の自慢だが、今はまだ、通りやそこを歩く人の影が葉のない枝から透けている。もう少したてば、眼下はいちめんの桜の花以外何も見えなくなるだろう。
窓以外の壁は全部本棚になっていて、ぎっしり本が詰まっている。真ん中にはベンヤミンの小さなポートレート。先生のアイドルか。
推薦状を書いてもらう。いくつかの質問項目の中に「心身ともに大人であるか」というものがあって「こんなこと聞かれても困るよな」と笑う。確かに困る(心身ともに大人って何だ)。
書き上げた推薦状をその場で渡してくれる。帰りの電車で読んでみると「おいおい」と思うようなことが書いてあるが、ありがたく受け取っておく。さすが教授、推薦状は書きなれてるのだろう。ハッタリのきかせ方のうまさに感動する。
帰り道。いちばん早く花が咲いた梅の木は、もうほとんど散っている。ぼうっと霞んだ春間近の夕方。
昨晩も持ち帰りバイトで半徹夜。朦朧としながら一日を過ごす。
徹夜明けの日は、あっという間に一日が終わる。自分が何をしていたのかよく思い出せない。コンビニでチョコレートを買ったのと、帰りの電車で居眠りをしたのは確か。
帰りがけ、近所のスーパーに寄る。スーパーの中には、鮮魚売り場とは別に魚の専門店が入っている。もとは近所の魚屋だったのだろうか。おじさんとおばさんがいて、お客の注文を聞いては選んだり包んだりしてくれる。
広いフロアの隅っこ、ずらりと並んだレジの先にあるのだが、このお店いつ見ても人が少ない。ひとりおじさんが店の前に立って、レジの行列を眺めていたりする。お客の買い物かごには、鮮魚コーナーのパックが入っている。
お客の入らない店の前を通るのが苦手だ。嫌だというのではなく、落ち着かないのだ。がらんとした店の中で、店主はどんな気持ちでいるだろう。食べ物屋ならば、用意した食料はどうなるだろう。どうしても、いろんなことをぐるぐると考えてしまう。
このスーパーに来る度に、おそるおそる魚屋に目をやる。今日はひとりお客さんが見える。安心して自分の買い物に専念。「気になるなら自分がその店で買えばいい」という声がよぎるが、それはまた別のはなし。
アパートの同じ敷地内にある大家さんの家に家賃を届けに行く。玄関の前には鉢植えの黄色い福寿草と小ぶりの梅の木。梅の花びらが玄関先に散らばっている。
大家さんは、もう80歳に届くくらいだろうか。姿勢がよく、朝早くから箒を片手にくるくると動き回っている。とても丁寧な人で、毎月家賃を届けるたびに「どうも、すみませんねえ」と言って深々とお辞儀する(つられてこちらも、両手と両足をそろえてお辞儀する)。道端で会ったときも、ちゃんと足をとめて同じようにお辞儀してくれる。
この大家さんを見ていると、母方の曾祖母を思い出す。ちょうど今の大家さんくらいの年齢の姿。曾祖母のことは、みんなして「ばばちゃん」と呼んでいた。居間のすぐ隣りにある「ばばちゃん」の部屋は、少し薄暗く、いつも湿った匂いがしていた。犬のぬいぐるみやいろんなおもちゃがあって、その部屋にいるのは大好きだった。食事が終わると必ずその部屋にいって、しばらく遊んでいたのだ。けれども、ばばちゃんの声が思い出せない。思い浮かぶのは、笑いながら、じっと静かに座っている姿ばかりである。
最近になって、若い頃の話を聞いた。ばばちゃんは女ばかり6人の子どもを産んだ。人の世話をやくことがとにかく好きで、いつも大鍋いっぱいに何か料理をつくっては、見知らぬ人も家に上げて食べさせていたという。大きな橋の工事のために遠くからやってきた人たち、行商の人たち、近所の子どもたち。「学校から家に帰ると、いっつも知らない人が寝転がったりしてたなあ」6人姉妹のいちばん上だった祖母は言う。元気で、気が強く、よくしゃべる。町内の女相撲に出場したこともあったらしい。
静かに座っていたばばちゃんの姿と、ときには男の人をも叱りとばすような若い頃の姿と、どうしてもうまく結びつかない。けれども、それも確かに「ばばちゃん」だったのだ。いろんな風景が、ばばちゃんの中でひっそりと層をなしていたのだ。
ばばちゃんの娘たちは今も皆元気で、6人ともよくしゃべって、よく笑う。その姿を見ていて「ああ、若い頃はこんな感じだったのか」とハッとした。なるほど。
