samahani
indexpastwill


2002年09月20日(金) 無名国 日本 (Bostonの思い出)

わたし達家族4人が、ボストンに暮らし始めたのは、いまからちょうど10年前です。なおき5才、こうすけ1才、夫とわたし31才。

初めての海外生活は、英語が伝わらなかったり、パーキングメーターのしくみさえ分からなかったり、外に出るだけでぐったり疲れてしまったけれど、その一方で、何を見ても好奇心をくすぐられ、新しい発見の連続で、それがとてもおもしろく毎日が充実していました。

地元の公立小学校の幼稚園組に通い始めたなおきは、学校でただひとりの日本人でした。ある日、なおきが 「ボク 学校に行くの嫌だ」 と言うので、理由を聞いてみると 「ボク 日本人なのに、Chinese って言われるんだよ」 と言います。

すぐ学校に出かけて、担任の先生と話をしました。すると子どもたちは、なおきをイジメてそう言っているのではなく、ただ単に日本という国を知らなかったので中国人だと言っていたのだと分かりました。先生が、 「中国という国の近くに日本という国があって、なおきはそこから来た日本人だよ」 とみんなに説明して、この問題はすぐに解決しました。

でもわたしには、そのことが少なからずショックでした。あの頃、日本はバブルがはじけていて勢いがあり、ニューヨークの象徴ロックフェラーセンターを買い取ったり、ハリウッドの映画会社を買収したりしていました。だから、当然誰もが日本のことを知っていると思っていたのです。

ボストンには、ハーバードやMITなどの有名な大学の他にも、BUやタフツなど16もの大学があって、アメリカで一番、大学密度、学生人口の高い場所だといわれています。ボストンには(ダウンタウンではなく大学街の方)マクドナルドやデニーズなどのファーストフードの店が一軒もないのですが、それは、そこに住む人がインテリで彼らのプライドがジャンクフードを食べることを許さないからなのだとも聞いたことがあります。

30才を過ぎて結婚しているけれど、キャリアアップのため、お金を溜めてから大学院へ再入学する人も多いし、そこで研究職についている人も多いのです。

そんな街、ケンブリッジ(大学街の地名)の真中にある公立学校の幼稚園児が、日本を知らない!?

いまでこそ 日本食はアメリカでも有名になって、テリヤキ、すし、てんぷらなどが英語として通じるけれど、あの頃は、巷に中華料理屋はたくさんあっても日本食の店はそう多くはありませんでした。そのうえ、日本料理屋は高いので、幼稚園児が連れて行ってもらうこともなかったのでしょう。

日本って無名国(たかが幼稚園児とは言っても)。ちょっとガツンと頭を殴られたような衝撃を受けたわたしでありました。






↑エンピツ投票ボタン


2002年09月18日(水) 好きとか嫌いとかは結局・・・

9.11のその時、夫は、出張先のイエメンにいて、ヨルダン人の上司と一緒だった。日本やアメリカにいる時のように、テレビを点ければ過剰なニュースが飛び込んでくるという状況にはなかったらしいが、その時の上司の落ち込みようといったら相当のもので、とても声も掛けられない程だったそうだ。

9.11のテロで、本当に落胆した人、その後の生活が変わってしまった人というのは、WTCに居合わせて亡くなった人の親族以外では、アメリカに住むアラブ系の人たちだったに違いない。自分たちの置かれている状況が一変してしまうかもしれないのだから、とても他人事ではないのだ。

テロから4日後の土曜日、こうすけの入っているサッカーチームの対外試合がいつもと変わらず行なわれた。テロのすぐ後なので、自粛というかたちで中止になるだろうと思ったが、青い空の下、サッカーに興じる子どもたちを見ていたら、たぶんこれがアメリカなんだなという気持ちになった。

同朋を亡くしたアメリカ人にだって、直接の関わりのある人でなければ、状況が変わるほどの出来事ではない以上、大きな意味で言えば他人事なのだ。むしろ、これで報復という大義名分ができたと(内心)喜んでいるらしいJewishの人たちのはしゃぎようの方が、わたしの目にもそれと分かるくらいに感じられた。


