Opportunity knocks
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2002年01月31日(木) 読書

もう一月が終わろうとしている。

某Hさんが1年で52冊の本を読むぞっ
と年頭に宣言されていたのに触発されて、
私もこの1年のうちで、100冊の本を読もう!
と決心した。ついこの前。

しかーし。およそ1週間に2冊の本を読むということは、
考えてみると結構たいへんなことである。


ちなみに一月に私が読んだ本、なんとっ、4冊!
・・・全然読めてないッ。
再読したものを含めるともう少し数は増えるけども、
まったく新しいものは4冊。
えーと、一月物語に3月は深き紅の淵を、あと・・
あとなんだっけ? あ、そうだそうだ、
ジョイ・ラック・クラブに高瀬舟。(森鴎外はほとんど読んだ事が無い)

・・・無理。どう考えても100冊/年は無理だ。
たかが100冊、と思った私が浅はかだった。

ということで、1ヶ月に5冊!軌道修正することにした。
そのかわり、1度読んだことのある本は含めないことにする。

さー2月だ、明日からリリイ・シュシュ〜読むぞー。

・・・何日かかることやら。


2002年01月30日(水) ポトス

友達がポトスをくれた。
一見すると、さつまいものつるのような植物。
自分のウチの植木鉢に植わってたのを
適当に切ってきたのだそうだ。

水につけてるだけで育つから、
あんたみたいな不精者にはぴったりっといって、
水盤にいけてくれた。

「水くらいはかえなさいよ」 と友達。
「失礼な、水くらい代えますよ」 とわたし。

はじめは、なんだかまとまりのない植物だなあ、
と思ったのだけど、しばらくみているうちに
これはこれで結構良いなあと思えてきた。

緑ってやっぱり良いよね。







2002年01月29日(火) 訃報

今朝、新聞を読んでいて1つの記事に目がとまった。

アストリッド・リンドグレン、スウェーデンの女性児童文学作家。
28日、ストックホルムで家族に見取られながら死去。享年94歳。

長くつしたのピッピ、ニルスの不思議な旅、やかまし村の子供たち、
エミールと大どろぼう、ロッタちゃんシリーズなど、
独特の世界観を、自由に枠にとらわれることなく描いた人。

2、3年前、ジャーナリストの江川紹子さんがリンドグレンのルーツを
訪ねてスウェーデン、ノルウェーを旅するという番組をみた。
江川さんのことはジャーナリストとしてずっと前から注目していたのだけど、
その人が、昔からリンドグレンには多大な影響を受けた、と言ってるのを
きいて少しびっくりした。すごく現実的な人だと思ってたし、
リンドグレンとは接点がないような気がしたからだ。
でもその番組を見ているうちに、江川さんがリンドグレンから得たものは
目に見えるような表層的なものではなく、もっと本質的に深いもの
なのだ、ということがわかった。

人をどんどん前向きにさせるような、力強さがリンドグレンにはあったと思う。
純粋な精神と気高さ、不変的な優しさ。


訃報の記事は、この日のどんなニュースよりも胸に残った。






2002年01月28日(月) 無題

明日から連れ合いは中学校の学年行事である、
スキー合宿(!)へ出かける。3泊4日(!)

さっきまで持っていくものをいろいろ準備していたのだけど、
え?こんなものまで?といったものまで鞄に詰めこんでいた。
例えば、ウクレレ。・・・なんでこんなものを?
少々唖然としながら聞くと、生徒たちにみせる一発芸に使うっ、とのこと。。

たいへんだたいへんだ、なんて言いながら実は結構たのしそうである。

こっちも世話のかかる大きな子供がしばし出かけてくれて
気分爽快♪

いってらっしゃい 先生♪







2002年01月27日(日) 無題

ひとりで遠くまで行く用事があって、長く車を運転した。
名古屋高速を使っていったのだけど、
いつもながら走りにくい道路だな、とうんざり。
普通、首都高や普通の高速道路は、
インターから左車線に入って、同じように
左車線からインターへ降りるようになっているのだけど、名古屋高速は違う。
本線に入るときも降りる時も負い越し車線から、なのである。
つまり、本線に入るときはびゅんびゅん飛ばしている車の中に
入っていかなければいけないし、降りる時はわざわざ負い越し車線に入って
降りないといけないのである。
インターの出入り口が近づくと、うまく本線に入りこめなくて
おろおろしてる車をよくみかける。反対に突然飛び出してくる車もいる。
当然のことながら神経を使う。
いつも左脳で車を運転しながら、右脳で空想にふけっている私だけど、
高速道路を走っているときはそれなりに集中して運転する。当然疲れる。。

帰りは時間に余裕があったので、高速道路には乗らず
一般道をのんびりと走った。

昨日とは打って変わって良く晴れた1日だった。
サニーディ・サービスを聴きながら運転した。
昨日も車の中でサニーディを聴いていたんだけど、
寒くて冷たい雨がさめざめと降っていた昨日より、
透き通るように晴れわたった今日の夕暮れのほうが、
音がすっとなじむような気がする。

今日はとても良い天気だね
ちょっと外へでてみようよ
花はまだ咲き乱れてないけど
花咲く朝、もうくるよ

というフレーズが何となく胸に響いた。
サニーディの曲は優しくて、甘くて、ちょっとかなしい、
ような気がするのはわたしだけだろうか。

今日の用事は、決して心楽しくなるような用事ではなかったのだけど、
サニーディの曲を聴きながら運転してる内に、少しらくになったような気がした。





2002年01月26日(土) 大人のオンナの条件

一 大人のオンナは猫背であってはならない。

一 大人のオンナは夜中にコンビニへ走ってはならない。

一 大人のオンナは寝癖のついた髪のまま外出してはならない。

一 大人のオンナは早口で喋ったり、大きな口をあけて笑ったりしてはならない。

一 大人のオンナは毛玉のついたセーターをきたり、ボタンのとれかかった
  ジャケットをそのまま着て出かけてはならない。

一 大人のオンナはつまらないことに激昂してはならない。

一 大人のオンナは飲み会に出掛けたダンナの帰りが遅いからといって、
  ドアをロックしたりドアの上に「入るべからず」などと書いた紙を
  貼ったりするなどの、子どもじみた行為を実行してはならない。

