ふつうっぽい日記
もくじ過去未来


2013年04月24日(水) ざっくりな話

見通しが持てないということは、疲れるのだということを実感。

ざっくり9時から始まる支援。

ざっくり週2回程度ということもあって、時間割など学習活動の詳細情報が入念に準備されないということに関して、今となっては不満を抱えるということはほとんどない。

かつては、大いに不満であり、それを解消すべく鼻息荒く厚かましい行動に出るということもあった。それは、偏った先入観や理想や期待があったからこそである。
先入観や理想や期待を持つことそれ自体は、悪いことではないし、むしろ当たり前なことである。
その鼻息の荒さに通行人的な人たちは「さすがだ」とか「偉い」とか「素晴らしい」「スゴイ」「やる気に満ちあふれている」と言いたくなるのだろう。不満や批判のパワーというのはスゴイのだ。そう考えると、「たまたま」「○○さんの紹介で(しぶしぶ)」という受け身的な状況がきっかけにもかかわらず、たまたま関わることになった人たちからのメッセージを受け取り、自分自身を広げる活動として意味づけ、続けているという姿勢はスゴイ。

今さらだが、個人的に「スゴイ」とカタカナ表記する表現は好まない。
あえて、好まない言葉を使うことで、「わたしにとって好まない状況」をやり過ごせるようにここは努力してみよう。

話を戻そう。
教室に入ると、体操服に着替え済みの子等。

??
体育、あったっけ?

時間割は、職員室の入り口に一斉に貼られているというのがふつうなのか、たまたまの縁で出向く施設はそのようなシステムにある。
そう、時間割を知りたければ、ここを見ればよいのである。(ということに、意識的に活用すべきものとして、気付くに至るまで時間を要した。今となっては。)

その日一日内の時間割変更というのはあり得ることは経験済みだが、聞くと(子どもから)「○曜日の体育が●曜日に変更になったから、○曜日が××になって体育はないの」とのこと。 (複雑な公式!)
状況は理解したが、前方黒板の時間割表示は、「××」のままである。
もはや、その前方の時間割の情報の価値、主体的に行動を促す機能は失われている!

しかも(←被害者目線である。)、「算数」は、このところの「ふつう」は、習熟度別に分けられた特別クラス編成で活動するのであるが、この日は所属学級で「テスト」しかも算数一色ではなく、漢字のミニテストから始まり、なんと2枚の算数のテストをこなさねばならなかったのだ!

ざっくりとした流れでは、「算数」の時間は、
漢字のミニテスト→1枚目の算数テスト→2枚目の算数テスト
ではあるが、詳細に状況を説明すると、テストは一気に配布されるのではなくて、終わったら前方にいる教師に提出して、次のテストを受け取るというものだ。
このように状況を書けるのは、一連の「算数」の時間を終えたからこそである。
つまり、支援者としても見通しが持てていなかったのだ!
思い込み、先入観では、「テスト」は1枚である。

この日の「ふつう」や「いつも」とは違う、「算数」の時間が始まった。
気ぜわしい。

出た!

「静かにしなさい!」
「静かにできない人は廊下に出しますよ!」



ちょいと待っておくんなまし。

そうなっちゃう「結果」にはその背後に必ず原因があるのだ!

ここでPちゃんに視点を置こう。
時間を巻き戻す。
Pちゃんは「算数」の時間、所属学級でテストのひとときがあるということがすぐには意味が分からなかった。つまり、「ふつう」の「算数」のように、教室から移動して、「いつもの」教室に向かった。

わたしは「テスト」とはなんとなく空気的、雰囲気的に把握していたが、その「テスト」が移動教室先で実施される(配慮された)可能性もあると思い、Pちゃんの行動を信じて、後を追った。

一番乗りのPちゃんである。
当たり前だ。

「教室でテストがあるんだよ」と解説して、一緒に戻る。

↑と、この1行では時間的な感覚がはぶかれているが、5分程度、
Pちゃんのすべき次なる行動(つまり教室に戻ってテストを受ける)を受容するための「儀式」的なひとときを見守った。
今となれば、Pちゃんの元へ即座に担任が鼻息荒く、駆けつけなくてよかったと思った。
その鼻息には不満や批判が含まれている可能性が高いからである。
大人同士のそういった鼻息は、適当に流すことができるが、対子ども、しかも、不安定な傾向が共通理解されている子には爆風になるのである。


さて、教室に戻ると、すでに机の上に漢字のミニテストが置かれていた。

「分からん!」とP氏。

6,7分程度、試行錯誤の声かけをする支援者。

やがて、担任が
「漢字は難しいかもしれないから、これを」と、漢字ミニテストは未記入のまま回収され、算数テストを渡された。(2枚算数テストがあるとは知らず!)