夫は つねひごろ、アメリカが好きだと公言していて、日本にはもう帰りたくないとか、子どもにはアメリカの大学に行って欲しいとか、幾度となく口にしている。

その気持ちはわたしも分からないでもない。森の中の別荘のような環境の広い家、通勤は座って行けて地下鉄で25分、やりがいのある仕事と高い給与、子どもの将来のために有利なアメリカの教育制度、安い物価、しがらみのない世界、etc. 夫にとって、日本の方がいいと思えるのは食べ物が美味しいということくらいなのだから。

子どもたちがアメリカを好きだとか嫌いだとか言わないのは、父の稼ぐ生活費で暮らし、父がアメリカを好きだという以上、どうしようもないと考えていたからだと思う。あるとき、なおきが「僕はアメリカなんか大嫌いなんだよ」と少し強い口調で言ったのを聞いて、わたしはとても驚いた。

彼は、英語にも不自由していないし、学校にも慣れ、嫌がらずに通っている。「アメリカのどこが嫌いなの?」と訊いても、答えなかったから、彼がアメリカという国を見て、その政治だとか国民性だとかを嫌いなのか、単に自分の周りを取り巻く環境のことを指しているのか分からなかった。ただ、このことは夫にも知らせておくべきだと思った。

なおきの話を告げ、そのあと「実際のところ、本当はアメリカって好き?それとも嫌い?」と訊くと、「アメリカは国としては好きじゃない」と夫は答えた。

わたしが、いつも日本の方が好きだと言っているのも、英語に囲まれているのが苦痛で、その点で日本の方が暮らしやすいからということに過ぎない。わたしは「国」として、日本が好きかと問われたら、必ずしもそうともいえない。国として、アメリカの方がまだましだと思うところもある。

いままで気付いていなかったけれど、好きとか嫌いとかは結局、自分を取り巻く環境を指して言っていたに過ぎなかったのだ。そして、そういう人たちがとても多いことにも気付かされた。


そうは言っても、アメリカが好きか嫌いかという身近な問いに対する答えが、ウチの家族の中でバラバラなことが、一番問題なのだという気もするのだけれど。


2002年09月13日(金) Iran Embassy

夫の仕事は、中東の国々と深く関わっているので(と言っても、石油やさんって訳ではないんだけど)イエメンだとかシリアだとかエジプトだとか、どこにあるのかよく分からない、とにかくあっち方面のイスラミックな国に出張に行くことが多い。

それらの国に出張に行くときはVISAをとる必要がある。通常は、会社にパスポートを預け、そこで手続きを代行してもらうのだが、「イラン」のような微妙な国になると、VISAの発行も簡単ではないらしく、本人が大使館まで出向かなければならない。

という訳で、夫に付き添って、イラン大使館に行くことになった。大使館は地下鉄の駅から遠くて歩けないので、車で送っていったのだ。

大使館といっても、ビルの1階に入っている1室で、入り口にはインターホンと監視カメラあるだけだった。中に入ると誰もいないかわりに、長い上着と、頭を覆うためのスカーフが置いてあった。「これを着用のこと」と注意書きがある訳ではない。イラン大使館に来る人には、そんなことは常識でしょうと無言で言われているようだった。

実際、わたしがそれを身に着けると次の部屋へのロックが解除になった音がした。監視されているらしい。

無気味な静けさがあった入り口の部屋を抜けると、少し広い部屋があり、8人くらいの人が座って待っていた。わたしと同じように頭から足まで覆い隠した女性もいて、目が合うと、照れ笑いのような苦笑いのような笑みをかけられた。わたしも変ですけど、あなたも似合ってませんねぇと、目で言われたような気がした。

緊張するほど、ピリピリした空気が漂っているわけではないが、落ち着かない。男性は普段と同じ格好でいられるのに、女性だけ不自由を強いられ、女は男より格下の人間だとみなされているように感じられて、小さな屈辱感があった。

「わたし、イスラムの国に生まれなくてほんとによかった」と、もしも日本語の分かる人がいたら、つまみ出されそうなことを、思わず口走ってしまった。

窓口の飾りやドアの形が、アラジンやアラビアンナイトに出てくるような玉ねぎ型の球形をしていて、その20畳ほどの小さな部屋が、そこだけ無理やりイランにしてあった。

申込書に顔写真が必要だと言われ、その場で10ドル払って写真をとることになったのだが、領収書を請求しても出せないと言われてしまった。領収書も出せないなんて、胡散臭すぎである。でもこれが大使館。