一 大人のオンナは気に入らない事があったからといって、1日中不機嫌に
  なったり床にころがっていたスリッパなどを蹴飛ばしたりしてはならない。

一 大人のオンナはいつも落ちついた雰囲気を演出しなければならない。



・・・・・ふう、まだあったかな。
大人のオンナへの道程は長く険しいなあ。


2002年01月25日(金) 無題

これといってとくに理由も
見当たらないのだけど、
何故か憂鬱・・・。

こんなような気分を追っ払うおまじないを
どこかの本で春樹さんが書いてたっけ。

ダンス〜だったかな・・・。

とにかく、
余計なことを考えずにぐっすり寝よう。
明日になったら、すこしはましになっているかもしれない。

















2002年01月24日(木) 仕事休みの1日

昨日、遅くまで手紙やメールを書いたり、
読書などしていたせいもあって、
今日は1日中、何の予定もいれずにのんびりする。
てきとーに家事をすませ
お茶を飲みながら、「3月は〜」の続きを読む。
本を読みながらいつのまにか転寝。

お昼になって、てきとーにサンドイッチを作る。
サラダに使ったツナとサーモンが残っていたので
レタスとトマトも一緒に挟んで、もそもそとたべる。

午後。何だか体が疲れているので銭湯にいく。
銭湯にいくのは、ストレス解消のひとつ。
近くに天然の温泉がでてるところがあって、
何だか疲れてるな、何も考えずにぼけーとしたい
というときによくそこへ行く。
明るいうちにお風呂屋にいって、ゆっくり湯船につかるって
結構気持良いんだから。


オフロに入ってだいぶリラックスすることができた。
アタマの中で渦巻いてた疲労感もどこかへいってしまった。

ウチに帰って、夏目漱石の「こころ」を読む。
レポートのための読書。漱石の作品をひとつあげて、自分が決めたテーマについて
考察し論ぜよ、というのが課題。
「こころ」を読むのは3度目か4度目。読むたびに思うことが違う。
若いときはやはり、若いときなりの視点があり、年をとると
年をとったなりの視点がある。そんな感じのことをテーマにしようかな、
と思う。

コドモが帰宅し、一気に騒がしくなったので、読書を中断。
夕飯をつくりながら、算数の宿題を教える。ム、ムズカシイ・・・。

夕食後、手紙の続きを書く。
それからまた「こころ」の続きを読む。
コドモが、「かあさんはいっつも本読んでばかり。」
と文句をいうので、指相撲の相手などしてしばし遊ぶ。

コドモ、連れ合い、就寝。。
日記を書いて今日1日が終わる。

平凡的な人間の、平凡的な休日。




2002年01月23日(水) 諍い

連れ合いといさかいをした。
つまらない言い合い。

自分以外の人間を理解し、受け入れることがこんなに難儀なものかと、
他人と暮らし始めて、はじめて知った。

向うは容赦なくわたしの中にある壁を攀じ登ろうとする。
開城を迫るのだ。門をひらけと。

やれやれ。

だんだん戦う気力も無くなってきたよ。
これ以上なにを差し出せばいい?

もう何も残ってないよ。たぶん。



2002年01月22日(火) shopping

久しぶりにウィンドーショッピングなどしてたら、
前から良いなぁ、と思っていたコートが30%OFFに
なっていたので、思わず買ってしまった。
濃いグレーのビロード地でダブルボタンのショートコート。
はおってみると、ちょうどおしりがかくれるくらいの長さ。
ちょっと光沢のある不思議な色したボタン。
黒の細身ジーンズと合わせると、
なかなか良い感じ。

かなり良い気分♪


2002年01月21日(月) 大荒れの天気

みんなが最悪だというところの月曜日。
朝、歯医者の受付にすわっていると、
北風さんという患者さんがやってきた。(ホントの話)
保険証をみると、北風、とかいてある。
「北風さん、ですか・・・」 「はい、きたかぜ、と言います・・・」
「痛みはありますか?」「はい、昨日の夜から痛くて痛くて…」

どおりで、今朝は台風なみに天気が大荒れなわけだ・・・と
ひとりで内心くすくす笑いながら、予診表に記入してもらった。
北風というより、春の小熊という方が似合うようなその人は、
治療を受け、あー少しらくになりました。といって帰っていった。
午後から少しは天気も良くなっていくのかな、とまたひとりでくすくす。

冗談じゃなく、今日は今朝から酷い天気だった。
大粒の雨が音をたてて降ってきた。
雷が市内の信号機に落ちて、一時交通麻痺になったりした。
どしゃぶりの中、手旗信号で交通整理をするはめになった
警察の方には気の毒だが、真っ暗な空をぼんやり眺めながら
暖かい部屋で読書、というのもなかなか良いものである。

そんなわけで、今日の午後は「三月は〜」の続きを読む。
(Kさん・・・おもしろいっ。おもしろすぎるっ)
面白いという言葉を広辞苑で引いてみると、
目の前が明るくなる感じを表すのがもともとの原義である、
と書いてある。目の前が広々とひらける感じと言いかえることが
できるかもしれない。まさしくそんな感じ。
結構厚い本なので、時間をかけてゆっくり読んでいこうと思う。










2002年01月20日(日) 安堵

ようやくレポート、完成。
プリントアウトして、指定の用紙に添付する。
22日必着なので、明日の朝速達で出す事にする。

つかのまの開放感。
あともう1つ、来月の10日必着のレポートがあるのだが
その存在はしばらく忘れたい。せめて2,3日。

今日は余裕で寝られそう。
夢など見ずに(というとKさんに怒られそうだけど)
ぐっすり眠りたい。
オヤスミナサイ。。。


2002年01月19日(土) レポート書き

土曜日の今日も、レポート書きに徹する。
書きたいことは書き尽くしてしまったような気がする。
あとは要らないところを削ったり、足らないところを補足したりして
文章のバランスを整える。これがやはり難しい。

