サミー前田 ●心の窓に灯火を●

2010年10月22日(金) フラワー・トラヴェリン・バンドの原稿

 先日発売されたレコードコレクターズ増刊号「日本のロック/フォーク・アルバム・ベスト100」に原稿を書いている。個人的には、音楽作品に向けて順位や点数をつけるのは嫌いなんだが、
過小評価の名盤たちのために少しでも力になりたいと思い参加した(今のミュージックマガジンのクロスレビューは酷いと思う)。
 フラワー・トラヴェリン・バンドの『SATORI』の原稿を書いたのだが、最初、文字量を間違えて倍以上の量で書きかけてしまった。未完成ではあるがもったいないので、ここに載せたい(笑)



 1967年、内田裕也は単身ヨーロッパに渡りサイケデリックをはじめとする新しいロックのムーブメントを目の当たりにした。GSブームの真っ最中に帰国、日本にもGSを超えた本格的なロック・バンドを作ろうと翌年に結成したのが「内田裕也とフラワーズ」だった。
 フラワーズはスチールギター(小林勝彦)をフィーチャーした女性ボーカル(麻生レミ)のサイケ・バンドという世界的にも珍しいグループだったが、その中心メンバーの二人が渡米のため脱退。
 70年にフラワーズを再編成し発展させたバンドが「フラワー・トラヴェリン・バンド」(以下FTB)ということになる。
 FTBのメンバーは、ジョー山中(ボーカル/元フォーナインエース)、石間秀樹(ギター/元ザ・ビーバーズ)、上月ジュン(ベース/元ザ・タックスマン)、和田ジョージ(ドラムス/元フラワーズ)の4人。カナダからの帰国後は、篠原信彦(オルガン/元ザ・ハプニングス・フォー)が参加している。
 70年前後はニューロックの時代。「ロックは日本語か英語か」といった論争が巻き起こり、英語派のミュ−ジシャンは「ロックのビートには日本語が乗らないから英語で歌う」というのが主な理由だとされていた。
 FTBは英語派の代表であるかのように扱われていたが、決して彼等は「乗らない」わけではなかった。「クニ河内と彼のともだち」名義で70年にリリースされたアルバム『切狂言』を聴けば明白だろう。ザ・ハプニングス・フォーのクニ河内によるちょっと狂った日本語の楽曲をジョー山中が歌い、石間秀樹がギターを弾くそのアルバムは、はっぴいえんどのデビュー・アルバムと同年に制作された日本語ロック黎明期の傑作であり、FTBの名前が付けられた海賊盤が海外で出回っていた事もあった。FTBではそのアルバムの曲をリメイクした「MAP」というシングルも71年にリリースしている。
 FTBが、「MAP」を除いて全て英語で歌っているのは、当初から世界進出を狙ったプロデューサー内田裕也のコンセプトであり、内田はFTB結成にあたりGS出身者の中でも実力、ルックスともにインパクトのあるメンバーをスカウトし、欧米のロックに対し本気の勝負をかけたものだった。
 キング・クリムズンのカバーなどを収めたファースト・アルバム『エニウェア』を70年にリリース後、全曲英語のオリジナル曲で固められたコンセプト・アルバム『SATORI』を日本で録音し、70年12月にカナダへ渡る。
 カナダで出演したロック・フェスティバルでは、EL&Pやブルース・プロジェクトなどと共に出演し、カナダの聴衆に熱狂的に受け入れられ、サード・アルバムのレコーディングも行っている。
71年4月、セカンド・アルバム『SATORI』はアトランティック・レーベルから、アメリカ、カナダ、日本と同時発売。カナダではヒットチャートを駆け巡った。イギリスでもシングルが出ていたことが確認されている。日本のロックが「ロックとして」初めて海外で成功をおさめた事件と言っていいだろう。
 このアルバム『SATORI』は、石丸忍によるアートワークに象徴される東洋思想をモチーフに(特にインド風の中ジャケはジョージ・ハリスンにも見てほしかった)したオリエンタル・ハード・ロックである。オリエンタルといっても日本人が好みそうな湿っぽさは皆無であり、レッド・ゼッペリンやブラック・サバスといった初期ブリティッシュ・ハードロックの影響も垣間見れるが、欧米人のようになりたいというような安直なものでもない。侍のようにストイックでクールなオリジナリティ。ブルーコメッツがエド・サリバン・ショウで琴を披露した時より、確実に日本のロックは進化したということを証明しているのである。
 石間は60年代から「七色の音を出すギタリスト」と呼ばれラーガ奏法を得意としていたが、よりヘヴィでブルージーなギターを奏でる。ジョーの卓越したハイトーン・ボーカルはやはりジャズ喫茶には似合わない爆音で聴きたいロック・フェス向きである。最も人気がある曲であろう「SATORIパート2」では和太鼓風のリズム隊に、シタールのような不思議なギターが絡む究極の無国籍ロックで、このアルバムを最も印象深くするものだ。
 FTBの成果は、後年の日本のハード・ロック/ヘヴィメタルの潮流には繋がらなかったが、それはFTBとは対照的な世界観を感じる。フォロワーを生まなかったことが、このアルバムをより孤高の存在にしていると言っていいだろう。
 カナダでの成功の後、72年にメンバーの体調不良もあり帰国したFTBと内田裕也は、当時の日本の音楽状況に大きく落胆したという。日本は吉田拓郎をはじめとするフォーク・ブームの真っ最中であり、共演が決まっていたローリング・ストーンズの来日公演中止など、ロックには不幸な時代が続いた。
 2008年に日本語訳が出版されたジュリアン・コープ著の「ジャップロック・サンプラー」において最も高く評価されているのはこのアルバムであり、逆輸入のような形で再評価された。情けない話であるが、これがお前の国のロックの最高峰なんだと、またしても外人から教えてもらったわけだ。
 個人的経験として、2003年に、ジョーがザ・ハプニングス・フォー&森園勝敏をバックに「SATORIパート2」や「MAP」を歌ったライブツアーは衝撃的だった。
 2010年、ジョーの復活を心底願いたい。そしてFTBのステージで歌ってほしいのだ。日本のロックのためにも。



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