周りの子等を見ると、

漢字のミニテスト→1枚目の算数テスト→2枚目の算数テスト
(この時点では、漢字テスト、算数テスト)

という流れをこなしたと思われる子は、読書タイムを満喫していた。
Pちゃんも読書タイムは大好きな時間である。

算数テストを受けるP氏。
しかしすでにやる気は9割消耗していた。(と支援者には感じられた)
算数移動教室へ行き、儀式をして、戻ってきて、漢字テストをするかと思いきや、算数テストを受けるということの納得、理解のエネルギー。

自分自身の守り、回避したいという気持ちが外見的身体症状として表現され、眠気がP氏を囲む。

「給食を食べた後じゃないのに眠たくなるなんてことはないですよ!」

ちょっと、タンマ!(タイム)
はい、担任役さ〜ん、カット!(映画監督的に)


裏面の文章問題。
P氏によると、これまで裏面の問題を解いた経験がないらしい。
それで認められてきたのだから、やらなくていいのだ、と思い込まれていた。
「まぁまぁ、そう言わずにやってみないかぃ?」と無責任に促す支援者。
「1個10円のあめ玉を……」

P氏は眠気の将軍と対峙することを優先にする。
P氏の眠気の将軍と自分(わたし)の眠気の将軍を比べることは意味がない。

さぁて。
支援者は支援者自分自身と向き合う。

女優の「水野美紀」さんの中には「おっさん」が入っているらしい。
「おっさん」が「水野美紀」さんを操縦席からコントロールしているらしい。
(今年の3月30日にエッセイ本が出ていますよ)

わたしの中の操縦士(一名なのか複数なのかは謎)が話し合い。

協議の結果、セリフが決まった。

「Pさんは、あめ玉好きかぃ?」

P氏は
「大嫌い!」と主張。

支援者操縦士はひるまない。

「じゃぁ、チョコレートは好きかぃ?」

「好きだけど。」

「何味が好き?イチゴかい?」

「バニラとかキャラメル味とかふつうのチョコレートもいい」





そこへもって、

「1個10円のチョコレートを……」と問題を読み替えてやる。
問題は「8個買ったらいくらになりますか」的だった。
よって、2個の場合の式と答えを披露した。

すると、

「なーんだ!じゃぁ、こういうこと?!」

と、式と答えを書き込んだ。
答えも合っていた!

全問回答することはできなかったが、なんとかテストを提出。
この時、P氏は周りの様子を見て、これ(算数テスト)が終われば読書ができると思い込んでいた。
わたしもそうであった。

ところが……
2枚目の算数のテストを渡された。 (2枚あったんかい!)
このときになって、わたしは算数テストは2枚実施されるということを知ったのだった。

P氏は担任に
「本が読みたいです」と伝えた。
すると
「本を読んでいる人たちは、漢字テストと算数2枚のテストがもう終わったからですよ!」
と返す。

P氏には漢字テストを免除(?)されてしまったばつの悪さが浮上したことだろう。
強引にセリフにするのならば
「どうせ2枚目の算数テストをやっても漢字テストをしていないから、本なんか読めないんだ。」

複雑な心情を抱えながらもP氏は2枚目の算数のテストを時間を許す限り受けたのだった。


さて、「社会」の時間の話。
多くの子達は(さほど魅力的ではない学習活動に)上手に気持ちを分散させることに成功しており、かつ目立つ行動をしないというコントロールができていた。

P氏はそのあたりが不器用である。
行動面で結果として目立ってしまう。
目立つ行動をするP氏という暗黙の了解が、周りの子の目立つ行動を引き出すという構図であり、P氏の行動は叱責を伴う指導の対象となるが、周りの子の行動は指導の対象からあっさり排除される。
排除されるというか注意がそれるというか。周りの子の行動だって、P氏の行動がなければ、叱責を伴う指導の対象となり得るのだ。

支援者は、P氏のやる気(見た目的に授業に参加している様に表現できる力)をなんとか引き出そうとあれやこれや試行錯誤する。
見た目的に、
「P氏のやるべきことを支援者が代行している。P氏の甘えに支援者が応じている。」というように映る。

そこに至るまでの、あれやこれやの試行錯誤の過程、エピソードは担任には意識されない。

淡々と支援者が支援対象者の行動を代行しているわけではないのだ!

