私的正論。

2004年02月27日(金) 悟るということ。

誰もが何も知らないうちは、やってみないとわからないと思うが。
だんだんいろいろ知っていくうち、やってみなくともわかると思うようになる。

ものごころついたばかりの子どもは。
コップになみなみ水を注げばテーブルが水浸しになると知らないから。
やってみてはじめて「わかった」と思うが。

もう少し大きくなりゃいちいちやってみぃでも。
「それはそうだろうさ」と思うようになる。
それを「わかったつもり」と言うのもヘンだろうが。
しかしその理解には、程度の差の多少はあるだろう。
テーブルを水浸しにしてから「わかった」ほうが、少しはマシという程度の差はあるだろう。


という前置きは良いとして。
今日、ふいに悟った。

なに単純なことで、

てめえがてめえの信念に基づいて叶えたいと考えている事柄は、
なんだかんだ言ってもてめえの力で叶えるしかないのであり、
信念に基づいて叶えたいと考えてる時点でてめえにしか出来ないことなんだから、
それって意味があるんだろうかとか、くだらんことで迷うな。
そして人を頼るな。頼るようなことじゃねんだから無意味。



 … てなこと。


そんなことも知らないで今まで生きて来たのかと思いたくねんだけど。
ある意味「わかったつもりになって考えてなかった」わけで。
これに尽きる。

悟るってのはホント奥が深い。



それまでと、がらりと人生が変わっちまうから。
悟るってのはホントやめられない。

そしてどうすれば悟れるかと聞かれたらこう言うしかない。

それは。

玄関の鍵あけて靴脱いで鍵を下駄箱の上に置き。
朝飯に何食おうかなと思う前の。

ぼうっとしてる時の。

てめえの頭の中にある蜘蛛の糸にからみついた、
枯れ葉の模様を一枚一枚眺めるような、
思索の結果。




先に朝飯のこと考えてたらダメ。


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桜木



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