Opportunity knocks
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2005年09月23日(金) そんな1日でした

朝、電車に乗って名駅へ。
高島屋の前の大時計のところでYさんと待ち合わせ。
10分くらい前に着いたので、Yさんが来るまでぼんやりと人の波を眺める。
大小様々な鞄を持った人達がひきりなしに行き交う。
そういうのを見るともなしに見るのはけっこう好き。

ほどなく着いたYさんと地下鉄に乗り千種駅まで。
千種駅でさらにSさんと合流し、名古屋理容会館というところへ行く。
Sさんの師匠である馬頭琴弾きOさんがそこで演奏するので、その演奏を聴いてから4人でお昼御飯をたべようということに。
演奏は、以前聴いたことのある曲も含めて5曲くらいだったかな。いつもながら素敵な演奏だった。中でも、島唄を馬頭琴で弾いたのが特に印象に残った。
聴きながらあらためて思ったのは、わたしが良いなあと思うのはモンゴルの楽器が奏でる馬頭琴の音色ではなくて、日本人であるOさんが奏でる馬頭琴の音色なのだということ。うまく言えないけれど、Oさんの島唄を聴いてそれがよくわかった気がした。

Oさんの演奏が終わったあと、4人で近くのパスタのお店に御飯をたべにいく。
音楽の聴き方、ライブやコンサートのそれぞれの良さの話、はては女の沈黙の意味するところまで話が弾む。膨大な量のペペロンチーノをつるつるたべながらほんとうにいろんな話をした。

Oさんが途中で抜けてきたイベントに戻るために店を出てからも、今度はまた違う話もでてきたりしてさらに3人でもりあがる。よく考えると知り合ってから5,6年は経つんだなあとしみじみ思う。淡い付き合いの続く幸せってYさんは言われたけれど、ある種とても不思議な感情でつながっているこの関係を、これからもずっと持ち続けていきたいと、今日はほんとうにそうおもった。



Yさんが頼んだ自家製アイスクリームの苺パフェ。
(ほとんど、わたしとSさんがたべた気がする)



Sさんが頼んだクレーム・ブリュレ。
クレーム・ブリュレといえばアメリ。キャラメル部分をこんこんしようと楽しみにしていたSさんより先にYさんがばりばりしてたり。



わたしがたのんだフルーツタルト。
ほんとうは甘いもの断ちしていたはずだったのだけど、
外でたべるスイーツは許可というルールを作ってむりやりたべていいことにした。
「そんなルール作ったら思う存分外で食べるんじゃないのこの人は」とYさんからすかさず突っ込みが入る(的を得ているだけにイタイ)






店を出たあと、早くも夕暮れの気配がただよう街の中を3人でぶらぶら歩く。
いつか忍びの里に二人で襲撃かけようと約束したり、今度はちょっとアルコールが入らないと話せないような事を話そうねーと言い合ったり。
そんな感じで最後は笑顔でそれぞれ帰途についた。
とても素敵な逢瀬だった。





2005年09月22日(木) 無題

いつもなら休診日のはずの木曜日。
しかしうちの歯医者は週に祝日が入ったりすると木曜日をその祝日にかえて診療日にしたりするのです。
ということで、今日は1日仕事仕事。
しかしこの1週間、曜日感覚狂いっぱなし。


2005年09月20日(火) 無題

今週末の逢瀬に着ていく服をどれにしようか悩み中。
涼しければジャケットを着ていきたいのだけど今日のような天気だと(暑くて)無理だろうなあ。
ボトムはジーンズにするかスカートにするか、靴はヒールつきかスニーカーかブーツか。あーきりがない。


2005年09月19日(月) 新刊の感想(ねたばれ、かも)

村上春樹 「東京奇譚集」

いやーよかったです。ちょっと言葉にできないくらいよかった。
前の短編集(神の子どもたちはみな踊る)と文章のトーンが似てるといえば似てるのだけど、
前のがより深く主題に入りこもうとしている感じがあるのと反対に今回のは少し離れた場所から、
というかやや距離を置いてその対象に視線を注いでいる雰囲気が感じられて、
やっぱりちょっと神の子ども〜とは、受ける印象は異なるかもしれないとおもった。
少し前に堀江さんの小説の中にでてきたフレーズのことを書いたけれど、
「ぼんやりと形にならないものを不明瞭なまま見続ける」という姿勢みたいなものを読んでいて何となく感じたような気がする。
わたし的にはハナレイ・ベイがいちばん良かったかな。
もちろん甲乙つけがたいくらいほかの短編も良かったのだけど。



