ふつうっぽい日記
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2016年09月26日(月) |
今日は蒸し暑いがつらつらと書いてみる |
今日は蒸し暑い。 台風が去ってから、涼しくなったなぁと思っていたが、残暑だろうか、暑い。 扇風機はしばらくまだ使いそうだ。
仕事を辞めて、2ヶ月が経った。 こうあらためてふり返ると、まだ2ヶ月しか経ってないのかぁと思う。 もう、5ヶ月とか半年とか経ったような感覚があるのだ。
というのも、先々週から先週にかけて、妹夫婦が九州へやってきていて、その滞在があっという間であり、関東へ戻った連絡があったその日、「昨日」のことを思い出して、ぽっかりと穴が空いたような感覚だったかと思いきや、その次の日には、「昨日」のことを思い出すものの、ずいぶんと昔の出来事のように思われたからなのだ。 時間の感覚というのは、無責任で、実に不思議なものだ。
季節感というのも境目が曖昧なのに、適当に折り合いをつけていく。
すでに真夏が恋しくてたまらない。 と思ったものの、いやいや、違う、桜の季節が待ち遠しい。 でも、桜の季節は短いのに。 とたんに移りゆくあれやこれやに没入したいだけかもしれない。
日々は瞬間の積み重ね。 9月いっぱいまでは、自由な時間を満喫するぞ!と思っていたのに、なんだかな、という感じだ。 早く3月にならないかなぁ。 そうか、3月になると年を一つまた重ねてしまうのか。 ガーンという感じだ。 でも、それは誰もが同じだ。 22歳から23歳になる、32歳から33歳になるみたいな感じで、43歳から44歳になるに過ぎない。 「過ぎない」か?! 19歳から20歳、29歳から30歳、39歳から40歳への1年よりまだいい?! 40歳になった時は、ちょっぴりショックだったけなぁ。 30歳になった時もそうだったのかなぁ。 20歳になった時はなんだか嬉しかったような気がする。
なんていい加減なんだ……。
そういえば、1ヶ月くらい前に見た夢で、勤め先の人に「カミングアウト」をしていた。 何を言っていたかというと、 「私は、更年期なんです!」と言うのだ。 本当に言いたかったコトは違うのだけれど。 周りはシーンとしていた。 そこで目が覚めたのだった。 更年期。 プレ更年期という枠に入っている私であり、プレ的な洗礼はすでに受けてきている。 自覚的だ。 だから、カミングアウトというのは、自分でも「なぬ?!」という違和感があった。
そんなこと別に言わなくていいのに。 多くの人の通過点なのだから。
通過点。 連続体。
「本当に言いたかったコト」も連続体の一部だ。 だから、「そんなこと」の一部だ。
ーーー
夫の髭剃りの歯が割れた。 割れた部分が肌に当たると痛いらしい。 想像するに痛そうだ。 替え刃を買うのと買い替えをするのとでは、替え刃を買う方が安い(に決まっている)が、あえて、私は聞いてしまったのだった。
「当たり前じゃないか!……。でも、型番って何だろう……。ま、いっか。」 「(本体)持って行けばいいんじゃないの?」
よくある風景である。
ーーー
8月の中旬から朝の散歩をやっているが、実は9月の中旬くらいから理由をつけては休み続けている……。 今朝も休んでしまった。 へこたれ真っ最中だ。 明日こそは、と思う。 そう思って2週間。 本当の本当に、明日こそである。 本当?
ーーー 手で空気を扇ぐ。 一瞬、涼しい。 でも、やっぱり、暑い。 長袖を着たのが間違いだったのか? いやいや。 今日は暑いのだ。 暑い時は、何を着ていても、暑さは感じるものだ。 首にタオルを巻いた。 ちょっと、覚悟が出来てきた。 しばらくは、暑さに対峙できそうだ。 棒アイスをおやつに食べてもよさそうだ。
棒状のアイスを「棒アイス」と私は呼んでいるが。夫は「チューチュー」と呼んでいる。 義母もたしか「チューチュー」と呼んでいた(気がする)
関西にもしばらく帰っていない。 夏は暑すぎてこちらからは重すぎて……。 人を弔うこと。 文化の違い。 空気の違い。 宗教のあれやこれや。
真っ平らに、「連続体」的に考えると、シンプルなのだろうけれど、やはりそこには厳しい空気が、あるのですよ。
その辺は「無」ではなくて、「フリー」でいたい。 そのあたりの意思疎通の厳しさみたいなものを解きほぐす「努力」はやっている。 シンプルに考えれば、「努力」なんかしなくてもいいのかもしれないけれど。 こう、「フリー」であるためには、総括的な知識に似たようなものを取り込みたい衝動みたいなものがこみ上げる感じの。
古くから知る友人は「嗚呼」と分かること。 でも、ただかれらは、聴くことしかできない。 私もそれ以上のことは。
そのあたりのこと。 これがまた、「学校」では教えてくれない。 歴史としては取り込めても。
そのあたりのことが、悶々としているから、関西が重い。 といって、はっきりさせていくのも、重い。 ニュートラルに生きよう。
2016年09月02日(金) |
わたしは、無理をしない |
今週は、朝の散歩を休んでいる。
久々にホルモンバランスがよくなったのだ。
よくなったのなら、朝の散歩はやれるはず?
