ふつうっぽい日記
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2004年07月29日(木) |
風のいたずら(←言い訳?!) |
今日は、午前中事務の仕事の日であったが、急に休みとなった。 ココロの余裕を正直感じた(笑)
朝から、我が家に通る風は強く、また心地よい。 昨日の夕方に干した洗濯物は、乾いていたので、飛ばない内に撤収。 台風10号の接近の影響か、夕方の今になっても、風は強い。 勝手口も風通しのために開けていたのだけど、勝手に閉まっていた。
朝、7時半くらいに休みの連絡がメールで来た。 8時半くらいまで、テレビを見たり、携帯メールを打ったりしてほののんと過ごした(9時くらいまでかな?)
和室に、畳まれた洗濯物が盛り上がっていたので、それらを持ち、収納の設備のある寝室へ。 これまた寝室が風通しがよくて、最近二度寝を思いとどまるのは、風が抜けず陽が当たっているからなのであるが、今日はなんというか素直な風というかラッキーな風というか… 「ちょっとだけね…」と横になると、思いのほか時間が経過していた。 昨日、福岡に送った荷物が無事に届いたよ!という報告のメール音で、ハッと身体を起こしたのだった。 たしか、一回、何時だろう?と思って目を開けたら、12時20分だった。 その時に起きても、結構遅い時間なのに、心地よい風に身を任せていたら、14時近くになっていた。 何時ごろ、「ちょっとだけね…」と横になったのかは不明。 これぞ爆睡というのだろう。
ただいま、17時前。 18時くらいに恒例の散歩(本屋)に出かける。 買い物も帰りに済ませる。 さらに、3件ほど近所へ配達と集金。
今晩は、送別会があるとかで主人は夕食は要らないとのことだ。 お迎えコースになるのか?と尋ねると、微妙に笑っていた。 明日は私は少し早起きして、友達と奈良散策だ。 主人は遅い出勤でいいらしく、会議のみの日で、場所も会社内ではないところであり、会議弁当が出て、それが終わると「方針確認会」という名の飲み会があるようなことを言っていた。(というか、会議場所案内のメールの打ち出しを見たんだ)
台風の動きはどうなるんだろう。 今日から2泊で福岡から東京へ家族旅行に出た友人も、無事に戻れるのか?と少し心配している。 差し支えない規模で、適度に雨が降り、「台風は夏の風物詩よね〜」と気軽に言い流せるようなものであることを願う。
今、私はというと、自室で、エアコンに当たりながら…という充実した環境ではなく、タンクトップに首タオル、傍らに扇風機だ。エアコンのある部屋は寝室とリビング。リビングは西日がスゴイ!半端じゃない。 でも、風は各部屋適度に抜ける。さっきなんかは、風が強すぎて、ドアがバターンと2箇所で勝手に閉まった。 私の部屋は北側にベランダがある。日差しはそんなに強くない。 寝室は、東に窓とやはり北側にベランダがある。寝室のベランダと私の部屋のベランダはつながっている。 さらに言うと、リビングは西側に広いベランダがあり、北側に出窓、カウンターキッチンには北側に勝手口が存在する。 私の部屋のリビング斜め前が玄関であり、玄関の逆斜め前が洗面所&浴室。洗面所前がトイレ。 洗面所の洗濯機が置いてあるところは北側であり、小窓がある。 浴室も北側に小窓がある。 つまり、リビングの西側の広めのベランダと北側のやや狭めのベランダはつながっている。Lの字型になっているのだ。 唯一、リビングと逆側東側の部屋(夫の部屋)がベランダはあるが、つながっておらず、干渉されにくいエリアだ。 しかし、夫の部屋のベランダは、別の階の部屋の玄関が見えたりする。非常階段も見える。よって、ベランダで妙なこと(どんなことだよ…)はできにくい。
そうそう、リビングの西側の広めのベランダに、レジャーテーブルを置いている。喫煙席である。冬でも夏でもそこが喫煙席。 冬の喫煙者は防寒着は必需品だ。 夏の喫煙者はほどよく日が落ちるまで待っていただくか、暑さを乗り越えて喫煙していただくほかない。 強風の時は、レジャーテーブルも、風で移動してしまう。さすがに、台風だとか強風警報が出ていたら畳む。 7階部分なので、蚊はほとんど見ない。(連れて帰ってきたら別だ) カナブンや蝉、カメムシ、蛾は見る。 先週末は、蝉の最後の(?)羽音で目が覚めた。速いバタバタバタの音。 魚釣りのリールの音にも聴こえたが違った。 ちゃんと亡き骸がそこにあった。 まだ処分はしていない。 西側のリビングは夜そこで過ごすことが多いので、虫が集まってきやすい。 カメムシは出現率が高い。 網戸にスプレーするだけで虫を寄せ付けないというスプレーも定期的に噴霧している。結構、効果がある。でも、後始末がちょっとめんどうだけど。 知らず知らずに洗濯物を干しているときに、スリッパでつぶしてしまったら青臭い匂いがしばらく漂う。 そして、たまに、洗濯物にひっつき、畳まれる時も気づかず、タンスに収納され、さてこれを着るかというときになってその存在を確信するというケースも珍しくない。
