原案帳#20(since 1973-) by会津里花
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2006年12月30日(土) どうすれば


……どうすればいいのだろう。

政治的なことはもう嫌だ、と言ったばかりなんだけど……
やっぱり耐えられない……
(そんなテレビ番組ばっかり見てるからいけないんだよ! ……って、それはわかってるけどさ……)

戦争を遂行しようとする者……よりも、

戦争をしようとする者たちに武器や資金を提供する者たちを罰して、そういう活動ができないようにすることはできないのか?
ただし、決して「暴力」だけは伴わない方法で。

「それができれば苦労はしないよ」
「そんな生ぬるいことでどうする? 相手は人殺しなんだぞ!!」

……わかる。
わかるんだけど。


確かに、人殺しは許せない。

わたしだって、もしも大切な家族や元家族、親しい友人知人が殺されたら、殺した犯人を絶対に許すことはできないだろう。
絶対に。

きっとわたしははじめ、犯人が生きていることすら許せないだろう。
「あいつを殺して! でなければあいつに殺されたあの人がうかばれない!」
と思うだろう。

……でも、長い時間がかかるかもしれないけれど、やがてわたしは気づくかもしれない。

「そいつと同じ罪に汚れたら終わりだ」と。
(死刑も含めて)いかなる「報復」も、わたしを人殺しと同じ位置に貶めるだけなのだ。
そんなことになっても、誰も「うかばれない」。

……じゃあ、わたしはいったいどうすればいい?

せめて、犯人が二度と同じ罪を繰り返すことができなくなればいいのかもしれない。

わたしの恨みは晴らせないだろうけれど、同じ犯罪が連鎖によって繰り返され、わたしと同じ悲しみや憎しみを抱えて生きていかなければならない人が次々に生み出されていくようでは、さらに「誰もうかばれない」。

暴力以外のあらゆる方法で、人殺しが二度と犯罪を繰り返すことができなくなるようにはできないのか。
それができれば、わたしの悲しみも憎しみも苦しみも、少しは報われるだろうに。


……というように考えそのように行動することが、果たして本当に大切な人を殺された時にできるのか。
それができれば、きっと全ての戦争が終わるだろうけど……

戦争を行う者、行った者、全てを罰してしまうことはできないか。
戦争をやったのに「英雄」扱いされるなんて、決して許してはならない。
勝っても、負けても。

勝った者こそ、罰せられるべきだ。
戦争に勝つということは、それだけより多くの暴力を行使したのだから。

2006年12月24日(日) 「おばちゃんたちの市民運動」と言われても

そういえば、13億人いる中国人のうちのほんの1割が日本人の平均を上回る所得を得てゆとりのある(?)暮らしをしていたとしても、その人口は同じくらいの暮らしをしている日本人の2倍になる。
なぜなら、中国人の人口は日本人の10倍だから。
(よくわからない人は計算してみてください)

……『N響アワー』を見ていて、そんなことに気づいてしまったりするんだけど。

なんかもう、政治的なことはどうでもよくなってきてて。
そりゃそれなりに自分の意見は持ってるし、まともに耳も貸さずに毛嫌いされても「頭悪い方が悪い」としか思わないし、そういう手合いはきっとわたしみたいなタイプなんかより先に滅びるだろうからほっといてもいい、とも思ってはいるけど。

でも。
自分の意見を言うことで、今わたしが暮らしにくくなるんだったら、それも嫌だ。
バカな人たちに媚びるのも嫌だけど、そのバカな人たちがたくさんいてわたしの居場所を奪ってしまうようであれば、わたしは自分の居場所を守るために多少は妥協しなければならないかもしれない。

で、一方。
わたしが言ったりやったりしていることを「おばちゃんの市民運動(なんか意味がない)」と言った人がいた。
わたしはそのことに、かなり腹を立てている。

もちろん、優しく囁いただけでは大声で喚く奴らにかなうわけがなくて、簡単に負かされてしまうのもわかっている。

でも。
より大きい声で喚いて「勝つ」よりも、「負ける」方がましだと思うのだ。

暴力使ってまで何かに「勝ちたい」とは、どうしても思えない。
「声が大きいこと」を良しとする考え方は、はっきり言う、「大嫌い」!

