TOI,TOI,TOI!


2004年05月31日(月) チャリティ


アルテンシュタットのコンサートは、

主催が、
BUND』環境と自然保護団体・アルテンシュタット支部、
そして、アルテンシュタット・自然、鳥類保護団体。

更に、このコンサートはチャリティであった。

コンサートの売上金は、

『ラインマイン人工内耳センター』の子供達のために

使われるということである。


この人工内耳というものは、手術によって植え込んだ機器によって聴覚を取り戻すことができるという。だが手術後すぐに聞こえるわけではなく、リハビリによって少しずつ音が言葉として聞こえるようになる、とか。かなりの時間と労力を要するらしい。子供の場合は本人の意欲、家族の協力が必要とのこと。リハビリセンターの人手は常に不足しているという。


改めてこの演奏会を成功させることができてよかったと思う。引き受けてよかった。
オペラの団員も主催者もみーんな気さくで素敵な人ばかりだった。
ドイツ人のこういう企画をさらっとやるところが好きだ。


2004年05月30日(日) 四季


コンサート会場はアルテンシュタットという小さな町の教会。

フランクフルトから車で数十分、見渡す限り緑、緑、緑!若葉の季節って一年の中でも一番最高!

プログラムは

ヘンデル:オペラ『ロドリーゴ』序曲
モーツァルト:オペラ『魔笛』よりアリア
ハイドン:オラトリオ『四季』よりレチタティーヴォとアリア
ヴィヴァルディ:『四季』

オケはフランクフルトオペラの団員。
始めの3曲は彼らにとっては慣れた分野だ。
アリアを歌った歌手はフランクフルトオペラのバス歌手。

そしてトリに私の四季。
私はほかの曲も全部弾くことになっていたので、できれば先に終わらせたかったんだけど、直前に知ったプログラムを見たら、歌が先。

ゲネプロが終わった後、通奏低音のチェリストに「オケを気にかけることなくお客さんに向かって伸び伸びやっていいぞ」と言われ、合図を出すことばかり頭にあったので楽になった。

本番は本当に心の底から楽しかった。
どうせ10日間しか練習してないし、と開き直っていたので緊張はしなかった。でも集中力はあった。
この曲だけは誰でも知ってると思うけど、知られているだけあってよくできてるなーって思った。名曲っていうのはやっぱりいい曲なんだな、と。
何より、弾いている方も聞いているほうも、楽しい。面白い。

有名な曲っていうのはやっぱりお客さんの受けもよくって、もう地元のお客さんたちは大喜び。立ち上がって拍手してくれた人もいっぱいいた。

10日間で一曲仕上げるなんていうのは初めての体験だったけど、屋根裏に缶詰になって集中してさらったのは本当にいい経験になった。おまけにお客さんにもオケの人たちからも祝福された。やってよかった。
これからも勇気を持って、やれそうなことはなんでもやってみよう、と思った。


2004年05月23日(日) こんなのあり?


あれは5日前の火曜。
レッスンに行くと、私の顔を見るなりフォ先生は言った。

「ヴィヴァルディの四季のソロ、弾いたことある?」

伸「いーえ。ありません」

フォ「やってみる気ない?『すごく急だけど、学生で誰か弾ける人を紹介して欲しい』と電話があったんだ。」

そのコンサートは29日にあるという。あと10日ちょっとしかない。
なぜこんなに急かというと、そのソリストの人が弾けなくなったらしい。理由は飛行機チケットのトラブル(なんだそりゃ)。
電話をかけてきた人というのはフランクフルトオペラ座のチェリスト。彼自身、そのコンサートで弾く人。

考えてみて返事ちょうだい。嫌なら嫌って言っていいから。と言われ、私が練習してきた曲を30分ぐらいレッスンした後、先生はまた言った。
「図書館いってヴィヴァルディ借りてこよう」

帰って一晩考えて、バンベルクの仕事が二日間入っていることと、彼らは一度弾いたことがある人を探しているんであって10日間の付け焼刃が来るぐらいならプログラムを変えるとかほかの手を打つんじゃないか、と思ったので、
次の日の朝先生にそう言った。そして一緒に仕事をしたことあるバロックのスペシャリスト二人の名前を挙げた。

家に帰るとバンベルク響から電話があり、
「今度のプロジェクトは指揮者病気で延期」
とのこと。

私は考えた。これは運命なのかな?
やれってこと?神さま?試練ですか・・・?