電話で、事前に予約を取り、問い合わせもしているのに、写真のことは一言も聞いていないと夫が言っていた。そのうえ、8人ほどしか待っていないのに申し込みの手続きをするだけで1時間半も待たされた。

「日本だっら・・・」 

そう、日本だったらもっとちゃんとしてるよねと言いたくなるのはいつものこと。


小さなアラブがそこにあった。






↑エンピツ投票ボタン



2002年09月11日(水) 「9.11」 我が家の場合

9月11日、朝から各ニュース・チャンネルは、テロ一周年の特集番組を放送している。封印されていた、旅客機がWTCに突っ込んでいく場面も、流されていた。

子どもたちの通う、中学校と高校でも、朝8時46分に黙祷の時間が持たれたそうだ。


一年前のきょうも、青い空がどこまでもつづく秋晴れの日だった。 9時過ぎ、近所に住むKさんが、「大変なことになってるからテレビを点けてみて」と電話をくれた。 言われる通り、テレビを点けてみたが、なんだか凄いことになっているなと漠然と思うだけで、何も実感が湧いてこなかった。

窓の外には、緑の木々が風に揺れ、小鳥がさえずり、蒼い空がまぶしい のどかな風景が広がっていた。テレビには煙を上げるペンタゴンも映っていたけれど、それが本当にこの空のすぐ近くに繋がっているあの場所なのかという思いだった。

「学校も早帰りになるかもしれないから、家で待機していてね」とKさんに言われたけれど、わたしは、待っているより、学校に行ってみようと思った。

息子が心配だからというより、突然の停電などの非常事態に、なんだかワクワクしてしまう子どものような心境だった。わたしが、へらへらとした顔で学校に行くと、何人かのおかあさんも、子どもをお迎えに来ていた。みんなには いつもの笑顔はなく、特に、息子の担任の男の先生が悲痛で沈痛な面持ちでいたのを見て、わたしは、自分自身の不謹慎さを恥じた。

あまりに大きな惨事には、実感が湧かないものなのか、単に、わたしの想像力の欠如が原因なのか分からない。日本に居れば、これでもかというくらい多くの情報がメディアを通して入ってきて、わたしも、ここに住んでいるより、情報も知識もあり、感情的にもなったのかもしれない。


けれど、わたしの「9.11」は、それだけでは終らなかった。

9月下旬に予定されていた日本語学校の運動会が中止になり、教室での通常授業に振替られた土曜日、わたしは安全当番で校舎の廊下にいた。その日、日本のテレビ局(テレビ朝日)が、学校に取材に来ていた。その取材班に捕まってしまったのである。

わたしは、取材される意思は全くなかった。この事件に関して、実感も湧かないのだから、言いたいことなど何もないし、分からないことに対して、何かを、さも知ったかぶりして言うほど滑稽なことはない。けれど、テレビ局のインタビュアーはとても強引で、断っているわたしの前にマイクを突き出し、テレビカメラを回し始めた。

今でも恥ずかしいのだが、そうなると不思議なもので、何か喋らなければと思い、質問に答えたりしてしまうものなのである。(人がいいと言うか、意志薄弱と言うか・・・)

テレビ局には、初めから、「恐怖におびえ、心配でたまらない暮らしぶりをしてるワシントンDCの人々」を撮りたいという意図があった。わたしは、インタビューをされているうちに、相手のその意図に乗せられ、気持ちと全く反対のことを喋っていた。

そのとき、夫は、出張に行っていて留守だった。テロの3日後になって、「やっと繋がったよ」と言って、夫から電話があった。「そっちは大丈夫なの?」とアフガニスタンからそう遠くないところに居る夫を心配して訊ねると、「大丈夫だよ、でも後半の仕事はキャンセルになったから早く帰るかもしれない」と夫はこたえた。わたしは、その言葉をそのままに受け取ったので、そういう状況にありながらもまるで心配していなかったのだ。

