Opportunity knocks
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2007年08月19日(日) 無題

昨日から連れ合いは夏のスクーリングで京都に連泊。およそ1週間。
ひとりでさみしいのか1日に何度も電話やメールが入る。

連「なにしてた?」
ナ「特になにも」
連「ごはんたべた?」
ナ「たべた」
連「なにたべた?」
ナ「焼き茄子と冷やし中華つくってたべた」
連「おいしそうだな」
ナ「おいしかったよ」
連「今からなにするの?」
ナ「シャワーあびてから寝る」
連「ふうん」
ナ「じゃ、また明日ね」
連「はーい、また朝電話するね おやすみ。」
ナ「・・・おやすみ。」

こんな会話。
明日もたぶんこんな会話。



2007年08月17日(金) キューバン・ライブ

連れ合いと一緒にキューバ音楽を聴きにいってきた。
名古屋の伏見にあるKANOUというシガーバー。

夕方、駅から電車に乗って新栄まで。
41号線をてくてく歩いて目に付いたタコスのお店でとりあえずコロナビールとタコスをたのむ。
スパイスのきいたタコスでとてもおいしかった。

そのあとまたてくてく歩いて伏見まで。
ライブは20時からなのだけど、とにかく店内が狭く座れる椅子が少ないので、早めに入店することに。

19時半くらいからバンドの人が入ってきて、楽器やアンプのセッティングをはじめる。




まだ外は少し明るくて、昼間の熱気が残った風が吹いていて、キューバ音楽を聴くのにこれ以上ないというくらいふさわしい雰囲気。
20時を少しまわったところでライブ開始。1曲目は「ブエナビスタ・ソシアルクラブ」のナンバー。
キューバ音楽は最近よく聴くようになったのだけど、陽気なんだか哀しいんだかよくわからないところや、独特のリズムやいろんな楽器がまじりあうところなんかがとても良いなあとおもう。はまりつつあり。








セットリストはブエナビスタ・ソシアルクラブの曲や昔からあるキューバの曲を日本語に訳してアレンジしたものなど、全部で7曲くらい。あと、キューバの誕生日の歌というのがあって、今月誕生日を迎えた人(わたしを入れて3人)を歌で祝ってもらった。うれしかったなー。
トランペットが2本、ギターが3本、ベースにピアニカにマラカスにコンガなど、総勢10人。とても賑やかで楽しくて、素敵な演奏だった。とくにトランペット!かっこよかったー。

帰りも電車に乗って(終電)音楽の余韻にゆられながら帰宅。
とっても素敵な夜だった。


2007年08月15日(水) 終戦記念日

NHKで憲法9条を考えるという趣旨の番組がやっていたのでみてみた。あらためて改憲派というのは増えているんだなということを思う。戦中世代の影響が時間の経過とともに薄れているということなんだろうか。

国家として自立する為の軍隊、この現状でどうやって国を守っていくのかという憂慮、自分で自分を守れない、核の傘に入って国防のすべてを他国に頼っていることの情けなさ、・・改憲派の言い分はざっとこんなものだと思うのだけど、あまりに短絡的なことを言う人が多くてみていてあほらしくなる。
集団的自衛権の行使について積極的に認めるべきだと主張した人(もちろん改憲派)の中に、「友達がやられてるのを見てみぬ振りをするのか、それが正義なのか」と声高に言う人がいたのだけど、ほんとうに言ってる事が稚拙だとおもった。いくら同盟国だといっても戦争をはじめたことが正当化されるわけではないし、一緒になって戦争に荷担するまえに、それを阻止すべく国連なり周辺諸国の意見なりをきいた上で仲裁に入るのがほんとうの友達としてのあり方じゃないのか。

護憲派の人の中に、軍隊はしょせん国民のためではなく、早晩国のための理念にのみ使われるようになり、結局いちばん泣きをみるのは大多数の国民だと言った人がいたけれど、ほんとうにそうだとおもう。
憲法を変えて大きな力(軍事力)を得たとして、その強大な力を常に最良の方法でコントロールすることがはたしてできるのか。そこまで人間というもの、正しくは集団としての人間を信用していいのか。では法というものはなんのためにあるんだろう。

現実をいちばんにみるか理想をいちばんにみるか、改憲派と護憲派の境目はそこにある、と言った人がいたけど、現実のまえに理念なり信念が前にくるのが正しい姿勢なんじゃないかな。現実に屈して簡単に理念を変えるような国なんてわたしは正直言って信用できないし、したくない。番組をみながらあらためてそうおもった。


2007年08月08日(水) かわらないもの

久しぶりに「羊をめぐる冒険」を再読。
たぶんいちばん読み返してない村上作品。
なんでだろう。1973年〜はわりとよく読むのだけど。

ちなみにいちばん読み返しているのは「ねじまき鳥クロニクル」その次は、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」 たぶん。

読みながら、前回読んだ時(20代前半)のことを思い出す。
そして、そのときと今の自分が当然のことながら違っていることに気付く。
今のわたしは二十歳前半でもないし、小さい子どもの育児に没頭してないし、漠然とした不安を抱えてもいない。

もちろん根本的なわたしはなんらかわってはいない。
しかしながら自分をとりまく状況は刻々と変化している。
子どもは成長した。連れ合いは「先生」と呼ばれるようになった。
世界情勢や株価やガソリン価格も変わっている。
物事の価値観、モラル、言語、様々なものが変化していっている。
わたしの細胞も(特に脳細胞が)ゆるやかに死滅への道を辿っている。
変わらないのは小説だけ。

そんなことを読みながらつくづくおもった。






2007年08月05日(日) 無題

朝、新聞を読んでいたらうんうんと頷ける部分があった。
今回の参院選で自民が惨敗したのは改憲のためのかなり強行的な(安倍総理の)政治活動が多くの人達の反感を買ったのではないかということ。

改憲問題が今回の選挙の争点だということを、ほとんどのマスメディアは表にだしてこなかった(とおもう)し、今回の選挙は年金問題をだれに(どの党に)託すかという年金改革選挙である、という感じで選挙中盛りあがっていたけれど、それでも今回自民党にNOと言った人の中に(年金や閣僚の不祥事問題だけでなく)改憲への動きに歯止めをかけたいと思った人達が少なからず存在し、そういう人達が今回の選挙の結果を少なからず左右したという見方もできるとおもう。

確かに年金問題は誰にとっても深刻な問題であって、決して等閑にできることではないけれど、それでも今回の選挙自体の意義が年金問題だけに集中するのはどうだろうか。正直言って党が変わろうが政治の体質自体はあまり変わりなく思えるし、民主が政権をとったところで何かが劇的に変わるとも思えない。
嫌だな、と思うのはそういう考え方をする人達の存在(改憲に対して否という人達の存在)をマスコミが積極的に(あるいは意図的に)見て見ぬふりをするところ。
なので、共感できる記事が大きめにとりあげられていて今日は少しほっとした。

改憲は難しい問題だし、わたしも勉強不足でまだまだ知らないことばかりだけど、それでも、誰かごく一部の人の手に委ねて、ただはいはいと言う事をきいていれば良いという問題では決してないとおもう。もっと多くの人達が注目し議論し考えていかなければいけない問題だとおもう。そういう小さな声を無視しない政治をどうかやっていってほしいと、そうおもう。


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