というわけで、なんと私はこの話を引き受けたのだこんちきしょー。

すぐにチェリストの人から電話があり、「イヤーうれしいよー。君が引き受けてくれて。ありがとー。練習は前日と当日。場所はアルテンシュタット。車持ってる?」
持ってませーん。
「あ、なら誰かに乗っけてもらえるからだいじょーぶ。フランクフルトから来る人たくさんいるから。あ、ちなみにオケはみんな僕のコレーゲだよー。イヤーほんとによかったー、キミのおかげで助かったよー。じゃー楽しみにしてるよー」

みんなコレーゲ?ってことはオケはみんなオペラの団員=玄人集団。

ひ〜。


2004年05月17日(月) ダンジューロー


15日土曜日、『Sinfonietta Frankfurt』のコンサートがあった。
場所はクロンベルクで、マライケの実家のすぐ近く。
主催はKronberg Academy。

ブッフベルガー指揮、私コンミスで、曲目はモーツァルト『イドメネオ』からの抜粋と、チェロ協奏曲2曲だった。
ソリストはトーマス キャロルとダンジューロー イシザカ。
ふたりとも、本当にすごかった・・・!いい経験させてもらった。

なんとふたりとも、もらった花束を私にくれた!ダンジューローくんは自分の前の人も同じことをしたのを知らなかったのだが、会場はどよっとなって、二人のソリストが偶然同じ行為をしたことに「あら、また!」と喜んでいた。
ちなみに男のソリストがオケの女性に花束を渡すというのは習慣化しているような気がしますが皆様の周りではどうでしょうか。


ダンジューロー(団十郎)君との最初の練習の日に、自分の名前を言ってよろしくと言ったら、「ああ日本人ですかー!」と日本語が返ってきた。
彼は日本人とドイツ人のハーフ。日本語はあまり得意じゃない。←本人談

「今、日本から帰ってきたばっかり。初めて日本のオケと弾いてきた。うれしかった」
と彼はドイツ語で続けた。

ドイツ生まれドイツ育ちで、ドイツ人として育ってきたが、日本でデビューできたことがとてもうれしかった、と彼は言う。自分にも日本人の血が流れているから、だという。

彼はベルリンの大学にまだ学生として在籍している。彼が1998年以来ついている先生が、世界的チェリスト、ボリス ペルガメンシコフ。

ある日私はバンベルク響のチェリスト、マティアスから電話をもらった。
「明日テレビでマーラー指揮者コンクールのこと、ちょっと出るらしいぞ。」
それで私はテレビを見ていた。オケが写ったのはほんの2回、計2秒。なあんだと思っているうちに、同じ番組内でその訃報が流れた。
ボリス ペルガメンシコフ氏死去。享年55歳。

「Kronberg Academyは、正にペルガメンシコフによって支えられていた。彼の人柄に皆助けられていた。彼なしでこれから音楽祭はどうなってしまうのか想像がつかない」とマライケ。

マライケはクロンベルク出身。Kronberg Academyによる音楽祭でしょっちゅう裏方を手伝っていた。譜めくりなんかはしょっちゅう。
だから超大物演奏家をたくさん知っている。もっとも相手にとって見れば『ボランティアの女の子の一人』でしかないのだが。だからペルガメンシコフのことも知っている。どんな人だったか知っている。

ペルガメンシコフは、実はもう長年の間がんと闘っていたという。
あるドイツ語のサイトに、彼が家族に対して言った言葉が載っていた。

「誰も私が壊れていることを知ってはならない」


彼が亡くなった時、弟子のダンジューロー君は日本全国でデビューを飾っていた。4月29日がN響との共演。ペルガメンシコフが亡くなったのは4月30日。その後5月8日は東響との共演で、別の曲での本番だったという。