さて、ぼちぼち別の部屋に移動するか…
私は親ではないが、子である(当たり前)
親子の姿ですごいなぁと思うことがある。 自営業をしてたりするのを、その継ぐ子どもたち。 また、親が医者で、その姿をみて、僕も私もなるという姿。
「平凡な家庭」というと、父親が会社員で、母親は専業主婦かパート。そして、2人くらいの子どもの姿。 父親が会社員だから、その姿をみて、僕も私もっていうのはあまりないかもしれない。結果として、とりあえずとしてそうなっているとしても。 ドラマの見すぎかもしれないが、「お父さんみたいなサラリーマンにだけはなりたくない」とか「ただのOLじゃつまんない」とかの声の方が“ふつう”に感じたりする。
働き始めてすぐの頃、専業主婦だった母親に「お母さんは働いたことがないから、そんなことがいえるの!」なんて何かの時に言った記憶がある。 それに対する母の反応は「お母さんだって、結婚する前は会社勤めしてたのよー!」と熱くなっていた。 「そうだったんだ…」私は純粋で、母の結婚する前の仕事とか、そういうのはまったく想像できてなかった。 それがあって母の若き日のアルバムを盗み見したか、母が見せてくれたのかは忘れたが、会社勤め時代の写真を見たりして、「本当に、そうだったんだー」と記憶に刻んだものだった。
そう考えると、結構小さい頃から保育園に預けられたという友達などは、働く親の姿を小さな頃から刻んでいるわけだから、職業に対する執着や夢は、そうでない人間よりも具体的なのかもしれない。
いつかの日記にも触れたと思うけど、「薬剤師になりたいのー」という友達にはかなり尊敬をもった。そのとき、薬剤師がどういう仕事であるかなんてほとんど知らなかったから。「薬屋のおばちゃん」は、ちゃんと知識、資格を持った薬剤師なのだ。
とはいえ、私にもある職業への夢は持っていた。動機はおかしいけど。 「お母さんは、長崎大学の教育学部を受験したけど、ダメだったの。まぁ、家が貧乏だったからね。小学校の先生になりたかったのね。」と。 それは私が小学校高学年くらいの時に聞いたような記憶だ。 それまでは、ピアノのレッスンのひとときが苦痛だったくせに「ピアノの先生になりたい」とか「ピアニストになりたい」とか周りには言っていた。 中学で進路を決める時に「小学校の先生になりたい」と担任に言うと、「だったら君は先生(国語)と同じ文系だな」と言われ、小学校の先生になるためには文系というコースなのだ、自分に言い聞かせた。 中学の頃、私は国語、社会よりも数学、理科が結構好きだったし、成績もよかった。でも、夢をかなえるためには文系なのだと思い込ませた。 やがて、高校に入学し、2年次は文系クラスに進み、3年次は国立文系クラスを選択した。 大学選択の時、小学校教員免許のほかに専門の教科で中学、高校の教員免許が取れることに気づいた… 好きな数学、理科を追求しつつも、小学校教員免許も取れるものだったのかー。別に文系じゃなくても、いいんじゃんかー。先生のウソツキ〜! 幸い、私立であったが、児童教育学科で小学校免許の取れる大学に現役合格した。そこは、幼稚園免許も選択で取れる学科だった。ここでも「取れるもんなら取っておいたら?」という声に、流され、憂鬱な実習も修了させた。がんばったよ、私。 小学校の実習は期待していたことであっただけに、苦しいこともあったけど、有意義だった。実習は出身校に行けるというのもポイントだった。 国立の教育学部では、付属の小学校実習が主流だったから。 今でも強く覚えているのは、午後6時過ぎくらいにしていた音楽室でのピアノ(グランドピアノ)の練習(教材研究) 外は暗くなっていって、ちょっとさびしくなってきたけど、運動場を窓から覗くと野球とかサッカーをやっている子どもたちがいて、手をふってくれたりして。実習生は学校で1人だったから、どの学年の教室に行っても珍しがられ、歓迎された。