見つめる日々

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2007年02月12日(月) 2007/01/27-28 十三回忌ももう過ぎて
1/27は、もう、だいぶ前に過ぎてしまいました。
毎年書くテキストも、書けないまま、つい最近まで
ばたばたと過ごしていました。

もう、書けないかな、と思ったりもしました。
でも、
やっぱり書きました。

読む人読む人一人ひとりによって、
私の意図など関係なく、受け止められてゆくのだと思います。

よくも悪くも、
どちらでも構いません。
ただ、何かしらのかけらが、
その人の中に、残ってくれるよう、
そのことだけ、私は、強烈に、祈っています。

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 十三回忌。と言う言葉が、ニュースで流れた。一月十七日、阪神淡路大震災を伝える夜明けのニュースだ。
 それを聞き、私はまだ微妙に夜明けぬ部屋の中、ひとり宙を見やりながら想う。震災で行方不明になった女友達は今頃、どうしているのだろう。きっと、今日は彼女にとっても十三回忌に違いない。
 そして直後、想う。これは私ひとりの事柄だ。震災から十日後。私が遭ってしまった出来事。当時、信頼していた上司からの強姦。
 あれからつまり十三回忌。私にとっても、十三回忌なのだな、と。テレビの映像とレポーターは、去年よりも一昨年よりもずっと短く、ただ「十三回忌です」と伝えている。それだけが、私の耳の内奥に沈み込む。

 去年は、一体どうやって過ごしただろう。正直、自分のことは覚えていない。娘は春に小学一年生になり、祖父母に買ってもらった可愛いピンクのワンピースを着て、長い髪を春風になびかせながら、自分で選んだ赤いランドセルをカタカタいわせ笑いながら校庭を走っていた。
 身長が想った以上に伸び、私や弟と同様に成長痛に日夜涙し、私は毎晩彼女の足をさすった。子守唄を歌ってほしいというから、滝廉太郎の歌や山田耕作の歌を歌ったが、彼女が一番気に入ったのは、大きな古時計だった。以来、何度歌ったかしれない。
 病院に通院し続ける私を気遣い、彼女はよく私を手伝ってくれた。そして、学童の存在が彼女の中ではとても大きく、学校はつまらなくても学童へは全力で走っていき、いろんな学年の男の子女の子たちと、公園で思い切り遊ぶのだった。
 そのせいで、私は、気づくのが遅れた。彼女が学童から帰ってくるといつも笑顔だったから、まさか学校で苛めにあっているとは思ってもみなかったのだ。
 しかも、それは性的悪戯だった。
 詳細を書き出すときりがないため、割愛する。学校側と何度折衝の場を持ったかしれない。しかし、学校は、女校長は、責任を放棄するどころか、最後は嘲笑うようにして私を見送った。
 約束の書類も、約束の話し合いの時間も、無視された。
 でも。
 子どもは美しい。そして強い。必死に生きている。私はそのことを、愛娘から教えられた。そして気づいた。
 私は、もしかしたら知らぬうちに、「私は被害者だ」という考えに自分の殆どを支配されていやしなかったか、と。
 娘は違った。トイレにまで入り込まれ、恥部をいじられ、それでも、彼女は何も変わらなかった。世間一般から見たら彼女は間違いなく「被害者」だ。もしママさん連中との世間話にでも出したなら、みな、「信じられなーい」という表情と共にはちみつのようにたっぷりとろりとした同情の表情を私に向けるに違いない。結果、私の娘は、私の知らないところでママさん連中のいい噂の的になるというだけだ。
 しかし、彼女は自分を被害者だという思いで支配されることはなかった。
 担任は、五月から娘に苛めが存在していることに気づいていたが何も言わなかった。連絡帳にも書かなかった。そして、偶然の出来事から、七月になって、私がたまたま問い詰める機会があり、それによって私は、知ることになった。
 ブルマーを必ず着用し、相手が一年生だろうと六年生だろうとイヤなものはイヤと言っていいのだと何度も繰り返し教え、それができたときには、二人で抱き合って、やったー!と喜んだ。
 本音を言えば。私は、泣きたかった。でも、泣いたからって何の解決にもならない。その事を私は、もうすでに、知っている。何せ十三回忌なのだ、今年は。

 十三回忌。
 そして、この一年娘を見守り続け、気づいた。彼女は被害者ではあるけれども、それはあくまで彼女の一部であって全体ではないのだ。
 彼女は人間だ。一個の人間。被害者の部分は、あくまで彼女の、これっぽっちの一部に過ぎないのだ。
 そのことを、彼女は私に教えてくれた。
 私も、同じなのだ、ということを。