そこには「関係性」が構築されようとしている営みがある。
お互いの存在を認めての、対話、コミュニケーションあっての結果「行動の代行」なのである。この結果は積み重ねられる。
「自立」を目指して。

今の時点では「自立」はざっくりを避けられない。
なぜならば、担任と支援対象者の人間関係の構築具合が支援者にはよく分からないからである。


ここへきて、わたしはざっくりと気付く。
「関係性の構築」の場にいる、自分自身(わたし)、操縦者をもひっくるめたわたし自身が好きなのだろうと。

「関係性の構築」の場は、いくつも考えられる。
「わたしにとって好まない状況」と思い込んでいる場も含まれる。

好む場、好まない場とはいったい何なのか。
問いかけは続く。
明日をその問いかけの答えを見いだす日とは決めないけれど。

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駐車場にて自家用車のパンクを発見した。
夫に写メ。
実物を目の当たりにするまで夫は想像するしかないのでショックの度合いは大きいと察する。
さて、課題を抱える自家用車はエコ仕様だからかスペアタイヤは装備されていない。
応急処置用のパンク修理キットは装備されているようだが(確認はしていない)それをパンクしたタイヤに使った場合、そのタイヤは使えないらしい。
もしかすると、修理可能な状況かもしれない。
そうなると応急処置用のキットを使うのはなんだかためらう。
さらに調べてみると、会費を払っているロードサービス内容としてパンク応急処置というのがあった。しかも無料。状況によっては処置が出来ないということもありうるかもしれないが、その場合は、ディーラーまで牽引してもらうという方法もある。
ジャッキアップしてパンクしたタイヤを外して、タイヤのみ持ち込むということも考えてみた。(その外したタイヤをどうやって運搬するか?タクシー?)
実態を実際に近くで観察できたわたしだからこそ、ショックに浸るのは短時間であり、それを補うというか癒すために、さまざまな解決法をあれやこれやと考えることができたのだろうと思われる。

第三者を通して知ることになってしまった事柄は、実際にその目で確認するまではその想像の奥行きは広がり続けるものである。しかも、よりネガティブな方向である。
また、別々の人がある共通した現象を目撃しても、ショックの度合いはそれぞれである。
多様なトラブルを乗り越えてきた人にとっては、
「なんだ、そんなこと」なんてどうってことない出来事になるだろうし、
「こんなの初めてだ!」という人にとっては、過剰な苦しみや怒りが引き出されるかもしれない。

状況を冷静に見つめて、適度に視点を変えながら気持ちを分散させて広げていくことの大切さのようなことを学んだ今日である。





2013年04月12日(金) 熱さと甘さの間で紡がれた時間

「私は、熱いコーヒーが大好きで……」と、彼女は言った。
そして、彼女は自宅のコーヒーメーカーの温度調整の仕組みについて触れて、
「だから、熱いうちに早く飲んでください!」と私に勧めてきた。

彼女が我が家へ来たのはそう昔の話ではない。
その日は、なんだか眠気が漂っていて、わたしは二人分のコーヒーを立てながらも一足先に彼女の感覚でいう熱いコーヒー、しかも、ミルクでぬるめに仕上げたものをすでに飲み始めていたのだった。

彼女は思ったことだろう。
熱いコーヒーが私は飲みたいと。

わたしにとってはコーヒーは熱くてもぬるくてもどうってことがない飲み物だ。
しかし、一方でこだわって飲む人に憧れたりもする。

熱いコーヒーから始まったそのひとときは、お茶、甘めのコーヒーへと進んだ。

その間、3時間半くらい。
その日は午後から天気がよくなり、結構気持ちも開放感に溢れて、結果としてパンドラの箱をお互いに開けたようなところがあったとも思える。

カフェインの過剰摂取だからか、たんに眠るタイミングにのれなかったからか、昨晩は浅い眠りだった。実際、3時半くらいに起き上がって、胃薬を飲んだ。
さらに思い出せば、数日前、今朝以上にほとんど眠れていない一日があり、翌日はだるい一日を過ごした。
その日に比べると、昨日のそれはまだ眠りは実行できていた。
眠れていなかった一日の、その翌日はとても深いに眠りにつけた。

