2002年05月20日(月) |
不健康な子供たちの逆説的無垢 |
土曜日に、広島現代美術館で開催中の 「奈良美智展 2001-2002 I DON'T MIND, IF YOU FORGET ME.」 を観て来ました。 丁度学校で10時半から12時まで小論の補習があったので、その帰り道に。 特に入れ揚げてるとかそういうのではないのだが、 書店で画集をよく見かけて、その度イワク有りげな子供の表情が気になっていたので、 試しに行ってみっかー、と思い立ち、山の上まで登ってみた。 (広島現代美術館は、あな恐ろしや、比治山というお山の上にあるのです)
とは言え、この不精者のあたしがえっちらおっちら山登りをする訳が無い。 数年前に、行政さんが比治山スカイウォークという非常に便利なエスカレーター通路をつけてくれたのです。 名前は如何にもダサいがとてもスグレモノですぜ。 まぁ3分から5分もあれば行けますな。汗一つかかず。 文明の利器って素晴らしい。
とても感性の貧しいあたしは、隙の無い美=芸術だと思ってたが、 奈良美智展を観に行って、それは大きな間違いだと気付かされた。 隙を作ることで、ただの均衡美が芸術に変わることもあるのだな、と。 そもそも追究してみれば、完全性こそ幻想なんだな。 人間のすることである限り何処かに必ず隙はある、というのがあたしの持論です。
しかし展覧会名が何とも投げやりで惹かれるね。 "I DON'T MIND, IF YOU FORGET ME." 逐語訳するところの、 「私は気にしません、譬えあなたが私のことを忘れても」。 あたしの受け取ったニュアンスに忠実に意訳すると、 「あたしのことなんか忘れてくれたって構わないのよ」 なんて、ちょっと投げやりに。強がってみたりして。 うん、なんか逐語訳の表面から浮かぶほど、冷たい気持ちで言ってる言葉じゃない気がする。 まるで忘れられる痛みを恐れているかのように、 「忘れられることなんて怖くないの。平気なんだから」 ってわざと強がってるようにも聞こえるんだな。 それはあたしのヲトメゴコロですかね。ぷっ。 そういう強がりのような種類の切なさが、奈良美智の描く子供の顔の「いびつさ」のように思える。 目付きの悪い子供たちが、見る者にとって何故か恐れではなく憐憫の情を誘うのは、 きっとそういうことなんではないかな、なんて思ってみたのでした。アーメン。
あああ、試験週間にのんきに美術館なんて行ってるあたしって、何なんだろう……。 しかもその後、まだ美術館で閉館時間ギリギリまで歌舞伎とかのビデオ見てたよ……。 『三人吉三』は豪華キャストだった、中村福助、尾上菊五郎、市川団十郎だよ……。 すっごい良かったよ……。でも好きなのは息子の尾上菊之助の方なんだな……。 市川新之助も好きなんだな……でもどっちかと言えばやっぱり団十郎なんだな……。 故・伊丹十三氏の美術番組も面白かったんだな……。 ……本当に何やってんだろう……。 大丈夫か、あたし!!