 彼女の回復は、実に早かった。私が驚愕するほどに。
 そして、或る日、こんなことを言った。「ママ、ママがキュロットとかズボンばっかりはいてるわけがわかった! だってそれなら、おまた触られたりいやなことされたりしないもんね! わたしもズボンとか好きになった!」等々。
 もちろん…最初に私が彼女を抱きしめながら尋ねたとき、彼女は一度だけ泣いた。「何て言葉でママに言えばいいか分からなかったの」と。

 以来、周囲の頼れる人たちも巻き込んで、学校と何度も話し合いを持ったりした。が、結局、学校側は、教育の決まりで一年生二年生に性教育はできないという。しかし、そこはもう押し切るしかない。ならばせめて、自分の身体の守り方、身体が大切なものであるということを特別授業で為してもらう契約書だけは取り交わすことができ、それが実現するのが何と三月。遅すぎる。でも、ないよりも、ましだ。

 私は夏過ぎ辺りから急に具合が悪くなり、いつもなら元気で過ごす冬には氷や飲み物しか口にできなくなってしまった。これには自分も驚いた。しかし、今は便利な代物があるものだ。幼い子どもを抱えるシングルマザーは入院なんて悠長なことは赦されない。ゆえ、エンシュア・リキッドなる液体の、点滴成分の入った飲み物を処方され、それを一日に一本は我慢して飲んでいる(甘すぎ)。さすがに体重は落ちた。十キロとまではいかないが、それでも落ちた。でも、自分の顔がガイコツのようになっていても、構う余裕もなく、私は今も生きている。娘との夕食の団欒という時間を持つことができなくなったが、その分お喋りする時間が増えた。今彼女は、誰にチョコレートをあげようか必死で悩んでいる。

 「ちょうどさをりさんとお会いする前日に、カウンセリングあったんだけど、その時気付いたのが
ちっさい時の私は全然汚い子供じゃなかったんだってことだったのね。
被害に二回も遭う、性的ないじめにも遭う自分は、きっと男を誘うようないやらしい子供だったんだって
ずっと思ってて、でも小さい頃の自分を思い出したら全然そんなことない普通の子供だったねん。

次の日みうちゃんに会って、その気持ちは確信になりました。
私はみうちゃんのこと全然汚いなんて思わなかったし、すごくかわいい子だなーって思ったから。
だから、私もきっとみうちゃんみたいにかわいい子供だったんだろうなって思いました。」


 娘の被害を相談したボランティア団体の方の一人から、最近届いた手紙だ。この言葉、どれほど嬉しかったか知れない。

- * - * -


私自身はどうだったかを改めて振り返ると、意識を失うことが頻繁になったという点だろうか。また、仕事以外では殆ど部屋に引きこもって過ごし、ママさん友達というものも、基本的に作らなかった。唯一親御さんたちとのおつきあいをさせていただいたのは、学童という場所に限った。理由は、多分、私の偏見のせいだと思う。娘が学校で苛められているという現実と、学童にいくとこっちが驚いていしまうほど明るく笑い、時に年上のお兄ちゃんやお姉ちゃんに打ち明け話をし、じゃぁ自分は今何をしたらいいのか、どうすればここを乗り越えられるのか、などといったことを彼女なりに考え、答えを出し、実行する。実行できれば、また、お兄ちゃんおねえちゃんのところに飛んでいって、二人で大喜びする。そういった姿を見てしまうと、学校の方々とのお付き合いをする気持ちには、到底なれない。そんなエネルギーがあるならば学童の方々にあれやこれや私自身相談してみたりする方が、私から見ると正しい判断に思える。

 去年はリストカットをせずに過ごすことができた。が、つい先日、乖離したその最中に、リストカットをまた為してしまっていた。これは少々私にとってショックだった。もう大丈夫だろうと油断していたのがいけなかったのかもしれない。が、またここから始めればいい。いつか、全くリストカットなどという行為との縁が切れる日が、知らないうちに来るかもしれないのだから。