おまけ。

読み終わってわたしにも奇譚とよべるような出来事があったかどうか記憶をたぐってみたのですが、
やっぱりなかなかそんなことはないみたいです。
少なくとも人生を揺さぶるようなものはなかった。
これから先そういうものに出会うかどうかはわからないですが。

むりやりこじつけるなら、連れ合いと出会ったことが奇譚といえば奇譚だったかも。
連れ合いとはある場所(あんまり詳しく言いたくはない)で出会ったのだけど、わたしはほんとうはその日、その場所に行くはずではなかったのですね。でもなぜか行くことになってしまった。
さらにいうと、大勢の人がいる中で同じ時間にその場所に着いたのも偶然だった。(それもまた中途半端な時間だった)
同じ時間に着いていなければたぶんお互いを意識しながらみることもなかったわけで、それも今思うと不思議な一致だったなあと思います。
連れ合いの言葉をかりて言うと、「いちばん最初に見た瞬間にわかった」ということでした。何がわかったのかギモンではありますが、その一瞬があって、わたしはひとりの子供の母親になってここでこの場所で今この文章を書いているのだとおもうとほんとうに人生って何が起こるかわからないなあと畏怖のようなものを感じます。

今ふと思ったのですが、わたしは連れ合いにとってはたして3人の中の最後のひとりなのでしょうか。(ってきかれてもこまりますよね)
わたしとしてはいまいち自信がない、、、。
まあ、そうだとしても、あるいはそうではないとしても、この広い世界で偶然出会ったというそのことはこれから先も(なにがあるかわからないけど)大切にしたいなあとそうおもっています。
ながいながいおまけでした。。


2005年09月18日(日) 無題

新日曜美術館、今日はM・ユトリロだった。
コメンテーターは浅田次郎さん。
昔からユトリロの絵に惹かれていたとのこと。ひとつひとつ話されることが頷けるようなことばかりで、ほんとうにユトリロの作品を理解して愛情を持っているのだなあということがよくわかる。
特に番組の終わりに、話されたことが強くこころに残った。

「この人は、確かにめぐまれない人生を送った人だったのかもしれないけれど、
決して不幸せな人生ではなかったのだと思いますよ。でなきゃこの人の絵がこんなに長く世界中の人達に愛されるわけがない。この絵はけっして不幸せな人間が描いた絵じゃないですよ。ほんとうに」


ゴッホにしてもユトリロにしても、たぶん芸術家というものはそうなのだとおもう。だからこそ人々は彼らが残した数々の作品に心を惹かれ続けるんじゃないかな。

個人的にユトリロは白の時代の絵がいちばん好き。ラパン・アジル(、だったかな…)が描かれた絵を何年か前に展覧会で観たのを覚えている。いろんなものを含んだ白がとても印象的だった。

ユトリロがすきなあの人も今日この番組をみているだろうか、そんなことを思いながら番組を見終えた。


+ + + + + + + + +

さて、ただいま夜の10時少し過ぎです。
今から万難を排して春樹氏の新刊を読みます。
うわーたのしみ。
読み終えたら感想書きまっす。
では☆


2005年09月17日(土) あのめがねほしい

明日も休みーあさってもー♪


ティム・バートン 「チャーリーとチョコレート工場」
おもしろかったー。不思議でブラックでちょっと不気味でかわいくてなにげに感動できる、そんな映画。
ティム・バートンの作品の中では「エド・ウッド」がいちばん好きなのだけど、それにせまる勢い。もういっかい観たい。
りすがやっぱりかわいかった。あと、チャーリーのおじいさんとうんぱるんぱ。
原作も読んでみたいな。


2005年09月16日(金) ちょっとくだらない話ですが

今日の夕方、ひさしぶりにかなり腰をすえてコドモに説教をした(説教の直接の原因はまったく深刻なことではないけれど、いちおう先々を考えてしっかり釘をさしておかないといけないなという程度のこと)
コドモも自分が悪かったということは十分自覚していて、かなり反省しているようだった。が、反省しているというのはわかったもののわたしの腹の虫はなかなかおさまらなず、かなりの時間がみがみくどくど叱った。