けれど、インタビューでは 『やはり心配ですね。夫にも早く帰ってきて欲しいと思います』 なんて言っていたのである。 恐るべし、テレビマジック。インタビュアー、さすが、プロフェッショナル。 わたし、単なるど素人、しどろもどろ。 (とほほ)


このケースは、我が家の場合であって、必ずしも、皆が同じだった訳ではない。わたしのようにあまり心配していない人もいた反面、DCに住んでいては危険だという理由で、日本に帰ってしまった人もいたし、とても心配して一時的に帰ることを検討した人もいたからである。



あれから一年たった。

我が家は何も変わらず、帰国予定だった4年を過ぎてもまだここに居る。


2002年09月09日(月) 夏の思い出 4 「涙がとまらない」

昨日、ウチにお客さんが集まって夕食をともにした。夫の上司であるヨルダン人の夫婦、出張でこちらに来ているイエメン人、夫の同僚のフランス人(30代半ばの独身女性)の4人を招待した。

いろいろな話をするなか、アメリカ人が居ない所で、アメリカのことが語られると、こんなふうになるのかという体験が出来て興味深かった。

例えば、ヨルダン人の奥さんがこんなことを言った。「アメリカ人は、親切で優しいけれど、ものを知らなさ過ぎる。“ジョーダン”を知っているかと訊くと、マイケル・ジョーダンなら知っていると答えるのには、がっかりする」
(ヨルダンは、英語では Jordan と綴り、ジョーダンと発音する)

それから、アメリカの正義や好戦性(愛国心が戦争に向かうこと)についても話題が及んだ。


この夏、わたしは夫や子どもたちと一緒に広島に行った。原爆ドーム、資料館を巡り、涙が止まらなくなった。千羽鶴の横に展示されていた子どもの詩を読んでは泣き、資料館に展示されていた、ご飯が入ったままのひしゃげたお弁当箱を見ては泣き、館内で、説明ボランティアさんの話を聞いては泣き、3時間くらい涙が乾く間もなかった。

こんなふうに、その当時の広島の人々に、感情移入できる自分が不思議でもあった。6月3日に友人ふたりと一緒にホロコーストミュージアムに行ったのだが、そのときは、ひとかけらの涙も出ないどころか、罪もなく殺された人たちに同情する気持ちさえも湧いてこなかったから。

展示が、英語だったのか日本語かという違いよりも、戦争の犠牲となったのが、ユダヤ人なのか日本人だったのかという違いが大きいのだと思う。


夏の終わりに、日本で「トータル・フィアーズ」という映画を観た。ベン・アフレックはかっこいいし、ハラハラドキドキさせられるし、映画としては面白かったのだが、映画での核爆弾に対する認識や扱われ方があまりにもずさんでガッカリさせられた。

主人公、ジャック・ライアン役のベンが、爆発の数時間後に、爆弾がロシアからアメリカに持ち込まれたと思われる場所に単身、乗り込んで行くシーンでは、「おいおい、それはないだろう、そんなことしたら残留放射能で死んでしまうよ」と思い、かろうじて生き残った大統領が、被害の様子を聞いたときに、半径1マイル以内は全滅ですと報告されたときには、「うそだあ、そんなに少ないワケないだろっ」と、広島に行ったばかりのわたしは、ため息が出た。

原爆が過小に扱われていて、あれでは、映画を見た人は、原爆はあんな程度のもので、たいしたことなかったのだと思い間違いをしてしまう。
(原爆の惨劇を描写するのに死人を出さないのも、戦争の悲惨さを伝えるのを避けているともいえる)


その映画の話をわたしがすると、

ニューヨークのWTCが崩壊した場所を、グランド・ゼロと呼ぶのも、もともとは、グランド・ゼロ=爆心地という意味で、あれが広島の被爆した場所と同じ規模のものであったとの誤解を受ける、広島と同じだと思われてはたまらない という意見(新聞の投書)もあることや、

数年前、スミソニアン博物館で、広島の原爆に関する資料展示をしようとしたのだが、アメリカの軍関係者や退役軍人関係から圧力がかかり、実現しなかったことなどの話も出て、(夫が言ったのだけど)

どの国でも情報操作はあるのだろうけど、アメリカの好戦的な部分については否定できないと皆が認め、ここも危ないから、やっぱりどこかに避難したほうがいいのだろうかという話になったのだった。