文脈が途切れた文章にならないように、きちんと繋がっていっているか
チェックするのだけど、ずっと自分の文章を読んでいると
だんだんアタマが病んできて、いったいどこがおかしいのかわからなく
なってしまう。 そこでしばらく気分転換に、
恩田陸の「3月は深き紅の淵を」を読む。
軽い気持でページをぱらぱらめくっていたら、あっ、というまに小1時間が過ぎて
しまった。。これでは気分転換ではなく、現実逃避ではないか・・・。

ストイックに本を棚にしまって、続きにとりかかる。

うーん、これからこんな作業を何十回、何百回(まではいかないとしても)
繰り返すのだ、と思うとはたしてやっていけるのだろうかと思う。
文章を書く技術というものは少しずつでも向上していくのだろうか?
とりあえずあともう少し。



2002年01月18日(金) 無題

レポートの締切りが気になって、何も手につかない。
読みたい本も読めず、書きたいメールも書けない。
コドモと話してても上の空。鏡をみれば色気も素っ気もない
すっぴん顔が映っている。

書きたいことがありすぎて、文章と文章をつなげるのに一苦労。
何だか収拾のつかない内容になっている。
なんとかしなきゃ。

そんな感じで、後2,3日が山場。
さて、気分転換もそろそろここまで。
文章書きに戻ろう。


2002年01月17日(木) ノスタルジア

某Hさんのサイトに書かれてあったコーヒーの話を読んで、
高校生のときのことを少し思い出したので、少しそのときのことを
書いてみようと思う。

わたしはその当時(高校生の時)、今でもわりとそういう気があるが、あまり人と
話すことが好きじゃなくて、暇さえあると図書室で本を読んでいた。授業の合間や昼休みとか。
今思うと結構暗い青春時代だったな、と思う。
同級生が好きな男の子の話しに夢中になってるときに
ひたすら本のページをめくることに没頭していたのだから。

私の学校の図書室は、校舎から少し離れたところにある独立した建物の中にあった。杉の木がぐるっとまわりを囲んでて、なかなか雰囲気の良いところだったのを覚えている。
その図書室の隣には司書室があって、古文の先生が司書をかねていた。
青山先生という男の先生(その当時かなり年はいってたと思うが年齢不詳)で、授業がないときは、職員室ではなくいつもその司書室にいた。

青山先生は、何ていうか、普通の先生とは全然違っていた。
おしつけがましいところが全くなくて、いつも落ち着いてて、すごく穏やかな先生だった。何もいわなくても不思議に生徒の気持がわかってしまうような先生で、誰も先生のことを悪くいう人はいなかったし、誰からも自然に慕われてしまう、そんな先生だった。
わたしは完璧な文系人間で、数学や物理などはしょっちゅう赤点すれすれの点数をとっていたが、現国や古文、世界史なんかは結構熱心に勉強していたし成績も良い方だった。
テストの前なんかはよく司書室へ行って勉強を教えてもらったりしていたのだけど、そのうち好きな作家の話や、学校のこと、これから先の進路についてもよく話をするようになった。2、3年生になると、図書館の本を持ちこんでよく司書室で本を読んだりするようになった。特に雪の降る季節は、図書室よりも暖かい司書室で本を読むことが多かった。

で、コーヒーの話。
青山先生はコーヒーが好きな人だった。司書室にはたくさんの本の中に混じって、常にコーヒー豆とミルと飲みかけのコーヒーカップが置かれていた。
時々、「おいN、豆ひいてくれ」と、よくコーヒー豆をひかされた。
先生のまえでは、えー、また?なんてイヤそうな顔をしたりしたが、実は、がりごりと豆をひく音と感触、本の匂いにコーヒーの匂いがまじりあっていくその感じがすごく好きだった。今でも本を読みながらコーヒーを飲むと、そのときのことを思い出す。ろくでもない高校生活の中で、唯一まともな思い出。


Hさんの文章を読みながら、ぼんやりとそのときのことを考えた。
ストーブの上で音をたててる薬缶。窓の外の杉の木に、音もなく降り積もっている雪。コーヒーカップの温もり。あかい頬した高校生の私。
何となくそんな光景がアタマに浮かんだ。
何であんなに本ばかり読んでたんだろう? ほんとに。

高校生だったときの自分からだいぶ遠く離れてしまったような気がするのだけど、
高校生のときのそのあたたかい記憶が、今も私のすぐそばにあるということがわかって少しほっとする。

ノスタルジックにひたった夜、だった。





2002年01月16日(水) C依存症

最近またチョコレート依存症になりつつある。
本を読んだり、文章を考えたりすると異様に
チョコレートがたべたくなるのだ。


最近はまっているのが明治の、Precious Cacao。
わたしはもともとチョコレートそのものが好きな人間なので、
チョコクッキーやチョコケーキ、チョコパン、チョコウエハース
などのチョコ加工品派ではなく、純粋な板チョコ派。

でも本を読みながら板チョコをたべると、不都合なことが1つある。
それは、割ってたべるときごく小さいチョコのかけらがぽろぽろ
落ちる事。そのせいで、わたしの愛読書にはほとんどそれと思われる
しみがついている。
が、しかし、このPrecious Cacaoはなんとはじめから一口サイズに
なっていて、しかも薄型。9枚がひとつのパッケージに入っていて
それが3個セットになっている。一口サイズといえば森永のダースだけど
あれよりもたべやすくて、しかもおいしい。
(なんだか明治のまわしものみたいになってきたが・・・。)


そんなわけで、今日もかたわらにチョコを置いてPCの前に座っている。
あー。春になる頃にはかなり体がまるくなってそうな気が。。




2002年01月15日(火) 一月物語について

スクーリングのレポートを書く傍ら、
一月物語を読みはじめる。
とにかく漢字の多様さと難解さに驚く。
何もこんな凝った漢字を使わなくても、と最初は思ったのだが
作者の意図がわかってくるにつれ、だんだん気にならなくなった。
言葉や言いまわしは古いものを使っていながら、
このひとの書きたいものは結構新しいものなのだ。
今の現代人が持っている感覚みたいなもの。
そういったものをこういった難解な漢字を多用して表現する事に
何らかの意味をもたせたいのかもしれない、というのが最初の印象。
それにしてもアタマの良い人だなあ、と純粋に思う。

これを読むきっかけは、P☆氏がすすめてくれたことも大きいのだけど
ハンセン病が取り上げられている小説だということも関係している。
ちらっと本屋で斜め読みした「日蝕」の中にも癩病という言葉があったけど、
このひとがどのように癩というものを書いてるのか、知りたかったし
たぶんそれは、北條民雄とはまったく別の雰囲気をもったものに違いないと
思った。今はまだ全体の雰囲気をやっと理解した段階なので、読了後にどんな
感慨が浮かぶのか、楽しみ。



2002年01月14日(月) 図書館の休館日は

県図書館にいくつもりで、電車に乗って出掛けた。

本日休館日。

そういえば今日は月曜日だったっけ。
それにしても祝日なのに・・・。
と思ってよく見ると、国民の祝日は総て休館、とある。
常識?

