ふつうっぽい日記
もくじ過去未来


2018年04月22日(日) 「愛が生まれた日」

週末は、通信制大学のスクーリングの日であった。
「生涯発達と脳の心理学」の入門編であった。
75分が8コマである。


講義の終わりにレポートを書かねばならないが、それはこういう内容が求められた。
「今回の講義で1番印象に残ったことはどのようなものか。
それはどうしてかを生涯発達の視点から説明して下さい」

私は成人前期のことに触れた。
成人前期とはおよそ20〜30歳ごろである。そして、成人期は30〜65歳頃。
「成人前期は、自我同一性の探索・方向づけという青年期の課題を達成し、他者と親密に関わる行動へと向かう時期である」
エリクソンは「<親密性>対<孤立>の葛藤を解決し課題が達成されたとき得られる活力(基本的強さ)が「愛」(love)であると考えた」

たしかに成人前期は、「葛藤」の時代であった。
わたし個人ではなくて、「家族」という社会においても「葛藤」場面に触れる時代であった。当時、「異様な光景」だと思っていたことも想起された。
ある過去の立ち止まってしまう場面というのが誰にでもあると思う。
フラッシュバックというほどでもないが、当時の光景に思いがけずアクセスしてしまうという時が。執着ともいえるか。


「彼女はどうして、あの時、母とあの歌を歌ったのか」


「脳」は「再処理」されることを待っているともいえる。
その再処理の方法や、きっかけは人それぞれだ。
心理学かもしれないし哲学かもしれないし、宗教的な領域に触れたことがきっかけかもしれない。
起こった出来事や過去に対する脳の再処理。
ある時、ふと繋がる。
腑に落ちる個人的な体験。
その納得の感動のようなものをどうにか共有したいと人はある時強く考えてしまうのかもしれないし、行動を起こしてしまうこともありうる。

その感動に包まれた「今」の共有。世界の切り取り方の納得。
しかし、人によって脳の再処理の方法は違うのだ。
その違いに気づくタイミングや方法もさまざまなのだ。


「偶然は必要があって起こっている(偶然には意味ある)」
という言葉に支えられる時もあるかもしれないし、その言葉にとらわれ過ぎて混乱してしまうこともあるかもしれない。無意味な偶然もあるだろう。

ある現象を理解する方法は、いくつもあるということ。
その方法の探索が人生なのだろう。

「あの歌」には「愛」があったのだ。
基盤となる母性愛の再確認作業だったのだろう。
今となれば、象徴的な光景である。


講義シラバスに書いてあった言葉。
「人は、現在を生きている。しかし、この現在は過去と未来につながった現在である。
今を生きる自分を客観的に知ること(自己を見つめる)は、自己の生涯発達の中で、自己を問い直すことにもつながる」

自分自身を知ること。

今を生きる自分を客観的に知る時の一つの手段が「表現」である。
それを絵にしてみたり、言葉にしてみたり、音楽にしてみたり。
言葉も、書いたり、話したり、演じたり(脚本的表現)。
全ては脳内の作業である。

あなたはどうやって自分を見つめているだろう。
アウトプットしているだろう。


2018年04月17日(火) 自室の書棚より、こんにちは

友人Mから時々言われることがある。

「文章が上手いね」と。

先日、メールを送った時も言われた。
正確にはメールで伝えて来たというのが正しい。
ある受け取る側の感性が言葉に置き換えられたに過ぎないのだと私は考える。

状況描写が何か響くのだろうか、言葉の選び方、噛み砕き方だろうかとふと考え込んでしまった。
本人、まったく文章が上手いとは自覚していない。

自室の書棚のあるコーナー。
筆者と副題は略すが、
「試行錯誤の文章教室」「文章は接続詞で決まる」「文章を書くこころ」「人生という作文」「本の読み方」「父の文章教室」「読書力」「小説教室」「書くことが思いつかない人のための文章教室」「文章の書き方」「「いい文章」ってなんだ?」「人を動かす文章術」「文章は読むだけで上手くなる」「伝える力」「文章修業」「週末作家入門」「大人のための文章教室」「図で考えれば文章がうまくなる」「大人の文章術」「書いて稼ぐ」「語彙力こそが教養である」「論理トレーニング100題」「作家の読書道」
という本が並んでいるのだ。


並んでいるに過ぎない。
そう、まだ読了されてない本たちだったりする。

別の書棚を見てみよう。
ある棚。
「平常心のコツ」「「将来」のヒント」「困難な結婚」「泣いたの、バレた?」「ハロワ!」「オープン・セサミ」「超訳ニーチェの言葉」「こころの天気図」「とにかく散歩いたしましょう」「エンキョリレンアイ」「「人生学」ことはじめ」「香りや見た目で脳を勘違いさせる毎日が楽しくなる応用心理学」「断舎離のすすめ」「家族の練習問題」「ためらいの倫理学」「子どもと悪」「「読み」の整理学」「誰にも書ける一冊の本」「これでわかった「現代思想・哲学」大全」
という本が並んでいる。

これらの本もまだパラ読み状態である。

私の場合は、本を入手する日が読み始める日と同一でないことが多い。
収集することが目的という本もある。
もちろん、目を通すことは最終目的だ。
本は読まれるべき日を待っているのだ。