実態は、わたしだって他の誰かよりも声が大きくて「勝っている」ことがある。
でも、勝ったからといってそれが嬉しいとは決して思わない。
また、他の誰かに言い負かされたりすることがあっても、それが悔しいとも思わない。

勝負のない世の中になれば良いとも思わないけど、声が大きければ勝てるなんて原始的な勝負はしたくない。

勝つなら「共感」で勝ちたい。
世界中の誰もかれも味方につけてしまえば、それが本当の勝利だ。
目指すなら、そういう勝利を目指したい。
相手を滅ぼしても、そんなの何の価値もない。

(こういう言い方すると、どっかの巨大な新興宗教団体と同じことに?
念のため、わたしはあらゆる宗教団体と関係ありません。信じている神さまはいるけど)

2006年12月19日(火) 今日の日記から削除した部分。

とりあえずそのままコピペ。

----以下コピペ
(自分で努力してチャンスを作れなかったのか、とか安直な、とか言われるかもしれないけれど、わたしは音楽って基本的に大衆的で安直なものであってもぜんぜんかまわないと思ってるので。
っていうか何か小難しいもののように扱うせいで多くの人を遠ざけるのってむしろなんか違ってるんじゃない?と思ってしまう。
もちろん「作る側」にしてみれば決して安直なんかじゃなく、たとえば「弾き真似」がいかにリアルに見えるかを演出するスタッフにせよ演じている役者にせよ、かなりの努力が必要なのは言うまでもない。
ただ、それを「こんなに練習したんだぞ!」と上から押し付けるようにしては意味がないと思う。
わたしが知ってるクラシックって、どうしてもそういう感じになっちゃうのが少なくなくて……
あくまで「楽しんでね」っていうかたちで表せて初めて「プロ」なんじゃないかな、と。
受ける側は特に予備知識とかなくても、それこそ「安直に」楽しめればそれでいい。
自分がピアノ弾けなくても、のだめに感情移入してまるで自分が弾いてるような気分になっても、ぜんぜんOKだと思う)
----以上コピペ

いろんなスタンスがあるから、絶対これが正しい!と押し付けるつもりはないけれど、わたしにはこんなふうに感じられてしまうのでした。

2006年12月12日(火) 「一期一会」。

NHK教育の『一期一会』という番組を見ている。
テーマは「甘える無職」と「甘えない美容師」だって。

この2人は、タイプとしては真逆だけど、どちらも「家族を抱えている」という点では同じだ、と感じた。
正反対のようで、2人それぞれの抱えることがわたしにはどちらもあるように感じたのだ。

わたしと家族って、何だったんだろうなぁ……
今はもう一緒には暮らしていない人ばかりだけど、その人たちのことを思う。
父、母、元パートナー、子供、……

そうして、今一緒に暮らしている家族、つまり弟のことを思う。
彼にほぼおぶさるようにして、今のわたしは生きている。
少しでも自立できるように、とできるだけの努力はしているけれど、下手すると弟には支えきれなくなってしまうかもしれない。

早くしないと。

でも焦ってまたぶちこわしてしまっては元も子もない。
使いすぎないようにセーブするしかない。

「食ってくためには何をやってでも働け」という偽の「厳しさ」には甘えたくない。
それで何度失敗してることか!
もう、そんな失敗を繰り返す余裕はない。
「嫌なことを我慢してやる」のはわたしには無理!

「好きだからやる」。
ちょっと大変でも、決して「嫌なこと」なんかじゃない。
だから頑張れる。
これがわたしの「厳しさ」。

必要なことにはお金を使う。
けれど、それ以外のことにはお金を使わない。
服は買わない。
化粧品も、美容院も、まだ当分我慢。
ステージ衣装はできたら買う。
「間違っている」と言われるかもしれない。
でも、わたしは自分の価値観に賭ける。


だってさ〜。
ほかには何もできないんだよ〜。
よく「頭がいいのに」とか言われるけど、いくら中途半端に知識があっても、まともな使い方がわからないんだから意味ないだろう。

わたしはわたしにできることだけをやって生きていく。
こんなわたしが生きていける世の中であってほしい。
今もしもそうでないなら、早くそうなってほしい。


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