ダンジューロー君との、シューマンのコンチェルトの本番はものすごく楽しかった。彼からどんどん紡ぎ出される音楽に私も精一杯答えたつもりだ。
彼はアンコールでバッハを弾いた。気持ちのこもった美しいバッハだった。師匠のことを考えているのかな、師匠の教えをたどっているのかな、と思いながら聞いた。


2004年05月11日(火) AlmaとAnita


あれは確かシェーンベルクの練習の日だった。
ブッフベルガーが練習の終わりにやってきて、こう言った。

「アルマ ロゼ を知ってるか?アウシュヴィッツで亡くなったバイオリニストだ。

彼女はアウシュヴィッツの中で女性と女の子だけのオーケストラ
”Maedchenorchster”を作り、そのオケを率いたという人だ。

アルマは強制収容所でも特別扱いを受けた。食事も普通に与えられたし、病気をすれば薬が与えられた。
そうしてオケに入った女の子たちも、ナチスのために演奏をするという使命によってガス室送りから逃れ、生き延びることができた。

そのオーケストラでチェロを弾いていて、戦争が終わるまでアウシュヴィッツで生き延びた人がいる。

その彼女(アニタ ラスカー=ウォルフィシュ)が、うちの学校に来てアルマについて話し、学生がアルマのレパートリー曲の演奏をする。
そういう一夜を企画しているんだけど、そこでツィガーヌを弾く気はあるか?」


まずアウシュビッツの強制収容所の中にオーケストラがあったという事実がどれだけ知られているだろうか。私はまったく知らなかった。

私は当日、自分の演奏前だったために残念ながら彼女の話を聞くことができなかった。
以下はブッフベルガーから事前に渡された資料からの抜粋。(訳が間違ってたらごめんなさい)

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アルマ ロゼは、19世紀末ウィーンで、音楽の分野で活躍した貴族の出身である。
父はウィーンフィルコンマスで、有名なロゼカルテットを率いたアーノルド ロゼ。母は作曲家マーラーの妹(つまりアルマはマーラーの姪)。
アルマが才能に恵まれ、技量の卓越したバイオリニストだったことは不思議でもなんでもない。
彼女のオーケストラ”Wiener(ウィーンの)Walzer(ワルツ)maedln(girls)”はヨーロッパ中を演奏旅行していた。

ユダヤ人であったアルマ ロゼの家族は、ナチスによるオーストリア併合後、ロンドンへ亡命し、弟のアルフレードはアメリカへの亡命を果たした。
アルマは、お金を稼ぐため更にオランダへ渡り演奏活動をしていたが、タイミングが遅くなり、彼女がロンドンに戻ることはできなくなってしまった。

”私が考えるのはいつも家族のことばかり、アルフレード−いったいいつになったら私たちはまた会えるのか・・・−もし私にバイオリンがなかったら、事はとっくにけりがついているのに・・・”
1941年4月22日、彼女はオランダからアメリカの弟への手紙にこう書いている。ちょうどこの時、彼女はオランダから出ることができなくなったことを認識せざるをえなかった。

スイスへの逃亡に失敗、1942年12月ゲシュタポに捕らえられた。その7ヵ月後にはアウシュビッツへ送られ、そこで彼女は1944年4月5日に死ぬ日まで
”Maedchenorchester”(意味;少女達のオーケストラ)を指導、指揮した。

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アルマ ロゼは、ものすごく厳しく誇り高い人だったという。オケの団員に対して、残酷なぐらい厳しく指導した。
「もし演奏が上手くいかなければ、私たち皆でガス室へいきましょう。」

その他無数のユダヤ人が、毎日女子供老人の区別なく大量に殺されている中で、アルマが音楽に対して残酷なぐらい厳しくしていた、それこそが彼女のすごさであったのだ。
その厳しさ、規律があったから少女達は命がけの集中力で音楽に取り組んだ。オケから外されればすぐにでも死が待っていた。音を間違えるなどという明らかなミスに対しては彼女はことさら厳しかったという。