やけになって、本や雑誌類を大量に購入。
もともと読みたかった本ばかりなのだけど、
図書館ですまそうと思っていたものも買うことになり
かなりの出費になった。


「リリイ・シュシュのすべて」 岩井俊二
「3月は深き紅の淵を」    恩田 陸
「一月物語」         平野 啓一郎  
「偶然の音楽」(文庫)    ポール・オースター
「158ポンドの結婚」    J・アーヴィング

その他、ダ・ヴィンチ、CUT、などなど。

スクーリングのレポート提出期限が今週の週末になっているのに
なんで本なんか買っちゃったんだろう。
本が気になって、レポートに集中できないのは目にみえてるのに。
それでなくても、いろんな日常の雑事が山積みになっているのに。

何とか、本も読んで、家事もやって、シゴトもやって、レポートも書こう。
何とかできるだろう。何とかなるだろう。。たぶん。



2002年01月13日(日) 冬季スクーリング最終日

冬季スクーリング6日目の朝。
睡眠、というよりはうたたね、といった方が適切なのではないかと思えるくらいの浅い眠りから覚めて、重い体をひきずりながらいつものように支度をはじめる。
いつものように始発のローカル線に乗り新幹線に乗って大学まで。

午前は、癩文学の講義の最終日。レポートの課題が発表された。
予想していた通り、癩病を取り上げている文学作品を1つ挙げ文学と社会のつながりについて考察せよ、というもの。
講義の中で北條民雄を多く取り上げてきたが、ほかの作家の作品でも構わないとのこと。しばらく考えてみる。

今日の講義は、北條民雄の作品を一つ一つとりあげ、その作品の背景を教授が詳しく解説していく、という感じで進んでいった。それぞれの作品の解説を聞いていると、北條民雄がどういう視点で作品に取り組んでいたか、それぞれの作品にどういう思いが込められていたのか、ということがよくわかる。北條民雄の日記みたいなものが残されていて、こういうことが書かれてあった。

「・・・・原稿を書けば検問を考へて苦しまねばならず、手紙を書けば向うへ着いてゐるかどうか心配せねばならず、雑誌に作品が載れば雑誌を買ふのに気を揉まねばならぬ。なんといふことだ、なんといふことだ。
のびのびとした、平和な、自由な、なんのさしさはりもない気持で作品を書きたい。日々を送りたい。その上に病気の苦痛は否応なく迫つて来る。」

その当時、北條民雄の周りを取り囲んでいたニ重三重の様々な苦痛を感じて、胸が痛くなるほどだった。自由を奪われ、精神的な差別に苦しみ、その上、肉体的な痛みに苛まれる毎日。今の現代と較べてどうこうと言いたいわけではない。
ただ、そういう病苦を背負って生きていたひとりの作家がいたことに、純粋に心を動かされてしまうのだ。

やはりレポートは北條民雄の小説をとりあげて書こうと思う。
去年からこのひとの作品を読んで自分なりにいろんなことを考えてきた、
それを率直に言葉にできたら、と思う。


午後は体育実技の最終日。
今日は大学周辺でウォークラリー。
大徳寺周辺がコースになっていて、冬を忘れるくらい柔らかな風に吹かれながら
のんびり歩いた。
のんびり歩くといっても、ウォークラリーは一応スポーツの一種なので、コマ図とよばれる地図をみながら、一定の速度でポイントをまわらなければならない。
それにもかかわらず、写真をとりながらのんびり歩いているので一緒のグループのFさんやTくんに「N!はやくあるけー」としょっちゅうおこられる。だけども気持はもうウォークラリーというより、寺巡りという感じになっているので、時々は早足になりながらも、ほとんどはゆっくりのんびりたのしみながら歩いた。
そのおかげで予想通り到着予定時間を大幅にオーバーして、ポイントをおとしてしまったのだけど、すごくすごく楽しかった。


午後の体育実技が終わってから、友達になったひとたちと一緒にご飯を食べにいった。教育学部のTくんとFさん、史学科のHくん、社会応用学科のIさん、そしてわたしと同じ学科のNさん。
Tくんがバイトしている焼肉屋がおいしいというので、そこにいくことにした。
ビールでカンパイして、互いに長いようで短かったスクーリングの労をねぎらった。TくんとHくんは今、教育実習のための単位をとるのに大忙しで、もうすぐ教育実習が始まるそう。そして今年の7月にある教職員採用試験を受けるとのこと。
現役教師であるNさんが、いろいろと話をしてくれた。今いちばん採用試験が受かりやすいのは北海道らしい。Hくんは地元の京都で教師をしたいといっていたけど、Tくんは日本全国どこだっていくよ、といっていた。2人とも外見は先生、といった感じではないんだけど(ごめん笑)、性格的にはすごく合っているのではないかと思う。うまく受かれば良いなと思う。


9時ごろにみんなと別れて、新幹線に乗った。
昨日からずっと忙しくて、それでもって寝不足で、かなり疲れているはずなんだけど、何故か足取りも軽く元気で帰ってくることができた。
迎えにきてくれた連れ合いが、「おまえゲンキだねえ・・」となかば呆れていたくらい。(アルコールのせいも少し?あるかもしれない)

良い感じでスクーリングを終える事ができてほんとうに良かった。
明日からはまた地道にレポート書きがはじまるけど、学ぶという楽しさをまた一段と進歩させることが出来たと思う。