 ところで。
 被害者になると、どうしても、自分が被害者であることに心の殆どを奪い取られてしまう。自分は被害者だ、穢れてしまったんだ、もう幸せなんて私にはありえないんだ、と。当然だ。それだけの傷を受けたのだ。そう思わずしてどうやってその日その日を乗り越えることができるというのか。どうして、どうしてこんなことになってしまったのか、自分が悪かったのか、自分が悪かったからこうなってしまったのか、そうやって果てしなく自分を責めてしまうこともある。いや、それが殆どのケースなのかもしれない。
 そしてそれは、毎日、毎秒、毎瞬、己を苛み続ける。だから私たちは気づけば、被害者としか呼べない、生きる場所も日陰か或いはただ小さく小さくなってしゃがみこんでいる、そんな場所しか、持つことができなくなってしまう。自分でも気づかぬうちに、そうやってどんどん自分は追い込まれてゆく、同時に自分を追い込んでゆく。
 そうして、生きる場所を完全に失った者は、命を自ら投げ出し、遠いところへ逝ってしまう者も、在る。

 けれど、違うんだ。
 確かに、私たちはそれぞれに被害に遭った。とんでもない被害にあった。心が張り裂け、命を放り出さなきゃやってられないと泣き喚くしかない状況に陥りもしただろう。隠れるようにしてしかもう生きていけないと、家族からさえ孤立し、やがて世界の全てから孤立し、幽霊のように生きるしか自分には術がないと思いそうやって今実際生きている者もあるだろう。
 しかし。
 確かに私たちは被害者だ。でも、被害者であることがその人の全てを形作っているのではないのだ。間違ってもそんなことはない。むしろ、被害者である部分はその人のほんの一部であって、あなたは、世界で唯一の、尊いたった一人の人間なんだ、と、私はそのことを、今、声を大にして伝えたい。
 一部と全体とを見誤ってはならない。昔読んだ本にそういえばこんなことが書いてあったのを思い出す。
 「小さな絶望の前で、あなたは今、大きな希望を見失ってそんなにもぼろぼろに泣いている。今あなたには、小さな絶望がどうしようもなく大きな大きな絶望に見えてしまって、本当ならとてつもなく大きな希望が目の前にあるのに気づくことができないでいる。でも、それは違うのよ。本当は、あなたの目の前にあるのは、これっぽっちの絶望と、とてつもない可能性を持った大きな大きな希望なのよ」。
 そんな言葉だった。



 一体私達の何処に、自分で自分の可能性を殺す必要なんてあるというのか。そんなもの、ない。むしろ、ほんのちょっとの可能性に乗っかってみる。結局ジェットコースターに乗ったみたいにきゃぁきゃ叫んで落っこち、降りたらもうぐでんぐでんに疲れて、もう二度と乗るもんかっ、なんて思う、でも、それだってある意味面白い。何もしないより、見ないふりして生涯俯き続けて生きるより、ずっとましだ。実際、私は、今思えば、そういう経緯でモノクロ写真という術にのっかった。
 それは、私の内奥に溜まるばかりだった膿を浄化させ、外の人たちとの交流をもたらしてくれた。そればかりか、この写真に救われたと涙してくれる人に出会った何度かのその出会いは、私にどれほどの幸せと勇気をくれたことか。そういったものが、今の私を生かしてくれているといっても過言ではないと思う。

 話が少々ずれてしまったが。
 私たちは、単なる被害者なんじゃぁない。私たちは、堂々、一個の人間なのだ。被害者であるのは私達の一部を形作っているだけであって、決して、そう、決して、私達の全体じゃない。

 病状は悪くなる一方だ。去年から今日この頃にかけて、主治医との診察中にも幻覚を見、主治医に後になって、幻覚だよそれは、とそっと声をかけられ、しばらくしてようやく我に返る。また、診察室で一体自分が何を喋ったのか一言も思い出せないで、不安と恐怖に襲われ、主治医に「次回まで生きててくれればいいから、そのときまた話しましょう」と言われようやく自分を落ち着けて処方箋を受け取ることもあったりする。
 でも。
 外から見たら、状況は悪くなっているのかもしれない。食事も氷と飲み物くらいしか摂取することができなくなっているような状態で、一体どこを、ここはいいですね、といえるのか、自分でも苦笑する。しかし。
 少なくとも私には、生きようとする意志がある。生きようとする決意が在る。被害に遭ったばかりの数年、持つことが叶わなかったその想いを、今の私は、確固たるものとして自分の中に持っている。これは、きっと、自分を誇っていい。

 今日も。明日も。明後日も。私はきっと、そうやって生き延びていく。
 そしてまた来年、あの日を迎えることになるんだろう。でもやっぱりきっと、生きている。


遠藤みちる HOMEMAIL

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