そう考えると、昨晩の浅い眠りの方が微妙に辛いのかなとも思えてくる。
そこそこだるいが、そこそこ動けるという中途半端な感覚だからだろう。

これはある種の「ボーダー」ともいえる。
病気とか障害ではないものの気がかりなラインにいるそれ。

今、少し睡魔がぼっそりと来た。
まだらな睡眠なのでまだらな眠気が引き出されているのか。
ぞわんぞわんとする耳の奥でのあくびの感覚。
鼻が膨らむ。
ラジオの声は聞こえるが耳の中には入ってこない。


そして、じわりじわりと少しずつ昨日の余韻の言葉がめぐる。

「ある意味、燃え尽きていたのかもしれない。
自分を励ますように、まったく同じ今日はない。
明日は明日の風が吹く」


熱さと甘さで紡がれた時間。
過去のあれやこれやを再構成する言葉の噴出。

そういえば、ここ1,2週間の間で「再構成」というキーワードを異なる本やらラジオだったかで結構拾い上げた。
漢字で「再構成」と書くと、元の何かがあって、違う言葉で置き換える作業のような感じで、元の何かがあるのだから、一から何かを創造するエネルギーは必要としないから、軽い感じで進められるようなイメージを持ってしまう。

しかし、だ。

「元の何か」というのは、過去の産物であり、その過去と向き合うというエネルギーが必要になる。

これは、結構、しんどい作業じゃないか。

そうか。そうか。
それで、疲れたのだ。

それらの「過去」のあれやこれやと再び、三度、もっともっとおそらく向き合っていくと思うと、ぎょっとして、へこたれて、吐きそうにもなる。
が、ここは冷静に巡らせようじゃないか。

「過去」のあれやこれや。
実際は再構成をすでに何度も何度も人を変え、こなしてきているじゃないか。

もっともっと、巡らせてみよう。
再構成を何度もやってきたというけれど、そのいくつかは同じ様などちらかというとペラッとしたような再構成と名付けるにはもったいないようなものだったのかもしれない。

もっともっと、巡らせてみよう。
再構成と名付けるにはもったいないようなものだった時の後味。
味が残るほどのものでもなかったような気がする。
咀嚼できてないような気もする。

もっともっと、巡らせてみよう。
心当たりのある、身近な再構成の後味。
「元の何か」の後味に近いのではないか。
近いけれども、追体験を出来ている感じの。

で、今のわたしはどうそれを収められているのか。

今後も再構成をするのかもしれないけれど、エネルギーはそんなに消耗せずに済むかもしれない。
たぶん、そうだろう。
そんな気がする。

なんだか、もんやりしてきたものがはっきりともんやりしてきた。
ラジオの声も聴き取れて、入力作業を進めながらも、適度に相づちをうったり笑ったりしている「わたし」がいた。

15分間、食後にまどろむのは健康に、特に心の健康にいいらしい。
そして、近頃は五月病ではなくて四月病と呼ばれて、新しい出逢い、人間関係に気を張り、エネルギーが消耗されると言われているらしい。

これもたった今、ラジオから聴き取った内容だ。

ああそうか。
熱いコーヒーが好きな彼女は4月、人間関係や場に適応しようとしている途上だ。
そして、わたしは実質、2ヶ月間は休業。
期待や不安の入り交じったエネルギーも、わたしの「再構成」のエネルギーにブレンドされたのだろう。だから、「再構成」のエネルギーにしてはなんだかちょっぴり重く感じたのかもしれない。

再構成と名付けるにはもったいないようなものだった時の後味のことまで、引っ張り出したのだろう。

エネルギーにはストレスも含まれる。
人の話を聴く、しかも自分自身の話も連想的に語るという場。
しかも、「枠」のない、その紡がれる時間には、フレッシュな何かがいろいろと行き交う。


「なんだか、バーッとしゃべっちゃったね。
お互いにね。」と言って、笑いあった。
笑い合えた。

だから、それでOKなのだ。
その時間そのものは、プラスもマイナスも交えながら、意味のあるものだったのだ。
今日という日が、心や精神とかそういった深みに影響するような領域ではなくて、あくまでもエネルギーを調整する「身体」の領域のバランスを取るという動きをする日なのだ。
身体のバランスを取るのは、横になることかもしれないし、適度に動くことかもしれないし、太陽に当たることなのかもしれない。そこのところがまた曖昧であるところが、実にうまく出来ている仕組みなのだろう。