また、机上にある本を見てみよう。
「人間の関係」「人を動かす対話術」「対話する生と死」「フランス人は10着しか服を持たない」「愛着障害の克服」「統合失調症」「統合失調症をたどる」「子どものための精神医学」「45歳からの心の整理術」「学校教育の限界」「「子なし」のリアル」「キッチン」「「大人のアスペルガー症候群」との接し方」「発達障害は最強の武器である」「信じない人のための宗教講義」
であった。

数日経ったら、状況はまた変わっていると思う。

こんな風なので、すでに持っている本を再び買ってしまうということもまったくない訳ではない。

本の読み方は、ざっくりと3つ。
淡々と読む、線を引きながら読む、そして、ノートにここぞというところを写しながら読む。
そのノートも何冊かあったりする。
机上には「パラ読みメモ〜手放すために」というタイトルをつけたノートがある。
筆者とタイトルを書き、引用のページ数を書き、文章を写すというものだ。
読了した日付も書いていた。
このノートの最終日が2016年10月11日とあるから、2年弱このノートは更新されてないのだけれど。
別のノート「心理・病理」、「哲学・思想」、「カウンセリング・河合隼雄」というのも机上にある。

ここ2年弱は寝る前にチラッと本を読むくらいの生活だった。
しばらくは、時間があると思われるので、多様な読書活動を堪能しようと思う。




2018年04月03日(火) そして、また、かなり久々の更新

桜の季節も間もなく、終わる。
桜が満開の頃、一つのけじめをつけた。
それは、パートを辞めたことだ。
去年の11月頃から心の中で、決めてはいた。
しかし、部長に拝まれて(?)任期を更新してきたのだ。
しかし、(しかしが続くが)もう限界だった。
いや、限界というのは少々変な表現だな。
限界の一歩手前で、精神的に安定して身を引くことができたと思う。
それは、前回の仕事についてもそうだった。
前回は、燃えつき寸前と言えたが。
余力を残して、身を引いた的な。

朝、5時に目覚ましをセットして、7時前には自宅を出るという日は、とても気を張るものだった。
いわゆる「早出」。
そして、まぁ、平たく言えば、「ああいう人は組織に必要ではある」とも言えるが、まぁ、虫の好かない上司的な存在。これもまた、気を張る存在であった。
最終日に近くなってきた頃には、吐き気さえ感じた。
パワハラまではいかないが、「どうしてそう言うかな」的な言葉に動悸さえ感じそうになっていたっけ。

「あなた、辞めてどうするの」というのが、最後の言葉であった。
それも、ちょっとバカにしているような。
でも、気のせいかもしれなかった。
私の。

でもねぇ。
「嫌な人が一人もいない世界は楽しくない」と何かの本に書いてあった。
分かっちゃいるけど、変えられる環境は変えていいのだと考えるようになって、楽にはなれたと思う。
「逃げていると追いかけてくる」という言葉も思い出される。
「ああいう人」「そういう人」というのは、どこの環境にいてもある一定、出没するものなのだろう。
やはり、必要なのは鈍感力か。

とにもかくにも、今はあの環境には今はないのだ。
夢ではまだ仕事をしていて、追い立てられるような感覚で目覚めることがある。
しばらく続くかもしれない。


ーーーー

今年の年賀状に、「支援の仕事に戻りたいです!」と何人かの人に向けて書いていた。
「再チャレンジ」という訳だ。
3月の中旬に募集要項が発信されて、本当に気楽に問い合わせをした。
2校に絞って問い合わせた。
1校目は、すでに人材が決まっていた。
とても正直な教頭さんで、
「KAZUさんのように支援員やりたいですお申し出る人はなかなかいないんですよ。
こちらからどうにか頼み込んでやっと人材を確保する、ような」と。
応募はできなかったが清々しさがあった。
そして、2校目。
これも結局、こちらから辞退することになった。
近所に住まいがある人から優先的に採用するとのこと。
私はその市内には在住していないのだ。
3年ほど前までは住んでいたが。
3月末で辞めたパート先に比べると、断然近いのだ。
でも、そういうところは、分かっちゃもらえない。
5時にアラームを設定する必要もないし、乗り換えだってない。
半分の時間で通勤できるのだ。
「送ってくださった申込書、いかがいたしましょう」と言われ、処分を申し出た。
ちなみにそこは、1名の枠に私含めて5名の応募があったらしい。
4名の人も、何だかの形で選考が必要になるだろう。
しかしである。
昨日の夜。
着信が残っていた。
その学校であった。
申込書は処分されているはずである。
今さら、どうしたというのか?
まぁ、間違いだったのかもしれない。
今日は、雑事をこなしながら、電話も気をつけておこうと思う。
昨日は、留守電を設定していなかったんだよなぁ。
たしかに、こちらから問い合わせて見るということも出来るだろう。
しかし、私はあえて待つのだ。
といっても、長くは待たない。
明日になれば忘れたいと思っている。
想像はした。
私以外の4名の中で行われる選考に私も含めようという方針になったとか。
住まいが遠いというただそれだけで、面接もせずに済ませたことが気がかりになったとか。
はたまた、4名の選考がうまくいかず(親しい4人組か何かで)結局4人とも辞退してしまったとか。
他の学校の教頭に頼まれて、斡旋しようかしらと考えられたとか。
辞退を決めた時、私は他の学校を当たってみます、と言ったのだ。
しかし、結局アクションを起こしてはいないのだ。
しばらくは、休もうとか、少額だろうけど失業給付を受けてもいいかなとかね。

まぁ、支援の仕事を再チャレンジすることは目標ではあったけれど、無理はしない。

今はリフレッシュ期間としようじゃないか。


KAZU |MAIL