また明日から、がんばろう。


2002年01月12日(土) スクーリング前夜、なのに。

何の感興ももよおさなかった1日。
とにかく1日中現実的な用事に忙殺。


明日は冬季スクーリング最後の日。
そろそろ疲れがでてきた頃合なのだけど、
それでも明日が最後だと思うとさみしい。

まあとにかく、明日だ。
さあ寝るぞ。

・・・・・と、ここまでで就寝する予定だったのだが、某Hさんのサイトのチャットにお邪魔して思いっきり夜更かししてしまった。。
ポール・オースターと村上春樹と音楽をこよなく愛する理系の大学生Hさんと音楽好きでレディオヘッドの大ファンのH’さん。
春樹さんのお誕生日に特別記念チャットをやろう、という呼びかけに、少しのつもりでお邪魔したのだけど・・・その3人でとにかく盛りあがってしまい、結局就寝時間が大幅にずれこんでしまった。。

オースターの最後の物たち〜の話や、音楽の話、ちょっとここでは言えないような危険な恋愛話などなど、普段きけない話がきけてすごく面白かった・・・のはいいのだが、明日は果たしてだいじょうぶなのだろうか・・・。まあなんとかなるだろう、という希望的観測でもって就寝する。


2002年01月11日(金) 今夜のカレーの味は

何となく体がだるい。
風邪をひいたのだろうか?

晩御飯にカレーを作る。
自分でいうのもなんだけど、
わたしの作るカレーは結構おいしい。
トマトと野菜ジュースで煮こむんだけど
あともう1つ、美味しくできる秘密がある。
教えてくれ、だって? それは内緒。

カレーを作りながら何となく思った。
わたしは生まれてから今まで、何回カレーを作ったのだろうか?、と。
そしてこれから先、何度カレーをつくることになるのだろうか、と。
時々すごく数字的なものが気になることがある。
今日、何回トイレにいったんだろうと気になったり、体重が気になったり、
無性に数を数えたくなったり・・・。そんなことってありませんか?
わたしが少しおかしいのだろうか。。

そんな感じで今日は、平凡的な1人の女性が一生の間に作るカレーの回数を
あれこれ試算しながら、カレーをたべた。

考え事をしながらつくったカレ−はいつもとはちょっと違う味がした。




2002年01月10日(木) 無題

Mさんと会った。
散歩、という時期でもないし、あんまり出歩く気分でもなかったので
自宅にきませんかと誘ったところ、それでもいいとのお返事だったので
ウチにきてもらうことにした。
Mさんのウチからわたしの自宅まで、ローカル線に揺られて約20分程度。
遠いようで近い、近いようで遠いという結構中途半端な距離。

駅の前で待っていると、黒のジャケットに黒の細身のPants、黒のパシュミナを首にまいたMさんが現れた。黒づくめなんだけど、全然地味じゃなくってとてもよく似合っている。なんというか、地味な格好をしてても結構目立ってしまう人なのだ。

ウチに着いて、炬燵にはいりながら、綾戸さんのライブのことを話したり、
近況報告をしあったりした。共通の友達の話もした。この日くしゃみを連発してた人はかなり多いのではないかと思う(笑)

お昼ご飯は和風パスタを作った。
大根おろしに昆布だしを加えて醤油で味付けしたなかに、ベーコンとシメジと大根の葉っぱをオリーブオイルで軽くいためたものを入れて、スパゲティの上からかける。超カンタンなパスタ。それに白和えをそえて昼ご飯。
Mさんはおいしい、といって食べてくれた。

帰りはまた駅まで送った。
「何だかまだ話さなきゃいけないことがあるような気がするのだけど」
とわたしがいったら、笑いながらMさんがいった。
「また会えるから」
その一言で何となく安心した。
そうだよね。
うん。




2002年01月09日(水) 明日は

明日は、久しぶりにMさんと会う予定。
この前会ったのはまだ秋が深まる前、10月の
はじめぐらいだったと思う。3ヶ月前。

ずいぶん会わずにいたような気がする。
その3ヶ月の間、いろいろな出来事があったし、
その間、しょっちゅうMさんのことを
考えていたせいもあるのかもしれない。

いろんな話ができたら良いと思う。



+ + + + + + + + + + +

またこの前の日記に誤りがありました。。
AIDSは先天性の病気ではなく、
後天性の免疫不全症候群です。
なんで間違えるんだろう。
たぶん書き慣れない事をかくからだ。
さらに深く反省・・・・。



2002年01月08日(火) 誤り、訂正、反省

6日の日記の中で、ハンセン病について書いた部分があるのですが、
少し事実と異なったことを書いてしまいました。。すぐ誤りに気付いて
直したのですが、その間に何人かこのページを見られた方がいて、
少々遅かったようです。退屈でたいして面白くも無い文章を書くのは、
仕方ないとしても、明らかに誤ったことを堂々と書いたりするのは、
重大な過失だと思う。深く反省しております。
それと・・・ピアノは弦楽器ではなくて鍵盤楽器ですね。

これからはこんなことがないように、責任を持って文章を書いていく
つもりなのですが・・・またたぶんやっちゃうだろうなぁ。
でも、気をつけて書いていきます。ということでまたこれに懲りず
また読みにきていただけるとありがたいです。


2002年01月07日(月) 厳寒

朝、駐車場にいくと、車のフロントガラスが凍り付いていた。
霜がびっしりついていて、ワイパーを動かしてもとれそうにない。
手袋でこすったり、手のひらをあてて溶かしたりしたりしたのだけど
まったくとれそうにないので、仕方なく自転車で仕事場まで走る。
寒い・・・。寒さのあまり顔がいたい。

ここ1、2年の間に、かなりの冷え性になってしまった。
ここだけの話だけど、ハラマキもしてるし、当然〇〇シャツもきている。
80デ−ルのタイツをはいて、なおかつ靴下もはく。
寝るときも、電気あんか(という名前でつたわるかしらん。因みに我が家ではちびコタツと呼んでいる)をいれてなおかつ靴下もはいて寝る。オフロは寝る直前に必ず入る。それまでは特に冷え性というわけでもなかったのに、どうしてだろう?
いずれにしても、寒さが辛いこの頃。
風邪などひかぬように気をつけようと思う。


