Opportunity knocks
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2001年11月28日(水) |
最後の瞬間には・・・ |
ここ2,3日、グレイス・ペイリーの最後の瞬間のすごく大きな変化を読んでいる。何というか…すごく良い。文体がすごく独特で、枠にとらわれない自由さを感じる。この人にしか描けない、この人の世界なんだ、 っていうことが文章によくあらわれている。
わたしは文章に関しては”ひとめぼれ”する性質であるらしい。あとからじわじわ好きになるという本もあるにはあるけれど、ほとんどが、ひとめ会ったその日から…という感じで、第一印象で大体好き嫌いが決まってしまう。 グレイス・ペイリーは久々のひとめぼれ。
読まなきゃいけない本が山積みになっているのに、こたつにもぐりこんでずーっとグレイス・ペイリーを読んでいる。1日が36時間くらいあればいいのにな。。
子どもを虐待し死なせる事件が続いている。 大人になりきれない未熟な親。 子どもは親を選べないし、親は子どもを 選べない。
精神的に弱くて歪んだ親に育てられた子どもは 一体何に救いを見出すんだろう。
ただでさえこの不安定で暴力的な世界の中で、 誰一人としてよりかかることもできずに 誰にも導かれる事無く、暗い闇の中を てさぐりで歩き続けるのしかないのだろうか。
昨日のライブの雰囲気をまだひきずっている。 まだどこかで綾戸さんの歌が聞こえているような 気がする。やれやれ。。 現実にもどらねば。
そんなわけで今日は、何も手付かずの困った 1日でした。
綾戸智絵さんのライブにいってきた。 もう大きな所でしか歌わないかも、 と思ってた矢先、運良くライブのチケットを 手に入れることができたのだ。 めいいっぱい詰め込んでも100人弱しか 入らないライブハウス。 綾戸さんとの距離、約3m。
素敵だった。。。 言葉では言い表せないというのは、こういうことを いうのではなかろうか?? それくらい、素敵な素敵なライブだった。
体全体に音がしみ通った。アタマの中で冷たく、 こちこちに固まっていたものが、しだいにほぐれて 癒されて、優しくあたたかなものに変っていった。
理屈じゃない。そう感じたのだ。
綾戸さんの歌を聴いているうちに、何となく 綾戸さんと心が通じ合ったような気がした。 音楽を心から楽しもうという心が、彼女の歌 を通して、私の心に届いたのだ。 そうやって、歌い手と聞き手がひとつになれるって ほんとうに素敵なことだと思う。
特別な特別な・・・ほんっとうに特別な1日だった。
連休だというのに仕事。 しかもすばらしく良い天気。
空気が乾燥してるのが、肌で感じられる。 乾いた葉っぱが風にふかれてからからと 音をたてている。
すばらしく秋的な1日。
のんびりした休日の朝、たまにはTVでもと思ってつけたら、東儀秀樹という人が東欧を旅した、ドキュメンタリーのような番組がやっていた。東儀秀樹という人の名前は前から知っていたが、TVでじっくりみるのは初めてだった。 知っている人に雰囲気が似てる。自己完結された自分だけの世界を持っているようなところ。とにかくすごく素敵なひとだ
東儀さんは日本を代表する雅楽師なわけだけど、とにかくいろんな楽器を弾く。 ピアノ、ドラム、ギター、バイオリン、チェロ、etc・・そして、本職である和楽器の笙、篳篥、竜笛。笙という楽器は下にお椀のようなものがあって、その上に長短さまざまに17本の竹の管がついている。吹くと一度にいろいろな音階の音がでる。竜笛は横笛で、結構一般的によく見られる楽器。篳篥は縦笛で、アルトサックスのような深い音色がでる。見た感じではあまり長くない(25cmくらいかな)。因みにひちりき、と読む。
番組は、東欧諸国(ドイツ、チェコ、ハンガリー)の歴史をふまえて、東儀さんが自分の音楽との接点を模索していくという感じで進んでいった。 雅楽と東欧、なんて重なるものがないような感じなんだけど、妙に雰囲気的にあってる部分があってすごく興味深かった。
一応、わたしはいま日本語日本文学科というところに在籍する学生なので、和楽器にはとても興味がある。平安文学(文中によく催馬楽なんかが引用されている)と和楽器のつながりなんかを論文にしてもおもしろいな、と考えたり。。
休日でぼんやりしてたアタマが急にフル活動して、何となく有意義な1日になった。小確幸。
