見つめる日々

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2003年12月22日(月) 
 昨日の昼下がり。娘を乗せて、短いけれどもこれでもかというほどの急坂を、自転車を引っ張ってのぼる。すると、「わっ」と慌てた少年の声が耳に飛び込む。
 坂の殆ど頂きの辺りに、猫の額ほどの公園があり、少年はそこで何人かの友人たちとサッカーを楽しんでいるようだった。おうおう、上半身裸になるほど夢中になってやっているのかと、私はほほえましい気持ちになり目を細めた。でも、彼らは私の姿に気づくたび、わっと声を上げ、中にはすみませーんと体を丸め、次々木の陰に逃げ込むのだ。どうしたのだろう。
 すみません、ごめんなさい。彼らはそう言いながら恥ずかしそうに、そしてそれを上回るほど楽しそうに可笑しそうに、顔を綻ばせている。
 私はようやく気づいて、思わずぷっと噴き出した。
 彼らは、パンツ一丁だったのだ。何がきっかけでそんな格好になったのか知る由もないが、全員が全員パンツ一丁。人通りが殆どないはずの坂道をのぼってきた私に驚き、みんな一斉にパンツの前をシャツで隠して木の陰に逃げ込んだというわけだ。
 いいじゃないか、大いにやってくれ。私はこみ上げてくる笑いを何とか抑え、がんばってねー、と、訳の分からない声をかけて通り過ぎる。
 のぼりきった坂の上、私がペダルをぐいっと踏み込むと、娘がやにわにぽつり。「男の子はねー、おちんちんがあるんだよねー」。
 …一体、何ゆえの彼女の言葉か。

 夜、娘を寝かしつける折、うとうとしてしまった私は目を開けてぎょっとする。
 娘の、娘の顔に、手に、虫がいる。
 その虫はいつもの巨大な蜘蛛ではなく、こんな、1センチか2センチしかない細い糸状の虫で。その虫が夥しい数いるのだ。私は虫を払い落とそうと、必死に手を動かす。でもいっこうに虫はいなくならない。あぁ。
 虫は、虫は、娘の皮膚の中にいるのだ。薄い薄い透明な彼女の皮膚の下で、夥しい数の虫が蠢いているのだ。彼女のすべすべした頬の皮膚の中で、彼女のぷにゅぷにゅした手の甲の皮膚のすぐ内側で、虫は一瞬も止まずに蠢いている。
 あぁ。
 私は一瞬にして絶望に突き堕とされた。こんな時、声なんて出ない。私の絶叫は外に飛び出す代わりに喉の奥呑み込まれ、私はただただ、むやみに手を動かし、でもその手さえ震えてどうにもならなくなると、今度は必死になけなしの頭を巡らせる。
 そうだ、これは間違いなんだ、幻なんだ、こんなこと現実であるわけがない、幻だ。
 私はどうしたらいい? 一体何ができる? そうだ、電気をつければ、明かりをつければきっと。
 がくがくする体を何とか動かし、腕を伸ばし、灯りをつける。
 一瞬にして。虫は消えた。私はもう一度、娘の寝顔を食い入るように見つめる。大丈夫、ほら、もう虫はいない。大丈夫、もう大丈夫。
 …でも。
 私が今繰り返す「大丈夫」なんて、すぐにひっくり返るのだ。今この時、灯りが消えたら。
 そう、私が今もし灯りを消したら、いや、私が消さなくても今もし停電なんて起こったら。虫はまた現れてしまうのだ。そうしたら娘はまた私の目の中で虫に食われてゆくのだ。突然ついた灯りに娘が寝返りを打つ。私は咄嗟に灯りを消す。同時に、私は娘から自分の眼をずらす。見てはいけない、私が見たらまた、彼女は虫に食われてしまうのだから。見てはいけない。
 こんな時、泣くことさえ出来ない。泣いてしまえたら、多少でもすっきりするだろうに。泣く気力なんて出てこない。目は乾いて、涙なんて何処かに消え去ってしまう。
 私は途方に暮れた。絶望さえもう、遥か彼方のものに思えた。罪悪感なんてこの場では軽々しいものに思えた。
 私の幻がとうとう、娘まで侵してしまったのか。そのことが何よりも私の心臓に食い込んだ。もう何も見たくない。聞きたくない。知りたくない。もうそれしか、その時の私の中には残っていなかった。

 朝、娘が目を覚ますまで、私はずっと娘に背を向けていた。娘に背を向けて寝るなんて、私にとっては殆ど初めてのことだったけれども、でも、もう私はこの状態のまま娘を見ることが恐ろしかった。私が見る、そのせいで彼女が虫に侵されてしまうのかと、そう思うと、もう私はここから自分を消去してしまいたくなるほどの心持になっていたから。
 そして朝。
 おはよう、と言って娘が起きあがる。おはよう、と言って、私は彼女を振り向く。
 あぁ。

 あぁ、大丈夫。意味もなく私は彼女を抱きしめる。いたいよぉと言って逃げる娘。そして私は呪うように願う。私にどんな幻を見せようと、もうそのくらい、どうだっていい。けど、娘だけは、娘だけはどうか、侵さないでくれ。
 どうか、どうか。