2002年01月06日(日) スクーリング5日目

スクーリング5日目の朝。
雪の影響を考えて、いつもの「ひかり」ではなく、始発の「のぞみ」に乗ることにした。関が原、米原のあたりはやはり雪が降っていた。窓に雪があたって、しゃらしゃらと音をたてる。すごく寒そうな音。
山を越えて京都が近づくにつれ、雪が少なくなっていった。こんな短時間のうちに景色が変わっていく事にあらためて驚く。日本ってこういう国なんだよな、としみじみ思った。

結局、30分足らずで京都に着いた。いつものようにバスに乗って、大学へ。
雪の影響が殆どなかったため、予定してた時間よりもだいぶ早く着いた。
時間に余裕があったので大学の構内にある本屋をのぞく。
学生証の提示で本代が10%OFFになるらしい。講義関係の参考書や教科書が多いため、普通の書籍を置くスペースが少ないので、特に買いたい本は見つからなかった。注文は受け付けてくれるみたいなので、また次の機会に利用しようと思う。

今日の午前の講義は、体育実技。
なんと、創作ダンス。7〜8人のグループに分かれ、踊りを考え、グループごとに発表する。そのまえにかなりの時間をかけてストレッチをし、いくつかダンスのパターンを練習する。それをいくつか組み合わせて3分程度のダンスを踊るらしい。
それぞれ思考錯誤しながら、ダンスを創作していく。そして発表。
それぞれのグループに特長がでて、短い時間ながら楽しく創作ダンスをすることができたみたい。楽しむこと、楽しさを知ること、それがこの講義の主な目的だとすれば、それはかなり達成されたのではないかと思う。

お昼は教育学部のFさんと一緒にいつもの食堂へ。
390円の日替わりランチと350円のクリームコロッケランチをそれぞれ頼んで
席につく。お正月の話や、午後からの講義のことについて話す。Fさんの午後の講義を担当している教授は、とてもユニークな人らしい。講義もテキストは殆ど無視で、教育関係のテーマを提起し、ディスカッション形式で進めていくそう。
「いいね、そういう授業。良い先生で良かったやん」と私がいうと、
「うん、ええ先生やよ。初日の講義、20分ほど遅刻しはったけどな(笑)」(笑)

午後の講義のまえに外をみたら、雪が降っていた。
午後の講義はひきつづき北條民雄の作品について。
先生は、北條民雄の文学と社会のつながりについてを講義の主軸にしているので、
今日も癩院の存在が社会的にどんな意味を持っていたのかという話や、北條民雄の文学と他の癩文学はどのように違っていたのかという話などを中心に講義が進んでいった。癩病については、いろいろな作家が作品の中で取り上げている。
最近では平野啓一郎、京極夏彦、遠藤周作、古くは福沢諭吉、尾崎紅葉、高村光太郎、泉鏡花、小栗風葉などなど。その中でも小川正子、という人が書いた文学についての話が興味深かった。小川正子は、ハンセン病というものを北條民雄とはまったく違う側面からとらえた作家である。ハンセン病は当時、国家的な対応を余儀なくされるほどの社会的な問題になっていた。ちょうど今から戦争に突入していこうとしている時期で、ハンセン病という病気はそのような国家の気運をそぐものであったし、国としてはハンセン病患者は何というか、目の上のこぶのような存在だったのである。そのため国は、実際に事実とは違うにも関わらず、ハンセン病は遺伝病であり、なおかつ、強い伝染性を持っているという誤った事実を広く広め、非患者である普通の国民をプロパガンダし、全国からハンセン病患者をいぶりだし、官憲などの力も総動員して強制的に療養所へ送ったのである。実際にハンセン病は伝染性の病気であるけれど、その感染力は非常に弱く、菌自体も体外にでるとすぐ死滅してしまうという弱いもの。遺伝病であるという誤った事実は、ハンセン病患者の家族を酷く苦しめ、さらにハンセン病患者の家族は、子孫を残せないように(あらたな患者を作り出せないように)優性手術を施すべきだ、などという非人間的なことも言われるようになったのである。
小川正子はそういった国家の側について運動をしていた人で、ハンセン病患者は国家に保護されているのだ、ということを強く人々に説いてまわっていたらしい。彼女は彼女なりに正しいことをしているのだという確信があったのだろうと思う。それ自体を非難する事はできない。しかし、あらためて大きな力が生み出す流れみたいなものの強固さを実感した。実際に人々は小川正子が書いたものや国のプロパガンダに大きく影響され、ハンセン病患者に対して不当な仕打ちを繰り返していたのである。
講義を聴きながら、これは何かに似ているなと考えていてふと気付いた。
後天性免疫不全症候群(AIDS)。。
当時の人々はハンセン病の実態を知るすべがなかった。病気そのものがどういうものであるのかを知らなかった。無知というものが作り出す弊害が事態を悪くさせていたのである。現代もそのような弊害があるといえるのではないのだろうか?
無知であるがゆえに、イメージを目の前にだされると容易にそれを受け入れてしまう。イメージが先行し、本質に近づけないという点で、AIDSとハンセン病は酷似しているような気がする。 (・・・・・・なんだかレポート調になってきた)

講義が終わり、待ち合わせていたMさんと一緒に京都駅までいく。
講義の話や、帰省先の青森のことなど話す。
来週はMさんの恋人が一緒にくるそうなので、昼ご飯を一緒にしようと約束する。
Mさんがとても素敵な人なだけに、彼女の恋人に会えるのがすごく楽しみ。
京都駅に着いて、Mさんは大阪へ、わたしは名古屋へ向かう。
帰りの新幹線はものすごい混み様。通路にもデッキにも人があふれている。
人いきれで気分が悪くなってダウン寸前になりながらも、無事に帰宅することが
できた。

ウチに帰ると連れ合いが、食事の用意をしてくれていた。連れ合いは何をするにも器用で要領の良い人で、料理も私より上手。(あんまり面と向かってほめないけど)七草粥と鯖の味噌煮をたべる。とてもおいしい。
コドモが、「かあさんっ、きいて!」といって、七草粥の七草をそらで言い始めた。間違い無く七ついうことができて、得意そうに笑う。
「すごいっつ!、よく覚えたね!かあさんも知らないのにっ!」
とほめてあげると、「そんなのかんたん、かんたん」なんていいながら、ますます
得意そうに笑った。