さて、15分間のまどろみを楽しもう。


2013年04月11日(木) 希望の風、復活の風、探求はつづく

昨日の夕方、ばたばたとまた風が吹いた。

《風1》
本年度の支援員登録校の同僚支援員さんから
「明日午後、我が家でお茶しませんか?」というお誘い。
明日というのは今日なのだが、入学式であり、支援対象児童は登校しないため管理職(から勤務不要の指示があったとのこと。
OKの返事。

《風2》
我が夫より
「体調が復活したので復活祭をしてもいいけど〜」という連絡が入る。
要は、夜ご飯の場所について居酒屋ってのはどうですか的な提案ということだ。
こういうことは、我が家では珍しいことではないのだ。
週の初め、春の陽気とは少し遠い寒さもあって、少々体調がよろしくなかったのである。

《風3》
去年、11月〜12月生活支援ボランティアとして活動した施設の管理職から自宅に電話が入った。
「本年度も支援員の空きの期間に、ボランティアに入っていただけないでしょうか?」という打診。
年度が移ってのこういった打診は初めての経験である。
同じ年度内に「我が校の支援員として登録というのは可能でしょうか」的なお声かけの経験はあったりする。
補足すると、生活支援ボランティアというのは平成19年度に始まった事業で、これまで(つまり前年度まで)、夏休みの期間に研修を受けてボランティアとして登録し、派遣を希望する施設から支援対象者のカルテからボランティアの都合や希望に応じて選び、後日その施設から詳細がボランティアに伝えられるという流れであり、実際に活動が始まるのは2学期からだった。
本年度もてっきりそういう流れなのだと思い込んでいた。

思い込みというのは修正されていくことが重要である。
まぁ、思い込みというのはそういう性質なのかもしれない。

電話をくださった管理職に
「へぇ〜本年度は1学期からなんですねぇ」と素直に返すと
「昨日、([センター]から)書類が来て、人材に心当たりがあるなら声をかけておくようにとのことだったので」と、管理職さんも素直に状況を語ってくださり。
後日、また連絡をするとのこと。
チラッと聞いたところでは、支援対象者は去年と同一だということ。
継続支援である。
活動開始当初、まだ「初の試み」という段階において、わたしの中では継続支援は当たり前だという思い込みがあった。小学校→中学校→高校…と、わたしの中では継続して支え続けるのだという夢が広がっていたくらいだった。
しかし、その思い込みは修正に修正され縮小されていき、当たり前ではないのだ……という思い込みとして上書きされてきた。
当初の思い込みが、復活し、肯定されていっているようなこの感覚。


声は聞き届けられたのか?という希望。


これらの制度の変容(?)は、[センター]の長が替わったからからこそということではないかもしれないけれど、頼もしく制度が変容、成長している波に自分自身が巻き込まれている感じが、わたしにとってはワクワクだ。

わたしのやりたいこと(やりたかったこと)が、たまたま、居住している自治体において、パートタイムやボランティアという形態であるに過ぎない。
例えば、そのやりたいことをわたしの感覚で、想像で、研ぎ澄ませていくと、どうも小学校教師ではなさそうだ。
自分自身を知る探求はまだまだつづく。
それが人生なのだろう。
たぶん。


2013年04月02日(火) 新入社員の様子から巡ったこと

朝、つけているテレビでいろいろな新入社員の様子が映し出されていた。
入社式やら新人研修的な映像もあった。(研修じゃなくて入社式の一コマだったかもしれないけれど)

入社式で新社会人の親からの手紙を、社長だか管理職の方だかがサプライズ企画で読み上げていた。
一番、泣いていたのは社長(代表取締役)だった。

また別の会社。
1ダースのプラスティック箱入り真新しい自社ブランド鉛筆と小刀が新入社員の前に置かれる。
真新しい削られていない鉛筆は新入社員と重なる。
鉛筆を削るように指示され……
奮闘する新入社員達。
その手元は危なっかしい。
1本削った後、先輩がコツを披露する。
手元のアップの映像が大きなスクリーンに映し出される。
再チャレンジする新入社員たち。
先輩のアドバイスによって、2本目は1本目よりも上手に削れていた。
30分でこの成長。