怒りながら夕食を作り、食べさせ(食べた後コドモは塾にいった)、食器を洗って食器棚にお椀を仕舞おうとしたときだった。
手がすべってお椀(木製)が水きり籠のふちに落ち、かなり奇妙なバウンドをした。バウンドした先にあったのがカウンターに置いてあったコドモのお気に入りの御飯茶碗だった。コドモのお茶碗はお碗の直撃を受け見事に真っ二つに割れた。
わたしはちょっとびっくりした。それはかなり奇妙なバウンドで、まさか水切り籠から離れたところに置いてある茶碗にあたるとはまったく思っていなかったし、それにわりと軽いお椀だから、普通に当たったとしても、真っ二つに割れるような衝撃があったなんておもえなかったから。

コドモが塾から帰ってきて割れている茶碗を目にした。
コドモは、非難がましくわたしをみた。何もそこまで怒って茶碗まで壊さなくても、という目だった。
わたしはわざと割ったんじゃないのだ、偶然落ちたお椀が偶然アンタのお茶碗にあたったんだと説明しようと思ったのだけど、なんとなくそのまま何も言わなかった。

わたしは普段あまりコドモに対して怒るということはないし(連れ合いにはしょっちゅう怒るけど)お茶碗類もあまり壊したりしない。
でもその日、わたしはコドモにかなり厳しくお説教をし、そしてわたしの落としたお椀は奇妙なバウンドをしてコドモが気に入っていた(とても気に入っていた)お茶碗を直撃したというわけだ。
そしてその日は、村上春樹氏の新刊「東京奇譚集」を買った日だった。

たぶん、この本を買った日に起こったかなりささいなその出来事を、頭のどこかにしまって、ずっとおぼえているだろうなと、そうおもった。
ほんとうにとるにたらないくだらない話なのだけども。



2005年09月15日(木) 無題

朝。洗濯やら掃除やらをやっつけて早めに電車に乗る。
わたしの住んでいるところから県の中心の市まで約30分の道程。
電車の中では特にやることもないのでぼんやりと窓の外をみたり中吊りの広告を意味もなく眺めたりしているのだけど、
最近は微妙に不愉快になることが多くなっている。それは化粧女とか携帯女とかのせい。
今日は、目の前に座った女が大きな折りたたみ鏡をとりだして化粧のメイク直しをはじめたので微妙に気分が悪くなった。
なぜ化粧女をみると微妙に気分が悪くなるのか?公衆道徳を逸脱しているという行為からか?まあそれもあるけど、いちばんの理由はたぶん醜いからだろう、と自分ではおもっている。
実際今日目の前に座った女はすごく醜かった。念のために書くと、わたしは美醜というものは単に体の造作で判断されるものではなく、その人の内面というものが反映されてはじめて判断できると思っている(まあ当たり前の話なのだけど)
マスカラを慎重に塗っているときの真剣な目つきとか、安っぽい人形みたいな赤茶けた髪とか、ミニスカートなのに蟹股のとことか、見ていて物悲しくなる。わたしを物悲しくさせるその女に対して不快になる。
別に何の関係もない女だから、無視しようと思えば無視できるのだけど、でも同じ人間、同じ女だと思うだけでなんかだめなのだ。物悲しい気分で電車を降りる。
やな気分を払拭するため、金山というところから目的地の県美まで歩く。途中途中にいろんなお店があったり、いろんな人がいたり、そういうのを眺めながら歩くのが好き。天気は申し分ないくらい良かったし、足もなんだか軽くて良い散歩になった。

11時くらいに着いて早めにご飯。鈴波で銀だらをたべる。
ここの魚は病みつきになるくらいおいしくて、一人のときはたいていここで魚をたべている。とてもおいしかった。
ご飯をたべたあとゴッホ展。お昼時なら人が少ないかも、とねらって行ったのだけどやっぱり甘かった。エレベーターを降りた途端、拡声器を持った人が「ゴッホ展にお越しの方はこちらの列にお並びくださあーーーい」と声をはりあげていた。
たぶんこれまでいった展覧会の中でいちばん混雑した展覧会だったんじゃないかな。