食事の片づけをして、オフロに入ったあと、綾戸智絵さんと山下洋輔のコンサートのドキュメントを見る。綾戸さんと山下洋輔のピアノバトルに感動。
山下洋輔はまるで何かと格闘するかのようにピアノを弾く。ピアノは鍵盤楽器というより打楽器だというくらい、その演奏は激しく心を打つ。
それに較べて綾戸さんのピアノは同じように衝撃的なんだけど、ちょっと違う。
どういったらいいのかな・・・山下洋輔のピアノが外側から直接的にがんがん響いてくるのと対照的に、綾戸さんのピアノは、自分の内面から感情をずるずる引き出される感じ。そんな2人が、グランドピアノをはさんでセッション・・・
その場にいた人はかなりシアワセな人達だろうと思う。私もその場にいたかった。

そんな感じでスクーリングの5日目が終わった。
あと1日。学ぶ機会を与えてくれた人のためにも、
いろんな知識を吸収して、自分の糧にしていきたい。



2002年01月05日(土) シゴトハジメ

朝起きて、ふらふらな状態で仕事に行く。

歯科医院で働いているのだけど、予想通り患者が朝からひっきりなしに来た、というか押し寄せてきた。
食べてる時に詰め物がとれて・・だの
年末からいたくていたくて・・だの
歯茎が脹れちゃって・・だの
入れ歯が壊れた・・だの
待合室は座りきれない患者でいっぱい。

予約外の患者も診るため、どうしても予約していた患者の時間がずれてしまう。
「ねえ、もう30分も待ってるんだけど?」とか
「これじゃあ予約の意味ないんじゃないの?」だとか、怒りの声があちこちから聞こえてくる。たかだか4時間の間に、さらに深く消耗してしまった。午後からは12月分のレセプトをチェックし、修正し、集計。私の頭の中は、羽がはえて空中をひらひら飛んでいる数字に占領された。

仕事が終わったのが5時。
そのあと、大晦日に出産した友達のお見舞いにいく。
天使のように可憐な赤ちゃんの顔を見て少し、いやかなり心が和んだ。
「Nのこと、オヤバカって笑ってたけどもう笑えないよ。Nの気持がよくわかった、ほんと」 と笑いながら友達は言った。
そうでしょうそうでしょう、わかってくれればいいの、うんうん。

コドモは可愛い。無条件に可愛い。この世でいちばんわたしが確信できるのは、
コドモへの愛情だと思っている。愛という感情を注ぐ事のできる存在は私にとってコドモだけだと思う。(連れ合いの事はこの際きかないでください)
シアワセそうに赤ちゃんを抱いている友達を見て、シアワセを分けてもらって帰ってきた。

帰ってから、明日の準備をする。
明日はまた雪が降りそうなので、新幹線の運行状況をHPでチェックしてみた。
まあ、なんとかいけそう。
スクーリングもあと少し。がんばろうと思う。


2002年01月04日(金) 長い1日

朝、まだ夜の明けぬうちから起きだす。
温かい布団からでるのに一苦労。
スキー板とその他もろもろを車に積んで出発した。

名古屋市内は思った通り雪が残っていて、高速道路はどこも通行止めになっていた。白鳥高原へ行くにも東海北陸自動車道という高速道路を使っていくのだけど、はたして通行できるのだろうか?

走っていたら案内板が見えた。
「東海北陸自動車道-通行可。チェーン規制あり」
ほうらね、とでもいいたげに連れ合いが私の顔を見る。

車は高速道路に入り、目的地に向かって順調に進んでいた・・・かのように思えたのだが、岐阜に入って事態は一変した。大粒の雪が降っているのだ。
道路の表面は雪に覆われて、視界もあまり良くない。
そのうち車は連なりだして、渋滞となった。たぶん除雪車がでているのだろう。
反対車線を見ると大型の除雪車の後から、普通の乗用車がのろのろとついていくのが見えた。ほうらね・・・・こうなると思ってたんだ。。
何か言いたげなわたしに向かって連れ合いがいった。
「プラス指向で物事を考えようよ」
「・・・・・・・」

かなりの時間をかけて、車は高速道路を降りた。
インターを降りて、30kmほどのところにスキー場がある。
雪の降り方がすさまじいので、車を降りてチェーンをつけることにした。
4WDとはいえ、チェーンなしではたぶん山は登れないだろう。

チェーンをつけて山を登り始めると、狭い山道に何台もの車が立ち往生しているのが見えた。ノーマルタイヤで、なおかつチェーン無しという無謀な車が何台もいるせいで、道が渋滞し事態を悪化させている。
またまたかなりの時間をかけて、ようやくスキー場についた。
6時にウチをでて、着いたのは12時過ぎである。
そんな事態をもろともせず、連れ合いとコドモは相変わらずのハイテンション。
さっそく昼ご飯をたべ、ゲレンデへ出る。

わたしは北陸育ちなので、スキーは小さい頃からよくやっていた。
中学校の体育は冬中、クロカンだったし、スキー合宿なんていうのも結構あった。コドモも結構覚えがはやく、たいていのところはついてこれるようになったので、雪の感触をたのしみながら、しばしたのしく滑る。
しかし・・・・それもつかのま、2時間くらい過ぎると、雪はしんしんと、というよりごうごうと降り始めた。まるで吹雪のように。

もう十分滑ったし、そろそろ帰ろうということで意見が一致し、5時過ぎにスキー場を出た。悪夢はそれから。。

スキー場をでて1kmもいかないうちに、車は止まった。大渋滞。
行きの様子から想像すると、まあそうだろうなとは思った。でも、でも、まったく車は動かない。1時間かけて、1kmも動かない。

結局山から降りるのに3時間半。山のふもとからインターチェンジまで4時間。
インターから自宅まで2時間半。ウチに帰りつくまで、なんと10時間かかった。
開き直って、時間が経過するのをただただ待った。