雲ひとつない秋晴れの日の夕方、 地域の小学校主催の観月会にいく。 月の動きを観測しながら、天体望遠鏡で クレーターなんかをじっくり見た。
地元の天体観測家のみなさんがいろいろ 星や月のことを教えてくれた。 月は自転しないから、月の裏側を見るには 宇宙船に乗るしか方法がないという事や、 地球が自転する時間はなぜ24時間なのか ということなどなど。。
若い人に混じって、年配の方がいた。 おじいさんと呼んでもおかしくない歳の方だ。 仕事を定年退職してから、星の観測を始められたそうだ。 新しい望遠鏡を買っては、妻に叱られてるんですよ、 なんて言いながら、はははとたのしそうに笑ってた。 素敵なひとだと思った。
私も余生は空気と夜空が綺麗なところで、 星や月を愛でながら過ごしたい、 そう思った、心から。
2001年11月21日(水) |
Era una giornata quella di ieri |
昨日と同じような1日を過ごす。 繰り返される日常。 別にそれを気にやんでいるわけでは ないけれど、昨日と区別がつかないような 今日を過ごしていることに、素直に驚く。 そんな1日だってあるのだ。
蘭の花をガラスのコップにいけてから、 2週間がたとうとしている。 薄い緑がかかった白い蘭。 毎日気付いた時に水をかえたりしているが、 そのほか、特別なことをしているわけではない。 良くもつ花だな、と感心しながらじっと見てみる。
蘭という花は育てるのは結構難しい。 肥料をやり、温度に気を使い、水遣りにも注意を払う。 そのかわり花をさかせることができたら、 長い時間、美しい花を楽しむことができる。 手をかけ、愛情を与えて、やっと花を 咲かせることができるのだ。
今見ている蘭は、2週間前に花の市で買ってきた切花だ。 いつかは張りもつやも無くなって、やがては枯れ果てる のだろうが、今はまだ美しいままの姿を保ち続けている。 根から切り離されて、ただの水道の水につけられてる 蘭を見ていたら、何だか少し可哀相になった。 蘭も蘭なりに一生懸命咲いてるのだと思うと。
ヤンヤン夏の思い出という映画をみた。久々に感動。 間違いなく、今年みた映画のなかで五本の指に入る映画(私にとってはということだけれど)。台北が舞台の映画なんだけど、東京も舞台のひとつになってでてくる。日本人も出演している(イッセー尾形)。
ヤンヤン(8さいの男の子)を含む5人の家族のそれぞれの日常を淡々と綴っている。地味なトーンに包まれてるので、ぱっと見ると物足りなく感じるんだけど、 その5人の家族がふとしたときに発する言葉ひとつひとつがすごく意味深い。映画を見終わったあともその言葉が残像のようにアタマのなかを巡ってた。 ・・・いま、映画の内容について書いてみようとキーボードを叩いていたのだけど 全然うまく書けない。とにかく良い映画なのでいろんな人に見て欲しいと思う。 (でもこんな言い方じゃ、見てみようなんて誰も思ってくれないだろうな。。)
2001年11月08日(木) |
EGO WRAPPIN |
今年は、春のはじめから夏の終わりまで ずっとエゴラッピンにはまっていた。 明けても暮れてもエゴラッピン。 わたしの音楽の好みをすべて兼ね備えたかのような 彼女の歌に、かなり夢中になっていた。 ・・・・が、あまりにも夢中になっていたため 音楽以外のことにうまく集中できなくなっていったことに ある日気がついた。
映画を見る気にもならなかったし(特に面白い映画も 上映してなかったが)本を読むときも、彼女の歌声が 耳についてうまく内容を理解できなくなった。 本に集中しようとすると、頭の中で音楽が鳴り響くのである。 コリンミー、コリンミー。。。。
かなり中毒性のある音楽なのかもしれない。。 それにわたしの性格自体、中毒に陥りやすい傾向を 持っているので余計にそうなったんだと思う。 ある日ぱたっと聴くのをやめた。
今は静かにjazz pianoを聴いている。 バド・パウエルとかセロニアス・モンクだとか。。 耳に心地良く、本読みもはかどる。 でもたまには、音楽一色の気分に浸るのもそう悪くない。 というか、浸らせてくれるほどの吸引力をもった歌手って そうそうあらわれないんだけれど。。
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