ーーー

わたしが小学生だった頃、教室にOHP(オーバーヘッドプロジェクター)設備環境があった。スクリーンが下手側(教師用机や棚がある前方黒板に向かって左側)にあって、紐を引っ張ればスクリーンが降りてくる。
トラペンアップという機器で厚手のサランラップみたいなフィルターにピカッとスクリーンに映したいものをコピーをしてそれをOHPの上に置くと、スクリーンに映し出されて。
社会や理科の調べ学習、算数なんかの発表の時に使われていた。
ノートの自分の字がそのままスクリーンに映し出されるのはなんだか恥ずかしかったものの、注目され認められる機会になり、OHP発表に選ばれることを目標に頑張っていたものだ。


いつの間にかそういった機器は姿を消していた。

ーーーーー

鉛筆を削ること。
学校活動の現場での図工の時間、落ち着きのないとされる子のカッターナイフ「手遊び」。
この時の手遊びが、10年以上の時を経て、秀でたスキルとして注目されて、認められるということもありうる。
スキル獲得、技術獲得という視点での「手遊び」支援。

わたしは真面目にふざける大人でありたいと思った。


ーーーーー

今週金曜日、同一校に支援員登録されてあるAさんと語る時間を計画した。
そのきっかけはAさんからのメールで
「特別支援学級にこだわっているのは何か理由があるのでしょうか?
目標があっての支援員だったりするのですか?
私なんて……」
とあったからだ。
メールでちょちょっと文字で返信するには高度なセンスが必要だ。
文字化の過程でいろいろと別のことも連鎖的に浮上してしまうので、結果としてちょっとの文字ではすまなくなる。
この日記がそうであるように。

「特別支援教育支援員」という呼び名が、「特別支援」という名がついているから特別支援学級のためのサポート人材という思い込みがあるのだろう。
わたしは特別支援学級というのは、指導者には基本的に専門的なスキルを必要とされるのだと思い込んでいるところあり、指導者(教員)の資格は特別支援学校の教員免許所持者だとも思い込んできた。
教員人事を経験された職員から「昔は通常学級で指導力が発揮できない教員に、負担の少ないとされた少人数の支援学級の担任をやらせるような因習」があったと聞き、さらに、その教員人事職員は教員採用にあたり、支援学級の担任は支援学校教員免許者を原則として選考してきたと言ってあった。よって、わたしの中ではそれが当たり前だと思っていた。
そうでなくても、教育実習時代、支援学級の教員は通常学級とは違う指導法を実践してある印象があり、その指導法を学ぶためには「障害児教育専攻」みたいな小学校教員養成コースとは別の教員養成学科に所属し修了することが必要なのだと区別していた。
わたしはそっち(障害児教育)ではないのだから、と。(大学時代)

教員免許に基づかない立場で教育現場で障害児をサポートするという経験で、
「わたしはそっち(障害児教育)ではないのだから」と、思い込んでいたかつてのわたしと再会することになった。
「(そっちは)大変でしょう」という声を浴びた。
同じ現場を共有する、子どもを育成する者としての視点はないのか!?と呆れると同時に、
「わたしは教員でもないのにボランティアとして関わってるんだぞ!」という気持ちも通過した。
ボランティアをするということと、障害児をサポートするということの結びつきを最近まで、当たり前のように結びつけていたことに気付かされた。

思い込みというのは必ずある。
同じ職種を選ぶ人が同じ思い込みのもとに集まっているということはない。

思い込みを修正して再構成していくという流れは、いろいろな状況にあてはまる。
「家族」というのもそうだ。
「病気」や「障がい」というのも。
再構成する意気込みの度合いの違いが個性や「らしさ」と言われることなのかもしれない。
全ての人間が違いがあって当たり前な意識や感覚を持っているのならば、個性や「らしさ」なんてものは意識されないものなのかもしれない。


ーーーー
(厚生労働省の政府広報より:新聞記載事項)

「発達障害」を知ってください
4月2日は、国連が定めた「世界自閉症啓発デー」、また、4月2日〜8日は「発達障害啓発週間」です。
発達障害は、脳機能の発達に関係する障害です。
コミュニケーションが苦手など、周りから理解されにくい障害ですが、私たち一人ひとりの理解が、社会での自立を助けます。


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