音楽も聞き飽きて、ラジオも入らないので、仕方なく3人で言葉遊びを始めた。言葉遊びといってもたいしたことではなく、世界中の国の名前を交互に言い合って、出てこなくなったほうが負け、というもの。
コドモも最初がんばって答えていたが、途中で寝てしまった。
中南米、東南アジア、中央アジア、東欧、北欧、南欧、中近東、アフリカなどなど
いろんな国名をひねり出した。もうこれ以上でてこないだろうというところで、
「モーリタリア」とわたしが言ったら、連れ合いは「ハイチ」と余裕で答えた。
5分ほど考えて、「アンドラ」と私がいうと、またもや余裕で「イエメン共和国」
と答えた。10分ほど考えたけどとうとう次の国が言えず、私の負け。
次は、アメリカ50州を言い合った。最後まででなかった州が5個。
ワイオミング州、ウイスコンシン州、ノースダコタ州、サウスダコタ州、
そして、バーモント州。。

そんな感じで暇をつぶしながら、我慢に我慢を重ねてウチに辿りついた。
いったい何時なんだろう?と時計を見ると、2時半。。
明日(もうすでに今日)は仕事。
疲れ果てて布団に潜りこんだ。

明日、起きられますように。
無意識に時計を止めませんように。
明日は仕事なんだ、と自分に言いきかせながら眠りについた。




2002年01月03日(木) 雪景色

朝、窓をあけたら雪が降っていた。
あたりいちめんが真っ白。
普段見慣れているはずの風景なのに、
雪が降っただけで、まったく違う風景に感じられる。
灰色の空、枯れ枝につもった雪の白さ、
そして何より、時間がとまったかのような静けさ。
雪は音を包み込んで無音化してしまうのだろうか。

寒さも忘れて、しばし風景にみとれる。

わたしの住んでいる場所はすぐ前が海なので、
滅多に雪は降らない。ごくたまに降ることは
あっても、まず積もらない。
だから今日みたいに、一面銀世界、という日は
本当にめずらしい。

コドモと一緒に海まで散歩する。
コドモは雪が降ったのがうれしくて、
まるでイヌコロのようにはしゃいでいる。
雪だるまを作ろう!なんて言い出す。
寒くないのか? 冷たくないのか??
コドモのエネルギーに圧倒される。

ウチに帰ったらいきなり連れ合いが、
「明日、スキーにいこう!」
と言い出した。雪をみてイヌコロになったコドモと
たいして違わないのではないかと、少々唖然。

「でも、すごく寒いんだよ。まだ雪降ってるし明日っていったって・・・。」
「だいじょうぶだって、おれまだ休みだし、ゆっくりいけばだいじょうぶ。」
キミは休みかもしれないけど、わたしはあさってから仕事なんだぞ・・・と
胸の内でつぶやいてみたが、そんなことお構いなしで連れ合いは事を進めていく。

こんなわけで、明日は白鳥高原というところにスキーをしに行く事になった。
あー・・・わたしの貴重なお休みが…。

つづく。。


2002年01月02日(水) お正月

1日中、何も考えずにぼんやりできるって
なんて幸せなんだろう。。
コタツに入って蜜柑たべたり、近所の神社に散歩に行ったり、
好きなだけ本を読んだりして1日を過ごす。

あーシアワセ。。




2002年01月01日(火) 新年を迎えて

2002年1月1日の午前12時。
地元の神社にコドモと出かける。
ぼんやりした月が中空に浮かんでいる。
真夜中にしては思ったより暖かい。

地元の神社は結構大きな神社なので
真夜中にもかかわらず、人が多い。
おでんやお汁粉や、お酒なんかを振舞ってくれるので
すごくにぎやか。中央で護摩がたかれ、みんな古いお札なんかを
投げこんでいく。護摩の火が赤々と燃えてとても明るい。

初詣を終えて、自宅へ戻るとコドモはすぐ眠りについた。
連れ合いは地元の友達と一緒に出かけて帰ってこない。
しかたないので1人で新年を祝う。
昨日のうちに買っておいたチリワインをあけてこたつに潜りこみ
「ムーンパレス」を読む。

本を読みながらいろんなイメージを頭に思い浮かべた。

行き場も無く、セントラルパークをさまよっているフォッグ。
ロバをひいて砂漠をとぼとぼと歩いている、Mr.エフィング。
墓石の前で止めど無く涙を流す、ソロモン・バーバー。
フォッグとエフィングの言葉を媒体にした奇妙なつながり。
その根底に、もうひとつの強い結びつきがあったこと。

いつもながらの、精密な文章の組み立てにためいきがでる。
いくつもの小さな流れが集まって、大きな流れが作り出され
その流れにのみこまれるごとく、小説の中に入りこんでいく。

相変わらず物語は破滅的な方向へと傾き始める。
でも物語は、Mr.エフィングが半生を語り終え、自らの意思で
その人生を終わらせた時点で終わったような気がしなくもない。
その後の事はエピローグのようなものにすぎない気がするのだ。
ちょうどフォッグが、Mr.エフィングの長い物語が最高潮に達し、
後に語られるべき事はあまりないのでは、と思ったように。

オースターの小説を読むと、いつもやり場のない感情を持て余してしまう。
出口のみえない道路を限界ぎりぎりまで加速していく緊張感。
そしてその緊張感がぷつん、と音をたてて切れた後の静寂感。
そんなものに包まれてしまう。
個人的にわたしはそういう感情を好まない。何かにつけて物語は
ハッピーエンドに終わって欲しいと思っている。ハッピーエンドと
いう言い方があまりに安直なら、せめて希望を持たせて欲しいと思う。
オースターの中で「最後の物たちの国で」がいちばん好きなのは、
悲惨な世界の中で、最後の最後に主人公が希望を見出して終わるという最後に
なっているからだ。(もちろんそれはわたしの趣味嗜好のモンダイである)
しかし、それにもかかわらず(読後に奇妙な余韻を残していくこと)わたしはオースターの文章に魅了されている。
それは、それらの世界にひきつけられる何かが私の中にあるからだろうと思う。
それらがあるかぎりわたしはオースターの小説を読みつづけるだろう。
これから先もずっと。


+ + + + + + + + + + + + + + + + + +

そんな感じで新年を迎えました。
この1年もこんな感じで訳のわからない文章を書いていくつもりですので、
すえながくお付き合いくださるようお願い申し上げます。
今年もよろしくお願い致します。





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