3年生の昼休みのドッジボールに飛び入り参加して、ひっぱりだこだったっけ。配属は5年生(5の3)で、6年生は1学年しか違うけど、大人に思えた。 若さゆえ〜♪ ちょっと内気で大人しそうな40歳くらいの女性の先生から「KAZU先生はすごいですよ。私にはできない…あんな全校児童の前での挨拶」と言われたこともあった。 子どもっていうのは、純粋で、「おはようございます」というと、40%くらいの声量で一発目は返事を戻してくるんだけど、「あれ?○○小のみなさんは200人くらいしかいないのかな?もう一回行くよ〜おはようございます!」なんていうと、もう、顔を真っ赤にさせて、一部は怒鳴るような感じで大きな声を出してくる。最初っから、そうしようよ〜というのは、やっぱり、照れもあるし、「コイツ誰やねん?」(*本当は博多弁)という警戒もあるから、そうなっちゃうんだ。
若さで有意義に乗り越えた実習、子どもの期待に支えられたにも関わらず、2度の採用試験挑戦、失敗でリタイア。 最近は、少人数制とかティームティーチングも当たり前のようになってきて、教員が不足しているとかいうのもたまに聞き、当時に比べると臨時採用教師の枠も多かったりして。 タイミングなんだと思った。 同級生の中には、今も尚、仕事をしながら、講師をしながら、採用試験に挑み続けている人間もいるときく。 所詮、その程度の夢だったのか?といわれると、悔しさも多少ある。 でも、実習で、夢の8割くらいは叶って、満足したようなところもある。
その後、予備校の受付事務をやったり、物流関係の倉庫で商品管理をした。 それはそれで「つまんない」と思うことはほとんどなく、日々の業務に追われて疲れもしたが、同僚や先輩、上司との人間関係にも恵まれ、心地よい職場だった。事務的なこと、作業的なことが多かったが、その過程で「仕事を教えるのが上手いよね」と評価されたり、「笑顔がいいね」「飲みっぷりもいいね」(笑)とも言われ、調子に乗らせていただく機会もあった。 嫌われキャラ(飲み会で酒乱になるオヤジ、仕事をしないオネエサン)にも、とりあえず、笑顔で対応してしまうので、誰が猫の首に鈴を付けるか、ではないけど、仲介役みたいなのになることが多かった。 例えば、「あのオヤジうるさいから、相手してきて〜 KAZUちゃんの注意なら聞くと思うからさ」と。オヤジは「KAZUちゃ〜ん〜ヘロヘロ〜」とうるさくて、我慢の限界が来た私は「静かにせんですか!」と声を上げた。その場は、シーン…。オヤジはおとなしくなりましたとさ、めでたしめでたし。 またあるときは「アノコに仕事中寝るな!って言ってきて〜もう、私には手がおえないから」と託され、「部長と課長が、○○さんは挨拶もしないって言ってたのを偶然立ち聞きしてしまったから、言っておくね」なんて、ウソをつき、アノコちゃんの態度を改めさせようとアプローチもしたりした。3日間は、続いたが、やはり、元に戻った。寝ている時は「○○さん、寝てた?大丈夫?」って声をかけたりした。 それすら、先輩はしたくないほど、煮詰まっていたらしい。 それほど、そのこに対する期待があったんだろうな、って思った。
今、私は、美容関係の仕事と、美容サロンでの事務をちょろっとしているが、基本はそんなに変わっていない。 自分がプラスと思ったこと、知らなかったことは、伝えようとする。 伝わったときは、なんか嬉しい。 自己満足だといわれるかもしれない。 でも、私のちょろっとしたアプローチにより、ちょこっとでも、自分の顔を鏡で見るようになったとか、周りを気にするようになった(スッピンだったけど、ちゃんとしよう!とか)とか変化を聞くとなんだか励まされる。 事務の仕事に関しては、とくにOA処理に関する資格などなく、自己流にもかかわらず、評価してくださるので、「本当に、私でいいのか?」という自問自答は続く。誰か突如、スーパーOA処理抜群完璧ガール(笑)が現れたら、潔くその席は譲りたい気持ち。 OA処理をホンマの仕事にしてしまったら、PCでの遊びを忘れそうで怖い。(言い訳かもしれないけど)
ちょろっとしたことでも、自分らしく動いていることに自信もって行きたい(生きたい)ネ。性格も環境も違うから、一緒に成長しようなんてことは言わない。お互いにそれぞれ、持っている自分らしさとかペースとか、見守っていけるといいネ。
今日は、ちょうどいい気候だ。 湿気がそれほどなく、風も抜けて。 昨日の夜も、心地よい風が抜けていた。