早いもので、まぁもう5月。 辛うじて五月病にはなっていないものの、ちょっと似たようなもんではあるかも知れん。 この段階でこんなに疲れててどうするよ……・。 あんまり毎日が瀕死状態なもんで、友人と 「受験生ってのはまったく、存在自体がストレスなんだね」 なんつーことを言ってみた。 言ったところで解決される訳でもなし。 まぁこういうもんなんでしょう。
正戦論、というものを本日は学んだ。 旧約聖書時代の話ですが、その頃戦争とは正しい方法の一つだったらしい。 旧約聖書ってことは、つまりまだユダヤ教の時点ですね。 『平和』と訳されてるもともとのヘブライ語は、 『完全性』とか『十全性』みたいな意味があるらしい。 んでそれは何が完全なのかと言えば、神の意思が。 つまり神の意思を完全なものにする為には、戦争しちゃったり、 果ては敵対する民族などを滅ぼしちゃってもいい、ってことなんですな。 それが正戦論というものらしい。 その昔、サウル王っちゅーのがいて、その人はこれが出来なかった。 女子供まで殺すのが忍びなかったんだね。 しかしそれが預言者の逆鱗に触れて、王の座を追われたらしい。 それを聞いたら、 「なんかちょっとマッドだなー」 と引いてしまったわよ。 そういうのって、本末転倒というか、宗教の目的と手段が入れ替わってる気がする。 かと言って、あたしは正戦論肯定派でもないです、あしからず。
先日、小林秀雄氏の『古典と伝統について』を図書館で自習もせずに読んでいた。 なかなか面白かったよ、評論を面白いと思えたのは初めてかも知れん。 その中でソクラテスに触れてる部分が多かったのだが、 ソクラテスって、キリストに似てるな、とか思ってみた。 大体、ああいう一種悟っちゃった人たちってのは、概ね似た考え方をしてるものだ。 キリストも親鸞も、宗教は違えど、言ってることは同じ。 あたしは幼稚園は浄土真宗、中高はキリスト教な訳だが、 これと言って違和感を覚えずに消化できてるのは、この二者が通じているからかも知れない。 んー、柔軟性に富んだ唯神論ってのは無理なんかなぁ。
2002年05月03日(金) |
三人集まったって、文殊の知恵とは限らない。 |
「三人寄れば文殊の知恵」と申しますので、 そりゃアナタ、文殊の知恵とは何ぞや、っちゅー気になって マイ広辞苑ちゃん(岩波書店)を引いてみた。 文殊っちゅーたら、文殊菩薩のことだそうですよ。 すげぇ。昔の人は無謀だのう。 幾らなんでもたかだか人間の二、三人くらいで菩薩様の知恵には匹敵しなかろう。
アインシュタインが三人揃えばそりゃ文殊菩薩一人分くらいにはなろうが、 女が三人寄れば、かしましいものだと相場は決まっている。
たまたま放課後に一人で教室に残って英語の予習とか片付けてたら、 別段仲が良いと言うほどでも無い或るクラスメートと一緒になった。 二人で暇に任せて色々喋ってみたら、いやー出るわ出るわ。 何が出るって、女の怖い一面が。 いやぁね、女子校って怖いわぁー。 何処でもあまり他人受けしない人間とはいるものだが、 ウチのクラスにもそりゃあ例に漏れずいるもんである。 で、何が怖いってね。 陰湿ないじめがある訳じゃない。 いくら何でもそこまで下らん人間はいない。少なくともあたしの周りには。 みんな上手いんだな、上辺だけの付き合いが。 ほんでタチが悪いのは、極く仲間内だけになった時、悪口を吐き出すこと。 まぁ誰しもはけ口が無いとやってらんないがね。
びっくりしたのは、嫌ってるという皆さんが ご丁寧にサイン帳に『温かな』メッセージを書いてあげてたことで。 いやー。いくら外面の好いあたしでも、さすがにそんな白々しいことは出来ん。 ……と最初は思ったんだが、よくよく考えてみれば、あたしもやりそうだ。 いや、やるに違いない。 何たって、外面好いし、女だし。 男の人は結構そういうとこハッキリしてると言いますが、 女は上辺だけでも白々しく付き合ったりするもんでしょう。 内心ではお互いに嫌いあってるのに気付いてたとしても、 決別の決め手になるようなことが無い限り、きっと交際を続けるでしょう。 何だか性質的にそういう部分が備わってるんだろうか、 と思って、ちょろっと考えてみた。
大体封建的な世界では、『女=家を守る』っつーのが定説。 そういう世界で女の交友関係っつーと、所謂『井戸端会議』に制限される。 井戸端会議ってのは井戸の端でやるから井戸端会議なんであって、 まぁつまりご近所さんとのお付き合い。↑本当だってば。 そこでもし、どうにも馬の合わない人間が出てきたとしても、 井戸はみんなの共有だし、自分とこの生活も掛かってる訳だから 井戸を使わない訳にはいかない。 否が応でも毎日顔を合わさなきゃなんない。 そしたら、上辺だけでも取り繕ってやってくわな。普通は。 表立って面倒なことは誰だってしたくないもんな。 そんで上辺だけで白々しーい付き合いをした後で、 家に帰って旦那に愚痴を聞かせたりするんでしょうよ(笑)。
……とまぁ、飽くまであたしの仮説に過ぎないんですが。 しかも想像過多だしー。ほほほほ。 いやぁ、そんなことを数日前に考えてたんだが、今日は模試でね。 たった一日で奇妙なストレスが溜まったので、ちょっと発散に書いてみた。 さてな、次の日記はいつになることやらのう。
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