いや。 ホルモンバランスがよくなったといっても、「腹痛」が同時にやってくるのだから、外部では「痛み」を伴っている。 バランスがよくなっている途上にあるのは、内部での話。
40代になって、あれやこれやとバランスを崩している。 その途上が、その道のりが「老化」なのだろう。
といっても、「老化」は、生まれた時から始まっているのだけれど。
休みながらでも、続けられるのか。 それは、来週からの実践で様子を見てみよう。
気まぐれくらいがちょうど良いのだろう。 きっと。 これは、わたしにとっての未来予測である。 私はいったいどうするだろう。 どうできるだろう。
わたしは何でもお見通し。 わたしは、無理をしない。 わたしは、休む時を知っている。
わたしが動く時は私も動くのだ。
2016年09月01日(木) |
「その時、新聞を上下逆に持っていた」 |
「劇」と言われて、たまに思い出されること。
「お父さんも劇で、お父さんの役をしたことがある。 その時、新聞を上下逆に持っていたよ」
私が演劇部に入ることを父に言った時かなにかに聴いた記憶。 父親役を学生時代の学芸会かなにかでやった時のことを思い出したのかもしれない。
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小学校の時のクラス劇。 当時の担任は、昨年末に亡くなられた。 その劇で、私は浴衣のような着物を着て、「村の子ども達」の一人をやった。 台詞はなかったが、歌を歌っていた。 幕間の繋ぎの部分で、オルガンの演奏に合わせて歌っていたのだ。
「なめた なめた なめたよ 和尚さんが なめたよ あまい おさとうを なめてるよ」
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高校時代の演劇部では、思春期ということもあって、最初から最後までドラマティックであったなぁと思い出される。 調子にのっていた時代ともいえる。 自己中心的真っ盛り。 にもかかわらず、「部長」という役としてもなんとか頑張った。 「次期の部長は欠点(赤点)がない人」という前任者からの条件で、それを満たしたのは私だけだったのだ。 不思議なことに、間もなく私は欠点(赤点)を取ったのだが。 それほどに、演劇に取り憑かれていたのか?と言われると、やはり、そこは自己中心的真っ盛りゆえに、そうとも言えない。 恋愛にも頑張った(?)時期でもあった。 時代が時代だったので、今の時代とは違う「付き合い」方の内容だった。 いろいろと「憧れ」との葛藤で、希薄になった人間関係もあった。
高校演劇部の人たちは結婚式には呼ばなかった。 それにはいくつか理由があった。
一つは「結婚披露宴は、おわかれ会(送別会)なんだよ」と尊敬していた上司が言ったのだ。
たしかに、私は九州から関西へ嫁ぐという移動を伴ったものであったから、「お別れ」をせねばならなかった。高校演劇部の人たちとは、浅くても永く付き合っていたかったのだ。
二つは、数的バランスである。 私にとっては、地元の九州ということで身近な人たちといっても、結構な数がいたのだ。 一方、夫側は関西。 関西から呼ぶのは限られていたし。 10人くらいは、やむなく削らざるをえなかった。
今だったら、バランスはちょっと横に置いて、希望を優先させていたかもしれない。
「その後どうするか」によるのだ。
大学の演劇部の人たちは、呼んだとも言えるが、同時にクラスメイトであった。 先輩や短期大学部の人は呼んでいないので、やはり、「演劇部の人たち」という括りでは、後回しになっていた。 「お別れ」したくない人たちともいえた。
「その後どうするか」によるのだ。
今となり、先輩や短期大学部の人とは深い親交が保たれている。
今だったら、家族だけ、親族だけの式や披露宴にしたかもしれない。(どっちなんだ)
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あちら側に行ってみたり、こちら側に行ってみたり。 人間は常に揺れているのだ。 上に行ったり、下に行ったり。
下に向けて、切り取られることもある。 それがドラマだ。 「劇」だ。
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