で、感想。全部観終わった結果からいうと、やっぱり観にきてよかった、とそう思えるような展覧会だったとおもう。ゴッホの絵というのは一般的にその常軌を逸した行動から感情的な絵というか、おもいきり内面をぶつけたような絵という風に解釈されがちだけど、実はそうではなかったのだなということが観ていてなんとなくわかった。
ゴッホという人はどうやって芸術を発展させていけばよいかという明確な論理や確固とした決意みたいなものを誰よりも持っていたんじゃないかな。実験的、研究的に描いた絵も模写を含めて数多くあるし、同時代の画家たちに対しても、ただたんに絵画仲間としてだけでなく分析的にみていた感があるし、ほんとうに真摯に純粋にそして意欲的に絵を描いていたんだなとおもった。そして周りの多くの人にそういう考えを受け入れてもらえなかったのが、ゴッホの苦しみだったんだなと。
苦しみの多い人生だったのかもしれないけれど、それでもキャンバスに向かって絵を描いているいるそのときだけは、生き生きとしたある意味幸せな気持ちだったのではないかと、ひとつひとつの絵をみて歩きながらそんなことをおもった。

展覧会を見終わって小確幸な気分で再び電車にのる。
その電車の中でちょっと良いものをみた。
普通に混雑している車内で、かなりくたびれてそうな中年のリーマン風の人がごく自然に席をたって、大きな荷物をもった御年寄りに席をゆずっていた。御年寄りはとてもうれしそうに、その人をみてありがとう、と言っていた。
席を譲ったのが若い人や女性だったらそんな風に思わなかったかもしれないけど、その人もかなりくたびれた風なのにごく自然にそういう行為ができたというのが、みていてすごくいいなあとおもった。出掛けるときはやな思いをしたけど、やっぱりそういうことばかりじゃないんだな。
そんな感じでとても有意義な1日だった。小確幸。


2005年09月14日(水) 無題

明日はゴッホを見に県美に行く予定。
人が少ないといいな。



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三崎亜記 「となり町戦争」

誰かが村上春樹を意識してる文章だなんていっていたけど、うーんどうなんだろ。
確かにハードボイルドワンダーランドっぽいところはあったような気がするけど、
文章から受ける雰囲気はかなりちがうんじゃないかな。というかわたしは村上春樹の方が何十倍もすきです。もちろん。

不条理劇を書きたいのか、となり町との戦争を何かの象徴にしたいのか(それともとなり町戦争という形を使って何かを象徴したいのか)、あまり意図するところがよくわからなかったのと、会話文の語尾を延ばす感じとか(〜ですよお、ねェ、なんデショなどなど)がどうにも気になるのと(というかそんなので人物像とか書き分けているのだったら余計興ざめ)で、わたし的にはいまいちのりきれない文章、酔えない文章だったようにおもう。結構話題になった本らしいけど。


2005年09月13日(火) 無題

最近、週に2、3回はプールにいっているような気がする。
にもかかわらず全然まったく上手くならないのはどうしてだろう。

隣のレーンで泳いでいた人のフォームが綺麗で、思わず泳ぐのそっちのけでみとれる。
実は手とか足とかにひれがついているのではないだろうか(そんなはずはない)

とにかく、ちょっとでもはやく、ちょっとでも距離を泳げるようにがんばろう。


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保坂和志 「小説の自由」

小説のことを書いたかなり真面目な本。真面目な本なだけあって、読むのに骨が折れるところもあるのだけど、正直な話理解できないところはすっとばして、良いなあ面白いなあと感じたところを拾いながら読んでいる。なかなか良いです。一年くらいかければ理解できない部分もなんとなく内容がつかめるようになるかなあ。
ということで、購買リストに入れておこう。

なんか買いたい本がいっぱいあってこまる。村上氏の新刊にJ・アーヴィングの新刊に堀江敏幸に保坂和志。
友達の結婚式が来月にあって、それで服とかアクセサリーとかもほしくなったりして、かなり物欲のかたまりになっている今日この頃。
あああ嘆息。


2005年09月12日(月) 衆院選の結果

「小泉自民 地滑り圧勝」>今日の新聞の一面の見出し。
郵政法案が否決された後首相の支持率がじりじりあがったりしていたから、今回は民主はだめだろうなあとは思っていたらやっぱりそんな結果だった。
演説とか聴いてみても何だかなあというような主体性のないものばっかりだったし郵政法案にしても法案支持多数とみるや政府案は反対だけど根本的には賛成なのだというようなもろ選挙民に阿るようなことを言ったりとか。そうじゃないとか言ってみても、外から見ているものにそういう印象を与えてしまってはだめだと思う。
(民主の)マニフェストなどみてるとこれがほんとうになったらすごいよなあと思う内容なのだけど、はたしてこれが実行可能なものなのかどうか疑問だし、なによりどう実行するかという具体的なものが何もみえてこない。
政策を実施するためには予算が要るわけだけど、それをどこから持ってくるのかどう振り分けるのか、莫大な借金をどう返すのか、外交をどうするのか、アメリカの庇護から脱したあとどう国を守っていくのか、などなど、疑問に思うことは山ほど。
民主党のエライ方々の頭の中には、もしかしたらそういうことにたいする策がきちんと用意されているのかもしれないけれど、でもやっぱりそれは選挙権を持っている大多数の人間に伝わらなければ何の意味もないとおもう。
その点、郵政民営化を大々的に打ち出した首相のやり方は、やっぱりいちばん明確かつ信用できるという感じで受け入れられたんじゃないかな。