2003年12月20日(土) 
 これは夢。

 みんなと歓談している。久しぶりに集った友人たちの輪の中で、私も娘も大きな声をあげて笑っている。こんなに声を上げて笑うのはどのくらいぶりだろう。
 その時。
 突然蜘蛛が現れ。でもみんな何もないかのように笑っており。まるで私にしか見えないかのようで。突然に蜘蛛が現れ。
 その蜘蛛が飛ぶ。私めがけて。真っ直ぐに飛んできて。私は声を上げる暇もなく手で振り払おうとし。
 そして目覚めると。
 枕元に、娘の近くに、いつもの蜘蛛が、でもこいつは掌に納まるくらいのそんな大きさの蜘蛛が、何匹も何匹も現れ。
 嘘だ、こんなの嘘だ、夢だ、あり得ない、あり得る筈がない。私は必死に蜘蛛を消そうとし、でも体の震えは大きくなるばかりで。
 そうだ、電気、電気をつければ。
 ------そうしてようやくいなくなる、毒蜘蛛。
 もうだめかと思った。とうとう本物かと思った。
 一体何処までが夢で、何処までが幻視で、何処までが現実なのか。
 私にはだんだん、分からなくなってゆく。


2003年12月18日(木) 
 昨日午後から始めた2hほどのインタビューのテープ起こしは、夕方娘を迎えに行く前にまだ終わらせることができず。焦りながら寝つきの悪い娘を寝かしつけ、そうして真夜中から再び奮起して、明け方、ようやくテープ起こしを終わらせる。
 その前には画像加工の仕事、次にはHTMLの仕事、それからこのテープ起こし。引越しにぴったり合わせるかのように仕事が山積みになって、最初はどうなることかと思った。でもやってみれば何とかなるもの。できないと思って諦めるより、とりあえずやってみる。やってみればほら、何とかなるんだ。そうそう、何とかなるもんだよ、たいていのことは。

 仕事を終わらせた爽快感から、洗濯、掃除、次々やってみた。
 今度引っ越した部屋はとても古くて、網戸がない部屋なのだけれども、その窓という窓を開け放してあちこち動き回る。途中で蝿が一匹入ってきて、虫が嫌いな私は閉口したのだけれども、それも何とか追い出して今に至る。
 ちょっと一休みということで、インターネットに繋げてみる。ふと思い立ち、私の夢の中に出て来る虫がどんな虫だか、それが現実にあり得るものなのかどうか、調べてみることにした。
 蜘蛛という蜘蛛を片っ端から探してみる。あの虫は蜘蛛以外には思いつかない。
 そうして、アシダカグモとジョロウグモの画像に見入る。
 なんとなく、似ているなぁと思う。でも。
 大きさが全然違う。私が幻視している代物は、私の頭とかわらないくらい、そのくらいの大きさがあるのだ。
 昨夜も奴を見た。娘がようやく寝入って私が安堵して見上げた天井の隅に。一匹が二匹になり、三匹になり四匹になり…。あっというまに増殖するのだ、彼らは。
 いや、もしかしたら彼らじゃなく彼女らなのかもしれない。突然そう思う。だって、私の中に卵を産みつけようとしたのだから、奴らは。
 でも、雄でも雌でも、男でも女でも、そんなことはどっちでもいい。
 私には、その存在そのものが、恐怖なのだから。

 今度の部屋は、南西に向いているから一日中部屋の何処かしらに日が差し込む。娘を喜ばせようと思って選んだカーテンは橙色。ついでに、娘に選んでもらった私のパジャマも橙色(私は水色を選ぼうと思った…)。今までの私の生活にはあり得ない明るい色がいっぱい。
 窓の外は味気ない住宅街で、窓のすぐ外は大きな道路で車の音が絶えない。
 それでも。
 何だろう、もう三十年もここに建っている建物の味なのだろうか、着慣れたシャツのようにしっくりと馴染んでくるものがある。そして、玄関を開ければ広がる小学校の校庭。毎朝この校庭が見せてくれる景色は、私に深呼吸を思い出させてくれる。

 椅子にぼんやり座り、まだまだ片付かない本の山、ダンボールの山を眺めながら、煙草に火をつける。
 あぁ、もうじき太陽が堕ちてゆく頃。あの銀杏の樹も黄金色の葉をさらさらと風に舞わせている頃。

 気がつけば珈琲の湯気も薄らいで。
 さて、もう一踏ん張りしますか。せめて辞書の類くらいは本棚に並べておきたい。


2003年12月15日(月) 
 虫だ、虫がいる、今夜も。
 私は布団の中横たわり、彼らをじっと見つめている。
 視界の左方がざわめくので、目の玉を動かしてみる。すると、壁と天井とが作る角境から、虫がどんどん産まれてくるところが見える。あぁ、虫が、虫が増えてゆく。
 やがて天井を埋め尽くすほどに増えた虫たち。それぞれ好き勝手に蠢いている。そうしている間にも虫は、増殖し続けている。
 おかしなもので、私はこの状態に少しずつ慣れてゆく。最初の頃の驚愕は、もう殆ど掻き消され、今私の中に在るのは、諦観にも似た、まさに淡々とした何者かだ。

