Opportunity knocks
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先週みた中国鉄道の旅の番組を今日もみた。
このまえわたしはどこか端っこの見えている世界が性にあっていると書いたけれど、 端っこの見える世界って何なんだろうと、あらためて思った。
嘉峪関という地名をきいて、まえに友達にもらった葉書のことを思い出す。 万里の長城の西端、荒涼とした大地とむき出しの岩肌に囲まれた大地、とその人は書いていたっけ。 テレビの画面を見ながら、そんな景色を前にしていったいわたしは何を思うだろうと考えていた。
秋田の幼児殺害事件のニュースがテレビでやっていた。 自分の主張が認められた上で極刑という判決がでるのなら、わたしはそれを受け入れます、と畠山被告は言っているらしい。
コドモがじっとみてたので、これを機に死刑制度についてどう思うかきいてみた。 死刑制度はこれから先も存続した方がいいか、という問いに対してコドモはうーん、と口篭もりながらも、いろんな原因とか人間関係があって犯罪を起こしたわけだから・・といって語尾を濁した。要するに反対ってこと?とわたしがきくと、わからない、の一言。 今までコドモとこの手の話はしたことがなかったのでちょっと意外だった。 もっと短絡的な答えが返ってくると思ったのだけど、コドモは子供なりにいろいろと考えてるらしい。
会話の終わりに、わからないってわりといいことだよ、といったら、そうかなあ、とコドモはまたちょっと考えるような顔をしていた。
この1週間、スタッフの一人がずっと休んでいたので、代わりにずっと最後(19時半)まで仕事をしていた。やっと週末。もうくたくた。 といってもフルタイムで(残業もして)ずっと働いている方たちからみたら何をぜーたくなことを、って思うだろうね。
仕事から帰って、連れ合いに疲れたよーとぐちったら、「じゃバイクでも乗ってどっかいく?」
ということで、愛車1号のジョーカーで(わたしは後ろにのっけてもらって)ドライブにいった。 といっても近場でうろうろしてただけだけど。。。 それでも、普段とは違う視界の中で冷たい風を受けているだけで、だいぶ気持ちがのびのびした気がする。
ちょっと大きめの本屋にいって本を買って、DVD借りて、よくいくBARでジンライム飲んで、ミスドでドーナツ買って帰ってきた。小確幸でした。
林檎を買った。 うちに帰ってむいてたべた。顔がゆがむくらい酸っぱかった。 こんなにすっぱい林檎をたべたのはたぶんはじめてかもしれない。
ああすっぱいとおもいながら全部たべた。
中国鉄道に乗って旅する番組をテレビでみた。 まったいらな土地をまっすぐな線路がどこまでも続いていく。 その広大さと果てしなさに気が遠くなりそうだった。
やっぱり自分にはどこか端っこが見える世界が性にあっている。
小池昌代「タタド」を読む。
ドン・デリーロの「ボディ・アーティスト」を読んで以来の感覚。 自分ではなんともできないもやもやしたものを、自分ではない誰かが言葉として表現し、そしてそれを目にしたときの驚愕と尊敬とうれしさと悔しさ。
「ときどき、生きていると、この世の中へはみだしているって思うこと、おまえ、ない?別に悪いことをして、はみだすわけじゃないんだ。ただ内に入れないっつぅ、そういう気分。そういうとき、おれ、補欠になってる。今だって補欠だ」
「いつか出番が」
「来るかな、そんなもの。おれ、ずっとこのまま、ござのうえに座り続けているような気がする」
最後の短編にフェルメールの「牛乳を注ぐ女」の話がでてきてびっくりした。 これはもう見に行けということか。
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