昨日の選挙、淡々と終わった(気がする) 午前中に、投票所の小学校に行く予定が、心地よい風にあたりながら昼前まで寝ていた。
3時過ぎに車でショッピングセンターへ買い出し。思った通り、多かった。「空車」とのサインを素直に信じて、2階の立体駐車場へ行ったが、どこが空車?ってくらい、埋まっていて、どんどん車がやってきた。 客の出待ちをして、駐車を狙う車も点在。こりゃ、あかん。 本当はダメだけど、その2階から上の階へと車を移動させた。思いきって、4階へ。5階は屋上だ。4階も、同じように埋まっていた。 どんどん車がやってくる。 我が車も客の出待ちをした。10分もしない内に、駐車に成功。 やれやれだ。 日曜日なので、子ども連れも多かった。老若男女とにかく多い。 おやつ時と遅い昼食と思われ、フードコートも人、人、人。 ファーストフードの今だけ105円のドリンクも、場外で繁盛していた。 この多くの人間のどれくらい選挙に行ったのだろう?と、ちょっと考えた。
私は、結構、選挙の雰囲気は嫌いじゃない。普通の日常とは違うから、ただそれだけかもしれないけど。 公民館だとか小学校だとか、そういう施設に足を運ぶ、それだけで何かウキウキする変なところもあるかな。 主人とも言っていたが、投票所が混雑する、なんてことないよな?と。 たしかにそうだ。 投票に来た人よりも、会場整理というかスタッフの方が多かったような感じだ。それと、この日、グランドでは、少年サッカーの練習だか試合だかがあっていて、子どもの他にその保護者らしきも来ていて、会場全体では、活気はあったのかもしれない。
選挙の会場スタッフからは「ご苦労様です」と声かけをされたが、少年サッカーを見守る保護者たちにその声かけをしたいな、と、思った。 大変そうだけど、楽しいんだろうね?多分。
5月の連休、6月の友人との企画(両祖母との面会)に続き、7月は緊急帰省。そして、来月は、半年前から決まっていた友人との芝居鑑賞のための帰省。来月の帰省の福岡滞在中に、祖母の四十九日も予定されている…
楽しい計画的な帰省は疲れもあるが、それよりも楽しみの重みがあるので、前向きに受け入れられる。 でも、突然の、それも、身内の不幸によるものは、ガツンとくるもので、気力を持ってかれそうになる。5月に伯母が亡くなった時は、駆け付けなかった。「無理に来なくてもいいから…」との言葉に甘えた。 今回も、母から同じように言われたが、“母の母”の葬儀であることで、ちょっと弱い母の傍にいることだけでも役に立つかもしれない(変な表現だけど)と思った。 母からして、従兄弟にあたる人なども、もちろん葬儀にきていて、母は「ウチの娘」と挨拶をするように言ってきた場面もいくつかあった。 社交辞令、お決まりのように「子どもは?」と聞かれたり、「どっちがお姉ちゃん?」「KAZUちゃんは妹によう似ちょるねー」。 子ども問題は2、3年前くらいに妄想のピークを迎えていたので、笑って流すことは苦ではなかった。 でも、私の従妹、従兄弟の子連れ一家を目の当たりにすると、もしも子どもがいたら夫も引き連れて一家で参列してたのだろうか…とも思い、母も得意げに私等を紹介するんだろうな…と思った。
従兄弟の子等は、純粋でこちらから声をかけなくとも寄ってきて何かを話てきた。でも、それを監視する親は、「邪魔しないのぉ〜」とか「静かにしなさい」とか、どこか私との接触を避けさせようとしているような感じにも映り、ちょっぴり切なかった。 かといって、彼女等に近寄り、子どもの成長っぷりをたたえるような気の利いた言葉掛けもできなかった。 私は子どもが苦手なのかもしれない…とも思ってしまう。 また自分の子どもをもつと、変わってくる、という声もきいたことがあるので、やはり、流れにまかせるのが自然だな、と言い聞かせる。
今回も、来るべきものは来た。 それも、焼き場で待っている最中に。 実は、今回は密かに期待をしていたのだ。 おばあちゃんが、きっと守ってくれる…繋いでくれる…みたいな、都合のいい願いに期待をしていた。 でも、それは、ツゥーっと、激しく来た。 その痛みも一緒に、連れて帰った。 夫に「ダメだったよぅ」と訴えた。 夫は「また次頑張ればいいんだから」と、頭をなでながら、痛むお腹をなでながら言ってくれた。
おばあちゃん、私は、幸せに暮らしています。 見守っていてくださいね。
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