岡田氏をはじめ言う事といえば与党を引き合いに出しての批判じみたものばかり。そうやっていつまでも与党中心にしか考えられないからこんな結果になったのだとおもう。もうちと(行動に裏打ちされた)余裕というか、自信を(口先だけのじゃなくて)持たないとこれからも御立派なマニフェストはいつまでたっても夢物語のままじゃないかな。といっても今回わたしは民主にいれたのだけど。
これからあとの奮起を期待したいとおもう。





2005年09月10日(土) 夜明け前の憂鬱

現在、午前3時50分。
布団をかぶって寝たのがたしか0時過ぎ、だったかな。
怖い夢をみてとびおきた。
どんな夢だったかはよく覚えてないのだけど、
飛び起きる直前、誰かの声が夢の中できこえた。
低くて悪意のこもった声、だった気がする。

しばらく悪夢なんかみたことなかったのになあ。
わたし的に夜明け前の悪夢は凶事の前触れであることが多い。
(Kコサンとは逆パターンだ…)
なにもなければいいけど。

悪夢をみて飛び起きた後、
ふと確かめてみると連れ合いがいない。
まだ帰ってきてないらしい。
・・・・・。
とびきり怖い夢をみたときに、だいじょうぶだよ、こわくなんかないよ、
といってくれる人がいなくて、なにがケッコンじゃー、なにが生活じゃー。
むかっぱらがたって、即携帯にメールを入れた。

「こらーどこいっとんじゃー帰ってこーい!!!」

最近連れ合いは事前に何の連絡も入れず朝帰りすることが多い。
(さすがに平日はないが、月に2回くらい)
まさか、一緒に夜を過ごしたい別の女があらわれたのでは、、、
なんていう妄想がちらりと頭に浮かぶ。
飲んだくれて飲み屋の駐車場で爆睡の可能性98%、
前述の妄想が当たりである可能性1%、
その他1%。
そんなとこだろう。

とにかく腹がたつ。
いつか同じメに合わせてやる。
と固く心に誓う。
そして夜明け前にとびきり怖い夢をみて目が覚めて思いっきり不安にかられればいいのだ。








とつらつら書いているうちに怖いのが薄らいできた。
寝なおそう。今日も仕事だし。あーためいき。




追伸

画面を閉じようとしたら玄関でがさごそと音が。
帰ってきたか、と思ったら新聞がドアポケットに挟まれる音だった。
いまだ携帯の返信もなし。うー、どうしてくれようか。







2005年09月07日(水) Cleopatra’dream

予想通り暴風警報が発令されて、子供持ちの友達との昼ご飯は次回ということになった。残念。
午後は大根と三枚肉をぐつぐつ煮ながら、宮尾登美子著「クレオパトラ」を熟読。
夜になって帰ってきた連れ合いに「なんでクレオパトラなんか読んでるの?」ときかれる。
うーんなんで、と言われても困る、何となく目に付いて何となく手に取って何となく熟読しているのだ、と訳のわからない返答をする。

はるか昔この世の中にクレオパトラという人間が確かに存在して、いまや書物の中にしかない人生を実際に生きていたのだなあと思うと不思議な気持ちになる。
そしてクレオパトラ的人生についてしばし考える。どんな犠牲も払うというほどの強い欲望についても考える。そんな強さを持って生きるということについても考える。わたしにはできない生き方。だからこそ引かれるのかもしれないとおもってみたり。

読み終わって、久しぶりにバド・パウエルなんかを聴いてみる。
どんな夢だったのかな、などとおもいつつ。


2005年09月06日(火) 無題

友達のMAとプール。
お互いの水着ルックに失笑しながらも約2時間程度泳いだ。
しかし誰かと行くプールもなかなか良いものかもしれない。
フォームがどうの、息継ぎがどうのといろいろアドバイスしあえるし。
わたしの平泳ぎが常人とくらべてかなりおかしいこともよくわかったし。
有意義な午後だった。


