誰にも話したことはないのだが、私の身体の一部はギターアンプで出来ている。1972年製のマーシャル50W。テレキャスターを直結すると、ジャキッとエッジの立った、それでいてマイルドに心地よく歪んだ音がする。
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当時の私は、音楽を続けていくにあたって、どうしても付きまとってくる音楽以外の部分にうんざりとしていた。なにもかもが嫌になって、音楽の道を自ら断ってしまった。そして、それを見計らったように、私のギターアンプを売って欲しいという男が現れた。私はさほどためらうでもなく、長年連れ添った相棒をその男に売り払ってしまった。その頃の私はとても貧乏だったので、その金は全て食うために使った。そう、あのギターアンプは私の血となり肉となったのだ。
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誰にも話したことはないのだが、私の身体の一部はギターアンプで出来ている。そしてそれはまだ、私の一部であることを、私は信じている。
なにげなく時計台を見上げると、長針と短針が2つとも重なって、ちょうど真上を指していた。カーステレオのFMラジオからは、正午の時報。
奇跡だ、と思った。というのも、ここの時計台の時計は、時計台の時計というシンボリックな立場にありながら、いつもでたらめな時間を指し示しているからなのだ。もしかしたらコートダジュールかどこかの時間を指していたのかもしれないが、分針も違っていたことから、それも怪しいものだった。
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帰り道、再び時計台を見上げてみると、奇跡の理由はすぐにわかった。時刻は午後8時を少し回っていたのにも関わらず、時計台の針は、相も変わらず12時のままだったのだ。
皮肉なものだが、時計台の時計は、時計として生きることを放棄してはじめて、一日に二度、正確な時間を指し示すことができるようになった。一度たりとも正確な時間を告げたことのない時計だから、ともすればささやかな進歩のようにも思えてしまうけれど、しかしこれは退歩以外のなにものでもないだろう。
また以前のように時を追いかけてほしいと思った。たとえ追いつくことができなくとも。
このところ、トースターの調子がすこぶる悪い。その放つ熱は日々弱まり、今にも息絶えそう。かと思えば今までにないほどの熱量でパンを丸焦げにしてみたり。いずれにせよ、トースターとしての使命を果たせなくなる日は、近い将来、訪れるのであろうことは明白であった。
もちろん私はこうなることを見越して先手を打っておいた。Pascoの超熟トースターのプレゼントに応募しておいたのだ。しかし、今となってはそれが仇となってしまった。というのも、どうやら「近い将来」というのが、思ったよりも早くやってきたようなのだ。
私の今までの人生の経験からして、十中八九、Pascoのトースターは当たらないのだと思う。期待すればしただけ、当たらないのだと思う。しかしそんな私にも当たる可能性がないわけではない。もし万が一、当たるとするならば、それは新しいトースターを購入した後のことであろう。
そんなわけで、落選が決定的になるまでは新しいトースターを買うわけにもいかず、明日からしばらくの間は、生パン生活が続くのだと思う。
シュガウェーブ 卯瑠寅