 さく、さく、さく。
 微かな音が聴こえる。
 さく、さく、さく。
 それは外界からではないことを、私はもう知っている。そう、この音は、私の内側から生じる音なのだ。虫が私の世界を噛みしだくその音。
 虫の細い糸のような脚が今、私の頬を掠めた。
 しゃわり。
 しゃわ、しゃわり。
 こうやって私はこいつらに侵蝕されてゆくのだろうか。私の内界で音が木霊する。
 さく、さく、さく。
 腹のいっぱいになった虫たちがゲップをする。そしておもむろに、私の体内に卵を産みつけようと、今。
 あぁ、やめてくれ、それだけはやめてくれ。私をいくら侵蝕しようとそれは構わない。けど、私を苗床にすることだけはやめてくれ。私は虫になりたくない。おまえたちと同類になって誰かの心の中を食い散らすそんな奴にはなりたくない。
 私はありったけの力を込めて体の向きを変える。そして、ぎしぎし軋む背骨の音を聴きながら、私は這いずって這いずって、台所へ。灯りをつけた途端、虫たちは消え去る。でも。
 音は。音は。

 さく、さく、さく。

 聴こえる。聴こえ続ける。奴らが私の心を噛みしだく音。おい、そんなに美味いか。私はぼんやりと白壁を見つめながら問うてみる。
 さく、さく、さく。
 音だけが、響き渡る。

 窓の外、まだ夜明けは遠い。


2003年12月09日(火) 
 虫だ、虫がいる。
 真夜中、いつものように目を覚ました私の視界に、うにょうにょと蠢く者。虫だ、虫がいる。どうして、なんで。一瞬にして凍りついた私の体は、ぴくりとも動かない。どうして、何故。一体何処から入ってきたの。虫だ、虫がいる、あめんぼうのような姿をした、でも私の頭よりずっと巨大な虫が。
 一体おまえは誰。
 その間も虫はずっと蠢いている。右に左にふわりふわりと動き回り、まるでこちらを嘲るかのよう。それに対して私は、いまだ体を動かすことができない。腕一本、指一本、動かせない。
 顔のすぐ上を横切る虫。思わず目をつぶる。恐る恐る目を開けて彼らの行く先を確かめる。天井にはりついてる。幾つも幾つも、虫が、飛びまわってる。
 あぁどうしよう、一体どうしたらいいんだろう。こんなのってない、あんまりだ、一体私にどうしろっていうの。
 もう私の頭の中は、パンクしそうだ。心臓も破裂寸前。喉が詰まって呼吸困難。叫び声だけでもあげることができるなら。
 あぁ、こんなんじゃだめだ、隣には娘が眠っているはず。娘は助けてやらなければ。私が虫の餌食になってもいいから、娘は助けなければ。
 でも一体、どうしたらいいの。こんな、生まれて初めて見るようなこんな巨大なわけのわからない虫を、一体どうやって殺したらいいの。わからない、わからないよ、一体私にどうしろっていうの。誰か助けて!
 その間も虫はずっと蠢いている。好き勝手にすいすいふわふわ辺りを飛んでいる。まるで世界は彼らの思うが侭だと言わんばかりの。
 いやだ、もういやだ、私を解いて、私を許して。
 突然、体が動いた。関節という関節が、ぼっきんぼっきん音を立てるかと思うほど強張っているけれど、それでも体が動いた。今だ、今しかない。体中の骨が折れたって知るもんか、今動かなきゃ、私は殺られてしまう、殺られる前に、今、動かなきゃ。
 がくがくと揺れる体を無理矢理動かし、私は這いずるようにして動く。その間も私の視界をへらへらと笑いながら虫が蠢く。そんなことしたって無駄だよ、いくらやってみたって私たちはここにいる、おまえの世界の中に。まるで虫の声が聞こえてくるようだ。虫たちの笑い声が。
 ぱちん。
 かちんこちんの腕を伸ばして、電気を点ける。部屋の中に灯りが点る。すると突然、虫たちは消えた。何故、やっぱり幻だったの、でもさっき私の頬をかすめた虫の触手の感触は何だっていうの、あれも嘘だったの、幻だったの?
 電気を消してみる。消した途端現れる虫たち。私は慌てて灯りを点け直す。何処にもいない。虫は、虫たちは、何処にもいない。
 へなへなと床にしゃがみこんだ私の目から、思わず涙が零れる。一体何よ、何だっていうのよ。どうしてこんなことになっちゃうのよ。
 灯りをつけたせいで、娘がうーんと寝返りを打つ。慌てて私は灯りを消す。
 そして再び現れる虫たち。
 床にしゃがみこんだ私は、もう為す術もなく虫たちを見つめる。
 暗闇の中、蠢く虫たち。
 あぁ、もう、頭がおかしくなりそうだ、いや、もうすでにおかしいのかもしれない。私は途方に暮れる。ただもう、ひたすらに。途方に暮れる。

 虫だ、虫がいる。私の世界が、虫たちに食われてゆく。


遠藤みちる HOMEMAIL

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