台風はまたもや進路を変えて直撃は免れる様子。
しかしながら外はかなりの荒れ模様。
明日は久しぶりに会う友達と昼ご飯をたべる予定なのだけど、だいじょうぶだろか。


2005年09月04日(日) 無題

連れ合いと買い物。
遅れ馳せながら誕生日のプレゼントにと服を買ってくれた。
薄いグレーがかかった白のpants。
形が綺麗な(線がくっきり)デザインだったので、きちんとはけるかどうか試着してみた。いちおうサイズは2(9号)だったのだけど・・うーむ、思ったとおりきつい。
「はけたー?」の声に涼しい顔で「うん、ぴったりー(嘘」
これがすんなり入るように、これからダイエットに励もう。


+ + + + + +

池澤夏樹 「スティル・ライフ」

文章の雰囲気が所々でがらっと変ったりするところが、面白くもあり違和感もありという感じ。意図的にそういう書き方をしているのかなとおもったり。
わたし的にはスティル・ライフよりも、後半の短編の方が良かったかな。
ロシア人の心の中の記憶と男の中の記憶がシンクロしていくくだりとか良かった。
それでもやっぱり先日読んだ、堀江氏の小説の方が完成度が高いと思うし読後の余韻も長く続いたとおもう。

あと一週間ほどで村上春樹氏の新刊が出るということでかなりたのしみ。
奇譚集ということで、オースターのトゥルーストーリーズみたいな感じなのかなと想像してみたり。前作の流れなのか、また新しい雰囲気なのか、とにかくたのしみ。



2005年09月02日(金) プール、冬瓜汁、本読み

胃の調子がだいぶ良くなったのでプールにいって泳いできた。
といってもたったの300Mくらいでギブアップ。
まだ本調子ではないのかなやっぱり。

食べ物は消化の良いものを少しずつ、ということで冬瓜汁を作ってたべた。
具は油揚げと葱と里芋と桜海老と人参と冬瓜。おいしかった。



堀江敏幸 「河岸忘日抄」
とてもとても良かった。河辺の好きな人にはまた特別な小説じゃないかな。
浮遊感というか、たゆたうというか、河岸という定まらない場所や男のとりとめのないイメージや様々なエピソードなんかがそれをよく象徴している。読んでいると、なんとなく、舟の上にあおむけになって揺られているようなそんな気持ちになる。どこまでも続く河の中をただただ漂っているような。

霧のなかで自分の視力はどこまで届くのだろうか、と彼は独語する。まったく届かなくてもかまいはしない。いま切実に欲しいと彼が念じているのは、闇の先を切り裂いてあたらしい光を浴びるような力ではなく、「ぼんやりと形にならないものを、不明瞭なまま見続ける力」なのだから。



会話というものが必要最低限に書かれていて、なんとなく最近、そういう感じの小説の方が読みやすいというか読んでいて違和感がないような、そんな気がしている。話し言葉が多すぎる小説はわかりやすい反面、どこかおしつけがましい気がして読んでいると辟易してくることが多い。まあ小説にもよるのかもしれないけど。

さて、図書館から借りてきた本があと5、6冊くらい。
全部読めるといいな。


 


2005年09月01日(木) 無題

まだ胃が痛くて、今日はまともにものがたべられなかった。
何かを食べたいという気持ちはかなりあるのだけど、そういう頭の中とは裏腹に体はかたくなに食べ物を拒否していて、ちょっとたべてみようかなと思って作った入麺もふたくちくらいしか入らなかった。
これはコーヒーだけのせいではなくて、きっとこれまでの暴飲暴食もたたっているんだろうな、と反省。


そういえば今日は風の盆だなあ、とぼんやり思う。
来年はちょうど土日が風の盆と重なるので、できることならそれにあわせて祭り見物にいこうと今から思ってたり。
今三味線を一生懸命おぼえてるのだけど、それがなんとかひけるようになったら次は胡弓もやってみたいなとおもう。
んでもって、将来は富山の山奥に一軒家つくって、毎日野菜を作ったり、川で釣りとかしたり、胡弓や三味線弾いたり、山歩きとかしたりしたい。
歳をとったらそんな生活がしたいな。
そのためにも今がんばらなきゃね。うん。


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