↑エンピツ投票ボタン


↑「お客さんが来るときっていっつも同じメニューだね」だって(笑)


2002年09月07日(土) 夏の思い出 番外編 「せつない話」

宇多田ヒカルが自分の結婚のことを「嫁ぐ」と表現したそうですね。

ある人の日記で、「宇多田ヒカルといえば、言葉を紡ぐプロなのに、そういう言葉を選ぶなんてガッカリ」と書かれていて、はじめは全然ピンと来ませんでした。

どうして? 結婚しても「稼ぐ」って言ってるんでしょ、いいことじゃないの と思ったのです。 半分くらい読んだところで、 あれっ? これって「とつぐ」なの? 「かせぐ」じゃなかったのと気がついて、へえぇ・・っと感心してしまいました。

わたしの頭には、「嫁ぐ」などという単語はインプットされていないらしい・・と。

同じ日、「切れない電話」というタイトルを「切ない電話」と読み間違え、おお、もしかして、わたしって、切ない想いなんてものを抱えちゃっているのかしら? そうよ、こういう時に潜在意識として現れるのよね・・なぁんてことも思ったりして・・ ええ、分かってます。 勝手に言ってろ!ですね。


きょうの日記は、番外編、昨日の日記の続きです。他人に無愛想に接する日本人、誰にでもフレンドリーなこちらの人。 実際、ここに住んでいると、初めて会った人に、よく話し掛けられます。 路上だったり、スーパーのレジだったり、レストランでたまたま隣の席に座った人だったり。 だからわたしも他人に話し掛けることに ためらいが少なくなっているようです。

先日、夕食をとっていたインド料理の店に、少し場違いな女性がひとりでやってきて隣の席に案内されました。彼女は、肩にある刺青が少し見えているようなシャツを着て、左手だけに、二の腕まである黒のロング手袋をしていました。 「うーん、これはファッションなんだろうか?」と、気になって、訊いてみようと思ったのですが、

ファッションって日本語だよなあ。じゃあ、別の言い方で「これは、あなたが好きでやってるんですか?」って訊くのかなあ。「でも、そんなこと言ったら、それって変ですねっていってるように聞こえないか?」とか、夫が横から口をだして、もごもご・・・

それに気付いた彼女は、言い訳がましく「いま、ラスベガスから飛んで戻ってきたばかりで、おなかがペコペコなのよ。疲れたわー ・・なんちゃらかちゃら・・・」と、いろいろ話しはじめました。


別の日、タイ料理やさんで、夫と日本語でぺちゃくちゃ喋っていたら、ウエイターさんが「あなたたちは日本人ですか?」と訊いてきました。 「わかりますか?」とこたえると、 「日本語が少し分かります。ぼくのおかあさんはタイ人だけど、ぼくのおとうさんは日本人でしたから」と彼は言いました。 「えっ?」と夫と顔を見合わせていると、 「でも、日本に帰っていってしまいました」と、付け加えました。 笑顔のままなのに、寂しそうに言ったのが分かり、わたしはとても切ない気持ちになりました。どんな言葉を返したらいいのか分かりませんでした。

彼の父の国である日本は、彼の中にどんなふうに映っているのだろう、半分は郷愁にも似た気持ちで、半分は・・

わたしは、日本人として恥ずかしく感じられて、彼の目を、真っ直ぐに見られないような気持ちになりました。 


他人を見たら泥棒と思えというような対応をされる日本より、気軽に他人に話し掛けられるアメリカの方がわたしは好きです。 けれど、そのせいで、時として、「切ない想い」に不意打ちを食らわせられることもあるのです。


2002年09月06日(金) 夏の思い出 3 「ふきげんのわけ」

この夏、ひとりでブラブラと新宿を歩いていたら、ティッシュを配っているおねえさんをみかけた。もらおうと思って近づいていくと、わたしなど、目に入っていないかのように 微妙に避けて、無視されてしまった。 むむっ! 