雛祭り。近所のスーパーの入り口や和菓子屋ではワゴンを出して桜餅を売っている。桜餅は葉っぱの部分が小さい頃から好きだった。どうしようかと迷うが、買わずに素通りする。
夕方、友人といっしょに蕎麦屋へ行く。友人は鴨けんちん蕎麦、自分は岩のりと三つ葉の蕎麦を注文する。器の半分以上に岩のりがどっさりと入っていておいしい。友人の鴨けんちんは、大根、ごぼう、人参、こんにゃく、里芋など、これでもかというくらい入っていて、またうまい。「本日のご飯」ということでメニューに「そぼろご飯」が載っている。頼んでみると、今日はもう売り切れ。後からお店に入ってきた人たちも皆頼むが、その度に「すみません、今日はもう。」と断られている。何のそぼろだったのだろう。
夜、渋谷のスタジオで練習。このメンバーでは1ヶ月ぶりである。夏にミニコンサートを開こうという計画があって、その相談などしつつ楽器を弾いたり歌ったりする。数人で演奏していると、何年か経ったとき、この瞬間をどんなふうに思い出すのだろう、そのときみんなはどうしているだろうと、ふと考える瞬間がある。バンドに限らず、そこにいる人たちを大事に思うときは、決まってそんなことを考える。
練習後、いつものようにスタジオ近くのお店に寄る。昨日の飲みすぎのせいで胃の調子がおかしい。アルコールはやめておこうと思ったが、結局ビールを2杯飲む。普通のやつと黒ビールと一杯ずつ。おいしい。桜餅は食べず、蕎麦とビールの雛祭り。
エレファントカシマシの新譜を買う。タイトルは「普通の日々」。
宮本さんの歌う「普通の日々」は、ほんとに美しい。「普通の日々」を歌わせたら日本一だと個人的には思っている。
何でもないことのかけがえのなさに、振り返ってはじめて気づくような、そんな美しさ。街行く人を眺めながら、自分もその中にいながら、不意に涙が出てくるような。とても美しくて、そして悲しい。それとも、悲しいから美しいのか。
タワーレコードでのインストアライブが当たるというスクラッチカードを引かせてもらう。銀色の部分を削って「男」という字が出ると当たり。緊張しながら10円玉で削るが「男」は出てきてくれなかった。
夜、テキーラを飲みすぎる。昼間は暖かくても、夜はまだ寒い。
渋谷へ行く。はじめにブックファーストへ。最近は本屋というと、ここに来ることが多い。
2階の文庫・文芸書フロアーをぐるぐる周っていたら、隅の方に日記本コーナーができていた。荒川洋治の新書『日記をつける』から始まって、みうらじゅん、深沢七郎、武田百合子の『富士日記』、坪内祐三『三茶日記』、大岡昇平『成城だより』(これは面白い)などいろいろ。他にもあったけれど、名前を忘れてしまった。ずいぶんたくさんあるものだ。コーナーの中から『犬が星見た』武田百合子(中公文庫)を買う。ロシア旅行記。
ついでに、立ち読みして心惹かれていた『素白先生の散歩』岩本素白(みすず書房)も思い切って買う。みすず書房の「大人の本棚」シリーズの一冊だが、このシリーズはどれも面白そうで心惹かれる。
次にHMVへ移動。CD屋は久しぶりだ。探しているCDがあったので、クラシックのコーナーへ行く。エスカレーターで何階分も通り過ぎていちばん上につくと空気が違う。音は流れているけどなぜか静かだ。
CDを探しながら歩き回る。ピアノ曲がずっと流れていて(名前はわからない)、ああ、いいなあと思った。すとんと入ってくる。そのときの自分の状態にちょうどあった音楽を聴くと、それこそ身体にしみこむように感じることがあるけれど、だとすれば、今はピアノ曲モードなのか。小沢健二の新譜にも惹かれるが、こっちは今日は見送り。
帰りの電車で『犬は星見た』のあとがきを読んでみる。2ページ足らずの短い文章だけれども、読んだあと、しんとした気持ちになる。最後の一文がすばらしい。どうすれば、こんな言葉が出てくるのだろうと思わせるようなフレーズ。
音楽も文章も「しみる」一日。水を一生懸命吸って春を待つ植物みたいなものか。ただし散財注意。
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