アウシュビッツで運よく生き延びた少女達は、「皆彼女に感謝している。彼女がいなければ絶対に生き延びることはできなかった。」と言っている。

5月10日
・学長挨拶
・出版社挨拶
・マリア ”ポエム”演奏
・演劇専攻の学生とアニタによる、”アルマの人生と彼女の書いた手紙”の朗読
・私”ツィガーヌ”演奏

こんなに超満員の会場でソロを弾いたことは今までに絶対にない。客層は学生だけでなく、正装をした大人の方が多かった。
お客さんは満足してくれ、演奏後は大勢の人に祝福された。よかった。
アニタはテレビにもよく出るらしく、友人の多くは彼女のことを知っていた。実物を見れて感動している人もいた。

アニタの本を出版した出版社の人たちが演奏をほめてくれ、本をプレゼントしてくれた。
「サインもらってらっしゃいよ」
と言われたのでサインをもらった。

アニタは握手してくれ、
「すごくよく弾いたわ」と親指を立ててくれた。
80歳にはとても見えない、たくましい感じの人だった。

(敬称略)

*この本をくれた出版社の人が

「ある日本人の男の人が『日本語に翻訳したい』と言って来て、後日その日本語の本は私たちの手元に送られてきたのだけれど、私たちの誰も内容が正しいかどうか分からないの。あなたいつか見てちょうだいな」

と言われたのが気になっていて検索したら、すぐに出てきた!
原書房
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2004年05月03日(月) 優勝したのは・・


バンベルク響HPの記事
↑べネズエラのグスタヴォ君が優勝しました。わあい!
受賞者コンサートも、本当楽しかった!

勘違いしていて前回の日記にも間違ったことを書いてしまったけど、
絶対最後まで残る、と思ってたヒゲ紳士はブルガリア人でなくてポーランド人。つまり2次でおっこってしまった。
でもその人は現代曲の解釈に対する特別賞をもらっていた。

最終審査はグスタヴォ君とブルガリア人の人。
このブルガリア人の人はイヴォと言って、オーケストラ側には全然人気がなかった。私もダメ。

この人の指揮はまず一言で言うと変わっていた。
ちょっとバレーのような感じ。振り付けのような指揮。
ちなみにこの人は全部暗譜でやった。
現代曲、シューベルトの5番、マーラーの歌曲、そしてマーラーの5番、全て暗譜。このインパクトは確かに強烈だった。

私の想像。この人はきっと家で全て一人で完璧に曲を作り上げてきたんだと思う。鏡の前で何千回と練習したことだろう。
だからProbe(リハ)はProbeではなく、ただただ彼の作り上げてきた作品についての説明を聞かされるだけ。音を出す前から長々と「ああしちゃだめこうしちゃだめ」という説明を聞かされるのには団員はイライラした。まだなにも悪いことしちゃいないのに前もって説教されてるような気持ち。
イメージと違った音が出た場合に「違う」と言うときの彼の顔は露骨に嫌そうだった。

グスタヴォ君はちゃんとProbeをした。バンベルク響の出す音にいちいち「WOW」と感激しながら、でもオーケストラの出した音に対して、基本的なProbeをちゃんとやった。合ってないところが合うようにゆっくり練習したり、管の音程がハモってなければちゃんと指摘したり、と基本中の基本をちゃんとやった。

この1位と2位の差は、Probeができるかどうかで判断したと思う。
グスタヴォ君は、最後の最後までオーケストラの出した音をまとめ上げていく作業をした。オーケストラの出した音を聞いた上で判断し、私たちと一緒になって音楽作りをしたと思う。
一方のイヴォ君はその場でその瞬間に鳴っている音をちゃんと聞いているかどうか怪しかった。彼の音楽は彼の世界で、彼の中で勝手に流れているんじゃないかと思ったりした。

あるチェリストは「将来性という点で、もっといくらでも成長しそうなのはグスタヴォで、イヴォはあの独特のカラーがすでに完成されていると言う点ではすごいけど、この先グンと成長するかと言う点では分からないな」と言っていた。

なーんてえらそうなこと言ってるけど、これって言うほど簡単なことじゃないのは分かっている。だってコンクールだもん。イヴォ君はただ完璧に準備したかっただけなのだ。
日本人の松沼さんは、
「オケがうますぎ!」
と言っていた。たしかに。指揮者コンクールはもっと下手なオケのほうが指揮者としてはやりやすいんだろうな。直すところがいっぱいあって。


  
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