しばらく観察してみると、おねえさんは人を見て、選ばれし民に、その貴重なる洟紙小袋をお渡しになっていらっしゃるようであった。 若き「おのこ」のみ、おねえさんとお近づきになれるのだ。

俄然興味津々になったわたくしは、いったいそれが何処の、何の目的の洟紙小袋であるのか知りたくなった。

ちょいと、そこの道ゆく、わかいおにいさん、わたくしに協力してはいただけませぬかの?と、このさい容姿は悪くても(←ここ大事ネ)、目的(ティッシュをゲット)が達成されればよいのだからと、近くを通りかかったおにいさんに 声を掛けようとした そのとき・・・・、












むっきぃー! そいつったら にこりともせず 大袈裟にわたしをよけて、逃げていきやがった。 

なんだよ! わたしが、ナンパしたとでも思ったのかよ! んなわけないだろ! ムカツク野郎だ! だいだいどうしてわたしがおまえなんかっ ・・(以下略)・・ 

・・・と、ひとしきり憤慨したあとで あっ!そうだった、ここは日本なのだと、わたしはしばし呆然とし、はっと我に返ったのであった。





都会の雑踏を行く人たちは、まるで障害物競走でもしているかのように、上手に人の波を避けながら人ごみの中を泳いでゆく。

ふきげんな顔のまま、まっすぐ前だけを見て、足早に去っていく。

あなたは何をそんなに急いでいるのか。





日本人は、既に知り合いの他人には優しくするが、全く知らない他人には冷たいといわれている。すれ違っただけの通りすがりの人でさえ、目が合えば、にこっと微笑みかけてくれる、ここ(DC)での環境に慣れてしまったわたしには、それはまさに東京砂漠だった。ましてや、ここで「すみません」と話し掛けて無視されるなんてことは皆無だ。

それを、「ゆとり」だとか「余裕」だとかいう言葉で言い表すならば、日本の、特に都会に住んでいる一部の人たちには、大きくそれが欠けている。電車の中で、不機嫌 極まりない“しかめっ面”をしてふんぞり返っているおじさんを見ることがある。彼は、自分がどれだけ周囲に不幸を撒き散らしているのか、全く気付いていない。気付こうともしない。


わたしから、逃げるように去って行ったあのおにいさんも、わたしのことを宗教の勧誘かなにかのように思って関わりたくなかったのだろうが、どうしてひとこと「結構です」と言って、にこっと笑えるくらいの余裕がないのだろうか。そのほうがよっぽどスマートだと思うけど。


考えること、自分で判断することを放棄しているから、こうなるのだろうか。危ない人に関わりたくないのは、どこの国の人でも同じ。むしろ、アメリカの方が怖い人が多いだろう。 けれど、この人は大丈夫だというのは見れば分かるはず。誰も彼もが、口もきかずに避けて通らなければならない人であるはずがない。ギスギスした関わりしかない都会の砂漠、それを“ひとりずつ”が作っていることに気付いて欲しい。

あなたの「ふきげんのわけ」は、わたしには知る由もないのだから。






↑エンピツ投票ボタン


2002年09月02日(月) 夏の思い出 2 「かお」

9月2日(月)は、Labor Dayでお休み。アメリカでは通常、レイバーディの翌日から新学期が始まるのだけれど、ここ、メリーランドのMカウンティーでは、今年は選挙のために学校が休みになるからという理由で、一週間早く、先週の8月27日から学校が始まっている。(同じ州でもカウンティー(郡)によって、学校の休みは異なる)

土曜日の日本語学校もまだ始まっていないので、3連休だった。

夫が、連休前に、「どこか行きたいところはない?」と訊いてくれたのだが、わたしったら、「日本!」とか、 「そこ以外では?」 「じゃあ、ブラジル」とか、意味のない会話しかしなかったため、結局スポーツクラブにふたりで泳ぎに行っただけで、お茶を濁したまま、休みも終ろうとしている。


ところで、きょうやっと、わたしの中に、ずっとつっかえていたものが氷解した。

(キミはいろいろなことを考えすぎるからいけないんだよと、むかし誰かに言われた気もするけれど、まあそれは仕方ない)

ワシントン・ダレス空港から日本への直行便をもっているのは唯一、全日空だけで、他の航空会社より多少料金が高いのだが、この夏は全日空便で帰った。つまり、他社の飛行機に乗った場合より、日本人乗客が多く乗っている状況だった。

わたしは、3人並びのシートの真ん中の席で、右には、英語のペーパーバックスを読んでいるハタチくらいの女子留学生、左には、やけに無愛想で、きっと日本からの出張サラリーマンに違いないと思われる30代の男性が座っていた。

スチュワーデス(←フライト・アテンダントって言わなきゃ)さんが、飲み物をくばりに来て、両端のふたりには日本語で「何にしますか?」と訊いたのに、わたしには、英語で訊ねた。

うわー、なぜだろう・・なんだか喜んでいいのか悲しむべきかさえ、よく分からないけど、うそぉーーなぜ?なぜ? みたいな カルチャーショック。


大蝦夷オフのとき、バスで隣に座ったこの方に、「いつも日本語喋って、日本食を食べているのになぁ、なぜなんだろ?」と言ったら、「そりゃー 水だよ、それとネ 空気」と、とても明快に答えてくださった。(普段、日本食や日本語の生活していても、あなたはちゃんとアメリカの空気に触れアメリカを体感しているのよ、という意味)

この方には、さとこさんは、アメリカの匂いがした。とまで言われたものだから、なんだかとても褒められてる気がして、そうだそうだ、そういうことにしておこうと、その時は、とりあえず、いい気持ちになったのであった。


ところが、帰りの便(も、もちろん全日空)で、またまた同じことが起きた。こんどは、隣に座ったのが、もしかして新婚旅行?と思われる若いカップルだったので、日本人スッチーさんは、彼らには当然 日本語で問い掛けた。

なのに、わたしには英語で話し掛けるとはナニゴト!? こうなりゃ、わたしも、英語人の振りして差し上げましょうか(ふん!)などと、ちらっと思ったのだが、すぐにボロが出るのは分かりきっているので、止めておいた。

わたしが日本語で返事をすると、スチュワーデスさんに「大変失礼しました」と言われた。 うん、やっぱり失礼なことされちゃったのか・・・。


長くこの国に住んでいると顔が同化してくるのでは?と思ったりもするが、わたしは、たかだか4年しか住んでいないし、普段、気持ちがいつも日本に向いているような、とてもここに溶け込んでいるとは言えないような生活をしている。だから、とてもアメリカ化した日本人には見えないと思うのだ。

それで、なんとなく引っ掛かって、ずーっとなぜなんだろうと思っていたワケなのだけど、きょう、ふと 英語のクラスでわたしのことを「あなたも(わたしと同じ)中国人かと思った」としつこく言っていた女の子がいたことを思い出した。

彼女があまりにしつこく言うので、「前にも聞いた」と言うと、「だってぇ・・・」と言って、ちょっぴり悲しそうだった。 そうなのか、「あなたは中国人に見える」というのは褒め言葉だったんだ。わたしは喜んでみせてあげなきゃいけなかったんだ、と気付いたのは3日くらい経ってからだった。(そうは言っても、わたしは中国人に間違われたってちっとも嬉しくなんかないけど)

こちらで出会う中国人や韓国人は、日本人よりよっぽど「自国に対する誇り」を持っているとわたしは思う。


公園ルールというのがあって、男の子か女の子か判別しかねる赤ちゃんに出会ったときは、無難に「女の子ですか?」と訊くのがよいのだそうだ。

それと同じで、もし、フライト・アテンダント・マニュアルなるものがあるとすれば、「中国人か韓国人かベトナム人か日本人か判別しかねる乗客がいた場合は、英語で話し掛ける」というのがあるのかもしれない。 もしも、乗客が日本人かどうか分かりかねるアジア人に見えたら、日本語で話し掛ける(日本人だと間違えられる)より、英語で話し掛けられる(つまり、間違えられていない)の方が、プライドの高い彼らには、より無難というわけだ。


わたしは、アメリカ化した日本人ではなくて、中国人かベトナム人に間違われていたにちがいない。それなら、なんとなく納得がいく。 うん、きっとそうだ。

よかった、よかった。 ←ホントにいいのか?









いやー、でも、こういう 半分どうでもいいことを 来る日も来る日も ぼけーっと考えているわたしって、どうよ? 

てか、もう少しカラダ動かして、ウチの中の仕事しろよ<じぶん。


さとこ |mail

My追加